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統一教会の「黙示録」観――カルト教団の危険性(加筆版)

はじめに ①『原理講論』と『蒼ざめた馬』との出会い ②「自虐史観」の批判と「贖罪意識」の刷り込み ③「黙示録」解釈の危険性 ④ 文鮮明教祖とテロリズム

はじめに 

 「霊感商法」や「合同結婚式」などの問題でかつて危険視されていた統一教会(鈴木エイト氏が指摘しているように、本国・韓国における呼称は「統一教(トンイルギョ)」であり、日本でもその教義は変わらないので、本稿でも統一教会と記す)は、安倍政権下の2015年に「世界平和統一家庭連合」と名称の変更が許可されたことでソフトなイメージが持たれるようになっていた。

 しかし、安部元首相は母親の多額の献金などにより家庭崩壊していた宗教二世の山上徹也容疑者の手製の散弾銃で射殺された。そのあとで『聖書』を教典としつつも反日的な教義を持つこの教団の実態が徐々に明らかになってきた。また、統一教会だけでなくエホバの証人などの宗教二世たちが宗教虐待など彼らの悲惨な状況を伝え、TBSの報道特集や日本テレビのミヤネ屋を始め、週刊文春などの週刊誌や新聞も報道をしたことで、統一教会の解散請求は昨日20万の署名数に達した。

 ただ、紀藤正樹弁護士が 『決定版 マインド・コントロール』(アスコム、2017年)において記しているように、統一教会もアメリカのカルト教団や地下鉄サリン事件が起こしたオウム真理教とも共通する次のような危険な特徴を有している。

1,「信者と外部の接触を断ち、繰り返し同じ情報を吹き込むなどして、マインド・コントロールする。信者は、教祖の意のままに動くようになり、法律や常識は無意味となる」。

2,「『近くこの世の終わりがくるが、選ばれた者だけが神の国に行ける』という終末思想を語る」

 さらに、先の参議院選では自民党の多くの議員が「基本理念セミナー」への参加も求める統一教会の「推薦確認書」にサインしていたことが朝日新聞の調査で明らかになった。

 以下、最初に『原理講論』や『蒼ざめた馬』との出会いとその後のかかわりなどを簡単に振り返ったあとで、主にこの教団の教義と堀田善衞の「黙示録」観を分析することで、今も自民党の家庭観や平和観に強い影響力を持っている統一教会の危険性を指摘したい(本稿ではかっこ内の数字は半角で示す)。

1,『原理講論』と『蒼ざめた馬』との出会い

 私が統一教会の講義を一人で聞きに行ったのは、ベトナム戦争が激しさを増す一方で、日本でも学生運動が過激化して、学生同士が武力衝突を繰り返すようになっていた1967年でまだ高校生の頃だった。

 それ以前に『罪と罰』を読んでキリスト教にも強い関心を持つようになり、『聖書』の教えに従って良心的兵役拒否を行っている「エホバの証人」(ものみの塔)の集まりに誘われて二度ほど参加していた私は、渋谷を歩いていて真面目な感じの青年に誘われて『原理講論』の導入部の講義を聞いたのである。玄関を開けると座って待っていた二人の若い女性たちからやさしく「お帰りなさい」と挨拶されてその家庭的な雰囲気に心を動かされたが、陰陽思想でキリスト教の「原理」を説明しようとする講師の話には疑問を持ったために、一度限りの聴講となった。

 それにも関わらずその時の印象は非常にまじめな青年たちの集まりという印象が強かったので、この集団が正体を隠して難民救済などを装うカンパや訪問販売をしたりしていることを知って痛ましい思いに駆られた。もしもあの時に最後まで講義を聞いていたら、私も信者になっていたかも知れないと感じて、その後もこの教団の動きには注意を払ってきた。

 そして、統一教会が日本でも銃器店を経営して銃の販売も行っていることも報じられた際には、宗教団体が銃器店を持つことに強い違和感を覚えた。

 統一教会の「黙示録」観については第三節で考察することにするが、「視よ、蒼ざめた馬あり、これに乗る者の名を死といい、黄泉これにしたがう」という『ヨハネの黙示録』(6章8節)の言葉が題辞で引用されているロープシンの『蒼ざめた馬』(川崎浹訳、現代思潮社)を読んで衝撃を受けたのもこの時期だったと思う。 (注:ロープシンの本名はボリス・ヴィクトロヴィチ・サヴィンコフ、ロシアの革命家、主要作品に『一テロリストの回想』)。

 『罪と罰』では近代西欧の哲学に影響された「非凡人の理論」によって「高利貸しの老婆」を「悪」と規定して殺害を行ったラスコーリニコフの深い苦悩とシベリアにおける「復活」が描かれている。一方、 『蒼ざめた馬』の主人公は、 「ラスコーリニコフは金貸しばばあを殺し、彼自身が老婆の流した血のなかで窒息する」と考え、「われ、汝に暁の明星をあたえん」など多くの「黙示録」の詩的な言葉でモスクワ総督の暗殺を正当化している。

 しかも、ソーニャとの間では殺人やラザロの復活など死と生についての会話も行われていたが、『蒼ざめた馬』でも「ぼくはよく馭者だまりで聖書を読むんだ」と語り、「すべてが許される」と考える「スメルジャコフへの道」と「キリストの道」があるとするワーニャとの対話も描かれている。

 注目したいのは、ワーニャが「すべてが許される」とする危険な考えをイワンではなくスメルジャコフに帰していることであり、この小説との出会いは、私が「黙示録」に強い問題意識を持つようになった大きなきっかけになっていたと思える。

 一方、統一教会への私の関心は徐々に弱まっていたが、久しぶりにその名前を聞いたのは、2014年3月15日に日本ペンクラブの環境委員会が行う「脱原発を考えるペンクラブの集い」の準備会合からの帰宅の際に中村敦夫・環境委員長と交わした私的な会話においてであった。

 その会話で中村さんは、統一教会やその政治組織などから多い場合には「一人の議員に九人もの秘書がついている」ことを憤慨し、かつ今もその問題がまったく解決されていないことを深く危惧されていた。

 実際、1998年9月22日法務委員会で氏は、「統一協会は宗教の名をかりてさまざまな反社会的な行動をとっている団体でございます」と指摘し、かつて統一協会の代理人だった高村外務大臣と教団との関係や国会議員に対する「秘書の派遣の問題」などについて鋭い質問も行っていたのである。

 中村氏との会話の際には統一教会がいまだに日本の政治の中枢に深く入り込むほどに力をもっていることに驚かされたが、地下鉄の乗り換えのために中断されてそのままになっていた。

2,「自虐史観」批判と「贖罪意識」の刷り込み

 その時の会話のことをまざまざと思い出したのは、安倍元首相が統一教会のせいで家庭崩壊していた宗教2世に射殺されたことを知った時であった。2021年に行われたUPF(天宙平和連合)主催の会議に、統一教会の総裁でもある「韓鶴子総裁をはじめ皆様に敬意を表します」というビデオ・メッセージを安倍元首相が送ったことが犯行の引き金になっていたのである。

 その事件の後でこの問題の深刻さを改めて認識して、中村敦夫氏の『狙われた羊』(文藝春秋、1994年)を読み始めた。この小説の見事さは「マインド・コントロールの意図的悪用が、人間の思考や人格を改造し、社会的犯罪を作り出すというメカニズムを、物語によって図解すること」に成功していたことだと思う。

