高橋誠一郎 公式ホームページ

2016年

5年前のレベル7の大事故を振り返り、新たな一歩へ

3.11の東日本大震災と東京電力福島第一原発事故から早くも5年をむかえたことで、新聞各社は「東日本潰滅の危機」さえあった当時の大事故を振り返る記事を掲載し、テレビ局も現在の状況に迫るニュース番組を放送しました。

リンク→真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して

一方、原発事故による放射能「汚染水」問題さえも収束していないにもかかわらず、「アンダーコントロール」と世界に宣言していた安倍首相は、10日の記者会見でも「原子力規制委員会が判断した世界最高レベルの新たな規制基準」を強調しながら、「再稼働を進めるとの一貫した方針に変わりない」と表明しました。

しかも、このように危険な「原発」の再稼働を強引に行う安倍内閣は、旧ソ連のような言論への圧力も強めています。

それゆえ、ここではこのホームページを立ち上げるきっかけともなった1988年に『人間の場から』第10号に発表した論稿「劇《石棺》から映画《夢》へ」をふりかえりつつ、福島第一原子力発電所の大事故を映画《夢》などをとおして考察した2013年の記事へのリンク先と記事の章立てを示すことにします。

過去をきちんと学ぶことにより、未来への可能性も見えてくるでしょう。

「劇《石棺》から映画《夢》へ」の構成

はじめに チェルノブイリ原発事故と劇《石棺》/  一、「演じることと見ること」/ 二、劇《石棺》/ 三、映画《夢》と福島第一原子力発電所の事故/ 四、日本の原発行政と「表現の自由」

リンク劇《石棺》から映画《夢》へ

高浜原発に停止命令――21世紀のエネルギー政策への英断

大津地裁が「新基準で安全といえず」として、関西電力高浜原発3、4号機(福井県高浜町)の運転を差し止める決定をしました。

このことを報じた10日付けの「東京新聞」は、〈東京電力福島第一原発事故の原因究明が進んでいない状況を重視し、政府が「世界一厳しい」と強調する原子力規制委員会の新規制基準に「関電の主張や説明の程度では公共の安心、安全の基礎と考えるのはためらわざるを得ない」と疑問を呈した。〉ことを伝えるとともに、〈申し立てた住民は原発の半径約七十キロまでの範囲に居住。各地の原発で同じ条件を当てはめれば立地県外でも多くの自治体に影響し、広域被害の議論に一石を投じそうだ。〉と記しています。

「福島第一原発事故の避難生活による体調悪化などが原因の「震災関連死」は2月末時点で、岩手、宮城、福島3県で計3405人に上った」事実を伝えた「東京新聞」は、「11日で震災から丸5年。長期にわたる避難が、被災者の心身に影響し続けている」とも記しています。

「朝日新聞」(デジタル版)も大津地裁の決定を受けて、小泉元首相が、「国民の根強い原発に対する不安や、原発事故を起こしてはいけないという、国民の意思をよく受け止めたものではないか」と述べるとともに、高浜原発1、2号機の再稼働を、原子力規制委員会が例外扱いで認めたことを「安全第一といいながら、収益第一になっている」と批判したことも伝えています。

一方、実質的には原発事故による放射能「汚染水」問題さえも収束していないにもかかわらず、「アンダーコントロール」と世界に宣言していた安倍首相は、10日の記者会見で「原子力規制委員会が判断した世界最高レベルの新たな規制基準に適合した原発だけ再稼働を進めるとの一貫した方針に変わりない」と表明したとのことです。

しかし問題は、NHKの経営委員会などと同じように、安倍内閣の意向に忠実な者が選ばれているとしか思えない「原子力規制委員会」の判断自体が怪しくなって来ていることです。

明日は福島第一原子力発電所の大事故から5年を迎えますので、勇ましい言葉で「国民」を煽る一方で、利権を重視して「国民の生命や財産」に対しては責任を取ろうとしない安倍内閣の問題をとおして、21世紀のエネルギー政策を問う記事を書きたいと思います。

