高橋誠一郎 公式ホームページ

11月

〈司馬遼太郎による「戦後日本」の評価と「神国思想」の批判〉をトップページに掲載

本日(17日)、衆院憲法審査会での実質審議が再開されました。

→東京新聞〈公明「押し付け憲法」否定、自民との違い鮮明 衆院憲法審再開〉 

少し安心したのは公明党の北側一雄氏が、現行憲法が連合国軍総司令部(GHQ)による「押し付け」だとする「日本会議」や自民党の見解について「賛同できない」との意見を明確にしたことです。

民進党の武正公一氏は安倍晋三首相が各党に改憲草案の提出を要請したことに対し「行政府の長からの越権と考える」と批判し、共産党の赤嶺政賢氏は安倍政権の政治手法を「憲法無視の政治だ」と非難し、社民党の照屋寛徳氏も護憲の立場を強調したとのことです。

それらのことは高く評価できるのですが、安倍自民党が圧倒的な数の議席を有していることや、これまでの「「特定秘密保護法」や「戦争法」に対する公明党の対応の変化を考えると不安は残ります。

それゆえ、今回はトップページに司馬遼太郎氏の「戦後日本」観と「神国思想」の批判を掲げることにより、ほとんどの閣僚が「日本会議国会議員懇談会」に属している安倍自民党の危険性に注意を促すことにします。

なぜならば、「神国思想」が支配した戦前の日本に回帰させないためにも、近代に成立した国家の統治体制の基礎を定める「憲法」を古代の神話的な歴史観で解釈する安倍政権と「日本会議」による「改憲」の危険性を国会の憲法審査会だけではなく、一人一人が検証して徹底的に明らかにすべき時期に来ていると思われるからです。

『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』(人文書館)の紹介を『出版ニュース』「ブックガイド」をより転載

『出版ニュース』(2010年1月下旬号「ブックガイド」)に拙著の紹介が掲載されていました。たいへん遅くなりましたが、ここでは人文書館のホームページより、見出しとともに転載致します。

*   *   *

比較文明論的な視座から詳しく読み解く!

〈幕末において「ただ一人の日本人」であると自覚することになる「竜馬」の成長をとおして「日本人」の在り方を深く考察した『竜馬がゆく』を、比較文明論的な視座から詳しく読み解く〉。

司馬遼太郎は『竜馬がゆく』で何を描こうとしたのか、さらにはグローバリズムの意味を問い、転換期といわれる今日に竜馬があらためて注目されるのは何故なのか。1949年生まれ(団塊の世代)の著者が、比較文明学者の立場でこの作品の構造に挑む。

ここでは、幕末の時代背景を「黒船」というグローバリズムの観点で捉え、竜馬という「日本人」の誕生を浮き彫りにしてみせる。竜馬にとっての思想、革命、新しい公・日本のイメージを通して、維新に向かう人間群像が見えてくる。このことは、司馬の歴史観すなわち近代日本のあり方、評価に関わってくるし、この国の「かたち」にこだわった作家・司馬遼太郎を論じる上で不可欠の考察といえよう。

(『出版ニュース』 2010年1月下旬号「ブックガイド」より)

*   *   *

なお、『出版ニュース』では拙著『「罪と罰」を読む――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、1996年)以降、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社、2014年)に至る私のドストエフスキー研究の歩みと深まりもきちんと紹介されていたので、それらも順次、転載させて頂くようにします。

安倍政権のTPP法案・強行採決と『竜馬がゆく』における竜馬の農民観―― 「神国思想」と「公地公民」制の批判

ISBN978-4-903174-23-5_xl

「神国思想は明治になってからもなお脈々と生き続けて熊本で神風連(じんぷうれん)の騒ぎをおこし国定国史教科書の史観となり、…中略…その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」(司馬遼太郎『竜馬がゆく』文春文庫、第3巻「勝海舟」より)。

*   *   *

安倍氏が国会で「わが党においては結党以来、強行採決をしようと考えたことはない」と答弁していたにもかかわらず、昨日、またも安倍政権によりTPP法案の強行採決が行われました。

