高橋誠一郎 公式ホームページ

ヒトラー

(2)ベルリン・オリンピックとの「際立つ類似点」

前回の記事〈「共謀罪」法案の強行採決と東京オリンピック開催消滅の可能性(1)――1940年との類似性(加筆版)〉では、安倍首相が「共謀罪 成立なしで五輪開けない」と語ったことの問題点を考察するとともに、国際連盟が派遣したリットン調査団の報告の後で日本が国際連盟から脱退していたことについてもふれた。

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今日の「こちら特報部」(「東京新聞」)は、ベルリン五輪(1936年)を徹底して「政治利用」し、「景気浮揚、治安の強化、再軍備」など「国威発揚」の場としたナチスドイツと、「改憲」や「共謀罪」法案でオリンピックを政治利用し、「復興を演出」している安倍政権の手法との「際立つ類似点」を見事に示している。

すなわち、「平和愛好家を自称していた」ヒトラーは「五輪の期間中だけ国内でユダヤ人排斥の看板」を取り外すなどの対策をとることで、「ユダヤ人迫害などはうそだ」と「世界に向けて宣伝」していた。

ヒトラー、オリンピック

ベルリンオリンピックの開会式でオリンピック旗に敬礼するアドルフ・ヒトラー。1936年8月1日、ドイツ。出典はサイト「ホロコースト百科事典」より)

そのために「五輪憲章は大会の政治利用を禁じている」が「その原則に触れかねない事態」がおきたのが、「昨年八月、リオ五輪の閉会式で安倍政権が人気キャラクター「マリオ」にふんして登場した一幕」だったのである。

この件については「日刊ゲンダイ」が昨年年8月22日の記事ですでに次のように批判していた。

「ちょうど80年前、ナチス政権下のドイツで開かれたベルリン大会で、ヒトラーは国威発揚のため自ら開会宣言を行った。オリンピックの政治利用の最悪のケースとして歴史に刻まれています。安倍首相もセレモニーに登場することで“東京五輪まで首相を続けるぞ”とアピールしたのです。再来年9月までの自民党総裁任期を延ばそうという動きと連動した姑息な延命PRです」(自民党事情通)/ ヒトラーといい安倍首相といい、独裁者がやることはソックリだ。」

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安倍首相の政治利用の「代表格が改憲だ」とし、首相が三日に「夏季のオリンピックが開催される二〇二〇年を日本が新しく生まれ変わる大きなきっかけ」とすると語ったことを指摘した今日の「こちら特報部」はさらに、こう続けている。

「そもそも五輪招致段階のIOC総会で『汚染水は完全にコントロールされている』と事実に反するアピールをし、現在も続く被災者たちの苦悩も「復興五輪」の名目によって、打ち消そうとしている」安倍首相は、「自らの責任も問われている福島原発事故も、五輪を機に『過去』のものにしたいようだ」。

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開催地の新聞であるにもかかわらず「東京新聞」がこのような記事を載せるのは勇気のある決断であり、五輪に向けたこれまでの努力を無駄にしないためには、「五輪憲章」に違反して開催権を取り上げられる危険性のある安倍政権に代わる次の政権を一刻も早くに打ち立てることが必要だろう。

(2023/01/17、ツイートを追加)

正岡子規の時代と現代(4)――明治6年設立の内務省と安倍政権下の総務省

「この時期、歴史はあたかも坂の上から巨岩をころがしたようにはげしく動こうとしている」(司馬遼太郎『翔ぶが如く』、文春文庫、第3巻「分裂」。拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』81頁))

「よく考えてみると、敗戦でつぶされたのは陸海軍の諸機構と内務省だけであった。追われた官吏たちも軍人だけで、内務省官吏は官にのこり、他の省はことごとく残された。/ 機構の思想も、官僚としての意識も、当然ながら残った」(『翔ぶが如く』、「書きおえて」)。

isbn978-4-903174-33-4_xl装画:田主 誠/版画作品:『雲』

 

正岡子規の時代と現代4――1873年(明治6年)の内務省と安倍政権下の総務省

司馬遼太郎氏は長編小説『翔ぶが如く』で、「普仏戦争」で「大国」フランスに勝利してドイツ帝国を打ち立てたビスマルクと対談した大久保利通が、「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立」しようとしたと書いていました(第1巻「征韓論」、拙著『新聞への思い』、88頁)。

これらの指摘は一見、現代の日本を考える上では参考になるとは見えません。しかし、ドイツが福島第一原子力発電所の大事故の後で、国民的な議論と民衆の「英知」を結集して「脱原発」に踏み切る英断をしたのを見て、改めて痛感したのは、ドイツ帝国やヒトラーの第三帝国の負の側面をきちんと反省していたドイツと日本との違いです。

なぜならば、敗戦70年の談話で安倍首相は、「日露戦争の勝利」を強調していましたが、ヒトラーも『わが闘争』においてフランスを破ってドイツ帝国を誕生させた普仏戦争(1870~1871)の勝利を、「全国民を感激させる事件の奇蹟によって、金色に縁どられて輝いていた」と情緒的な用語を用いて強調していたのです。

こうして、ヒトラーはドイツ民族の「自尊心」に訴えつつ、「復讐」への「新たな戦争」へと突き進んだのですが、「官の絶対的威権を確立」したドイツ帝国を模範として第三帝国を目論んだヒトラー政権は、50年足らずで崩壊した「ドイツ帝国」よりもはるかに短期間で滅んでいました。

それゆえ、敗戦後に母国だけでなくヨーロッパ全域に甚大な被害を与えたナチスドイツの問題を詳しく考察したドイツでは、「官僚」の命令に従うのではなく、原発など「国民の生命」に関わる大きな問題を国民的なレベルで議論することを学んだのだろうと思われるのです。

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それに対して日本では、「ドイツのワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか」とヒトラーの政治手法に言及した麻生副総理の発言は内外に強い波紋を呼んだものの、集中審議開催を与党が拒否したために、国会でのきちんとした論戦もないままに終わっていました。

