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祖国戦争

「テロと新しい戦争」の時代と「憲法」改悪の危険性

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「テロと新しい戦争」の時代と「憲法」改悪の危険性

本書は「祖国戦争」から「大改革」の終焉に至る激動のロシア史とその特徴を、ドストエフスキーの作品を通して考察しようとした構想の第一部にあたる。

本来ならば、ドストエフスキーの初期作品を考察した本書から始めるべきであったが、折から同時多発テロの後で「新しい戦争」が「報復の権利」の名のもとに勃発する危険性が増大していたので、「自己の正義」を絶対化することで、「他者」の殺害をも正当化するような、近代西欧の問題点を明らかにしたクリミア戦争後の作品を扱った第二部を先に『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(刀水書房、二〇〇二年)として出版した。

(中略)

これまで時間がかかってしまったのは、ひとえに筆者の怠慢によるものだが、あえてその理由を探すならば、若きドストエフスキーと父親との関係やペトラシェフスキー事件に至るまでの道を選ぶことになるドストエフスキーの心象風景が、なかなか浮かんでこなかったためでもある。

ただ、テロへの「報復の正当性」を訴えて始められた無謀なイラク戦争が始まったことで、世界中でナショナリズムがいっそう高まり、日本でも「国権」の強化や「伝統」への回帰が見られる一方で、一気に格差社会が進んで子供たちの「いじめ」や「自殺」などの問題も頻発することになった。皮肉なことに、このような現象に心を痛めつつ、ドストエフスキーの初期作品を再考察する中で、若きドストエフスキーの心象風景がはっきりと見えてきたように思える。

また、本書の初校校正に入った頃にアメリカの大学における銃の乱射という痛ましい事件のニュースが届いて、イラク戦争を始めたアメリカが抱える銃社会という病巣を見せつけられた思いがしたが、同じ日に原爆の使用やイラク戦争を厳しく批判していた長崎市長への狙撃という暗いニュースが飛びこんできた。

日本もイラク戦争には深く係わっているので、これらの事件は戦争という形の武力によって自国の正義を主張する国の内外では、同じように「自分の正義」を力によって示そうという傾向が強くなることを象徴的に語っていると思える。

しかし、「新しい戦争」への懐疑を示して「古い国家」と揶揄されたヨーロッパでは、イラク戦争への支持を表明した政治家はすべて失脚し、また自由や平等の理念が尊重されるアメリカでも、イラク戦争への批判を行った若い代議士が有力な大統領候補として急浮上するなど戦争への反省が深まっている。

一方、戦争の悲惨さを忘れて「平和ぼけ」した日本では、イラク戦争への批判を語った若者たちへの激しい「いじめ」が報じられたが、その後も破綻した「ブッシュ・ドクトリン」に依拠する形で、巨大な軍事費の肩代わりを求める超大国アメリカの要求に忠実に従いつつ、沖縄の軍事基地の能率化や、アメリカによって定められたとする「平和憲法」の改正が急速に進められており、国際社会における孤立化の危険性さえ深まっているように見える。

日本が独自性を世界に対して主張しようとするならば、「被爆という現実」やイスラム世界と戦争したことがないという特徴ある歴史的な伝統を生かして、外交的な形で世界の平和の確立を目指すべきであろう。

「テロ」や「新しい戦争」によって幕が開けられ、地球の温暖化などの問題が山積する二一世紀において、日本が示す方向性は日本の国民にとってだけでなく、世界にとっても重たい意味を持つと思われる。「欧化」に対する激しい反撥である「暗黒の三〇年」の時代に新しい可能性を模索したドストエフスキーの試みを考察した本書が、そのような日本のおかれている状況を広い視野から再検討し、新しい歴史観を創造するためにささやかでも参考になればと願っている。

(『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』「あとがき」より。語句を一部改訂。2016年2月14日。リンク先を追加)

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日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって

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(高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房の表紙。図版はオムスクの監獄)

