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司馬遼太郎

司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

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(芥川龍之介の肖像、Yokohama045、図版は「ウィキペディア」より)

はじめに

本稿では言論統制の強化が進み始めたころに書かれた芥川龍之介の『将軍』などに対する小林と司馬の考察を比較することで、イデオロギーから自由であった司馬遼太郎の歴史認識の広さと深さを明らかにできるだろう。

一、司馬遼太郎の『殉死』と芥川龍之介の『将軍』

『坂の上の雲』を書く一年前に乃木大将を主題とした『殉死』(文春文庫)を発表した司馬遼太郎は、この小説の冒頭近くで直接名前は出さないものの芥川龍之介の『将軍』に言及して、「筆者はいわゆる乃木ファンではない」が、自分には「大正期の文士がひどく毛嫌いしたような、あのような積極的な嫌悪もない」と断り、この作品を「小説以前の、いわば自分自身の思考をたしかめる」つもりで書くと続けていた。

それゆえ、この記述では芥川と自分の乃木観の違いが強調されていると考えた私は、旅順の激戦にも言及しつつ乃木大将を批判的に描いていた芥川龍之介の小説が気になりながらも、この短編と『殉死』とを具体的に比較することは行ってこなかった。

しかし、司馬遼太郎の『殉死』や『坂の上の雲』にも影響を及ぼしたと思われる夏目漱石の短編「趣味の遺伝」における旅順の戦いの描写や乃木将軍への言及に注目しながら、改めて芥川の『将軍』を読んだ際には先の言葉は司馬氏独特の韜晦的な表現であり、実際は芥川龍之介のこの小説の影響を強く受けているだろうと感じるようになった。

芥川龍之介の短編小説『将軍』は現在あまり読まれていないので、まずその内容を詳しく紹介し、その後で司馬の『殉死』との関係を考察することにしたい。

芥川龍之介の『将軍』は、司馬が「旅順総攻撃」の章でもふれていた「白襷(しろだすき)隊」について書いている第一章の「白襷隊」から始まり、「間諜」、「陣中の芝居」と続いて、乃木大将の殉死をめぐる父と息子との会話を描いた第四章「父と子と」から成立っている(引用は『芥川龍之介全集』岩波書店による)。

第一章の「白襷隊」は次のような文章で始まっている。「明治三十七年十一月二十六日の未明だった。第×師団第×聯隊(れんたい)の白襷隊(しろだすきたい)は、松樹山(しょうじゅさん)の補備砲台(ほびほうだい)を奪取するために、九十三高地(くじゅうさんこうち)の北麓(ほくろく)を出発した」。

その後で芥川龍之介はこう記している。少し長くなるが、司馬遼太郎の「軍神」観にも関わるので引用しておく。

「路(みち)は山陰(やまかげ)に沿うていたから、隊形も今日は特別に、四列側面の行進だった。その草もない薄闇(うすやみ)の路に、銃身を並べた一隊の兵が、白襷(しろだすき)ばかり仄(ほのめ)かせながら、静かに靴(くつ)を鳴らして行くのは、悲壮な光景に違いなかった。現に指揮官のM大尉なぞは、この隊の先頭に立った時から、別人のように口数(くちかず)の少い、沈んだ顔色(かおいろ)をしているのだった。が、兵は皆思いのほか、平生の元気を失わなかった。それは一つには日本魂(やまとだましい)の力、二つには酒の力だった。」(太字は引用者)

そして、「聯隊長はじめ何人かの将校」が「最後の敬礼を送っていた」のを見た田中一等卒が「どうだい? たいしたものじゃないか? 白襷隊になるのも名誉だな」と語るのを聞いて、「苦々しそうに、肩の上に銃をゆすり上げた」堀尾一等卒が、「何が名誉だ?」と聞き返し、「こちとらはみんな死にに行くのだぜ。してみればあれは××××××××××××××そうっていうのだ。こんな安上がりなことはなかろうじゃねえか?」と反論した。すると田中一等卒が、「それはいけない。そんなことを言っては×××すまない」と語ったと芥川は記している。

ここで注目したいのは、『澄江堂雑記』に「官憲」によって「何行も抹殺を施された」と芥川は記しているが、将校たちから「最後の敬礼」に送られて突撃をする兵士たちの苦悩が具体的に描き出されていたこの会話の部分も、検閲で伏せ字になっていることである。原稿が遺されていないために確定できないが、注の記述は最初の個所では「名誉の敬礼で生命を買い上げて殺(そう)」という文章が、次の個所では「陛下に」という文字が入っていただろうと想定している。

そして、第二章の「間諜」では、ロシア側のスパイを見つけた「将軍の眼には一瞬間、モノメニアの光が輝」き、「斬れ! 斬れ!」と命じた場面などが描かれている。「午前に招魂祭を行なったのち」に催された「余興の演芸会」での出来事が記されている第三章「陣中の芝居」では、将軍が「男女の相撲」や「濡れ場」のある余興の上演を二度にわたって直ちに取りやめさせるのを見た「口の悪いアメリカの武官」が隣にすわったフランスの武官に、「将軍Nも楽じゃない。軍司令官兼検閲官だから」と話しかける場面が描かれ、ピストル強盗を捉えつつも傷ついた巡査が亡くなるという芝居ではN将軍が、「偉い奴じゃ。それでこそ日本男児じゃ」と深い感激の声をあげたと記されている(下線引用者)。

最後の「父と子と」の章では、日露戦争当時は軍参謀の少佐だった中村少将とその息子との大正七年の夜の会話が淡々と描かれている。壁にあった「N閣下の額画」が別の絵に懸け換えられているのに気づいた少将から、肖像画が壁に掛かっているレンブラントについて尋ねられた息子は「ええ、偉い画かきです」と答え、さらに「まあN将軍などよりも、僕らに近い気もちのある人です」と続けている。

一方、彼が追悼会に出ていた友人が「やはり自殺している」ことを告げた青年は、自殺する前に「写真をとる余裕はなかったようです」と続けて暗にN将軍を批判したことを咎められると、「僕は将軍の自殺した気もちは、幾分かわかるような気がします」としながらも、「しかし写真をとったのはわかりません。まさか死後その写真が、どこの店頭にも飾られることを、――」と続けようとした。

すると、「それは酷だ。閣下はそんな俗人じゃない、徹頭徹尾至誠の人だ」と父から憤然とさえぎられるが、息子は「至誠の人だったことも想像できます。ただその至誠が僕等には、どうもはっきりとのみこめないのです。僕等よりのちの人間には、なおさら通じるとは思われません。……」と語り、雨が降ってきたことに気づく場面で終わる。

大正一〇年に書かれたこの小説で芥川は青年に「ただその至誠が僕等には、どうもはっきりとのみこめないのです」と語らせていたが、この小説が発表された二年後には戦死者でなかったために靖国神社に入ることのできなかった乃木を祭る神社が創建され、「活躍した偉人を祭神とする神社の先例」となった(山室建徳『軍神――近代日本が生んだ「英雄」たちの軌跡』中公新書、二〇〇七年)。

さらに、昭和に入ると「偉大なる明治を思い返すべきという動き」が強まり、満州事変勃発の直後に廣瀬武夫を祀る神社創設の許可が内務省からおりて、日露戦争戦勝三〇周年にあたる昭和一〇年に廣瀬神社が鎮座した。芥川が自殺した翌年の昭和一五年には「本人の意志など問題ではなく」なり、東郷平八郎が神になることを「もってのほかでごわす」と拒否したにもかかわらず東郷神社が創建された。

一方、明治二〇年から一年間ドイツに留学していた乃木希典が帰国後に書いた意見具申書で、「我邦(わがくに)仏教の如キハ、目下殆(ほと)ンド何ノ用ヲ為ストコロナク」と書いている文章に注目した司馬は、『殉死』において乃木が「軍人の徳義の根元は天皇と軍人勅諭と武門武士の伝統的忠誠心にもとめるほかない」と報告していたばかりでなく、「日本は神国なるがゆえに尊し」という感動をもって書かれた山鹿素行の『中朝事実』を、師の玉木文之進から「聖典」のごとくに習っていた乃木希典が、ドイツ留学から戻った後でこれを読みなおすことで、「ついにはその教徒のごとくになった」と書いていたのである。

司馬と同じころに青春を過ごした哲学者の梅原猛は『殉死』や『坂の上の雲』において、「乃木希典は純真きわまりない人間」としてだけでなく、「戦争は大変下手で、無謀な突撃によっていたずらに多くの兵隊の血を流した将軍」として描かれていると指摘し、「乃木大将は東郷元帥とともに戦前の日本ではもっとも尊敬された軍神であった」ので、「戦前ならば、死刑にならないまでも、軍神を冒涜するものと作者は社会的に葬られたにちがいない」として、この作品を書いた司馬の勇気を高く評価している(「なぜ日本人は司馬文学を愛したか」『幕末~近代の歴史観』)。

芥川龍之介は治安維持法が強化されて特別高等警察が設置される前年の昭和二年に自殺したが、大正時代の青年たちを主人公とした『ひとびとの跫音』(中公文庫)で司馬は、大正十四年には治安維持法が公布されて国家そのものが「投網」や「かすみ網」のようになったと記し、「人間が、鳥かけもののように人間に仕掛けられてとらえられるというのは、未開の闇のようなぶきみさとおかしみがある」と続けている。

芥川が遺書ともいえる「或旧友へ送る手記」で、「みずから神にしない」と書き、自己の英雄化を拒否していることに注目するならば、「軍神を冒涜するもの」は「社会的に葬られた」時代に青春を過ごした司馬の芥川龍之介に対する思いはきわめて深く重かったと思える。

二、小林秀雄の『将軍』観と司馬遼太郎の「軍神」批判

一九四一年に書いた「歴史と文学」という題名の評論の第二章で、「先日、スタンレイ・ウォッシュバアンといふ人が乃木将軍に就いて書いた本を読みました。大正十三年に翻訳された極く古ぼけた本です。僕は偶然の事から、知人に薦められて読んだのですが、非常に面白かつた」とした小林秀雄は、「思い出話で纏(まと)まつた伝記ではないのですが、乃木将軍といふ人間の面目は躍如と描かれてゐるといふ風に僕は感じました」と書いていた(『小林秀雄全集』第七巻二一二頁)。

小林の読んだ本は、日露戦争の際にシカゴ・ニュースの記者として従軍したウォシュバンが書いた『NOGI』という原題の伝記で、『乃木大将と日本人』という邦題で、徳冨蘇峰による訳書推薦の序文とともに目黒真澄の訳で出版されていたものである(講談社学術文庫、一九八〇年)。

その直後に芥川の『将軍』に言及した小林は「これも、やはり大正十年頃発表され、当時なかなか評判を呼んだ作で、僕は、学生時代に読んで、大変面白かつた記憶があります。今度、序でにそれを読み返してみたのだが、何んの興味も起こらなかつた。どうして、こんなものが出来上つて了つたのか、又どうして二十年前の自分には、かういふものが面白く思はれたのか、僕は、そんな事を、あれこれと考へました」と続けている(下線引用者))。

そして、「『将軍』の作者が、この作を書いた気持ちは、まあ簡単でないと察せられますが、世人の考えてゐる英雄乃木といふものに対し、人間乃木を描いて抗議したいといふ気持ちは、明らかで、この考へは、作中、露骨に顔を出してゐる」とした小林は「敵の間諜を処刑する時の、乃木将軍のモノマニア染みた残忍な眼とか、陣中の余興芝居で、ピストル強盗の愚劇に感動して、涙を流す場面だとかを描いてゐる」が、「作者の意に反して乃木将軍のポンチ絵の様なものが出来上る」と解釈している(下線引用者)。

さらに、「最後に、これもポンチ絵染みた文学青年が登場していまして」と続けて、乃木将軍を批判した青年の言葉を紹介し、「作者にしてみれば、これはまあ辛辣な皮肉とでもいふ積りなのでありませう」と書いた小林は、ウォッシュバンの書いた伝記が「芥川龍之介の作品とまるで違つているのは、乃木将軍といふ異常な精神力を持つた人間が演じねばならなかつた異常な悲劇といふものを洞察し、この洞察の上にたつて凡ての事柄を見てゐるといふ点です。この事を忘れて、乃木将軍の人間性などといふものを弄くり廻してはゐないのであります」と賛美していた。

ここで小林は、「学生時代に読んで、大変面白かつた」記憶がある『将軍』を、ついでに読み返してみたのだが、何んの興味も起こらなかつた」と書いていたが、その理由は現在の読者には明らかだろう。つまり、学生時代には自分にも戦場で戦うことになる可能性があったので、芥川が青年に語らせた言葉は小林にとっても切実なものだった。しかし、この評論を書いた翌年には大東亜文学者会議評議員に選出され、青年たちを戦場へと送り出す役割をいっそう強く担うことになる小林にはすでにそのような危険性は無くなっていたのである。

司馬遼太郎の歴史観との関連で興味深いのは、小林が「疑惑 Ⅱ」というエッセーで、日中戦争の時に二五歳で戦死し、「軍神」とされた戦車隊の下士官・陸軍中尉西住小次郎を扱った「菊池寛氏の『西住戦車長伝』を僕は近頃愛読してゐる。純粋な真実ないゝ作品である」と書いていることである(『小林秀雄全集』第七巻、六八頁)。そして、「友人に聞いても誰も読んでゐる人がない。恐らくインテリゲンチャの大部分のものは、あれを読んではゐないであらう。当然な事なのだ」と書いた小林は、「インテリゲンチャには西住戦車長の思想の古さが堪へられないのである。思想の古さに堪へられないとは、何といふ弱い精神だろう」と続けて、日本の近代的な知識人を批判していた。

さらに、「今日わが国を見舞っている危機の為に、実際に国民の為に戦っている人々の思想は、西住戦車長の抱いてゐる様な単純率直な、インテリゲンチャがその古さに堪へぬ様な、一と口に言へば大和魂といふ、インテリゲンチャがその曖昧さに堪へぬ様な思想にほかならないのではないか」と記して、夏目漱石が『吾輩は猫である』でスローガンとして使われていることへの危機感を表明していた「大和魂」にも言及した小林は、「伝統は生きてゐる。そして戦車といふ最新の科学の粋を集めた武器に乗つてゐる」と続けていたのである(太字は引用者)。

一方、『竜馬がゆく』を執筆中の一九六四年に軍神・西住戦車長」というエッセーを書いた司馬遼太郎は、そこで「明治このかた、大戦がおこるたびに、軍部は軍神をつくって、その像を陣頭にかかげ、国民の戦意をあおるのが例になった。最初はだれの知恵から出たものかはわからないが、もっとも安あがりの軍需資源といっていい」と厳しく批判していた(『歴史と小説』、集英社文庫)。

そして、「日露戦争では、海軍は旅順閉塞隊の広瀬武夫中佐、陸軍では遼陽で戦死した橘周太中佐が軍神」になっていたことを紹介した司馬は、菊池寛の『西住戦車長伝』から「剛胆不撓(ごうたんふとう)、常に陣頭に立ちつつ奮戦又奮戦真に鬼神を泣かしむる行動を敢行して、よく難局を打開し」という記述を引用して、「事実、そのとおりであろう。西住小次郎が篤実で有能な下級将校であったことはまちがいない」と記している。(なお、司馬はここで菊池寛の伝記を『昭和の軍神・西住戦車長伝』と、「昭和の軍神」を付け加えて誤記しているが、それは軍神に対する司馬の強い関心をも示しているだろう)。

ただ、その後で司馬は比較文学者の島田謹二が描いた『ロシヤにおける広瀬武夫』(弘文堂刊)に描かれている「この個性的な明治の軍人がすぐれた文化人の一面をもっていたことを知ったが、昭和の軍神はそうではなかった。学校と父親からつくった鋳型から一歩もはみ出ていなかった」と続けているのである。

すなわち司馬によれば、西住戦車長が「軍神」になりえたのは彼が戦車に乗っていたからであり、「軍神を作って壮大な機甲兵団があるかのごとき宣伝をする必要があった」のであり、当時の日本陸軍は「世界第二流の軍隊だった」が、「国家が国民をいつわって世界一と信じこませていたのである」(太字は引用者)。