本場のドイツとは異なり、日本では敗戦後も「内務省のもつ行政警察力」を中心とした「プロシア風の政体」の問題や政治家や経済界の責任を明らかにしなかったために、

『新聞紙条例』(讒謗律)が発布される2年前の明治6年に設置された内務省の危険性がいまもきちんと認識されていないようです。

一方、『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬氏はナチスドイツと「昭和前期の日本」との類似性を意識しない日本の政治家の危険性を次のように厳しく批判していました。

「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒットラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか」(「『坂の上の雲』を書き終えて」)。

司馬氏のこのような問題意識は、『坂の上の雲』の終了後に書き始めた『翔ぶが如く』にも受け継がれています。

すなわち、その後書きで「土地バブル」に多くの民衆が踊らされて人々の生命をはぐくむ「大地」さえもが投機の対象とされていた時期に、「土地に関する中央官庁にいる官吏の人」から「私ども役人は、明治政府が遺した物と考え方を守ってゆく立場です」という意味のことを告げられた時の衝撃を司馬氏はこう書いているのです。

「私は、日本の政府について薄ぼんやりした考え方しか持っていない。そういう油断の横面を不意になぐられたような気がした」。

そして司馬氏は、「よく考えてみると、敗戦でつぶされたのは陸海軍の諸機構と内務省だけであった。追われた官吏たちも軍人だけで、内務省官吏は官にのこり、他の省はことごとく残された。/ 機構の思想も、官僚としての意識も、当然ながら残った」と続けていたのです(『翔ぶが如く』文春文庫、第10巻「書きおえて」)。

福島第一原子力発電所の大事故のあとで、原子力産業を優遇してこのような問題を発生させた官僚の責任が問われずに、地震大国である日本において再び国内だけでなく国外にも原発の積極的なセールスがなされ始めた時に痛感したのは「書きおえて」に記された司馬氏の言葉の重みでした。

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それゆえ、11月28日に私は下記の文面とともに、「特定秘密保護法案に反対する学者の会」に賛同の署名を送りました。

〈「テロ」の対策を目的とうたったこの法案は、諸外国の法律と比較すると国内の権力者や官僚が決定した情報の問題を「隠蔽」する性質が強く、「官僚の、官僚による、官僚と権力者のための法案」とでも名付けるべきものであることが明らかになってきています。それゆえ私は、この法案は21世紀の日本を「明治憲法が発布される以前の状態に引き戻す」ものだと考えています。〉

特定秘密保護法案の衆議院強行採決に抗議し、ただちに廃案にすることを求めます

*   *   *

新聞報道の問題や言論の自由の問題のことを考えていたこの時期にたびたび脳裏に浮かんできたのは、郷里出身の内務省の官僚との対立から寄宿舎から追い出された後で、木曽路の山道を旅して「白雲や青葉若葉の三十里」という句を詠んだ正岡子規の姿でした。

日露戦争をクライマックスとした『坂の上の雲』では、どうしても多くの頁数が割かれている戦闘の場面の描写の印象が強くなるのですが、この後で東京帝国大学を中退して新聞『日本』の記者となった正岡子規を苦しめることになる「内務省」や新聞紙条例などの問題もこの長編小説では詳しく分析されているのです。

それゆえ、子規の叔父・加藤拓川と新聞『日本』を創刊する陸羯南との関係にも注意を払いながらこの長編小説を読み進めるとき、「写生」や「比較」という子規の「方法」が、親友・夏目漱石の文学観だけでなく、秋山真之や広瀬武夫の戦争観にも強い影響を及ぼしていることを明らかにすることができると思えたのです。

(初出、2013年11月27日~29日。改訂しリンク先を追加、2016年11月1日)

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(目次

人文書館のHPに掲載された「ブックレビュー」、新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』

[BS1]でドキュメンタリー「ヒトラー『わが闘争』」と「ヒトラー暗殺計画」を放送。

残念ながら、ともに途中からの視聴となってしまったが、ナチスドイツと独裁者ヒトラーの実態を明らかにする迫力あるドキュメンタリーであった。再放送を希望するので、「BS世界のドキュメンタリー」の記述を引用しておく。

2016年9月27日(火)午前0時00分~午前0:50(50分)

ヒトラー『わが闘争』~封印を解かれた禁断の書~

ナチスのバイブルとも評される『わが闘争』。ヒトラーの死後70年が経過し、昨年末で著作権が失効するのを機に、出版禁止だったドイツにおける再出版が現実味を帯びてきた。

ヒトラーが獄中で著し、その反ユダヤの価値観やアーリア人種優越主義が色濃く反映されている『わが闘争』。

ヒトラーの死亡時に住所登録があったバイエルン州では、州政府が『わが闘争』の著作権を管理し、出版を禁じてきた。

しかし2015年末に著作権フリーになることを受け、州政府は極右グループなどに利用されないよう、膨大な注釈付きでの再出版を一旦は決定したが・・・。ドイツでは非常にデリケートなこの問題の波紋を追う。

  • 原題:HITLER’S MEIN KAMPF  A DANGEROUS BOOK
  • 制作:BROADVIEW TV / ZDF(ドイツ 2016年)

2016年9月28日(水) 午前0:00~午前0:50(50分)

「ヒトラー暗殺計画」

ヒトラーが君臨していた時代、人々は熱狂的に独裁者を崇拝していたかに見えるが、実は30を超える暗殺計画が企てられていた。一部ドラマを交えて、緊迫の計画を再現する。

最初の暗殺未遂は1939年のミュンヘン。共産主義者の時計技師が、ヒトラーが演説予定だったビアホールに手製の時限爆弾を仕掛けたが、ヒトラーが予定より早く演説を終えたため失敗。

その後も軍の将校らが暗殺を企てるが、ことごとく未遂に終わる。悪運の強い独裁者と暗殺計画の実行者の攻防を、スリリングなドラマを織り込みながら描いた力作。

原題:KILL HITLER –THE LUCK OF DEVIL

  • 制作:Sunset Presse (フランス 2015年)

