高橋誠一郎 公式ホームページ

活動

テキストからの逃走――小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」を中心に (発表要旨)

 

作家の坂口安吾が、戦後間もない1947年に著した「教祖の文学 ――小林秀雄論」で、「思うに、小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と書き、小林秀雄が「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったと厳しく批判したことはよく知られている(『坂口安吾全集 5』、筑摩書房、1998年、239~243頁)。

しかし、小林秀雄とも同人誌『文科』の同人だった坂口は、この評論において「日本は小林の方法を学んで小林と一緒に育つて、近頃ではあべこべに先生の欠点が鼻につくやうになつたけれども、実は小林の欠点が分るやうになつたのも小林の方法を学んだせゐだといふことを、彼の果した文学上の偉大な役割を忘れてはならない」とも記していた(同上、232~233頁)。

実際、「『未成年』の独創性について」(1933)と題された論考など初期の論考にはきわめて深いドストエフスキー作品の理解が見られ、また『カラマアゾフの兄弟』論(1941)における「この最後の作も、まさしく行くところまで行つてゐる。完全な形式が、続編を拒絶してゐる」との適確な指摘は、現在の通俗的な理解をも凌駕しているといえるだろう(『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、170頁。以下、全集からの引用に際しては旧漢字を新漢字になおすとともに、本文中の括弧内に頁数をアラビア数字で示した)。

それゆえ、本稿では小林秀雄が何も語らなかった黒澤映画《白痴》(1951)を参考にしながら、ドストエフスキーの作品と小林秀雄の評論とを具体的に比較することによって、小林のドストエフスキー論の意義と問題点を検証したい。

*   *   *

最初に『永遠の良人』論と『未成年』論における小林の独創的な分析とその特徴を確認する。次に小林秀雄が「『罪と罰』についてⅠ」では、『地下室の手記』の主人公の言説とドストエフスキー自身とを結び付けることで、ドストエフスキーが前期の作品と訣別しそれまでの「理性と良識」を捨てたと主張したシェストフの『悲劇の哲学』からの強い影響を受け始めていることを明らかにする。

すなわち、「第六章と終章とは、半分は読者の為に書かれたのである」と書いた小林は〔53〕、この評論の終わりで「ドストエフスキイは遂にラスコオリニコフ的憂愁を逃れ得ただらうか」と読者に問いかけていたのである〔63〕。

次の「『白痴』についてⅠ」で小林は、『罪と罰』の終りで「作者が復活の曙光とよんでゐるものは、恐らく僕等が一般に理解してゐる復活、即ち精神上の或は生活上のどういふ革新にも縁のないものだ」とラスコーリニコフの「悔悟」を否定し、「ラスコオリニコフは生きのびて来たドストエフスキイその人に他ならぬ」と断言していた〔83~84〕。

このような小林の解釈は、戦争に向けて走り出していた当時の日本社会では多くの読者に受け入れられた。なぜならば、「非凡人」には「悪人を殺す」ことも許されると考えて「高利貸しの老婆」を殺害したラスコーリニコフが、シベリアで自分の罪を深く反省してしまっては、「自国の正義」のために「敵」と戦う「戦争」も否定されることになってしまうからである。

最も問題なのは、『罪と罰』との連続性を強調するために小林が「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」とテキストとは全く違う、読者の予想を超えるような大胆な解釈をしていたことである〔傍線引用者、63〕。

「『白痴』についてⅠ」もこのような解釈に従って記述されているが、シベリアから帰還したことになると、ムィシキンが治療を受けていたスイスの村で体験したマリーのエピソードがなくなることで、判断力がつく前に妾にされていたナスターシヤの心理や行動を理解することが難しくなる。さらには、ムィシキンが西欧で見たギロチンによる死刑の場面もなくなり、『白痴』における主要なテーマの一つである「殺すなかれ」というイエスの言葉と、近代西欧文明の批判も読者の視界から抜け落ちてしまうことになる。

『白痴』のテキストが具体的に分析されている「『白痴』についてⅠ」の第三章で、小林は「ムイシュキンの正体といふものは読むに従つていよいよ無気味に思はれて来るのである」と書き、簡単な筋の紹介を行ってから「殆ど小説のプロットとは言ひ難い」と断じている〔87~88〕。しかし、それはスイスでのエピソードが省かれているばかりでなく、筋の紹介に際しても重要な登場人物が意図的に省略されているために、ムィシキンの言動の「謎」だけが浮かび上がっているからだと思われる。

*   *   *

研究者の相馬正一は、「教祖の文学」で「面と向かって評論界のボス・小林秀雄」を初めて「槍玉に挙げた」坂口安吾が、その直前に書いた「通俗と変貌と」(1947)でも、小林を「実は非常に鋭敏に外部からの影響を受けて、内部から変貌しつづけた人であり」、「勝利の変貌であるよりも、敗北の変貌であったようだ」と書いていたことを指摘している(『坂口安吾 戦後を駆け抜けた男』人文書館)。

領土問題などをめぐって近隣諸国との軋轢が強まっている現在、小林秀雄の評論が再び脚光を浴び始めている。本発表では坂口安吾のリアリズム観も紹介しながら具体的に小林の文章を引用しつつ論じることで、小林秀雄のドストエフスキー論の意義と問題点を明らかにしたい。忌憚のないご意見やご批判を頂ければ幸いである。(再掲に際しては、読みやすいように文体的な改訂を行った)。

「トルストイで司馬作品を読み解く――『坂の上の雲』と『翔ぶが如く』を中心に」(レジュメ)

 

Ⅰ.トルストイの受容と司馬遼太郎

a.「小さくなった」トルストイ――森鴎外『青年

「……日本人は色々な主義、色々なイズムを輸入して来て、それを弄んで目をしばだたいてゐる。何もかも日本人の手に入っては小さいおもちやになるのであるから、元が恐ろしいものであつたからと云つて、剛(こは)がるには当らない。何も山鹿素行や、四十七士や、水戸浪士を地下に起して、その小さくなつたイブセンやトルストイに対抗させるには及ばないのです」(『青年』)。

b.夏目漱石とトルストイの民話『イワンの馬鹿』

「どうかしてイワンの様な大馬鹿に逢つて見たいと存候。出来るならば一日でもなつて見たいと存候。近年感ずる事有之イワンが大変頼母しく相成候。イワンの教訓は西洋的にあらず寧ろ東洋的と存候」(内田魯庵訳の『イワンの馬鹿』への礼状)。

c.夏目漱石の日露戦争観と司馬遼太郎

長編小説『三四郎』で、夏目漱石は自分と同世代の登場人物広田先生に、「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」と語らせているばかりでなく、「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」とした三四郎の反論にたいしては「亡びるね」と断言させていた。

司馬遼太郎は、広田の「予言が、わずか三十八年後の昭和二十年(一九四五)に的中する」と指摘して、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と絶讃していた(『本郷界隈』『街道をゆく』第37巻)。

d.『坂の上の雲』から『翔ぶが如く』へ――「坂」という単語の両義性

「この時期、歴史はあたかも坂の上から巨岩をころがしたようにはげしく動こうとしている」(『翔ぶが如く』、第3巻「分裂」)。

 

Ⅱ.日本の近代化のモデルとしてのロシア――トルストイのドストエフスキー観

  a.徳冨蘆花の『トルストイ』と『戦争と平和』論

「露国政治上の圧政は万の迹出口を塞いで内に燃え立つ満腔の不平感懐は仮寓文字の安全管を通じて出るの外なかったのである」。

「『戦争と平和』は実に奈翁入寇前後露国社会の大パノラマである」。「花やかな人形の斬合や、小供役者の真似芝居でなくて、活人間の動く活社会が歴々と浮み出る」。

 b.司馬遼太郎の正岡子規観と徳冨蘆花観

  「少年のころの私は子規と蘆花によって明治を遠望した」(『この国のかたち』)。

 c.トルストイの『戦争と平和』観とダニレフスキーの評価

「愛国に過ぎたる所あり」(徳冨蘆花「順禮紀行」)。

ロシアの思想家ダニレフスキーは、大著『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的および政治的諸関係の概要』で、トルストイの『戦争と平和』を高く評価しながら、大国フランスに勝つことによって抑圧されていたスラヴの諸民族にも独立の気概を与えたと「祖国戦争」の意義を讃えていた。

d.トルストイの『罪と罰』観と「大地(土壌)主義」の評価

「甚佳甚佳(はなはだよし、はなはだよし)」(徳冨蘆花「順禮紀行」)。

「当時のロシアの現実は貴族であろうと民衆であろうと破滅させてしまうような厳しいもの」であり、「トルストイが情熱を注いだ教育活動は、貴族と民衆の融合・調和を目指していました」(川端香男里『100分de名著、トルストイ「戦争と平和」』)。

「われわれはこの上なく注目に値する重大な時代に生きている」としたドストエフスキーも、ピョートル大帝による「文明開化」以降に生まれた「民衆」と「知識人」との間の断絶を克服するためには、農奴制の中で遅れたままの状態に取り残されている民衆に対する「教育の普及」こそが「現代の主要課題である」と強調していた。

e.トルストイと『死の家の記録』――近代の制度としての法律、監獄、病院

「数日来病気で、暇にまかせて『死の家』を読みました。我を忘れてあるところは読み返したりしましたが、近代文学の中でプーシキンを含めてこれ以上の傑作を知りません。作の調子ではなく、観点に驚いたのです。誠意にあふれており、自然であり、キリスト教的で、申し分のない教訓の書です」(批評家のストラーホフへの手紙)。

f.『アンナ・カレーニナ』とドストエフスキーの『作家の日記』

「『アンナ・カレーニナ』は芸術作品としては、まさに時宜を得てさっと現われた完成された作品であって、現代のヨーロッパ文学中、何ひとつこれと比べることができないような作品である。第二に、これはその思想的内容から言って、何ともロシア的なものである。われわれ自身と血でつながっているものである」(『作家の日記』)。

しかし、主人公のリョーヴィンが次のように語る箇所を引用したドストエフスキーはトルコによる大量虐殺を指摘しながら、次のような考えをそれは「復讐」ではないと厳しく批判している。

「……自分の兄をもふくむ数十人の人びとが、首都からやって来た何百人かの口達者な義勇兵たちの話を根拠にして、民衆の意志と思想とを表現しているのは、新聞と、それから自分たちであると揚言する権利をもっているという考えには、彼はとうてい同意することはできなかった。しかもその思想たるや、復讐と殺人とによって表現されるものではないか。」

g.トルストイの『白痴』観と『イワンの馬鹿』

「その値打ちを知っている者にとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」(『白痴』の主人公ムィシキン評)。

 

Ⅲ.『坂の上の雲』における「教育」と「軍隊」の制度の考察

a.「二つの祖国戦争」――『戦争と平和』の最近の評価と『坂の上の雲』

ロシア語書籍の最良作品リストのアンケート。

1位、トルストイ『戦争と平和』、32パーセント。

3位、ドストエフスキー『罪と罰』、16パーセント。

(2位、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』、19パーセント。)

b.トルストイの困惑と司馬遼太郎の德富蘆花観

「日露戦争そのものは国民の心情においてはたしかに祖国防衛戦争であった」が、「近代を開いたはずの明治国家が、近代化のために江戸国家よりもはるかに国民一人々々にとって重い国家をつくらざるをえなかった」。「蘆花は、そういう国家の重苦しさに堪えられなかった。かれは国家が国民に対する検察機関になっていくことを嫌悪」した(『坂の上の雲』「あとがき五」)。

c.『戦争と平和』における主人公と作品の構成

d.『坂の上の雲』における主人公と作品の構成

e.ピエールの戦争観察と正岡子規の従軍

f.『坂の上の雲』における「普仏戦争」の考察

「プロシャ憲法をまねした」明治憲法には、「天皇は陸海軍を統率するという一項があり、いわゆる統帥権は首相に属して」おらず、「作戦は首相の権限外」だった。

「首相の伊藤博文も陸軍大臣の大山巌もあれほどおそれ、その勃発をふせごうとしてきた日清戦争を、参謀本部の川上操六が火をつけ、しかも手ぎわよく勝ってしまった」が、「昭和期に入り、この参謀本部独走によって明治憲法国家がほろんだことをおもえば、この憲法上の『統帥権』という毒物のおそるべき薬効と毒性がわかるであろう」(第2巻「日清戦争」)。

 

Ⅳ.『坂の上の雲』の広瀬武夫と『戦争と平和』

a.『坂の上の雲』における秋山真之の親友・広瀬武夫

「少尉当時からロシアに関心をもち、ロシア語を独習」していたために、兵学校の卒業席次がきわめて劣等だったにもかかわらず、ロシアに派遣された。広瀬武夫がロシアでは、「プーシキンの詩の幾編かを漢詩に訳したり、ゴーゴリの『隊長ブーリバ』」やアレクセイ・トルストイの全集に熱中するなど「日本人としては、ロシア文学をロシア語で読むことができたごく初期のひとびとの一人であろう」(第3巻「風雲」)。

b.「軍神・西住戦車長」と広瀬武夫

菊池寛の『西住戦車長伝』によりながら、「西住小次郎が篤実で有能な下級将校であったことはまちがいない」としながらも、西住戦車長が「軍神」になりえたのは、陸軍が「軍神を作って壮大な機甲兵団があるかのごとき宣伝をする必要があった」からであると冷徹な記述をした司馬氏は、その一方で比較文学者の島田謹二が描いた『ロシヤにおける広瀬武夫』を読んで「この個性的な明治の軍人がすぐれた文化人の一面をもっていたことを知った」と続けている(「軍神・西住戦車長」)。

c.広瀬武夫と『知恵の悲しみ』

トルストイの『復活』を読み、「叙事詩『ルスランとリュドミーラ』を脚色したミハイル・グリンカの楽劇をマリヤ座でみた」広瀬は、帝政ロシアの貴族社会を痛烈に批判してデカブリストたちにも影響を与えた「グリボエードフの『知恵の悲しみ』を見にいった。モスクワの上流社会を舞台にした風俗劇だ。…中略…セリフは口語にちかい言葉でありながら、りっぱな詩になっているのが耳にこころよい」との感想も記していた(『ロシアにおける広瀬武夫』)。

d.広瀬のロシア観とピエールへの共感

「いろいろな方面で、せまかった私の眼をロシヤは開いてくれました」と語った広瀬は、「あのころは日本からもっていった日本人の眼で、ロシヤの風俗を外から眺めて、日本人の心で判断して、笑ったり怒ったりしていたのだと思います」とし、「国家としては、日本の恐るべき敵でしょうが、個人的な交際を考えると、いい人が多いですな」とも続けたことが描かれている。

「とうとう僕も『戦争と平和』をよみあげました」と語った広瀬は『戦争と平和』の構造について、「ずいぶん長いもので、はじめは迷宮にはいったよな気がしましたが、だんだん家族と家族の結びつきがわかってきました。しまいにはボルコンスキー家と、ロストフ家の人々が記録の中からぬけだして、生きてきました」と分析した。

そして、「ピエール・ベズーホフがことにいい。結婚に失敗して、社交界のつまらぬことを知るでしょう。それから生き甲斐のあるものをいろいろ求めるでしょう。…中略…わが命一つをなげだして、圧制者ナポレオンを暗殺しようとするでしょう。あすこがいい」と、広瀬は激賞したと描かれている。

その言葉を聞いた川上が笑いながら、「君にもピエールのようなところがあるよ」というと、「そう。理想家というのでしょうね。ピエールは、神秘家でもなければ、聖者でもありません。ただ心をきよくして単純な生き方をしているうちに、満ちわたる生命(いのち)の光をあびたんです。澄んだ眼をしている男と書いてありますね。……」と分析した広瀬は、「日本の将校だから、日本のために戦うのは当然だが、同時に、ロシヤにも報いるような道をみつけたい。それが人道というものでしょうね」と続けたと描かれている。

e.『坂の上の雲』における『セヴァストーポリ』への言及

トルストイは「下級将校として従軍」して「籠城の陣地で小説『セヴァストーポリ』を書き、愛国と英雄的行動についての感動をあふれさせつつも、戦争というこの殺戮だけに価値を置く人類の巨大な衝動について痛酷なまでののろいの声をあげている」(第5巻「水師営」)。

 

Ⅴ.『翔ぶが如く』における「内務省」と「法律」の考察

a.「藩閥政治」の腐敗と「征韓論」

「孤絶した環境にある日本においては、外交は利害計算の技術よりも、多分に呪術性もしくは魔術性をもったものであった」。「明治初年になってふたたび朝鮮問題がもちあがったとき、桐野(利秋)など多くの壮士的征韓論者は、(豊臣)秀吉の無知の段階からすこしも出ていなかった」と続けている(括弧内は引用者の補注、第1巻「情念」)。

b.内務省の問題と木戸孝允の危惧

大久保利通は「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立しようとした」(第1巻「征韓論」)。

「内務省は各地方知事を指揮するという点で、その卿たる者は事実上日本の内政をにぎってしまうということになる。知事は地方警察をにぎっている。従って内務卿は知事を通して日本中の人民に捕縄(ほじょう)をかけることもできる」(第1巻「小さな国」)。

幕末に活躍していた木戸孝允(桂小五郎)には、「内務省がいかにおそるべき機能であるかということ」を「十分想像できた」ので、「欧州から帰ったあと憲政政治を主唱」した(第2巻「風雨」)。

 c.正岡子規の退寮問題と与謝野晶子の批判

内務官僚の佃一予が、「常磐会寄宿舎における子規の文学活動」を敵視し、「正岡に与(くみ)する者はわが郷党をほろぼす者ぞ」と批判したことを紹介した司馬は、「官界で栄達することこそ正義であった」佃にとっては、「大学に文科があるというのも不満であったろうし、日本帝国の伸長のためにはなんの役にも立たぬものと断じたかったにちがいない」とし、「この思想は佃だけではなく、日本の帝国時代がおわるまでの軍人、官僚の潜在的偏見となり、ときに露骨に顕在するにいたる」と続けている。

実際、日露戦争の最中に『君死にたまふことなかれ』を書いた与謝野晶子は、評論家の大町桂月によって「教育勅語」を非議したと激しく批判されることになる。

d.明六社と新聞紙条例

「『明六雑誌』は創刊の明治七年以来、毎月二回か三回発行されたが、初年度は毎号平均三千二百五部売れたという。明治初年の読書人口からいえば、驚異的な売れゆきといっていい。しかしながら、宮崎八郎が上京した明治八年夏には、この雑誌は早くも危機に在った」(第5巻「明治八年・東京」)。