リンク→「原子力規制委員会」関連記事一覧

リンク→原発事故関連記事一覧

百田尚樹氏の「ノンフィクション」観と安倍政治のフィクション性

百田氏は2014年11月にツイッターで、〈たかじん氏の娘が出版差し止め請求の裁判を起こしてきた。裁判となれば、今まで言わなかったこと、本には敢えて書かなかったいろんな証拠を、すべて法廷に提出する。一番おぞましい人間は誰か、真実はどこにあるか、すべて明らかになる。世間はびっくりするぞ。〉と記していました。

その百田氏がノンフィクションを謳った『殉愛』(百田尚樹/幻冬舎)の第9回口頭弁論が、3月2日に東京地裁で開かれたとのことです(「リテラ」3月3日)。

この裁判の模様を伝えた記事は、作者の証言からは「むしろ、百田氏自身の“ずさんな取材”の実態ばかりが露呈した」と記していましたが、3月5日には「リテラ」は次のように報じています。

*   *   *

だが、百田氏は全く懲りていないらしい。4日に配信したメールマガジンで裁判報告をしているのだが、いきなりこう切り出したのだ。

〈その裁判は、私が書いた『殉愛』という小説に関係したものです。〉

え、小説!? この本は〈かつてない純愛ノンフィクション〉(『殉愛』帯の惹句)だったはずだが、小説だったの!? ……一応、百田氏はつづけて〈『殉愛』はやしきたかじん氏の最後の2年間を描いたノンフィクションです。〉とも書いているが、これは今後、「小説のつもり」とでも言い訳するための布石なのだろうか……。

*   *   *

問題は、売るためには「事実」をも歪めて書くことも許されるという「ノンフィクション」観を持つ小説家の百田氏が、安倍政権によって、「事実」を報道することが求められている「公共放送」のNHKの経営委員に任命されていたことです。

このブログでは「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』」と題した一連の記事で、「この小説のテーマは「約束」です。 /言葉も愛も、現代(いま)よりずっと重たかった時代の物語です。」との「著者からのコメント」の付けられたこの小説の構造が、「オレオレ詐欺」の手法ときわめて似ていることを指摘し、「言葉も命も、現代(いま)よりずっと軽かった時代の物語」を美化したこの小説の「詐欺」性に注意を促してきました。

同じようなことは、『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)の共著者でもある安倍晋三氏の政治にも当てはまるでしょう、

百田氏の著作の「フィクション性」や関係者の人々への「誹謗」や「中傷」が焦点になっているこの裁判は、戦前の標語と同じように「威勢が良く」、「美しい」スローガンによって原発事故の「事実」から眼を逸らし、「アベノミクス」の負の側面を隠している安倍政治の危険性をも暴露するものになっていると感じます。

 リンク→百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「殉国」の思想

リンク→〈「昭和初期の別国」と『永遠の0(ゼロ)』〉関連記事一覧

高市早苗総務相の「電波停止」発言と報道の危機――「私たちは怒っています!」

「環境の日」を知らなかった丸川珠代環境相が、メディアについて「自分の身を安全なところにおいて批判していれば商売が成り立つ」「文句は言うけど何も責任は取らない」などと批判的な発言していたことも報じられていました。

しかし、先ほども記したように、2013年6月18日に「東京電力福島第一原発事故で死者が出ている状況ではない」として原発の再稼働を求めて、「政治家を辞めるべき」と厳しい批判を浴びた高市氏が総務大臣となると、政権の独裁的な手法を批判するメディアを敵視して、恫喝的な発言を繰り返していることにはきわめて大きな問題があると思われます。

リンク→内務省の負の伝統」関連の記事一覧

このような状態にたいして、29日に日本記者クラブで記者会見を開いた金平茂平氏らのキャスターが「私たちは怒っています!」との声をあげ、「電波法停止発言は憲法、放送法の精神に反している」という声明を発表しました。