はじめに  日本の近代化とナショナリズムの覚醒

明治9年(1875年、以下、年号は原則として西暦で示す)に、ベルツはその日記に、「これは最も不思議千万の事ではあるが--今日の日本人は、自身の過去に就いては何事も知る事を欲していない。教養ある人士も、過去に引け目を感じているのである」とし、「何も彼も野蛮至極であった」と言明した者や…中略…「我等は歴史を持って居ない、我等の歴史は今から始まるのだ」とまで断言する者までいるという驚きを記している*1。

だが、実はこのような自己の過去を否定するという精神の働きは、一部の日本人知識人の特殊性を物語るものではない。たとえば、社会学者の作田啓一は『個人主義の運命――近代小説と社会学』で、「ナポレオン戦争を支えたフランス民族のナショナリズム」では、「フランス革命によって到達した民主主義的な諸価値を世界に拡げること」を「彼らの使命」と説明している*2(以下、本書をKと略記し、本文中に頁数を示す)。

このような思想的潮流の中で、フランスの文明を普遍的な文明ととらえたロシアの思想家チャアダーエフは、ナポレオンを破った祖国戦争(1812)の後でも農奴制のような非近代的な制度が改革されないことに悲観し、ロシアはギリシア正教を受け入れたために「人類の普遍的な発展」から孤立したのだと厳しく批判した。こうして、それ以降ロシアでは発展のあり方をめぐって「欧化と国粋」の激しい対立が生まれることになったのである*3。

しかし、一方で「国民国家」の成立と自分たちを「普遍的な理念」の普及者として主張したフランスにおける民族意識の昂揚は、隣国ドイツやギリシア正教を国教とするロシアにおいては、激しい反発から自国の民族意識の高まりを生みだし、独自の「国民性」が求められるようになったのである。

それはロシアに限ったことではなく、いわゆる「文明開化」が求められた明治維新以降の日本でも近代化の過程における「西欧化と土着」の問題が起きてくるようになる。なぜならば、ベルツの「日記」が書かれる3年前に政府は、西欧諸国からの強い要望もあり、キリスト教の禁制をも解いており、西欧文明を学ぶ機会も大幅に拡大したが、自らの普遍性を主張する「近代西欧文明」自身が、それ以外の諸文明の独自性や意義を否定する働きをも担っていたのである。

「西洋崇拝による土着軽視」とその反発としての「国粋」思想の勃興の流れに注目した比較文明学者の山本新は、このサイクルが日本ではほぼ20周年で周期的に交替しているという説を唱えた*4。吉澤五郎は近著でこのような「西欧化と土着」のサイクルを分かりやすく図示しているが、興味深いのは、サイクルの高揚期や低迷期などの節目とドストエフスキー受容が不思議と一致していることである*5。

すなわち、松本健一は「ドストエフスキイが熱狂的に読まれた時代が過去に五度ほどあった」とし、①、1892年前後 ②、1907年前後 ③、大正期 ④、1934年から1937年 ⑤、1945年から1950年を挙げているのである*6。

以下、本稿では「個人主義のゆくえを考えることは、ナショナリズムのゆくえを考えることに通じる」(K.201)とした作田啓一の考察を踏まえながら、比較文明論的な視点から第二次世界大戦に到るまでに時期を絞って日本におけるドストエフスキー受容と「欧化と国粋」のサイクルの問題の係わりを考察し、「文明の衝突」を乗り越える可能性を探りたい*7。

第1節  ロシアの近代化とロシア文学の受容

明治維新の初期に東京外国語学校の教員として招かれていたメーチニコフは、岩倉具視、木戸孝允、副島種臣などの「維新を指導した少数の国家的人物」をはじめとする多くの人たちが、ピョートル大帝の「熱烈なファンである」と書いた*8。