このニュース報道を受けて、早速、「国民の健康も不安も無視する安倍政権の戦前的な価値観」とのコメントをツイッターに載せたのに続いて、下記の文章とその理由を説明した文を掲載しました。

「農業や医薬、ISDS条項など、国民の生命や安全を犠牲にしてTPPの国会成立を急ぐ安倍政権と自公両党。責任者の甘利元大臣の証言がなく、資料が黒塗りでは議論にならないのは明白。安倍氏に仕える自公の議員の姿は、律令制度の頃の官僚に似ている」。

〈なぜならば、明治維新で成立した薩長藩閥政府が理想視していたのは、律令時代の太政官制度でしたが、司馬氏の言葉を借りれば律令制度の頃の「公地公民」という用語の「公」とは「公家(くげ)」という概念に即したものであり、その制度も「京の公家(天皇とその血族官僚)が、『公田』に『公民』を縛りつけ、収穫を国衙経由で京へ送らせることによって成立していた」からです(司馬遼太郎、「潟のみち」より〉。

残念ながら、司馬氏の文明史家ともいえる広い視野は「新しい歴史教科書をつくる会」や「日本会議」などの論客による「褒め殺し」とも呼べるような一方的な解釈によって、いちじるしく矮小化され歪められてしまいました。

そのような解釈の顕著な例が、明治7年の台湾出兵や明治10年の西南戦争などで巨万の富を得て、三菱財閥を創業した政商・岩崎弥太郎を「語り手」としたNHKの《龍馬伝》(2010)でしょう。

安倍氏や「日本会議」などの論客からの強い要請によって放映されたと思われるこの大河ドラマは《龍馬伝》という題名に反して、「むしろ旗」を掲げて「尊王攘夷」というイデオロギーを叫んでいた幕末の宗教的な人々を情念的に美しく描いていたのです。

大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性

大河ドラマ《龍馬伝》と「武器輸出三原則」の見直し

一方、司馬氏は『竜馬がゆく』の「勝海舟」の章で坂本竜馬についてこう記していました。

「たしかにこの宗教的攘夷論は幕末を動かしたエネルギーではあったが、しかし、ここに奇妙なことがある。/攘夷論者のなかには、そういう宗教色をもたない一群があった。長州の桂小五郎、薩摩の大久保一蔵(利通)、西郷吉之助、そして坂本竜馬である。」

そして、『竜馬がゆく』では当時の日本や世界の政治状況にもふれながら、勝海舟と出会った後の竜馬の視野の広がりと「文明論者」とも呼べるような思想の深まりが描かれていたのです。

それゆえ、ここでは拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』(人文書館、2009年)より、「公地公民」制などについて考察した「”開墾百姓の子孫”」と題した第2節の一部(120~121頁)を引用することで、司馬氏の農政観の一端を記しておきます。

*   *   *

”古き世を打ち破る”   

竜馬と庄屋の息子である中岡慎太郎との出会いを描いたこのシーンは、商才が強調されることの多い坂本竜馬の農民観を推測する上でも重要だろう。

すなわち竜馬が商人的な「利」の視点を持っていたことはよく知られているが、司馬は武士が「その家系を誇示する」時代にあって、竜馬に自分は「長岡藩才谷村の開墾百姓の子孫じゃ。土地をふやし金をふやし、郷士の株を買った。働き者の子孫よ」とも語らせているのである(四・「片袖」)。

ここで竜馬が自分を「開墾百姓の子孫」と認識していることの意味はきわめて重いと思われる。なぜならば、「公地公民」という用語の「公とは明治以後の西洋輸入の概念の社会ということではなく、『公家(くげ)』という概念に即した公」であったことを明らかにした司馬が、鎌倉幕府成立の歴史的な意義を高く評価しているからである(「潟のみち」『信州佐久平みち、潟のみちほか』)*12。

すなわち、司馬によれば「公地公民」とは、「具体的には京の公家(天皇とその血族官僚)が、『公田』に『公民』を縛りつけ、収穫を国衙経由で京へ送らせることによって成立していた制度」だったのである。そして、このような境遇をきらい「関東などに流れて原野をひらき、農場主になった」者たちが、「自分たちの土地所有の権利を安定」させるために頼朝を押し立てて成立させたのが鎌倉幕府だったのである。