西住戦車長が戦死した翌年にノモンハン事件が起きると、その「いつわり」のつけはすぐに払わねばならなくなった。冷静な事実の記述でありながら、内に激しい怒りがこもっている司馬の文章を少し長くなるが引用しておきたい。

「ソ連のBT戦車というのもたいした戦車ではなかったが、ただ八九式の日本戦車よりも装甲が厚く、砲身が長かった。戦車戦は精神力はなんの役にも立たない。戦車同士の戦闘は、装甲の厚さと砲の大きさで勝負のつくものだ。ノモンハンでの日本戦車の射撃はじつに正確だったそうだが、(中略)タマは敵戦車にあたってはコロコロところがった。ところがBT戦車を操縦するモンゴル人の大砲は、命中するごとにブリキのような八九式戦車を串刺しにして、ほとんど全滅させた。」

つまり、司馬遼太郎は『坂の上の雲』で日露戦争の際に、乃木大将の指揮した軍隊が崩壊したことなどが隠蔽されたことを指摘していたが、そのような軍事上の事実の「隠蔽」はノモンハン事件での大敗北の際にも行われて、国民には知らされていなかったのである。

この意味で重要と思われるのは、『昭和という国家』の「誰が魔法をかけたのか」と題された第一章で、「ノモンハンには実際には行ったことはありません。その後に入った戦車連隊が、ノモンハン事件に参加していました」と語り、「いったい、こういうばかなことをやる国は何なのだろうということが、日本とは何か、ということの最初の疑問となりました」とし、「私は長年、この魔法の森の謎を解く鍵をつくりたいと考えてきました」と続けた司馬が、「参謀本部という異様なもの」について言及して、「そういう仕組みがいつでき始めたかというと、大正時代ぐらいから始まっています。もうちょっとさかのぼれば、日露戦争のときが始まりでした」と書いていることである。

このように見てくるとき、『坂の上の雲』を書いたときの司馬の関心が、「軍神」を作り出して、本来ならばその生命を守るべき「国民」を戦争に駆り立てた「参謀本部」というシステムにあったことは確実だといえるだろう。

事実、「ノモンハンで生きのこった日本軍の戦車小隊長、中隊長の数人が、発狂して廃人になったというはなしを、私は戦車学校のときにきいて戦慄したことがある。命中しても貫徹しないような兵器をもたされて戦場に出されれば、マジメな将校であればあるほど発狂するのが当然であろう」とも記していた司馬は、「昭和に入って、軍部はシナ事変をおこし、さらにそれを拡大しようとしたために、国民の陣頭にかざす軍神が必要になった」と説明し、「つづいて大東亜戦争の象徴的戦士として真珠湾攻撃のいわゆる『九軍神』がえらばれ」たが、「日本の軍部がほろびるとともに、その神の座もほろんだ」と結んでいたのである(『歴史と小説』)

それゆえ司馬は、『坂の上の雲』を書き終わった年に発表した「戦車・この憂鬱な乗り物」と題した一九七二年のエッセーでは、「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」とした「参謀本部の思想」を厳しく批判している(太字は引用者)。このとき司馬の批判が「大和魂」を強調しつつ、「伝統は生きてゐる。そして戦車といふ最新の科学の粋を集めた武器に乗つてゐる」と書いて、国民の戦意を煽っていた小林秀雄の歴史認識にも向けられていた可能性は高かったと思える。

(〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉『全作家』第90号、2013年より、芥川龍之介観の考察を独立させ、それに伴って改題した。2月6日、青い字の箇所とリンク先を追加)

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

リンク→小林秀雄と「一億玉砕」の思想

リンク→« 隠された「一億玉砕」の思想――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(4)

司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

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はじめに

私がドストエフスキーの作品と出合ったのは、ベトナム戦争が行われていた高校生のころで、原子爆弾が発明され投下されるなど、兵器の近代化によって五千万人もの戦死者を出した第二次世界大戦の後も戦争が続けられることに憤慨して、私は宗教書や哲学書、さらに文学書を学校の授業もおろそかにして読みふけって価値観を模索していた。

それゆえ、長編小説『罪と罰』や『白痴』を読んだ際には、社会状況をきちんと分析しながら、自己と他者の関係を深く考察することで個人や国家における「復讐の問題」を極限まで掘り下げているこれらの作品は、「殺すこと」が正当化されている状況を根本的に変える力になると思えたのである。そして、そのような思いから戦後も高く評価されていた小林秀雄のドストエフスキー論も一時期、熱心に読んだ。

1,情念の重視と神話としての歴史――小林秀雄の歴史認識と司馬遼太郎

しかし、私がロシア文学ではなく文明学を研究対象とした理由の一端は、一九三五年から一九三七年にかけて雑誌『文學界』に連載されていた小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』の冒頭におかれていた「歴史について」と題された「序」にあった。

この「序」で、「歴史は神話である。史料の物質性によつて多かれ少かれ限定を受けざるを得ない神話だ」と規定した小林は、「既に土に化した人々を蘇生させたいといふ僕等の希ひと、彼等が自然の裡に遺した足跡との間に微妙な均合が出来上る」とし、「歴史とは何か、といふ簡単な質問に対して、人々があれほど様々な史観で武装せざるを得ない所以である」とし、「一見何も彼も明瞭なこの世界は、実は客観的といふ言葉の軽信或は過信の上に築かれてゐるに過ぎない」と記していた((下線引用者、『小林秀雄全集』第五巻、新潮社、一九六七年、一四~一六頁。引用に際しては、旧漢字は新漢字に改めた。)。

この『ドストエフスキイの生活』が発表されていた一九三六年に日本はロンドン軍縮会議からの脱退を宣告し、一九三七年からは太平洋戦争に直結することになる日中戦争が始まっていたが、「僕は本質的に現在である僕等の諸能力を用ひて、二度と返らぬ過去を、現在のうちに呼び覚ます」と記した小林は、「僕は一定の方法に従つて歴史を書かうとは思はぬ」と宣言し、「立還るところは、やはり、さゝやかな遺品と深い悲しみとさへあれば、死児の顔を描くに事を欠かぬあの母親の技術より他にはない」と情緒的な言葉で自分の「方法」の特徴を示し、「要するに僕は邪念といふものを警戒すれば足りるのだ」という言葉で「序」を結んでいた。

こうして、この「序」で「自然」や「歴史」の問題に言及しながら、自分の方法の特徴を端的に記した小林は、「自分の情念」を大事にしながら、自分の選んだ作品の主人公や主要な登場人物について考察している。しかし、青年に達した「死児」はすでに自分独自の交友関係を有しているのであり、いかに子供を深く愛していても「母親」の「情念」だけでは、「死児」の全体像を描き出すのは難しいと思われる。

実際、日本では恋愛小説として理解されている長編小説『白痴』では、貧富の格差や貴族たちのモラルの腐敗の問題が、きわめて鮮明に描き出されているが、小林秀雄の『白痴』論ではこれらの問題にはほとんど言及されていない。

最初はこのことを不思議に感じたが、「四民平等」を謳った明治維新後に導入された「華族制度」は、帝政ロシアの貴族制度とも似ていたので、『白痴』に描かれているこれらの問題に言及することは、日本の華族制度の批判とみなされる危険性があったのである。しかも問題は、戦後になって厳しい検閲制度が廃止された後でも小林が自分の『白痴』観を変えなかったことである。

それゆえ、そのような小林秀雄の歴史認識に疑問を感じていた私は、帝政ロシアの問題をきちんと分析していない小林秀雄のドストエフスキー論が戦後も高く評価されていることに深い危機感を抱いた。なぜならば、クリミア戦争の敗北後に帝政ロシアでは、農奴制の廃止や言論の自由などの「大改革」が行われたが、しかし自分たちの利権が失われることを嫌った貴族たちによって改革は骨抜きにされて再び厳しい言論統制がおこなわれるようになり、露土戦争での勝利や日露戦争での敗戦を経て革命にいたっていたからである。

一方、司馬遼太郎は『昭和という国家』(NHK出版、一九九八年)の「買い続けた西欧近代」と題された第九章で、真珠湾攻撃の後に行われた「近代の超克」という座談会に「当時の知識人の代表者」だった小林秀雄も参加していたことを紹介し、「小林秀雄さんを尊敬しております」と断りつつも、このときの座談会については「太平洋戦争の開幕のときの不意打ちの成功によっても、日本のインテリは溜飲を下げた」ときわめて厳しい批判を投げかけていた。

このことに注目しながら、戦争中に書かれた小林の「歴史と文学」や「疑惑 Ⅱ」というエッセーを読むと、芥川龍之介の『将軍』観や菊池寛の『西住戦車長伝』観が、司馬遼太郎の見方とは正反対であることに気づく。(リンク→)最後に戦時中に書かれた「歴史と文学」における小林の歴史認識と司馬遼太郎との違いを確認することで、これまで矮小化されてきた司馬遼太郎の「文明史家」としての大きさを明らかにしたい。

2、小林秀雄の「隠された意匠」と「イデオロギーフリー」としての司馬遼太郎

「歴史と文学」の第一章で小林秀雄は、「歴史は繰返すという事を、歴史家は好んで口にする」が、「歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似てゐる。歴史を貫く筋金は、僕等の愛情の念といふものであって、決して因果の鎖といふ様なものではないと思ひます」と記していた。

そして、「大正以来の日本の文学は、十九世紀後半のヨオロッパ文学の強い影響」下にあることを指摘し、「作家たちによる、人間性といふものの無責任な乱用」や、唯物史観の影響下にある文学を批判した小林秀雄は、『大日本史』の列伝では「様々な人々の群れが、こんなに生き生きと跳り出す」ことを指摘して、作家たちが「腕に縒りをかけて、心理描写とか性格描写とかをやつてゐる」、「現代の小説」のつまらなさを糾弾していた(二一七頁)。

さらにこの文章の末尾で「僕は、日本人の書いた歴史のうちで、『神皇正統記』が一番立派な歴史だと考えてゐます」とも記した小林は、この書を小田城などの陣中で書いた北畠親房が「心性明らかなれば、慈悲決断は其中に有り」と記していることに注意を促して、物事を判断する「悟性」よりも「心性を磨くこと」の大切さを強調し、「この親房の信じた根本の史観は、今もなほ動かぬ、動いてはならぬ」と主張していた。

一方、『竜馬がゆく』(文春文庫)には「歴史こそ教養の基礎だ」とする武市半平太が、宋の学者司馬光が編んだ「古代帝国の周の威烈王からかぞえて千三百年間の中国史」を描いた「編年体」の『資治通鑑(しじつがん)』を自分が教えると誘うが、坂本竜馬はこの提案を断って漢文で書かれたこの難解な歴史書を我流で読んで、書かれている事実を理解するという場面が面白おかしく描かれていた(第二巻・「風雲前夜」)。

このエピソードは一見、竜馬の直感力の鋭さを物語っているだけのようにも見えるが、「イデオロギーフリー」としての司馬の歴史観を考えるうえではきわめて重要だろう。なぜならば、『竜馬がゆく』において幕末の「神国思想は、明治になってからもなお脈々と生きつづけて熊本で神風連(じんぷうれん)の騒ぎをおこし、国定国史教科書の史観」となったと記した司馬は、さらに「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判しているからである(第三巻・「勝海舟」)。

実は、作家の海音寺潮五郎が司馬との対談『日本の歴史を点検する』(講談社文庫)で語っているように、古代の中国の歴史観では自国を世界の中心と見なす「中華思想」が強く、ことに漢民族が滅亡するかもしれないという危機の時代に編まれた『資治通鑑』には、「尊王攘夷」や「大義名分」などの考え方が強く打ち出されていた。そして司馬は、南北朝の時代に『神皇正統記』を著した北畠親房を「中国の宋学的な皇帝観の日本的翻訳者」と位置づけているが、危機的な時代に著された『神皇正統記』にはそのような「尊王攘夷」史観が強く、徳川光圀が編纂した『大日本史』もそのような見方を強く受け継いでいたのである。

しかも、「歴史と文学」の第一章で、「歴史は繰返すという事を、歴史家は好んで口にする」が、「歴史は決して二度と繰返しはしない」と記していた小林秀雄は、敗戦後の一九四六年に行われた座談会で、トルストイ研究者の本多秋五から戦前の発言を問い質されると、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語っていた。

この発言について司馬は何も言及していない。しかし、満州の戦車隊で「五族協和・王道楽土」などのイデオロギーというレンズの入った「窓」を通してみることの問題点を痛感した司馬は、もし戦場から生きて帰れたら「国家神話をとりのけた露わな実体として見たい」と思うようになり、この「露わな実体」に迫るために「自分への規律として、イデオロギーという遮光レンズを通して物を見ない」という姿勢を課していた(「訴える相手がないまま」『十六の話』)。

そして、ノモンハン事件の研究者クックから戦前の日本では、国家があれほどの無茶をやっているのに、国民は「羊飼いの後に黙々と従う」羊だったではありませんかと問われた司馬は、「日本は、いま世界でいちばん住みにくい国になっています。そのことを、ほとんどの人が感じ始めている。『ノモンハン』が続いているのでしょうな」と答えていたのである。(「ノモンハンの尻尾」『東と西』朝日文庫)。

司馬遼太郎は「唯物史観」の批判者という側面のみが強調されることが多いが、「大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」、「尊王攘夷史観」の徹底した批判者でもあったのである。

青年のころに「神州無敵」といったスローガンに励まされて学徒出陣したことで、「イデオロギーにおける正義というのは、かならずその中心の核にあたるところに、『絶対のうそ』」があります」と書いている(「ブロードウェイの行進」『「明治」という国家』NHK出版)。国家が強要する「”正義の体系”(イデオロギー)」によってではなく、世界史をも視野に入れつつ自分が集めた資料や隣国の歴史などとの比較によって日本史を再構築しようとした司馬遼太郎の試みは壮大だったということができるだろう。

さらに、「二十一世紀に生きる君たちへ」という自分の文明観を分かりやすく子供たちに語りかけた文章で、「私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考え」の必要性を訴えた司馬は、「今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きている」ことを強調し、「自国」だけでなく「他国」の文化や歴史をも理解することの重要性を明確に示していた(『十六の話』)。

分かりやすい文章で書かれた司馬遼太郎の長編小説では、描かれている個々の人物も屹立した樹木のように見事なので、一部分だけが引用されると誤解されることが多いが、その全体像は鬱蒼たる森のように奥深く、彼の文明観は厳しい形で幕が開いた二十一世紀のあり方を考える上でもきわめて重要だと思える。

(〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉『全作家』第90号、2013年より、歴史認識の問題を独立させ、それに伴って改題した)。

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

 

司馬遼太郎の戦争観――『竜馬がゆく』から『菜の花の沖』へ

リンク→「主な研究」のページ構成

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(『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』、のべる出版企画)

司馬遼太郎氏の長編小説『竜馬がゆく』(一九六二~六六)と出会ったのは、ベトナム戦争が泥沼化する一方で、日本でも学生運動が過激化していた時期であった。

この長編小説に熱中して読むようになった一因は、自己と他者との関係の考察をとおして「殺すこと」の問題を根源まで掘り下げたドストエフスキーの『罪と罰』や『白痴』などの作品を、著名な文芸評論家の小林秀雄がテキストに忠実に読み解くのではなく、自分の主観によって矮小化していることに気づいたからだと思える。

小林は犯罪者の心理や主人公たちの三角関係のもつれに焦点をあてて扇情的な読み方をしているが、「暗黒の三〇年」と呼ばれるニコライ一世の治世下に青春を過ごし、言論の自由や農奴の解放を求める運動に参加して捕らえられたドストエフスキーには、その表現方法や歴史観などの変化がシベリア流刑後には認められるものの「憲法」や「良心」の重要性の認識においては、揺るぎはなかったのである。