 

関連情報 →チャップリンの映画《独裁者》

「絶望してはいけない」チャップリンの史上最高のスピーチ【独裁者】

– NAVER まとめ matome.naver.jp/odai/213443285…

 

「新しい戦争」と「グローバリゼーション」(『この国のあしたーー司馬遼太郎の戦争観』の「はじめに」)を掲載

二〇〇一年は国際連合により「文明間の対話」年とされ、二一世紀は新しい希望へと向かうかに見えた。しかし、その年にニューヨークで「同時多発テロ」が起きた。むろん、市民をも巻き込むテロは厳しく裁かれなければならないし、それを行った組織は徹底的に追及されなければならないことは言うまでもない。ただ、問題はこれに対してアメリカのブッシュ政権が「報復の権利」の行使をうたって「文明」による「野蛮」の征伐を正当化して激しい空爆を行い、「野蛮」なタリバン政権をあっけないほど簡単に崩壊させた後には、イラクや北朝鮮だけでなく、タリバンへの空爆の際には協力を求めたイランをも「悪の枢軸国」と名付けて攻撃をも示唆したことである。このようなアメリカの論理にのっとってイスラエルのシャロン首相は、「自爆テロ」への「報復の権利」を正当化し、パレスチナ自治区への激しい武力侵攻を行い、お互いの「報復の応酬」によって中東情勢は混沌の色を濃くしたのである。

この意味で注目したいのは、なせ第一次世界大戦の敗戦後にヒトラーが政権を握りえたかを分析した社会学者の作田啓一が、「個人の自尊心」と「国家の自尊心」とは深いところで密接に結びついているとし、「個人主義」だけでなく「個人主義の双生児であるナショナリズムも、自尊心によって動かされて」きたと指摘したことである*1。このことは強い「グローバリゼーション」の流れの中でナショナリズムが燃え上がるようになったかをよく物語っている。すなわち、このような民族主義・国家主義の傾向は、イスラエルに限ったことではなく、インドとパキスタンが互いに核実験を行って世界から顰蹙(ひんしゅく)を買ったのはまだ記憶に新しいが、ヨーロッパでもオーストリアでハイダー党首率いる民族主義政党が躍進して政権を担うに至り、最近ではフランスでヒトラー的な反ユダヤ主義を標榜するルペン党首が率いる極右政党「国民戦線」への支持が急激に増えるなど、世界大戦前のような民族主義の台頭が世界的に見られるのである。このような理由について作田は社会学の視点から「大衆デモクラシーのもとでは、有権者の票の獲得にあたって、理性に訴える説得よりも、感情に訴える操縦のほうが有効であると言われるようになり、また事実、その傾向が強く」なったと説明している*2。

日本でも強い「グローバリゼーション」に対応するために低学年からの学習など英語教育の徹底する一方で、青少年における凶悪犯罪やモラルの低下が「自由と平等」を原則としたアメリカ的な原理に基づく戦後教育が原因だとして、愛国心や伝統の重要性が強調されるようになり、かつての強い「明治国家」を目指す「復古」的な主張や戦争を賛美するような言動も目だつようになってきている。しかも、このような過程でそれまでも高い評価を得ていた司馬遼太郎(一九二三~一九九六)の歴史小説が、司馬の死後には「国民的一大ブームといってよいほど」にもてはやされ、「神話化」され、「権威化」された「司馬史観」を背景にして、「公」としての「国家」を重んじることが、アジアで最初の「国民国家」である「明治国家」を讃えた司馬の遺志に適うかのような雰囲気が急速にかもしだされたのである*3。

しかし、はたして司馬遼太郎は「明治国家」や日露戦争の全面的な賛美者だったのだろうか。この意味で興味深いのは比較文明学的な視野から見るとき、「同時多発テロ」の発生以降、「同盟国」である超大国アメリカの「新しい戦争」を助けることが「常識」とされて、「グローバリゼーション」の圧力のもとに国会での議論もあまり行われないままに一連の「テロ関連法案」が通過し、さらに「有事法案」や「メディア規制法案」などにより「国権」の強化がはかられている「平成国家」日本の現状が、やはり「文明開化」という名の「欧化」の圧力のもとに、強い「国民国家」をめざして讒謗律、新聞紙条例、保安条例などの一連の法律を制定して国内の安定を保つとともに大国イギリスと同盟することで「日露戦争」へと突き進んだ「明治国家」の姿とも重なるように見えることである。

司馬遼太郎は日露戦争を主題として描いた『坂の上の雲』の前半では、すでに憲法を持っていた「国民国家」としての「明治国家」と専制政治下の「ロシア帝国」との戦いを「文明」と「野蛮」の戦いととらえていた。しかし、厖大な死傷者を出した近代戦争としての日露戦争の現実を「冷厳な事実」を直視して詳しく調べていくなかで司馬は、西欧列強に対抗するために日露両国が行った近代化の類似性に気付いて「国民国家」が行う戦争に対する疑問を強く持ち始め、一九三一年に起きた「満州事変」を「閉塞状態を、戦争によって、あるいは侵略によって解決しようとした」と鋭く批判するようになるのである(「何が魔法にかけたのか」『「昭和」という国家』ーー以下、『国家』と略す)。

つまり、『坂の上の雲』を書き上げた時、司馬は第一次世界大戦が生みだした戦争の惨禍を反省して大著『歴史の研究』を書き、西欧文明を唯一の文明として絶対的な価値を与えてきたそれまでの西欧の歴史観を「自己中心の迷妄」と断じて、近代の「国民国家」史観の克服をめざし、比較文明学の基礎を打ち立てたたイギリスの研究者トインビーに近い地点にいたのである。実際、ナポレオン戦争以降、「強国」は互いに自国を「文明」として強調しながら、「復讐の権利」を主張し合い、武器の増産と技術的な革新を競い合う中で戦争は拡大し、第二次世界大戦では原子爆弾が使用されて五千万以上ともいわれる死者を出すにいたったのである。