彼の言葉は誇張のようにも思えるが、実際、明治維新に際しては「ざんぎり頭をたたいて見れば文明開化の音がする」と歌われたように断髪令が出されたが、ピョートルもロシア人の意識を変えるために、成人男性が生やしていたあごひげを切り取ることや衣服を西欧式に改めるなどの命令を発しているのである。さらに彼は「ペテルブルク市長に命じて、定期的に夜会をひらかせ、貴族たちが夫人同伴で出席することを義務」づけたが、「わが国の『鹿鳴館』の先駆」だったのである*9。

また、明治政府は1871年暮れに西欧文明を早急に取り入れるために、「一国の政権の最高首脳部の大半をあげて、先進文明世界を視察し、これから学ぼうとする」使節団を1年以上にわたって西欧に派遣したが*10。ピョートル大帝もロシアの内政が安定しないなか250名もの随員と留学生を連れて、一年半にわたる長い西欧視察旅行に出かけていた。さらに、1872年12月に明治政府はそれまでの太陰暦を西暦(グレゴリオ暦)に改めるという大改革を行ったが、ピョートル一世も年号を天地創造の日から数え、1年の始まりを9月1日としていたそれまでのビザンツ暦を、西暦に近いユリウス暦に改めていた。

こうして明治政府は「殖産興業」と「富国強兵」をめざしたピョートル大帝の改革をなぞるかのように息せき切って「近代化」を進めたのであった。幕末の1862年にロシアを訪れた福沢諭吉も、当時のロシアには厳しい評価をしたものの、元禄の頃に行われたピョートル大帝の改革については、「学校を設け海陸軍を建て」、「堂々たる一大国の基(もとい)を開き、今日に至るまで、威名を世界中に轟かせり」と記した*11。

ところで、作田啓一はデュルケームなどの考えによりながら、「近代政治史とは、さまざまの特権を持った中間集団を国家が打ち砕く過程」であり、「この闘争を通じて、中世的な共同態は衰退してゆき、それに代わって国家と個人が社会の有力な構造要素」となってきたとし、こうして「国家の成長に伴って個人主義が発展してきた」と説明している(K.90-93)。

このことは強大な西欧諸国との接触によって開国を余儀なくされた日本が、近代国家の成立をめざして行った改革を例に取れば分かりやすい。明治維新に際し、明治政府は廃藩置県をも断行し、藩にも自治を許すそれまでの幕藩体制というゆるやかな制度を取りやめて、強大な中央集権国家の設立を目指したのである。このような「近代化」を推進したのが、それまでの日本を「半開」とし、西欧を「文明」と位置づけた福沢諭吉であった。彼は『学問のすゝめ』(1872)において「唯学問を勤(つとめ)て物事をよく知る者は貴人となり、富人となり」と書き、さらに「専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」として新しい西欧の学問を学ぶことが「立身出世」につながると強調したのであった。このような見方は、同時に新政府が欲していた方向性でもあり、同じ年に学制が発布され公的な義務教育が始まり、これ以降「わずか数年の間に2万6千余校という小学校ができ」ることとなった。こうして、身分や貧富に係わらず、「富国強兵」という国家の要望に答える能力を有した者には「立身出世」が可能となったのである。

だが、作田が書いているように、「近代化が進み、公的生活において人々が参加する集団の規模が大きくなり、官僚制化してゆくと、公私の二つの領域において、人々は相互に異質的な要求に直面することを余儀なく」される。なぜならば、「自己を発展させよという個性の命令に忠実な個人」は、「どの方向へ向かうかの選択」という「苦しい自己決定を行ったあとに、葛藤と不満とが待ち受けているかもしれ」ないからだからである(K,113~4)。

このような事態を日本もむかえた。「中間集団」の文化を否定する一元的な価値の上からの強制や「西欧化」を強要する「文明開化」への反発は、すでに徴兵反対一揆(1873)や佐賀の乱(1874)などの形で噴出し始めていた。それが、ベルツが日本人知識人への驚きを記した翌年の1876年3月に「廃刀令」が出されると、同じ年の10月には神風連の乱や秋月の乱、萩の乱などが頻発することになり、その翌年には国力を二分した西南の役が起きることになった。さらに、これらの乱が鎮圧された後は、今度は武器ではなく筆を持って政府批判を繰り広げる「自由民権運動」が盛んになったのである。