 初めは映画化も考えていたとのこともあり、場面も視覚的で真夜中に起きた自動車事故のシーンから始まる『狙われた羊』は、迫力ある文体で読者を新宗教の異様な世界へと引き込み、最後まで一気に読ませる。この作品は今年の11月に講談社から30年ぶりに文庫の形で再販されることが決定したが、それはマインド・コントロールという手法を駆使するこの教団の変わらぬ本質を浮き彫りにした意義が薄れていないからであろう。(統一教会の問題を初期から粘り強く考察してきた有田芳生氏に『改訂新版 統一教会とは何か』大月書店がある)

 圧巻は正体を隠して相談に乗りながら優しく勧誘した者が、学生(羊)を研修でマインド・コントロールにより熱狂的な信者にさせる過程が鮮明に描き出している箇所であろう。

 たとえば、素直な女子学生の中道葉子が参加した中級研修の12日目の夜に上映されたドキュメンタリィ映画「大日本帝国による朝鮮半島三十八年支配」では、「モノクロニュース映画の断片」や「報道写真」などにより「朝鮮民族に対する日本軍の目を覆うばかりの残虐な行為が次々と映し出された」。そのために日韓併合の正確な知識をもっていなかった「葉子は、言葉で表現できぬほどのショックを受け」、この研修に参加していた受講生たちも「一様に心を揺さぶられ、深い罪悪感を抱かされた」のである。

 つまり、正しい歴史教育を「自虐史観」などと呼んで日本の歴史の負の側面を学校で教えないようにすることを支援していた安部元首相は統一教会の広告塔となっていたばかりでなく、心ならずも歴史の真実を知った若者たちが「罪の意識」から旧統一教会に取り込まれることに加担していたことになる。

 このような「深い罪悪感」にはアメリカによる原爆投下の問題もからんでいる。たとえば、芥川賞作家の堀田善衞は短編『国なき人々』(1949)で広島に原子爆弾が落ちて「人はもとより一木一草も滅び、地面すらもガラス状に変質した」という噂を聞いて深く動揺していた主人公の梶に、ユダヤ人のシェッセルが「いや、これは現代の劫罰の始まりだ、その序の口、序曲にすぎぬのだ」と語ったと記している。

 そしてシェッセルは、「……第一の天使ラッパを吹きしに、血の混りたる雹と火とありて地にふりくだり、地の三分の一焼け失せ樹の三分の一焼け失せもろもろの青草も焼け失せた」と、第一の天使から第五の天使にいたる『ヨハネの黙示録』の一節を暗唱していたのである。

 一方、マスコミの監視が緩んだ時期もこの教団を追い続けていた鈴木エイト氏は統一教会の日本幹部公職者が全員参加し開かれた2018年9月23日に特別集会で語られた韓鶴子総裁の“みことば”をまとめた教団内部資料を詳しく紹介している(『自民党の統一教会汚染 追跡3000日』小学館2022年、151-158頁)。

 すなわち、そこで翌年が1919年の3・1独立運動から100周年となることに注意を促し、「1945年に広島に何が落ちましたか」と幹部たちに問いかけた韓氏は「原爆が落ちました」という答えを聞くと、こう続けていた。「その歴史的事実に対して、日本の悲惨な環境だけを考えるのではなく、その背後を考えなければなりません。悔い改めなければなりません」、「国家の復帰(注:統一教会をその国の国教とすること)の責任を果たすにおいて、まずはその国の最高指導者を(……)屈伏させなければなりません」。

 鈴木エイト氏が指摘しているように、「こうして罪悪感や贖罪意識を刷り込まれ、国家復帰の責務を負った日本の幹部が末端信者を駆り立て」、「その末端信者が一連の正体隠し勧誘や霊感商法などを行い、韓国の教祖一族へ毎年数百億円を貢(みつ)いできたという構図」が生まれたと言えよう。

 しかも、この説教からは「教団内部では安倍晋三内閣総理大臣を屈服と教育の対象として見下していた」ことばかりでなく、「日本の国会議員を韓鶴子に侍(はべ)る存在として捉えていること」も判る。実は、洪蘭淑著『わが父文鮮明の正体』(林四郎訳、文藝春秋、1998年)に記されているように、1985年には文鮮明が「自らと韓鶴子を秘密儀式で、世界皇帝と皇后に即位」させていたのである。

3, 「黙示録」解釈の危険性

 拙著『堀田善衞とドストエフスキー』で考察したように、堀田善衞は長編小説『審判』(1963)、さらには美術紀行『美しきもの見し人は』(1969)や長編小説『路上の人』(1985)などの作品でドストエフスキー作品と『ヨハネの黙示録』との関係についても考察していた。

 たとえば、1969年に出版した美術紀行『美しきもの見し人は』の第六章では『ヨハネの黙示録』を読んで、「その怖ろしさに身と心とが慄えるほどの思いをした」第一回目は、「広島と長崎に原子爆弾が投下され」、「これで日本民族も放射能によって次第に絶えて行くのだ、という流言が流布していた」ときだったと記し、「黙示録」の「おどろおどろしく怖ろしい」二騎士の記述を引用している。

 第二の封印を解き給ひたれば、第二の活物(いきもの)の『来れ』と言ふを聞けり。かくて赤き馬いで来り、これに乗るもの地より平和を奪ひ取ることと、人をして互に殺さしむる事とを許され、また大(おほい)なる剣(つるぎ)を与へられたり。……

 第四の封印を解き給ひたれば、第四の活物(いきもの)の『来れ』と言ふを聞けり。われ見しに、視よ、青ざめた馬あり、之に乗る者の名を死といひ、陰府(よみ)これに随(したが)ふ、かれらは地の四分の一を支配し、剣と、餞饉と死と地の獣(けもの)とをもて人を殺すことを許されたり。

 『ヨハネの黙示録』はその後も七人の天使が「ラッパを吹き鳴らす」とさらなる大災害が次々と襲ってくる様子を詳しく描いた後で、これらの天災にもかかわらず、キリスト教の教えに従っている者は救われることが強調されている。

 一方、堀田は『至福千年』(1984)で、ユダヤ人の虐殺や究極の悪ともされる「人肉食」が行われた第一回十字軍と『ヨハネの黙示録』との関係を詳しく考察している。こうして、堀田作品からは危機的な時代には宗教自体や国家がカルト的な性質を持つこともありうることが伝わってくるが、統一教会の『原理講論』も第三次世界大戦はかならずおきねばならないが、信者は生き残ると「黙示録」に依拠して主張しているのである。

 この問題を詳しく考察する前に、まず文鮮明の後継者と目されていた長男・文孝進に15歳で嫁いだ洪蘭淑が内部から見たこの教団の実態を詳しく描いた前掲の『わが父文鮮明の正体』を見て置きたい。韓国の統一教会の幹部の子女として生まれた彼女は、日本のいわゆる「祝福二世」とは違い恵まれた状況にはあったが、幼児期から統一教会での総長の礼拝で唱えさせられていた「誓いの言葉」からは、この教団による「マインド・コントロール」の実態がつたわってくる。

 すなわち、彼女が暗記させられた五箇条からなる「誓いの言葉」には、次のような文言が記されているのである。「天国のために血を流すことによって、召使いとして、けれどもお父様の心をもって、サタンに奪われた神の子女と宇宙を取り戻すために、サタンを完全に裁くまで、敵陣に勇敢に攻撃をかけます。このことを私は誓約します」(55頁)。