しかもトインビーは、古代ユダヤにおいてもローマ文明を「普遍的な世界文明として」認める考えと「ローマ化」を「文明の自己喪失として有害」とする「国粋」的な考えの鋭い対立があったことを記していたが*4、このような「周辺文明論」をさらに深めた山本新や吉澤五郎が指摘しているように、日本に先んじて「文明開化」を行っていたロシアでも「欧化と国粋」という現象は、顕著に見られたのである*5。

たとえば、ソ連崩壊後に「グローバリゼーション」の波に襲われたロシアではヒトラーの『わが闘争』のロシア語訳がいくつもの本屋で販売され、さらに過激な民族主義者ジリノフスキーの率いるロシアの自由民主党が選挙で躍進するなどの傾向が見られたが、このような現象は、クリミア戦争敗戦後の混乱の時期にも強く見られた。この意味で注目したいのは、激しい「欧化と国粋」の対立の中で、「血の復讐」を批判して「和解」の必要性を説く「大地主義」を唱えていたドストエフスキーが、「非凡人の理論」を生みだして「自己を絶対化」し、「悪人」と規定した「他者」の殺害を行った若者の悲劇を長編小説『罪と罰』(一八六六)において描き出していたことである。こうしてドストエフスキーは近代西欧社会に強く見られる「弱肉強食」の思想や「報復の権利」の行使が、際限のない「報復」の連鎖となり、ついには「階級闘争」や「国家間の戦争」となり「人類滅亡」にも至る危険性があることを明らかにしたのである*6。

比較文明学者の神川正彦は西欧の「一九世紀〈近代〉パラダイム」を根本的に問い直すには、「欧化」の問題を「〈中心ー周辺〉の基本枠組においてはっきりと位置づけ」ることや、「〈土着〉という軸を本当に民衆レベルにまで掘り下げる」ことの重要性を指摘した*7。方法論的にはそれほど体系化はされていないにせよ司馬遼太郎も、明治維新や日露戦争などの分析と考察を通して同じ様な問題意識にたどり着き、「辺境」に位置する沖縄の歴史の考察を行った『沖縄・先島への道』(一九七四)を経て、ナポレオンと同じ年に淡路島で生まれた高田屋嘉兵衛の生涯を描いた『菜の花の沖』(一九七九~八二)では、近代ロシアの知識人たちの人間理解の深さや比較文明学的な視野の広さに注意を払いつつ、日露の「文明の衝突」の危険性を防いだ主人公を生みだした「江戸文明」の独自性とその意味を明らかにしたのである。

こうして司馬遼太郎は戦後に出来た新しい憲法のほうが「昔なりの日本の慣習」に「なじんでいる感じ」であると語り、さらに、「ぼくらは戦後に『ああ、いい国になったわい』と思ったところから出発しているんですから」、「せっかくの理想の旗をもう少しくっきりさせましょう」と語り、「日本が特殊の国なら、他の国にもそれも及ぼせばいいのではないかと思います」と主張するようになるのである(「日本人の器量を問う」『国家・宗教・日本人』)。

この時の対談者であった作家の井上ひさしは、「憲法」という用語が「日常語」ではなかったために「なかなか私たちのふだんの生活の中に入って」こなかったが、司馬が『この国のかたち』において「統帥権」などの「法制度」や「倫理」の問題を通して「憲法」の重要性を分かりやすい言葉で考察していることを指摘している*8。

こうして「新しい戦争」が視野に入ってきている現在、敗戦による「傷ついた自尊心」から日本人としてのアイデンティティを求めて小説家となり、幕末の激動の時期を描いた『竜馬がゆく』以降の作品では急速な「欧化」への対抗としておこったナショナリズムの問題をも直視することにより「戦争」だけでなく、近代化における「法制度」や「教育」の意味についても鋭い考察を行った司馬遼太郎の歩みをきちんと考察することは焦眉の課題といえよう。なぜならば、トルストイが『戦争と平和』において明らかにしたように、戦争という異常な事態は突然に生じるのではなく、日常的な営みや教育の中で次第にその危険性が育まれるからである。

司馬遼太郎は大坂外国語学校での学生時代に「史記列伝」だけでなく「ロシア文学」にも傾倒していた*9。以下、本書では日本の「文明開化」において大きな役割を演じた福沢諭吉の教育観や歴史観と比較しながら、ロシア文学研究者の視点から司馬遼太郎の作風の変化に注意を払いつつ、『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』、『菜の花の沖』の三つの長編小説における彼の戦争観の深化を考察したい。

この作業をとおして私たちは「欧化と国粋」の対立の危険性を痛切に実感しつつ、日本のよき伝統や文化を踏まえたうえで、「日本人」の価値だけでなく新しい世紀にふさわしい「普遍的」な価値を求め、文明間の共存を可能にしうるような新しい文明観を示した司馬遼太郎の意義を明らかにすることができるだろう。

(2016年8月13日『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』より一部訂正の上、再掲。註は省略した)

 

ヒトラーの思想と安倍政権――稲田朋美氏の戦争観をめぐって

「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒトラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか」(司馬遼太郎「『坂の上の雲』を書き終えて」)。

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昭和16年に谷口雅春氏が書いた『生命の實相』には、「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」という記述がありますが、この本を「ずっと生き方の根本に置いてきた」と語っていた稲田朋美氏が安倍首相によって防衛大臣に任命されました。

私が稲田氏の発言に関心を抱いたのは、この表現が『わが闘争』において、「闘争は種の健全さと抵抗力を促進する手段なのであり、したがってその種の進化の原因でありつづける」と主張していたヒトラーの言葉を思い起こさせたからです。

