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08月

ヴィスコンティの映画《白夜》評を「映画・演劇評」に掲載しました

昨夜書いたブログ記事では、ラジオから聞こえてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から受けた衝撃と対比しながら、クリミア戦争の前夜に書かれたドストエフスキーの『白夜』の美しい文章に何度も言及していた掘田善衛氏の『若き日の詩人たちの肖像』にふれました。

それゆえ、今回はヴィスコンティの映画《白夜》評を「映画・演劇評」に掲載しました。2002年に書いたものなので今から10年以上も前の記事になります。

しかし、現在の日本では近隣諸国に対する威勢のよい言葉が国会で語られ、さらに副総理がナチスのやり方を賞賛するような発言をし、改憲を目指すことを公言している総理が終戦記念日に「不戦の誓い」を省くなどの言動が見られる一方で、市街地でもヘイトスペイーチを繰り返さす行進が堂々と行われるれるなど軍靴の響きは日ごとに高まっています。

このような流れの危険性を冷静に判断するためにも、ドストエフスキーの小説『白夜』や映画《白夜》は、もう一度見直されるべき作品といえるでしょう。

 

『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)を「著書・共著」に掲載しました

8月19日に書いた「《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影」では、作家の掘田善衛氏が長編小説『若き日の詩人たちの肖像』でラジオから聞こえてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から受けた衝撃と比較しながら、クリミア戦争の前夜に書かれたドストエフスキーの『白夜』の美しい文章に何度も言及していたことにもふれました。

この自伝小説の最後の章で、主人公に芥川龍之介の遺書に記された「唯自然はかういふ僕にはいつもより美しい」という文章を思い浮かばせた掘田善衛氏は、その後で自分に死をもたらす「臨時召集令状」についての感想を記しています。このことに留意するならば、堀田氏は『白夜』という作品が日本の文学青年たちの未来をも暗示していると読んでいたようにも思えます。

実際、叙情的に見える内容を持つ小説『白夜』は、堀辰雄氏の『風立ちぬ』と同じような美しさとともに、戦争に向かう時代に対するしぶとさをも持っているのです。

拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』では、ドストエフスキーの青春時代とその作品に焦点を当てることによって、「大国」フランスとの「祖国戦争」に勝利したロシアが、なぜ「暗黒の30年」とも呼ばれるような時代と遭遇することになったのかを考察しました。

「著書・共著」のページには、ドストエフスキーの父とナポレオンとの関わりや父ミハイルと作家となる息子ドストエフスキーとの葛藤についてもふれた「はじめに」の抜粋とともに、詳しい「目次」も掲載しました。

 

「新着情報」のページを開設し、朗読劇「山頭火物語」の公演日程を掲載しました

テレビドラマ《木枯らし紋次郎》で一世を風靡した俳優の中村敦夫氏は、現在も日本ペンクラブの理事、環境委員会委員長として活躍しています。

今日も「福島第1原発の地上タンク周辺で汚染水の水たまりが見つかった問題で、東京電力は20日、タンクからの漏えいを認めた上で、漏えい量が約300トンに上るとの見解を示した。漏えいした汚染水から、ストロンチウム90(法定基準は1リットル当たり30ベクレル)などベータ線を出す放射性物質が1リットル当たり8千万ベクレルと極めて高濃度で検出された。漏れた量は過去最大」との信じがたいようなニュースが報道されています(『東京新聞』ネット版)。

政府や多くのマスコミが原発事故の重大さを直視することを恐れて眼を背けていると思われる現在、「脱原発」の必要性を掲げる日本ペンクラブ・環境委員会の活動は、「国民」の生命や地球環境を守るためにもきわめて重要でしょう。

「新着情報」の最初のページに、中村敦夫氏の朗読劇《山頭火物語》の公演日程を掲載しました。

特集「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」と映画《生きものの記録》、を「映画・演劇評」に掲載しました

7月の下旬に「科学者(知識人)の傲慢と民衆の英知――映画《生きものの記録》と長編小説『死の家の記録』」という論文を書き上げました。

この論文の内容については雑誌が発行されてから具体的に記するようにしたいと思いますが、ほぼ書き終えた頃にインターネットの検索で仙台出身の岩井俊二監督とスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーとの対談記事を見つけました。

「大地の激動と『轟々と』吹く風」と題した《風立ちぬ》論Ⅱには、この対談から影響を受けていると思われる箇所がありますので、今回の「映画・演劇評」では「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」という日本映画専門チャンネルの特集についての対談記事より、《生きものの記録》について語られている箇所を中心に紹介します(テキスト・構成・撮影:CINRA編集部、2011/12/30)。

「 黒澤明監督の《生きものの記録》と宮崎駿監督の《風立ちぬ》」より改題(8月22日)