しかも『箱根の坂』(一九八二~三)ではさらに、「諸国を管理するのに守護や地頭を置いた」鎌倉幕府や室町幕府について、「個々の農民からいえば、かれが隷属している地頭との間のタテ関係しか持てなかった」と記した司馬は、主人公の北条早雲に「日本の支配層は支配層のためにのみ互いに争うのみで、農民(たみ)のために思った政治をなした者は一人もおりませぬ」とも語らせている(中・「富士が嶺」)*13。

それゆえ、司馬は応仁・文明の乱(一四六七~七七)によって、世が乱れ、農民(たみ)が苦しむのを見た早雲に、「わしは、坂を越えて小田原」に入り、「古き世を打ち破る」と語らせていた。そして、「単に坂といえば箱根峠のことである」と続けた司馬は、「年貢は、十(とお)のうち四」という低い税率の「伊豆方式」を発した早雲が、守護や地頭などの「中間搾取機構を廃した」ことの意義を強調したのである(下・「坂を越ゆ」)。

こうして、「農業経営の知識」が深く、「十二郷の百姓どもの百姓頭になり、この地を駿河では格別な地にしたい」と思った北条早雲が、「民政主義をかかげて」室町体制を打ちやぶったことを、「日本の社会史にとって」は、「革命とよんでもいい」と高く評価した司馬は、「江戸期に善政をしいたといわれる大名でも、小田原における北条氏にはおよばないという評価がある」と続けていた(下・「あとがき」)。

このような大地とのつながりを重視する農民的な視点は、商才にも富んでいた竜馬が、なぜ武力討幕の機運が高まった際に、武器を調達することで大儲けをすることができる絶好の機会である戦争を忌避して、「時勢」に逆らうことが自分の生命を脅かすことになることを知りつつも、幕府が自ら政権を朝廷に返上する「大政奉還」という和平案を提出したかのを理解するうえでも重要だろう。

*   *   *

なお、『箱根の坂』における農政問題に対する認識の深まりは、日露戦争をクライマックスとする長編小説『坂の上の雲』を書く中で、ロシアのコサックと日本の鎌倉武士とを比較しながら、専制国家・ロシアにおける「農奴制」の問題を考察した結果だと思えます。

上からの近代化を強行に推し進めた帝政ロシアは「富国強兵」には成功し、皇帝と一部の貴族は莫大な富を得ました。しかし、特権化した貴族や近代化のために増大した人頭税のために、人口の大部分を占め、それまでは自立していた農民は、権利を奪われ生活が貧しくなって「農奴」と呼ばれるような存在へと落ちぶれ、逃亡した農民の一部はコサックとなったのです。

それゆえ、『坂の上の雲』を書き終えた後で、司馬遼太郎氏は「私は、当時のロシア農民の場からロシア革命を大きく評価するものです」と書き、「帝政末期のロシアは、農奴にとってとても住めた国ではなかったのです」と続けていたのです(「ロシアの特異性について」『ロシアについてーー北方の原形』文春文庫)。

(2016年11月7日、青い字の箇所を追加)

正岡子規の時代と現代(7)―― 司馬遼太郎の新聞観と『永遠の0(ゼロ)』の新聞観

 「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』)

大正の青年と…、表紙(書影はアマゾンより)

正岡子規の時代と現代(7)―― 司馬遼太郎の新聞観と『永遠の0(ゼロ)』の新聞観

司馬氏の新聞観で注目したいのは、日露戦争中の新聞報道の問題を指摘していた司馬氏が、「ついでながら、この不幸は戦後にもつづく」と書き、「戦後も、日本の新聞は、――ロシアはなぜ負けたか。/という冷静な分析を一行たりとものせなかった。のせることを思いつきもしなかった」と指摘した後で、こう続けていたことです。