「明治初年の太政官が、旧幕以上の厳格さで在野の口封じをしはじめたのは、明治八年『新聞紙条例』(讒謗律)を発布してからである。これによって、およそ政府を批判する言論は、この条例の中の教唆扇動によってからめとられるか、あるいは国家顛覆論、成法誹毀(ひき)ということでひっかかるか、どちらかの目に遭った」。

e.中江兆民と宮崎八郎――「壮士」から「民権論者」へ

「宮崎八郎は本来、思想的体質のもちぬしであったが、しかし文明とはたとえば人類共通の思想であるということを、この時期、わずかでも思ったことがない」(第5巻「壮士」)。

宮崎八郎がルソーの『民約論』を中江兆民訳で読んだ後では「泣いて読む、廬騒(ルソー)民約論」と「あたかも雷に打たれたような感動を発し」て大きく変わることを指摘した司馬は、「幕末にルソーの思想が入っていたとすれば、その革命像はもっと明快なものになっていたにちがいない。中江兆民という存在が、十五年前に出ていれば、明治維新という革命に、おそらく世界に共通する普遍性が付与されたに相違ない」と続けていた(第5巻「肥後荒尾村」)。

f.『坂の上の雲』から『翔ぶが如く』へ――近代国家の「原形」の考察

西南戦争がおさまったあとで、「もういっぺんこんなことがあったら明治政府はしまいだ」と考えた山県有朋がその翌年に「軍人訓戒」を出し、さらに西南戦争から五年たった明治15年には軍人勅諭が出されたが、それは「教育勅語」へと直結しているように見える。

デカブリスト事件を書き始めたトルストイが、その原点となった「祖国戦争」の時代へと関心を深めて『戦争と平和』を書くことになることはよく知られている。『坂の上の雲』で正岡子規の退寮問題で内務官僚にふれていた司馬も、その原点ともいうべき明治初期の時代を『翔ぶが如く』で描いたといえるだろう。

 

おわりに――「小さくされた」司馬遼太郎

学徒動員で満州の戦車部隊に配属された司馬遼太郎は、「防衛と日本史」という講演で、「日露戦争が終わると、日本人は戦争が強いんだという神秘的な思想が独り歩きした。小学校でも盛んに教育が行われた」が、自分もそのような教育を受けた「その一人です」とし、「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析している(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

『坂の上の雲』を書く中で近代戦争の発生の仕組みや近代兵器の威力を観察し続けていた司馬は、「日本というこの自然地理的環境をもった国は、たとえば戦争というものをやろうとしてもできっこないのだという平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが、「大事なように思える」とも書いていた(「大正生れの『故老』」『歴史と視点』)。

さらに司馬は自衛隊の海外への派遣には強く反対して、「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである」と記している(『歴史の中の日本』)。

ここには『イワンの馬鹿』を高く評価した夏目漱石と同じようなトルストイの深い理解が反映されているように思える。

 

主な参考文献

阿部軍治『〔改訂増補版〕徳富蘆花とトルストイ――日露文学交流の足跡』、彩流社、2008年。

阿部軍治『白樺派とトルストイ――武者小路実篤・有島武郎・志賀直哉を中心に』、彩流社、2008年。

梅棹忠夫『近代世界における日本文明――比較文明学序説』、中央公論社、2000年。

大木昭男『漱石と「露西亜の小説」』ユーラシア・ブックレット、東洋書店、2010年。

川端香男里『100分de名著、トルストイ「戦争と平和」』、NHK出版、2013年。

グロスマン著、松浦健三訳編「年譜(伝記、日記と資料)『ドストエフスキー全集』(別巻)、新潮社、1980年。

司馬遼太郎『坂の上の雲』(全8巻)、文春文庫、1978年。

司馬遼太郎『「昭和」という国家』、NHK出版、1998年。

司馬遼太郎『翔ぶが如く』(全8巻)、文春文庫(新装版)、2002年。

島田謹二『ロシアにおける広瀬武夫』(上下)朝日選書、1976年。

Данилевский,Н.Я., Россия и Европа. СПб.,изд.Глагол и изд.С-Петербургского университета, 1995.

徳冨蘆花『トルストイ』(『徳冨蘆花集』第1巻)、日本図書センター、1999年。

徳冨蘆花「順禮紀行」、『明治文學学全集』(第42巻)、筑摩書房、昭和41年。

ドストエフスキー著、川端香男里訳『作家の日記』(『ドストエフスキー全集』第17巻~第19巻)、新潮社、1980年。

トルストイ著、藤沼貴訳『戦争と平和』(全6巻)、岩波文庫、2006年。

ヒングリー著、川端香男里訳『19世紀ロシアの作家と社会』、中公文庫、1984年。

藤沼貴『トルストイ』、第三文明社、2009年。

藤沼貴『トルストイ・クロニクル――生涯と活動』、ユーラシア・ブックレット、東洋書店、2010年。

法橋和彦『古典として読む 「イワンの馬鹿」』未知谷、2012年。

柳富子『トルストイと日本』、早稲田大学出版会、1998年。

米川哲夫「第四回日ソシンポジウムに参加して――報告の要約と雑感」『ソヴェート文学』第95号、群像社、1986年。

日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって

287-8

(高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房の表紙。図版はオムスクの監獄)

はじめに  日本の近代化とナショナリズムの覚醒

明治9年(1875年、以下、年号は原則として西暦で示す)に、ベルツはその日記に、「これは最も不思議千万の事ではあるが--今日の日本人は、自身の過去に就いては何事も知る事を欲していない。教養ある人士も、過去に引け目を感じているのである」とし、「何も彼も野蛮至極であった」と言明した者や…中略…「我等は歴史を持って居ない、我等の歴史は今から始まるのだ」とまで断言する者までいるという驚きを記している*1。

だが、実はこのような自己の過去を否定するという精神の働きは、一部の日本人知識人の特殊性を物語るものではない。たとえば、社会学者の作田啓一は『個人主義の運命――近代小説と社会学』で、「ナポレオン戦争を支えたフランス民族のナショナリズム」では、「フランス革命によって到達した民主主義的な諸価値を世界に拡げること」を「彼らの使命」と説明している*2(以下、本書をKと略記し、本文中に頁数を示す)。

このような思想的潮流の中で、フランスの文明を普遍的な文明ととらえたロシアの思想家チャアダーエフは、ナポレオンを破った祖国戦争(1812)の後でも農奴制のような非近代的な制度が改革されないことに悲観し、ロシアはギリシア正教を受け入れたために「人類の普遍的な発展」から孤立したのだと厳しく批判した。こうして、それ以降ロシアでは発展のあり方をめぐって「欧化と国粋」の激しい対立が生まれることになったのである*3。

しかし、一方で「国民国家」の成立と自分たちを「普遍的な理念」の普及者として主張したフランスにおける民族意識の昂揚は、隣国ドイツやギリシア正教を国教とするロシアにおいては、激しい反発から自国の民族意識の高まりを生みだし、独自の「国民性」が求められるようになったのである。

それはロシアに限ったことではなく、いわゆる「文明開化」が求められた明治維新以降の日本でも近代化の過程における「西欧化と土着」の問題が起きてくるようになる。なぜならば、ベルツの「日記」が書かれる3年前に政府は、西欧諸国からの強い要望もあり、キリスト教の禁制をも解いており、西欧文明を学ぶ機会も大幅に拡大したが、自らの普遍性を主張する「近代西欧文明」自身が、それ以外の諸文明の独自性や意義を否定する働きをも担っていたのである。

「西洋崇拝による土着軽視」とその反発としての「国粋」思想の勃興の流れに注目した比較文明学者の山本新は、このサイクルが日本ではほぼ20周年で周期的に交替しているという説を唱えた*4。吉澤五郎は近著でこのような「西欧化と土着」のサイクルを分かりやすく図示しているが、興味深いのは、サイクルの高揚期や低迷期などの節目とドストエフスキー受容が不思議と一致していることである*5。

すなわち、松本健一は「ドストエフスキイが熱狂的に読まれた時代が過去に五度ほどあった」とし、①、1892年前後 ②、1907年前後 ③、大正期 ④、1934年から1937年 ⑤、1945年から1950年を挙げているのである*6。

以下、本稿では「個人主義のゆくえを考えることは、ナショナリズムのゆくえを考えることに通じる」(K.201)とした作田啓一の考察を踏まえながら、比較文明論的な視点から第二次世界大戦に到るまでに時期を絞って日本におけるドストエフスキー受容と「欧化と国粋」のサイクルの問題の係わりを考察し、「文明の衝突」を乗り越える可能性を探りたい*7。

第1節  ロシアの近代化とロシア文学の受容

明治維新の初期に東京外国語学校の教員として招かれていたメーチニコフは、岩倉具視、木戸孝允、副島種臣などの「維新を指導した少数の国家的人物」をはじめとする多くの人たちが、ピョートル大帝の「熱烈なファンである」と書いた*8。

彼の言葉は誇張のようにも思えるが、実際、明治維新に際しては「ざんぎり頭をたたいて見れば文明開化の音がする」と歌われたように断髪令が出されたが、ピョートルもロシア人の意識を変えるために、成人男性が生やしていたあごひげを切り取ることや衣服を西欧式に改めるなどの命令を発しているのである。さらに彼は「ペテルブルク市長に命じて、定期的に夜会をひらかせ、貴族たちが夫人同伴で出席することを義務」づけたが、「わが国の『鹿鳴館』の先駆」だったのである*9。

また、明治政府は1871年暮れに西欧文明を早急に取り入れるために、「一国の政権の最高首脳部の大半をあげて、先進文明世界を視察し、これから学ぼうとする」使節団を1年以上にわたって西欧に派遣したが*10。ピョートル大帝もロシアの内政が安定しないなか250名もの随員と留学生を連れて、一年半にわたる長い西欧視察旅行に出かけていた。さらに、1872年12月に明治政府はそれまでの太陰暦を西暦(グレゴリオ暦)に改めるという大改革を行ったが、ピョートル一世も年号を天地創造の日から数え、1年の始まりを9月1日としていたそれまでのビザンツ暦を、西暦に近いユリウス暦に改めていた。

こうして明治政府は「殖産興業」と「富国強兵」をめざしたピョートル大帝の改革をなぞるかのように息せき切って「近代化」を進めたのであった。幕末の1862年にロシアを訪れた福沢諭吉も、当時のロシアには厳しい評価をしたものの、元禄の頃に行われたピョートル大帝の改革については、「学校を設け海陸軍を建て」、「堂々たる一大国の基(もとい)を開き、今日に至るまで、威名を世界中に轟かせり」と記した*11。

ところで、作田啓一はデュルケームなどの考えによりながら、「近代政治史とは、さまざまの特権を持った中間集団を国家が打ち砕く過程」であり、「この闘争を通じて、中世的な共同態は衰退してゆき、それに代わって国家と個人が社会の有力な構造要素」となってきたとし、こうして「国家の成長に伴って個人主義が発展してきた」と説明している(K.90-93)。

このことは強大な西欧諸国との接触によって開国を余儀なくされた日本が、近代国家の成立をめざして行った改革を例に取れば分かりやすい。明治維新に際し、明治政府は廃藩置県をも断行し、藩にも自治を許すそれまでの幕藩体制というゆるやかな制度を取りやめて、強大な中央集権国家の設立を目指したのである。このような「近代化」を推進したのが、それまでの日本を「半開」とし、西欧を「文明」と位置づけた福沢諭吉であった。彼は『学問のすゝめ』(1872)において「唯学問を勤(つとめ)て物事をよく知る者は貴人となり、富人となり」と書き、さらに「専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」として新しい西欧の学問を学ぶことが「立身出世」につながると強調したのであった。このような見方は、同時に新政府が欲していた方向性でもあり、同じ年に学制が発布され公的な義務教育が始まり、これ以降「わずか数年の間に2万6千余校という小学校ができ」ることとなった。こうして、身分や貧富に係わらず、「富国強兵」という国家の要望に答える能力を有した者には「立身出世」が可能となったのである。

だが、作田が書いているように、「近代化が進み、公的生活において人々が参加する集団の規模が大きくなり、官僚制化してゆくと、公私の二つの領域において、人々は相互に異質的な要求に直面することを余儀なく」される。なぜならば、「自己を発展させよという個性の命令に忠実な個人」は、「どの方向へ向かうかの選択」という「苦しい自己決定を行ったあとに、葛藤と不満とが待ち受けているかもしれ」ないからだからである(K,113~4)。

このような事態を日本もむかえた。「中間集団」の文化を否定する一元的な価値の上からの強制や「西欧化」を強要する「文明開化」への反発は、すでに徴兵反対一揆(1873)や佐賀の乱(1874)などの形で噴出し始めていた。それが、ベルツが日本人知識人への驚きを記した翌年の1876年3月に「廃刀令」が出されると、同じ年の10月には神風連の乱や秋月の乱、萩の乱などが頻発することになり、その翌年には国力を二分した西南の役が起きることになった。さらに、これらの乱が鎮圧された後は、今度は武器ではなく筆を持って政府批判を繰り広げる「自由民権運動」が盛んになったのである。

このことは、日本の文明開化よりも150年以上も早くロシアの近代化を行ったピョートル大帝の改革とそれ以降の歴史の流れにも現れた。ロシアではピョートル大帝の死後、強国としての位置を築く一方で、相次ぐ宮廷クーデターの中で特権を増やした貴族とは正反対に、農民の隷属化が進んで過酷な農奴制が確立していた。このような中、ロシアの知識人たちは、国家のさらなる近代化を目指すとともに個人の自由や民衆の権利を求める運動をも展開したのだった。

これに対応しているのが、ロシア文学の受容だろう。島崎藤村は『千曲川のスケッチ』の奥書において、「明治年代に入って言文一致の創設とその発達に力を添えた人々の骨折と云うものは、文学の根底に横たわる基礎工事であったとわたしには思われる」と書いている。このような困難な作業に大きな影響を及ぼしたのが、農奴制の問題を文学的な視点から鋭く批判したツルゲーネフの『猟人日記』の中の一編を言文一致体で訳した二葉亭四迷の『あひびき』である。

川端香男里は、ロシア文学が「1908年には翻訳の点数で英米文学を追い越し」ていたことに注意を促して、「昭和20年代までに世に出た作家や評論家でドストエフスキー、トルストイ、チェーホフから影響を受けなかった者はいない」と述べ、さらにロシア文学受容のピーク時について、ツルゲーネフは明治期、トルストイは大正期、そしてドストエフスキーは昭和期に入ってからとも指摘した*12。すなわち、官民挙げて日本が「文明開化」に精力を注いでいた明治には西欧派のツルゲーネフが流行り、日露戦争前後の時期からは平和論を唱えたトルストイの作品が好んで読まれたのであり、近代化の問題点が明白となり、近代西欧文明の批判の強まるとともに、ドストエフスキーが爆発的な広がりを見せたといえよう。

 

第2節  『罪と罰』の翻訳と北村透谷

内田魯庵が二葉亭四迷の助力を得て日本で最初に『罪と罰』を訳出したのは、1892年のことであった。だが、この時は充分な購買者数を得ることができずに、その前半部分を訳したのみで終わった。ただ、この時すでに鋭く本質的な理解を示した者に北村透谷がいる。

彼は「『罪と罰』の殺人罪」(1893)という書評において、ハムレットにも言及しながら、「最暗黒の社会にいかにおそろしき魔力の潜むありて、学問はあり分別ある脳髄の中に、学問なく分別なきものすら企つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と喝破したのである*13。

しかし、このような透谷の言葉は単に彼の鋭い理解力を示すものではなく、「近代化」の流れの中での苦しい体験の結果でもあった。ラスコーリニコフの母親は息子に家名をあげることを望んでいたが、透谷の母も小田原藩藩士だった夫の禄高が、佐幕派だったために3分の1に減らされる中で、息子の「立身出世」を強く期待したのだった。さらに、ラスコーリニコフは「非凡人の理論」を編み出して高利貸しの老婆の殺害におよんだが、1884年の5月には、近隣の三郡百余村に金を貸付け、「負債人民からの憎悪の的であった」高利貸露木卯三郎が殺害されるという事件が大磯で起きていた。

注目すべきは、透谷がその末尾近くで大隈重信に爆弾を投げた来島や、来日中のロシア皇太子ニコライ二世に斬りつけた津田巡査などに言及しながら、「来島某、津田某、等のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」とすら述べていることである。

この言葉はドブロリューボフに言及した1862年のドストエフスキーの論評を思い起こさせる。ここでドストエフスキーは「深く神聖に真理を確信している」りっぱな人物が、「ただただ自分の高潔無比な目的を達せんがために」、誤った手段を取ることもありうるのだといい、問題は「彼が目的到達のために用いた手段に存する」ことは明瞭であると考察したのだった。このような考察は『罪と罰』などで、「十字軍」や「暴力革命」などの「手段」をも「正当化」した、「カトリック」や「テロリスト」への哲学的な批判として深化されていくのである。

透谷の考察は、「目的と手段」の問題を通じて「近代西欧文明」の問題の根元にも迫ろうとしたドストエフスキーの作品の本質にも肉薄していたのである。だが、ここでも透谷の理解は、「時代」とも深く係わっている。すなわち、1884年には朝鮮で「近代化」を推進しようとする独立党を押して内閣を作ろうとするクーデターが失敗した甲申事変が起きたが、この翌年には朝鮮での独立運動を支援するために、強盗をしてこの資金を得ようとした大阪事件が起きた。この時透谷は「自由民権運動」に係わっていた親しい友人から参加を求められていたのである。

色川大吉は、この事件の首謀者の論理が1873年に「単身韓国にのりこもうとした西郷の征韓論の論理」や「一国の人心を興起して全体を感動せしむるの方便は外戦に若(し)くものなし」と1878年に記した福沢諭吉の「通俗国権論の論理」と基本的にはほぼ共通しているとし、彼らには「封建的な事大党をたおして、開明的な独立党に政権をとらせ、朝鮮人民への連帯と友情をしめそう」とする姿勢もあったことに注目している*14。すなわち、彼らの論理には、ロシアの現状を打破するためにポーランドの独立運動にも理解を示したドブロリューボフたちの考えに近いものもあったのである。