「《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影」を「映画・演劇評」に掲載しました

ブログの「アニメ映画『風立ちぬ』と鼎談集『時代の風音』」にも記しましたが、作家・堀辰雄(1904~53)の小説『風立ちぬ』と同じ題名を持つ、宮崎駿監督の久しぶりのアニメ映画の主人公の一人が、戦闘機「零戦」の設計者・堀越二郎であることを知ったときに、このアニメ映画が政治的に利用されて「戦うことの気概」が賛美されて、「憲法」改正の必要性と結びつけられて論じられることを危惧しました。

しかし、その心配は《風立ちぬ》を見た後では一掃されました。なぜならば、この映画では堀越二郎と本庄季郎という2人の設計士の友情をとおして、「富国強兵」政策のもとに耐乏生活を強いられた「国民」の生活もきちんと描かれていたからです。

さらに『魔の山』に言及することで《風立ちぬ》は、当時の日本帝国とドイツ帝国との類似性を浮かび上がらせることにも成功していたと思えます。

私自身は作家トーマス・マンについて詳しく研究したことはないのですが、重要なテーマなので、今回は《風立ちぬ》論を「『魔の山』とヒトラーの影」と題して、「映画・演劇評」に掲載しました。

『司馬遼太郎と時代小説――「風の武士」「梟の城」「国盗り物語」「功名が辻」を読み解く』 (のべる出版企画、2006年)を「著書・共著」に掲載しました

今日の「映画・演劇評」に書いた「《風立ちぬ》Ⅱ」という記事で、大地震に関連して司馬遼太郎氏の『功名が辻』に言及しました。

それゆえ、『功名が辻』や『風の武士』など司馬氏の時代小説を論じた『司馬遼太郎と時代小説――「風の武士」「梟の城」「国盗り物語」「功名が辻」を読み解く』 (のべる出版企画、2006年)の、「目次」と「あとがき」の抜粋を「著書・共著」に掲載しました。

これらの作品をじっくりと読み解くことでその面白さだけでなく、いわゆる「司馬氏観」の生成とその視野の広さをも実感することができるでしょう。

「《風立ちぬ》Ⅱ――大地の激震と「轟々と」吹く風」を、「映画・演劇評」に掲載しました

 宮崎駿監督は作家の司馬遼太郎氏を深く敬愛していましたが、二人の間には多くの点で歴史観や文明観に多くの共通点があることをブログ「アニメ映画『風立ちぬ』と鼎談集『時代の風音』」に記しました。

 また 『竜馬がゆく』には1854年12月23日に発生した東海地震に遭遇した竜馬の心理と行動が詳しく描かれていることをブログ「『竜馬がゆく』と「震度5強」の余震」で明らかにしました。

 今回はこのような二人の自然観に注目することによって、《風立ちぬ》における大地の激動の描写や「轟々と」吹く風の描写と、東日本大震災以降の日本との関わりを考えてみたいと思います。

 

三宅正樹著『文明と時間』(東海大学出版会、2005年)を「書評・図書紹介」に掲載しました

三宅正樹教授は本書で日本の比較文明学の先駆者の一人である山本新氏の『周辺文明論――欧化と土着』(神川正彦・吉澤五郎編、刀水書房、1985年)や神川正彦氏の論文の考察をとおして、今も日本の政治家などに強い影響力を持っているハンチントンの大著『文明の衝突と世界秩序の再編成』(1996年、邦訳『文明の衝突』)におけるロシア観や日本観の問題に鋭く迫っています。

比較文明学的な広い視野で「文明」や「近代化」の問題を考察した本書は、ロシアとの北方領土問題だけでなく、中国や韓国との間でも領土問題に揺れるようになった現在の日本を冷静に考えるためにも重要な示唆に富んでいるといえるでしょう。

終戦記念日と「ゴジラ」の哀しみ

ゴジラ

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)

68回目の終戦記念日が訪れました。

記念式典での「私たちは、歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、希望に満ちた、国の未来を切りひらいてまいります。世界の恒久平和に、あたうる限り貢献し、万人が心豊かに暮らせる世を実現するよう、全力を尽くしてまいります」との安倍首相の式辞も報道されています。しかし、そこにはこれまで「歴代首相が表明してきたアジア諸国への加害責任の反省について」はふれられておらず、「不戦の誓い」の文言もなかったことも指摘されています(『日本経済新聞』ネット版)。

すでにブログにも記しましたが、8月6日の「原爆の日」に広島市長は原爆を「絶対悪」と規定し、9日の平和宣言では田上市長も、4月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会で、核兵器の非人道性を訴える80カ国の共同声明に日本政府が賛同しなかったことを「世界の期待を裏切った」と強く批判し、「核兵器の使用を状況によっては認める姿勢で、原点に反する」と糾弾していました。

