高橋誠一郎 公式ホームページ

原爆

「テロと新しい戦争」の時代と「憲法」改悪の危険性

リンク→「主な研究」のページ構成

59l(←画像をクリックで拡大できます)

 

「テロと新しい戦争」の時代と「憲法」改悪の危険性

本書は「祖国戦争」から「大改革」の終焉に至る激動のロシア史とその特徴を、ドストエフスキーの作品を通して考察しようとした構想の第一部にあたる。

本来ならば、ドストエフスキーの初期作品を考察した本書から始めるべきであったが、折から同時多発テロの後で「新しい戦争」が「報復の権利」の名のもとに勃発する危険性が増大していたので、「自己の正義」を絶対化することで、「他者」の殺害をも正当化するような、近代西欧の問題点を明らかにしたクリミア戦争後の作品を扱った第二部を先に『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(刀水書房、二〇〇二年)として出版した。

(中略)

これまで時間がかかってしまったのは、ひとえに筆者の怠慢によるものだが、あえてその理由を探すならば、若きドストエフスキーと父親との関係やペトラシェフスキー事件に至るまでの道を選ぶことになるドストエフスキーの心象風景が、なかなか浮かんでこなかったためでもある。

ただ、テロへの「報復の正当性」を訴えて始められた無謀なイラク戦争が始まったことで、世界中でナショナリズムがいっそう高まり、日本でも「国権」の強化や「伝統」への回帰が見られる一方で、一気に格差社会が進んで子供たちの「いじめ」や「自殺」などの問題も頻発することになった。皮肉なことに、このような現象に心を痛めつつ、ドストエフスキーの初期作品を再考察する中で、若きドストエフスキーの心象風景がはっきりと見えてきたように思える。

また、本書の初校校正に入った頃にアメリカの大学における銃の乱射という痛ましい事件のニュースが届いて、イラク戦争を始めたアメリカが抱える銃社会という病巣を見せつけられた思いがしたが、同じ日に原爆の使用やイラク戦争を厳しく批判していた長崎市長への狙撃という暗いニュースが飛びこんできた。

日本もイラク戦争には深く係わっているので、これらの事件は戦争という形の武力によって自国の正義を主張する国の内外では、同じように「自分の正義」を力によって示そうという傾向が強くなることを象徴的に語っていると思える。

しかし、「新しい戦争」への懐疑を示して「古い国家」と揶揄されたヨーロッパでは、イラク戦争への支持を表明した政治家はすべて失脚し、また自由や平等の理念が尊重されるアメリカでも、イラク戦争への批判を行った若い代議士が有力な大統領候補として急浮上するなど戦争への反省が深まっている。

一方、戦争の悲惨さを忘れて「平和ぼけ」した日本では、イラク戦争への批判を語った若者たちへの激しい「いじめ」が報じられたが、その後も破綻した「ブッシュ・ドクトリン」に依拠する形で、巨大な軍事費の肩代わりを求める超大国アメリカの要求に忠実に従いつつ、沖縄の軍事基地の能率化や、アメリカによって定められたとする「平和憲法」の改正が急速に進められており、国際社会における孤立化の危険性さえ深まっているように見える。

日本が独自性を世界に対して主張しようとするならば、「被爆という現実」やイスラム世界と戦争したことがないという特徴ある歴史的な伝統を生かして、外交的な形で世界の平和の確立を目指すべきであろう。

「テロ」や「新しい戦争」によって幕が開けられ、地球の温暖化などの問題が山積する二一世紀において、日本が示す方向性は日本の国民にとってだけでなく、世界にとっても重たい意味を持つと思われる。「欧化」に対する激しい反撥である「暗黒の三〇年」の時代に新しい可能性を模索したドストエフスキーの試みを考察した本書が、そのような日本のおかれている状況を広い視野から再検討し、新しい歴史観を創造するためにささやかでも参考になればと願っている。

(『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』「あとがき」より。語句を一部改訂。2016年2月14日。リンク先を追加)

リンク→「核の時代」と「改憲」の危険性

リンク→「暗黒の三〇年」と若きドストエフスキー

「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

 