 さらに、結婚後には「統一教会の教えでは賭事は厳格に禁じられている。いかなる種類の賭も家族を害する社会悪で、文明の衰退に貢献する」とされているにもかかわらず、彼女はラスベガスで「再臨のメシア」とされている文鮮明とその妻が、何時間もブラックジャックなどの賭け事をする姿を眼にする。そして、「定期的に現金の詰まった紙袋」を運んできた日本人の教会幹部が、「税関の係官に、アメリカにきたのはアトランティック・シティで賭事をするためだ」と説明していたことを知る。

 彼女の夫となった文孝進氏は、酒やドラッグに溺れておりその暴力だけでなく不倫に苦しんで韓鶴子氏に相談した洪蘭淑は、義理の母もまた夫の不倫に苦しめられていたことを知らされたと記している。

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 本稿の視点からことに注目したいのは、音楽には才能のあった長男の孝進氏が「アポカリプス(黙示録)」という名のバンドを持ち、そこで演奏していたことである。バンドの命名からは「黙示録」に対する強い関心が感じられるが、アメリカで銃メーカーのカーアームズ社を経営する兄の国進氏の支援で、分派・サンクチュアリ教会を設立した七男・文亨進の「黙示録」観はさらに過激である。

 すなわち、文亨進氏が6月22日から7月13日まで行った日本縦断ツアー講演でサンクチュアリ教会の日本組織の代表者は「黙示録」の記述を現代に引き寄せて、「黙示録6章にありますが、赤い馬が暴れまわる中国・北朝鮮、白い馬が暴れまわるグローバリスト、黒い馬のディープ・ステート、そして緑の馬のイスラム圏。そしてコロナ。これは中国の生物兵器です」と解釈した(藤倉善郎「統一教会の過激分派「サンクチュアリ教会」の正体」https://toyokeizai.net/articles/-/614735

 一読しただけでは「ディープ・ステート」の意味は不明だが、それは極右陰謀論Qアノンたちがいう「アメリカ政府を支配している影の政府」を指すとのことで、実際、議事堂襲撃事件の数日後に亨進は議事堂を「サタンの玉座」と呼んで、2021年1月6日の襲撃に加わった暴徒たちを称賛していた(Rolling Stone Japan)。

 しかも、信者たちに「自動小銃を構え、銃弾を束ねた王冠を頭に載せた姿で礼拝」させている亨進は、自分こそが統一教会の正当な後継者だと考えて、自分に権力を渡さなかった母親の韓鶴子氏を恨んで、「黙示録」で最も非難されている「大淫婦バビロン」と呼んでもいる。そのことに留意するならば、亨進氏は父親の文鮮明にもあった教団の武装化の方向性を純粋に受け継いでいることも考えられる。

 『決定版 マインド・コントロール』では、「信者の家族と揉めるなど社会と対立しはじめると、そのことがカルトの結束固めに使われる。信者は、国家や警察が自分たちをつぶそうとしていると信じ、カルトは猜疑心と妄想に取りつかれていく。場合により武装集団と化す」ことも指摘されている。 

4, 文鮮明教祖とテロリズム

 地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の麻原も『ヨハネの黙示録』第16章に記されている世界最後の日に起こる善悪諸勢力の決戦場から転じて、「世界の終わり」の意味となった「ハルマゲドン」にも言及していた。このことはよく知られているが、ユダヤ人の虐殺も唱えたヒトラーにも傾倒していた麻原が「自分が日本と世界の『神聖法皇』」であるとも語っていたことを紹介した研究者のリフトンは、オウムの戦争は「神格化された天皇と日本の永遠の神性のために戦われる宗教戦争の形をとった」とも指摘している(ロバート J.リフトン著, 渡辺学訳『終末と救済の幻想 オウム真理教とは何か』岩波書店、2000年、258頁)。 

 かつての日本も「鬼畜米英」とみなした諸国との戦争に際して日本の指導部は、自国の軍隊を「無敵皇軍」と称し、いざとなれば「神風」が吹くので絶対に負けないとして、沖縄戦の後も悲惨な戦争を続けていたのである。

 一方、安倍元首相の殺害後に「自民党は所属議員に教団側との接点について調査し9月に結果を公表した」がその際には触れていなかった推薦確認書の存在とその文書が選挙支援の見返りに「政策協定」への署名を求めるだけでなく、「基本理念セミナー」への参加も要求するものであるにもかかわらず、それにサインした議員がいることが明らかになった(朝日新聞、10月10日)。

 すると参院本会議の代表質問では「多額の献金等を強いてきたこの団体の教義に、賛同するわが党議員は一人もいません」と主張していた自民・世耕弘成参院幹事長は、この件が発覚した後の26日には、この文書には「憲法改正しましょう、家族を大切にしましょうと当たり前のことが書いてある。党の政策と反していなければ、選挙で猫の手も借りたいような議員はサインするレベルだ」との認識を示した。

 しかし、洪蘭淑著『わが父文鮮明の正体』に克明に描かれているように統一教会の家族観は、明治憲法下の日本で道徳の基本理念とされていたような女性蔑視の古い家父長制的な家族観である。また、その憲法観も第三次世界大戦は起らねばならず、その最終戦争には自分たちは生き残るとされる『原理講論』の「黙示録」観に依拠している。

 自民党が最終戦争を望む統一教会の教義に沿ったような改憲を行うことは、
かつて 日本に支配されていた近隣諸国の不安をあおり、かえって戦争を誘発することになる危険性が高いと思われ、54基もの原発がある日本を巻き込んだ極東での戦争はこれまでにない悲惨な戦争になる可能性も高い。

 しかも、細田・下村・萩生田などの自民党・安倍派の有力議員はこの問題の解明に抵抗しているように見えるが、やはり安倍派の杉田水脈や和田政宗など四議員は、統一教会の過激分派「サンクチュアリ教会」の文亨進氏の日本縦断ツアー講演に応援メッセージを送っていた。

 さらにこの問題が明らかになった後も多くの地方議員が、統一教会の政策との類似性を正当化していることもTBSの「報道特集」などの取材で浮き彫りになってきている。

 すでに見たように、統一教会の韓鶴子総裁は2018年9月23日の特別集会で「(統一教会をその国の国教とするという)責任を果たすにおいて、まずはその国の最高指導者を(……)屈伏させなければなりません」と発言していた。そのことに留意するならば、前文部科学事務次官の前川喜平氏が記しているように、「(推薦確認書に)署名するのは普通ではなく異常、当たり前ではなくあるまじきことだ」と言わねばならないだろう(東京新聞「本音のコラム」10月30日)。統一教会の解散を求めるのが筋である。→ https://chng.it/ysdNwYJr

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 追記:ネット上にはすでに統一教会の教祖の『文鮮明先生マルスム(御言)選集』 が流出していたが、これについて言及することは控えていた。ようやく『週刊現代』( 11月19・26日号)のデジタル版にも掲載された。

 記事はまず『御言選集』ついて簡単に説明した後で、1920年に日本統治時代の朝鮮半島に生まれた文氏が、1941年に早稲田高等工学校に通うため来日し、1943年に帰郷後の1944年10月に日本での抗日運動に関わっていたとして逮捕されたことを紹介している。

そして「文氏にとって、”内地”での体験は、彼を抗日運動へと走らせるようなものだったのだろう」とし、次のような発言を掲載している。

〈日本は一番の怨讐の国でした。二重橋を私の手で破壊してしまおうと思いました。裕仁天皇を私が暗殺すると決心したのです〉(『御言選集』第381巻より。原文を日本語訳したもの・大意。以下同)  