このことは、日本の文明開化よりも150年以上も早くロシアの近代化を行ったピョートル大帝の改革とそれ以降の歴史の流れにも現れた。ロシアではピョートル大帝の死後、強国としての位置を築く一方で、相次ぐ宮廷クーデターの中で特権を増やした貴族とは正反対に、農民の隷属化が進んで過酷な農奴制が確立していた。このような中、ロシアの知識人たちは、国家のさらなる近代化を目指すとともに個人の自由や民衆の権利を求める運動をも展開したのだった。

これに対応しているのが、ロシア文学の受容だろう。島崎藤村は『千曲川のスケッチ』の奥書において、「明治年代に入って言文一致の創設とその発達に力を添えた人々の骨折と云うものは、文学の根底に横たわる基礎工事であったとわたしには思われる」と書いている。このような困難な作業に大きな影響を及ぼしたのが、農奴制の問題を文学的な視点から鋭く批判したツルゲーネフの『猟人日記』の中の一編を言文一致体で訳した二葉亭四迷の『あひびき』である。

川端香男里は、ロシア文学が「1908年には翻訳の点数で英米文学を追い越し」ていたことに注意を促して、「昭和20年代までに世に出た作家や評論家でドストエフスキー、トルストイ、チェーホフから影響を受けなかった者はいない」と述べ、さらにロシア文学受容のピーク時について、ツルゲーネフは明治期、トルストイは大正期、そしてドストエフスキーは昭和期に入ってからとも指摘した*12。すなわち、官民挙げて日本が「文明開化」に精力を注いでいた明治には西欧派のツルゲーネフが流行り、日露戦争前後の時期からは平和論を唱えたトルストイの作品が好んで読まれたのであり、近代化の問題点が明白となり、近代西欧文明の批判の強まるとともに、ドストエフスキーが爆発的な広がりを見せたといえよう。

 

第2節  『罪と罰』の翻訳と北村透谷

内田魯庵が二葉亭四迷の助力を得て日本で最初に『罪と罰』を訳出したのは、1892年のことであった。だが、この時は充分な購買者数を得ることができずに、その前半部分を訳したのみで終わった。ただ、この時すでに鋭く本質的な理解を示した者に北村透谷がいる。

彼は「『罪と罰』の殺人罪」(1893)という書評において、ハムレットにも言及しながら、「最暗黒の社会にいかにおそろしき魔力の潜むありて、学問はあり分別ある脳髄の中に、学問なく分別なきものすら企つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と喝破したのである*13。

しかし、このような透谷の言葉は単に彼の鋭い理解力を示すものではなく、「近代化」の流れの中での苦しい体験の結果でもあった。ラスコーリニコフの母親は息子に家名をあげることを望んでいたが、透谷の母も小田原藩藩士だった夫の禄高が、佐幕派だったために3分の1に減らされる中で、息子の「立身出世」を強く期待したのだった。さらに、ラスコーリニコフは「非凡人の理論」を編み出して高利貸しの老婆の殺害におよんだが、1884年の5月には、近隣の三郡百余村に金を貸付け、「負債人民からの憎悪の的であった」高利貸露木卯三郎が殺害されるという事件が大磯で起きていた。

注目すべきは、透谷がその末尾近くで大隈重信に爆弾を投げた来島や、来日中のロシア皇太子ニコライ二世に斬りつけた津田巡査などに言及しながら、「来島某、津田某、等のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」とすら述べていることである。

この言葉はドブロリューボフに言及した1862年のドストエフスキーの論評を思い起こさせる。ここでドストエフスキーは「深く神聖に真理を確信している」りっぱな人物が、「ただただ自分の高潔無比な目的を達せんがために」、誤った手段を取ることもありうるのだといい、問題は「彼が目的到達のために用いた手段に存する」ことは明瞭であると考察したのだった。このような考察は『罪と罰』などで、「十字軍」や「暴力革命」などの「手段」をも「正当化」した、「カトリック」や「テロリスト」への哲学的な批判として深化されていくのである。