*   *   *

「かえらぬことだが、もし日本の新聞が、日露戦争の戦後、その総決算をする意味で、/『ロシア帝国の敗因』/といったぐあいの続きものを連載するとすれば」、ロシア帝国は「みずからの悪体制にみずからが負けた」という結論になったであろう(五・「大諜報」)。

さらに司馬氏は「退却」の章で、「日本においては新聞は必ずしも叡智(えいち)と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽(あお)っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった」と分析しています。そして、日露戦争後にはルーズヴェルトが「日本の新聞の右傾化」という言葉を用いつつ「日本人は戦争に勝てば得意になって威張り、米国やドイツその他の国に反抗するようになるだろう」と述べたことに注意を向けた後で司馬氏はこう記していたのです(六・「退却」)。

「日本の新聞はいつの時代にも外交問題には冷静を欠く刊行物であり、そのことは日本の国民性の濃厚な反射でもあるが、つねに一方に片寄ることのすきな日本の新聞とその国民性が、その後も日本をつねに危機に追い込んだ」。

この記述に注意を促したジャーナリストの青木彰氏は、平成三年(一九九一)に京都で開かれた第四〇回新聞学会(現在の日本マス・コミュニケーション学会)で司馬氏が行った記念講演「私の日本論」の内容を紹介しています*39。

すなわち、司馬氏によれば「『「情報(知識)』には『インフォメーション(Information)』、『ナレッジ(Knowledge)』と『ウィズダム(Wisdom)』の三種類がある」のですが、「日本ではインフォメーションやナレッジの情報が氾濫し、知恵や英知を意味するウィズダムの情報がほとんどない」と日本の「新聞やテレビなどマスコミに対する危機感」を語っていたのです。(『新聞への思い』、187~188頁)。

*   *   *

一方、小説『永遠の0(ゼロ)』の第九章「カミカゼアタック」では、新聞記者の高山に対して、「夜郎自大とはこのことだ――。貴様は正義の味方のつもりか。私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と決めつけた主要な登場人物の一人で元社長の武田は、話題を太平洋戦争から日露戦争の終了時へと一転して、こう続けていました。

以下、近著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』、第二部第三章〈「巧みな『物語』制作者」徳富蘇峰と「忠君愛国」の思想〉より引用します。

*   *   *

「講和条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った」ことから「国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった…中略…反戦を主張したのは德富蘇峰の国民新聞くらいだった」。

そして、『国民新聞』が焼き討ちされたことを例に挙げて、「私はこの一連の事件こそ日本の分水嶺(ぶんすいれい)だと思っている。この事件以降、国民の多くは戦争讃美へと進んでいった」と断言したのである。

徳富蘇峰の『国民新聞』だけが唯一、講和条件に賛成の立場を表明していたのはたしかだが、ここには戦時中と同じような「情報の隠蔽」がある。なぜならば、日本政治思想史の研究者・米原謙が指摘しているように、「戦争に際して、『国民新聞』は政府のスポークスマンの役割を果たし」ており、「具体的には、国内世論を戦争遂行に向けて誘導し、対外的には日本の戦争行為の正当性を宣伝」していたのである*8

つまり、思想家・徳富蘇峰の『国民新聞』が焼き討ちされたのは彼が「反戦を主張した」からではなく、最初は戦争を煽りながら戦争の厳しい状況を「政府の内部情報」で知った後では一転して「講和」を支持するという政府の「御用新聞」的な性格に対して民衆の怒りが爆発したためであった。

実際、弟の徳冨蘆花が、「そうなら国民に事情を知らせて諒解させれば、あんな騒ぎはなしにすんだでしょうに」と問い質していたが、蘇峰は「お前、そこが策戦(ママ)だよ。あのくらい騒がせておいて、平気な顔で談判するのも立派な方法じゃないか」と答えていた*9。

司馬は後に戦争の実態を「当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の歴史に対する大きな犯罪だったといっていい」と書いているが、蘇峰の発言を考慮するならば、この批判が『国民新聞』に向けられていた可能性が強いと思われるのである*10。