このニュースは昨日の、「朝日新聞」デジタル版で大きく報じられていましたが、今朝の「東京新聞」の「こちら特報部」でも、「息苦しさまん延」「負けられぬ戦い」などの見出しとともに大きく報じられていました。

この記事では田原総一朗氏が、高市氏の発言を「恥ずかしい発言で、全テレビ局の全番組が抗議すべきだ」と訴えたほか、鳥越俊太郎氏が「負ければ戦前のような大本営発表になる」と語ったことも伝えています。

一方、谷垣禎一幹事長は、27日放送のBS朝日の番組で「私はそういうことに自民党が踏み込んでいくのは非常に慎重で、それが自民党の放送政策だと思っている」と高市発言に否定的な考えを示したとのことです。

それならば、それまでの「自民党の放送政策」を否定し、独裁的な手法でメディアの自粛を強要している高市氏の即時罷免を安倍氏に進言すべきでしょう。自公両党にも良心的で骨のある議員は少なくないと思われますので、自分の選挙のためではなく孫や子の世代のことまで考えて、危険な安倍政権の実体を直視して頂きたいと願っています。

「環境の日」を知らない安倍内閣の環境相――無責任体制の復活(10)

国が除染の長期目標を年間被ばく線量一ミリシーベルト以下に定めたことに「何の根拠もない」と発言していた丸川珠代環境相が、発言を撤回して被災者に謝罪したものの引責辞任は否定した問題については、このブログでも取り上げていました。

リンク→宮崎議員の辞職と丸川環境相の発言撤回――無責任体質の復活(9)

その丸川大臣が1972年にストックホルムで開催された「国連人間環境会議」を記念して定められ、国連も「世界環境デー」と定めている「環境の日」を知らなかったことが22日午前の衆院予算委員会で明らかになりました。

さらに、15日の衆院予算委員会では丸川氏が7日の長野県松本市での講演で、環境省の仕事を「今まで『エコだ何だ』と言っていればよかった」などとも発言していたことも指摘されていました。ここには「国民の安全」よりも経済を優先する安倍政権に特有の考えが見られると思います。

*   *   *

この問題で思い起こされるのは、最近政権の判断で「電波停止」できるとして、激しい議論を巻き起こしている高市早苗元政調会長が、2013年6月18日に原発の再稼働について「東京電力福島第一原発事故で死者が出ている状況ではない」と、震災関連死を無視して原発再稼働を主張していたことです。

その際には、福島県内で大勢の震災関連死者が出ていることを挙げて「この数字の重さを理解できない人は政権を担う資格がない」との批判や、「深刻な原発事故への影響の認識が甚だ薄い。政治家を辞めるべきだ」との厳しい批判が出ていたのです。

*   *   *

乗客の生命を預かっている運転手の場合は、交通規則を知らなければ運転手になる資格がありませんし、居眠り運転をすればきびしく罰せられます。

「政治家を辞めるべき」と批判された高市氏が内務大臣的な権力を持つ総務大臣となると、政権の独裁的な手法を批判するメディアを敵視して、恫喝的な発言を繰り返していることにはきわめて大きな問題があると思われます。

国民の生命に関わる環境問題に無責任な発言をする大臣を任命したばかりでなく、このような発言のあとでも罷免できない安倍首相の責任はきわめて重いでしょう。

映画《風立ちぬ》論Ⅳ~Ⅵを「映画・演劇評」Ⅱに追加

 

映画《風立ちぬ》を論じた下記の記事が抜けていましたので、「映画・演劇評」Ⅱに追加します。

《風立ちぬ》論Ⅳ――ノモンハンの「風」と司馬遼太郎の志

映画《風立ちぬ》論Ⅴ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(1)

映画《風立ちぬ》論Ⅵ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(2)

 