透谷の考察は、「目的と手段」の問題を通じて「近代西欧文明」の問題の根元にも迫ろうとしたドストエフスキーの作品の本質にも肉薄していたのである。だが、ここでも透谷の理解は、「時代」とも深く係わっている。すなわち、1884年には朝鮮で「近代化」を推進しようとする独立党を押して内閣を作ろうとするクーデターが失敗した甲申事変が起きたが、この翌年には朝鮮での独立運動を支援するために、強盗をしてこの資金を得ようとした大阪事件が起きた。この時透谷は「自由民権運動」に係わっていた親しい友人から参加を求められていたのである。

色川大吉は、この事件の首謀者の論理が1873年に「単身韓国にのりこもうとした西郷の征韓論の論理」や「一国の人心を興起して全体を感動せしむるの方便は外戦に若(し)くものなし」と1878年に記した福沢諭吉の「通俗国権論の論理」と基本的にはほぼ共通しているとし、彼らには「封建的な事大党をたおして、開明的な独立党に政権をとらせ、朝鮮人民への連帯と友情をしめそう」とする姿勢もあったことに注目している*14。すなわち、彼らの論理には、ロシアの現状を打破するためにポーランドの独立運動にも理解を示したドブロリューボフたちの考えに近いものもあったのである。

だが、透谷はこのような「目的」を達するために、強盗のような「手段」を取ることには賛成できず拒否するという、ちょうど『悪霊』(1871~2)のシャートフ的な体験を有していたのであり、その後彼自身もキリーロフのように若くして自殺した。

 

第3節  近代化の深化と夏目漱石

夏目漱石が『三四郎』を書き上げたのは、1908年のことであった。この時期までに日本は急速な近代化を経て、日清戦争(1894~5)や日露戦争(1904~05)で勝利をおさめ、朝鮮での勢力を強めるなど「富国強兵」に成功していた。だが、ちょうどポーランドを分割し、コーカサスをも併合して領土の拡大に成功したロシアが、国家の強大化に反して民衆のレベルでは農奴化がかえって進んできたように、日本でも「強大な国権」への批判が下から噴出し、このころから価値の2分化が顕著になっていた。

このような近代化の苦悩を象徴的に物語っているのが、政府の派遣によりイギリスに留学し、帰国後に教鞭を取っていた東京帝国大学での職を辞して、近代日本の知識人の苦悩を描く小説を書くことになる夏目漱石だろう。

司馬遼太郎は『三四郎』について、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と規定するとともに、「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になった。…中略…下部(地方や下級学校)にそれを配るという配電盤の役割を果たした」と指摘している*15。

この指摘は「ペテルブルグほど人間の心に暗く、激しく、奇怪な影響を与えるところは、まずありますまいよ」と語り、「これは全ロシアの政治的中心なので、その特性が万事に反射せざるをえません」と続けた『罪と罰』の登場人物スヴィドリガイロフの言葉を思い起こさせる。実際、ロシアの首都サンクト・ペテルブルクもピョートル一世により、西欧の科学技術を大幅に取り入れるために「西欧への窓」として建設されたのである。

しかも、司馬は1872年にできた「司法職務定制」により、「弁護士の前身といえる」「代言人という職と機能が」成立したことに注目し、それ以降、1881年に明治大学の前身である明治法律学校が出来たのをはじめ、英吉利法律学校(後の中央大学)や日本法律学校(後の日本大学)が次々と設立されていることに注目し、「明治は駆けながら法をつくり、法を教える時代」だったと規定している。

司馬遼太郎の読みは『三四郎』の社会的背景だけでなく、名門サンクト・ペテルブルク大学の法学部を中退した若者を主人公とした『罪と罰』の社会的背景をも説明し得ている。すなわち、主人公のラスコーリニコフの妹ドゥーニャの婚約者で、今まさに首都に法律事務所を開こうとしていた弁護士のルージンは「いろいろな新しい傾向とか、改革とか、新思想とか、すべてそうした」、「いっさいを残りなく見ようとするには、やっぱりペテルブルクにいなければなりません」と述べていたのである。