だが、透谷はこのような「目的」を達するために、強盗のような「手段」を取ることには賛成できず拒否するという、ちょうど『悪霊』(1871~2)のシャートフ的な体験を有していたのであり、その後彼自身もキリーロフのように若くして自殺した。

 

第3節  近代化の深化と夏目漱石

夏目漱石が『三四郎』を書き上げたのは、1908年のことであった。この時期までに日本は急速な近代化を経て、日清戦争(1894~5)や日露戦争(1904~05)で勝利をおさめ、朝鮮での勢力を強めるなど「富国強兵」に成功していた。だが、ちょうどポーランドを分割し、コーカサスをも併合して領土の拡大に成功したロシアが、国家の強大化に反して民衆のレベルでは農奴化がかえって進んできたように、日本でも「強大な国権」への批判が下から噴出し、このころから価値の2分化が顕著になっていた。

このような近代化の苦悩を象徴的に物語っているのが、政府の派遣によりイギリスに留学し、帰国後に教鞭を取っていた東京帝国大学での職を辞して、近代日本の知識人の苦悩を描く小説を書くことになる夏目漱石だろう。

司馬遼太郎は『三四郎』について、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と規定するとともに、「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になった。…中略…下部(地方や下級学校)にそれを配るという配電盤の役割を果たした」と指摘している*15。

この指摘は「ペテルブルグほど人間の心に暗く、激しく、奇怪な影響を与えるところは、まずありますまいよ」と語り、「これは全ロシアの政治的中心なので、その特性が万事に反射せざるをえません」と続けた『罪と罰』の登場人物スヴィドリガイロフの言葉を思い起こさせる。実際、ロシアの首都サンクト・ペテルブルクもピョートル一世により、西欧の科学技術を大幅に取り入れるために「西欧への窓」として建設されたのである。

しかも、司馬は1872年にできた「司法職務定制」により、「弁護士の前身といえる」「代言人という職と機能が」成立したことに注目し、それ以降、1881年に明治大学の前身である明治法律学校が出来たのをはじめ、英吉利法律学校(後の中央大学)や日本法律学校(後の日本大学)が次々と設立されていることに注目し、「明治は駆けながら法をつくり、法を教える時代」だったと規定している。

司馬遼太郎の読みは『三四郎』の社会的背景だけでなく、名門サンクト・ペテルブルク大学の法学部を中退した若者を主人公とした『罪と罰』の社会的背景をも説明し得ている。すなわち、主人公のラスコーリニコフの妹ドゥーニャの婚約者で、今まさに首都に法律事務所を開こうとしていた弁護士のルージンは「いろいろな新しい傾向とか、改革とか、新思想とか、すべてそうした」、「いっさいを残りなく見ようとするには、やっぱりペテルブルクにいなければなりません」と述べていたのである。

このようなルージンの「文明観」を、ラズミーヒンは「科学、文化、思索、発明」などの知識がロシアの知識人にはまだまだ未熟でありながら、それなのに「他人の知識でお茶をにごすのが楽でいいものだから、すっかりそれになれっこになってしまった」と鋭く批判する。このような彼の批判は、明治末期の1911年に「内発的」ではない日本の開化を厳しく批判した漱石の「現代日本の開化」という講演ときわめて似ている。

実際、福沢は日本が「開国20年の間に、200年の事を成した」と「文明開化」の成功を誇ったが、一方、漱石はすでに『三四郎』において自分と同じ年齢の登場人物広田に「明治の思想は西洋の歴史にあらわれた300年の活動を40年で繰返している」と「皮相上滑り」な「文明開化」を批判させたのである*16。

この意味で注目したいのは、『三四郎』に先だって朝日新聞に発表された二つの作品である。すなわち、『三四郎』が書かれる直前には、島崎藤村が北村透谷などの若者たちを主人公とした作品『春』を発表しており、さらにその直前には漱石が、足尾銅山をテーマにした『坑夫』という作品を発表していたのである。

立松和平はこの前年の1907年に「足尾銅山で鉱夫たちにより大暴動が起こり、軍隊が出動して鎮圧」されていたことに注意を向けて、「足尾銅山は、富国強兵の最先端を走っていた。…中略…日露戦争で使われた鉄砲の玉は、ほとんどが足尾で産出した銅を原料としていたといわれている」と指摘している*17。このような大量生産の結果、足尾では、現在の環境汚染の先駈けとも言える「鉱毒事件」が発生したのである。

このように見てくる時、「西欧文明を目的」とした福沢の「文明観」は、近代化を要請した「時代」の産物であり、一方、福沢よりも30年ほど遅れて生まれた漱石は、「文明開化」の結果発生した近代化の負の面をも見ねばならなかったと言える。

 

第4節  近代化の矛盾と「近代の超克」論

漱石は『三四郎』において広田先生に「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」と語らせ、このままでは「亡びるね」とさえ断言させていた。司馬遼太郎はこの言葉に注意を促して、「ひげの男の予言がわずか38年後の昭和20年(1945)に的中するのである」と記した*18。

そして、司馬は日露戦争後にロシアから充分な戦後補償を得られなかったことを不満として、日本各地で日本政府の弱腰を責めたてる「国民大会が次々に開かれ」たことを重視し、ことに放火にまで走った「日比谷公園に集まった群衆」こそが、「日本を誤らせたのではないか」と記している。そして、司馬は「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべき」だと鋭く批判していた。

ナショナリズムの加熱がどうしてこのような結果を招くかを、作田は社会学の視点から「大衆デモクラシーのもとでは、有権者の票の獲得にあたって、理性に訴える説得よりも、感情に訴える操縦のほうが有効であると言われるようになり、また事実、その傾向が強く」なったと説明している(K.110)。

ここで注目したいのは、作田が「個人の自尊心」と「国家の自尊心」とは深いところで密接に結びついていることを指摘して、「個人主義」だけでなく「個人主義の双生児であるナショナリズムも、自尊心によって動かされて」きたと指摘していることである(K.201)。つまり、お互いに自国の「正義」をかざして戦った第一次世界大戦では、フランスなどが勝って、「自民族」の優秀さを謳歌したが、それは戦争に敗れて経済的な打撃だけでなく、精神的にもドイツ人を深く傷つけてしまったのである。こうして、「自尊心」をも侮辱されたと感じた中で、ラスコーリニコフの「非凡人」の理論を「民族」にまで拡大して、「優秀な民族」は、「悪い民族」を滅ぼすべきだと主張し、ユダヤ民族の抹殺を謀ったヒトラーの理論が生まれてくることになったのである*19。

日本における『罪と罰』の受容の波が太平洋戦争へと突入する時期に高まったのも、このような流れと無関係ではない。松本健一は真珠湾攻撃の翌年に出版された堀場正夫の『英雄と祭典』にふれて、彼が『罪と罰』を「『ヨーロッパ近代の理知の歴史』とその『受難者』ラスコーリニコフの物語」ととらえ、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なしたことを紹介している*20。

むろん、このような読みは現在のレベルでの研究を踏まえた上での読みから見れば、きわめて問題があるが、このような「読み」には、時代的な背景もあった。ニーチェの思想から強い影響を受けたシェストフは、ドストエフスキーをも「超人思想」の提唱者であり、「悲劇の哲学」の創始者の一人としていたるとした*21。このようなシェストフの解釈が日本でも受け入れられる中で、優れた批評家であった小林秀雄ですらも、『罪と罰』のエピローグではラスコーリニコフは影のような存在に成っていると指摘して、書かれている彼の更生をも否定したのであった*22。

それは「近代人が近代に勝つのは近代によってである」とした小林の福沢的な近代観から導かれたものでもあった。こうして、堀場の理解は太平洋戦争の直前に「近代の超克」を謳ってなされた日本の著名な知識人たちによる討論のテーマや主張とも重なり合うものだったのである。

だが、ドストエフスキーは『罪と罰』において、「非凡人の理論」から殺人を犯したラスコーリニコフの悲劇を描くとともに、それに対抗する形でロシア正教の敬虔な信者ソーニャの苦難と彼女によるラスコーリニコフの救いを対置していた。そして、『地下室の手記』(1864)では主人公に、バックルによれば「人間は文明によって穏和に」なるなどと説かれているが、ナポレオン戦争や南北戦争では「血は川をなして流れている」ではないかと、「近代西欧の<知>」への鋭い批判を投げかけていた。実際、『戦争の社会学』によれば、すでに「フランス革命からナポレオン帝国の戦争」(1792-1815)の間に、「巻き込まれた人口は一億人。殺害されたものは200万人以上」だったのである*23。

こうして、お互いに他国によって滅ぼされないようにと「富国強兵」と武器の改良に励んだ結果、原子爆弾さえも製造されたことによって、第二次世界大戦では5000万人を越える戦死者を出すことになるのである。

作田啓一は「第二次大戦以降、自立ナショナリズムは、かつてヨーロッパに支配されていた諸民族のあいだにおいて燃え上がる」ようになったと指摘しているが、このような状況はオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した第一次世界大戦前のヨーロッパでも起きたし、さらにソ連邦が崩壊した後にも、世界的なレベルでナショナリズムの高まりが起きている。そして、これに連動する形で最近の日本でも「国家」に価値を置くことによって、このような不安定さや混乱を回避しようとするナショナリズム的な発言や行動が多く見られるようになってきた。

だが、それは一時的には国内の矛盾を解決するかに見えるが、ひいては「国権と民権」の対立だけではなく、「国益と国益」との対決を引き起こして、ハンチントン氏が指摘するような第三次世界大戦につながる危険性を含んでいる。他方、作田は「超大国の自尊心は、核戦争の危機をかもし出す条件の一つとなって」いると指摘しているが、ソ連邦の崩壊とともに、核物質や核技術も海外へと流出した現在、大国ばかりでなく、小国でさえもが「自国の自尊心」から核戦争に到る危険性が出てきているのである。

比較文明学者の神川正彦は、「近代」の「学的パラダイム」が、ナポレオン以後に成立した国民国家を成立させている「ナショナリズム」と同じように、「ディシプリン(専門個別科学領域)の自律性」にもとづいた「単純化と排除のパラダイム」であると分析している*24。

「文明の衝突」が語られるようになった現在、近代的な古いパラダイムを克服して、「文明の共存」を可能にするような新しい「学的パラダイムの確立」が、焦眉の課題となっている。

 

*1 『ベルツの「日記」』、濱邊正彦訳、岩波書店、昭和14年、14~15頁、なお、引用に際しては新かな、新字体に改めた。

*2  作田啓一、『個人主義の運命――近代小説と社会学』、岩波新書、107頁。

*3  高橋「ヨーロッパ『近代』への危機意識の深化(1)――ドストエーフスキイの西欧文明観」参照。神川正彦、川窪啓資編、『講座比較文明』第1巻、朝倉書店、1999年、50~63頁。

*4  山本新、神川正彦・ 吉澤五郎編『周辺文明論ーー欧化と土着』、刀水書房、1985年。

*5  吉澤五郎、『世界史の回廊--比較文明の視点』、世界思想社、1999年、96頁

*6  松本健一、『ドストエフスキーと日本人』、朝日新聞社、昭和50年。

*7  本稿は、東海大学で行われた比較文明学会の公開シンポジウムで「『欧化と国粋の「サイクル』克服の試み――ドストエフスキーの受容と司馬遼太郎文明観」という題名で発表した論考(『比較文明』第16号、2000年、146~151頁)に、日本における『罪と罰』の受容と「欧化と土着」の問題に焦点を絞って、加筆したものである。なお、ドストエフスキーの訳は『ドストエフスキー全集』(新潮社)により、巻数と頁数を本文中に( )内に示す。

*8  メーチニコフ、渡辺雅司訳『亡命ロシア人が見た明治維新』、講談社学術文庫、1982年、25頁。

*9  相田重夫、『帝政ロシアの光と影』(『人間の世界歴史』、第12巻)、三省堂、1983年、128頁。

*10  井上清、『明治維新』、(『日本の歴史』、第20巻、中央公論社、200頁)。

*11  福沢諭吉の文明観については、高橋「日本の近代化とドストエーフスキイ――福沢諭吉から夏目漱石へ」参照。(『日本の近代化と知識人』、東海大学出版会、2000年、所収)。

*12  川端香男里『ロシアソ連を知る事典』、平凡社、1989年、520頁。

*13  『北村透谷選集』、勝本清一郎校訂、岩波文庫、212頁。

*14  色川大吉、『明治精神史』(上)、講談社学術文庫、175頁。

*15  司馬遼太郎、『本郷界隈』(『街道をゆく』第巻)、朝日文芸文庫、267~271頁。

*16 司馬遼太郎の夏目漱石観については、日本ペンクラブ電子文藝館に寄稿した「司馬遼太郎の夏目漱石観   ―比較の重要性の認識をめぐって―」を参照。

*17  立松和平、「足尾から『坑夫』を幻視する」、『夏目漱石:青春の旅』所収。

*18  司馬遼太郎の近代化観の変化については、高橋「『文明の衝突』と『他者』の認識――『坂の上の雲』における方法の変遷」(『異文化交流』創刊号、31~58頁、参照)。この考察は「司馬遼太郎における文明観の変遷と沖縄――周辺文明論の視点から」(『文明研究』第20号、2001年)へと受け継がれ、拙著『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)の第2章と第3章として収録されている。

*19  勝田吉太郎、『神なき時代の預言者――ドストエフスキーと現代』、日本教文社、昭和59年、44~6頁。

*20  松本健一、前掲書、198頁。

*21 拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、2002年、125~126ページ、および注に挙げた文献を参照。

*22  『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、53頁。

*23  引用は、前田哲男、『戦争と平和――戦争放棄と常備軍廃止への道』、ほるぷ出版、156頁による。

*24  神川正彦、「比較文明学という学的パラダイムの構築のために」(神川正彦、川窪啓資編、前掲書『講座比較文明』第1巻、6~9頁、180~181頁)。

 (『東海大学外国語教育センター紀要』第21輯、2000年)

 

追記:再掲に際しては、人名の表記を現在のものに統一した他、文体や注の記述なども改訂した。

ムィシキンの観察力とシナリオ『肖像』――小林秀雄と黒澤明のムィシキン観をめぐって

 

1,「シベリヤから還つた」ムィシキン

 「『罪と罰』についてⅠ」(1934)の冒頭で、「重要な事は、告白体といふ困難な道からこの広大な作品を書かうと努めたほど、ラスコオリニコフといふ人物が作者に親しい人物であつたといふ事である」と記していた文芸評論家の小林秀雄は、「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という解釈を示した(『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、62~63頁。全集第6巻からの引用に際しては旧漢字を新漢字になおすとともに、本文中の〔〕内に頁数をアラビア数字で示す)。

 「『白痴』についてⅠ」(1934)においても、「本当に美しい人間」を描こうとしたドストエフスキーの「明瞭な企図」と「その実現された処」の違いの激しさを指摘した小林は、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない、シベリヤから還つたのだ」と繰り返し強調している。

 そして、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」と続けた小林は、「この小説の終りで、作者が復活の曙光とよんでゐるものは、恐らく僕等が一般に理解してゐる復活、即ち精神上の或は生活上のどういふ革新にも縁のないものだ」と断言した〔82~83頁〕。

 戦後に書いた「『白痴』についてⅡ」(1952~53)でもムィシキンがスイスから帰国する「汽車の中で、独り言を繰返す」ことに注意を促した小林は、「詮索するにも及ぶまい。当人が『これから人間の中に出て行く』と言つてゐるのだから、この男には過去なぞないのだらう」と断定している〔299頁〕。

 しかし、ここで小林は「これから人間の中に出て行く」というムイシュキンの言葉が、汽車の中での「独り言」と説明しているが、この言葉はエパンチン家の令嬢たちにスイスの村でのマリーと子供たちの逸話を説明した後で語られた言葉であり、しかもムィシキンは「ぼくは自分の仕事を誠実に、しっかりとやり遂げようと決めました」と続けていた(第1部第6章)。

 つまり、スイスでの治療をほぼ終えたムィシキン公爵が混沌としている祖国に帰国する決意をしたのは、母方の親戚の莫大な遺産を相続したとの知らせに接したためであり、ドストエフスキーは小説の冒頭で自分が得た遺産を苦しんでいるロシアの人々のために尽くしたいと考えていたムィシキンと、莫大な遺産で女性を自分のものにしようと願ったロゴージンという対照的な若者の出会いを描いていたのである。

 ムィシキンが「シベリヤから還つた」と解釈すると彼が西欧で見たギロチンによる死刑の場面もなくなり、『白痴』における主要なテーマの一つである「殺すなかれ」というイエスの言葉と、近代西欧文明の批判が読者の視界から抜け落ちてしまうことになる。

 「『白痴』についてⅠ」で『白痴』の結末の異常性を強調した小林秀雄は、「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と記していた〔100~103頁〕。

 ムィシキンの帰国の理由を説明していたエパンチン家での会話の部分を読み落としたことが、このような陰惨な解釈にも直結していると思われる。

 

2,「アグラアヤの為に思ひ附いた画題」

 小林秀雄は「『白痴』についてⅠ」で「周知の事だが、作者はこの主人公を通じて、自分の二つの異常な生活経験を、熱烈に表現してゐる」として、癲癇の発作とともに死刑体験とを挙げていた〔90~91頁〕。

 戦後に書いた「『白痴』についてⅡ」でも、「この死刑の話は、執拗に、三通りの違つた形で繰返し語られ、恰も、作品の主音想(ライト・モチフ)が鳴るのを聞くやうだ」とした小林秀雄は、「ギロチンが落ちて来る一分間前の罪人の顔を描いてはどうか」という「三番目の話は、ムイシュキンがアグラアヤの為に思ひ附いた画題の話である」と続けている〔傍点引用者、281~2〕。

 しかし、ムィシキンが画題を示したのは絵の才能のある次女のアデライーダに対してであって、三女アグラーヤにではなかった。

 しかも、ムィシキンの「見る」能力を考察した川崎浹氏が指摘しているように、エパンチン家で「アデライーダに『見る』ことを示唆した」あとにスイスのことを話したムィシキン公爵は、スイスで見たギロチンの話をした後で死刑囚の顔を描きなさいと語っていたのである(第1部第5章、「『見る』という行為――ムイシュキン公爵とアデライーダ」、104頁)。