なお、映画《風立ちぬ》と『永遠の0(ゼロ)』を比較した下記の3本の記事は、いずれ 「文明論(地球環境・戦争・憲法)」の3-2,「昭和初期の別国」に、掲載する予定です。

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠のO(ゼロ)』(1)

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(2)

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(3)

田中沙季氏の「現代に『カラマーゾフの兄弟』は可能か」を聴いて

第231回例会「傍聴記」

今回は2015年にチェーホフ記念モスクワ芸術座で上演されていた四時間半にわたるボゴモロフ監督の長大な劇『カラマーゾフ』を3回見た田中氏の発表で、配布された資料には「ゾシマの死を伝えるニュース番組」の場面や、舞台の上部だけでなく両脇の壁に設置された「左の眼」と「右の眼」に映った映像を示す小さなスクリ-ンの写真もあり、臨場感のある報告となった。

発表では役者の顔をクローズアップしたり、複数の視線を提供するなど映像技術を利用した舞台が詳しく紹介され、アリョーシャを演じたのが白髪の女優であり、スメルジャコフとゾシマを同一の俳優が演じるなど配役の特徴だけでなく、母親が悲しみを訴える場面でロックバンドの音楽が流れたり、グルーシェンカがカリンカを踊るなどの音楽を取り入れた場面が多いとの指摘もなされた。

さらに、俳優名のリストの一番下に「悪魔 ある」と記される一方で、アリョーシャと少年達との交流や大審問官の話、ゾシマの伝記などが省略されていたことに対しては、日本における『カラマーゾフの兄弟』の受容と比較して興味深いとの感想や「『悪魔』的にドストエフスキーを読む」ことの面白さを強調する意見が出された一方で、果たしてこれがドストエフスキー劇と呼べるのだろうかといった率直な疑問も出された。実は、私も監督の意図がなかなかつかめずに、この劇も大衆受けするようにセンセーショナルに作られているのかもしれないと戸惑いながら聞いていた。

しかし、千葉大学で行われた国際研究集会で「ドストエフスキイの終末論――地獄の克服」(『ドストエーフスキイ広場』第10号参照)という題の講演をした研究者サラスキナが記したこの劇への肯定的なコメントや、配付資料ではあまり詳しく記されていなかった劇の筋が、参加者の質問に対する答えから明らかになるにつれて印象が変わった。

すなわち、監督のボゴモロフが自分の劇の題名からロシア語でも「同胞愛(ブラーツトヴォ)」という単語の語源となっている「兄弟(ブラーチヤ)」という単語を削除して『カラマーゾフ』と名付けていることに注意を促したサラスキナはコメントで、この題名は「『同胞愛』が存在するためには、『兄弟』が必要だというドストエフスキーの言葉に合致している」と記していた。

実際、この劇では最後にアリョーシャがリーザと心中するだけではなく、イヴァンも死にドミートリイも死刑になって、スメルジャコフのみが生き残り、ゾシマ二世ともいうべき役割を果たしていたのである。つまり、登場人物や基本的な筋は原作に拠りながらも、監督は後半の筋を大きく変えることで重たい問題提起をしていたと思える。

会場からはモスクワ芸術座だけでなくタガンカ劇場でも演出した鈴木忠志監督についての指摘もあったが、「宗教と政治との癒着」を批判する劇も上演していたボゴモロフ監督が、プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』も上演していたことを知って、ロシアの演劇界で一世を風靡したタガンカ劇場のリュビーモフ監督も権力者の「良心の呵責」を描いたこの劇を上演していたことを思い出した。ことに劇『巨匠とマルガリータ』(ブルガーコフ作)でリュビーモフは、悪魔の口をとおして、今あなた方は物質的には多少豊かになったかもしれないが、精神的にはどうかという鋭い問いを発していたのである。

