高橋誠一郎 公式ホームページ

『草枕』

木下豊房氏「小林秀雄とその同時代人のドストエフスキー観」を聴いて

リンク「主な研究(活動)」タイトル一覧 

リンク「主な研究(活動)」タイトル一覧Ⅱ 

 

木下豊房氏「小林秀雄とその同時代人のドストエフスキー観」を聴いて                 

 今回の発表の前半ではこれまでの研究史を踏まえつつ文献学的な視点から唐木順三や森有正などの研究者と小林秀雄のドストエフスキー論との関連についての詳しい検証が行われ、E.H.カーと小林秀雄のドストエフスキー観との具体的な比較が行われた中頃から佳境に入り、ぐいぐいと引きつけられた。

「小林の『ドストエフスキイの生活』はE.H.カーの評伝のコピーのようにいう者がいるが、必ずしもそうとはいえない。しかしカーの視点の影響は、かなり強いのではないか」とした木下氏は、「金持の商人に捨てられた妾」(280頁)だけでなく、監獄で「枉(まげ)られた視力」(94頁)の指摘、「ドストエフスキーのキリスト教への発心が『悪霊』後」(315頁)などの記述が、カーの『ドストエフスキー』(中橋一夫、松村達男訳、1952年)にあることを具体的に挙げた。

その一方で木下氏は、E.H.カーが「ドストエフスキーは原始キリスト教の理想を近代文学の姿で」表現していると記していたことや、ジイドも福音書の教えをドストエフスキーほど立派に実践した芸術家はいないと記していたことにも注意を促した。

そして、米川正夫訳の『白痴』の創作ノートを分析することにより、最終的なプランが最初の構想とは全く異なっており、ロゴージンやガーニャの愛の形と対置する形で「キリスト教的な愛――公爵」と明記されていることを指摘した氏は、小林秀雄がこの記述を知りつつも「独自の解釈に舵を切ったといえよう」と分析した。

小林秀雄のドストエフスキー論の独自性を示す文章として示された「空想が観念が理論が、人間の頭の中でどれほど奇妙な情熱と化するか、この可能性を作者はラスコーリニコフで実験した」という記述は、まさにかつて私が魅了されるきっかけとなった記述でもあったので、これらの重要な指摘からは小林秀雄の『罪と罰』論や『白痴』論の形成過程の現場に立ち会っているような知的興奮を覚えた。

ただ、木下論文「ドストエフスキーと漱石」にも言及しながら『白痴』における「憐憫」と小林の著作『本居宣長』の「物のあはれ」との類似性を指摘した福井氏の問題提起を受け、デビュー作「様々な意匠」で「指嗾」という用語を用いながら、「劣悪を指嗾しない如何なる崇高も言葉」もないと書いた小林が、「人々に不安を与える無能なムイシキン」の最後に、「作者の憐憫の眼差しを見ている」とした見解には違和感を覚えた。

福井氏は質疑応答の際に自説を重ねて主張したが、『草枕』における「那美」と主人公の画工との関係とムイシキンとナスターシヤとの関係を「憐れ」と「非人情」の視点から比較した木下論文からは私も強い知的刺激を受けていたが、「あはれ」という単語を重視して、『白痴』と小林秀雄の『本居宣長』とを直接的に結び付けることは難しいと思われる。なぜならば、熊谷氏が質問で指摘したように本居宣長の「物のあはれ」は「漢意(からごころ)」との対比で論じられているからである。なお、『本居宣長』の問題については、評論家の柄谷行人と作家の中上健次が1979年に行われた対話「小林秀雄をこえて」で詳しく考察しており、現在は講談社文庫の『全対話』に収められている。

マルチン・ブーバーの〈われ-汝〉の関係に言及した分析は非常に興味深かったという感想を述べた前島氏は、ブーバーの「われわれの運命の高貴な悲しみ」という記述と、小林が「『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものもついに現れなかった」と解釈していたこととの関連について質問した。「来たものは文字通りの破局」であったと続けていた小林の『白痴』論についての前島氏の質問は、小林秀雄のドストエフスキー論は当時としては白眉の評論ではあるが、「著者に成り代わって」主観的にテキストを解釈するという現在の風潮をも導いてしまったのではないかという私の懸念とも重なる。