 この論考について木下豊房氏も「この物を見る目という本質的な問題を『白痴』のアデライーダの絵の題材への迷いに見て取り、背後に作家のリアリズム観の存在を指摘した川崎氏の慧眼を評価したい」と結論している。

 ドストエフスキー論の「大家」とされてきた文芸評論家の小林秀雄が、『白痴』においてきわめて重要な役割を演じているエパンチン家のアグラーヤとアデライーダの名前を取り違えていたことは、ムィシキンの「孤独」に焦点を絞って考察した小林秀雄の視野にはエパンチン家の家族関係だけではなく、ムィシキンの「観察力」も入っていなかったことを物語っているだろう。

 あるいは、「注意深い読者」であった小林秀雄の視野にはムィシキンの「観察力」も入っていたかもしれない。しかし、このような「事実」としての「テキスト」を忠実に読み解くことで「殺すなかれ」と語ったムィシキンを高く評価することは、戦争に走り出した当時の日本の「国策」に反することも知っていた。そのために、「軍国主義」を批判する評論の筆者として逮捕されることを逃れるために、「テキストから逃走」してしまった可能性も高いと思われる。

 問題は同じような事態が戦後にも起きていたと思われることである。よく知られているように小林秀雄は、科学者の湯川秀樹との対談では「原子力エネルギー」の危険性を「道義心」の視点から厳しく指摘していた。しかし、「第五福竜丸」事件の後で、「原子力の平和利用」が「国策」として打ち出されると、小林秀雄はこの問題を全く語らなくなってしまったのである(拙論「知識人の傲慢と民衆の英知――映画《生きものの記録》と『死の家の記録』」、『黒澤明研究会誌』第30号、参照)。

 一方、このような小林秀雄のムィシキン観とは異なり、長編小説『白痴』におけるムィシキンの観察力をきわめて高く評価したのが黒澤明監督の映画《白痴》であった。

 

3,映画《白痴》とシナリオ『肖像』

 黒澤映画《白痴》(脚本・久板栄二郎、黒澤明、1951年)の亀田(ムィシキン)には絵画を観察する能力は与えられていないが、戦争だけでなく死刑という極限的な体験をしていた亀田には人を見る直感的な観察力が与えられている。

 この意味で注目したいのは、この映画の3年前に黒澤明が木下恵介監督(1912~1998年)のために書いた映画《肖像》のシナリオの主人公の老年の画家がムィシキンを想起させるばかりでなく、老画家の家族を嫌がらせで追い出すためにその二階を間借りして住み込んだ悪徳不動産屋の愛人・ミドリも、ナスターシヤを思い起こさせることである。

 黒澤明監督は「僕は、映画におけるシナリオの地位は、米作における苗つくりのようなものだと思っている」と述べ、、「弱いシナリオから絶対に優れた映画は出来上がらない」と結んでいた(第3巻、286頁)。

 この言葉に留意するならば、シナリオ『肖像』は黒澤明監督の映画《白痴》におけるムィシキン理解の深さを知る上でも、きわめて重要な作品であるといえるだろう。

 井川邦子、小沢栄太郎、三宅邦子、三浦光子、菅井一郎、東山千栄子、佐田啓二などの出演で撮られ、1948年に公開されて第3回毎日映画コンクール監督賞を受賞したこの映画のシナリオの内容を簡単に見ておきたい(サイト「木下恵介生誕100年プロジェクト」の画像も参照)。

 

 まず注目したいのは、主人公の老画家から肖像画のモデルとなるように頼まれたミドリが、「でも、どうして、私なんか」と尋ねると、画家の野村は「なんて言いますかな……不思議なかげがあるんですよ、あなたの顔には」と説明していることである(『全集 黒澤明』第3巻、214頁)。この台詞は、写真館に掲示されている那須妙子(ナスターシヤ――原節子)の写真をみつめて、「綺麗ですねえ」と同意しながらも、「……しかし、何だかこの顔を見ていると胸が痛くなる」と続けた亀田(ムィシキン)の台詞を想起させる(シーン八)。

 一方、嫌々ながらもモデルを務めていたミドリは同じような境遇の芳子に「私ね、じっと座ってその画描きの綺麗な眼でじっと見られていると、なんだか、澄んだ冷い流れに身体をひたしている様な気がするの……自分の身体のいやなあぶらやあかみたいなものが洗い落されて行く様な……」と告白する。

 「いやだよ……お前さんその画描きに惚れるンじゃないのかい」と芳子から冷やかされると、ミドリは「その人、薄汚いお爺さんだわ」と言いながらも、「でも、私……その人好きよ……だんだん好きになって行くわ……初めは、随分まぬけな人だと思ってたけど……」と続けるのである。

 しかも、酔っぱらった勢いで自分が淑女ではなく愛人であると明かしてしまったミドリは、「こんなの私なものか……これが私の肖像だなんて……笑わせるわ」と言い放ち、「煙草を出して吸いつけると壁にもたれてあばずれたポーズ」を取ったが、画家の義理の娘・久美子から「いいえ……どんな不幸が今のような境遇に貴女を追い込んだのか知らないけれど……本当は……貴女はやっぱり、お父さんが描いたような貴女に違いないんです」と説得される。

 その台詞もムィシキンがナスターシヤに「あなたは苦しんだあげくに、ひどい地獄から清いままで出てきたのです」と語った言葉を思い起こさせるのである。そしてミドリは、結末近くで「死んだつもりで、出直して見るんだわ……私達、なんにもやって見もしないで、何もかも駄目だってきめてかかっていたような気がするわ」と語り、同じ稼業だった芳子に「弱虫なのは私達だわ」と続けて自立への決意を語ったのである。

 台詞自体は何人かの登場人物に分与されているが、画家の家族に励まされて苦しくとも自立しようとするミドリの決意は、ムィシキンに励まされたナスターシヤの思いとも対応しているだろう。

 こうして黒澤は老画家の肖像画をとおして、真実を見抜く観察眼の必要性と辛くても「事実」を見る勇気が、状況を変える唯一の方法であることをこの脚本で強調していたのであり、それは映画《白痴》の亀田(ムィシキン)像に直結している。 

詩人プレシチェーエフ――劇作家オストロフスキーとチェーホフをつなぐ者

 

斬新な視点から「コジマ・プルトコフ」という架空のユーモア作家とドストエフスキーとの関係を考察した金澤友緒氏の論文については、「ニュースレター」では紙面の都合上あまり深く言及できなかったが、雑誌《ズボスカール》との対比や共作という視点からもたいへん興味深い論考であった(『ドストエーフスキイ広場』第22号)。

たとえば、文壇への復帰を願っていたドストエフスキーがトルストイの『幼年時代』に強い関心を抱いて「Л・Нとは誰のことか」と手紙で尋ねていたという指摘からは、オストロフスキーの作品に強い興味を示していた手紙のことを思い起こし、「プルトコフ」の生涯をとおしてこの時代をも浮かび上がらせていると感じた。

『ステパンチコヴォ村とその住民達』においてドストエフスキーが「プルトニコフ」の作品から引用するだけでなく、それに対する登場人物の反応を描いているとの指摘は、長編小説『白痴』においてプーシキンの詩『貧しき騎士』が果たしている役割にも通じており、ドストエフスキーの創作方法の一端をも明らかにしていた。

さらに論文を読み返しながら私が思い起こしていたのは、ベケートフ兄弟のサークルに接近した際に知り合ったペテルブルグ大学の学生で、詩人のプレシチェーエフ(一八二五~九三)とドストエフスキーとの関係のことであった。

 

*    *   *

1,プレシチェーエフへの献辞

ドストエフスキーは、一八四七年の四月一三日から六月一五日まで五回にわたって『サンクト・ペテルブルグ報知』にフェリエトン『ペテルブルグ年代記』を連載したが、これはドストエフスキーだけの作品ではなく、プレシチェーエフとの共作であった。

きわめて興味深いのは一八四七年四月二七日のフェリエトンには、『白夜』に書かれることになる「夢想家」についての考察がすでにはっきりと見られることである。

つまり、そこには「自分のもっているいいところを現わす」手段がないと、人間は「酒で身を持ちくずしたり」、「トランプに手を出し」たり、さらには、「自負心で頭がおかしくなったりする」と指摘され、その文末近くでは「われわれはみんな多少とも夢想家ではないのか!」という特徴的な文章も記されているのである。

よく知られているように『白夜』は、「感傷的な物語」という副題の他にも、「夢想家の思い出より」という副題をも持っているが、研究者のコマローヴィチは「作品を献ずることにおいては概して吝惜の人であった」ドストエフスキーにはめずらしく、『白夜』には当初プレシチェーエフにへの献辞が掲げられていたことを指摘している。

すなわち、ドストエフスキーが献辞を付した作品は、兄ミハイルに捧げられた『虐げられた人たち』と姪のソフィアに捧げられた『白痴』、そして妻アンナに献じられた『カラマーゾフの兄弟』の三作と、『白夜』だけだったのである。

さらに、『白夜』が掲載された雑誌の少し後の号で発表されたプレシチェーエフの中編小説『友情ある忠告』でも主人公が「夢想家」であり、その内容が「酷似しているのは、何も驚くべきことではない」としたコマローヴィチは、「この二つの中編小説は、親友であった作者たちの同質の精神状態から生まれた」のであり、彼らの共通のテーマは疑いもなく「フランス・ユートピア思想の諸々のテーマ」だったと続けている。

このように見るとき、ドストエフスキーはニコライ一世の「暗黒の三〇年」と呼ばれる時期を、まさに詩「進め!」のように、プレシチェーエフとともに心を奮い立たせながら「手に手をとって」前へと進もうとしていたといえよう。

(拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』、成文社、第4章「『白夜』とペトラシェフスキー事件事件」参照)

 

 2, プレシチェーエフからの手紙

ドストエフスキーが逮捕された容疑の一つは、反ロシア的な文書とされていた「ベリンスキーの手紙」を朗読したことであったが、その手紙のコピーをモスクワで入手したのがプレシチェーエフであり、ドストエフスキーはそのモスクワから送られてきたそのコピーを翌年の四月に朗読し、その直後に逮捕されているのである。

こうして、ドストエフスキーはシベリア流刑という厳しい体験を強いられることになったのだが、かれらの交際は流刑後も続いていた。

劇作家のオストロフスキーの戯曲がドストエフスキーの「大地主義」の形成に大きな役割を果たしたことは、以前にこのHPでもふれたが、たとえば、詩人のプレシチェーエフはドストエフスキーに「君の『雷雨』評を首を長くして待っている」と手紙に書いていた。

ドストエフスキー自身はこの論文を書かなかったが、彼の兄ミハイルが雑誌『たいまつ』にこの戯曲の劇評を書いており、それはドストエフスキーのプーシキン観とも深く関わるだけでなく、フリードレンデルが指摘しているようにこの論文にはドストエフスキーの手も入っていると考えられる。

ミハイルはこの論文でそれ以前に書かれた主な戯曲にも触れた後で、オストロフスキーが『雷雨』で「まだ誰も手を付けていなかったロシアの生活の幾つかの新しい側面を取り上げ」たと主張し、殊にカチェリーナの性格は「作者によって大胆にきわめて正確に創造されている」と述べ、オストロフスキーがプーシキンの『オネーギン』の「タチヤーナ以降、記されることのなかったロシア女性の美しさ」をもその戯曲の中で描いたと指摘している。

それとともにミハイルは「我々の考えではその作品においてオストロフスキー氏はスラヴ派でも西欧派でもなく、ロシアの生活とロシア人の心を深く知る一芸術家なのである」と高く評価した。それはオストローフスキイの「新しい言葉を信じている」と述べたドストエフスキーの思想にも重なるものであり、このオストロフスキー論はドストエフスキー兄弟が発刊することになる雑誌の理念をも表明していたのである。

(拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、74頁参照)。

 

3,プレシチェーエフとチェーホフ

こうしてプレシチェーエフは、シベリアから帰還したドストエフスキーが文壇に復帰する際に、オストロフスキーとの関係の橋渡しをしていたといえるだろう。

興味深いのは、「チェーホフと知合う以前から、このユーモア作家に注目していた」プレシチェーエフが、チェーホフの出世作『大草原』の誕生にも係わっていることをロシア文学研究者の佐藤清郎氏が明らかにしていることである(『チェーホフの生涯』筑摩書房、一六六~一六八頁)。

このことは詩人プレシチェーエフがチェーホフのうちに、若きドストエフスキーの作風の継承者を見ていたとも考えられ、きわめて興味深い。(『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』終章、注*21)。

*   *   *

(最近、『ロシア語ロシア文学研究』第45号に「プレシチェーエフの青春」と題する高橋知之氏の論文が掲載された。ロシア語文献だけでなく、欧米の文献にも広く目を配って、事件発覚前のモスクワにおけるプレシチェーエフ行動の意味に迫った好論文だと思える。地味だが重要なテーマであり、ドストエフスキーとの詳細な比較も課題としているとのことなので今後も期待したい。)

司馬遼太郎と梅棹忠夫の情報観と言語観ーー比較文明学の視点から

287-8

(高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房の表紙。図版はオムスクの監獄)

はじめに

 現在、世界では「グローバリゼーション」の名の下に価値の一元化が進められる一方で、伝統的な価値の混乱が各国でみられるようになり、日本でも若者における日本語の乱れや犯罪の増加が指摘されている。

 この意味で興味深いのは、日本における比較文明学の創始者の一人である梅棹忠夫が、「近代文明をになうことができる言語」とは、「現代の経済、技術、科学をふくんだ膨大な情報をただしく操作でき」、「コンピューターに代表される現代の情報機械と有効に接合することのできる言語であるべき」と述べ、さらに「日本語はいま、まさに『国際化』というおおきな局面にさしかかっている」として、漢字表記の問題点を指摘し、日本語はローマ字で表記すべきだとする論を展開したことである*1。

 コンピューターの時代をいち早く予想し、その後のIT産業にも大きな影響を与えた梅棹のこのようなローマ字論は、多くの者にとって情報化時代における日本語の問題点を示すものと受け取られ、急速に進んだグローバリゼーションの流れの中で、「英語公用語」論にも道を開く根拠の一つともなった。

 しかし、梅棹忠夫は後に、自分が「情報産業論」(1962年)で主張したこととは異なり、その後の議論は、「コンピューターによる情報処理や効率化の視点から論じるものがほとんど」であったと批判し、「近代文明語をかんがえるとき、その言語には母体となる文化のしっかりとした枠があり、そのまわりに外国がある」として母国語である日本語の重要性を強調した*2。つまり後に詳しく見るように、国際的な広い視野を有した梅棹は情報を載せる道具としての言語自体を、情報というソフトのハードウェアとして認識しており、言語というハードを制した国が情報をも制することができると考えているのである。それゆえ、梅棹はあくまで日本語による情報の発信にこだわっているのであり、その日本語表記の効率をよくするための方法として、ローマ字論を主張しているのである。

 このことに注意しながら梅棹忠夫が高く評価した司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読むとき、日露戦争を賛美したとして毀誉褒貶の烈しかったこの長編小説では、「文明開化」を強いられた日本における「文明語」の学習とその影響が克明に描かれていることに気づく。他方、司馬の情報・言語論を通して、梅棹の「情報論」を読み返す時、彼のローマ字論が日本の近代化と外国語学習の問題にも深くかかわっていることが分かる。

 以下、本稿では司馬遼太郎と梅棹忠夫の「情報・言語観」に注意を払いながら『坂の上の雲』を分析するとともに、比較文明学的な視点からヨーロッパと日本における語学教育の問題を考察することにしたい*3。

 

1、言語の序列化と「文明」による「野蛮」の規定

  長編小説『坂の上の雲』が連載され始めたのはちょうど明治百年にあたる1968年からであり、このことを司馬も強く意識して、「維新によって日本人ははじめて近代的な『国家』というものをもった…中略…たれもが『国民』になった」と記した(「あとがき一」・Ⅷ)。

  桜井哲夫は近代的な「国民国家」の強化のためには、徴兵制による軍隊の近代化だけでなく、教育体制の改革が急務と考えたナポレオン一世が「学校は国家機関であるべきであり、…中略…それらは、国家によって国家のために存在するのである」と述べて、「中央集権的な教育システムを構想した」と指摘している*4。このことは「国語教育」においてことに顕著であった。田中克彦が指摘しているように、「国民国家」フランスの成立と共に、周辺地域でもフランス語を「国語」として用いることが強要されるようになったのである*5。

 このような国語教育の事情は「国民国家」をめざした明治維新後の日本においてもほとんど変わらなかったが、「文明開化」を進める上で政府にも大きな影響力を持った福沢諭吉が、「開国の要として、英語を全国に奨励」すべきと強調していたように*6、急速な近代化を進めていた日本では、「言語教育」の問題はもう少し複雑であった。

 つまり、自国を「文明」としたバックルの『イギリス文明史』などの強い影響下に書いた『文明論之概略』(1875年)において、日本はまだ「半開」に留まっているとする認識を示していた福沢にとって(F・Ⅳ、20~22)、歴史が「文明(中央)ー半開(周辺)ー野蛮(辺境)」と序列化されたのと同じように、言語もまた「文明語ー国語ー方言」と序列化されていたのであり、「文明国」の言語である英語を習得させるのは、当然のことだったのである。

 言語論から見た『坂の上の雲』の面白さは、日露戦争の勝利に貢献した地方都市松山出身の秋山兄弟の活躍が、それぞれの外国語学習と深く関わっていることを明らかにしていることである。すなわち、師範学校から陸軍士官学校、陸軍大学校へと進んだ秋山好古(よしふる)は、フランスへの留学でフランス式馬術の優秀さを知り、欧州視察旅行の際にパリにも立ち寄った山県有朋に対してこのことを建言して、優秀なロシアのコサック騎兵との戦いを可能にした(Ⅰ・「馬」)。

 また学費がかかるため大学への進学をあきらめねばならなかった弟の秋山真之も、「教科書も原書であり、英人教官の術科教育もすべて英語で、返答もいちいち英語」で、「私語だけが日本語」の世界であった海軍兵学校で学び、やがてまだ一流国ではなかった新興のアメリカに留学してスペインとの米西戦争を観察し、後のバルチック艦隊との戦いに参考になる多くの作戦を学んだのである。