このようなルージンの「文明観」を、ラズミーヒンは「科学、文化、思索、発明」などの知識がロシアの知識人にはまだまだ未熟でありながら、それなのに「他人の知識でお茶をにごすのが楽でいいものだから、すっかりそれになれっこになってしまった」と鋭く批判する。このような彼の批判は、明治末期の1911年に「内発的」ではない日本の開化を厳しく批判した漱石の「現代日本の開化」という講演ときわめて似ている。

実際、福沢は日本が「開国20年の間に、200年の事を成した」と「文明開化」の成功を誇ったが、一方、漱石はすでに『三四郎』において自分と同じ年齢の登場人物広田に「明治の思想は西洋の歴史にあらわれた300年の活動を40年で繰返している」と「皮相上滑り」な「文明開化」を批判させたのである*16。

この意味で注目したいのは、『三四郎』に先だって朝日新聞に発表された二つの作品である。すなわち、『三四郎』が書かれる直前には、島崎藤村が北村透谷などの若者たちを主人公とした作品『春』を発表しており、さらにその直前には漱石が、足尾銅山をテーマにした『坑夫』という作品を発表していたのである。

立松和平はこの前年の1907年に「足尾銅山で鉱夫たちにより大暴動が起こり、軍隊が出動して鎮圧」されていたことに注意を向けて、「足尾銅山は、富国強兵の最先端を走っていた。…中略…日露戦争で使われた鉄砲の玉は、ほとんどが足尾で産出した銅を原料としていたといわれている」と指摘している*17。このような大量生産の結果、足尾では、現在の環境汚染の先駈けとも言える「鉱毒事件」が発生したのである。

このように見てくる時、「西欧文明を目的」とした福沢の「文明観」は、近代化を要請した「時代」の産物であり、一方、福沢よりも30年ほど遅れて生まれた漱石は、「文明開化」の結果発生した近代化の負の面をも見ねばならなかったと言える。

 

第4節  近代化の矛盾と「近代の超克」論

漱石は『三四郎』において広田先生に「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」と語らせ、このままでは「亡びるね」とさえ断言させていた。司馬遼太郎はこの言葉に注意を促して、「ひげの男の予言がわずか38年後の昭和20年(1945)に的中するのである」と記した*18。

そして、司馬は日露戦争後にロシアから充分な戦後補償を得られなかったことを不満として、日本各地で日本政府の弱腰を責めたてる「国民大会が次々に開かれ」たことを重視し、ことに放火にまで走った「日比谷公園に集まった群衆」こそが、「日本を誤らせたのではないか」と記している。そして、司馬は「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべき」だと鋭く批判していた。

ナショナリズムの加熱がどうしてこのような結果を招くかを、作田は社会学の視点から「大衆デモクラシーのもとでは、有権者の票の獲得にあたって、理性に訴える説得よりも、感情に訴える操縦のほうが有効であると言われるようになり、また事実、その傾向が強く」なったと説明している(K.110)。

ここで注目したいのは、作田が「個人の自尊心」と「国家の自尊心」とは深いところで密接に結びついていることを指摘して、「個人主義」だけでなく「個人主義の双生児であるナショナリズムも、自尊心によって動かされて」きたと指摘していることである(K.201)。つまり、お互いに自国の「正義」をかざして戦った第一次世界大戦では、フランスなどが勝って、「自民族」の優秀さを謳歌したが、それは戦争に敗れて経済的な打撃だけでなく、精神的にもドイツ人を深く傷つけてしまったのである。こうして、「自尊心」をも侮辱されたと感じた中で、ラスコーリニコフの「非凡人」の理論を「民族」にまで拡大して、「優秀な民族」は、「悪い民族」を滅ぼすべきだと主張し、ユダヤ民族の抹殺を謀ったヒトラーの理論が生まれてくることになったのである*19。