〈裕仁天皇を二重橋を越えて殺してしまおうとした地下運動のリーダーだったんです〉という趣旨の発言が『御言選集』第305巻、第306巻、352巻、402巻にも記録されていることを紹介した記事は、「文氏が実際に地下運動のリーダーだったかについては明らかになっていない」と慎重に断っている。

確かに、自分を殊更大きく見せようとする傾向の強い教祖だけに実態については調査が必要だろうが、文鮮明教祖の言葉は2015年に「世界平和統一家庭連合」と名称を変更したこの教団の危険性を明らかにしていると思える。

(画像はツイッターとアマゾンより引用、加筆と画像追加 2022年11月3日、
改訂11月19日、一箇所修正、スレッドを追加 12月2日、
2023年1月16日、小見出しの変更とツイートの追加、2023/04/12、
2023/04/21、 2023/05/06、 ツイートの追加と変更 )

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改訂新版 統一教会とは何か
狙われた羊 (講談社文庫)
わが父 文鮮明の正体
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堀田善衞とドストエフスキー
終末と救済の幻想―オウム真理教とは何か
政治と宗教

終末時計の時刻と回避された「核攻撃命令」

安倍政権は沖縄で再び住民の意思を全く無視した形で辺野古の基地建設を強引に進めていますが、本日の「東京新聞」朝刊は1962年の「キューバ危機」の際には、沖縄が核戦争の戦場になる危険性があったという衝撃的な事実を伝えています。

 

冷戦下、米沖縄部隊に核攻撃命令 元米軍技師ら証言

2015年3月14日 「東京新聞」

冷戦下の1962年、米ソが全面戦争の瀬戸際に至ったキューバ危機の際、米軍内でソ連極東地域などを標的とする沖縄のミサイル部隊に核攻撃命令が誤って出され、現場の発射指揮官の判断で発射が回避されていたことが14日、同部隊の元技師らの証言で分かった。

キューバ危機で、核戦争寸前の事態が沖縄でもあったことが明らかになったのは初めて。ミサイルは、核搭載の地対地巡航ミサイル「メースB」で、62年初めに米国施政下の沖縄に配備された。運用した米空軍第873戦術ミサイル中隊の元技師ジョン・ボードン氏(73)=ペンシルベニア州ブレイクスリー=が証言した。(共同)

  *   *   *

2月4日に書いたブログ記事「小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計」では、世界が滅亡する時間を午前0時になぞらえた「終末時計」の時刻が、「残り3分」になったと発表されたことに関連して、小林秀雄の原子力エネルギー観の問題を指摘しました。

1948年の湯川秀樹との対談「人間の進歩について」で、「原子力エネルギー」を産み出した「高度に発達した技術」の問題を「道義心」を強調しながら批判していた小林秀雄は、日本を取り巻く核廃絶の運動が衰退する流れに沿うかのように原子力エネルギーの危険性に対する指摘をパッタリとやめていたのです。

ことに核戦争が勃発する寸前にまで至っていた1962年の「キューバ危機」から3年後に行われた数学者の岡潔との対談では哲学者ベルグソンの視点に立ってアインシュタインを批判していました。

しかし、日本に落とされた原爆が引き起こした悲惨さを深く認識したアインシュタイン(1879~1955)は、水爆などが使用される危険性を指摘して戦争の廃絶を目指し、それは「ラッセル・アインシュタイン宣言」として結実していたのです。一方、哲学者ベルグソン(1859~1941)は原爆の危険性を知らずに亡くなっていました。

「原子力エネルギー」の問題を「道義心」の視点から批判していた小林秀雄は、当然、アインシュタインが持った危機感を共有していたと思えるのですが、1965年の対談からはその危機感のかけらも感じられないのです。

日本の代表的な知識人である小林秀雄の現実の危険性を直視しない姿勢が、今日の原発大国・日本にもつながっていると思われます。

(2016年2月17日。リンク先を追加)

リンク→小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

リンク→自民党政権の「核の傘」政策の危険性――1961年に水爆落下処理

リンク→岸・安倍両政権と「核政策」関連の記事一覧

終戦記念日と「ゴジラ」の哀しみ

ゴジラ

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)

68回目の終戦記念日が訪れました。

記念式典での「私たちは、歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、希望に満ちた、国の未来を切りひらいてまいります。世界の恒久平和に、あたうる限り貢献し、万人が心豊かに暮らせる世を実現するよう、全力を尽くしてまいります」との安倍首相の式辞も報道されています。しかし、そこにはこれまで「歴代首相が表明してきたアジア諸国への加害責任の反省について」はふれられておらず、「不戦の誓い」の文言もなかったことも指摘されています(『日本経済新聞』ネット版)。

すでにブログにも記しましたが、8月6日の「原爆の日」に広島市長は原爆を「絶対悪」と規定し、9日の平和宣言では田上市長も、4月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会で、核兵器の非人道性を訴える80カ国の共同声明に日本政府が賛同しなかったことを「世界の期待を裏切った」と強く批判し、「核兵器の使用を状況によっては認める姿勢で、原点に反する」と糾弾していました。

安倍首相が美しい言葉を語っている時も、「原子力の平和利用」というスローガンによって政治家たちの主導で建設された福島第一原子力発電所事故は収束してはおらず、莫大な量の汚染水が国土と海洋を汚し続けているのです。

このような状況を見ながら強く感じたのは、終戦直後の日本政府の対応との類似性です。

8月11日付の『東京新聞』は、大きな見出しで「英国の核開発を主導し、『原爆の父』と呼ばれ、米国の原爆開発にも関与したウィリアム・ペニー博士」が、「日本への原爆投下から約四カ月後、『米国は放射線被害を(政治的な目的で)過小評価している』と強く批判していたことが」、「英公文書館に保管されていた文書で分かった」ことを報じるとともに、広島では放射線の影響で「推計十四万人」が、長崎でも「推計七万人四千人が死亡し」、「被爆の五~六年後には白血病が多発」するようになったことも記してアメリカによる隠蔽の問題を指摘していました。

*    *      *

同じような隠蔽は一九五四年三月にビキニ沖で行われたアメリカの水爆実験によりで日本の漁船「第五福竜丸」が被爆するという事件の後で公開された映画《ゴジラ》でも行われていました。

『ウィキペディア』の「ゴジラ(1954年の作品)」という項目によれば、「アメリカのハリウッド資本に買い取られ」、テリー・モース監督のもと追加撮影と再編集がされたこの作品は、1956年に『怪獣王ゴジラ』(和訳)という題名で全米公開されましたが、「当時の時代背景に配慮したためか、「政治的な意味合い、反米、反核のメッセージ」は丸ごとカットされて」いました。

なぜならば、本多猪四郎監督は「ゴジラ」が出現した際のシーンでは、核汚染の危険性について発表すべきだという記者団と、それにたいしてそのような発表は国民を恐怖に陥れるからだめだとして報道規制をした日本政府の対応も描き出していたのです。

本多監督は、「原爆については、これは何回も言っているけど、ぼくが中国大陸から帰ってきて広島を汽車で通過したとき、ここには七十五年、草一本も生えないと聞きながら、板塀でかこってあって、向こうが見えなかったという経験があった」とも語っています。

しかし、広島・長崎の被爆による放射能の問題を占領軍となったアメリカの意向に従って隠蔽した日本政府は、その後もアメリカなどの大国が行う核実験などには沈黙を守り、「第五福竜丸事件」の際にも被害の大きさの隠蔽が図られ、批判者へのいやがらせなどが起きたのです。

それゆえ、映画《ゴジラ》には情報を隠蔽することの恐ろしさや科学技術を過信することへの鋭い警告も含まれていたといえるでしょう。

リンク→『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)