一、 小林秀雄の『白痴』論と三種類の読者

小林秀雄氏の『白痴』論を何度か読み直す中で強い違和感を抱くようになった最初のきっかけは、小林氏が読者を「注意深い読者」と「多くの読者」、「不注意な読者」の三種類に分類していることであった(〔〕内のアラビア数字は、『小林秀雄全集』(第6巻、新潮社)のページ数を示す)。

すなわち、1934年9月から翌年の10月まで連載した「『白痴』について1」で、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない。シベリヤから還つたのだ」と繰り返し強調した小林氏は、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」と書き〔82~83〕、さらに死刑について語った後でムィシキンが「からからと笑ひ出し」たことを、「この時ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」と説明し、「作者は読者を混乱させない為に一切の説明をはぶいてゐる」ので、「突然かういふ断層にぶつかる。一つ一つ例を挙げないが、これらの断層を、注意深い読者だけが墜落する様に配列してゐる作者の技量には驚くべきものがある」と続けていた〔下線引用者、90~91〕。

これらの解釈には重大な問題があるが、1937年に発表した「『悪霊』について」で小林氏は「スタヴロオギンは、ムイシュキンに非常によく似てゐる、と言つたら不注意な読者は訝るかも知れないが、二人は同じ作者の精神の沙漠を歩く双生児だ」と断言して〔下線引用者、158~159〕、自分の読み方とは異なる読み方をする者を「不注意な読者」と決めつけていた。

この他に小林氏は、「夢の半ばで目覚める苦労は要らない」ような一般的な「多くの読者」にも言及している〔96〕。

そのような小林氏の読み方からは、人間を「非凡人」「凡人」「悪人」の三種類に分類していた知識人ラスコーリニコフの「非凡人の理論」との類似性が感じられ、小林氏の解釈に疑いを抱くようになったのである。

二、「沈黙」あるいは「無視」という方法

ここで注目したいのは、自分の読み方とは異なる読み方をする「不注意な読者」との論争の際に、小林氏が自分の気に入らない主張や相手の質問に対しては、「沈黙」という方法により無視して、自分の考えのみを主張するという方法をとっていたことである。

そのような方法が数学者の岡潔氏との対談『人間の建設』(新潮社)からも感じられる。ここでは具体的に引用することで、ムィシキンを好きだと率直に語っていた岡氏が、「専門家」の小林に言い負かされていく様子を分析することにする。

この対談が行われたのは、『「白痴」について』(角川書店)が単行本として発刊された1964年5月の翌年のことであり、10月に雑誌『新潮』に掲載された(〈〉内のアラビア数字は、文庫本『人間の建設』(新潮社)のページ数を示す)。

『白痴』が好きだった岡潔氏はこの対談で、「ドストエフスキーの特徴が『白痴』に一番よくでているのではないかと思います」とすぐれた感想を直感で語っていた〈85〉。

これに対して小林秀雄氏はなぜ岡氏がそう思ったかを尋ねることをせずに、「ドストエフスキーという人には、これも飛び切りの意味で、狡猾なところがあるのです」と早速、厳しい反論をしている〈87〉。それを聞いた岡氏が、「それにしてもドストエフスキーが悪漢だったとはしらなかった」と語ると、小林氏はさらに「悪人でないとああいうものは書けないですよ」と言葉を連ねて説明している。

それに対して岡氏は、「そうですか。悪人がよい作品を残すとは困ったのですな」という率直な感想を漏らしている〈90〉。

このような経過を読むと、一方的に自分の読み方を批判されている岡氏に同情したくなるが、小林氏は矛を収めずにさらに「『白痴』もよく読むと一種の悪人です」と発言して「不注意な読者」を戒め、「ムイシキン公爵は悪人ですか」と問いただされると、「悪人と言うと言葉は悪いが、全く無力な善人です」と言い直した小林氏は、前年に発行した『白痴』論で、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう」という言葉の後の文言を繰り返すかのように次のように発言している。