日本における『罪と罰』の受容の波が太平洋戦争へと突入する時期に高まったのも、このような流れと無関係ではない。松本健一は真珠湾攻撃の翌年に出版された堀場正夫の『英雄と祭典』にふれて、彼が『罪と罰』を「『ヨーロッパ近代の理知の歴史』とその『受難者』ラスコーリニコフの物語」ととらえ、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なしたことを紹介している*20。

むろん、このような読みは現在のレベルでの研究を踏まえた上での読みから見れば、きわめて問題があるが、このような「読み」には、時代的な背景もあった。ニーチェの思想から強い影響を受けたシェストフは、ドストエフスキーをも「超人思想」の提唱者であり、「悲劇の哲学」の創始者の一人としていたるとした*21。このようなシェストフの解釈が日本でも受け入れられる中で、優れた批評家であった小林秀雄ですらも、『罪と罰』のエピローグではラスコーリニコフは影のような存在に成っていると指摘して、書かれている彼の更生をも否定したのであった*22。

それは「近代人が近代に勝つのは近代によってである」とした小林の福沢的な近代観から導かれたものでもあった。こうして、堀場の理解は太平洋戦争の直前に「近代の超克」を謳ってなされた日本の著名な知識人たちによる討論のテーマや主張とも重なり合うものだったのである。

だが、ドストエフスキーは『罪と罰』において、「非凡人の理論」から殺人を犯したラスコーリニコフの悲劇を描くとともに、それに対抗する形でロシア正教の敬虔な信者ソーニャの苦難と彼女によるラスコーリニコフの救いを対置していた。そして、『地下室の手記』(1864)では主人公に、バックルによれば「人間は文明によって穏和に」なるなどと説かれているが、ナポレオン戦争や南北戦争では「血は川をなして流れている」ではないかと、「近代西欧の<知>」への鋭い批判を投げかけていた。実際、『戦争の社会学』によれば、すでに「フランス革命からナポレオン帝国の戦争」(1792-1815)の間に、「巻き込まれた人口は一億人。殺害されたものは200万人以上」だったのである*23。

こうして、お互いに他国によって滅ぼされないようにと「富国強兵」と武器の改良に励んだ結果、原子爆弾さえも製造されたことによって、第二次世界大戦では5000万人を越える戦死者を出すことになるのである。

作田啓一は「第二次大戦以降、自立ナショナリズムは、かつてヨーロッパに支配されていた諸民族のあいだにおいて燃え上がる」ようになったと指摘しているが、このような状況はオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した第一次世界大戦前のヨーロッパでも起きたし、さらにソ連邦が崩壊した後にも、世界的なレベルでナショナリズムの高まりが起きている。そして、これに連動する形で最近の日本でも「国家」に価値を置くことによって、このような不安定さや混乱を回避しようとするナショナリズム的な発言や行動が多く見られるようになってきた。

だが、それは一時的には国内の矛盾を解決するかに見えるが、ひいては「国権と民権」の対立だけではなく、「国益と国益」との対決を引き起こして、ハンチントン氏が指摘するような第三次世界大戦につながる危険性を含んでいる。他方、作田は「超大国の自尊心は、核戦争の危機をかもし出す条件の一つとなって」いると指摘しているが、ソ連邦の崩壊とともに、核物質や核技術も海外へと流出した現在、大国ばかりでなく、小国でさえもが「自国の自尊心」から核戦争に到る危険性が出てきているのである。

比較文明学者の神川正彦は、「近代」の「学的パラダイム」が、ナポレオン以後に成立した国民国家を成立させている「ナショナリズム」と同じように、「ディシプリン(専門個別科学領域)の自律性」にもとづいた「単純化と排除のパラダイム」であると分析している*24。

「文明の衝突」が語られるようになった現在、近代的な古いパラダイムを克服して、「文明の共存」を可能にするような新しい「学的パラダイムの確立」が、焦眉の課題となっている。