一方、ペリー提督の艦隊が「日本人をおどすためにごう然と艦載砲をうち放った」ことに触れて、これは「もはや、外交ではない。恫喝であった」と記し、「近代日本の出発も、この艦載砲が、火を吐いた瞬間からであるといっていい」と続けていた司馬氏は、そのような厳しい状況下で攘夷思想を持つようになった竜馬が、勝海舟などとの出会いによって「憲法」の重要性に目覚める過程を描き、竜馬が記した「船中八策」を「新日本を民主政体(デモクラシー)にすることを断乎として規定したもの」と位置づけていた。

しかも、二〇一〇年に放映されたNHKの大河ドラマ《龍馬伝》が、明治七年の台湾出兵や明治一〇年の西南戦争などで利益をあげて巨万の財を築くことになる岩崎弥太郎を語り手としていたが、『竜馬がゆく』で政商となる岩崎の負の面も描いていた司馬氏は、『坂の上の雲』(一九六八~七二)では戦争と経済の問題点を次のように鋭く指摘していた。

「日本の戦時国民経済がほぼ平時とかわらなかったのは、主として外国の同情によって順調にすすんだ外債のおかげであった。結果としての数字でいえば日露戦争は十九億円の金がかかった。このうち外債が十二億円であったから、ほとんどが借金でまかなった戦争といっていい」(五・「奉天へ」)。

司馬氏はさらに「自国の東アジア市場」を守るためにイギリスが同盟国の日本に求めたのは、「ロシアという驀進(ばくしん)している機関車にむかって、大石をかかえてその前にとびこんでくれる」ことであったと指摘して、軍事同盟の危険性も指摘していたのである(七・「退却」)。

それゆえ、『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』から、『菜の花の沖』に至る司馬作品を分析した拙著『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、二〇〇二年)を急いで発行したのは、「ならず者」国家に対しては、核兵器による先制攻撃も許されるとしたブッシュ・ドクトリンに引きずられて、日本が戦争に参加するようになることを危惧したためであった。

しかし、残念ながらそれは単なる杞憂には終わらなかった。八月一四日の安倍談話では日英の軍事同盟によって勝利した日露戦争の意義が強調され、国会でも十分な審議がなされないままに、戦争への参加を可能とする「安全保障関連法案」が「強行採決」によって可決された。その直後には武器の輸出を促進する「防衛装備庁」が発足したが、それに先だって経団連は「防衛産業を国家戦略として推進すべきだ」とする提言をまとめていたことが判明した。

この意味で注目したいのは、『坂の上の雲』において一九世紀末を「地球は列強の陰謀と戦争の舞台でしかない」と規定していた司馬氏が、江戸時代に起きた日露の衝突の危機を救った商人・高田屋嘉兵衛を主人公とした『菜の花の沖』(一九七九~八二)では、一八一二年の「祖国戦争」にもふれつつ、嘉兵衛に「欧州ではナポレオンの出現以来、戦争の絶間がないそうではないか」と批判させていたことである。

そして嘉兵衛が、日本と帝政ロシアとの軍制の違いにふれて「日本の場合、どういう怨みがあっても、自国を固めることはあっても、不法に他国を攻めるようなことがない」と語ったと描いた司馬氏は、嘉兵衛が「愛国心を売りものにしたり、宣伝や扇動材料につかったりする国はろくな国ではない」と説いたことに注意を促して、「こういうことを大見得でもって言えたのは、江戸期の日本だったればこそであったろう」と続けている。

日本はアメリカとの軍事同盟により再び軍事大国への道を歩み始めているように見えるが、兵器の輸出などは一時的な景気の上昇にはつながっても長い目で見れば、国家経済を破綻へと導くことになるだろう。原爆の悲劇を体験した日本は、伝統的な平和観に基づく「憲法」の精神を再評価すべき時期に来ているように思われる。

(『全作家』第100号、2015年12月、132-133頁。表現を一部訂正して掲載)

商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代

リンク→「主な研究」のページ構成]

 

はじめに――『坂の上の雲』から『菜の花の沖』へ

『坂の上の雲』(1968~72)において、明治初期から日露戦争の終結に至るまでの激動の歴史を描いていた司馬氏はこの長編小説の後で、勃発寸前までに至った日露の衝突の危機を救った江戸時代の商人・高田屋嘉兵衛を主人公とした長編小説『菜の花の沖』(1979~82)を描いていた。

本発表では『坂の上の雲』をも視野に入れることにより、近代化の問題に鋭く迫った『菜の花の沖』の現代的な意義に迫りたい(ここでは配付資料に図版とリンク先を追加した)。

Ⅰ.『菜の花の沖』の時代と「江戸文明」の再評価

a.『菜の花の沖』の構造

単行本で6巻からなる長編小説『菜の花の沖』(文藝春秋)の前半では、淡路島の寒村に生まれた嘉兵衛が兵庫に出て樽廻船に乗って一介の炊(かしき)から身を起こして船持ちの船頭となり、航路を切り開き大船団を率いて、折から緊張の高まりつつあった北の海へと乗り出していくまでが描かれている。

そして、後半では厳しい封建制度の中で行動の自由を得、菜の花から作る菜種油を販売して財を成し、虐げられていたアイヌの人々と共に対等な立場で貿易を行い、箱館の町を発展させた嘉兵衛が一介の商人でありながら、戦争の危機を救うという重大な役割を果すまでが描かれるのである。

b.高田屋嘉兵衛(1769~1827)とその時代

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(高田屋嘉兵衛 (1812/13年)の肖像画。画像は「ウィキペディア」より)

『菜の花の沖』は主人公が生まれた淡路島の形状とその位置の描写から始まる。

「島山(しまやま)は、ちぬの海(大阪湾)をゆったりと塞(ふさ)ぐようにして横たわっている。…中略…わずか一里のむこうに本土の車馬の往来するのが見え、その間を明石海峡の急流がながれており、本土に変化があればすぐさま響いてしまう」(1・「都志の浦」)。

そのような例として「この話の主人公がうまれるすこし前」に、「六甲山山麓の住吉川、芦屋川などの急流ぞいに水車工場がうまれ」たと記した司馬氏は、「それまでは菜種油は高価なものであったが、この大量生産によってやすくなり、さらにはこの油を諸国にくばるために兵庫や西宮(にしのみや)あたりの海運業が栄えた」と説明している。それは貧しい農家の子供だった高田屋嘉兵衛が将来、海運業者として飛躍することになる背景でもあった。このことにより司馬氏は高田屋嘉兵衛がこの時期に忽然と現れた「英雄」ではなく、時代の流れのなかから生まれてきたことを明らかにしているのである。

c.高田屋嘉兵衛の自然観

司馬氏は兵庫の回船問屋堺屋で働き始めた頃の嘉兵衛についてこう記す。「この時期、嘉兵衛はおぼろげながらかれ自身が生涯をかけてつくりあげた哲学の原型のようなものを、身のうちにつくりつつあった。そのことは、かれの気質や嗜好と密接にむすびついている。潮汐や風、星、船舶の構造と同じように、嘉兵衛は自分の心までを客観化してしまうところがあった」。それは「つまりは正直ということであった」とし、「自分と自分の心をたえず客体化して見つづけておかねば、海におこる森羅万象(しんらばんんしょう)がわからなくなる、と嘉兵衛はおもっている」(1・「兵庫」)。

そして、「みずから持船を指揮し、松前(北海道の藩領地域)にのりだした」彼に次のように語らせている。「海でくらしていると、人間が大自然のなかでいかに非力で小さな存在かということを知る、という。海の人間のなかで、陸にいるような増上慢や夜郎自大のものはおらんよ、といった。陸には、追従で立身したり、人の褌ですもうをとって金儲けをする者がいるが、海にはおらんな。真に人間というものが好きになり、頼もしくなるというのも、海じゃな」。

この言葉はなにゆえ、なぜ高田屋嘉兵衛が当時奴隷のように虐げられていたアイヌの人々をも人間として接することができたかや、ロシア人との交渉においてなぜの彼の言葉が説得力を持ち得たのかをも明らかにしていると言えよう。

こうして「潮」と人間の観察を踏まえつつ、黒潮の流れにのって北海道にまでのりだした高田屋嘉兵衛の活躍を通して、そのような人物を生みだし得た「江戸文明」の意味を明らかにするのである。

d.高田屋嘉兵衛の蝦夷観と江戸時代の新しい知識人

注目したいのは、司馬氏が「江戸期はふしぎな時代であった。鉄の箱のように極端な鎖国社会を形成しながら、その箱のなかのひとびとの知的活動は、つねに唐(中国)と阿蘭陀(オランダ)の二つの異文化を日本と対置しながら物を考えるという癖があった」(3・「春信」)とし、江戸後期には「文明」と「野蛮」に分けて、「低地」をさげすむのではない工藤平助や高橋三平など第三の「知的なグループがすでに江戸に存在していた」ことにも注意を向けている(3・「箱館」)。

e.江戸時代の商取引と江戸時代の先進性

第四巻で司馬氏は、高田屋嘉兵衛が波濤を超えてクナシリ航路を開拓し、エトロフの地域での商業権を得て、商人としても飛躍する時期を描いている。江戸時代の商取引に言及した網野善彦氏も「遅れていたら商業や取引を自分たちの用語だけでやれる」はずはないと説明して、「『遅れている日本』というイメージは、明治政府によって作り出された虚像だ」と説明している。

 

Ⅱ.高田屋嘉兵衛の説得力――「江戸文明」の独自性

a.高田屋嘉兵衛とゴローニン(以下、司馬氏の表記に従う)の屈辱

司馬氏は嘉兵衛が捕らわれた時の状況をこう記している。「自由を奪われた嘉兵衛は、怒りのために全身の血が両眼から噴きだすようであり、それ以上にこの男を激昂させたのは、ロシア人たちがかれを縛ったことである。…中略…嘉兵衛の自尊心にはこれがたまらなかった。『縛るな』 ねじ伏せられながら、叫んだ」。

注目したいのは、司馬氏がここで高田屋嘉兵衛のこのシーンを描く前に、日本人が「一国の艦長を罠にかけ、けもののように縛り」あげたことや「囚人にとって苦痛をきわめた」、「逮捕・護送」についても詳しく記していたことである。

ここには「歴史的な事実」を一方の視点からだけ見るのではなく、他の視点からも描くという司馬氏の比較文明論的な視野がよく現れていると思える。

b.近代の「奇怪な国家心理」について

ゴローニンが江戸幕府に捕らえられるようになった時代的な背景を説明しつつ、司馬氏は、「 『国家』という巨大な組織は近代が近づくにつれていよいよばけもののように非人間的なものになってゆく。とくに、国家間が緊張したとき、相手国への猜疑と過剰な自国防衛意識」が起きるだけでなく、「さらには双方の国が国民を煽る敵愾心の宣伝といった奇怪な国家心理」も働くという分析を行っている。

c.高田屋嘉兵衛の決意

その一方で、司馬氏は高田屋嘉兵衛が「このままゆけば国家間の戦争になると憂えていたかもしれない」と記し、彼が『人質になった以上は、両国の和平のために、なんとかよき方向に持ってゆきたいのが心底です』と記したことに触れて、これは「一介の町人身分にすれば、江戸期の身分制的なふんいきから高く跳躍した物言い」であり、「この決意をした瞬間、船頭の嘉兵衛は歴史の上に、新しいあしあとを穿った」と記している。

d.高田屋嘉兵衛とナポレオン

 司馬氏が『坂の上の雲』において主人公の一人とした俳人の正岡子規は若い頃に書いた「筆まかせ」で比較の重要性を強調していた(近著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年が、それは夏目漱石の作品ばかりでなく、『菜の花の沖』にも見られる。ことに重要と思われるのは、嘉兵衛がロシア側に捕らえられたのと同じ年にロシアに侵攻してモスクワを占領したナポレオンの両者を比較して司馬氏が、「嘉兵衛はナポレオンと同じ年にうまれている」ばかりでなく、「両人とも島の出身だった」と記していることである。

さらに嘉兵衛が「欧州ではナポレオンの出現以来、戦争の絶間がないそうではないか」と語り、「扨々(さてさて)、恐敷事候(おそろしきことにそうろう)」と批判したことに注意を促した司馬氏が「ただ一人の友人しか持てなかった」ナポレオンと、「嘉兵衛の事情は異なっている」と続けていることを考慮するならば、ここでは日露両国の衝突の危険性を平和的に解決した高田屋嘉兵衛と武力によるヨーロッパの統一を目指したナポレオンの生き方とが比較されているのは明らかだろう。

e.高田屋嘉兵衛の上国観と「国政悪敷国」

司馬氏は嘉兵衛が、「わが国は軍事については、敵国の物を奪いとることは大法にて禁制になっています」と言い、言葉を継いで「日本と当国の軍制のちがいは、日本の場合、どういう怨みがあっても、自国を固めることはあっても、不法に他国を攻めるようなことがない」と伝えたと記して、「こういうことを大見得でもって言えたのは、江戸期の日本だったればこそであったろう」と続けた。

嘉兵衛がリコルドに「国政が悪い国家とは何か」という主題について、「愛国心を売りものにしたり、宣伝や扇動材料につかったりする国はろくな国ではない」と説いたとし、ここで「『国政悪敷国』というふうにやわらかい表現をつかっている」ことに注意を促した司馬氏は、「下国とか悪国ということばをつかわないのは、国に善悪などはなく、国政がいいか悪いかだけだという考え方が嘉兵衛にあるからだろうか」と記した。

f.『坂の上の雲』における戦争の批判

『坂の上の雲』において司馬氏は一九世紀末を「地球は列強の陰謀と戦争の舞台でしかない」と規定していたが、ここには戦争を絶えず生み続けた近代ヨーロッパの「国民国家」への鋭い批判を見ることができる。

実際、すでに『竜馬がゆく』において明治7年の台湾出兵や明治10年の西南戦争などでは利益をあげ、巨万の財を築くことになる政商・岩崎弥太郎を批判的に描いていた司馬氏は、『坂の上の雲』では、外国からの借金によって軍備の拡大と近代化を行ったことや戦争と経済の関係をこう分析していた。

「日本の戦時国民経済がほぼ平時とかわらなかったのは、主として外国の同情によって順調にすすんだ外債のおかげであった。結果としての数字でいえば日露戦争は十九億円の金がかかった。このうち外債が十二億円であったから、ほとんどが借金でまかなった戦争といっていい」(五・「奉天へ」)。

夏目漱石は日英同盟の締結に沸く日本をロンドンから冷静に観察していたが、司馬氏も『坂の上の雲』において「自国の東アジア市場を侵されることをおそれ」たイギリスが同盟国の日本に求めたのは、「ロシアという驀進(ばくしん)している機関車にむかって、大石をかかえてその前にとびこんでくれる」ことだと書いていたのである(七・「退却」)。

一時的な景気にはつながっても長い目で見れば、国家経済を破綻へと導くことになる戦争や兵器の輸出などの問題をこの記述は鋭く指摘していたといえる。

g.『本郷界隈』における『三四郎』の考察

夏目漱石は『三四郎』で日露戦争後の日本を厳しく批判した広田先生の言葉を描く前に、一人息子を日露戦争で失った老人の「一体戦争は何のためにするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない」という嘆きを描いていた。司馬氏は『三四郎』のこの文章を受けて「爺さんの議論は、漱石その人の感想でもあったのだろう」と書き、日本が「外債返しに四苦八苦していた」ために、「製艦費ということで、官吏は月給の一割を天引きされて」いたことに注意を向けている(『本郷界隈』)。

 

Ⅲ.「後期江戸時代」の再評価と新しい文明の可能性

a.ゴローニンの日本観

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(『日本幽囚記』の著者ゴロヴニーン。図版は「ウィキペディア」より)。

司馬氏は囚われの身であったゴローニンが、「『日本人こそ世界で最も凶悪な野蛮人だ』と、帰国後も叫びつづけることもできたし、ふつうの精神ならそのようにしたところで当然ともいえる」と記した後で、そうは記さなかったゴローニンの偉大さに司馬氏が触れている。