それは稲田氏ばかりではありません。麻生副総理も憲法改正論に関してナチス政権の「手口」を学んだらどうかと発言して問題になっていましたが、明治政府は新しい国家の建設に際しては、軍国主義をとって普仏戦争に勝利したプロイセンの政治手法にならって内務省を設置していました。

その内務省の伝統を受け継ぐ「総務省」の大臣となり「電波停止」発言をした高市早苗氏も、1994年には『ヒトラー選挙戦略現代選挙必勝のバイブル』に推薦文を寄せていました。

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かつて、私は教養科目の一環として行っていた『罪と罰』の講義でヒトラーの「権力欲」と大衆の「服従欲」を考察した社会心理学者フロムの『自由からの逃走』にも言及しながら、高利貸しの老婆の殺害を正当化した主人公の「非凡人の理論」とヒトラーの「非凡民族の理論」との類似性と危険性を指摘していました。

10数年ほど前から授業でもヒトラーを讃美する学生のレポートが増えてきてことに驚いたのですが、それは『ヒトラー選挙戦略現代選挙必勝のバイブル』に推薦文載せた高市氏などが自民党で力を付け、その考えが徐々に若者にも浸透し始めていたからでしょう。

本間龍氏は『原発プロパガンダ』で「宣伝を正しく利用するとどれほど巨大な効果を収めうるかということを、人々は戦争の間にはじめて理解した」というヒトラーの言葉を引用しています。

ヒトラーが理解した宣伝の効果を「八紘一宇」「五族協和」などの美しい理念を謳い上げつつ厳しい情報統制を行っていた東条内閣の閣僚たちだけでなく、「景気回復、この道しかない」などのスローガンを掲げる安倍内閣もよく理解していると思われます。

安倍首相も「新しい歴史教科書をつくる会」などの主張と同じように「日露戦争」の勝利を讃美していましたが、それも自国民の優秀さを示すものとして普仏戦争の勝利を強調していたヒトラーの『わが闘争』の一節を思い起こさせるのです。

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ヒトラーは『わが闘争』において「社会ダーウィニズム」的な用語で、「闘争は種の健全さと抵抗力を促進する手段なのであり、したがってその種の進化の原因でありつづける」と記していました。

ダーウィンの「進化論」を人間社会にも応用した「社会ダーウィニズム」は、科学的な世界観として19世紀の西欧で受け入れられたのですが、「進化」の名の下に「弱肉強食の思想」や経済的な「適者生存」の考え方を受け入れ、奴隷制や農奴制をも正当化していたのです。 たとえば、ピーサレフとともにロシアでダーウィンの説を擁護したザイツェフは一八六四年に記事を発表し、そこで「自然界において生存競争は進歩の推進機関であるから、それは社会的にも有益なものであるにちがいない」と主張し、有色人種を白人種が支配する奴隷制を讃えていたのです。

クリミア戦争後の混乱した社会を背景に「弱肉強食の思想」を理論化した「非凡人の理論」を生み出した主人公が、高利貸しの老婆を「悪人」と規定して殺害するまでとその後の苦悩を描いたドストエフスキーの長編小説『罪と罰』は、ヒトラーの「非凡民族の理論」の危険性を予告していました。

すなわち、ヒトラーは『わが闘争』において「非凡人」の理論を民族にも当てはめ、「人種の価値に優劣の差異があることを認め、そしてこうした認識から、この宇宙を支配している永遠の意志にしたがって、優者、強者の勝利を推進し、劣者や弱者の従属を要求するのが義務である」と高らかに主張したのです。

社会心理学者のフロムはヒトラーが世界を「弱肉強食の戦い」と捉えたことが、ユダヤ人の虐殺にも繋がっていることを示唆していました。 考えさせられたのは、日本でも障害者の施設を襲って19人を殺害した植松容疑者のことを、自民党のネット応援部隊が擁護して「障がい者は死んだほうがいい」などとネットで書いたとの記述がツイッターに載っていたことです。

この記事を読んだときに連想したのが、ユダヤ人だけでなくスラヴ人への偏見も根強く持っていたナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の考え方です。 すでにハフィントンポスト紙は2014年9月12日の記事で、「高市早苗総務相と自民党の稲田朋美政調会長と右翼団体『国家社会主義日本労働者党』代表の2ショット写真」が、「日本政府の国際的な評判を一気に落としてしまった」と指摘していました。

「内務省」を重視した戦前の日本は、過酷な戦争にも従順に従う国民を教育することを重視して国民の統制を強める一方で、外国に対して自国の考え方を発信して共感を得ようとするのではなく、考えを隠したことで外国からは疑われる事態を招き、国際的な緊張が高まり、ついに戦争にまでいたりました。

自分自身だけでなく、安倍内閣の重要な閣僚による「政治的公平性」が疑われるような発言が繰り返される中で、情報を外国にも発信すべき高市総務相が「電波停止」発言をしただけでなく、政権による報道への圧力の問題を調査した国連報道者のデビット・ケイ氏からの度重なる会見の要求を拒んだ高市氏が、一方で「国家神道」的な行事に出席することは国際社会からは「政治的公平性」を欠くように見えるでしょう。

最後に死後に起きた「司馬史観」論争において「新しい歴史教科書をつくる会」などの主張によって矮小化されてしまった作家・司馬遼太郎氏の言葉をもう一度引用しておきます。

「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒトラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか」(「『坂の上の雲』を書き終えて」)。

(2016年10月1日、一部訂正。2019年1月8日、改訂)

日露戦争の勝利から太平洋戦争へ(1)――「勝利の悲哀」と「玉砕の美化」

IS(イスラム国)によると思われるテロがフランスやベルギーで相次いで起きたことで、21世紀は泥沼の「戦争とテロ」の時代へと向かいそうな気配が濃厚になってきています。こうした中、安倍政権が「特定秘密保護法案」や「安全保障関連法案」を相次いで強行採決したことにより、度重なる原水爆の悲劇を踏まえて核兵器の時代に武力によって問題を解決しようとすることの危険性を伝えるべき日本が、原発や武器の輸出に踏み出しました。