 ところで、福沢が依拠したバックルは『イギリス文明史』において、戦争という「野蛮な行為は、進歩が完成されつつある社会では、次第に使用されなくなっている」とし、その例としてイギリスを挙げる一方で、クリミア戦争を「知性の発達とは無縁の民族」であるロシアとトルコの「二つの国家の衝突によってもたらされた」として、「文明国」としてのイギリス帝国と「野蛮な」ロシア帝国を対置していた*7。日露戦争が勃発するとロンドンで三巻からなる戦史 “Japan’s Fight for Freedom”(1904~6年)が刊行されたが、俵木浩太郎は著者のウィルソンがその序文で「ロシアは野蛮と反動の側にある」とし、一方「日本は正義のために、民族独立のために闘っている」と書き、「日本の勝利」を「野蛮な力と物質主義にたいする徳性の勝利である」とまで断言して、同盟国となっていた日本の「文明」を讃えていたことを紹介している*8。

 興味深いのは『坂の上の雲』の前半における司馬遼太郎の歴史認識が、イギリス帝国を「文明」としたこれらイギリス人の「国民国家」史観や福沢諭吉の歴史観とほぼ重なっており、司馬は明治維新によってアジアで初めて「憲法」も持った「文明」的な「明治国家」と、皇帝の専制国家である「野蛮なロシア帝国」との戦いを正面から描こうとしていたといえよう。

 たとえば、司馬遼太郎は『坂の上の雲』において、民衆には将校になる可能性がほとんどなかったロシアの場合と比較しながら、「日本ではいかなる階層でも、一定の学校試験にさえ合格できれば平等に将校になれる道がひらかれている」(Ⅰ・「七変人」)として、だれもが努力すれば立身出世ができる明治の新しい教育制度のよさを強調し、第3巻において、「日清戦争から日露戦争にかけての十年間の日本ほどの奇蹟を演じた民族は、まず類がない」(Ⅲ・「権兵衛のこと」)と記した。その一方で司馬は、「ロシアの態度には、弁護すべきところがまったくない。ロシアは日本を意識的に死へ追いつめていた。日本を窮鼠にした」(Ⅲ・「開戦へ」)と書き、さらに小村寿太郎が「下僚に命じ、ロシアおよび英国がそれぞれ他国とむすんだ外交史をしらべさせたところ、おどろくべきことにロシアは他国との同盟をしばしば一方的に破棄したという点で、ほとんど常習であった」(Ⅲ・「外交」)と記していた。

 そして、司馬は第5巻ではロシア側が都市を要塞化して守っていた旅順攻防の悲惨な戦いを描く中でクリミア戦争に言及し、ペリーが日本に来航した1853年におきたこの戦争と日露戦争は、ともに「ロシアの南下膨脹政策からおこった」のであり、「その本質は酷似している」とし、「英国がその植民地政策上、トルコに味方したことも、日露戦争に似ている」とした(Ⅴ・「水師営」)。

 しかし、史実を注意深く調べながら日露戦争を書き進めていた司馬はすでに第4巻のあとがきで、このような歴史小説は「事実に拘束される」が、「官修の『日露戦史』においてすべて都合のわるいことは隠蔽」されていることを挙げて、「情報」の問題に注意を払うようになるのである。

 たとえば、第3巻で司馬は「日本政府は、戦争をおそれた」が、「世論は好戦的であった。ほとんどの新聞が紙面をあげて開戦熱をあおりたて、わずかに戦争否定の思想をもつ平民新聞が対露論に反対し、ほかに二つばかりの政府の御用新聞だけが慎重論をかかげているだけであった」(Ⅲ・「外交」)と書いていた。しかし、第7巻の「退却」の章で司馬は、「日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない」と断言し、「満州における戦勝を野放図に報道し続けて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり」、これが「のちには太平洋戦争にまで日本をもちこんでゆく」ことになったと新聞報道のあり方をも厳しく批判するようになるのである。実際、井口和起が『日露戦争の時代』において記しているように、日本軍の進軍の状況を記したことによって新聞の部数は、戦争の期間中増え続けていたのである*9。

 さらに、「西方のゲルマン文化を東方のロシアにうけわたす役割をした」ポーランドが、「ロシアの属領となってしまっているため、壮丁が大量に徴兵され、極東の戦線」で亡くなっているロシア帝国の悲惨な支配の状況を描いていた司馬遼太郎は、後にこのような「ロシアとポーランドの関係」が、「日本と朝鮮との関係とやや似ている」ことに気付き、「朝鮮を通じて大陸文化を受容した」日本が、「いちはやく近代化した」後では、「朝鮮を隷属させようとし、げんにこの日露戦争のあと、日韓併合というものをやってしまい、両国の関係に悲惨な歴史をつくった」と批判している(Ⅵ・「大諜報」)。

  しかも、司馬遼太郎はフィンランドを属国としたロシア帝国が「ロシア語をもって公用語」としたことに注意を促しているが、日露戦争に勝って強大な帝国となった日本が行ったのも朝鮮において日本語を強要するという帝国的な言語政策だったのである*10。

 こうして司馬はロシア陸軍の退却を描いた第7巻では、英国とは「情報によって浮上している島帝国」であり、強国が生まれそうになると、イギリスはすばやく手をうってきたと指摘し、日露戦争に際して「極東の弱小国にすぎない日本を支援」したのも、「英国の伝統的思考法から出たもの」と説明している。そして、「日露戦争におけるロシアは世界中の憎まれ者であった」が、それは英国が「タイムズやロイター通信という国際的な情報網をにぎって」いたからと指摘し、ロシアが英国と同盟してナポレオンと戦った時には、ロシア軍の「退却」は軍事的な「戦術」とされたが、英国が日本と同盟していた日露戦争に際しては、ロシア軍の「退却」は「敗北」として世界中に報道されたと記したのである(Ⅷ・「あとがき六」)。

 梅棹忠夫はそれまで「情報」という用語が「敵に関する知識という意味の軍事用語」であり、また「マスメディアに対するさまざまな統制をおこなう部署」も「情報局」と呼ばれたために、よい印象はなかったと記した*11。実際、それは過去のことにとどまるものではなく、現代にいたっても「イラク戦争」に際しては、敵と勇敢に戦ったとされた女性兵士のジェシカ・リンチの救出が映像とともに報道され、野蛮な敵と戦うこの戦争の正当性が強調されたが、後に本人自身の証言でこれが作られた情報であったことが明らかになったのである。

 さらに、1970年に行われた司馬との対談で梅棹は、「情報には一種の独自の論理」があるが、「権力とか財力とかと直接結びつくと、しばしば狂う」と述べて、情報と権力の癒着の危険性への鋭い示唆をしていたが*12、膨大な量の「言語」情報や「映像」情報による国際世論の操作は、「敵」の「野蛮性」を創り上げて戦争を起こすことやそれを正当化することも可能なのである*13。

 

2,「言語帝国主義」とEUの多言語政策

 この意味で注目したいことは、「フセイン体制」の打倒のためには先制攻撃ができるとしたアメリカのラムズフェルド国防長官が、国連による査察の最中に先制攻撃を行うことは「大義」を欠くことや、イスラム原理主義とは敵対する近代化政策をとったフセイン体制を充分な対策なしに打倒することは、権力の空白からむしろテロリズムを蔓延させるなどとして、この戦争に反対したフランスやドイツなどを「古いヨーロッパ」と呼んで批判していたことである。しかし、互いに「自国」を「正義」としながら戦争を拡大してきたこれらの国々には、自国を戦場とした2度の世界大戦での悲惨な体験への深い反省があったと思える。ここでは言語を中心にヨーロッパの歴史を簡単に振り返ったあとで、EUの言語政策の特徴をみておきたい。

 まず私たちは「文明語」の位置をめぐる激しい論争が近代に始まったことではなく、すでにローマ帝国とビザンツ帝国との間でもキリスト教の布教方法をめぐって起きていたことに注意を払いたい。

 ギリシア正教の宣教師であるキュリロス(スラヴ名キリル)は、スラヴ諸国での布教にあたって、誰もが理解できるように『聖書』の一部のスラヴ語への翻訳を9世紀に行った。これに対して当時ギリシア正教と並ぶ一大勢力であったローマ・カトリックは、ラテン語の権威を強調して、『聖書』の各国語への翻訳を認めなかったのである。筆者はこの論争の経緯をつまびらかにはできないが、「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神と偕(とも)にあり、言(ことば)は神なりき」*14という「ヨハネ伝第1章1節」の文章がこのような主張の根拠の一つであっただろうということは予想できる。その後西欧社会における科学の急速な発達にともなってラテン語は、「上位語」としての優位性を確保し、ニュートンの論文を読むためにもラテン語の知識が必要になったのである。

 しかし、「普遍語」としての地位が定着したかに見えたラテン語は、カトリック教会の内部から突き崩されることになる。すなわち、絶対的な権力を確立した後で、多くの点で形骸化し、腐敗すら顕著になったカトリック教会においても「神の代理人」としての教皇の権威は絶対で批判すら許されなかった。このような壁をうち砕いたのが、各人が神の声を聞くことができるという「良心論」と、ラテン語以外の言語でも神のことは伝えられるとする考えであり、その果敢な実行者であったルターは、『聖書』のドイツ語訳に着手したのだった。そしてライプニッツ哲学の継承者であったヴォルフはこのような考えに支えられて、プロテスタントの大学であったフライブルク大学でドイツ語による講義を行ったのである。この講義を聴講して感銘を受けた学生の一人が、当時ドイツに留学していた若きロモノーソフであり、かれはモスクワ大学を創立するとともに、公開講義をだれもが理解できるロシア語で行うようになるのである*15。

 ただここでラテン語から自立するようになった各国語が今度は、自国語の優位性を主張し始めることにも留意しておきたい。イスラム以外への十字軍の派遣はあまり知られていないが、プラハ大学総長フスの殉教後に起きたフス派戦争の際には、法皇やハプスブルク家の皇帝はチェコ人を「異端民族」と規定して大がかりな十字軍を派遣し、フス派の「神の戦士」は5度にわたってこれを撃退していた。しかし、30年戦争でのチェコの敗戦を契機とした暗黒時代(1648~1780年)には、カトリックの反宗教改革により、チェコ語の書物が焼かれドイツ語が公用語とされて、徹底したカトリック化とドイツ化が行われていたのである*16。

 この意味で注目したいのは、社会学者の作田啓一が「ナポレオン戦争を支えたフランス民族のナショナリズム」では、「フランス革命によって到達した民主主義的な諸価値を世界に拡げること」を「彼らの使命」としていたと指摘していることである*17。実際、ニコルソンによれば、ロシア侵攻の直前にナポレオンは「余の運命はまだ成就されていない。想定図はまだアウトラインが引かれたばかりだ。全ヨーロッパを、一つの法典、一つの通貨にしなければならない。ヨーロッパ諸国を併合して一つの国にし、パリをその首都にする」と語っていたのである*18。ここでナポレオンは言語については述べていないが、彼が

フランス語を「普遍語」として意識していたことはたしかであろう。「国民国家」から「帝国」へと発展したフランスでは、自己の獲得した諸価値を世界に拡げるために自国の言語を広めることも「彼らの使命」としていたのである。

 このことはロシアの知識人もよく知っていた。たとえばトルストイは「祖国戦争」を描いた『戦争と平和』の冒頭でロシアの貴族たちが、母国語であるロシア語でではなく「文明語」と見なされていたフランス語で敵のナポレオンを罵るという光景を描くことで、「周辺文明国」ロシアにおける「文明語」学習の問題点を見事に表現していた。そしてトルストイは、ボロジノの戦いに勝利してモスクワの町を見下ろしたナポレオンの次のような言葉を記すことで、彼がフランスを「文明」としたギゾー風の「国民国家」史観を受け継いでいることを明らかにして、このような歴史観が戦争を正当化させていることを見事に指摘していたのである。「野蛮と専制のこの古い記念物の上に、正義と慈悲の偉大な言葉を刻みつけてやろう。…中略…おれは彼らに正義の掟をあたえてやろう。真の文明の意味を示してやろう」*19。

 この意味で注目したいのは、比較文明学の視点から「言語と情報」の問題の重要性を指摘した梅棹が、「国民国家」フランスを建設したナポレオンの目標が「ローマ帝国の再現」であったことを指摘して、「国民国家と帝国とのねじれた関係」についての議論の深化をも求めていたことである*20。このとき梅棹の視野には、「言語・情報」の問題における「国民国家」の言語と「帝国」の言語との問題も入っていたと言っても過言ではないだろう。「国民国家」の成立に際して、「国語」が大きな役割を担ったように、「帝国」の形成においても言語がきわめて重要な役割を果たしていたのである。

 しかし、チェコにおける「言語帝国主義」と「民族語」の問題を考察した川村清夫は、ドイツ語を「文明語」としていたオーストリア・ハンガリー帝国では、チェコの裕福な知識人層もチェコ語を「半開の言語」とする政策に協力していたが、ナショナリズムが盛んになると母語の復権を求めたチェコ人の烈しい「言語権運動」が起き、それがハプスブルク帝国の崩壊を招いたと指摘している*21。

 さらに、フランス帝国の場合もロシアとの戦いでナポレオンが大敗を喫すると、それまで軍事力の前に面従腹背していたヨーロッパの諸国が一斉に反攻に転じて、「諸国民の解放戦争」を起こし、それまで「普遍語」として通用していたフランス語もその地位を失ったのである。しかも神川正彦はソ連を帝国と規定した梅棹の先見性に注目しているが*22、ソ連が崩壊する時期にバルト諸国を始め、各共和国で見られたナショナリズムの昂揚の一因となったのも、「文明語」としてロシア語の学習を強要した、共和国政府側の「周辺文明国」的な言語政策に対する反発だったのである。つまり、経済効率や情報処理の面からの「文明語」重視の言語政策は、一時的には効果をもたらすが、長い目で見るときむしろ大きな民族問題を引き起こすのである。

  このように見てくるとき、自国語以外に「たとえそれが簡単なレベルであったとしても」、「二カ国語以上で話ができる」ようにすることが、「異なった文化や言語で生活している寛容さと理解を深めることにつながる」とした1998年に欧州評議会の勧告の意味がはっきりとしてくる*23。

 つまり、加藤周一が説明しているように「文明語」の学習に際しては、「力関係が絶えず一方に傾斜」し、「どうしても先生と弟子の関係になりがち」であるので、「相手を理想化してそれに近づこうとする傾向」や「劣等感が生じ」るのである*24。実際、記憶だけでなく舌や口構えなど身体的な面でも「自己の他者化」を要請するような外国語教育は幼児期における自己の確立を損なう危険性が強く、他方、「外国語の学習」を強要することは、その外国語の属する文明が自国よりも「上位の文明」であるという錯覚や劣等感を学習者に対してもたせることになる。このことは、「文明」語の学習における劣等感とその反撥としてのナショナリズムが生まれる心理的な過程を物語っていると思える。

 なぜならば、「文明語」の習得の過程で、生徒たちが感じた自国の歴史や文化に対する劣等感をうち消すためには、バランスをとるためにも授業のなかで「自国の価値」を強調し、「国民」としての一体感を認識させることが必要とされるのである。それゆえ、自国が富国強兵に成功した際には、これまでの反撥から一気に優越感に転化し、自国語を「帝国語」として学習させたいとする欲望が生まれるのである。

 しかも、「文明語」の習得の問題は学習者だけに生じるのではなく、他国の人間もまた苦労しながら懸命に語学を習得して、語ろうとする姿を見るとき、「文明語」を母国語としている者に、自国の文化が他の文化よりも優れているという先入観や、たどたどしく「文明語」で語る外国人の考えよりも自分の考えの方が優れているという、いわれなき優越感すらも抱かせることになるのである。自国を「文明」として他国を野蛮視するというナポレオンやブッシュ大統領が抱いた自己(自国)中心的な文明観は、このような「文明語」の優位性とも深く係わっているだろう。

 すなわち比較文明学の創始者といわれるトインビーは、世界戦争を引き起こすにいたった近代西欧の「自国」中心の歴史観を「自己中心の迷妄」と厳しく批判したが*25、EUの言語政策には、互いに「自国」を「文明」として、歴史だけでなく、言語をも「文明ー半開ー野蛮」に序列化してきたことが、「他国」の反発を招き戦争を生んできたことへの深い反省があると言っても過言ではないだろう。

 このようなEUの言語政策から見るとき、『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬遼太郎が、「コトバの窓」という概念を用いながら、自分が英語以外にも数カ国語を学んだことで、日露戦争や「世界じゅうの事柄を、自分がすこしでもかじったコトバ(モンゴル語、中国語、ロシア語)の窓からみること」ができたとし、情報の面でも一定の視点や情報量の多さからではなく、多様な視点からみることの必要性を記したことの意義が明らかになる*26。つまり、現在の世界では英語という「窓」がもっとも見通しがよく、広い「窓」であることは確かだ。しかし、司馬の「コトバの窓」の例にならって言うならば、「広い窓」から見える景色がいかに美しく見えても、これまで見てきたように別の角度から見る時、全く違う様相を示す可能性があるのである。重要なのはただ一つの「窓」を通して一つの価値を学ぶだけではなく、できるだけ多くの「窓」を通してその国の文化や歴史を学ぶことにより、様々な「文明」の持つ価値観を理解することで、「共存の可能性」を探ることであろう。

 それは梅棹忠夫の「情報論」の意義を解説した高田公理が、「単一の言語の過剰な普及は、のぞましいことではない。言語をふくめて異質な文化が、相手の存在を許容しながら『やりとり』することこそが、めざされるべきである」と述べたこととも重なるのである*27。

 

3、「文明語」の重視とその心理的弊害

  では、日本における言語政策はどうであろうか。「文明開化」を主導した福沢諭吉は、「情報量」の視点から「東洋に行はるるものは、英語を最とし、此語を以て英米人と他国人と語るのみならず、他国人と他国人と語るの方便とも為る可し」とし、それゆえ日本人は子供の頃から「自国のいろはと共に英文字を学び、少しく長じて日常の用文章に兼て、英文の心掛けこそ大切なる可し」として、「文明語」としての英語習得の必要性を強調していた(F・Ⅶ・208~209)。