実際、ゴローニンは『日本幽囚記』で日本の教育を、「一国民を全体として他の国民と比較すると、私の意見では、日本人は天下で最も教育のある国民である。日本には読み書きのできない者や、自分の国の法律を知らない者は一人もいない。日本では法律はめったに変更されない」と絶賛している。

彼がイギリスで教育を受けていることを考えるならば彼の意見は重たく、ヨーロッパ文明の絶対視を越えて比較文明論的な視点から歴史を見ようとする新しさがある。

b.ケンペルの「鎖国論」

1690年にオランダ商館の医師として長崎に着任し、将軍綱吉にも三度の拝謁を許されたケンペルも「日本国民のやり方は全く背理の行為である」と一応は鎖国を批判しつつも、「日本人の模範例に」ならって各民族が鎖国をした場合には、不毛の土地を開墾できるだけでなく、「学問、技術、道徳の分野ではより更なる熱意と精勤を以て自己を陶冶し」、「子供の教育、家事全般には益々熱心に身を入れ」、「国民として最も幸福な状態の頂点に近づいてゆく」と絶賛していた(小堀桂一郎『鎖国の思想』中公新書)。

c.ヴォルテールの評価

江戸時代を遅れた時代とする見方になれた私たちには不思議な記述だが、重要なのはここで彼が「戦乱によって家屋や諸所の都市が破壊されたり、人間が殺戮され、国土が荒廃に帰した」西欧と比較していることであろう。上垣外憲一はケンペルの書物を読んだヴォルテールが「日本人は世界で最も寛容な国民である」と記していることに注意を払い、「同時代の西洋諸国が戦争に明け暮れていた」ことと比べれば、驚くべく永続的な平和を享受していたことも、評価されねばならない」と記している。

d.江戸時代後期における「公益」の感覚

この意味で注目したいのは司馬遼太郎氏が『菜の花の沖』において、自分の発明を公開した町人の発明家である工楽松右衛門の言葉として、「人として天下の益ならん事を計らず、碌(ろく)々として一生を過ごさんは禽獣(きんじゅう)にもおとるべし」という激しい言葉を紹介して、「この公益の感覚は、この時期よりもずっと後期の町人社会になるとよほどひろがってくる」と書いていることである(2・「松右衛門」)。

しかも、司馬氏は「嘉兵衛は商人(あきんど)というより仁者だ」言った幕府の役人高橋三平の言葉を紹介しながら、「たしかにそうであったろう」と続け、「商利や生産上の利益」を「息せき切って」追求し、「また使っている人間たちを利益追求のために鞭打つようなことをした場合、当人も使用人も精神まで卑しくなってしまう」(5・「嘉兵衛船」)と書いた。

つまり、最近になって強調されるようになった「公益」という思想は、すでに江戸後期の町人社会で成立していたのであり、それは「自己中心主義」や「自店中心主義」のみならず、「国益」を前面に出した最近の「自国中心主義」をも批判できるようなより厳しい形で成立していたと思える。

e.江戸時代における「軍縮と教育」

川勝平太氏も「江戸時代の日本人」が、「軍縮と教育とを柱とする『徳治主義』によってゆるやかな経済成長」を実現したことに注目して、「軍事にではなく、教育に投資をし、知的水準をあげることは、自国のみならず、地上のどの国においても圧制者の出現を許さぬ環境づくりになる」とし、「野蛮(戦争、環境破壊)の克服こそ文明の文明たる所以である」と強調している(『日本文明と近代西洋――「鎖国」再考』)。

 

結語 日本の伝統に基づいた「積極的な平和政策」の必要性

残念ながら、今年の9月には「安全保障関連法」が「強行採決」されて、原爆の悲惨さを踏まえたそれまでの日本の「平和政策」から「武器輸出」の推進へと舵が切られた。

しかし、『坂の上の雲』で機関銃や原爆などの近代的な大量殺戮兵器や軍事同盟の危険性を鋭く描いていた司馬氏は、高田屋嘉兵衛を主人公としたこの長編小説で、江戸時代における「軍縮と教育」こそが日本の誇るべき伝統であり、この理念を広めていくことが悲惨な「核戦争」から世界を救うことになると描いていたように思える。

 

参考文献

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高橋『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』のべる出版企画、2002年。

柴村羊五『北海の豪商 高田屋嘉兵衛』亜紀書房、2000年。

黒部亨『高田屋嘉兵衛』神戸新聞総合出版センター、2000年。

須藤隆仙『函館の歴史』東洋書院、1980年。

高田屋嘉兵衛とその時代については年表3、「司馬遼太郎とロシア」関連年表、参照。

 

「様々な意匠」と隠された「意匠」

リンク→4,「主な研究」のページ構成

 

「様々な意匠」と隠された「意匠」

『全作家』の第九〇号に「司馬遼太郎と小林秀雄」という評論を発表して小林秀雄のドストエフスキー観に言及したことが、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)の発行につながった。

予想をしていたように、少し刺激的な副題をつけたこともあり厳しい批判も頂いたが、その反面、「批評の神様と奉られている小林秀雄をよくぞ取り上げた」との好意的な礼状も多く頂いた。また、平成二六年度の全作家合同出版記念会には参加することができなかったが、フェイスブックで思いがけず拙著の題名の垂れ幕がかかっているのを見てありがたく感じた。

実は、前回の評論では言及しなかったが、拙著『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、二〇〇二年)に収録した『竜馬がゆく』論で簡単にふれていたように、『罪と罰』を読んでその文明論的な広い視野と哲学的な深い考察に魅せられた私は、幕末の混乱した時期を描いた司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読んで感動し、そこでは日本を舞台としながらもクリミア戦争敗戦後の価値の混乱したロシアの問題点を鋭く描きだしていたこの長編小説のテーマが深い形で受け継がれていると感じていた。

さらに、『罪と罰』のエピローグで「人類滅亡の悪夢」を描いたドストエフスキーが、次作の『白痴』ではこのような危機を救うロシアのキリスト(救世主)を描きたいと考えて、悲劇には終わるが、混迷のロシアで「殺すなかれ」と語った主人公・ムィシキンの理念も『竜馬がゆく』の主人公・坂本竜馬には、強く反映されているとも考えていた。

一方、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──主人公)には現れぬ」と記した文芸評論家の小林秀雄は、「『白痴』についてⅠ」でも「ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」と記し、一九六四年の『白痴』論では、「作者は破局といふ予感に向かつてまつしぐらに書いたといふ風に感じられる。『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかつた。来たものは文字通りの破局であつて、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」と解釈していた。

それゆえ、私は「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論から一時期、強い影響を受けていたものの、小林が『白痴』論で描いたムィシキン像よりは、『竜馬がゆく』で日本のキリスト(救世主)として描かれている坂本竜馬像の方が、むしろドストエフスキーのムィシキン像に近いのではないかとひそかに思っていた。

原作のテキストと比較しながら小林秀雄の評論を再読した際には、「異様な迫力をもった文体」で記されてはいるが、そこでなされているのは研究ではなく新たな「創作」ではないかと感じ、一九二九年のデビュー作「様々な意匠」で小林秀雄が「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」と率直に記していることに深く納得させられもした。

「様々な意匠」は次のように結ばれている。「私は、今日日本文壇のさまざまな意匠の、少なくとも重要と見えるものの間は、散歩したと信ずる。私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。たゞ一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。」

しかし、改めてこの文章を読んだ私は強い違和感を覚えた。なぜならば、『竜馬がゆく』第二巻の「勝海舟」ではその頃の「尊皇攘夷思想」が「国定国史教科書の史観」となったばかりでなく、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判されていたからである。

ここで詳しく論じる余裕はないが、司馬が「昭和初期」の「別国」と呼んだこの時期には「尊皇攘夷思想」という「意匠」が、政界や教育界だけでなく文壇の考えをも支配していた。そのことに留意するならば司馬の痛烈な批判の矛先は戦前の代表的な知識人の小林秀雄にも向けられているのではないだろうか。

司馬の視線をとおして「様々な意匠」を読み直すとき、イデオロギーには捉えられることなく「日本文壇のさまざまな意匠」を「散歩」したかのように主張されているが、ここでは当時の文壇の考えを支配していた重要な「意匠」が「隠されて」おり、それはライフワークとなった『本居宣長』で再び浮上することになったのではないかと思われる。この重たい問題については稿を改めて考察したい。

(『全作家』第98号、2015年)

司馬遼太郎の文明観―-古代から未来への視野(レジュメ)

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司馬遼太郎の文明観―-古代から未来への視野(レジュメ)

『文明の未来』honto(書影は「honto」より)

「文明史家」ともいえるような視野を持つ作家の司馬遼太郎が古代中国の歴史家・司馬遷が書いた『史記』を「世界最大の文学だと信じ」、著者の姓を借りてペンネームにしたことはよく知られている。
歴史作家の陳舜臣も『史記』について「のちの諸史が、断代史であるのにくらべて、『史記』は五帝以後、夏、殷、周、春秋、戦国、秦、漢にいたる、当時の世界史をめざしたことも特筆すべきであろう」と記している(下線引用者、「史記の魅力」『史記』第一巻、徳間文庫)。
たしかに、秦と漢の二つの「帝国」だけでなく様々な「国家」の歴史を比較した『史記』には時代的な制約はあるものの、きわめて斬新な比較という方法すら明らかに見られる。
注目したいのは、一九八一年のエッセーで司馬が秦帝国の誕生に際して六ヵ国が、「各国の利害関係や国情がちがうために秦の恫喝外交によって切りくずされ」、ついに秦によって滅ぼされていったと『史記』に言及しながら記すともに、「私はこどものころから、戦国の秦がすきではなかった」と記していたことである(「沸騰する社会と諸思想」『司馬遼太郎が考えたこと』・第11巻)。
ここには『日本の未来へ――司馬遼太郎との対話』(梅棹忠夫編著、二〇〇〇年、日本放送出版協会)で、国立民族学博物館初代館長の梅棹忠夫との対話で、グローバリゼーションの強い圧力により顕在化することになる「二一世紀の危機」の問題も鋭く予見していた司馬遼太郎の比較文明学的な視野が感じられる。
しかも、土地を耕すことを「文明」とした漢民族から「野蛮」とされたモンゴルの言語を学んでいた司馬は、「文明的な行為」である「耕作」さえも、「草原」地帯では「砂漠」の発生につながるという「風土」論的な視点を踏まえて地球的な規模での環境を考え、「核兵器の廃絶」を唱えるだけでなく「原発の危険性」も示唆していた。
本論では『坂の上の雲』などの長編歴史小説で複雑な近代の国際政治情勢を描いた文明史家・司馬遼太郎の古代から21世紀への広い視野と深い洞察をとおして、未来の文明のあり方を考察した。

「放射能の除染の難しさ」と「現実を直視する勇気」

 

原発事故の後も福島県に残って、こどもたちの健康を守るための「放射能測定」などの地道なボランティア活動を行っている吉野裕之氏は、「空間線量」などを毎日計り続けると精神的にきつくなると説明し、個人的に放射線量を測り続けることの難しさときちんとした組織的な対応が必要であると指摘した。

すなわち、「地表から5㎝、50㎝、1メートルの3点」や同じ道でもアスファルトの部分と植え込みのある部分を測定すると、同じ地点でも高さが違うだけで放射能の値は異なることや、近い場所にもホットスポットが存在していることが明らかになったのである。

安倍政権の説明を受け入れるならば、きちんとした「放射能の除染」が行われれば再び子供たちも健康に暮らせるとの印象を受ける。しかし、汚染された土地を取り除くということは、何十年もかけて創り上げた豊かな「土壌」をはぎ取ることを意味するだけでなく、教育施設や市街地だけでなく、山や森にも降り注いだ放射能は、時間の経過と共に雨や風によって市街地にも流れてくるので、一度除染をすればそれで完了したことにはならないのである。

今回の報告を聞いて「放射能の除染」という作業の難しさを改めて強く感じるととともに、このような困難な状況にもかかわらず子供たちの健康を守る地道な活動を続けているひとびとの誠実な活動を通じて未来に向けての展望も見えてくるように思えた。

2015年に仙台で開かれる国連による「防災会議」でも、「複合災害」という形で原発事故の問題も取り上げられることになったとのことなので、福島県外にいる者としても「原発の危険性」と事故の予防を今後もを訴え続けていきたい。

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ボランティアの方々のこのような地道な努力を徒労に感じさせるような事態が7月14日に発生した。すなわち、「福島県南相馬市で昨年秋に収穫されたコメから基準値(一キログラム当たり一〇〇ベクレル)を超える放射性セシウムが検出された」のでである。

これに対して東電の広報担当者は当初、「がれき撤去でセシウムが遠くまで飛散したとの見方に関し『否定できないが、コメの基準値超えとの因果関係は分からない』」と農水省に対して説明していた。しかし、それから10日もたたない23日には、がれきの撤去作業との関係が明白になった。「東京新聞」のデジタル版から引用しておく。

「福島第一原発のがれき撤去で飛散した放射性セシウムが昨年八月、数十キロ離れた水田のコメなどを汚染した可能性が出ている問題で、東京電力は二十三日、この撤去作業で飛散した放射性物質が一兆一二〇〇億ベクレルに上ったとの推計結果を明らかにした。原子力規制委員会の廃炉に関する会合で説明した。」

現在も「平常時の放出量は毎時一〇〇〇万ベクレルのため」、「免震重要棟前で観測された放射性物質濃度を基に毎時二八〇〇億ベクレルの放出が四時間続いたとして試算」すると、「一時間当たり二万八千倍に相当する」放射能が飛散したことになる。

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東電は「敷地外の汚染との関連は分からないが、がれき撤去での飛散防止対策は強化する」としているとのことだが、1986年のゴルバチョフ書記長の時に起きたチェルノブイリ原発事故に際しては、ソ連は全力を注いでともかくも「石棺」を作りあげて、放射能を封じ込めることになんとか成功していた。

一方、安倍総理が「放射能の汚染水」はせき止められていると胸をはって海外に「公約」した日本では、未だに「汚染水」の問題だけでなく、「平常時の放出量は毎時一〇〇〇万ベクレル」と記されているように、大気中の「放射能」も完全にはせき止められていない。

昨日の朝刊にはカナダの外相から安倍政権の支持率低下の理由を聞かれた菅官房長官が、「国民が安全保障に臆病だから」と答えたとの短い記事が載っていた。

事実はその反対で、近隣諸国との対立については多くの情報を発して危機感を煽っている「安倍政権」が、日本に今在る「原発事故」の「危険性を直視する勇気がなく」、きちんとした対応を取ることができていないことに多くの国民が気づき始めたからだと思える。

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会場では国際協力NGOセンター(JANIC)、ADRA Japan、こどもみらい測定所の共同製作によって作られた小冊子『はかる、知る、くらす。――子供たちを放射能から守るために、わたしたちができること。』が回覧された。

ここではその目次を紹介しておく。

第1章 放射能ってなに?