「小説をよく読みますと、ムイシキンという男はラゴージンの共犯者なんです。ナスターシャを二人で殺す、というふうにドストエフスキーは書いています。…中略…あれは黙認というかたちで、ラゴージンを助けているのです」。

そして小林氏は、「これは普通の解釈とはたいへん違うのですが、私は見えたとおりを見たと書いたまでなのです」と文芸評論家としての権威を背景にして語り、こう諭している。

「作者は自分の仕事をよく知っていて、隅から隅まで計算して書いております。それをかぎ出さなくてはいけないのです。作者はそういうことを隠していますから」(下線引用者)。

これに対して自分のことを専門家ではない「多くの読者」の一人と感じていた岡氏は、「なるほど言われてみますと、私はただおもしろくて読んだだけで、批評の目がなかったということがわかります」と全面的に自分の読みの浅さを認めてしまっていた。

三、長編小説『白痴』の解釈とイワンの「罪」の「黙過」

ただ、岡氏は「悪人」が書いたそのような作品を「なぜ好きになったかという自分をいぶかっているのです」と続けていた〈100〉。ガリレオが裁判で自分の間違いを認めた後で「それでも地球は回る」とつぶやいたように、岡氏のつぶやきは重たい。果たして岡氏の読みは間違っていたのだろうか。

注目したいのは、「ドストエフスキーという人には、これも飛び切りの意味で、狡猾なところがあるのです」と語っていた文芸評論家の小林氏が、小説の構造の秘密を「かぎ出さなくてはいけないのです。作者はそういうことを隠していますから」と主張していたことである。

しかし、小林氏は本当に「作者」が「隠していること」を「かぎ出した」のだろうか、「狡猾なところがある」のはドストエフスキーではなく、むしろ論者の方で、このように解釈することで、小林氏は自分自身の暗部を「隠している」のではないだろうか。

このように感じた一因は、岡氏との対談でムィシキンを「共犯者」と決めつけた小林氏が、その後で『白痴』論から話題を転じて、ドストエフスキーは「もっと積極的な善人をと考えて、最後にアリョーシャというイメージを創(つく)るのですが、あれは未完なのです。あのあとどうなるかわからない。また堕落させるつもりだったらしい」と続けていたことにある(下線引用者)。

なぜならば、「『白痴』についてⅠ」で「キリスト教の問題が明らかに取扱はれるのを見るには、『カラマアゾフの兄弟』まで待たねばならない」と書いていた小林氏は、太平洋戦争直前の1941年10月から書き始めた「カラマアゾフの兄弟」(~42年9月、未完)では、「今日、僕等が読む事が出来る『カラマアゾフの兄弟』が、凡そ続編といふ様なものが全く考へられぬ程完璧な作と見えるのは確かと思はれる」と書き、「完全な形式が、続編を拒絶してゐる」と断言していたからである〔170〕。

よく知られているように、長編小説『カラマーゾフの兄弟』では自殺したスメルジャコフに自分が殺人を「指嗾」をしていたことに気づいたイワンが「良心の呵責」に激しく苦しむことが描かれている。一方、小林氏はこのことに触れる前に「カラマアゾフの兄弟」論を中断していた。

そのことを思い起こすならば、戦争中に文学評論家として「戦争」へと「国民」を煽っていたことを認めずに、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と戦後に発言していた小林氏は、イワンの「罪」を「黙過」するために今度は『カラマーゾフの兄弟』の解釈を大きく変えたのではないかとさえ思えるのである。

*   *    *

キューバ問題で核戦争の危機が起きた1962年の8月には、アインシュタインと共同宣言を出したラッセル卿の「まえがき」が収められている『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(筑摩書房)が発行されていた。

それから3年後の1965年に行われてアインシュタインとベルグソンとの関係も論じられたこの対談は、「原子力エネルギー」や「道義心」の問題も含んでおり、福島第一原子力発電所の大事故が起きた現在、きわめて重たいので、稿を改めて考察することにしたい。

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(3)

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)

リンク→「不注意な読者」をめぐってーー黒澤明と小林秀雄の『白痴』観

リンク→小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計