しかも、「戦後70年」の節目として語られた昨年の「談話」で安倍首相は、それよりもさらに40年も前の「日露戦争」の勝利を讃える一方で、「憲法」や「国会」の意義にはほとんどふれていませんでした。

一方、『坂の上の雲』で日露戦争を描いた作家の司馬遼太郎氏は、「『坂の上の雲』を書き終えて」というエッセイでは「政治家も高級軍人もマスコミも国民も神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と厳しく批判し、さらに「“雑貨屋”の帝国主義」では、「日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦」までの40年を「異胎」の時代と名付けていました(『この国のかたち』第1巻、文春文庫)。

日露戦争を始める前の1902年に大英帝国を「文明国」と讃えて「日英同盟」を結んでいた日本は、1941年には今度はアメリカとイギリスを「鬼畜米英」と呼んで、太平洋戦争に突入していたのです。なぜ、日英同盟からわずか40年で太平洋戦争が起きたのでしょうか。

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ここで注目したいのは、日露戦争の勝利を讃えた「安倍談話」と、普仏戦争に勝ったドイツ民族の「非凡性」を強調し、ユダヤ人への憎しみをかき立てることで第一次世界大戦に敗れて厳しい不況に苦しむドイツ人の好戦的な気分を高めることに成功していたヒトラーの『わが闘争』の類似性です。

「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒトラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか」と問いかけた作家の司馬遼太郎氏は、「政治家も高級軍人もマスコミも国民も神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と厳しく批判していました(「『坂の上の雲』を書き終えて」『歴史の中の日本』中公文庫)。

リンク→「安倍談話」と「立憲政治」の危機(2)――日露戦争の賛美とヒトラーの普仏戦争礼賛

「特定秘密保護法」や「安全保障関連法」が強行採決で可決されたことにより、アメリカは日本の軍事力を用いることができることに当面は満足するでしょう。しかし、注意しなければならないのは、アメリカの要請によって日本の「平和憲法」を戦争のできる「憲法」へと改憲しようとしている安倍首相が、神道政治連盟と日本会議の2つの国会議員懇談会で会長と特別顧問を務めており、憲法学者の樋口陽一氏が指摘しているように自民党の憲法草案は、〈明治の時代よりも、もっと「いにしえ」の日本に向かっている〉ことです。

リンク→樋口陽一・小林節著『「憲法改正」の真実』(集英社新書)を読む

今日(4月23日)の新聞によれば、高市総務大臣に続いて、国家の法律を担当する「法務大臣」の岩城氏も靖国神社に参拝したとのことですが、「全体主義は昭和に突然生まれたわけではなく、明治初期に構想された祭政教一致の国家を実現していく結果としてあらわれたもの」とした宗教学者の島薗進氏は、靖国神社は「国家神道が民衆に浸透するテコの役割も果たしました」と指摘しています。「みんなで渡れば怖くない」とばかりに多くの国会議員が「靖国神社」に参拝することの危険性は大きいでしょう。

 リンク→中島岳志・島薗進著『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書) を読む

一方、参謀本部の問題を鋭く指摘していた司馬氏は、「日露戦争が終わると、日本人は戦争が強いんだという神秘的な思想が独り歩きした。小学校でも盛んに教育が行われた」とし、自分もそのような教育を受けた「その一人」だと認めて、「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析して、教育の問題にも注意を促していました(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

すなわち、一つの世代はほぼ20年で代わるので、英米との戦争を準備するころにはイギリスを「文明国」視した世代はほぼ去っていたことになるのですが、安倍政権は教育行政でも「新しい歴史教科書を作る会」などと連携して、「歴史」や「道徳」などの科目をとおして戦前への回帰を強めています。

「歴史的な事実」ではなく、「情念を重視」した教育が続けば、アメリカに対する不満も潜在化しているので、今度は20年を経ずして日本が「一億玉砕」を謳いながら「報復の権利」をたてにアメリカとの戦争に踏み切る危険性さえあるように思われるのです。

(2016年4月30日。改題と改訂)

日本における「報道の自由」と国際社会

国際NGO「国境なき記者団」が2016年4月20日に発表した16年の「報道の自由度ランキング」によれば、日本は15年より11位低い72位に急落し、台湾や韓国下回ることになったようです。

また、来日して政権による報道への圧力の問題を調査した国連報道者のデビット・ケイ氏は、「電波停止」発言をした総務大臣の高市早苗氏が会見を拒んだ点や多くのジャーナリストが「匿名」を希望して答えた点などについて指摘していました。ツイッターで考察したことを踏まえて、加筆・訂正したものをアップします。

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1,自国民に対しては居丈高に振る舞う一方で、国際報道官との面会は拒むような高市氏の姿勢は日本の「国益」をも損なうものです。自分の発言に自信があるならば、堂々と会って主張すべきでしょう。

2,ニュースを伝えるジャーナリストが「匿名」を希望するのは、国際社会から見れば、「異常な事態」と言わざるをえません。

3、大きな問題は「電波停止」発言をした高市氏自身の大臣としての資質です。多くのジャーナリストからそのように怖れられている高市氏は、よく知られているように、1994年に出版された『ヒトラー選挙戦略 現代選挙必勝のバイブル』と題された本に推薦文を寄せていました。

4,2014年9月12日の記事でもハフィントンポスト紙が、「高市早苗総務相と自民党の稲田朋美政調会長と右翼団体『国家社会主義日本労働者党』代表の2ショット写真」が、「日本政府の国際的な評判を一気に落としてしまった」と指摘していました。

5,2013年7月29日、東京都内で行われたシンポジウムに出席した麻生太郎副総理兼財務相が憲法改正問題に関連し、「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」と発言していたことがわかり、内外に強い波紋を呼びおこしていました。