「ウィキペディア」によれば、「アメリカで正式な完全版の『ゴジラ』が上映されたのは2005年」とのことなので、アメリカの多くの国民は2005年にようやく「核実験」によって生まれた「ゴジラ」の哀しみを知ったといえるでしょう。

「平和憲法」がアメリカによって作られたと信じ、その「改変」を目指している安倍首相には、原爆の悲惨さと「ゴジラ」の哀しみにも日本人としてきちんと向き合ってほしいと願っています。

近著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画)の発行に向けて

(2016年4月17日、改訂し図版を追加。6月21日、近著の紹介を追加)

 

第16回国際ドストエフスキー・シンポジュウムのお知らせ(Ⅱ)

Organizing Committee of the XVI IDS Symposium より新しいサイトのお知らせが届きましたので以下に記します。

トップページの「新着情報」と「新着情報」のタイトル一覧にも掲載しました。

詳しい内容についてはリンク先で情報をご確認ください。

the new site of the Symposium:

リンク→ www.ugr.es/~feslava/ids2016/

the Cultural Program:

リンク→ http://goo.gl/NfW8gB. 

第16回国際ドストエフスキー・シンポジュウムのお知らせ

2016年の6月7日から10日にかけて第16回国際ドストエフスキー・シンポジュウムがスペインのグラナダで開催されます。詳しい内容についてはリンク先で情報をご確認ください。

 第16回国際ドストエフスキー・シンポジュウムの情報

  リンクhttp://www.ugr.es/~feslava/ids2016/index.html 

 国際ドストエフスキー学会(IDS)の情報

  リンク→ http://www.dostoevsky.org/

今回も多くの研究者の方に参加して頂けることを願っています。

(これまでのシンポジュウムについては、下記の著作の第3部を参照してください)。

 

33

リンク→ドストエフスキー その対話的世界

 

 

 

稲田朋美・元防衛相と作家・百田尚樹氏の憲法観――「森友学園」問題をとおして(改訂版)

はじめに

新聞やテレビのニュースなどをとおして、「森友学園」問題の本質とその根の深さが徐々に明らかになってきている。

菅野完氏の『日本会議の研究』では「『生命の実相』を掲げて講演する稲田朋美・自民党政調会長(当時)」と園児たちに「愛国行進曲を唱和させる塚本幼稚園」との深い関係についてもふれられていた(221~232頁)。

さらに今日(3月4日)は、「復古」的な価値観を語る稲田朋美・防衛相が国会で、虚偽答弁の疑いのある発言をしていたことも判明したので、以下にそれに関する記事と考察を追記する。

*   *

昨年に12月に安倍首相とともにハワイの真珠湾を訪問して戦没者慰霊式典に出席していた稲田朋美防衛相は、帰国すると靖国神社に参拝して「神武天皇の偉業に立ち戻り」、「未来志向に立って」参拝したと語った。

その時は弁護士でもある稲田氏が明治の薩長政権が掲げた「王政復古」の理念の流れに沿う「神武天皇の偉業」に立ち戻ることと「未来志向」との論理的な矛盾を無視していることに驚かされた。

今度は森友学園理事長に感謝状を授与していた稲田防衛相が、2月22日の国会質疑で民進党の大西健介議員の前から塚本幼稚園を知っていたかとの質問に、「聞いたことはありますけれど、その程度でございます」と答弁していたにもかかわらず、15年3月に「保守の会」会長の松山昭彦氏がFacebookに書いた記述によっていたが顧問弁護士を努めていたことが判明した。

この後、松山氏は「顧問弁護士だったのは稲田先生の旦那さんの方でした」と訂正したが、菅野完氏の3月12日のインタビューと平成17年の文書によって、夫の稲田龍示氏だけでなく稲田朋美防衛相も森友学園の訴訟代理人を務めていたことが明らかなった。

さらに、「教育勅語」を暗唱させるだけでなく、「愛国行進曲」を唱和させていた塚本幼稚園には「思想教育」の懸念や「児童虐待」の疑惑もあった。その塚本幼稚園の3人もの教員が文部科学大臣優秀教員に認定されていたことも明らかになった。

安倍内閣ではほとんどの大臣が「日本会議国会議員懇談会」や「神道政治連盟国会議員懇談会」に所属しているが、「アッキード事件」とも呼ばれる今度の事態からは、彼らが重視しているのは「国民の意見」ではなく、「日本会議」の意向と「お友達の利権」であることが感じられる。

文部科学大臣の松野博一・衆議院議員もこれら二つの「国会議員懇談会」だけでなく、安倍首相を会長とする〈創生「日本」〉に所属している(『日本会議の全貌』花伝社、資料21頁)。

安倍首相夫妻と「日本会議大阪運営委員」である「森友学園」の籠池泰典・園長との関わりだけでなく、虚偽答弁と思われる稲田防衛相の発言や、どのような基準で文部科学大臣優秀教員に選ばれたのかをも追究する必要があるだろう。

*   *   *

稲田朋美・自民党政調会長(当時)の発言が忠実に記録されている菅野完氏のホームページhttps://hbol.jp/129132  @hboljpからは、安倍元総理(当時)との深い繫がりだけでなく、共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)を出版していた『カエルの楽園』の作者・百田尚樹の憲法観との強い類似性も感じられる。

すなわち、「第六回東京靖国一日見真会」で稲田朋美・自民党政調会長(当時)」は、自分と主張がほとんど同じ聴衆に向かってこう語っていた。

「だいたい弁護士とか裁判所とか検察官とか特に、弁護士会ってとても左翼的な集団なんですね。なぜかというと憲法教、まぁ憲法が正しい、今の憲法が正しいと信じている憲法教という新興宗教(会場爆笑)がはびこっているんですねぇ。」(太字は菅野)

第90回帝国議会の審議を経て1946年11月3日に公布された「日本国憲法憲法」を守ろうとすることを「憲法教」と嘲笑するだけでなく、「新興宗教」とも名付けていることに驚かされるが、『カエルの楽園』の著者も2013年10月7日付のツイートでこう記していた。

「もし他国が日本に攻めてきたら、9条教の信者を前線に送り出す。そして他国の軍隊の前に立ち、『こっちには9条があるぞ!立ち去れ!』と叫んでもらう。もし、9条の威力が本物なら、そこで戦争は終わる。世界は奇跡を目の当たりにして、人類の歴史は変わる。」(太字は高橋)

広島と長崎に投下された原爆の悲劇が象徴的に物語っているように、科学技術の進歩に伴って兵器の威力も増大し、大規模な世界戦争が起きれば地球の破滅も予想されるようになっていた。そのような中で戦争を起こさないように努力することは、もはや単なる理想ではなく、現実的な要請だったと思える。

それゆえ、このような暴言を吐くことは現在ある戦争の危機から眼を背けるだけでなく、第90回帝国議会の審議にかかわったすべての政治家をも侮辱することにもなると思える。

*   *

以下に、関連記事へのリンク先を記す。

ヒトラーの思想と安倍政権――稲田朋美氏の戦争観をめぐって

安倍首相の年頭所感「日本を、世界の真ん中で輝かせる」と「安倍晋三記念小学校」問題――「日本会議」の危険性

菅野完著『日本会議の研究』と百田尚樹著『殉愛』と『永遠の0(ゼロ)』

「日本会議」の歴史観と『生命の實相』神道篇「古事記講義」

 オーウェルの『1984年』で『カエルの楽園』を読み解く――「特定秘密保護法」と監視社会の危険性

 (2017年3月4日、3月8日・14日加筆、2023年10月25日、改訂

福島原発事故とチェルノブイリ原発事故

 