しかも、元会社社長の武田がここで徳富蘇峰に言及したのは偶然ではない。なぜならば、今年は徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』(一九一六年)が発行されてから百年に当たるが、坂本多加雄「新しい歴史教科書を作る会」理事は、「公的関心の喪失」という明治末期の状況が、「『英雄』観念の退潮と並行している」ことを蘇峰がこの書で指摘し得ていたとして高く評価していた*11。

そして、「若い世代の知識人たち」からは冷遇されたこの書物の発行部数が百万部を越えていたことを指摘して、蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとし、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の意義を強調していたのである*12。

*   *   *

当時の政府の方針を代弁していた書物の部数に注目することで、その著作の内容があたかもすぐれているかのように強調するのは、今も変わっていないのが可笑しいのですが、提起されている問題は深刻だと思われます。

なぜならば、『永遠の0(ゼロ)』で多くの登場人物に戦時中の軍部の「徹底した人命軽視の思想」を批判させ、自らもこの小説で「特攻」を批判したと語り、安倍首相との対談では「百人が読んだら百人とも、高山のモデルは朝日新聞の記者だとわかります」と社名を挙げて非難した作者が、こう続けているからです。

「安倍総理も先ほどおしゃっていたように、この本を読んだことによって、若い人が日本の歴史にもう一度興味を持って触れてくれることが一番嬉しいですね」(『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』ワック株式会社)。

しかし、『大正の青年と帝国の前途』で「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」と書いた徳富蘇峰は前回のブログ記事で見たように、「大正の青年」たちに「白蟻」のように死ぬ勇気を求めていました。

このように見てくる時、司馬遼太郎氏が鋭く見抜いていたように、蘇峰の思想は軍部の「徹底した人命軽視の思想」の先駆けをなしており、そのような思想が多くの餓死者を出して「餓島」と呼ばれるようになったガダルカナル島での戦いなど、6割にものぼる日本兵が「餓死」や「戦病死」することになった「大東亜戦争」を生んだといえるでしょう。

つまり、名指しこそはしていませんが、「大正の青年」に「白蟻」となることを強いた徳富蘇峰への批判が、『坂の上の雲』における度重なる「自殺戦術」の批判となっていると思われます。このことに注目するならば、登場人物に徳富蘇峰が「反戦を主張した」と主張させることによって、日本軍の「徹底した人命軽視の思想」を批判する一方で、蘇峰の歴史認識を美化している『永遠の0(ゼロ)』は、日本の未来を担う青少年にとってきわめて危険な書物なのです。

それにもかかわらず、この小説や映画がヒットしたのは、「孫」を名乗る役だけでなく、警察官や関係者が何人も登場する劇場型の「オレオレ詐欺」と同じような構造をこの小説が持っているためでしょう。最初は距離を持って証言者たちに接していた主人公の若者・健太郎がいつの間にかこのグループの説得に取り込まれたように、読者をも引きずり込むような巧妙な仕組みをこの小説は持っているのです。

それゆえ、拙著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の第二部ではこのような『永遠の0(ゼロ)』を読み解くことによって隠された「日本会議」の思想の問題点を明らかにしようとしました。

(2016年11月4日、青い字の箇所を変更して加筆。11月28日、図版を追加)

 

 『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の目次

正岡子規の時代と現代(6)――『坂の上の雲』における「自殺戦術」の批判と徳富蘇峰の「突撃」観

「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』、拙著『新聞への思い』人文書館、190頁)

ISBN978-4-903174-33-4_xl(←画像をクリックで拡大できます)

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)

正岡子規の時代と現代(6)――『坂の上の雲』における「自殺戦術」の批判と徳富蘇峰の日本軍人観

「『司馬史観』の説得力」という論考で教育学者の藤岡信勝氏は、長編小説『坂の上の雲』では「健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」明治の人々の姿が描かれているとし、自分たちの歴史認識は「司馬史観」と多くの点で重なると誇っていました。

しかし、藤岡氏が作家の司馬遼太郎氏が亡くなった一九九六年にこの論考を発表したのは、司馬氏から徹底的に批判されることを危惧したためではないかと思われます。なぜならば、司馬氏は日本陸軍の最初の大きな戦いであり、「貧乏で世界常識に欠けた国の陸軍が、銃剣突撃の思想で攻めよう」としたために、「おもわぬ屍山血河(しざんけつが)の惨状を招くことになった」南山の激戦での攻撃を次のように描いているからです(傍点引用者、三・「陸軍」)。