菅谷昭さんに聞く/「被ばくによる健康被害と、私たちができること」

第2章 放射線測定について

小豆川勝見さんに聞く/「測定を続けることの意義」

座談会/「市民測定所が見てきたこと、これから行なうこと」

第3章 「これから」をくらすために

絵で見る「これからをくらすためのポイント集」/ 5つの気をつけること

最初にこの冊子を読んだ時には、イラスト入りの子供にも分かり易い冊子なのでこの冊子が廉価で販売されればよいと考えたが、その後の事故の状況や住民避難の安全性も確保されていないうちに、強引に原発を再稼働しようとしている政官財の「原子力ムラ」の行動を見ている中で、このような冊子は原発を再稼働しようとしている電力会社が、周辺の住民に配布すべきだろうと考えるようになった。

その理由の一つは、安倍政権が危険な火山地帯にある川内原発の再稼働も強引に進めていることである。

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7月25日の「東京新聞」には次のような記事が掲載されていた。    

「火山の巨大噴火リスクを抱える九州電力川内(せんだい)原発(鹿児島県)で、九電は予兆を察知した場合には核燃料を安全な場所に緊急移送すると明言しながら、実際には原子炉を止めて運び出すまでに二年以上かかる上、搬出方法や受け入れ先の確保なども具体的に検討していないことが分かった。(小倉貞俊)」

「文明史家」ともいえる司馬遼太郎氏は、「土地バブル」を煽って「大地」に対する日本人の感覚を狂わせた政治家や大蔵省の対応を厳しく批判して次のように記していた。

「本来、生産もしくは基本的には社会存立の基礎であり、さらに基本的にいえば人間の生存の基礎である土地が投機の対象にされるという奇現象がおこった。大地についての不安は、結局は人間をして自分が属する社会に安んじて身を託してゆけないという基本的な不安につながり、私どもの精神の重要な部分を荒廃させた。」(『土地と日本人』中公文庫)。

原発の再稼働や海外への輸出によって利益を上げようとしている安倍政権や経産省には「事実を直視」する勇気が欠けているばかりでなく、人智を超えた圧倒的な「自然の力」に対する敬虔な「畏れ」の気持ちも欠けているように見える。

司馬氏がすでに指摘していたように、近代化を急いだ日本では、いまだに「国策」として決められた「政策」が失敗しても、誰も責任を取らなくてもよい制度になっているようだが。しかし、「国民の生命」や「大地」、さらには「地球環境」に重大な危険を与えるような事態に対しては、企業だけでなく官僚や政治家に対しても「倫理的な責任」を求めるような制度を確立することが必要だと思える。

講座 「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」

リンク「主な研究(活動)」タイトル一覧Ⅱ 

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講座 「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」

 

正岡子規の死去の報にロンドンで接して「筒袖や秋の柩にしたがわず」などの句を手向けた漱石は、帰国後には子規が創刊した『ホトトギス』に『吾輩は猫である』を連載した。

本講座では、寄宿舎を追放になった子規が東京帝国大学を退学して新聞記者となる頃から、日清戦争に際して従軍記者となるが病を得て保養していた故郷の松山で、漱石の借りていた下宿の一階で句会を開いた時期に焦点をあてて『坂の上の雲』を読み解く。

明治8年に発布された「新聞紙条例」がその後の日本に及ぼした影響や子規の叔父・加藤拓川と新聞『日本』の(くが)羯南(かつなん)との交友にも注意を払うことで、新聞記者・子規の活動の現代的な意義を明らかにしたい。 

*   *   *

 

文献と主な参考文献

司馬遼太郎『坂の上の雲』(文春文庫、全8巻)。

ただ、長篇なので各巻の子規に関わる*のマークを付けた章に目をとおしておいて頂ければ分かり易いと思われます。

 第1巻: *「春や昔」、*「真之」、*「騎兵」、*「七変人」,*「海軍兵学校」,「馬」,*「ほととぎす」,「軍艦」

第2巻: *「日清戦争」、*「根岸」、「威海衛」、*「須磨の灯」、*「渡米」、「米西戦争」、*「子規庵」、「列強」

第3巻*「十七夜」  // 第8巻 *「雨の坂」

  

主な参考文献

1,坪内稔典『正岡子規の〈楽しむ力〉』NHK出版、2009年。

2,中村文雄『漱石と子規、漱石と修――大逆事件をめぐって』和泉書院、2002年。

3,末延芳晴『正岡子規、従軍す』平凡社、2011年。

4,高橋誠一郎『司馬遼太郎とロシア』ユーラシア・ブックレット、東洋書店、2010年。

5,高橋誠一郎「司馬遼太郎の夏目漱石観」(日本ペンクラブ、電子文藝館)は、インターネットで公開。

           

「生命の水の泉」と「大地」のイデア

 

(スラヴ圏)スラヴのコスモロジー

 〈「生命の水の泉」と「大地」のイデア〉

                           

はじめに――投げかけられた問い

 お手元にレジュメは届いていますでしょうか?

2枚目のところにスラヴの神話や民話に出てくる森の精や水の精などの絵があります。

私の専門はドストエフスキーなのですが、『罪と罰』とか『白痴』という世界がそういうロシアの民衆的な民話的な世界や宇宙観とも深く結びついており、それが普遍性をおびているために世界中で読まれて深い感動を与えているという話を今回はしたいと思いました。ただ、レジュメにも書きましたけれども、3月に起きた原発事故のために私のふるさとの福島県の二本松でも祖先の墓の上に放射能が降り注ぐなど、日本の大地、大気、川が汚されるという大変な事態がおきました。

さらに私は25年前にチェルノブイリで起きた原発事故の際にモスクワに滞在していましたが、そのときに留学生を引率していたので事故の情報の問題、当時のソ連から情報が流れてこないというのはわかるのですが、日本大使館からも流れてこない。それでヨーロッパの留学生たちがそれぞれの大使館から持ってくる情報を集めてどう対応すべきかなどを考えざるを得なかったということがありました。

実は司馬遼太郎の作品に入っていくきっかけも情報の問題からです。司馬さんは大地震の問題についてもたびたび書いています。たとえば、『竜馬がゆく』の中でも竜馬が大地震に際して深く感じることのできる詩人のような心を持っていたと冒頭近くで説明されています。原発は「国益」という形で進められてきましたが、果たして一部の人たちが握っている情報が我々にちゃんと伝えられているのか、その問題が明治以降もいまだに続いていると思えます。

一方、『坂の上の雲』の第3巻において司馬さんは、東京裁判におけるインド代表判事のパル氏の言葉を引用しつつ、「白人国家の都市に落とすことはためらわれたであろう」と原爆投下を厳しく批判しておりました。実はこの原爆の投下の問題は、原発の問題と結びついており、司馬さんはチェルノブイリ事故の後で「この事件は大気というものは地球を漂流していて人類は一つである、一つの大気を共有している、さらにいえばその生命は他の生命と同様もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」と語っていました。

実際にチェルノブイリについてはヨーロッパ各国が大変な危機感を持ちました。私の場合は、幸い住んでいたモスクワの方には風の向きが違っていたので流れてこなかったのですが、風の向きが変わればどのような被害が及ぶかはわからなかったのです。それゆえ、今回はスラヴやロシアのコスモロジーを視野に入れることで民話的なレベルから見ても原発がおかしいということを明らかにしていきたいと思います。

*   *   *

先ほど見ていただいたのはギランの『ロシアの神話』という本に掲載されている絵ですが、スラヴでは自然崇拝が強く、ことに大地は「母なる湿潤の大地」というふうに讃えられており、このような世界観はドストエフスキーが『罪と罰』の後半で描いていますが、それよりも前にプーシキンがおとぎ話のような形で書いていました。

時間がないので、ごく一部を紹介します。「入り江には緑の樫の木があった。その樫の木には猫が繋がれていた。そして右に歩いては歌を歌い、左へ行ってはおとぎ話を語る。そこには不思議なことがある。森の精が徘徊し、水の妖精ルサールカが枝に座る」。こういう形で民話の主人公を紹介したプーシキンは、「そこにはロシアの精神がある、ロシアの匂いがする」と続け、物知りの猫が私に語った物語のひとつをこれからお話しましょうという形で『ルスランとリュドミーラ』というおとぎ話が始まります。

『罪と罰』のあらすじについては、ほとんどの方がご存知のことと思いますが、「人間は自然を修正している、悪い人間だって修正したてもかまわない、あいつは要らないやつだというなら排除してもかまわない」という考え方を持っていた主人公が、高利貸しの老婆を殺害するにいたる過程とその後の苦悩が描かれています。ここで重要なのは、この時期のドストエフスキーが「大地主義」という理念を唱えていたことであり、ソーニャをとおしてロシアの知識人というのはロシアの大地から切り離された人たちだと、民衆の感覚を失ってしまったという批判をしていることです。

たとえば、ソーニャは「血で汚した大地に接吻しなさい、あなたは殺したことで大地を汚してしまった」と諭し、それを受け入れた主人公は自首をしてシベリアに流されますが、最初のうちは「ただ一条の太陽の光、うっそうたる森、どこともしれぬ奥まった場所に湧き出る冷たい泉」が、どうして囚人たちによってそんなに大事なのかが彼にはわからなかったのです。しかし彼はシベリアの大自然の中で生活するうちに「森」や「泉」の意味を認識して復活することになるのです。

このような展開は一見、小説を読んでいるだけですとわかりにくいのですが、しかしロシアの民話を集めてロシアのグリムとも言われているアファナーシエフの『スラヴ民族の詩的自然観』の第一巻が既に『罪と罰』が書かれている時期に出版されていました。そのことを指摘した井桁貞義氏は、ウクライナやセルヴィアを初めスラヴには古くから聖なる大地という表現があり、さらに古い叙事詩の伝説によって育った庶民たちは、大地とは決して魂を持たない存在ではなく、つまり汚されたら怒ると考えていたことを指摘しています。つまり、富士山が大噴火するように、汚された大地も怒るのです。

さらにソーニャという存在が囚人たちから、「お前さんは私らのやさしい慈悲深いお母さんだ」と語られていることに注目して、ソーニャという女性が大地の神格であると同時に聖母の意味も背負っているという重要な指摘をしています。

 このようなロシアの自然観や宇宙観は民話などでやさしく語られており、日本でも知られているものがあるので幾つか紹介して、それが文学作品にどうかかわっているかを少し見てみます。

 まず、『イワンと仔馬』という作品は、これは永遠の生命を持つ火の鳥が出てくる作品で、手塚治虫の『火の鳥』にも影響を与えています。次に『森は生きている』もあちこちで上演されることもありますしアニメーションにもなっているので、知っている人も多くおられると思いますが、これは月の精の兄弟たちとみなしごの少女、そしてわがままな女王との物語です。

 わがままな若い女王の命令で少女は、大晦日に雪深い森の奥に春の花の待雪草を探しに行かされるのですが、たまたま焚き火を囲んでいた12人の兄弟(十二ヵ月の精)たちと出会い、少女が森を大切にして一生懸命に生きているのを知っていた彼らから待雪草を贈られるのです。

一方、人間関係のみで成立している「城」の世界しか知らなかったやはり孤児だった女王は、自分でも待雪草を摘みたいと願って、私も森に行くから案内しなさいと命令して森に行く。つまり、「支配する者」と「支配される者」からなる「城」において絶対的な権力者となった女王は、「自然」や「季節」をも「支配」しようとしたのです。つまり「城」というのは、ここでは現代の日本に言い換えれば「原子力村」と考えればわかりやすいでしょう。「原子力村」の論理だけで生きている人は、「自然」のことを理解できないために、「自然」や「季節」をも支配しようとする。しかし実際には、そういうことはあり得ないのです。そのために女王も「森」に行くと、一瞬にして再び冬の季節に戻って彼女は自分の無力さを感じるのですが、やさしい少女に救われるというストーリーです。

ここで注目したいのはやさしい少女を『罪と罰』のソーニャに、それから自然をも支配できると考えている女王をラスコーリニコフに置き換えると、骨格としては『罪と罰』と同じような自然観が浮かび上がってくるということになることです。

 それから『雪娘』というおとぎ話では「桃太郎」などと同じように、子供に恵まれなかった老夫婦が雪を丸めて雪だるまをつくるとその雪だるまの女の子は、老夫婦の気持ちを理解したかのように動き出して、その家の娘になります。しかし、「かぐや姫」が時間がたって、月に戻っていくように、その「雪娘」も春になると一筋の雲になって、天に昇ってしまうのです。

このおとぎ話について先ほどのアファナーシエフはこういうふうに解釈しています。「雨雲が雪雲に変わる冬、美しい雪の娘が大地に、人間が住むこの世に降りてきて、その白さで人々を感動させる。夏が訪れると娘は大気の新たな姿をとり、地上から天に昇って軽やかな翼を持つほかのニンフたちと共に天を飛翔する」。

 すなわち、雪娘は溶けて「亡くなる」のではなく、別な形を取って生き続け、さらにまた季節が巡れば、「復活」するという考え方が、ロシアの民話を通して語られているということになります。

一方、『罪と罰』のエピローグでは、知力と意志を授けられた旋毛虫に侵されて、自分だけが真理を知っていると思い込んだ人々が、互いに自分の真理を主張して殺し合いを始め、ついには地上に数名のものしか残っていないという主人公が見る「人類滅亡の悪夢」が描かれています。

実際、この作品が書かれた当時は、オーストリアとの戦いに勝ったプロシアが軍事力をつけたために、フランスとの間での戦争がおき、さらにロシアもまたそういう大戦争に巻き込まれるかもしれないという恐怖感が、欧州の世界で広まっていたのです。そして、軍事力の必要を各国が認識したために戦争に近代兵器が持ち込まれるのです。日露戦争では機関銃が登場し、第一次世界大戦でも用いられ、さらに第二次世界大戦では原子爆弾が用いられるということになります。

つまり長編小説『白痴』の時代は、ドストエフスキーにとって「ローマ帝国」の強力な軍事力でユダヤの反乱が鎮圧され、さらにキリスト教徒が弾圧された時代に書かれた『ヨハネの黙示録』の世界と重なるところが多く、「世界の終わり」への恐れとそれを救う「本当に美しい人」への熱烈な願いが記されていたといえます。

11月18日の新聞に「イラン攻撃現実に」という題で、イスラエルがイランの原発開発に強い危機感を抱いているという気になる記事があったので持ってきました。この記事は原爆と原発が結びついていることを物語っているでしょう。つまり、イランの原発開発はアメリカと仲がよかったときは認められていたのです。しかし革命後に政策が変わると、原発の開発は、いつ攻撃の対象になるかもしれないのです。つまり現代という「核の時代」では、原発が世界中の国で広まっていくということは、その国が政策を変えたときに核戦争のきっかけになりうるという危険性を持っているのです。

その意味で注目したいのは、『白痴』ではマルサスの人口論だけでなく、生存闘争の理論や、西欧近代の投機的な自由主義経済、さらに新しい科学技術の危険性が登場人物たちの会話をとおして批判されており、ことに近代文明を象徴する鉄道は『ヨハネ黙示録』の地上に落ちて「生命の水の泉」を混濁させる「苦よもぎ(チェルノブイリニク)の星」の話と結び付けられて解釈されていました。

それゆえ、チェルノブィリ原発事故が起きると『白痴』の予言性が話題となりましたが、それはチェルノブィリという地名が、「苦よもぎ」を意味する単語と非常に似ていたために、ロシアやウクライナ、ベラルーシなどでは原発がそういうのろわれたものであり、それを作ったソ連の政権が神の罰を受けたという批判が強く出たのです。そして、このような『黙示録』の解釈も影響して、この原発事故は神による共産党政権に対する罰だという解釈が広がったことや、原発事故による莫大な経済的損失は、ソ連政権が崩壊する一因となったのです。

 一方、非常に自然環境に恵まれている日本から見ると旧約聖書などで描かれている神の罰という考えは、非情に見えます。しかし古代からのことを考えると、神や天というのは、人智を超えた存在であって、富士山も単に美しくて高い存在であっただけではなくて、大噴火を起こして、我々日本人を深く畏怖させたのです。これについては明日のシンポジウムでも論じられると思います。

 こうして、大自然に対する畏怖というものは、これからの時代にも重要だと思えますが、放射能は水に流しても消えるものではなく「循環の思想」に反しており、大自然を汚すものだといえるでしょう。その意味でも早期の「脱原発」が求められており、そのためにはこの学会も含めて全力を尽くしていくべきではないかというのが、私の考えです。

 どうもありがとうございました。

司馬遼太郎と梅棹忠夫の情報観と言語観ーー比較文明学の視点から

287-8

(高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房の表紙。図版はオムスクの監獄)

はじめに

 現在、世界では「グローバリゼーション」の名の下に価値の一元化が進められる一方で、伝統的な価値の混乱が各国でみられるようになり、日本でも若者における日本語の乱れや犯罪の増加が指摘されている。