東京電力・福島第一原子力発電所で大事故が発生してから3年が経ちましたが状況はいっこうに改善されていないばかりか、汚染水などの問題は悪化しているように見えます。

私たちが経験もしたことのない「天災」の関東大震災についてのニュースは、昨日、大きく取り上げられていましたが、「人災」であった福島第一原子力発電所の事故については、NHKをはじめ民放でもあまり大きくは取り上げられていないように感じました。

こうした中、「東京新聞」は「原発関連死1000人超す 避難長期化、続く被害」と題した署名記事を3月10日の一面に掲載していましたので、その一部を引用して転載します。

*   *   *

東京電力福島第一原発事故に伴う避難で体調が悪化し死亡した事例などを、本紙が独自に「原発関連死」と定義し、福島県内の市町村に該当者数を取材したところ、少なくとも千四十八人に上ることが分かった。昨年三月の調査では七百八十九人で、この一年間で二百五十九人増えた。事故から三年がたっても被害は拡大し続けている。

福島県の避難者数は約十三万五千人。このうち、二万八千人が仮設住宅で暮らしている。医療・福祉関係者の多くは、関連死防止に住環境の整備を指摘する。県は原発避難者向けに復興公営住宅四千八百九十戸の整備を進めているが、入居が始まるのは今秋から。一次計画分の三千七百戸への入居が完了するのは二〇一六年春になる見通しだ。

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先日、WOWOW放送の『故郷よ』を観た映画ファンの友人から、次のようなメールをもらいました。

「チェルノブイリの原発事故によって翻弄される人々を扱った作品でした。チェルノブイリのロシア語の意味がヨハネ黙示録に書かれている「ニガヨモギ」とは初めて知りました。作品中の字幕では、「忘却の草花」だと出てきます。10年後の福島はどうなっているのだろう。そんなことを考えさせる作品でした。」

福島第一原子力発電所事故が、1986年に起きたチェルノブイリ原発事故に匹敵するレベル7の大事故であることは知られていますが、「苦よもぎ」と原発事故の件はあまり知られていないようです。

世界のコスモロジーを比較した2011年11月の比較文明学会のシンポジウムで、私は「生命の水の泉」と「大地」のイデアと題した考察を発表しました。そこでは長編小説『白痴』にも言及しながら、「ニガヨモギ」と原発事故との関連にも言及していましたので、その時の原稿を「主な研究」のページに掲載します

*   *   *

黒澤明監督は「第五福竜丸」事件をきっかけに撮った映画《生きものの記録》で、主人公の老人に「臆病者は、慄え上がって、ただただ眼をつぶっとる」と語らせていました。

日本は自然を大切にすると国と言われて来ましたが、日本の大地が汚され国民の生命が脅かされている状況に対しても、多くの国民はいまだに「眼をつぶって」黙っているようにみえます。

私たちはきちんと原発事故を直視して、脱原発の声を上げるべきでしょう。

真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して

 

ここのところ忙しく、原発事故に関連する記事を書くことができませんでしたが、日本だけでなく地球の将来にも大きな影響を及ぼすにできごとが続いています。

少しさかのぼることになりますが、時系列に沿って、原発事故関連の出来事を追って記すことにします。

今回は、事故当時の最高責任者・菅直人氏を講演者に招いて、「福島原発事故 ― 総理大臣として考えたこと」と題して行われた3月15日の「脱原発を考えるペンクラブの集い」での菅氏の講演の内容をまず紹介し、その後で安倍首相が全世界に向けて発した、汚染水は「完全にブロックされている」という発言を検証することにします。

 *    *   *

「脱原発を考えるペンクラブの集い」part4は、五〇〇名を収容できる専修大学神田校舎の大教室で行われので、最初はどの位の聴衆が集まるのか少し不安にも思ったが、講演が始まる少し前には座れない人も出るほどとなった。

 冒頭で司会の中村敦夫環境委員長は、事故から三年も経った現在も放射線や汚染水が毎日、放出されているにもかかわらず福島第一原子力発電所の状況についての報道がほとんどなされていないことを指摘し、メディアをとおしては知り得ないことをこの場で包み欠かさず伝えて頂きたいと語った。

 菅元首相もそれに応じる形で資料なども用いながら、未曾有の大事故と対面した時の危機感と対応をきわめて率直に語り、第二部の質疑応答でも厳しい質問にも深い反省も交えて誠実に答えていたのが、印象的だった。

 事故当時の状況については、新聞や書物、さらには前回行われた環境委員会の研究会などで少しは知っていたが、最高責任者だった菅氏によって肉声で語られた内容はやはり衝撃的だった。

 改めて驚いたのは、原子力発電の専門家の委員たちが原発事故を想定していなかったために、事故が起きた後では首相に適切なアドバイスをすることがまったくできていなかったことである。

 菅氏は政府事故調中間報告の図面資料を用いながら、四号機プールに水が残っていなかったら、二五〇㎞圏に住む五千万人の避難が必要という「最悪のシナリオ」になった可能性があったという背筋がぞっとするような核心部分の話に入った。

一九八六年に起きたソ連のチェルノブイリの原発事故では核反応そのものが暴走し、一機の爆発としては最大のものであったが、ソ連の場合は事故を起こしたのは四号機だけだった。しかし、福島第一原発だけでも六機の原発と七つの使用済みプールがあり、さらに第二原発にも四機の原発と四つのプールがあったので、日本の場合はソ連の場合よりも数十倍から百倍の規模の災害となる危険性が高かったのである。

 菅氏は政財界からだけでなくマスコミからも浴びせられた激しいバッシングについて、ユーモアを交えつつ語ったが、その話からは司馬遼太郎氏が『坂の上の雲』で指摘していた「情報の隠蔽」の問題――多くの評論家の解釈とは異なり、「情報の隠蔽」の問題が『坂の上の雲』におけるもっとも重要なテーマであると私は考えている――が現在の日本でも続いていることが痛感された。

休憩後に行われた第二部の「質疑応答」では、壇上の茅野裕城子氏(理事・女性作家委員会委員長)、吉岡忍(専務理事)、山田健太(理事・言論表現委員長)だけではなく、会場からも冒頭での浅田次郎会長の質問をはじめとし、下重暁子副会長や小中陽太郎理事からも会場の素朴な疑問を代弁するような質問があった。

たとえば、浅田会長からの、なぜ日本では狭い国土に五四基もの原発が建設され、原発が動いていなくとも困らないのに再稼働の動きがあるのか」という質問に対しては、菅氏は電力会社の宣伝などのために原発がなくても生活ができるにもかかわらず「オール電化」が必要だと思い込まされていたことや、競争相手もないのにテレビコマーシャルを流すなどの手段でメディアに対する支配力をもっているためだろうと答えた。

  原発事故に総理として直面したことを「天命」と受け止めて、「語り部」としてその時のことをきちんと伝えていこうとする菅氏の政治姿勢を司会者の中村氏は高く評価し、今後の変革のエンジンになってもらいたいと語ったが、それは五〇〇名という大教室を埋め尽くした聴衆も同じだったようで、締めの言葉の後では拍手が長く続いた。

 熱い質疑応答は懇親会にも引き継がれ、菅氏は日本ペンクラブの元会長で哲学者の梅原猛氏が今回の原発事故を「文明災だ」と規定していたことにもふれつつ、地震大国でもある日本が「脱原発」へと転換する必要性を強調した。