 このような福沢の言語観は敗戦後の日本にも受け継がれて、一時は敵性語として排除されていた英語が今度は「文明語」として中学校の必修科目として指定され、さらに「グローバリゼーション」が進むと1999年には小渕内閣の私的懇談会によって、「グローバル・リテラシー(国際的対話能力)」の確立のための英語の重要性がうたわれ、さらに翌年には英語を「第二公用語」とすべきとの報告書が提出された。また、これに呼応する形で「小学校英語教育学会」も設立されて、2002年には小学校での英語教育も始まったのである。

 この意味で注目したいのは、公文俊平が大著『情報文明論』において、日本語のもつ問題点にも言及しながら、インターネットの急速な普及を理由に、英語公用語論など現在の言語教育に結びつくいくつかの重要な提言をしていることである。彼の議論はその後の言語教育にも大きな影響力を持ったようにみえるので、ここでは語学と情報の面に限って、少し考察しておきたい。

 彼はここで、「漢字の使用が、コンピューターによる情報処理にとっての大きな制約要因」となることを指摘するとともに、「日本語を使ってのコミュニケーションは、情緒に支配される度合いが相対的に大きく、ともすれば相手の論点への批判が人格的な攻撃としてみなされてしまったり」することもあると指摘した*28。実際、幕末におけるナショナリズムの問題を分析した平川祐弘も、「複数の異質な要素から成立つ国民を統合するためには論理的な説得力が必要とされようが、日本のような均質な国民を動かすには、情緒に訴える言葉がある程度まで有効に作用する」と述べて、「尊皇攘夷」や「米英撃滅」などの4字の漢字熟語の問題点を指摘していた*29。

 こうして、公文俊平は「私は、長期的には日本人は”バイリンガル”な言語使用国民となることを決心ーーたとえば日本語と英語を共に公用語とするといったようなーーすべきではないかと思う」と結論したのである*30。このように見てくる時、公文の英語公用論はかなりの説得力を持っているように見える。                           

 しかし、「英語公用語」の問題を現代アフリカの状況から考察した小川了は、多くの民族によって国家が形成されているアフリカ諸国においては、「いずれかが得をするのではなく、すべてが平等に学び取ってゆかねばならない言語」として公用語が採用されているという特殊な事情を説明するとともに、公用語の採用は英語を習熟した者には可能性を与える一方で、そうでない者からは立身出世の可能性すらも奪うことになり、統治する者と統治される者という「強者と弱者の二極分化はますます大きくなる」危険性を指摘している*31。

 ここで注目したいのは、日本より約150年も前に「文明開化」が行われたロシアでは、すでにそのような「二極分化」が発生していたことである。すなわちピョートル大帝の改革の結果、西欧の言語を習得して専門的な知識を有する若者が一代で貴族にまでも立身出世できる制度が生み出されていた反面、税の実質的な負担者である農民や町人の生活はいっそう悪化していたのである。それゆえ、プーシキンの友人でもあったデカブリストの詩人キュヘリベッケルが、フランス語で会話していたロシアの宮廷を批判して、「あそこではロシアの言葉を話さず、聖なるルーシ(訳注、ロシアの古称)を嫌悪する!」と叩きつけるように書いたように*32、宮廷ではロシア人の母語であるロシア語を、粗野な農民の言葉として軽視するようにさえなっていたのである。

 こうしてドストエフスキーがロシアの上層階級におけるフランス語崇拝を指摘しつつ、ピョートル大帝の改革が外国語を話す貴族と話せない民衆の二つの階層に分裂させたとし、民衆は外国語の習得により立身出世して富を得た階層を外国人と見なすようになっているとしたような事態が生まれたのである*33。こうして外国語を話す能力がある者が出世し、母国語を話しながらも外国語ができないばかりに、二流とされ出世の可能性も与えられなかったロシアでは、支配されつづけることへの民衆の鬱積した反発が、革命へとつながる大きな一因となったといえよう。

 ロシアと同じような事態は、「文明開化」後の日本でも起きた。ロシア知識人の西欧かぶれを痛烈に批判したドストエフスキーの短編小説『鰐』をドイツ語から訳した森鴎外は、ドイツに留学中に起きていた「英語公用語」論について、「国民性(ナショナリティ)の維持。『読売新聞、英語を邦語と為すの論』を反駁すること」とし、かつての「フリードリヒ大王の母国語蔑視、フランス語崇拝という倒錯」を指摘しながら、「文明は歴史的基礎の上に立脚している」と続けて、特定の「文明語」の偏重や母国語軽視を厳しく批判していた*34。

 司馬遼太郎もすでに陸軍ではドイツ式が採用されていたことにふれて、秋山好古がフランスへの留学を決めたとき、「陸軍における栄達をあきらめた」とも書いていた。つまり、福沢諭吉は『学問のすゝめ』(1872年)において、「人は生まれながらにして貴賤貧富の別なし。唯学問を勤(つとめ)て物事をよく知る者は貴人となり、富人となり、無学なる者は貧人となり、下人となるなり」として学問の効用を説いていた(F・Ⅳ・291)。しかし司馬遼太郎は、英語ができなかったばかりにすぐれた能力をもっていた正岡子規が「貧人となり、下人となり」かけたことを指摘したが、立身出世を成し遂げるためには国家や組織が求める「文明語」の習得が不可欠だったのであり、それ以外の言語の学習はむしろ出世の邪魔だったのである。

 それゆえ、司馬は「日露戦争の終わりごろからすでに現れ出てきた官僚、軍人」などの「いわゆる偉い人」には、「自分がどう出世するかということ」には「多くの関心」があったが、「日本の人民」も含む「他者を愛する思想はなかった」とし、さらに言葉を継いで「地球や人類、他民族や自分の国の民族を考える、その要素を持っていなかった」と記して厳しく批判したのである*35。それは『冬に記す夏の記録』(1863年)において、西欧文明を絶対視するロシアの知識人を「文明の普及者という己が使命にうぬぼれきって」、「文明の曹長とでもいった顔付で、民衆の上に君臨している」と厳しく批判し、ロシアの将来への危惧を示したドストエフスキーの言葉を想起させるのである*36。

 こうして『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬遼太郎は、陸軍の「参謀本部はドイツ式となった」ため、「当然、語学の中心はドイツ語になり」、また「すべてのシステムをイギリスから」買った「海軍は英語が中心」となったと記し、「明治時代は大変な模倣の時代」だったと批判して、「上位文明」と見なした言語の強制的な学習が、情報だけでなく、視野をも制限するという弊害をもたらしたことを指摘したのである*37。 

 さらに戦前の日本には、「たいへん本を読んでいてなんでも知っている」が、出世ができず「不遇感がいっぱいあって、また英語に対して異様な劣等感」を持った「偏狭という点でいちばん危険なナショナリスト、というタイプ」が村役場の係長や中小企業の課長などにいたと指摘し、「いまもいます」と続けた司馬は、戦後の言語教育についても「日本人は、中学から英語を学ぶ。趣味で習うならいいけど、点数がついて、生徒としての優劣がついて、さらには高校や大学の入学試験まで左右してしまう」と批判して英語を「文明語」として「日本語」よりも高い位置に置く、現在の言語教育に鋭い疑問を投げかけたのである*38。

 養老孟司の「科学と国民の距離ーー英語で論文を書く理由」と題するエッセーは、最近の日本においてはこのような傾向がさらに強まっていることを鋭く批判しえている。ここで養老はまず、現代の日本では「科学者の世界で評価されるには、論文を英語で書かなければならない。日本語で論文などを書いたら、二流以下と見なされる」ことに注意を促して、「科学が日常に繋がるものなら、それが日本語で書かれてまったくおかしくない。そうなってない世界がおかしいのである」と断言し、「価値のある日本語論文なら、外国人は自分で読めばいい。あるいは翻訳すればいい。いまでは翻訳ソフトまであるではないか。それが公平というものである」と批判したのである*39。この養老が最近出した著書は、驚異的なベストセラーとなったが、このことは現代日本の言語政策に対する若者や中高年層の不満がどの程度深く、また草の根のレベルでいかに広がっているかをも示しているだろう。

 たしかに、すでに見たようにドイツの哲学者ヴォルフやロシアの科学者ロモノーソフは、新しい知識を多くの者が理解しやすいようにと母国語での講義を行っていたが、現代の世界で「グローバリゼーション」という名のもとに起こっているのは、全く反対の事態なのである。

 梅棹忠夫はコンピューターが「計算と情報ストックのためには、はなはだ有用である」としつつも、「言語を主体とする人間の知的生産に対しては、はたしてどれほどの革命をもたらしうるかは、いまのところ疑問」としていた*40。すなわち、梅棹が提起したローマ字論の問題は誤解されて、主に「効率化と有用性」の視点から議論されてきたが、母国語の問題は単に「情報の量」だけには還元できない重要な「固有の価値」の問題が含まれているのである。

 このことを「言語とアイデンティティ」の問題の重要性に気づいた司馬遼太郎の次のような言葉はよく説明しえているだろう。すなわち司馬は、「言語の基本(つまり文明と文化の基本。あるいは人間であることの基本)は」、「母親によって最初に大脳に植えこまれた」「国語なのである」として、幼児期からの母国語によるきちんとした言語教育の重要性を強調している*41。さらに司馬は、その頃すでに持ち上がっていた「日本人は英語がへただから、多くを語らず、主張もひかえ目にする」という論理に対して、「そういうことはありえない。国語がへたなのである。英語なんて通訳を通せばなんでもない。いかに英語の達人が通訳してくれても、スピーカーの側での日本語としての国語力が貧困(多くの日本人がそうである)では、訳しようもない」と鋭い批判を放っているのである。

 たしかに、基礎となるのは見たこと聞いたことの感動や自分独自の思考をきちんと相手に伝え、また相手の言葉の細やかなニュアンスを理解しうるだけの「母国語」の能力なのである。このような司馬の発言は、翻訳ソフトも急速に整い、伝達の「手段」から、伝達する「内容」が問われるようになってきている現在、いっそう現実味を増しているといえよう。実際、「文明」の側から発せられる膨大な量の情報に左右されずにきちんとした判断をなせるためには、まず日本語の理解力と表現力の発展が必要なのである。

  このような司馬遼太郎の言語観は、梅棹の言語・情報観を文学者の視点からうまく説明しえていると思える。なぜならば、司馬は自分自身ではローマ字論を唱えなかったものの、桑原武夫などによるローマ字論の実践を、言語における伝達の機能に注目しつつ、自分の考えを分かりやすく相手に伝えるという日本語の機能を高めるものとして、文体論的な視点から高く評価していた。つまり、梅棹のローマ字論は情報のハードウェアとしての日本語の改良の手段としての性格が強かったのである。

 こうして、司馬は幼児期からの外国語教育は、言語によってでは自分を表現できない情緒の不安定な人格を生み出す危険性があると考え、すべての日本人をバイリンガルにするのではなく、すぐれた通訳と翻訳者を養成する必要性を説いたのである。このような司馬の論説は、なぜ梅棹が外国での講演を日本語で行ったかも説明しえているだろう。すなわち、梅棹は「日本文明の位置」と題したフランスでの講演で、日本は「国際的孤立主義の傾向から脱して、国際的な情報交流に積極的に参加しなければならない時期にきて」いると語った*42。この文章を読んだ多くの読者はこれが欧米語の学習の必要性を説いていると感じるであろう。しかし日本語による情報の発信を重用視した梅棹は、これを日本語で通訳をつけて語っていたのである。

 この意味で注目したいのは、『坂の上の雲』において日本の短歌の改革に大きな足跡を残した正岡子規が夏目漱石に及ぼした影響を描いていた司馬における漱石観の深まりである。たとえば、司馬遼太郎はリービ英雄との対談で「ぼくは年をとって、漱石が好きという以上に恋しくなっています」と言い、「文明語」である英語の第一人者であったにもかかわらず、イギリスの留学で日本人としてのアイデンティティの危機を体験した後には、自らの特権的な地位を捨てて、小説家となり多くのすぐれた作品を生みだした漱石への共感を示し、さらに「漱石において、ラブレターも書けて地球環境論も論じられる、そういう文章日本語が成立した」と続けて、文体論の視点からも漱石を高く評価していることである*43。

  こうして夏目漱石や梅棹忠夫とともに近代日本の「文明開化」の模倣性を鋭く指摘した司馬遼太郎は、『菜の花の沖』において「江戸期はふしぎな時代であった」と記し、「鎖国社会を形成しながら、その箱のなかのひとびとの知的活動は、つねに唐(中国)と阿蘭陀(オランダ)の二つの異文化を日本と対置しながら物を考える」という比較の精神を有していたと書くことになるのである。そして司馬はアイヌ語を「野蛮語」としてさげすむことなく自ら習得していた高橋三平や高田屋嘉兵衛など新しい「知的なグループがすでに江戸に存在していた」ことに注意を向けて、「半開」とされた「後期江戸時代」が、「文明ー半開ー野蛮」という序列化を批判するような、換言すれば、すでに現代のEUの言語政策を先取りするような世界観をもった真に独創的な思想家を生み出していたことを明示したのである*44。

 「何のための外国語教育?」と題した『日本語教育新聞』の特集は、日本の市民社会の「根強い排他性」や「非国際性」に注意を促して、EUの言語政策と比較しつつ、「外国語教育といえば、英語一辺倒である」日本政府の「戦略」に強い疑問を投げかけ、「国際化」の真の意味を、「再度定義し直す必要」を強調している*45。たしかに、言語が思考と密接な関わりを持っている以上、国家レベルで「文明語ー国語ー方言」という序列化を認めるような言語教育を行うことは、個人のレベルでも生徒に「強者ー自己ー弱者」という差別化を認めさせ、強者へのあこがれを生み出させるとともに、弱者に対する「いじめ」をも正当化させる根拠を与えてしまう危険がある*46。強い「グローバリゼーション」の流れの中にある現在こそ、「文明開化」の際の言語教育の問題点を反省して新しい「言語教育」のあり方を示すべきであろう。 

 

結語

  福沢諭吉は『学問のすゝめ』(1872年)において、学問の効用を説いた後で、「専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」と続けていた。しかし、1978年に行われた対談で、司馬は明らかにこの福沢の言葉を意識しながら、日本は明治以降に「有用の学問をしすぎた」ために、強国となり「野蛮になった」と語った*47。興味深いのは司馬のこの言葉を受けて梅棹が、国立民族学博物館は「虚学の世界で、あんまり実際の役」にたたないが、「それはそれでいい」と語り、ここでは「おなじ平面に世界中の文化をならべてみた」と述べ、司馬も「単一性」が高く、「無用の愛国心へ逆もどりするおそれのある」日本社会においてこの博物館ができたことの意義を高く評価していることである。

 実際、これまでの歴史は言語的な「情報の量」から、「鎖国」を「半開」と、無文字社会を「野蛮」と規定してきたのである。しかし、梅棹はシンポジウム「言語と文字の比較文明学」において、「言語をもたない社会は存在しえないが、文字をもたない社会はいくつもある。われわれは現代世界において、文字をもたない人びととともに共存しています」と述べて、このような「言語的な情報の量」による序列化を厳しく諫めていたのである*48。

 一方、「水火を制御して蒸気を作れば、太平洋の波濤を渡る可し」とした福沢諭吉は、「智勇の向ふ所は天地に敵なく」と判断し、「山沢、河海、風雨、日月の類は、文明の奴隷と云う可きのみ」と断言して、「文明」による「野蛮」の支配や征伐と同様に、「文明」による「自然支配」の正当化も『文明論之概略』において行っていた(F・Ⅳ・144)。 福沢諭吉の比較文明論的な視野と方法を高く評価した神山四郎は、このような見方が「産業革命時のイギリス人トーマス・バックルから学んだ西洋思想」であり、「それが今日の経済大国をつくったのだが、また同時に水俣病もつくったのである」と批判し、「明治には『奴隷』と思った自然から今はしっぺ返しを受けている」とした*49。実際、今でも「自国」を「文明」と主張するブッシュ政権は、温暖化防止のための京都議定書などへの調印をこばんでいるが、無理矢理「支配」されてきた自然は、人類の生存をすらも脅かすようになってきているのである。

  比較文明学会・前会長の伊東俊太郎は、近代西欧の歴史観が「ナショナリズム的な『国家史観』」の影響下にあったことを指摘しつつ、戦争の悲惨さや環境問題にも注意を促して、トインビーの業績や「自然の概念」の重要性をとおして「地球文明史」の成立の必要性を説いている*50。

 この意味で注目したいのは梅棹忠夫が、「情報の文明学ーー人類史における価値の転換」において、「すべての存在それ自体が情報である。自然もまた情報である」と記し*51、「情報はすでにひとつの環境である」、「人類史における情報の問題は、すでに人間対人間のコミュニケーションの話ではなくなってきている」と規定したことである*52。これらの規定は画期的であり、それは彼の「情報論」の視野が「地球環境」にも向けられていることを物語っている。すなわち、樹木や川、海などの自然は、「言語的な情報」を自ら発信しないゆえに、「文明」の側からは無視あるいは軽視されてきたが、「情報のとらえ方」を換えることで、これまでの「文明ー半開ー野蛮」という序列化を進めることになった「自己中心的な」歴史観や言語観をも根底から変革する可能性が生まれるのである。

 今、焦眉の課題としてあるのは、英語を「文明語」として必修化している現在の一元的な言語教育を、多様な語学から自分の関心のある言語ーーたとえば環境問題に関心のある者はドイツ語を、絵画にあこがれる者はフランス語を、文学に興味があればロシア語を、そして、アジアに関心があるなら中国語や韓国語ーーを選べるような教育システムへと変換することであろう。そのことにより、様々な「文明」の持つ多様な価値観や、さらには物言わぬ「自然」の価値をも理解しうるような「情報・言語」観を確立することが、はじめて可能になるのである。

 追記:明治期の語学教育と「欧化と国粋」の二極化の問題については、新聞記者・正岡子規に焦点を当てて『坂の上の雲』を考察した『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015年)参照。

 isbn978-4-903174-33-4_xl

*1  梅棹忠夫、『近代世界における日本文明ーー比較文明学序説』中央公論社、2000年、149頁

*2  同上、279~80頁  

*3  以下、『坂の上の雲』からの引用は、文春文庫版により、箇所は本文中にローマ数字で示した巻数と章の題名を記す。なお、『坂の上の雲』の分析については、高橋『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』のべる出版企画、2002年、第2章「『文明の衝突』と『他者』の認識」、および中島誠・文/清重伸之・絵『司馬遼太郎と「坂の上の雲』現代書館、2002年参照