6,自分自身だけでなく、安倍内閣の重要な閣僚による「政治的公平性」が疑われるような発言が繰り返される中で、ヒトラー的な選挙戦略を推奨した高市氏が「電波停止」発言をしたことが国際社会にとって重大な問題なのです。日本ではいまだに同盟国であったナチス・ドイツの問題が深く認識されていないようです。

7、最後に権力の問題を指摘し、鋭い批判をしていた作家・司馬遼太郎氏の言葉を引用しておきます。

「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒトラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか。政治家も高級軍人もマスコミも国民も神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」ていたのです(「『坂の上の雲』を書き終えて」『歴史の中の日本』中公文庫)。

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追記:安倍政権の手法の危険性は、「弱肉強食の理論」を正当化し「復讐の情念」を利用したナチス・ドイツの手法と似ている点にあると思われます。ただ、この点についてはより詳しく説明する必要があると思われますので、〈日本における「報道の自由」と安倍政権のナチス的手法〉を改題します。

ヒトラーの思想と安倍政権――稲田朋美氏の戦争観をめぐって

「安倍談話」と「立憲政治」の危機(2)――日露戦争の賛美とヒトラーの普仏戦争礼賛

(2017年5月24日、リンク先を追加)

「核の時代」と「改憲」の危険性

昨年9月に政府と自民・公明の与党は、日本国憲法の立憲主義をくつがえして、戦後の日本が培ってきた平和主義を破壊する戦争法(安保関連法)案を強行採決しました。

この強行採決が「無効」であったとの見解を法律家だけでなく多くの野党議員や「安全保障関連法に反対する学者の会」や学生組織・シールズ、そしてさまざまの市民団体が示してきました。

それにもかかわらず、「大義なきイラク戦争」を主導したラムズフェルド元国防長官とアーミテージ元国務副長官に「旭日大綬章」を贈るなど好戦的な姿勢をアメリカに示した安倍晋三首相は、その一方で現憲法を「占領時代につくられた憲法で、時代にそぐわない」と断罪し、衆議院予算委員会の審議においては連日のように「改憲」を明言しています。

しかし、広島・長崎の悲劇を踏まえて1947年5月3日に施行され、「第五福竜丸」の悲劇を経て深化した「日本国憲法」は、1962年のキューバ危機に現れたような「人類滅亡の危機」を救うすぐれた理念を明文化したものであり、世界の憲法の模範となるような性質のものと思われるのです。

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(「キャッスル作戦・ブラボー(ビキニ環礁)」の写真。図版は「ウィキペディア」より)

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)

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原爆や原発の危険性に眼をつぶって安保関連法案を強行採決した安倍氏の歴史観が、日本とその隣国を悲劇に巻き込んだ東条英機内閣の閣僚を務めながらも、その問題を深く反省しないままに首相として復権した祖父・岸信介氏に近い危険なものであることについては、このブログでもたびたび言及してきました。

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(作成:Toho Company, © 1955、図版は「ウィキペディア」より)

戦争法によって、これまでの政策を一変して武器や原発を売ることができるようにした安倍政権の政策は、世界を破滅寸前まで追い込んだ19世紀の「富国強兵」政策ときわめて似ているのです。

日本の報道機関や経済界は、このような危険性に気づきつつも目先の利益を優先して、「東京オリンピック」が終わるまでは安倍政権に権力を委ねることを選んでいるように見えます。

しかし、麻生副総理が「ドイツのワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか」と述べた発言は内外に強い波紋を呼びましたが、ヒトラーがユダヤ人や第一次世界大戦の戦勝国への憎しみを煽りつつ戦争への具体的な準備を進めたのは、1936年のベルリン・オリンピックの時だったのです。

フクシマの被災地の現実を隠すようにして行われる「東京オリンピック」には強い疑問もありますが、せめて「平和なオリンピック」とするためには好戦的な本音を隠しつつ、「神社本庁」などの力を借りて「改憲」を目論む安倍政権を早期退陣に追い込むことが必要でしょう。

このHPでは「文学・映画・演劇」を中心的なテーマとして、あまり政治的なテーマは扱いたくはなかったのですが、安倍政権による「改憲」の危険性が差し迫ってきましたので、国民の生命を戦争や原発事故から守るために、「文明(地球環境・戦争・憲法)」(「書評・図書紹介」より変更)のページを設けて、原水爆や原発など原子力エネルギーの問題や戦争や憲法を決定する政治の問題を考察するようにしました。

また、〈「核の時代」と「日本国憲法」の重要性〉のペーともリンクしました。

リンク→「文明論(地球環境・戦争・憲法)」

リンク→〈「核の時代」と「日本国憲法の重要性〉

(2016年2月17日。図版を追加。3月9日、リンク先を追加)

大阪からの危険な香り――弁護士ルージンと橋下徹氏の哲学

〈「道」~ともに道をひらく~〉というテーマで大阪で行われた先日の産学共働フォーラムの一般発表発表で私は、『坂の上の雲』で機関銃や原爆などの近代的な大量殺戮兵器や軍事同盟の危険性を鋭く描いていた司馬氏が、高田屋嘉兵衛を主人公とした長編小説『菜の花の沖』で、江戸時代における「軍縮と教育」こそが日本の誇るべき伝統であると描いていたことを比較文明学的な視点から確認しました。

リンク商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代

しかし、2015年11月22日に行なわれる大阪府市長ダブル選挙についての各社世論調査では、政界引退を表明している橋下徹・大阪市長が率いる「大阪維新の会」系の松井府知事と吉村候補が有利との選挙予測が出たとのことです。

他府県のことなので、あまり関与すべきではないとも考えて発言を控えていましたが、国政選挙にも関わることなので、このブログでも取り上げることにしました。

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実は、〈なぜ今、『罪と罰』か(4)――弁護士ルージンと19世紀の新自由主義〉と題したこのブログの記事でルージンという弁護士について論じた際に思い浮かべたのは、権力を得るためには何をしてもよいと考えているかのように思える弁護士の橋下氏のことでした。