今回の「集い」では日本の原発産業や政財界だけでなく、マスコミの問題点が浮き彫りになったと思われる。

        (詳しい報告は「日本ペンクラブ会報」第424号に掲載)。

 *    *   *

 5月17日付けの「東京新聞」は、「汚染水 外洋流出続く 首相の『完全ブロック』破綻」との大見出しで、東京電力福島第一原発から漏れた汚染水が、沖合の海にまで拡散し続けている可能性の高いことが、原子力規制委員会が公開している海水データの分析から分かった」ことを報じています。

 以下にその記事の一部を引用しておきます。

 *    *   *

  二〇一一年の福島事故で、福島沖の同地点の濃度は直前の値から一挙に最大二十万倍近い一リットル当たり一九〇ベクレル(法定の放出基準は九〇ベクレル)に急上昇した。それでも半年後には一万分の一程度にまで急減した。

 一九四〇年代から世界各地で行われた核実験の影響は、海の強い拡散力で徐々に小さくなり、八六年の旧ソ連・チェルノブイリ原発事故で濃度は一時的に上がったが、二年ほどでかつての低下ペースとなった。このため専門家らは、福島事故でも二年程度で濃度低下が元のペースに戻ると期待していた。

 ところが、現実には二〇一二年夏ごろから下がり具合が鈍くなり、事故前の水準の二倍以上の〇・〇〇二~〇・〇〇七ベクレルで一進一退が続いている。

 福島沖の濃度を調べてきた東京海洋大の神田穣太(じょうた)教授は「低下しないのは、福島第一から外洋への継続的なセシウムの供給があるということ」と指摘する。

 海水が一ベクレル程度まで汚染されていないと、食品基準(一キログラム当たり一〇〇ベクレル)を超える魚は出ないとされる。現在の海水レベルは数百分の一の汚染状況のため、「大きな環境影響が出るレベルではない」(神田教授)。ただし福島第一の専用港内では、一二年初夏ごろから一リットル当たり二〇ベクレル前後のセシウム137が検出され続けている。沖合の濃度推移と非常に似ている。

神田教授は「溶けた核燃料の状態がよく分からない現状で、沖への汚染がどう変わるか分からない。海への汚染が続いていることを前提に、不測の事態が起きないように監視していく必要がある」と話している。

 *    *   *

 原発事故の後で菅氏追求の急先鋒だった安倍氏は、昨年の9月には国際社会に向かって「汚染の影響は専用港内で完全にブロックされている」と日本の首相として強調していました。

しかし、その説明は現在、完全に破綻しているばかりでなく、原発事故のさらなる拡大の危険性が広がっていると思えます。

原発事故の検証とともに、その発言も検証される必要があるでしょう。

  

相馬正一著『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』(人文書館、2006年11月)

ISBN4-903174-09-3_xl

『国家と個人――島崎藤村「夜明け前」と現代』で長編小説『夜明け前』を本格的に論じていた相馬正一氏は、それから二カ月後に発行した『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』((人文書館、2006年11月)の第5章「教祖・小林秀雄への挑戦状」では、戦後に文芸批評の「大家」として復権した文芸評論家・小林秀雄を厳しく批判していた作家・坂口安吾について詳しく考察していました。

拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』でもその文章の一部を紹介しましたが、1947年に著した「教祖の文学──小林秀雄論」で、小林秀雄を「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったときびしく批判した坂口安吾は、「思うに小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と指摘していたのです。

相馬氏はこのような安吾の小林秀雄批判が、1947(昭和22)年に行われた鼎談「現代小説を語る」『文学季刊』〈昭和22年4月、実業日本社〉での盟友・太宰治の志賀直哉批判を踏まえた上で行われていたことを第2章「小説の神様・志賀直哉批判」で明らかにしていました。

私は坂口安吾や太宰治などの研究者ではないので、ここでは彼らの小林秀雄観などに絞って本書を紹介したいと思いますが、その前にまず『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』の構成を簡単に見ておくことにします。

*   *   *

はじめに――いま、なぜ安吾なのか

一、倫理としての「堕落論」

二、小説の神様・志賀直哉批判

三、女体の神秘「白痴」の世界

四、自伝的小説という名の虚構

五、教祖・小林秀雄への挑戦状

六、「桜の森の満開の下」の手法

七、盟友・太宰治への鎮魂歌

八、純文学作家の本格推理小説

九、飛騨のタクミと魔性の美少女

十、安吾史譚・柿本人麿の虚実

十一、サスペンス・ドラマ「信長」

十二、巨漢・安吾の褌を洗う女

十三、安吾、全裸の仁王立ち

十四、未完の長篇「火」の破綻

十五、負ケラレマセン勝ツマデハ

十六、無頼派作家の変貌と凋落

十七、風雲児・安吾逝く

おわりに――詩魂と淪落と

坂口安吾・略年譜

あとがき

*   *   *

さて、平野謙の司会で行われた鼎談「現代小説を語る」には、坂口安吾の他に太宰治と織田作之助の三人が出席していました。この鼎談について相馬氏は「三人が一処に会するのはこれが初めてであった」だけでなく、その座談会から一と月後に織田が肺結核が悪化して34歳で亡くなっていることも紹介しています。

そして、「同人誌『現代文学』で安吾と仲間同士だったという気安さもあって」冒頭から挑発的な発言をした平野に太宰治が激しく反撥したことを伝えています。重要な鼎談だと思われるので、少し長く引用しておきます。

平野「大体現代文学の常識からいふと、志賀直哉の文学といふものが現代日本文学のいつとうまつたうな、正統的な文学だとされてゐる。さういふ常識からいへばここに集まつた三人の作家はさういふオーソドックスなリアリズムからはなにかデフォルメした作家たちばかりだと見られてゐるが……。」

太宰「冗談言つちゃいけないよ。」

このような太宰の反撥に共感した織田が、「志賀直哉はオーソドックスだと思つてはゐないけど、さういふものにまつり上げてしまつたんだ。オーソドックスなものに……」と批判したのを受けて、坂口が「あれを褒めた小林の意見が非常に強いのだよ」と語ると、鼎談の流れは一気に小林秀雄批判に傾いていたのです。

織田「さうさう(繰り返し記号)、小林秀雄の文章なんか読むと、一行のうちに『もつとも」といふ言葉が二つくらゐ出て来るだらう。褒めてゐるうちに褒めていることに夢中になつて、自分の理想型をつくつてゐるのだよ。志賀直哉の作品を論じてゐるのぢやない。小林の近代性が志賀直哉の中に原始性といふノスタルヂアを感じたでけで……。』

すると、坂口は「小林といふ男はさういふ男で、あれは世間的な勘が非常に強い。世間が何か気がつくといふ一歩手前に気がつく。さういふカンの良さに論理を托したところがある。だからいま昔の作家論を君たち読んでご覧なさい。実に愚劣なんだ、いまから見ると……。小林の作家論の一歩先のカンで行く役割といふものは全部終つてゐる役割だね」と語っていたのです。

私がこの書からことに強い刺激を受けたのは、この鼎談の翌年に太宰治が「如是我聞(にょぜがもん)」〈昭和23年3~7、『新潮』〉を書いて、自殺した芥川龍之介にも言及しながら「小説の神様」に収まっていた志賀直哉を徹底的に批判した文章を読んだときでした。

このエッセーを「太宰が後進に托した捨て身の〈遺書〉である」とした相馬氏は、太宰が「様々の縁故にもお許しをねがい、或いは義絶も思い設ける」覚悟で書いたこのエッセーから本書でかなり長い引用をしています。