「歩兵は途中砲煙をくぐり、砲火に粉砕されながら、ようやく生き残りがそこまで接近すると緻密(ちみつ)な火網(かもう)を構成している敵の機関銃が、前後左右から猛射してきて、虫のように殺されてしまう。それでも日本軍は、勇敢なのか忠実なのか、前進しかしらぬ生きもののようにこのロシア陣地の火網のなかに入ってくる。入ると、まるで人肉をミキサーにでかけたようにこなごなにされてしまう」(太字は引用者)。

以下、太平洋戦争時の「特攻隊」につながる「自殺戦術」が、『坂の上の雲』でどのように描かれているかを簡単に見たあとで、徳富蘇峰が『大正の青年と帝国の前途』で描いた「突撃」観との比較を行うことにします。

*   *

南山の激戦での日本軍の攻撃方法に注意を促していた司馬氏は、前節で見た旅順艦隊との海戦を描いた後で、旅順の要塞をめぐる死闘は「要塞の前衛基地である剣山の攻防からかぞえると、百九十一日を要し、日本側の死傷六万人という世界戦史にもない未曾有の流血の記録をつくった」と指摘しています(三・「黄塵」)。

注目したいのは、「驚嘆すべきことは、乃木軍の最高幹部の無能よりも、命令のまま黙々と埋め草になって死んでゆくこの明治という時代の無名日本人たちの温順さ」であると記した司馬氏が、「命令は絶対のものであった。かれらは、一つおぼえのようにくりかえされる同一目標への攻撃命令に黙々としたがい、巨大な殺人機械の前で団体ごと、束(たば)になって殺された」と続けていることです。

ことに後の「特攻隊」につながる決死隊が、「ようやく松樹山西方の鉄条網の線に到達したとき、敵の砲火と機関銃火はすさまじく、とくに側面からの砲火が白襷隊(しろだすきたい)の生命をかなりうばった」とされ、「三千人の白襷隊が事実上潰滅したのは、午後八時四十分の戦闘開始から一時間ほど経ってからであった」と描かれています(四・「旅順総攻撃」)。

ここで司馬氏は、「虫のように殺されてしまう」兵士への深い哀悼の念を記していましたが、実は夏目漱石も日露戦争直後の一九〇六年一月に発表した短編小説『趣味の遺伝』では、旅順での苛酷な戦闘で亡くなった友人の無念さに思いを馳せてこう描いていました*29。

「狙いを定めて打ち出す機関砲は、杖を引いて竹垣の側面を走らす時の音がして瞬(またた)く間に彼等を射殺した。殺された者が這い上がれる筈がない。石を置いた沢庵(たくあん)の如く積み重なって、人の眼に触れぬ坑内に横はる者に、向へ上がれと望むのは、望むものヽ無理である」。

しかも、この作品の冒頭近くで軍の凱旋を祝す行列に新橋駅で出会った主人公が、「大和魂を鋳固めた製作品」のような兵士たちの中に、「亡友浩さんとよく似た二十八九の軍曹」を見かける場面を描いていた漱石は、「沢庵の如く積み重なって」死んでいる友人への思いを、「日露の講和が成就して乃木大将が目出度(めでた)く凱旋しても上がる事は出来ん」と記していたのです(太字は引用者)。

このように見てくるとき、突撃の場面が何度も詳細に描かれているのは、「国家」のために自らの死をも怖れなかった明治の庶民の勇敢さや「心意気」を描くためではなく、ひとびとの平等や自由のために「国民国家」の樹立を目指した坂本竜馬たち幕末の志士たちの熱い思いと、長い歴史を経てようやく「自立」した「国民」は、いつ命令に従うだけの従順な「臣民」に堕してしまったのだろうかという重たい問いを司馬氏が漱石から受けついでいたためではないかと思われます。(『新聞への思い』、177~178頁)。