*4  桜井哲夫『「近代」の意味ーー制度としての学校・工場』、NHKブックス、1984年、50頁、58~9頁

*5  田中克彦『ことばと国家』岩波文庫、1981年参照

*6  福沢諭吉『福沢諭吉選集』第7巻、岩波書店、208頁(以下、この選集をFと略し、引用箇所は本文中に巻数はローマ数字で、頁数は算用数字で示す)。

*7   Bokl’G.T., Istoriya tsivilizatsii v Anglii,Spb.,1896,vol.1.,pp.75-78

*8  俵木浩太郎『文明と野蛮の衝突--新・文明論の概略』ちくま新書、2001年、181~2頁

*9  井口和起『日露戦争の時代』吉川弘文館、1998年、150~2頁

*10 言語帝国主義とアイデンティティの問題については、三浦伸夫「文明史の中の交流言語」『比較文明』第16号、刀水書房、2000年参照

*11  梅棹忠夫、前掲書(『近代世界における日本文明』)、279~80頁

*12 梅棹忠夫編著『日本の未来へーー司馬遼太郎との対話』NHK出版、2000年

*13アメリカ軍の占領下に行われた原子爆弾の悲惨さの隠蔽については、高橋『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』、のべる出版企画、2002年、113~4頁参照

*14『旧新約聖書』日本聖書協会発行、1967年

*15 高橋「ロシアの文明開化ーーロモノーソフとモスクワ大学」『望星』11月号、東海教育研究所、1992年、14ー19頁参照

*16  ザツェク「チェコスロヴァキアのナショナリズム」『東欧のナショナリズムーー歴史と現在』東欧史研究会訳、刀水書房、1981年、140~3頁。なお、ロスティンスキー「マサリクによるドストエフスキーの考察」高橋訳注、『ドストエーフスキイ広場』第4号、1994年、19~27頁参照

*17  作田啓一『個人主義の運命ーー近代小説と社会学』岩波新書、1981年、107頁

*18ニコルソン『ナポレオン1812年』、白須英子訳、中公文庫、1990年、20頁

*19 トルストイ『戦争と平和』(『世界文学全集』第20巻)、中村白葉訳、河出書房、昭和41年、230頁。両小説の比較については、高橋「司馬遼太郎のトルストイ観ーー『坂の上の雲』と『戦争と平和』をめぐって」『比較思想研究』第30号、日本比較思想学会、2004年参照

*20  梅棹忠夫、前掲書(『近代世界における日本文明ーー比較文明学序説』)、342~5頁。なお、司馬遼太郎における「国民国家」と「帝国」の問題については、高橋「『明治国家』から『日本帝国』へーー司馬遼太郎の歴史認識」『比較文明』第19号、日本比較文明学会、2003年参照

*21  川村清夫「言語と民族主義」『比較文明』第16号、刀水書房、2000年、134~8頁

*22  神川正彦『クォータリーリサーチレポート』第11号、日本価値観変動研究センター、2003年、2頁

*23「特集・何のための外国語教育?ーー日本とEU、言語政策の差」『日本語教育新聞(欧州版)』2003年、7月15日号、第2面参照

*24  加藤周一「日本にとっての多言語主義の課題」『多言語主義とは何か』藤原書店、1997年、298頁

*25 トインビー『歴史の研究』第2巻、長谷川松治訳、社会思想社、昭和42年、75~6頁

*26  司馬遼太郎『司馬遼太郎が語る日本Ⅴ』朝日新聞社、1999年、87頁

*27  高田公理「マルクスをこえる最後の文明史論」『情報の文明学』、305頁

*28  公文俊平『情報文明論』NTT出版、1994年、400~403頁

*29  平川祐弘、『西欧の衝撃と日本』講談社学術文庫、1985年、135頁

*30  公文俊平、前掲書、402頁

*31  小川了「公用語の思想と機能」『比較文明』第16号、刀水書房、116~120頁

*32 ロトマン『文学と文化記号論』、磯谷孝編訳、岩波書店、1979年、302頁

*33 日本とロシアの「文明開化」の類似性については、高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、2002年参照

*34  平川祐弘、前掲書、210頁より引用

*35 司馬遼太郎『「昭和」という国家』NHK出版、1998年、29~31頁

*36  Dostoevsky,F.M. Polnoe sobranie  sochinenii v tridtsati tomakh, Leningrad, Nauka、T.5.,pp.59-60、『ドストエフスキー全集』新潮社、第6巻、小泉猛訳、27頁

*37  司馬遼太郎、前掲書(『「昭和」という国家』)、133頁

*38  司馬遼太郎「新宿の万葉集」『九つの問答』朝日新聞社、1995年、96~7頁

*39  養老孟司「科学と国民の距離ーー英語で論文を書く理由」毎日新聞、2002年11月10日

*40  梅棹忠夫『情報の文明学』中公文庫、1999年、296頁 

*41  司馬遼太郎「なによりもまず国語」『一六の話』中公文庫、1997年、367頁

*42  梅棹忠夫『日本とは何かーー近代日本文明の形成と発展』NHK出版、1986年、38頁

*43  司馬遼太郎「新宿の万葉集」『九つの問答』朝日新聞社、1995年、101~2頁

*44  司馬遼太郎『菜の花の沖』文春文庫(新版)、第3巻、2000年、167~9頁

*45  「特集・何のための外国語教育?ーー日本とEU、言語政策の差」『日本語教育新聞(欧州版)』2003年、7月15日号、第3面

*46  この問題については、高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、刀水書房、2002年、第5章「非凡人の理論」参照

*47  梅棹忠夫編著、前掲書(『日本の未来へ』)、177頁 

*48  梅棹忠夫、前掲書(『近代世界における日本文明』)、159頁。なお、米山俊直「アフリカ地域の文明」(伊東俊太郎・梅棹忠夫・江上波夫監修、米山俊直・吉澤五郎編『講座比較文明』第2巻)、朝倉書店、1999年参照

*49  神山四郎『比較文明と歴史哲学』刀水書房、1995年、115頁

*50  伊東俊太郎『比較文明』東京大学出版会、1997年、24~5頁

*51 梅棹忠夫、前掲書(『情報の文明学』)、209頁

*52 同上、222頁

 

 【『東海大学外国語教育センター紀要』第24輯、2004年。本稿は2002年に国立民族学博物館で行われた比較文明学会において口頭発表した論文に、その後の考察を加えて大幅な改訂を行ったものである。なお、本稿では敬称は略した】

リンク→英語教育と母国語での表現力――「欧化」と「国粋」の二極化の危険性

「研究活動・前史」と「引率時の体験とIDSでの発表」など

「研究活動・前史」

都立広尾高等学校に在学中はベトナム戦争の時期だったこともあり、文学作品だけでなく宗教書や哲学書を夢中になって読みふけっていた。このころに「他者」を殺すことで、「自分」を殺してしまったという哲学的な言葉が記されているドストエフスキーの『罪と罰』や、自己と他者との深い関わりが示唆されていた『白痴』と出会ったことがロシア文学に関心を持つきっかけとなった。

 東海大学文学部文明学科ヨーロッパ専攻に入学した後、ブルガリアのソフィア大学に2年間留学して、「辺境」の「小国」と思われていたこの国で学び、東ローマ帝国と「ブルガリア帝国」との関わりを詳しく知った。

この時期に東欧の視点から西欧やロシアを見ることができたことが私の文明観の形成したばかりでなく、『坂の上の雲』などの司馬遼太郎の作品への関心を深まる遠因ともなったと思える。

 大学院文学研究科(文明研究専攻)の時期には1年間モスクワ大学に留学してドストエフスキーの初期作品の研究をした。

   *   *   *

「引率時の体験とIDSでの発表」
引率教員としてモスクワを訪れた1986年にはチェルノブイリ事故と遭遇して、原子爆弾や原子力発電の問題の大きさを再認識することになった。

 国際ドストエーフスキイ・シンポジウム(IDS)への参加
リュブリャーナで行われた1989年の第7回大会では、『罪と罰』における「良心」の問題を発表したが、この時期には旧ユーゴスラヴィアの共和国間の対立が芽生えていた。その後の経過からは、それまで仲良く共存していた民族でも過去の問題を互いに非難し始めると戦争にまで到ることを痛感させられた。オスロで開かれた1992年の第8回大会の帰途では混乱期のロシアと遭遇した。             

1994年4月から1年間は、ロシアと日本の近代化の比較をテーマとして、イギリス・ブリストル大学のロシア学科で研究したが、この時にイギリスの近代化をも視野に入れた研究することができたことで私の視野も広がり、ほぼ私の文明観や研究方法が定まったと思える。

*   *   *

「追記」

中学時代の初めに読んだ本で印象に残っているのは、武者小路実篤の作品だった。今になってみるとこのときの読書体験が、『白痴』や『イワンの馬鹿』との出会いを準備していたと思える。下村湖人の『次郎物語』を読んだことで社会的な視野が広がり、夏目漱石の『坊っちゃん』や『三四郎』、島崎藤村の『破戒』や芥川龍之介の作品などの読書へとつながった。

高校時代には文芸部に入っていたこともあり文学書は乱読したが、『論語』や『聖書』、仏教書の他にキルケゴールの『死に至る病』なども頭をひねりながら読んだ。ドストエフスキーの長編小説を読み終えた後で、プーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』やツルゲーネフの『その前夜』、さらにはトルストイの『戦争と平和』などを読んだことが現在の研究につながっていると思える。

(7月7日に記載、12月23日加筆)

黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎 

 

黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎         

 一、フクシマの悲劇

 二〇一一年三月一一日に東日本大震災が起きたのは、大学の会議が終わった直後のことで、立っていることも出来ないような大きな揺れだった。慌てて会議室から外に出たあとでもう一度大きな揺れを感じながら、地殻変動でできた日本が地震大国であることを実感した。

 しかも、一九八六年のチェルノブィリ原発事故の際には長期留学生を引率してモスクワに滞在しており、風向きによっては被爆する可能性もあったが、ソ連のニュースだけでなく、日本大使館からもほとんど情報が伝わらずに、西欧から来た留学生たちが自国の大使館から得てくる情報に頼るしかなかったという経験をしていた*1。

 テレビやインターネットに映し出された福島第一原子力発電所の静止画像から目を離すことができずに食い入るように画像を見つめ続けていた私は、同僚の一人から日本の技術は進んでいるので大丈夫ですよと慰められた。

 しかし、イギリスのブリストル大学で研究をしていた一九九五年一月には、日本からの電話で慌ててテレビのニュースをつけると阪神淡路大震災で町中が燃えており、翌日には大地震でも大丈夫と喧伝されていた高速道路の橋桁が大きく曲がっている写真が大きく新聞に載っていた。その記事を読みながら、関東大震災から五〇年目の一九七三年に発表された小松左京の『日本沈没』を思い出して、日本では自然の恩恵は強調する一方でその猛威に対する認識はきわめて甘いのではないかという不安を強く持っていた。

 実際、大地震で止まった電車の回復を待っている時に福島第一原子力発電所の「炉心が冷却できない状態にある」ことを知った。翌朝も目覚めてからは三〇分おきにテレビのニュースで何事も起きていないことを確認していたが、午後四時過ぎに危惧していたことが起きた。

 一号機が水素爆発を起こしたあとで明らかになったのは、政・官・財が一体となって「絶対安全」だと宣伝していた原子力発電所には原子炉を冷やすために水を放水する消防車やきちんとした防護服もなく、さらに日本が最先端の技術を有すると誇っていたロボットも動かなかったことである。そして、使用済み核燃料が放置された古タイヤのように燃え出し、原子炉がメルトダウンして放射線が空気中に放出されただけでなく、被爆した大量の水が海に流れ出た。チェルノブイリ原発事故にも匹敵するような大事故は、核実験を続けてきたフランスやアメリカの技術支援によってようやく、最大の危機を脱したが、汚染水の流出は事故から三年経った現在も止まっていない。

二、黒澤映画《夢》と長編小説『罪と罰』における夢の構造

 刻一刻と悪化する福島第一原子力発電所の状況を見ながら思い起こしたのは、一九九〇年に公開された全八話からなるオムニバス形式の映画《夢》の第六話「赤富士」で今回の事故を予言していたとも思えるほどの迫力で原発事故が描かれていたことであった。

 アメリカの水爆実験によって被爆した「第五福竜丸」事件の後で撮った映画《生きものの記録》(シナリオの最初の題名は『死の灰』)では、原爆実験や核戦争の危険性を本能的に感じて日本からブラジルへと移住しようとした老人の決意と苦悩を描き、そのラスト・シーンでは精神を病んで精神病院に収容された主人公が夕日を見て「とうとう地球が燃えてしまった!!」と叫ぶシーンを描いていた*2(『全集 黒澤明』第四巻、一四〇頁――以下、巻数をローマ数字で、頁数を漢数字でかっこ内に記す)。

 その場面からは私は『罪と罰』のエピローグでラスコーリニコフが見る「人類滅亡の悪夢」を強く連想したが、富士山に建設された六つの原子力発電所が事故で次々と水素爆発を起こすという「赤富士」のシーンで黒澤明監督は、子供を連れて逃げ惑う母親に「原発は安全だ」と説明し原発を「国策」として推進してきた関係者を「縛り首にしなくちゃ、死んでも死にきれないよ!」と悲痛な声で批判させていた(Ⅶ・二〇)。

 それゆえ、制作費などさまざまな問題などを乗り越えて、この映画を公開していた黒澤明監督の先見の明を改めて強く感じるとともに、原発の危険性に気付きながらもあまり発言をしてこなかった自分の不明を深く恥じた。

 しかも事故後に『黒澤明の遺言「夢」』という著作を読んで、映画《夢》(一九九〇年、脚本・黒澤明)の「ノート」に、黒澤明監督がドストエフスキーの『罪と罰』に記された「やせ馬が殺される夢」の一節をそのまま書き写しただけでなく、その横に「夢というものの特質を把握しなければならない。現実を描くのではなく、夢を描くのだ。夢が持っている奇妙なリアリティをつかまえなければならない」というメモを記していたことを知った*3。  

 このことに注目してこの映画を見直すと、高利貸しの老婆を殺す前に見た「やせ馬が殺される夢」が、少年時代の体験と自然への畏れを描いた第一話「日照り雨」や、「桃の精」の苦しみが描かれている第二話「桃畑」などに対応していることに気づく。

 第三話「雪あらし」で描かれている「雪女」の哀しみは、『罪と罰』におけるソーニャの哀しみにも通じているだろう。主人公のラスコーリニコフが老婆を殺した後で見る「殺された老婆が笑う夢」は、死んだ兵士たちの亡霊が出て来る第四話「トンネル」につながっていると思える。

 第六話「赤富士」の後で描かれている第七話「鬼哭」では、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」の根底にあった「弱肉強食の思想」や「自然支配の思想」と「人類滅亡の悪夢」との深い因果関係が示唆されている。

 さらに、第八話「水車のある村」において、「近頃の人間は、自分達も自然の一部だという事を忘れている」と語り、「特に学者には、頭がいいのかも知れないが、自然の深い心がさっぱりわからない者が多いので困る」と語る「モーゼの様な髭を生やした」老人の言葉は、血で「汚した大地に接吻なさい」と語ったソーニャの言葉に従って自首をしたラスコーリニコフがなぜ、シベリアで「復活」しえたのかという深い理由を説明しているとさえ思える。

 ではなぜ、偶然の一致とはいえないようなこれほどの類似が見られるのだろうか。

この意味で注目したいのは、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄が、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とし、エピローグは「半分は読者の為に書かれた」と解釈していたことである*4(『小林秀雄全集』第六巻、四五頁、五三頁── 以下、巻数と頁数を〔〕内に六・四五、五三のように表記する)。

 さらに小林は、第四章で詳しく見るように、一九三六年に書いた映画評ではスタンバーグ監督の映画《罪と罰》などに言及しながら、表現手段としての「文学」と「映画」を比較して、映画では『罪と罰』の深みを描くことはできないと批判していた〔四・二二四~二二六〕。

 一方、黒澤の映画における師といえる山本嘉次郎監督は、夏目漱石の『坊つちやん』を映画化して一九三五年に公開し、その翌年には『吾輩は猫である』を原作とした映画《吾輩は猫である》も公開していた。映画という表現手段を批判した小林の記述は、一九三六年にPCL映画撮影所(東宝の前身)に助監督として入社し、一九三八年には映画《綴方教室》に製作主任として参加する黒澤に、文学作品の映画化についての深い考察を迫っていたといえるだろう。

  実際、小林秀芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していたが〔一・一五二〕、戦後の一九五〇年に公開した映画《羅生門》で黒澤は、夏目漱石の弟子にあたる芥川の深いドストエフスキー理解と芥川作品の現代的な意義を示していた。

 さらに最近になって、戦時中の一九四三年に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》の脚本に黒澤が深く関わっていたことが明らかになった*5。本論で詳しく見るように小林秀雄はシベリア流刑後にドストエフスキーが唱えた「大地主義」に否定的だったが、黒澤は『死の家の記録』などこの時期に書かれた作品を高く評価しており、彼が中心的な役割を担ったこの映画の脚本でも『虐げられた人々』からの影響がすでに強く見られる。

 ことに、沖縄で冤罪から死刑にされかかったことのある復員兵を主人公とした映画《白痴》の結末は、『白痴』の主人公ムィシキンがスイスからではなく、「シベリヤから還つた」とし、その結末についても「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間等は、その実行に何んの責任も持たない」と一九三四年に「『白痴』についてⅠ」で書いていた小林の記述とは正反対ともいえるほどに異なっていたのである〔六・一〇〇〕。

三、消えた「対談記事」

 小林秀雄は映画《白痴》を初めとする黒澤映画についてはほとんど語っていないので、彼が黒澤明監督のドストエフスキー観をどのように考えていたかは判らない。しかし小林は、映画《白痴》が公開された翌年の一九五二年から五三年にかけて八章からなる「『白痴』についてⅡ」を発表し、その後半では黒澤映画《白痴》ではあまり描かれていなかったレーベジェフやイッポリートに焦点をあてて論じていた。