 この意味で興味深いのは、日本における比較文明学の創始者の一人である梅棹忠夫が、「近代文明をになうことができる言語」とは、「現代の経済、技術、科学をふくんだ膨大な情報をただしく操作でき」、「コンピューターに代表される現代の情報機械と有効に接合することのできる言語であるべき」と述べ、さらに「日本語はいま、まさに『国際化』というおおきな局面にさしかかっている」として、漢字表記の問題点を指摘し、日本語はローマ字で表記すべきだとする論を展開したことである*1。

 コンピューターの時代をいち早く予想し、その後のIT産業にも大きな影響を与えた梅棹のこのようなローマ字論は、多くの者にとって情報化時代における日本語の問題点を示すものと受け取られ、急速に進んだグローバリゼーションの流れの中で、「英語公用語」論にも道を開く根拠の一つともなった。

 しかし、梅棹忠夫は後に、自分が「情報産業論」(1962年)で主張したこととは異なり、その後の議論は、「コンピューターによる情報処理や効率化の視点から論じるものがほとんど」であったと批判し、「近代文明語をかんがえるとき、その言語には母体となる文化のしっかりとした枠があり、そのまわりに外国がある」として母国語である日本語の重要性を強調した*2。つまり後に詳しく見るように、国際的な広い視野を有した梅棹は情報を載せる道具としての言語自体を、情報というソフトのハードウェアとして認識しており、言語というハードを制した国が情報をも制することができると考えているのである。それゆえ、梅棹はあくまで日本語による情報の発信にこだわっているのであり、その日本語表記の効率をよくするための方法として、ローマ字論を主張しているのである。

 このことに注意しながら梅棹忠夫が高く評価した司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読むとき、日露戦争を賛美したとして毀誉褒貶の烈しかったこの長編小説では、「文明開化」を強いられた日本における「文明語」の学習とその影響が克明に描かれていることに気づく。他方、司馬の情報・言語論を通して、梅棹の「情報論」を読み返す時、彼のローマ字論が日本の近代化と外国語学習の問題にも深くかかわっていることが分かる。

 以下、本稿では司馬遼太郎と梅棹忠夫の「情報・言語観」に注意を払いながら『坂の上の雲』を分析するとともに、比較文明学的な視点からヨーロッパと日本における語学教育の問題を考察することにしたい*3。

 

1、言語の序列化と「文明」による「野蛮」の規定

  長編小説『坂の上の雲』が連載され始めたのはちょうど明治百年にあたる1968年からであり、このことを司馬も強く意識して、「維新によって日本人ははじめて近代的な『国家』というものをもった…中略…たれもが『国民』になった」と記した(「あとがき一」・Ⅷ)。

  桜井哲夫は近代的な「国民国家」の強化のためには、徴兵制による軍隊の近代化だけでなく、教育体制の改革が急務と考えたナポレオン一世が「学校は国家機関であるべきであり、…中略…それらは、国家によって国家のために存在するのである」と述べて、「中央集権的な教育システムを構想した」と指摘している*4。このことは「国語教育」においてことに顕著であった。田中克彦が指摘しているように、「国民国家」フランスの成立と共に、周辺地域でもフランス語を「国語」として用いることが強要されるようになったのである*5。

 このような国語教育の事情は「国民国家」をめざした明治維新後の日本においてもほとんど変わらなかったが、「文明開化」を進める上で政府にも大きな影響力を持った福沢諭吉が、「開国の要として、英語を全国に奨励」すべきと強調していたように*6、急速な近代化を進めていた日本では、「言語教育」の問題はもう少し複雑であった。

 つまり、自国を「文明」としたバックルの『イギリス文明史』などの強い影響下に書いた『文明論之概略』(1875年)において、日本はまだ「半開」に留まっているとする認識を示していた福沢にとって(F・Ⅳ、20~22)、歴史が「文明(中央)ー半開(周辺)ー野蛮(辺境)」と序列化されたのと同じように、言語もまた「文明語ー国語ー方言」と序列化されていたのであり、「文明国」の言語である英語を習得させるのは、当然のことだったのである。

 言語論から見た『坂の上の雲』の面白さは、日露戦争の勝利に貢献した地方都市松山出身の秋山兄弟の活躍が、それぞれの外国語学習と深く関わっていることを明らかにしていることである。すなわち、師範学校から陸軍士官学校、陸軍大学校へと進んだ秋山好古(よしふる)は、フランスへの留学でフランス式馬術の優秀さを知り、欧州視察旅行の際にパリにも立ち寄った山県有朋に対してこのことを建言して、優秀なロシアのコサック騎兵との戦いを可能にした(Ⅰ・「馬」)。

 また学費がかかるため大学への進学をあきらめねばならなかった弟の秋山真之も、「教科書も原書であり、英人教官の術科教育もすべて英語で、返答もいちいち英語」で、「私語だけが日本語」の世界であった海軍兵学校で学び、やがてまだ一流国ではなかった新興のアメリカに留学してスペインとの米西戦争を観察し、後のバルチック艦隊との戦いに参考になる多くの作戦を学んだのである。

 ところで、福沢が依拠したバックルは『イギリス文明史』において、戦争という「野蛮な行為は、進歩が完成されつつある社会では、次第に使用されなくなっている」とし、その例としてイギリスを挙げる一方で、クリミア戦争を「知性の発達とは無縁の民族」であるロシアとトルコの「二つの国家の衝突によってもたらされた」として、「文明国」としてのイギリス帝国と「野蛮な」ロシア帝国を対置していた*7。日露戦争が勃発するとロンドンで三巻からなる戦史 “Japan’s Fight for Freedom”(1904~6年)が刊行されたが、俵木浩太郎は著者のウィルソンがその序文で「ロシアは野蛮と反動の側にある」とし、一方「日本は正義のために、民族独立のために闘っている」と書き、「日本の勝利」を「野蛮な力と物質主義にたいする徳性の勝利である」とまで断言して、同盟国となっていた日本の「文明」を讃えていたことを紹介している*8。

 興味深いのは『坂の上の雲』の前半における司馬遼太郎の歴史認識が、イギリス帝国を「文明」としたこれらイギリス人の「国民国家」史観や福沢諭吉の歴史観とほぼ重なっており、司馬は明治維新によってアジアで初めて「憲法」も持った「文明」的な「明治国家」と、皇帝の専制国家である「野蛮なロシア帝国」との戦いを正面から描こうとしていたといえよう。

 たとえば、司馬遼太郎は『坂の上の雲』において、民衆には将校になる可能性がほとんどなかったロシアの場合と比較しながら、「日本ではいかなる階層でも、一定の学校試験にさえ合格できれば平等に将校になれる道がひらかれている」(Ⅰ・「七変人」)として、だれもが努力すれば立身出世ができる明治の新しい教育制度のよさを強調し、第3巻において、「日清戦争から日露戦争にかけての十年間の日本ほどの奇蹟を演じた民族は、まず類がない」(Ⅲ・「権兵衛のこと」)と記した。その一方で司馬は、「ロシアの態度には、弁護すべきところがまったくない。ロシアは日本を意識的に死へ追いつめていた。日本を窮鼠にした」(Ⅲ・「開戦へ」)と書き、さらに小村寿太郎が「下僚に命じ、ロシアおよび英国がそれぞれ他国とむすんだ外交史をしらべさせたところ、おどろくべきことにロシアは他国との同盟をしばしば一方的に破棄したという点で、ほとんど常習であった」(Ⅲ・「外交」)と記していた。

 そして、司馬は第5巻ではロシア側が都市を要塞化して守っていた旅順攻防の悲惨な戦いを描く中でクリミア戦争に言及し、ペリーが日本に来航した1853年におきたこの戦争と日露戦争は、ともに「ロシアの南下膨脹政策からおこった」のであり、「その本質は酷似している」とし、「英国がその植民地政策上、トルコに味方したことも、日露戦争に似ている」とした(Ⅴ・「水師営」)。

 しかし、史実を注意深く調べながら日露戦争を書き進めていた司馬はすでに第4巻のあとがきで、このような歴史小説は「事実に拘束される」が、「官修の『日露戦史』においてすべて都合のわるいことは隠蔽」されていることを挙げて、「情報」の問題に注意を払うようになるのである。

 たとえば、第3巻で司馬は「日本政府は、戦争をおそれた」が、「世論は好戦的であった。ほとんどの新聞が紙面をあげて開戦熱をあおりたて、わずかに戦争否定の思想をもつ平民新聞が対露論に反対し、ほかに二つばかりの政府の御用新聞だけが慎重論をかかげているだけであった」(Ⅲ・「外交」)と書いていた。しかし、第7巻の「退却」の章で司馬は、「日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない」と断言し、「満州における戦勝を野放図に報道し続けて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり」、これが「のちには太平洋戦争にまで日本をもちこんでゆく」ことになったと新聞報道のあり方をも厳しく批判するようになるのである。実際、井口和起が『日露戦争の時代』において記しているように、日本軍の進軍の状況を記したことによって新聞の部数は、戦争の期間中増え続けていたのである*9。

 さらに、「西方のゲルマン文化を東方のロシアにうけわたす役割をした」ポーランドが、「ロシアの属領となってしまっているため、壮丁が大量に徴兵され、極東の戦線」で亡くなっているロシア帝国の悲惨な支配の状況を描いていた司馬遼太郎は、後にこのような「ロシアとポーランドの関係」が、「日本と朝鮮との関係とやや似ている」ことに気付き、「朝鮮を通じて大陸文化を受容した」日本が、「いちはやく近代化した」後では、「朝鮮を隷属させようとし、げんにこの日露戦争のあと、日韓併合というものをやってしまい、両国の関係に悲惨な歴史をつくった」と批判している(Ⅵ・「大諜報」)。

  しかも、司馬遼太郎はフィンランドを属国としたロシア帝国が「ロシア語をもって公用語」としたことに注意を促しているが、日露戦争に勝って強大な帝国となった日本が行ったのも朝鮮において日本語を強要するという帝国的な言語政策だったのである*10。

 こうして司馬はロシア陸軍の退却を描いた第7巻では、英国とは「情報によって浮上している島帝国」であり、強国が生まれそうになると、イギリスはすばやく手をうってきたと指摘し、日露戦争に際して「極東の弱小国にすぎない日本を支援」したのも、「英国の伝統的思考法から出たもの」と説明している。そして、「日露戦争におけるロシアは世界中の憎まれ者であった」が、それは英国が「タイムズやロイター通信という国際的な情報網をにぎって」いたからと指摘し、ロシアが英国と同盟してナポレオンと戦った時には、ロシア軍の「退却」は軍事的な「戦術」とされたが、英国が日本と同盟していた日露戦争に際しては、ロシア軍の「退却」は「敗北」として世界中に報道されたと記したのである(Ⅷ・「あとがき六」)。

 梅棹忠夫はそれまで「情報」という用語が「敵に関する知識という意味の軍事用語」であり、また「マスメディアに対するさまざまな統制をおこなう部署」も「情報局」と呼ばれたために、よい印象はなかったと記した*11。実際、それは過去のことにとどまるものではなく、現代にいたっても「イラク戦争」に際しては、敵と勇敢に戦ったとされた女性兵士のジェシカ・リンチの救出が映像とともに報道され、野蛮な敵と戦うこの戦争の正当性が強調されたが、後に本人自身の証言でこれが作られた情報であったことが明らかになったのである。

 さらに、1970年に行われた司馬との対談で梅棹は、「情報には一種の独自の論理」があるが、「権力とか財力とかと直接結びつくと、しばしば狂う」と述べて、情報と権力の癒着の危険性への鋭い示唆をしていたが*12、膨大な量の「言語」情報や「映像」情報による国際世論の操作は、「敵」の「野蛮性」を創り上げて戦争を起こすことやそれを正当化することも可能なのである*13。

 

2,「言語帝国主義」とEUの多言語政策

 この意味で注目したいことは、「フセイン体制」の打倒のためには先制攻撃ができるとしたアメリカのラムズフェルド国防長官が、国連による査察の最中に先制攻撃を行うことは「大義」を欠くことや、イスラム原理主義とは敵対する近代化政策をとったフセイン体制を充分な対策なしに打倒することは、権力の空白からむしろテロリズムを蔓延させるなどとして、この戦争に反対したフランスやドイツなどを「古いヨーロッパ」と呼んで批判していたことである。しかし、互いに「自国」を「正義」としながら戦争を拡大してきたこれらの国々には、自国を戦場とした2度の世界大戦での悲惨な体験への深い反省があったと思える。ここでは言語を中心にヨーロッパの歴史を簡単に振り返ったあとで、EUの言語政策の特徴をみておきたい。

 まず私たちは「文明語」の位置をめぐる激しい論争が近代に始まったことではなく、すでにローマ帝国とビザンツ帝国との間でもキリスト教の布教方法をめぐって起きていたことに注意を払いたい。

 ギリシア正教の宣教師であるキュリロス(スラヴ名キリル)は、スラヴ諸国での布教にあたって、誰もが理解できるように『聖書』の一部のスラヴ語への翻訳を9世紀に行った。これに対して当時ギリシア正教と並ぶ一大勢力であったローマ・カトリックは、ラテン語の権威を強調して、『聖書』の各国語への翻訳を認めなかったのである。筆者はこの論争の経緯をつまびらかにはできないが、「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神と偕(とも)にあり、言(ことば)は神なりき」*14という「ヨハネ伝第1章1節」の文章がこのような主張の根拠の一つであっただろうということは予想できる。その後西欧社会における科学の急速な発達にともなってラテン語は、「上位語」としての優位性を確保し、ニュートンの論文を読むためにもラテン語の知識が必要になったのである。

 しかし、「普遍語」としての地位が定着したかに見えたラテン語は、カトリック教会の内部から突き崩されることになる。すなわち、絶対的な権力を確立した後で、多くの点で形骸化し、腐敗すら顕著になったカトリック教会においても「神の代理人」としての教皇の権威は絶対で批判すら許されなかった。このような壁をうち砕いたのが、各人が神の声を聞くことができるという「良心論」と、ラテン語以外の言語でも神のことは伝えられるとする考えであり、その果敢な実行者であったルターは、『聖書』のドイツ語訳に着手したのだった。そしてライプニッツ哲学の継承者であったヴォルフはこのような考えに支えられて、プロテスタントの大学であったフライブルク大学でドイツ語による講義を行ったのである。この講義を聴講して感銘を受けた学生の一人が、当時ドイツに留学していた若きロモノーソフであり、かれはモスクワ大学を創立するとともに、公開講義をだれもが理解できるロシア語で行うようになるのである*15。

 ただここでラテン語から自立するようになった各国語が今度は、自国語の優位性を主張し始めることにも留意しておきたい。イスラム以外への十字軍の派遣はあまり知られていないが、プラハ大学総長フスの殉教後に起きたフス派戦争の際には、法皇やハプスブルク家の皇帝はチェコ人を「異端民族」と規定して大がかりな十字軍を派遣し、フス派の「神の戦士」は5度にわたってこれを撃退していた。しかし、30年戦争でのチェコの敗戦を契機とした暗黒時代(1648~1780年)には、カトリックの反宗教改革により、チェコ語の書物が焼かれドイツ語が公用語とされて、徹底したカトリック化とドイツ化が行われていたのである*16。

 この意味で注目したいのは、社会学者の作田啓一が「ナポレオン戦争を支えたフランス民族のナショナリズム」では、「フランス革命によって到達した民主主義的な諸価値を世界に拡げること」を「彼らの使命」としていたと指摘していることである*17。実際、ニコルソンによれば、ロシア侵攻の直前にナポレオンは「余の運命はまだ成就されていない。想定図はまだアウトラインが引かれたばかりだ。全ヨーロッパを、一つの法典、一つの通貨にしなければならない。ヨーロッパ諸国を併合して一つの国にし、パリをその首都にする」と語っていたのである*18。ここでナポレオンは言語については述べていないが、彼が

フランス語を「普遍語」として意識していたことはたしかであろう。「国民国家」から「帝国」へと発展したフランスでは、自己の獲得した諸価値を世界に拡げるために自国の言語を広めることも「彼らの使命」としていたのである。