ことに主人公の苦沙弥先生に、「大和魂(やまとだましい)! と叫んで日本人が肺病みの様な咳をした」という文章で始まる新体詩を朗読させることで、「大和魂」を絶対化して「スローガン」のように用いることの危険性を指摘していた『吾輩は猫である』は、『坂の上の雲』という長編小説を考える上でも重要だと思われます。

なぜならば司馬氏は、小説の筋における時間の流れに逆行する形で、南山の激戦や旅順での白襷隊の突撃を描く前に、「太平洋戦争を指導した日本陸軍の首脳部の戦略戦術思想」を、「戦略的基盤や経済的基礎のうらづけのない、『必勝の信念』の鼓吹(こすい)や『神州不滅』思想の宣伝、それに自殺戦術の賛美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学が、軍服をきた戦争指導者たちの基礎思想のようになってしまっていた」と痛烈に批判していたからです(三・「砲火」)。

そして、『坂の上の雲』を書き終わった一九七二年に発表した「戦車・この憂鬱な乗り物」と題したエッセーで司馬氏は、「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」とした「参謀本部の思想」を厳しく批判しているのです(太字は引用者)*32。(『新聞への思い』、180~181頁)。

*   *   *

このように見てくるとき、『坂の上の雲』では「健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」明治の人々の姿が描かれているという藤岡氏の解釈が、「思い込み」に近いものであることが分かります。しかし、藤岡氏のような解釈が生じた原因は、「テキスト」に描かれている事実ではなく、「テキスト」に感情移入して「主観的に読む」ことが勧められていた日本の文学論や歴史教育にもあると思われます。

なぜならば、坂本多加雄・「新しい歴史教科書を作る会」理事も、徳富蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとし、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の現代的な意義を強調していたからです。

では、『大正の青年と帝国の前途』において「『義勇公に奉すべし』と記されている『教育勅語』を「国体教育主義を経典化した」と位置づけていた蘇峰は、どのように日露戦争の「突撃」を描いていたのでしょうか。

*   *   *

第一次世界大戦中の大正五年(一九一六)に公刊した『大正の青年と帝国の前途』において「何物よりも、大切なるは、我が日本魂也」とし、「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也」とした徳富蘇峰は、それは「君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」と説明し、さらに危険な硫化銅塊を置いても「先頭から順次に」その中に飛び込んだ「白蟻の勇敢さ」と比較すれば、「我が旅順の攻撃も」、「顔色なきが如し」とさえ書いて、集団のためには自分の生命をもかえりみない「白蟻」の勇敢さを讃えていたのです*40。

司馬氏は日露戦争以降の日本で強まった「自殺戦術の讃美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学」を『坂の上の雲』で厳しく批判していましたが、そのような思想を強烈に唱えたのが日露戦争後の蘇峰だったのです。

ここで思い起こしておきたいのは、漱石や子規の文章を「自他の環境の本質や状態をのべることもできる」と高く評価した司馬氏が、「桂月も鏡花も蘇峰も一目的にしか通用しない」と記していたことです*41。

鏡花については論じることはできませんが、旅順の攻撃で突撃する日本兵が「虫のように」殺されたと描いたとき司馬氏が、「国民」から人間としての尊厳を奪い、「臣民」として「勇敢な」白蟻のように戦うことを強いる大町桂月や徳富蘇峰の文章を考えていたことは間違いないだろうと私は考えています。

そのような蘇峰の『国民新聞』と対照的な姿勢を示したのが、子規が入社してからは俳句欄を創設していた新聞『日本』でした。(『新聞への思い』、190~191頁)。

*   *   *

追記:安倍政権による「共謀罪」の危険性

小説家の盛田隆二氏(@product1954)はツイッターで「毎日新聞【230万人はどのように戦死したのか】は必読。どの戦場でも戦死者の6~8割が「餓死」という世界でも例がない惨状。日本軍の「ブラック企業」体質は70年前から現在に一直線に繋がっている」と書いています→

戦没者と餓死者(←画像をクリックで拡大できます)

