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06月

中川久嗣著『ミシェル・フーコーの思想的軌跡』(東海大学出版会、2013年)を「書評・図書紹介」に掲載

書評にも書きましたが、私がフーコーを強く意識するようになったのは、『講座比較文明』第1巻の『比較文明学の理論と方法』(伊東俊太郎・梅棹忠夫・江上波夫監修、神川正彦・川窪啓資編、朝倉書店、1999年)に掲載された中川氏の「ヨーロッパ近代への危機意識の深化(2)――ニーチェとフーコー」を読んだときでした。

その論文をきっかけにフーコーの著作を比較文明学の視点から読むようになった私は、『狂気の歴史』や『監獄の誕生』などの著作がドストエフスキーを強く意識して書かれていることに気づいたのです。

『ミシェル・フーコーの思想的軌跡――<文明>の批判理論を読み解く』が発行されてからだいぶ時間が経ってしまいましたが、学会誌『文明研究』に短い書評論文を書きましたので、「書評・図書紹介」に掲載します。

私はフーコーの専門家ではないので、中川氏の著作の意義をきちんと伝え得ているかには疑問も残りますが、日本が文明の岐路にさしかかっているとも思える現在、問題の根源を直視するためにも哲学や歴史の研究者のみならず、文学や比較文明学をめざす若手の研究者にもぜひ読んでもらいたいと願っています。

リンク→書評論文、中川久嗣著『ミシェル・フーコーの思想的軌跡――<文明>の批判理論を読み解く』(東海大学出版会、2013年)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)――『カラマーゾフの兄弟』とイワンの苦悩

『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(1962年、筑摩書房)のドイツ語の原題は、『Off limits fu¨r das Gewissen――der Briefwechsel zwischen dem Hiroshima―Piloten Claude Eatherly und Gu¨nther Anders(良心の立ち入り禁止――広島パイロット、クロード・イーザリーとギュンター・アンデルスとの文通)』とのことで、「罪と罰」という単語は入っていません(ウムラウトの表記が分かれて示されています)。

それゆえ、文芸評論家の小林秀雄氏がこの著作に言及していなくても不自然ではないという解釈も可能です。

しかし、 [BOOKデータベース]によれば、この本の内容は下記のように紹介されていました。

【 “1945年8月6日、広島の上空で約45分間旋回した後、僚機エノラ・ゲイ号に向けて、私は「準備OK、投下!」の暗号命令を送りました。…”

後年、地獄火に焼かれる広島の人々の幻影に苦しみつづけ、〈狂人〉と目された〈ヒロシマのパイロット〉と哲学者との往復書簡集。それは、病める現代社会を告発してやまない。ロベルト・ユンクの精細な解説「良心の苦悩」を付す。】

*   *

よく知られているように長編小説『カラマーゾフの兄弟』では、自殺したスメルジャコフに自分が殺人を「使嗾」していたことに気づいたイワンが「良心の呵責」に激しく苦しむことが描かれています。

残念ながら、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と断言していた小林秀雄の『罪と罰』論が広まって以降、日本ではドストエフスキーはあまり倫理的な作家とは見られていないようです。

しかし、高校の時に『罪と罰』と出会って主人公の感情の分析の鋭さや文明論的な広い視野に驚き、続いて『白痴』では「殺すなかれ」という高い理念を語る主人公像に魅せられていた私は、自分が殺人を「使嗾」していたかもしれないことに気づいたイワンの「良心の呵責」を描いた『カラマーゾフの兄弟』にきわめて高い倫理性を見ていました。

「良心の苦悩」と名付けられた解説でロベルト・ユンクは、「広島でのあのおそるべき体験の後、イーザリーは何日間も、だれとも一言も口をきかなかったという話が伝えられている」と記し、さらにこう続けています。

「広島と長崎への原爆投下に参加したパイロットたちを、英雄視して祭り上げようとする風潮が終戦直後に起こったとき、こうした風潮の誘惑に抵抗したのは、ただひとりイーザリーだけであった。」(268~269頁、引用は1987年出版のちくま文庫による)。

それゆえ、この本を読んだ時にはイーザリーの苦しみに『カラマーゾフの兄弟』のイワンの苦悩を重ねて読み、表題に「罪と罰」というドストエフスキー作品のテーマを組み込んだ編集者の見識に感心していたのです。

リンク→小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

 リンク→小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

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「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(3)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)

アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』

(2016年1月1日、関連記事を追加)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)

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(広島に投下された原爆による巨大なキノコ雲(米軍機撮影)。キノコ雲の下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾。画像は「ウィキペディア」による)

 

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)――「沈黙」という方法と「道義心」

『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(G・アンデルス、C・イーザリー著、篠原正瑛訳、筑摩書房)と題された翻訳書が発行されたのは、世界が核戦争による破滅に瀕したキューバ危機が起こる2ヶ月前の1962年8月のことでした。