懇親会では劇『カラマーゾフ』には、ドストエフスキーを深く敬愛し、オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』の演出も行っていたタルコフスキー監督の映画《惑星ソラリス》を示唆するような場面があることもわかり、会話が盛り上がった。実際に見ていないので断定はできないが、「卑俗的なものが付加され、聖なるものが排除されている」この劇も、タガンカ劇場などの前衛的なロシア演劇や映画の伝統を踏まえつつ、原作のテーマをしっかりと受け継いでいる可能性があると思われる。タガンカ劇場の熱気が思い出されるような知的刺激に富んだ報告であった。              

 

ドストエーフスキイの会「第232回例会のご案内」

ドストエーフスキイの会「第232回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.133)より転載します。

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第232回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                      

日 時2016年3月19日(土)午後2時~5時           

場 所場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)

       ℡:03-3402-7854

 報告者:芦川進一 

 題 目:「悪魔が明かすモスクワのイワン」

―「ロシヤの小僧っ子」が辿った「神と不死」探究の足跡―

*会員無料・一般参加者=会場費500円

報告者紹介:芦川進一(あしかわ しんいち)

1947年、静岡県生まれ。東外大(仏語)、東大大学院(人文科学研究科・比較文学比較文化)。津田塾大学講師を経て現在河合塾英語科講師・河合文化教育研究所研究員。研究テーマはドストエフスキイにおけるキリスト教思想。翻訳(共訳)『イエス・キリスト』(小学館、1979)。著書『隕(お)ちた「苦(にが)艾(よもぎ)」の星』(1997)、『「罪と罰」における復活』(2007)、『カラマーゾフの兄弟論』(2016)[以上三冊は河合文化教育研究所]、『ゴルゴタへの道』(新教出版社、2011)。河合文化教育研究所のHPに「ドストエフスキイ研究会便り」を掲載中

http://bunkyoken.kawai-juku.ac.jp/reserch/dosuto.html

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第232回例会報告要旨

 「悪魔が明かすモスクワのイワン」

   ―「ロシヤの小僧っ子」が辿った「神と不死」探究の足跡―                             

芦川進一

『カラマーゾフの兄弟』第五篇第3章、故郷家畜追込町の居酒屋「みやこ」で、イワンは弟アリョーシャにこう語ります。

「俺もお前と同じロシアの小僧っ子だ。[中略]そういう連中が、飲み屋でわずかな時間を捉えて何を論じると思う?他でもない、神はあるかとか、不死は存在するかとかいう世界的な問題なのだ」

次兄イワンをどのように捉えたらよいのか。この問題は私にとって長い間大きな課題であり続けてきました。このたび書き上げた本で、私はこの青年の原点はやはりこの言葉にあると考え、彼の思想と行動の一切を「ロシヤの小僧っ子」による「神と不死」探究の旅、一貫したイエス像探求の過程として捉えようと試みました(『カラマーゾフの兄弟論―砕かれし魂の記録―』)。イワンばかりかカラマーゾフの兄弟四人が向かう方向とは、突き詰めれば神存在の問題に他ならず、これは作者ドストエフスキイ自身の人生を貫く究極の問題であり、私自身改めてこの方向での思索を深める必要を痛感させられました。

ところでイワンの思想と行動を捉える大きな手掛かりは、「肯定(プロ)と否定(コントラ)」と題された第五篇のアリョーシャとの対決にあり、そこで弟から「反逆」と呼ばれる思想であることは明らかです。しかしこれに加えて作者は、イワンという人物を知るもう一つ大きな手掛かりを提供してくれています。第十一篇第9・10章に描かれた悪魔との対決です。作品の終り近く、裁判を明日に控えての悪魔の登場。これはスメルジャコフによって父親殺しの罪を決定的に自覚させられ、裁きの場での自白を決意したイワンの心に生じた猛烈な反動、「揺れ戻し」と言うべきもので、この時イワンの心は、悪魔との問答という形で、もう一度「大審問官」や「地質学的変動」の思想を生み出した頃の自分、モスクワ時代の自分に立ち帰ろうとしているのだと考えられます。つまりイワンは、神の否定に続き「キリストの愛」をも否定し、自分自身を「一切が許されている」神とするに至った頃の自分、力に満ち溢れたモスクワでの自分を呼び戻そうとしているのです。