 このことはロシアの知識人もよく知っていた。たとえばトルストイは「祖国戦争」を描いた『戦争と平和』の冒頭でロシアの貴族たちが、母国語であるロシア語でではなく「文明語」と見なされていたフランス語で敵のナポレオンを罵るという光景を描くことで、「周辺文明国」ロシアにおける「文明語」学習の問題点を見事に表現していた。そしてトルストイは、ボロジノの戦いに勝利してモスクワの町を見下ろしたナポレオンの次のような言葉を記すことで、彼がフランスを「文明」としたギゾー風の「国民国家」史観を受け継いでいることを明らかにして、このような歴史観が戦争を正当化させていることを見事に指摘していたのである。「野蛮と専制のこの古い記念物の上に、正義と慈悲の偉大な言葉を刻みつけてやろう。…中略…おれは彼らに正義の掟をあたえてやろう。真の文明の意味を示してやろう」*19。

 この意味で注目したいのは、比較文明学の視点から「言語と情報」の問題の重要性を指摘した梅棹が、「国民国家」フランスを建設したナポレオンの目標が「ローマ帝国の再現」であったことを指摘して、「国民国家と帝国とのねじれた関係」についての議論の深化をも求めていたことである*20。このとき梅棹の視野には、「言語・情報」の問題における「国民国家」の言語と「帝国」の言語との問題も入っていたと言っても過言ではないだろう。「国民国家」の成立に際して、「国語」が大きな役割を担ったように、「帝国」の形成においても言語がきわめて重要な役割を果たしていたのである。

 しかし、チェコにおける「言語帝国主義」と「民族語」の問題を考察した川村清夫は、ドイツ語を「文明語」としていたオーストリア・ハンガリー帝国では、チェコの裕福な知識人層もチェコ語を「半開の言語」とする政策に協力していたが、ナショナリズムが盛んになると母語の復権を求めたチェコ人の烈しい「言語権運動」が起き、それがハプスブルク帝国の崩壊を招いたと指摘している*21。

 さらに、フランス帝国の場合もロシアとの戦いでナポレオンが大敗を喫すると、それまで軍事力の前に面従腹背していたヨーロッパの諸国が一斉に反攻に転じて、「諸国民の解放戦争」を起こし、それまで「普遍語」として通用していたフランス語もその地位を失ったのである。しかも神川正彦はソ連を帝国と規定した梅棹の先見性に注目しているが*22、ソ連が崩壊する時期にバルト諸国を始め、各共和国で見られたナショナリズムの昂揚の一因となったのも、「文明語」としてロシア語の学習を強要した、共和国政府側の「周辺文明国」的な言語政策に対する反発だったのである。つまり、経済効率や情報処理の面からの「文明語」重視の言語政策は、一時的には効果をもたらすが、長い目で見るときむしろ大きな民族問題を引き起こすのである。

  このように見てくるとき、自国語以外に「たとえそれが簡単なレベルであったとしても」、「二カ国語以上で話ができる」ようにすることが、「異なった文化や言語で生活している寛容さと理解を深めることにつながる」とした1998年に欧州評議会の勧告の意味がはっきりとしてくる*23。

 つまり、加藤周一が説明しているように「文明語」の学習に際しては、「力関係が絶えず一方に傾斜」し、「どうしても先生と弟子の関係になりがち」であるので、「相手を理想化してそれに近づこうとする傾向」や「劣等感が生じ」るのである*24。実際、記憶だけでなく舌や口構えなど身体的な面でも「自己の他者化」を要請するような外国語教育は幼児期における自己の確立を損なう危険性が強く、他方、「外国語の学習」を強要することは、その外国語の属する文明が自国よりも「上位の文明」であるという錯覚や劣等感を学習者に対してもたせることになる。このことは、「文明」語の学習における劣等感とその反撥としてのナショナリズムが生まれる心理的な過程を物語っていると思える。

 なぜならば、「文明語」の習得の過程で、生徒たちが感じた自国の歴史や文化に対する劣等感をうち消すためには、バランスをとるためにも授業のなかで「自国の価値」を強調し、「国民」としての一体感を認識させることが必要とされるのである。それゆえ、自国が富国強兵に成功した際には、これまでの反撥から一気に優越感に転化し、自国語を「帝国語」として学習させたいとする欲望が生まれるのである。

 しかも、「文明語」の習得の問題は学習者だけに生じるのではなく、他国の人間もまた苦労しながら懸命に語学を習得して、語ろうとする姿を見るとき、「文明語」を母国語としている者に、自国の文化が他の文化よりも優れているという先入観や、たどたどしく「文明語」で語る外国人の考えよりも自分の考えの方が優れているという、いわれなき優越感すらも抱かせることになるのである。自国を「文明」として他国を野蛮視するというナポレオンやブッシュ大統領が抱いた自己(自国)中心的な文明観は、このような「文明語」の優位性とも深く係わっているだろう。

 すなわち比較文明学の創始者といわれるトインビーは、世界戦争を引き起こすにいたった近代西欧の「自国」中心の歴史観を「自己中心の迷妄」と厳しく批判したが*25、EUの言語政策には、互いに「自国」を「文明」として、歴史だけでなく、言語をも「文明ー半開ー野蛮」に序列化してきたことが、「他国」の反発を招き戦争を生んできたことへの深い反省があると言っても過言ではないだろう。

 このようなEUの言語政策から見るとき、『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬遼太郎が、「コトバの窓」という概念を用いながら、自分が英語以外にも数カ国語を学んだことで、日露戦争や「世界じゅうの事柄を、自分がすこしでもかじったコトバ(モンゴル語、中国語、ロシア語)の窓からみること」ができたとし、情報の面でも一定の視点や情報量の多さからではなく、多様な視点からみることの必要性を記したことの意義が明らかになる*26。つまり、現在の世界では英語という「窓」がもっとも見通しがよく、広い「窓」であることは確かだ。しかし、司馬の「コトバの窓」の例にならって言うならば、「広い窓」から見える景色がいかに美しく見えても、これまで見てきたように別の角度から見る時、全く違う様相を示す可能性があるのである。重要なのはただ一つの「窓」を通して一つの価値を学ぶだけではなく、できるだけ多くの「窓」を通してその国の文化や歴史を学ぶことにより、様々な「文明」の持つ価値観を理解することで、「共存の可能性」を探ることであろう。

 それは梅棹忠夫の「情報論」の意義を解説した高田公理が、「単一の言語の過剰な普及は、のぞましいことではない。言語をふくめて異質な文化が、相手の存在を許容しながら『やりとり』することこそが、めざされるべきである」と述べたこととも重なるのである*27。

 

3、「文明語」の重視とその心理的弊害

  では、日本における言語政策はどうであろうか。「文明開化」を主導した福沢諭吉は、「情報量」の視点から「東洋に行はるるものは、英語を最とし、此語を以て英米人と他国人と語るのみならず、他国人と他国人と語るの方便とも為る可し」とし、それゆえ日本人は子供の頃から「自国のいろはと共に英文字を学び、少しく長じて日常の用文章に兼て、英文の心掛けこそ大切なる可し」として、「文明語」としての英語習得の必要性を強調していた(F・Ⅶ・208~209)。

 このような福沢の言語観は敗戦後の日本にも受け継がれて、一時は敵性語として排除されていた英語が今度は「文明語」として中学校の必修科目として指定され、さらに「グローバリゼーション」が進むと1999年には小渕内閣の私的懇談会によって、「グローバル・リテラシー(国際的対話能力)」の確立のための英語の重要性がうたわれ、さらに翌年には英語を「第二公用語」とすべきとの報告書が提出された。また、これに呼応する形で「小学校英語教育学会」も設立されて、2002年には小学校での英語教育も始まったのである。

 この意味で注目したいのは、公文俊平が大著『情報文明論』において、日本語のもつ問題点にも言及しながら、インターネットの急速な普及を理由に、英語公用語論など現在の言語教育に結びつくいくつかの重要な提言をしていることである。彼の議論はその後の言語教育にも大きな影響力を持ったようにみえるので、ここでは語学と情報の面に限って、少し考察しておきたい。

 彼はここで、「漢字の使用が、コンピューターによる情報処理にとっての大きな制約要因」となることを指摘するとともに、「日本語を使ってのコミュニケーションは、情緒に支配される度合いが相対的に大きく、ともすれば相手の論点への批判が人格的な攻撃としてみなされてしまったり」することもあると指摘した*28。実際、幕末におけるナショナリズムの問題を分析した平川祐弘も、「複数の異質な要素から成立つ国民を統合するためには論理的な説得力が必要とされようが、日本のような均質な国民を動かすには、情緒に訴える言葉がある程度まで有効に作用する」と述べて、「尊皇攘夷」や「米英撃滅」などの4字の漢字熟語の問題点を指摘していた*29。

 こうして、公文俊平は「私は、長期的には日本人は”バイリンガル”な言語使用国民となることを決心ーーたとえば日本語と英語を共に公用語とするといったようなーーすべきではないかと思う」と結論したのである*30。このように見てくる時、公文の英語公用論はかなりの説得力を持っているように見える。                           

 しかし、「英語公用語」の問題を現代アフリカの状況から考察した小川了は、多くの民族によって国家が形成されているアフリカ諸国においては、「いずれかが得をするのではなく、すべてが平等に学び取ってゆかねばならない言語」として公用語が採用されているという特殊な事情を説明するとともに、公用語の採用は英語を習熟した者には可能性を与える一方で、そうでない者からは立身出世の可能性すらも奪うことになり、統治する者と統治される者という「強者と弱者の二極分化はますます大きくなる」危険性を指摘している*31。

 ここで注目したいのは、日本より約150年も前に「文明開化」が行われたロシアでは、すでにそのような「二極分化」が発生していたことである。すなわちピョートル大帝の改革の結果、西欧の言語を習得して専門的な知識を有する若者が一代で貴族にまでも立身出世できる制度が生み出されていた反面、税の実質的な負担者である農民や町人の生活はいっそう悪化していたのである。それゆえ、プーシキンの友人でもあったデカブリストの詩人キュヘリベッケルが、フランス語で会話していたロシアの宮廷を批判して、「あそこではロシアの言葉を話さず、聖なるルーシ(訳注、ロシアの古称)を嫌悪する!」と叩きつけるように書いたように*32、宮廷ではロシア人の母語であるロシア語を、粗野な農民の言葉として軽視するようにさえなっていたのである。

 こうしてドストエフスキーがロシアの上層階級におけるフランス語崇拝を指摘しつつ、ピョートル大帝の改革が外国語を話す貴族と話せない民衆の二つの階層に分裂させたとし、民衆は外国語の習得により立身出世して富を得た階層を外国人と見なすようになっているとしたような事態が生まれたのである*33。こうして外国語を話す能力がある者が出世し、母国語を話しながらも外国語ができないばかりに、二流とされ出世の可能性も与えられなかったロシアでは、支配されつづけることへの民衆の鬱積した反発が、革命へとつながる大きな一因となったといえよう。

 ロシアと同じような事態は、「文明開化」後の日本でも起きた。ロシア知識人の西欧かぶれを痛烈に批判したドストエフスキーの短編小説『鰐』をドイツ語から訳した森鴎外は、ドイツに留学中に起きていた「英語公用語」論について、「国民性(ナショナリティ)の維持。『読売新聞、英語を邦語と為すの論』を反駁すること」とし、かつての「フリードリヒ大王の母国語蔑視、フランス語崇拝という倒錯」を指摘しながら、「文明は歴史的基礎の上に立脚している」と続けて、特定の「文明語」の偏重や母国語軽視を厳しく批判していた*34。

 司馬遼太郎もすでに陸軍ではドイツ式が採用されていたことにふれて、秋山好古がフランスへの留学を決めたとき、「陸軍における栄達をあきらめた」とも書いていた。つまり、福沢諭吉は『学問のすゝめ』(1872年)において、「人は生まれながらにして貴賤貧富の別なし。唯学問を勤(つとめ)て物事をよく知る者は貴人となり、富人となり、無学なる者は貧人となり、下人となるなり」として学問の効用を説いていた(F・Ⅳ・291)。しかし司馬遼太郎は、英語ができなかったばかりにすぐれた能力をもっていた正岡子規が「貧人となり、下人となり」かけたことを指摘したが、立身出世を成し遂げるためには国家や組織が求める「文明語」の習得が不可欠だったのであり、それ以外の言語の学習はむしろ出世の邪魔だったのである。

 それゆえ、司馬は「日露戦争の終わりごろからすでに現れ出てきた官僚、軍人」などの「いわゆる偉い人」には、「自分がどう出世するかということ」には「多くの関心」があったが、「日本の人民」も含む「他者を愛する思想はなかった」とし、さらに言葉を継いで「地球や人類、他民族や自分の国の民族を考える、その要素を持っていなかった」と記して厳しく批判したのである*35。それは『冬に記す夏の記録』(1863年)において、西欧文明を絶対視するロシアの知識人を「文明の普及者という己が使命にうぬぼれきって」、「文明の曹長とでもいった顔付で、民衆の上に君臨している」と厳しく批判し、ロシアの将来への危惧を示したドストエフスキーの言葉を想起させるのである*36。

 こうして『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬遼太郎は、陸軍の「参謀本部はドイツ式となった」ため、「当然、語学の中心はドイツ語になり」、また「すべてのシステムをイギリスから」買った「海軍は英語が中心」となったと記し、「明治時代は大変な模倣の時代」だったと批判して、「上位文明」と見なした言語の強制的な学習が、情報だけでなく、視野をも制限するという弊害をもたらしたことを指摘したのである*37。 

 さらに戦前の日本には、「たいへん本を読んでいてなんでも知っている」が、出世ができず「不遇感がいっぱいあって、また英語に対して異様な劣等感」を持った「偏狭という点でいちばん危険なナショナリスト、というタイプ」が村役場の係長や中小企業の課長などにいたと指摘し、「いまもいます」と続けた司馬は、戦後の言語教育についても「日本人は、中学から英語を学ぶ。趣味で習うならいいけど、点数がついて、生徒としての優劣がついて、さらには高校や大学の入学試験まで左右してしまう」と批判して英語を「文明語」として「日本語」よりも高い位置に置く、現在の言語教育に鋭い疑問を投げかけたのである*38。

 養老孟司の「科学と国民の距離ーー英語で論文を書く理由」と題するエッセーは、最近の日本においてはこのような傾向がさらに強まっていることを鋭く批判しえている。ここで養老はまず、現代の日本では「科学者の世界で評価されるには、論文を英語で書かなければならない。日本語で論文などを書いたら、二流以下と見なされる」ことに注意を促して、「科学が日常に繋がるものなら、それが日本語で書かれてまったくおかしくない。そうなってない世界がおかしいのである」と断言し、「価値のある日本語論文なら、外国人は自分で読めばいい。あるいは翻訳すればいい。いまでは翻訳ソフトまであるではないか。それが公平というものである」と批判したのである*39。この養老が最近出した著書は、驚異的なベストセラーとなったが、このことは現代日本の言語政策に対する若者や中高年層の不満がどの程度深く、また草の根のレベルでいかに広がっているかをも示しているだろう。

 たしかに、すでに見たようにドイツの哲学者ヴォルフやロシアの科学者ロモノーソフは、新しい知識を多くの者が理解しやすいようにと母国語での講義を行っていたが、現代の世界で「グローバリゼーション」という名のもとに起こっているのは、全く反対の事態なのである。

 梅棹忠夫はコンピューターが「計算と情報ストックのためには、はなはだ有用である」としつつも、「言語を主体とする人間の知的生産に対しては、はたしてどれほどの革命をもたらしうるかは、いまのところ疑問」としていた*40。すなわち、梅棹が提起したローマ字論の問題は誤解されて、主に「効率化と有用性」の視点から議論されてきたが、母国語の問題は単に「情報の量」だけには還元できない重要な「固有の価値」の問題が含まれているのである。