「人間の進歩について」と題して1948年に行われた物理学者の湯川秀樹博士との対談で、文芸評論家の小林秀雄氏は「原子力エネルギー」を産み出した「高度に発達した技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく批判していました。

私はそのことから強い感銘を受けていたので、小林氏が原爆パイロットの「良心の苦悩」が描かれているこの著作にも当然、強い関心を払い、言及しているだろうと考えていました。しかし、私の探し方が不十分なのかも知れませんが、まだこの著書に言及した書評や評論を見つけていません。

知っている方がおられたらお教え頂ければありがたいのですが、この問題に対しても小林氏は前回も指摘した「沈黙」という方法で素通りしてしまったように見えます。

この著作と小林氏の「良心観」との考察は、ある程度まとまってから「主な研究」の頁に一挙に掲載することも考えました。

しかし、福島第一原子力発電所の事故の後で原発の格納機の中の核燃料がどうなっているかが、わからないにもかかわらず原子力規制委員会によって原発の再稼働が認められた現在、この問題は切実さを増しているように思えます。

「道徳」の視点からも重要なので、暇を見つけて、このブログに少しずつ発表することにします。

リンク→小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

 リンク→小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

関連記事一覧

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(3)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)

アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』

(2015年6月18日、写真と副題を追加。2016年1月1日、関連記事を追加)

 

 

「アベノミクス」と「年金情報流出」の隠蔽

2015年6月3日の「東京新聞」は、「個人情報約百二十五万件が外部流出した」にもかかわらず、情報の隠蔽がなされていたことを次のように伝えていました。

*   *

「年金情報流出で国会集中審議 対応遅れ、厚労省を追及」

日本年金機構がウイルスメールによる不正アクセスを受け、個人情報約百二十五万件が外部流出した問題で、衆院厚生労働委員会は三日、集中審議を開き、野党側は「最初に不正アクセスを確認した五月八日に抜本的な対策をとっていれば、空前絶後の情報流出はなかった」などと、監督官庁の厚生労働省の責任を追及した。また塩崎恭久厚労相の責任問題について、民主党の枝野幸男幹事長は「近い将来、そういう話になる」などと言及した。国会内で記者団に述べた。

与党は当初、この日の厚労委で、労働者派遣法改正案の質疑を求めたが、情報流出の実態解明を優先すべきだとの野党の主張を受け入れた。質問した民主党の大西健介氏は「この問題で一定の対策がとられない限り、ほかの法案審議はできない」と強調。その上で最初に不正アクセスがあった五月八日から今月一日に公表されるまで三週間以上要したことについて「もっと早く公表し、注意喚起できたのではないか」とただした(後略)。

*   *

この記事は2013年の参議院議員選挙の前に、放射能汚染水の流出の「事実」を東電社長が「3日前に把握」していたにもかかわらず、そのことが発表されたのが選挙後であったことを思い起こさせます。

こうした一連の事態は安倍政権の「隠蔽」体質を物語っていると思われ、今回の安倍政権が明治維新後に成立した「薩長独裁政権」と同様に、日本「国民」の生命や健康や生活にほとんど関心がなく、大企業と一部のお仲間の利益のみを重視しているように感じられます。

大規模な地殻変動によって国土が誕生した日本で、再び火山活動が活発化していることが指摘されているにもかかわらず、原発の推進や日本の軍国化を進めている安倍政権はきわめて危険だと思えます。

*   *

以前に書いたように、経済学の専門家でない私が「アベノミクス」の問題点を論じても説得力は少ないだろうとの思いは強いのですが、この問題は「国民」の生活や生命にも重大な影響を及ぼすと思えます。

次の世代に対する責任を果たす上でも、これからもこのブログで指摘していきたいと考えていますので、以下にこれまでの記事のリンク先を示しておきます。

アベノミクス(経済至上主義)の問題点(1)――株価と年金2014年11月25日

「アベノミクス」と原発事故の「隠蔽」12月1日

アベノミクス(経済至上主義)の問題点(2)――原発の推進と兵器の輸出入12月3日

「アベノミクス」とルージンの経済理論12月7日(*ルージンは『罪と罰』に登場する利己的な中年の弁護士)

〈「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観〉を「主な研究」の頁に掲載

文芸評論家の小林秀雄氏は、黒澤映画《白痴》が公開されてから1年後に書き始められた『白痴』論の末尾で次のように記していました。

「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである。〈後略〉」。

「不注意な読者」という句を小林氏は以前から愛用していたが、拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』では、この表現が1951年に映画《白痴》を公開していた黒澤明監督に向けられている可能性が強いこと指摘しました。

文芸評論家の小林秀雄氏と数学者の岡潔氏との対談『人間の建設』(新潮社)からも同じような印象を受けましたので、両者の『白痴』観に絞って考察することで、小林秀雄のドストエフスキー観の問題点に迫りたいと思います。

リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

リンク→「不注意な読者」をめぐって――黒澤明と小林秀雄の『白痴』観

リンク→小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計