安倍首相が美しい言葉を語っている時も、「原子力の平和利用」というスローガンによって政治家たちの主導で建設された福島第一原子力発電所事故は収束してはおらず、莫大な量の汚染水が国土と海洋を汚し続けているのです。

このような状況を見ながら強く感じたのは、終戦直後の日本政府の対応との類似性です。

8月11日付の『東京新聞』は、大きな見出しで「英国の核開発を主導し、『原爆の父』と呼ばれ、米国の原爆開発にも関与したウィリアム・ペニー博士」が、「日本への原爆投下から約四カ月後、『米国は放射線被害を(政治的な目的で)過小評価している』と強く批判していたことが」、「英公文書館に保管されていた文書で分かった」ことを報じるとともに、広島では放射線の影響で「推計十四万人」が、長崎でも「推計七万人四千人が死亡し」、「被爆の五~六年後には白血病が多発」するようになったことも記してアメリカによる隠蔽の問題を指摘していました。

*    *      *

同じような隠蔽は一九五四年三月にビキニ沖で行われたアメリカの水爆実験によりで日本の漁船「第五福竜丸」が被爆するという事件の後で公開された映画《ゴジラ》でも行われていました。

『ウィキペディア』の「ゴジラ(1954年の作品)」という項目によれば、「アメリカのハリウッド資本に買い取られ」、テリー・モース監督のもと追加撮影と再編集がされたこの作品は、1956年に『怪獣王ゴジラ』(和訳)という題名で全米公開されましたが、「当時の時代背景に配慮したためか、「政治的な意味合い、反米、反核のメッセージ」は丸ごとカットされて」いました。

なぜならば、本多猪四郎監督は「ゴジラ」が出現した際のシーンでは、核汚染の危険性について発表すべきだという記者団と、それにたいしてそのような発表は国民を恐怖に陥れるからだめだとして報道規制をした日本政府の対応も描き出していたのです。

本多監督は、「原爆については、これは何回も言っているけど、ぼくが中国大陸から帰ってきて広島を汽車で通過したとき、ここには七十五年、草一本も生えないと聞きながら、板塀でかこってあって、向こうが見えなかったという経験があった」とも語っています。

しかし、広島・長崎の被爆による放射能の問題を占領軍となったアメリカの意向に従って隠蔽した日本政府は、その後もアメリカなどの大国が行う核実験などには沈黙を守り、「第五福竜丸事件」の際にも被害の大きさの隠蔽が図られ、批判者へのいやがらせなどが起きたのです。

それゆえ、映画《ゴジラ》には情報を隠蔽することの恐ろしさや科学技術を過信することへの鋭い警告も含まれていたといえるでしょう。

リンク→『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)

「ウィキペディア」によれば、「アメリカで正式な完全版の『ゴジラ』が上映されたのは2005年」とのことなので、アメリカの多くの国民は2005年にようやく「核実験」によって生まれた「ゴジラ」の哀しみを知ったといえるでしょう。

「平和憲法」がアメリカによって作られたと信じ、その「改変」を目指している安倍首相には、原爆の悲惨さと「ゴジラ」の哀しみにも日本人としてきちんと向き合ってほしいと願っています。

近著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画)の発行に向けて

(2016年4月17日、改訂し図版を追加。6月21日、近著の紹介を追加)

 

齋藤博著『文明のモラルとエティカ――生態としての文明とその装置』(東海大学出版会、2006年)を「書評・図書紹介」に掲載しました

「書評・図書紹介」の最初のページに、学会誌『比較文明』(第23号)に掲載された『文明のモラルとエティカ――生態としての文明とその装置』の書評を再掲します。

齋藤博・東海大学名誉教授の文明学に対するご貢献については、論文集『文明と共存』の序文「混沌から共存へ」に記されているので、ここではそれを引用しておきます。

*    *     *

新しい世紀を迎えた現在も世界の各地で宗教問題や民族問題を契機とした紛争が頻発し、イラク戦争も大義が見つからないままに混沌の度合いを深め、一部ではすでに宗教戦争の様相を示しているとの見方も出始めている。

このような意味で二十一世紀への新しい視点を確立するためにも、スピノザの専門的な研究成果をふまえて、「文明への問いは人間の共存の根拠を問うこと」であるとして、東海大学文明学の理論的な方向性を示された齋藤博教授の先駆的な学的試みは高く評価されねばならないだろう。

本著はそのような齋藤名誉教授の学恩を受けた大学院生卒業生の論文を中心にして編んだものであり、いわば各人における齋藤文明学の受容と自分の専門の視点からの発展が示されている。

本著が混迷から共存への方向性を模索する文明学の発展にささやかでも寄与できれば幸いである。