 このことを「言語とアイデンティティ」の問題の重要性に気づいた司馬遼太郎の次のような言葉はよく説明しえているだろう。すなわち司馬は、「言語の基本(つまり文明と文化の基本。あるいは人間であることの基本)は」、「母親によって最初に大脳に植えこまれた」「国語なのである」として、幼児期からの母国語によるきちんとした言語教育の重要性を強調している*41。さらに司馬は、その頃すでに持ち上がっていた「日本人は英語がへただから、多くを語らず、主張もひかえ目にする」という論理に対して、「そういうことはありえない。国語がへたなのである。英語なんて通訳を通せばなんでもない。いかに英語の達人が通訳してくれても、スピーカーの側での日本語としての国語力が貧困(多くの日本人がそうである)では、訳しようもない」と鋭い批判を放っているのである。

 たしかに、基礎となるのは見たこと聞いたことの感動や自分独自の思考をきちんと相手に伝え、また相手の言葉の細やかなニュアンスを理解しうるだけの「母国語」の能力なのである。このような司馬の発言は、翻訳ソフトも急速に整い、伝達の「手段」から、伝達する「内容」が問われるようになってきている現在、いっそう現実味を増しているといえよう。実際、「文明」の側から発せられる膨大な量の情報に左右されずにきちんとした判断をなせるためには、まず日本語の理解力と表現力の発展が必要なのである。

  このような司馬遼太郎の言語観は、梅棹の言語・情報観を文学者の視点からうまく説明しえていると思える。なぜならば、司馬は自分自身ではローマ字論を唱えなかったものの、桑原武夫などによるローマ字論の実践を、言語における伝達の機能に注目しつつ、自分の考えを分かりやすく相手に伝えるという日本語の機能を高めるものとして、文体論的な視点から高く評価していた。つまり、梅棹のローマ字論は情報のハードウェアとしての日本語の改良の手段としての性格が強かったのである。

 こうして、司馬は幼児期からの外国語教育は、言語によってでは自分を表現できない情緒の不安定な人格を生み出す危険性があると考え、すべての日本人をバイリンガルにするのではなく、すぐれた通訳と翻訳者を養成する必要性を説いたのである。このような司馬の論説は、なぜ梅棹が外国での講演を日本語で行ったかも説明しえているだろう。すなわち、梅棹は「日本文明の位置」と題したフランスでの講演で、日本は「国際的孤立主義の傾向から脱して、国際的な情報交流に積極的に参加しなければならない時期にきて」いると語った*42。この文章を読んだ多くの読者はこれが欧米語の学習の必要性を説いていると感じるであろう。しかし日本語による情報の発信を重用視した梅棹は、これを日本語で通訳をつけて語っていたのである。

 この意味で注目したいのは、『坂の上の雲』において日本の短歌の改革に大きな足跡を残した正岡子規が夏目漱石に及ぼした影響を描いていた司馬における漱石観の深まりである。たとえば、司馬遼太郎はリービ英雄との対談で「ぼくは年をとって、漱石が好きという以上に恋しくなっています」と言い、「文明語」である英語の第一人者であったにもかかわらず、イギリスの留学で日本人としてのアイデンティティの危機を体験した後には、自らの特権的な地位を捨てて、小説家となり多くのすぐれた作品を生みだした漱石への共感を示し、さらに「漱石において、ラブレターも書けて地球環境論も論じられる、そういう文章日本語が成立した」と続けて、文体論の視点からも漱石を高く評価していることである*43。

  こうして夏目漱石や梅棹忠夫とともに近代日本の「文明開化」の模倣性を鋭く指摘した司馬遼太郎は、『菜の花の沖』において「江戸期はふしぎな時代であった」と記し、「鎖国社会を形成しながら、その箱のなかのひとびとの知的活動は、つねに唐(中国)と阿蘭陀(オランダ)の二つの異文化を日本と対置しながら物を考える」という比較の精神を有していたと書くことになるのである。そして司馬はアイヌ語を「野蛮語」としてさげすむことなく自ら習得していた高橋三平や高田屋嘉兵衛など新しい「知的なグループがすでに江戸に存在していた」ことに注意を向けて、「半開」とされた「後期江戸時代」が、「文明ー半開ー野蛮」という序列化を批判するような、換言すれば、すでに現代のEUの言語政策を先取りするような世界観をもった真に独創的な思想家を生み出していたことを明示したのである*44。

 「何のための外国語教育?」と題した『日本語教育新聞』の特集は、日本の市民社会の「根強い排他性」や「非国際性」に注意を促して、EUの言語政策と比較しつつ、「外国語教育といえば、英語一辺倒である」日本政府の「戦略」に強い疑問を投げかけ、「国際化」の真の意味を、「再度定義し直す必要」を強調している*45。たしかに、言語が思考と密接な関わりを持っている以上、国家レベルで「文明語ー国語ー方言」という序列化を認めるような言語教育を行うことは、個人のレベルでも生徒に「強者ー自己ー弱者」という差別化を認めさせ、強者へのあこがれを生み出させるとともに、弱者に対する「いじめ」をも正当化させる根拠を与えてしまう危険がある*46。強い「グローバリゼーション」の流れの中にある現在こそ、「文明開化」の際の言語教育の問題点を反省して新しい「言語教育」のあり方を示すべきであろう。 

 

結語

  福沢諭吉は『学問のすゝめ』(1872年)において、学問の効用を説いた後で、「専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」と続けていた。しかし、1978年に行われた対談で、司馬は明らかにこの福沢の言葉を意識しながら、日本は明治以降に「有用の学問をしすぎた」ために、強国となり「野蛮になった」と語った*47。興味深いのは司馬のこの言葉を受けて梅棹が、国立民族学博物館は「虚学の世界で、あんまり実際の役」にたたないが、「それはそれでいい」と語り、ここでは「おなじ平面に世界中の文化をならべてみた」と述べ、司馬も「単一性」が高く、「無用の愛国心へ逆もどりするおそれのある」日本社会においてこの博物館ができたことの意義を高く評価していることである。

 実際、これまでの歴史は言語的な「情報の量」から、「鎖国」を「半開」と、無文字社会を「野蛮」と規定してきたのである。しかし、梅棹はシンポジウム「言語と文字の比較文明学」において、「言語をもたない社会は存在しえないが、文字をもたない社会はいくつもある。われわれは現代世界において、文字をもたない人びととともに共存しています」と述べて、このような「言語的な情報の量」による序列化を厳しく諫めていたのである*48。

 一方、「水火を制御して蒸気を作れば、太平洋の波濤を渡る可し」とした福沢諭吉は、「智勇の向ふ所は天地に敵なく」と判断し、「山沢、河海、風雨、日月の類は、文明の奴隷と云う可きのみ」と断言して、「文明」による「野蛮」の支配や征伐と同様に、「文明」による「自然支配」の正当化も『文明論之概略』において行っていた(F・Ⅳ・144)。 福沢諭吉の比較文明論的な視野と方法を高く評価した神山四郎は、このような見方が「産業革命時のイギリス人トーマス・バックルから学んだ西洋思想」であり、「それが今日の経済大国をつくったのだが、また同時に水俣病もつくったのである」と批判し、「明治には『奴隷』と思った自然から今はしっぺ返しを受けている」とした*49。実際、今でも「自国」を「文明」と主張するブッシュ政権は、温暖化防止のための京都議定書などへの調印をこばんでいるが、無理矢理「支配」されてきた自然は、人類の生存をすらも脅かすようになってきているのである。

  比較文明学会・前会長の伊東俊太郎は、近代西欧の歴史観が「ナショナリズム的な『国家史観』」の影響下にあったことを指摘しつつ、戦争の悲惨さや環境問題にも注意を促して、トインビーの業績や「自然の概念」の重要性をとおして「地球文明史」の成立の必要性を説いている*50。

 この意味で注目したいのは梅棹忠夫が、「情報の文明学ーー人類史における価値の転換」において、「すべての存在それ自体が情報である。自然もまた情報である」と記し*51、「情報はすでにひとつの環境である」、「人類史における情報の問題は、すでに人間対人間のコミュニケーションの話ではなくなってきている」と規定したことである*52。これらの規定は画期的であり、それは彼の「情報論」の視野が「地球環境」にも向けられていることを物語っている。すなわち、樹木や川、海などの自然は、「言語的な情報」を自ら発信しないゆえに、「文明」の側からは無視あるいは軽視されてきたが、「情報のとらえ方」を換えることで、これまでの「文明ー半開ー野蛮」という序列化を進めることになった「自己中心的な」歴史観や言語観をも根底から変革する可能性が生まれるのである。

 今、焦眉の課題としてあるのは、英語を「文明語」として必修化している現在の一元的な言語教育を、多様な語学から自分の関心のある言語ーーたとえば環境問題に関心のある者はドイツ語を、絵画にあこがれる者はフランス語を、文学に興味があればロシア語を、そして、アジアに関心があるなら中国語や韓国語ーーを選べるような教育システムへと変換することであろう。そのことにより、様々な「文明」の持つ多様な価値観や、さらには物言わぬ「自然」の価値をも理解しうるような「情報・言語」観を確立することが、はじめて可能になるのである。

 追記:明治期の語学教育と「欧化と国粋」の二極化の問題については、新聞記者・正岡子規に焦点を当てて『坂の上の雲』を考察した『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015年)参照。

 isbn978-4-903174-33-4_xl

*1  梅棹忠夫、『近代世界における日本文明ーー比較文明学序説』中央公論社、2000年、149頁

*2  同上、279~80頁  

*3  以下、『坂の上の雲』からの引用は、文春文庫版により、箇所は本文中にローマ数字で示した巻数と章の題名を記す。なお、『坂の上の雲』の分析については、高橋『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』のべる出版企画、2002年、第2章「『文明の衝突』と『他者』の認識」、および中島誠・文/清重伸之・絵『司馬遼太郎と「坂の上の雲』現代書館、2002年参照

*4  桜井哲夫『「近代」の意味ーー制度としての学校・工場』、NHKブックス、1984年、50頁、58~9頁

*5  田中克彦『ことばと国家』岩波文庫、1981年参照

*6  福沢諭吉『福沢諭吉選集』第7巻、岩波書店、208頁(以下、この選集をFと略し、引用箇所は本文中に巻数はローマ数字で、頁数は算用数字で示す)。

*7   Bokl’G.T., Istoriya tsivilizatsii v Anglii,Spb.,1896,vol.1.,pp.75-78

*8  俵木浩太郎『文明と野蛮の衝突--新・文明論の概略』ちくま新書、2001年、181~2頁

*9  井口和起『日露戦争の時代』吉川弘文館、1998年、150~2頁

*10 言語帝国主義とアイデンティティの問題については、三浦伸夫「文明史の中の交流言語」『比較文明』第16号、刀水書房、2000年参照

*11  梅棹忠夫、前掲書(『近代世界における日本文明』)、279~80頁

*12 梅棹忠夫編著『日本の未来へーー司馬遼太郎との対話』NHK出版、2000年

*13アメリカ軍の占領下に行われた原子爆弾の悲惨さの隠蔽については、高橋『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』、のべる出版企画、2002年、113~4頁参照

*14『旧新約聖書』日本聖書協会発行、1967年

*15 高橋「ロシアの文明開化ーーロモノーソフとモスクワ大学」『望星』11月号、東海教育研究所、1992年、14ー19頁参照

*16  ザツェク「チェコスロヴァキアのナショナリズム」『東欧のナショナリズムーー歴史と現在』東欧史研究会訳、刀水書房、1981年、140~3頁。なお、ロスティンスキー「マサリクによるドストエフスキーの考察」高橋訳注、『ドストエーフスキイ広場』第4号、1994年、19~27頁参照

*17  作田啓一『個人主義の運命ーー近代小説と社会学』岩波新書、1981年、107頁

*18ニコルソン『ナポレオン1812年』、白須英子訳、中公文庫、1990年、20頁

*19 トルストイ『戦争と平和』(『世界文学全集』第20巻)、中村白葉訳、河出書房、昭和41年、230頁。両小説の比較については、高橋「司馬遼太郎のトルストイ観ーー『坂の上の雲』と『戦争と平和』をめぐって」『比較思想研究』第30号、日本比較思想学会、2004年参照

*20  梅棹忠夫、前掲書(『近代世界における日本文明ーー比較文明学序説』)、342~5頁。なお、司馬遼太郎における「国民国家」と「帝国」の問題については、高橋「『明治国家』から『日本帝国』へーー司馬遼太郎の歴史認識」『比較文明』第19号、日本比較文明学会、2003年参照

*21  川村清夫「言語と民族主義」『比較文明』第16号、刀水書房、2000年、134~8頁

*22  神川正彦『クォータリーリサーチレポート』第11号、日本価値観変動研究センター、2003年、2頁

*23「特集・何のための外国語教育?ーー日本とEU、言語政策の差」『日本語教育新聞(欧州版)』2003年、7月15日号、第2面参照

*24  加藤周一「日本にとっての多言語主義の課題」『多言語主義とは何か』藤原書店、1997年、298頁

*25 トインビー『歴史の研究』第2巻、長谷川松治訳、社会思想社、昭和42年、75~6頁

*26  司馬遼太郎『司馬遼太郎が語る日本Ⅴ』朝日新聞社、1999年、87頁

*27  高田公理「マルクスをこえる最後の文明史論」『情報の文明学』、305頁

*28  公文俊平『情報文明論』NTT出版、1994年、400~403頁

*29  平川祐弘、『西欧の衝撃と日本』講談社学術文庫、1985年、135頁

*30  公文俊平、前掲書、402頁

*31  小川了「公用語の思想と機能」『比較文明』第16号、刀水書房、116~120頁

*32 ロトマン『文学と文化記号論』、磯谷孝編訳、岩波書店、1979年、302頁

*33 日本とロシアの「文明開化」の類似性については、高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、2002年参照

*34  平川祐弘、前掲書、210頁より引用

*35 司馬遼太郎『「昭和」という国家』NHK出版、1998年、29~31頁

*36  Dostoevsky,F.M. Polnoe sobranie  sochinenii v tridtsati tomakh, Leningrad, Nauka、T.5.,pp.59-60、『ドストエフスキー全集』新潮社、第6巻、小泉猛訳、27頁

*37  司馬遼太郎、前掲書(『「昭和」という国家』)、133頁

*38  司馬遼太郎「新宿の万葉集」『九つの問答』朝日新聞社、1995年、96~7頁

*39  養老孟司「科学と国民の距離ーー英語で論文を書く理由」毎日新聞、2002年11月10日

*40  梅棹忠夫『情報の文明学』中公文庫、1999年、296頁 

*41  司馬遼太郎「なによりもまず国語」『一六の話』中公文庫、1997年、367頁

*42  梅棹忠夫『日本とは何かーー近代日本文明の形成と発展』NHK出版、1986年、38頁

*43  司馬遼太郎「新宿の万葉集」『九つの問答』朝日新聞社、1995年、101~2頁

*44  司馬遼太郎『菜の花の沖』文春文庫(新版)、第3巻、2000年、167~9頁

*45  「特集・何のための外国語教育?ーー日本とEU、言語政策の差」『日本語教育新聞(欧州版)』2003年、7月15日号、第3面

*46  この問題については、高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、刀水書房、2002年、第5章「非凡人の理論」参照

*47  梅棹忠夫編著、前掲書(『日本の未来へ』)、177頁 

*48  梅棹忠夫、前掲書(『近代世界における日本文明』)、159頁。なお、米山俊直「アフリカ地域の文明」(伊東俊太郎・梅棹忠夫・江上波夫監修、米山俊直・吉澤五郎編『講座比較文明』第2巻)、朝倉書店、1999年参照

*49  神山四郎『比較文明と歴史哲学』刀水書房、1995年、115頁

*50  伊東俊太郎『比較文明』東京大学出版会、1997年、24~5頁

*51 梅棹忠夫、前掲書(『情報の文明学』)、209頁

*52 同上、222頁

 

 【『東海大学外国語教育センター紀要』第24輯、2004年。本稿は2002年に国立民族学博物館で行われた比較文明学会において口頭発表した論文に、その後の考察を加えて大幅な改訂を行ったものである。なお、本稿では敬称は略した】

リンク→英語教育と母国語での表現力――「欧化」と「国粋」の二極化の危険性