「経済学の真理」という視点から「科学はこう言う。まず何ものよりも先におのれひとりを愛せよ、なんとなればこの世のすべては個人の利害にもとづくものなればなり」と主張したルージンは、ドゥーニャとの結婚の邪魔になるラスコーリニコフを排除するために、策略をもってソーニャを泥棒に陥れようとしていました。

一方、地方行政のトップであり、かつ法律を守るべき立場の弁護士でもある橋下氏が、公約を覆して府民や市民の多額の税金を費やして自分の有利になるような選挙を行うことが正当化されるならば、民主政治だけでなく学校教育の根本が揺らぐようになる危険性があると思われます。

*   *   *

かつての日本では、約束を守ることや誠実さが人間に求められていましたが、そのような価値観が大きく変わり始めていると感じたのは、大学で『罪と罰』の授業を行い始めてから10年目のころでした。

その授業で私はラスコーリニコフの「非凡人の理論」が、後にヒトラーによって唱えられる「非凡民族の理論」を先取りしている面があり、その危険性をポルフィーリイに指摘させていたことに注意を促していました。

しかし、20世紀の終わりが近づいていた頃から、ヒトラー的な方法で権力を奪取することも許されると、ヒトラーを弁護する感想文が出てきたのです。人数としては100人ほどのクラスに数名ですから少ないとは言えますが、そのように公然と主張するのではなくとも内心ではそのように考える学生は少なくなかったのではないかと思えるのです。

「今の日本の政治に一番必要なのは、独裁ですよ」と語ったとも伝えられる橋下徹市長の手法は、まさにこのような学生たちの主張とも重なっているようにも感じられます。

「島国」でもある日本では「勝ち馬に乗る」のがよいという価値観も強いのですが、ヒトラーが政権を取った後のドイツや岸信介氏が商工大臣として入閣した東條英機内閣に率いられた日本がその後、どのような経過をたどって破滅したかに留意するならは、ギャンブル的な手法での権力の維持を許すことの危険はきわめて大きいと思われます。

「安倍談話」と「立憲政治」の危機(2)――日露戦争の賛美とヒトラーの普仏戦争礼賛

「終戦70年」の節目に当たる今年の8月に発表された「安倍談話」で、「二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます」と語り始めた安倍晋三氏は、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と終戦よりもさらに40年も前の「日露戦争」の勝利を讃えていました。

この文章を目にした時には、思わず苦笑してしまいましたが、それはここで語られた言葉が、1996年に司馬遼太郎氏が亡くなった後で勃発した、いわゆる「司馬史観」論争に際して、「戦う気概」を持っていた明治の人々が描かれている『坂の上の雲』のような歴史観が日本のこれからの歴史教育には必要だとするキャンペーンときわめて似ていたからです。

たとえば、本ブログでもたびたび言及した思想家の徳富蘇峰は、『大正の青年と帝国の前途』において「愛国心」を強調することによって「臣民」に犠牲を強いつつ軍国主義に邁進させていましたが、「大正の青年」の分析に注目した「新しい歴史教科書を作る会」理事の坂本多加雄氏は、「公的関心の喪失」という明治末期の状況が、「『英雄』観念の退潮と並行している」ことを蘇峰が指摘し得ていたとして高く評価していたのです(*1)。

そして、蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとした坂本氏は、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の意義を強調したのです。

このような蘇峰の歴史観を再評価しようとする流れの中で、日露戦争をクライマックスとした『坂の上の雲』でも、「エリートも民衆も健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」ことが描かれているとする解釈も出てきていていました(*2)。

このような歴史の見直しの機運に乗じて、司馬遼太郎氏が亡なられた翌年の1997年には、安倍晋三氏を事務局長として「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられていたのです。

*   *   *

しかし、気を付けなければならないのは、かつて勝利した戦争をどのように評価するかが、その国の将来に強い影響を与えてきたことです。たとえば、ロシアの作家トルストイが、『戦争と平和』で描いた、「大国」フランスに勝利した1812年の「祖国戦争」の勝利は、その後の歴史家などによってロシア人の勇敢さを示した戦争として讃美されることも多かったのです。

第一次世界大戦での敗戦後にヒトラーも、『わが闘争』において当時の小国プロシアがフランスを破ってドイツ帝国を誕生させた普仏戦争(1870~1871)の勝利を、「全国民を感激させる事件の奇蹟によって、金色に縁どられて輝いていた」と情緒的な用語を用いて強調し、ドイツ民族の「自尊心」に訴えつつ、「新たな戦争」への覚悟を国民に求めていました。

一方、日本でもイラクへの自衛隊派遣が国会で承認されたことや二〇〇五年が日露戦争開戦百周年にあたることから、日露戦争を讃美することで戦争への参加を許容するような雰囲気を盛り上げようとして製作しようとしたのが、NHKのスペシャルドラマ《坂の上の雲》でした*3。

残念ながら、このスペシャルドラマが3年間にわたって、しかもその間に財界人岩崎弥太郎の視点から坂本龍馬を描いた《龍馬伝》を放映することで、戦争への批判を和らげたばかりでなく、武器を売って儲けることに対する国民の抵抗感や危機感を薄めることにも成功したようです。

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》と「武器輸出三原則」の見直し

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性

こうしてNHKを自民党の「広報」的な機関とすることに成功した安倍政権が、戦後70年かけて定着した「日本国憲法」の「平和主義」だけではなく、「立憲主義」や「民主主義」をも制限できるように「改憲」しようとして失敗し、取りあえず「解釈改憲」で実施しようとして強硬に「戦争法案」を可決したのが「9.17事変」*4だったのです。

 

*1 坂本多加雄『近代日本精神史論』講談社学術文庫、1996年、129~136頁。

*2 藤岡信勝『汚辱の近現代史』徳間書店、1996年、51~69頁。

*3 石原慎太郎・八木秀次「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」『正論』、2004四年11月号、産経新聞社。

*4 この用語については、〈リメンバー、9.17 ――「忘れる文化」と記憶の力〉参照)。