錯綜し、飛躍と韜晦に満ちた捉え難い悪魔の言表。しかしそこに散りばめられた情報を丁寧に拾い集めてゆくと、イワンがモスクワで辿った思索の足跡を時系列的な線上に再構成することが可能となります。その結果、悪魔が明かすモスクワでのイワンと、アリョーシャと対決する家畜追込町でのイワンとが、ちょうど表裏一体の合わせ鏡のようになって、その思想の全体像が立体的に浮かび上がり、イワン造型に当たる作者ドストエフスキイの構想も相当明瞭になってくるように思われます。

周知の如くイワンとは「自己矛盾的存在」(西田幾多郎)と呼ばれるように、その思想も行動も「肯定と否定」の間に激しく分裂し、この上なく捉え難い存在です。しかし以上のような方法論で(悪魔とアリョーシャの導きによって!)アプローチする時、その矛盾・分裂の奥からは「神と不死」の熱烈な探究者イワンの瑞々しい姿が現れ出て、この存在がいわば弁証法的なドラマ性を持った生成途上にある「ロシヤの小僧っ子」であることが明らかとなります。ここから見る時、イワンとその「前衛的肉弾」スメルジャコフとの関係、他の兄弟たちとの関係、またゾシマ長老や父フョードルやリーザとの関係にも新たな光が当たり、『カラマーゾフの兄弟』へのより大きな視野も開けて来るでしょう。

例会では何よりもまず、このモスクワにおけるイワンの思想形成のドラマを具体的に提示するように努めたいと思います。そこから新たに開かれるカラマーゾフの世界への展望を検討し、時間が許せば、更にドストエフスキイ文学の根幹をなすユダ的人間論とキリスト論の問題にまで言及できればと思っています。

*   *   *

「事務局便り」は、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

前回例会の「傍聴記」は、「ブログ」のページに掲載します。

「原子力規制委員会」関連記事一覧

先ほど、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切って居直っていた日本の代表的な知識人・小林秀雄の「道義心」の問題を論じた記事をアップしました。

この問題は再稼働を許可した安倍政権の閣僚やことに「原子力規制委員会」に深く関わりますので、「原子力規制委員会」関連記事一覧を掲載します。

 

「原子力規制委員会」関連記事一覧

「僕は無智だから反省なぞしない」――フクシマ後の原発再稼働と知識人・小林秀雄

パグウォッシュ会議の閉幕と原子炉「もんじゅ」の杜撰さ

原子力規制委・田中委員長の発言と安倍政権――無責任体質の復活(6)

川内原発の再稼働と新聞『小日本』の巻頭文「悪(に)くき者」

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)

「アベノミクス」と原発事故の「隠蔽」

御嶽山の噴火と川内原発の再稼働――映画《夢》と「自然支配」の思想

「放射能の除染の難しさ」と「現実を直視する勇気」

真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して

「僕は無智だから反省なぞしない」――フクシマ後の原発再稼働と知識人・小林秀雄

今日(2月27日)の「東京新聞」朝刊は、原発事故に関する二つの記事を一面のトップで伝えています。最初の記事は「高浜4号機 不安の再稼働 冷却水漏れ直後、予定通り」という大見出しと、「問われる責任 福島事故 生きない教訓」という見出しとともに掲載された下記の記事です。

*   *   *

〈関西電力は二十六日、高浜原発4号機(福井県高浜町)を再稼働させた。福島第一原発事故後の原子力規制委員会の新規制基準下では、九州電力川内(せんだい)原発1、2号機(鹿児島県)、高浜原発3号機に続き二カ所四基目。4号機では二十日、原子炉補助建屋でボルトの緩みが原因で放射性物質を含む一次冷却水漏れが起きたが、関電は同様の弁を点検するなど対策を済ませたとして、当初予定通りの日程で再稼働させた。〉