字数の制限から言及することの出来ない点も多く残ったが、配布されたB5版で16頁になる詳しい資料に従って行われたこともあり、2時間半に及ぶ発表にもかかわらず、ほぼ満席となった会場の聴衆は最後まで席を立たず、質疑応答も短いが充実したものとなった。

 

講座「『草枕』で司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読み解く」(レジュメ)

司馬遼太郎氏は『坂の上の雲』の「あとがき」で、「書き終えてみると、私などの知らなかった異種の文明世界を経めぐって長い旅をしてきたような、名状しがたい疲労と昂奮が心身に残った」と書いている。

征韓論をきっかけに国論が二分し、西郷隆盛と欧米の文明を自分の目で観察してきた大久保利通との対立から西南戦争に至る状況が描かれている『翔ぶが如く』でも、米欧に派遣されたさまざまな使節団や留学生の観察などをとおして、「文明開化」など日本の近代化の問題が深く考察されている。

たとえば、この長編小説の冒頭では「警察制度の視察と研究」のために渡欧していた川路利良などの観察が描かれ、それに続いて、普仏戦争の直後に訪れたことで強い衝撃を受けた山県有朋と西郷従道の二人の印象や留学生として残った大山巌の観察が記されている。

「近代国家創出のモデル選択肢を求めて」、米欧十二か国を回覧した岩倉使節団についても詳しく記されているが、ことにドイツ帝国の首相ビスマルクとの会見では、大久保利通が「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立しよう」と強く思うようになったことが確認されている(文春文庫、第一巻・「征韓論」)。

一方、フランス留学から帰国したのちにルソーの『民約論』を翻訳した中江兆民について司馬氏は、「中江兆民という存在が、十五年前に出ていれば、明治維新という革命に、おそらく世界に共通する普遍性が付与されたに相違ない」と書いて高く評価している(第五巻・「植木学校」)。

『竜馬がゆく』で坂本竜馬と横井小楠との熊本での出会いにふれていた司馬氏は、『翔ぶが如く』では藩校の出身者たちからなる「学校派」や横井小楠を師匠とする「実学派」だけでなく、のちに「神風連の乱」を起こすことになる「敬神派」や、行動的な自由民権派などの思想的なグループが互いに競い合っていた熊本の状況を詳しく描き出している。

ことに詳しく考察されているのが、「泣いて読む、廬騒〔ルソー〕民約論」と「あたかも雷に打たれたような感動を発した」宮崎八郎という存在である。宮崎八郎は腐敗した藩閥政治を打ち倒すために熊本協働隊を組織して西郷軍に参加し戦死するが、その志は弟の宮崎寅蔵(滔天)などによって受け継がれていたのである。

この意味で興味深いのは、漱石が赴任していた時の体験をもとに書いた『草枕』の女主人公那美のモデルとなった前田卓(つな)の父が、明治初期に活躍した熊本の有力な民権家・前田案山子であり、かつ卓の妹槌(つち)の夫が宮崎寅蔵(滔天)だったことである(安住恭子『「草枕」の那美と辛亥革命』白水社)。

本講座では『不如帰』を書いた徳富蘆花と司馬遼太郎との関係も視野にいれながら、漱石が熊本に赴任していた時の体験をもとに書いた『草枕』をとおして『翔ぶが如く』の意味を読み解くことにしたい。

『翔ぶが如く』は文庫本で十冊からなる大作なので、ここでは台湾出兵の頃には「年少客気の侵略主義者」だった宮崎八郎が、思想家として成長する過程が描かれている第五巻の「壮士」から、「肥後荒尾村」、「植木学校」、「明治八年・東京」までに焦点を当てて二つの小説を考察する。