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上丸洋一著『「諸君!」「正論」の研究 保守言論はどう変容してきたか』(岩波書店)を読む(1)

上丸洋一著『「諸君!」「正論」の研究 保守言論はどう変容してきたか』(岩波書店)を読む(1)

上丸洋一(図版はアマゾンより)

 

はじめに

私が本書のことを知ったのは、三笠宮がご逝去された際に多くの追悼記事が新聞やツイッターなどに掲載されて、参謀として南京に派遣された時には〈軍紀の乱れを知り、現地将校を前に「略奪暴行を行いながら何の皇軍か」などと激烈な講話〉をされていたなど、そのお人柄やお考えが詳しく紹介された時でした。

すなわち、南京陥落から約五年後の1943年から1年間、皇族であることを隠すために「若杉参謀」という偽名で、中国・南京の派遣軍総司令部に勤務した際には、捕虜を銃剣で突くことや、毒ガスを使った生体実験を日本軍がしていたことを知って「『聖戦』のかげに、じつはこんなことがあった」とショックを覚えた、「内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか」とその理由を著書で推測していたのです。

しかも、天皇の生前退位が問題となり、現在はその多くが「日本会議」と関係の深い委員で構成されている有識者会議で議論が行われているようですが、三笠宮は1946年には皇室典範改正を審議中の枢密院に「(天皇に)『死』以外に譲位の道を開かないことは新憲法第十八条の『何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない』といふ精神に反しはしないか?」 「(譲位を認めないなら)天皇は全く鉄鎖につながれた内閣の奴隷と化す」との意見書を出しておられたのです。

ことに、東京大学文学部の研究生となり歴史学を学ばれていた三笠宮は、「国家神道」的な考えと結びついた「紀元節」復活の動きに対しては、「二・一一論争と考古学」と題する論考を『日本文化財』13号(1956年5月)に発表されただけでなく、その翌年には歴史学者の会合で「反対運動を展開してはどうか」と呼び掛けられていました。

三笠宮が「昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した」。「架空な歴史……を信じた人たちは、また勝算なき戦争……を始めた人たちでもあった」と『文藝春秋』1959年1月号に記していたことを伝えたのが本書の著者である上丸氏のツイッターでした。

序章と終章を含めて全部で10章から成る本書は、『諸君!』『正論』両誌における「核武装論」や「靖国問題」などの重たいテーマや「岸信介と安倍晋三との関係」の分析、さらには新聞批判などさまざまなテーマについての論調の変遷を、その創刊の時期から丹念に分析することで、ほとんどの閣僚が「日本会議」や「神道政治連盟」の「国会議員懇談会」に属する安倍内閣が誕生するに至る過程を明らかにしています。

一方、私が研究している作家の司馬遼太郎も長編小説『竜馬がゆく』において幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と記して、現在の「日本会議」へと続く流れを示唆していました。

そして、日露戦争をクライマックスとした長編小説『坂の上の雲』を執筆中の1970年には、「歴史を動かすもの」というエッセーで「政治的なイデオロギー」の危険性を指摘しつつも司馬は、「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである」と書いて「日本国憲法」を擁護していたのです(『歴史の中の日本』中公文庫)。

以下、本書の内容を章の流れに沿って私の感想も交えながら具体的に紹介することで、近代に成立した国家の統治体制の基礎を定める「憲法」を古代の神話的な歴史観で解釈し「改憲」しようとしている安倍政権がどのようにして生まれたのかにも迫りたいと思います(本稿では敬称は略し、頁数はかっこ内にアラビア数字で示す)。

一、「紀元節」の復活運動と三笠宮の歴史観

本書の冒頭では「皇紀二六七〇年の今日、神武天皇建国の理想に改めて思いをいたし、紀元節にあたり、奉祝祈念式典を開催します」との言葉で始まった2010年の「日本の建国を祝う会」の式典では、『正論』の2005年6月号に「憲法三原則」が「日本を蝕む」と記していた小田村四郎・「日本会議」副会長が、「神武創業の精神を体し、永遠の繁栄に力を尽くす」との挨拶を行ったことが紹介されている(1)。

当時の民主党政権への批判決議が採択された後では、「正論大賞」受賞者の渡部昇一・上智大学名誉教授が、「日本の建国と日本人の感性」と題して行われた記念講演で、「日本の王朝(天皇家)は、神話が今につながる唯一の王朝です。日本は神話と歴史がつながっています。…中略…シナ文明は朝鮮半島まで到達しましたが、日本には及んでいません」と語って戦前のレベルの日本の歴史学をも否定していた。

このような運動の発端は、占領軍が1945年のいわゆる「神道指令」で、『国体の本義』や『臣民の道』など戦時下に国民教化のために発行された図書の頒布を禁止し、「大東亜戦争」や「八紘一宇」などの用語の使用も禁止したことに自民党や右派の論客たちが強く反発したことにあった。

すなわち、1952年4月に日本が独立を回復すると、その年のうちに自由党政調会文教部会は紀元節の復活を決定しした。一方、そのような動きに対して『日本のあけぼの 建国と紀元をめぐって』の序文で「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。……過去のことだと安心してはおれない。……紀元節復活論のごときは、その氷山の一角にすぎぬのではあるまいか」と記していたのが三笠宮であった。

さらに、1958年に「教員の団体である歴史教育者協議会が紀元節復活に反対する声明を発表」した際には、神武天皇の即位は神話であり史実ではないとして強く批判し、「国が二月十一日を紀元節と決めたら、せっかく考古学者や歴史学者が命がけで積上げてきた日本古代の年代大系はどうなることでしょう。本当に恐ろしいことだと思います」との書簡も寄せ、「これに反発した右翼が三笠宮に面会を強要する事件」も発生したが、自らの見解は曲げられなかった(10)。

陸羯南や正岡子規の新聞『日本』と比較しながら、拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)を著していた私にとって非常に興味深かったのは、戦前や戦中に「忠君愛国の精神」の重要性を説き、大日本言論報国会を設立して戦意高揚を叫んでいた言論人の徳富蘇峰が、1955年2月11日に東京日比谷公会堂で開かれた「国の初めを祝ふ会」で「紀元節」の復活を求める次のような講演をしていたことである。

「神武天皇に関することは、日本の歴史の父とも母とも云ふところの、日本書紀に特筆大書せられてあるのであつて、それを我々国民がそのまゝに信仰して、それを行事として行ふて来たのであるので、今日に至って二、三の歴史家の議論で、それを取消すなどといふものは、……軽率至極と云わねばならん」(太字は引用者、9)

蘇峰のこの演説は、「新しい歴史教科書をつくる会」の論客や「日本会議」系の論者だけでなく、一部の読者が「反戦小説」とも見なしている百田尚樹の『永遠の0(ゼロ)』の主要な登場人物である元一部上場企業社長の武田が、なぜ徳富蘇峰の『国民新聞』を高く評価しているのかを雄弁に物語っているだろう。

一方、司馬の『竜馬がゆく』の連載が始まった1962年の終戦記念日に産経新聞が社説でこう記していました。「敗戦とともに古い価値体系はくずれさり、神秘的な超国家は太平洋の波間に沈められて、非合理主義の時代は去った」(11)。

どうして、神秘的な国家観を捨てたはずの産経新聞が、雑誌『正論』を発行して右翼的な言辞を声高に唱えるようになったのだろうか。

 

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