もう一つは「東電元会長ら3人 29日に強制起訴」という見出しの次のような記事です。

〈東京電力福島第一原発事故で、東京第五検察審査会から二度、起訴すべきとの議決を受けた東電の勝俣恒久元会長(75)ら旧経営陣三人について、検察官役の指定弁護士が二十六日に会見し、三人を二十九日に業務上過失致死傷罪で、在宅のまま強制起訴することを明らかにした。〉

*   *   *

これらの記事を読みながら思い出したのは、敗戦後の1946年に戦前の発言について問い質されて、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語り、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切って居直っていた日本の代表的な知識人・小林秀雄のことです(下線は引用者)。

なぜならば、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と長編小説『罪と罰』を解釈した文芸評論家の小林秀雄の著作が、自民党の教育政策により教科書や試験問題でも採り上げられることにより「利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」という道徳観が広まったことで、自分の発言に責任を持たなくともよいと考える政治家や社長が増えたと思えるからです。

しかも、1948年の8月に行われた物理学者・湯川秀樹博士との対談「人間の進歩について」で、「私、ちょうど原子爆弾が落っこったとき、島木健作君がわるくて、臨終の時、その話を聞いた。非常なショックを受けました」と切り出した小林秀雄は、「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」と語り、「原子力エネルギー」の危険性を指摘してこう続けていたのです。

「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」。

当時としてはきわめて先見の明のある発言だと思われますが、問題は「僕は無智だから反省なぞしない」と啖呵を切ることで戦争犯罪の問題を「黙過」していた小林が、原発の推進が「国策」となると今度は「原子力エネルギー」の危険性をも「黙過」するようになっていたことです。

それゆえ、代表的な知識人である小林が「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と発言していた文章を読み直したときには、「僕は政治的には無責任な一国民として事変に処した」と発言しているのと同じだと感じたのですが、小林秀雄の「道義心」の問題は「国民の生命」に関わる「原子力規制委員会」とも深く関わっています。それゆえ、再稼働を許可した「原子力規制委員会」関連記事一覧も次のブログで掲載します。

なお、自分の言葉がスメルジャコフに「父親殺し」を「使嗾」していたことに気づいたイワンが、深い「良心の呵責」に襲われ意識混濁や幻覚を伴う譫妄症にかかったと描かれている『カラマーゾフの兄弟』については、→アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』」を参照してください。  

追記:大岡昇平と埴谷雄高との対談「二つの同時代史」を読んだところ、この有名な台詞がその場で語られたものではなく、あとで付け足された文章であることを知った。その箇所を引用しておく。

大岡 小林秀雄で思い出したけれども「近代文学」が小林を呼んでやった座談会のときのあとで物議を醸した台詞があるだろう。自分は黙って事件(ママ)に処した、利口なやつはたんと後悔すればいい、というやつ。

埴谷 ああ、それは、小林さんは座談会のときは言ってなくて、あとで書いたものなんだよ。だいたい小林さんは座談会の原稿は全部書き直して、はじめの言葉は一つもないくらいだよ。

大岡 しかし、小林の「黙って事件に処した」はあまりあてにならないな。黙って事件に処してはいないよ、あいつ(笑い)。 (……)座談会では日米けんかしたらむろん勝つさ、なんていっている。

(『大岡昇平全集』別巻、筑摩書房、211~212頁、2019年5月7日、加筆、リンク先を追加)

 

「原発再稼働問題」関連記事一覧

パグウォッシュ会議の閉幕と原子炉「もんじゅ」の杜撰さ

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御嶽山の噴火と川内原発の再稼働――映画《夢》と「自然支配」の思想

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