注目したいのは、志賀を評して「も少し弱くなれ、文学者なら弱くなれ。柔軟になれ。おまえの流儀以外のものを、いや、その苦しさを解るやうに努力せよ。どうしても、解らぬならば、だまつてゐろ」と書いた太宰が、「君について、うんざりしてゐることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解つてゐないことである。/日蔭者の苦悶。弱さ。聖書。生活の恐怖。敗者の祈り。/君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさへしてるやうだ。そんな芸術家があるだろうか。知っているものは世知だけで、思想もなにもチンプンカンプン。開(あ)いた口がふさがらぬとはこのことである。」と書いていたことです。

そして、「腕力の強いガキ大将、お山の大将、乃木大将。…中略…売り言葉に買い言葉、いくらでも書くつもり」と宣言しておきながら、太宰はこの直後に自殺してしまったのです。

本書に掲載されている「略年譜」によれば、昭和2年に安吾は「私淑していた芥川龍之介の自殺に衝撃を受けて、自殺の誘惑に駆られ」ていました。このことを考えるならば、太宰の自殺から受けた安吾の衝撃の大きさが理解できます。

ただ、第7章「盟友・太宰治への鎮魂歌」で相馬氏は安吾が「不良とキリスト」で『斜陽』などの作品を「傑作として賞賛する一方で」、「死に近きころの太宰は、フツカヨイ的でありすぎた。毎日がいくらフツカヨイであるにしても、文学がフツカヨイじゃ、いけない」と批判的に捉えていたことも紹介しています。

明治期の『文学界』の精神的なリーダーであった北村透谷と徳富蘇峰との関係に関心を持っていた私が注目したのは、内閣情報局の主導で「日本文学報国会」(会長・徳富蘇峰)が結成された1942(昭和17)年6月に、安吾が『現代文学』第7号に「甘口辛口」と題する次のようなエッセーを発表して、国策文学を牽制していたことにも相馬氏が「あとがき」でふれていたことです。

すなわち、ここで「日本文学の確立ということは戦争半世紀以前から主要なる問題であった」と記した安吾は、「ところが戦争このかた、文学の領域では却ってこの問題に対する精彩を失い、独自なる立場を失い、人の後について行くだけが能でしかないという結果になっている」と続けていたのです。

こうして本書からはいろいろと考えさせられることがありましたが、相馬氏は「あとがき」で1948(昭和23)年10月に発表された安吾の「戦争論」にも言及していました。

原子爆弾のような人間の空想を遙かに超えた魔力が現われた以上、これからは「「戦争の力に頼ってその収穫を待つことは許されない。他の平和的方法によって、そして長い時間を期して、徐々に、然し、正確に、その実現に進む以外に方策はない」と当然の理を記した安吾は、すでにこう続けていたのです。

「今日、我々の身辺には、再び戦争の近づく気配が起りつつある。国際情勢の上ばかりではなく、我々日本人の心の中に」。

最後にこのような文筆活動を行っていた「坂口安吾の文学」の全体像を紹介した出版社の文章を引用することでこの小文を終えることにします。

 

坂口安吾の内部には、時代の本質を洞察する文明評論家と

豊饒なコトバの世界に遊ぶ戯作者とが同居しており、

それが時には鋭い現実批判となって国家権力の独善や欺瞞を糾弾し、

時には幻想的なメルヘンとなって読者を耽美の世界へと誘導する。

安吾文学の時代を超えた斬新さ、詩的ダイナミズムの文章力、

そして何よりも、奇妙キテレツな人間どもの生きざまを

面白おかしく説き明かす“語り”の巧さ、

などの魅力の秘密もそこに由来している。」

(2016年3月20日。青い字の部分を加筆)

 

相馬正一著『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』(人文書館、2006年)

ISBN4-903174-07-7_xl

 

五街道の一つである中山道の馬籠宿で本陣・問屋・庄屋を兼務した島崎藤村の父・正樹をモデルにした青山半蔵の悲劇を描いた『夜明け前』を相馬氏は「はじめに」でこう規定しています。

「江戸と京都の中間地点の宿場に生きる一庶民の目を通して、幕末から明治維新にかけての時代の激動期を、膨大な資料を踏まえて描き切った労作である」。

主人公・青山半蔵の人物造形については、彼が「『こう乱脈な時代になって来ると、いろいろな人が飛び出すよ。世をはかなむ人もあるし、発狂する人もある』と嘆きながらも、『まあ、賢明で迷っているよりも、愚直でまっすぐに進むんだね』と自分に言い聞かせる」ような人物として描かれていと指摘しています。

らに相馬氏は、「藤村が『夜明け前』の構想を練っていた昭和二年から、これを発表しはじめた昭和四年までの日本の政情は、藤村の父正樹の生きた明治維新初期の政情と酷似している点が多い」ことにも注意を促しているのです。

さて、本書は次のような章からなっています。

一、  「夜明け前」の性格とゾライズム
二、  幕藩体制崩壊と黒船の脅威
三、  栗本鋤雲著『匏菴十種』の翻案
四、  和宮降嫁の波紋と天狗党の義挙
五、  報復劇としての王政復古クーデター
六、  戸長罷免とお粂の自殺未遂

七、  献扇事件とその余波
八、  神官罷免と生家追放
九、  万福寺放火事件の顛末
十、  平田門下・青山半蔵の最期
結、  「夜明け前」と現代

構成からもうかがえるように、本書の特徴の一つは木曽谷住民の生活を守るために奔走した国学者の青山半蔵に焦点をあてて、幕末から明治維新にかけての激動の時期を描きながらも、半蔵の言動を静かに見つめる万福寺の松雲和尚の広い視野や藤村の師でもあった栗本鋤雲(小説では喜多村瑞見)の「東西文明を見据えた公平な史観」をとおして、半蔵の思想が相対化され客観的に描かれていることです。

半蔵の思想は国学の師匠や学友、さらには自分の弟子との関係だけでなく、義兄の思想の純粋さには同感しながらも、時勢のイデオロギーに引きずられていくことへの危惧の念も示していた妻の兄・寿平次の言動をとおして批判的にも描かれています。

島崎藤村は「田中ファシズム内閣が、〈国家〉の名において個人の言論・思想を封殺する狂気を実感しながら、『夜明け前』の執筆と取り組んでいたのである」と相馬氏は記しています。

司馬氏が「昭和初期の別国」と呼んだこのような暗い時代に、木曽路の馬篭宿を視座として黒船の来航に始まる幕末から西南戦争に至る激動の時代を見事に活写した藤村の観察力と気力には改めて感心させられます。

青山半蔵の人物造形が、北村透谷をモデルとした長編小説『春』の主人公・青木駿一が下敷きにされていることをたびたび指摘していた相馬氏は、「島崎正樹に〈青山〉姓を名告らせたのは、先に北村透谷を〈青木〉姓にしたことと無関係ではあるまい」とも記しています。

ただ、透谷を深く敬愛していた藤村は「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」とも書いていました。

このことに留意するならば、北村透谷の形象は主人公の青山半蔵のモデルとなっているだけでなく、喜多村瑞見(モデルは栗本鋤雲)の「東西文明を見据えた公平な史観」にも分与されているのではないかと私は考えています。

ともあれ、青山半蔵の人物造形と北村透谷との関係に深く踏み込んで分析しているばかりでなく、透谷と藤村におけるテーヌの〈民族・環境・時代〉の三因子の受容についても指摘しているこの著書から私は強い知的刺激を受けました。

このHPの読者の方々にも強く推薦したい著書です。