 興味深いのは、その小林が一九五六年一二月に黒澤との対談を行っていたことである*6。この前年に黒澤は映画《生きものの記録》を公開していたが、「第五福竜丸」事件をきっかけに三千万以上の署名が集まるほど高まった反核の動きは、「ついに太陽をとらえた」と題して読売新聞に連載された特集や「原子力平和利用博覧会」の開始によって急速に流れが変わり、この時期には原爆の危険性を指摘することはすでに「季節外れ」のように見なされるようになっていた*7。

 しかし、第二章で詳しく見るように、小林秀雄は一九四八年に「人間の進歩について」と題して行われた物理学者の湯川秀樹との対談では、「原子力エネルギー」の「平和利用」という湯川の考えの危険性をいち早く指摘し、「道義心」の視点から厳しく批判していたが、その後に行われた黒澤明との対談で湯川秀樹は映画《生きものの記録》を高く評価していた。

 『白痴』の結末に対しては正反対の見解を示す一方で、「原子力エネルギー」の危険性を深く認識していた二人の巨匠がどのような対談を行っていたのだろうか。残念ながら、掲載されれば必ず売り上げを伸ばすと思われる二人の著名人による対談記事が雑誌に載らなかったために、対談の詳細な内容は明らかになっていない。

 しかし、飛行機事故などでは「ブラックボックス」を探し出して回収することが事故解明の第一歩とされるが、幸いこの時の対談については、その時の写真が残されているだけでなく*8、司会者などの短い回想も残されている。その後の二人の記述や映画などからは、『白痴』の結末の解釈などにたいする強いこだわりが感じられ、この時の対談が巨匠たちに残した痕跡の深さが感じられる。

 原発の推進が「国策」となると小林秀雄は「原子力エネルギー」の危険性についてほとんど語らなくなったが、映画《赤ひげ》の制作が発表された翌年の一九六四年に発行した『「白痴」について』(角川書店)では短い第九章を加えて、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだらう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである(後略)」と書いていた〔傍線引用者。六・三四〇〕。名指しこそしてはいないものの、「不注意な読者」という表現は黒澤明監督を強く意識している可能性が高いと思われる。

 一方、映画《どですかでん》が営業的な失敗に終わった後で発作的に自殺を図っていた黒澤は、探検家アルセーニエフと自らをナナイ人(大地の人)と呼ぶ少数民族・ゴリド族の狩人デルスとの交流を描いた『デルスウ・ウザーラ』を原作とする映画《デルス・ウザーラ》をシベリアで撮って見事に復活した*9。    

この映画を一九七五年に日本で公開した後に若者たちと行った座談会で黒澤明は、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ」と語ったが*10、その言葉に強い反発を覚えたかのように小林は、スリーマイル島の原発事故が起きた一九七九年に河上徹太郎と行った対談でも「『白痴』はシベリアから還ってきたんだよ」と繰り返して主張している*11。

 このような『白痴』の結末をめぐる互いを強く意識したと思われる両者の発言に注目するとき、映画《夢》はドストエフスキー作品の解釈をめぐるほぼ半生にわたる小林秀雄との「静かなる決闘」の成果だと言っても過言ではないとさえ思える。

 本書ではまず作者と主人公の問題に注目しながら、ムィシキンが「シベリヤから還つた」とする小林秀雄の『罪と罰』論と『白痴』論との関連を分析し、さらに主な登場人物の解釈の問題点を明らかにすることで、本論の方向性を確認する。第一章からは小林秀雄のドストエフスキー観と比較しつつ、映画の公開順に映画《白痴》から映画《夢》にいたる黒澤明監督のドストエフスキー理解の深まりに迫ることにしたい。

 消えた「対談記事」の謎に注目しつつ、小林秀雄と黒澤明のドストエフスキー観を具体的に比較することで、なぜ黒澤監督が映画《夢》で東京電力福島第一原子力発電所の悲劇を予言しえたかという「謎」にも迫ることができるだろう。

 

*1 チェルノブイリ原発事故については、「高橋誠一郎 公式ホームページ」の「映画・演劇評」、「劇《石棺》から映画《夢》へ」を参照。

 *2 『全集 黒澤明』第四巻、岩波書店、一九八八年、一四〇頁。

 *3 都築政昭『黒澤明の遺言「夢」』、近代文芸社、二〇〇五年参照。

*4 『小林秀雄全集』第六巻、新潮社、一九六七年、四五頁、五三頁。

*5 (編)石割平、円尾敏郎、谷輔次『はじめに喜劇ありき』ワイズ出版、二〇〇五年、一五一頁。

*6  黒澤明・浜野保樹『大系 黒澤明』第四巻、講談社、二〇一〇年、八一六頁(以下、『大系 黒澤明』と略記して、巻数と頁数のみを記す)。

*7  中日新聞社会部『日米同盟と原発──隠された核の戦後史』東京新聞、二〇一三年参照。

*8  黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、一九九九年、三六六頁。

*9  アルセーニエフ、長谷川四郎訳『デルスウ・ウザーラ──沿海州探検行』東洋文庫、一九六五年、三〇八頁、映画化に際しては日本語では発音しにくいことから、主人公のデルスウの名前はデルスと表記されたので、本書でも基本的にはデルスと記す。

*10  黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、一九九九年、二八八頁。

*11  小林秀雄『考える人』春季号/新潮社、二〇一三年、四五頁。

 

 

「生命の水の泉」と「大地」のイデア

 

(スラヴ圏)スラヴのコスモロジー

 〈「生命の水の泉」と「大地」のイデア〉

                           

はじめに――投げかけられた問い

 お手元にレジュメは届いていますでしょうか?

2枚目のところにスラヴの神話や民話に出てくる森の精や水の精などの絵があります。

私の専門はドストエフスキーなのですが、『罪と罰』とか『白痴』という世界がそういうロシアの民衆的な民話的な世界や宇宙観とも深く結びついており、それが普遍性をおびているために世界中で読まれて深い感動を与えているという話を今回はしたいと思いました。ただ、レジュメにも書きましたけれども、3月に起きた原発事故のために私のふるさとの福島県の二本松でも祖先の墓の上に放射能が降り注ぐなど、日本の大地、大気、川が汚されるという大変な事態がおきました。

さらに私は25年前にチェルノブイリで起きた原発事故の際にモスクワに滞在していましたが、そのときに留学生を引率していたので事故の情報の問題、当時のソ連から情報が流れてこないというのはわかるのですが、日本大使館からも流れてこない。それでヨーロッパの留学生たちがそれぞれの大使館から持ってくる情報を集めてどう対応すべきかなどを考えざるを得なかったということがありました。

実は司馬遼太郎の作品に入っていくきっかけも情報の問題からです。司馬さんは大地震の問題についてもたびたび書いています。たとえば、『竜馬がゆく』の中でも竜馬が大地震に際して深く感じることのできる詩人のような心を持っていたと冒頭近くで説明されています。原発は「国益」という形で進められてきましたが、果たして一部の人たちが握っている情報が我々にちゃんと伝えられているのか、その問題が明治以降もいまだに続いていると思えます。

一方、『坂の上の雲』の第3巻において司馬さんは、東京裁判におけるインド代表判事のパル氏の言葉を引用しつつ、「白人国家の都市に落とすことはためらわれたであろう」と原爆投下を厳しく批判しておりました。実はこの原爆の投下の問題は、原発の問題と結びついており、司馬さんはチェルノブイリ事故の後で「この事件は大気というものは地球を漂流していて人類は一つである、一つの大気を共有している、さらにいえばその生命は他の生命と同様もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」と語っていました。

実際にチェルノブイリについてはヨーロッパ各国が大変な危機感を持ちました。私の場合は、幸い住んでいたモスクワの方には風の向きが違っていたので流れてこなかったのですが、風の向きが変わればどのような被害が及ぶかはわからなかったのです。それゆえ、今回はスラヴやロシアのコスモロジーを視野に入れることで民話的なレベルから見ても原発がおかしいということを明らかにしていきたいと思います。

*   *   *

先ほど見ていただいたのはギランの『ロシアの神話』という本に掲載されている絵ですが、スラヴでは自然崇拝が強く、ことに大地は「母なる湿潤の大地」というふうに讃えられており、このような世界観はドストエフスキーが『罪と罰』の後半で描いていますが、それよりも前にプーシキンがおとぎ話のような形で書いていました。

時間がないので、ごく一部を紹介します。「入り江には緑の樫の木があった。その樫の木には猫が繋がれていた。そして右に歩いては歌を歌い、左へ行ってはおとぎ話を語る。そこには不思議なことがある。森の精が徘徊し、水の妖精ルサールカが枝に座る」。こういう形で民話の主人公を紹介したプーシキンは、「そこにはロシアの精神がある、ロシアの匂いがする」と続け、物知りの猫が私に語った物語のひとつをこれからお話しましょうという形で『ルスランとリュドミーラ』というおとぎ話が始まります。

『罪と罰』のあらすじについては、ほとんどの方がご存知のことと思いますが、「人間は自然を修正している、悪い人間だって修正したてもかまわない、あいつは要らないやつだというなら排除してもかまわない」という考え方を持っていた主人公が、高利貸しの老婆を殺害するにいたる過程とその後の苦悩が描かれています。ここで重要なのは、この時期のドストエフスキーが「大地主義」という理念を唱えていたことであり、ソーニャをとおしてロシアの知識人というのはロシアの大地から切り離された人たちだと、民衆の感覚を失ってしまったという批判をしていることです。

たとえば、ソーニャは「血で汚した大地に接吻しなさい、あなたは殺したことで大地を汚してしまった」と諭し、それを受け入れた主人公は自首をしてシベリアに流されますが、最初のうちは「ただ一条の太陽の光、うっそうたる森、どこともしれぬ奥まった場所に湧き出る冷たい泉」が、どうして囚人たちによってそんなに大事なのかが彼にはわからなかったのです。しかし彼はシベリアの大自然の中で生活するうちに「森」や「泉」の意味を認識して復活することになるのです。

このような展開は一見、小説を読んでいるだけですとわかりにくいのですが、しかしロシアの民話を集めてロシアのグリムとも言われているアファナーシエフの『スラヴ民族の詩的自然観』の第一巻が既に『罪と罰』が書かれている時期に出版されていました。そのことを指摘した井桁貞義氏は、ウクライナやセルヴィアを初めスラヴには古くから聖なる大地という表現があり、さらに古い叙事詩の伝説によって育った庶民たちは、大地とは決して魂を持たない存在ではなく、つまり汚されたら怒ると考えていたことを指摘しています。つまり、富士山が大噴火するように、汚された大地も怒るのです。

さらにソーニャという存在が囚人たちから、「お前さんは私らのやさしい慈悲深いお母さんだ」と語られていることに注目して、ソーニャという女性が大地の神格であると同時に聖母の意味も背負っているという重要な指摘をしています。

 このようなロシアの自然観や宇宙観は民話などでやさしく語られており、日本でも知られているものがあるので幾つか紹介して、それが文学作品にどうかかわっているかを少し見てみます。

 まず、『イワンと仔馬』という作品は、これは永遠の生命を持つ火の鳥が出てくる作品で、手塚治虫の『火の鳥』にも影響を与えています。次に『森は生きている』もあちこちで上演されることもありますしアニメーションにもなっているので、知っている人も多くおられると思いますが、これは月の精の兄弟たちとみなしごの少女、そしてわがままな女王との物語です。

 わがままな若い女王の命令で少女は、大晦日に雪深い森の奥に春の花の待雪草を探しに行かされるのですが、たまたま焚き火を囲んでいた12人の兄弟(十二ヵ月の精)たちと出会い、少女が森を大切にして一生懸命に生きているのを知っていた彼らから待雪草を贈られるのです。

一方、人間関係のみで成立している「城」の世界しか知らなかったやはり孤児だった女王は、自分でも待雪草を摘みたいと願って、私も森に行くから案内しなさいと命令して森に行く。つまり、「支配する者」と「支配される者」からなる「城」において絶対的な権力者となった女王は、「自然」や「季節」をも「支配」しようとしたのです。つまり「城」というのは、ここでは現代の日本に言い換えれば「原子力村」と考えればわかりやすいでしょう。「原子力村」の論理だけで生きている人は、「自然」のことを理解できないために、「自然」や「季節」をも支配しようとする。しかし実際には、そういうことはあり得ないのです。そのために女王も「森」に行くと、一瞬にして再び冬の季節に戻って彼女は自分の無力さを感じるのですが、やさしい少女に救われるというストーリーです。

ここで注目したいのはやさしい少女を『罪と罰』のソーニャに、それから自然をも支配できると考えている女王をラスコーリニコフに置き換えると、骨格としては『罪と罰』と同じような自然観が浮かび上がってくるということになることです。

 それから『雪娘』というおとぎ話では「桃太郎」などと同じように、子供に恵まれなかった老夫婦が雪を丸めて雪だるまをつくるとその雪だるまの女の子は、老夫婦の気持ちを理解したかのように動き出して、その家の娘になります。しかし、「かぐや姫」が時間がたって、月に戻っていくように、その「雪娘」も春になると一筋の雲になって、天に昇ってしまうのです。

このおとぎ話について先ほどのアファナーシエフはこういうふうに解釈しています。「雨雲が雪雲に変わる冬、美しい雪の娘が大地に、人間が住むこの世に降りてきて、その白さで人々を感動させる。夏が訪れると娘は大気の新たな姿をとり、地上から天に昇って軽やかな翼を持つほかのニンフたちと共に天を飛翔する」。

 すなわち、雪娘は溶けて「亡くなる」のではなく、別な形を取って生き続け、さらにまた季節が巡れば、「復活」するという考え方が、ロシアの民話を通して語られているということになります。

一方、『罪と罰』のエピローグでは、知力と意志を授けられた旋毛虫に侵されて、自分だけが真理を知っていると思い込んだ人々が、互いに自分の真理を主張して殺し合いを始め、ついには地上に数名のものしか残っていないという主人公が見る「人類滅亡の悪夢」が描かれています。

実際、この作品が書かれた当時は、オーストリアとの戦いに勝ったプロシアが軍事力をつけたために、フランスとの間での戦争がおき、さらにロシアもまたそういう大戦争に巻き込まれるかもしれないという恐怖感が、欧州の世界で広まっていたのです。そして、軍事力の必要を各国が認識したために戦争に近代兵器が持ち込まれるのです。日露戦争では機関銃が登場し、第一次世界大戦でも用いられ、さらに第二次世界大戦では原子爆弾が用いられるということになります。

つまり長編小説『白痴』の時代は、ドストエフスキーにとって「ローマ帝国」の強力な軍事力でユダヤの反乱が鎮圧され、さらにキリスト教徒が弾圧された時代に書かれた『ヨハネの黙示録』の世界と重なるところが多く、「世界の終わり」への恐れとそれを救う「本当に美しい人」への熱烈な願いが記されていたといえます。

11月18日の新聞に「イラン攻撃現実に」という題で、イスラエルがイランの原発開発に強い危機感を抱いているという気になる記事があったので持ってきました。この記事は原爆と原発が結びついていることを物語っているでしょう。つまり、イランの原発開発はアメリカと仲がよかったときは認められていたのです。しかし革命後に政策が変わると、原発の開発は、いつ攻撃の対象になるかもしれないのです。つまり現代という「核の時代」では、原発が世界中の国で広まっていくということは、その国が政策を変えたときに核戦争のきっかけになりうるという危険性を持っているのです。

その意味で注目したいのは、『白痴』ではマルサスの人口論だけでなく、生存闘争の理論や、西欧近代の投機的な自由主義経済、さらに新しい科学技術の危険性が登場人物たちの会話をとおして批判されており、ことに近代文明を象徴する鉄道は『ヨハネ黙示録』の地上に落ちて「生命の水の泉」を混濁させる「苦よもぎ(チェルノブイリニク)の星」の話と結び付けられて解釈されていました。

それゆえ、チェルノブィリ原発事故が起きると『白痴』の予言性が話題となりましたが、それはチェルノブィリという地名が、「苦よもぎ」を意味する単語と非常に似ていたために、ロシアやウクライナ、ベラルーシなどでは原発がそういうのろわれたものであり、それを作ったソ連の政権が神の罰を受けたという批判が強く出たのです。そして、このような『黙示録』の解釈も影響して、この原発事故は神による共産党政権に対する罰だという解釈が広がったことや、原発事故による莫大な経済的損失は、ソ連政権が崩壊する一因となったのです。

 一方、非常に自然環境に恵まれている日本から見ると旧約聖書などで描かれている神の罰という考えは、非情に見えます。しかし古代からのことを考えると、神や天というのは、人智を超えた存在であって、富士山も単に美しくて高い存在であっただけではなくて、大噴火を起こして、我々日本人を深く畏怖させたのです。これについては明日のシンポジウムでも論じられると思います。

 こうして、大自然に対する畏怖というものは、これからの時代にも重要だと思えますが、放射能は水に流しても消えるものではなく「循環の思想」に反しており、大自然を汚すものだといえるでしょう。その意味でも早期の「脱原発」が求められており、そのためにはこの学会も含めて全力を尽くしていくべきではないかというのが、私の考えです。

 どうもありがとうございました。

タイトル一覧Ⅰ (ドストエフスキー、ロシア文学、堀田善衞、小林秀雄関係)

リンク→タイトル一覧Ⅱ (司馬遼太郎、正岡子規、近代日本文学関係)

86l005l

タイトル一覧Ⅰ (ドストエフスキー、ロシア文学、堀田善衞、小林秀雄関係)

チェコスロヴァキア事件でウクライナ危機を考えるⅡ  堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』を読み解く(上)

堀田善衞の黒澤映画《姿三四郎》観と《用心棒》観 

ドストエフスキー生誕200年と『堀田善衞とドストエフスキー』

講座「アニメ映画《風立ちぬ》で堀田善衞の長編小説『若き日の詩人たちの肖像』を読み解く」(7月7日)

『ドストエフスキーとの対話』(水声社)に「堀田善衞のドストエフスキー観――堀田作品をカーニヴァル論で読み解く」を寄稿

『現代思想』に「大審問官」のテーマと 核兵器の廃絶――堀田善衞のドストエフスキー観 を寄稿

新刊 『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』(群像社、2021年)

堀田善衞と武田泰淳の『審判』とドストエフスキーの『罪と罰』

『若き日の詩人たちの肖像』の重要性――『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』(集英社)を読んで