 

*1 『ベルツの「日記」』、濱邊正彦訳、岩波書店、昭和14年、14~15頁、なお、引用に際しては新かな、新字体に改めた。

*2  作田啓一、『個人主義の運命――近代小説と社会学』、岩波新書、107頁。

*3  高橋「ヨーロッパ『近代』への危機意識の深化(1)――ドストエーフスキイの西欧文明観」参照。神川正彦、川窪啓資編、『講座比較文明』第1巻、朝倉書店、1999年、50~63頁。

*4  山本新、神川正彦・ 吉澤五郎編『周辺文明論ーー欧化と土着』、刀水書房、1985年。

*5  吉澤五郎、『世界史の回廊--比較文明の視点』、世界思想社、1999年、96頁

*6  松本健一、『ドストエフスキーと日本人』、朝日新聞社、昭和50年。

*7  本稿は、東海大学で行われた比較文明学会の公開シンポジウムで「『欧化と国粋の「サイクル』克服の試み――ドストエフスキーの受容と司馬遼太郎文明観」という題名で発表した論考(『比較文明』第16号、2000年、146~151頁)に、日本における『罪と罰』の受容と「欧化と土着」の問題に焦点を絞って、加筆したものである。なお、ドストエフスキーの訳は『ドストエフスキー全集』(新潮社)により、巻数と頁数を本文中に( )内に示す。

*8  メーチニコフ、渡辺雅司訳『亡命ロシア人が見た明治維新』、講談社学術文庫、1982年、25頁。

*9  相田重夫、『帝政ロシアの光と影』(『人間の世界歴史』、第12巻)、三省堂、1983年、128頁。

*10  井上清、『明治維新』、(『日本の歴史』、第20巻、中央公論社、200頁)。

*11  福沢諭吉の文明観については、高橋「日本の近代化とドストエーフスキイ――福沢諭吉から夏目漱石へ」参照。(『日本の近代化と知識人』、東海大学出版会、2000年、所収)。

*12  川端香男里『ロシアソ連を知る事典』、平凡社、1989年、520頁。

*13  『北村透谷選集』、勝本清一郎校訂、岩波文庫、212頁。

*14  色川大吉、『明治精神史』(上)、講談社学術文庫、175頁。

*15  司馬遼太郎、『本郷界隈』(『街道をゆく』第巻)、朝日文芸文庫、267~271頁。

*16 司馬遼太郎の夏目漱石観については、日本ペンクラブ電子文藝館に寄稿した「司馬遼太郎の夏目漱石観   ―比較の重要性の認識をめぐって―」を参照。

*17  立松和平、「足尾から『坑夫』を幻視する」、『夏目漱石:青春の旅』所収。

*18  司馬遼太郎の近代化観の変化については、高橋「『文明の衝突』と『他者』の認識――『坂の上の雲』における方法の変遷」(『異文化交流』創刊号、31~58頁、参照)。この考察は「司馬遼太郎における文明観の変遷と沖縄――周辺文明論の視点から」(『文明研究』第20号、2001年)へと受け継がれ、拙著『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)の第2章と第3章として収録されている。

*19  勝田吉太郎、『神なき時代の預言者――ドストエフスキーと現代』、日本教文社、昭和59年、44~6頁。

*20  松本健一、前掲書、198頁。

*21 拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、2002年、125~126ページ、および注に挙げた文献を参照。

*22  『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、53頁。

*23  引用は、前田哲男、『戦争と平和――戦争放棄と常備軍廃止への道』、ほるぷ出版、156頁による。

*24  神川正彦、「比較文明学という学的パラダイムの構築のために」(神川正彦、川窪啓資編、前掲書『講座比較文明』第1巻、6~9頁、180~181頁)。

 (『東海大学外国語教育センター紀要』第21輯、2000年)

 

追記:再掲に際しては、人名の表記を現在のものに統一した他、文体や注の記述なども改訂した。