このような悲惨な太平洋戦争にも「日本会議」系の論客が評価する言論人の徳富蘇峰が、『大正の青年と帝国の前途』(大正5)で、「教育勅語」を「国体教育主義を経典化した」ものと規定し、「君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神」の必要性を分かり易く解説していたことは繋がっていると思われます。

再び、悲劇を繰り返さないためにも稲田朋美・防衛相をはじめとして多くの閣僚たちが「教育勅語」を賛美している安倍政権による「共謀罪」を成立は阻止しなければなりません。

*   *   *

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(目次

→人文書館のHPに掲載された「ブックレビュー」、『新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』

正岡子規の時代と現代(5)―― 内務官僚の文学観と正岡子規の退寮問題

「よく考えてみると、敗戦でつぶされたのは陸海軍の諸機構と内務省だけであった。追われた官吏たちも軍人だけで、内務省官吏は官にのこり、他の省はことごとく残された。/ 機構の思想も、官僚としての意識も、当然ながら残った」(『翔ぶが如く』、「書きおえて」)。

*   *   *

前回、見たように司馬氏は長編小説『翔ぶが如く』で、ドイツ帝国の宰相・ビスマルクと対談した大久保利通が「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立」しようとしたと書いていました(第1巻「征韓論」、拙著『新聞への思い』、88頁)。

実は、これに先立ち『坂の上の雲』の「日清戦争」と題した章で司馬氏は、プロシアの参謀本部方式の特徴を「国家のすべての機能を国防の一点に集中するという思想である」と説明していました。これらの文章に注目するとき、司馬氏が「明治国家」のモデルとしてのドイツ帝国の問題をいかに重視していたかが理解できます。

しかも、「日清戦争」の章の冒頭では「正岡は、毒をまきちらしている」、「正岡に与(くみ)する者はわが郷党をほろぼす者ぞ」と佃一予〔つくだかずまさ〕をリーダーとする「非文学党」といえるような一派によって子規が激しく攻撃され、明治二四年に寄宿舎から退寮させられたという出来事が描かれているのです。

*  *

「佃一予の正義は、時代の後ろ盾をもっている」という文章に注目しながら年表を調べると、この前年に渙発されていた「教育勅語」の天皇の御名・御璽に対してキリスト教の信者であった第一高等学校教師の内村鑑三が少ししか頭を下げなかったことが問題とされたいわゆる「不敬事件」がこの年の一月には起きていたのです。このことがマスコミによってひろまったために、内村は「国賊」という「レッテル」を貼られて疲弊して肺炎にかかり、つききりで看病にあたった新妻は病死し、彼も退職を余儀なくされることとなっていました。

内務官僚となった佃一予たちなどから激しく攻撃された子規が、寄宿舎から追い出されただけでなく、「常磐会給費生という名簿からも削られてしまった」という事件もこのような時代背景とも深く関わっていたのです。(『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』、75頁)。

しかも、「佃はよほど青年の文学熱がきらいだったらしく、明治三十年ごろ、常磐会寄宿舎のなかに子規のやっている俳句雑誌『ホトトギス』や小説本がまじっているというので大さわぎをし、監督内藤鳴雪を攻撃し、窮地に追い込んだ」ことを指摘した司馬氏は、『坂の上の雲』で次のように書いているのです(二・「日清戦争」)。

「(佃には――引用者注)大学に文科があるというのも不満であったろうし、日本帝国の伸長のためにはなんの役にも立たぬものと断じたかったにちがいない。…中略…この思想は佃だけではなく、日本の帝国時代がおわるまでの軍人、官僚の潜在的偏見となり、ときに露骨に顕在するにいたる」。

日露戦争の旅順の攻防に際して、「君死にたまふこと勿(なか)れ(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)」という詩を書いた与謝野晶子が批評家の大町桂月によって「国家の刑罰を加うべき罪人」とまで非難されることになることを考えるならば、この指摘は非常に重要です。(『新聞への思い』、108~109頁)。

*  *

しかも、大町桂月は、社会主義者には「戦争を非とするもの」がいたが、晶子は韻文で戦争を批判したとし、「『義勇公に奉すべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議」したと与謝野晶子を激しく非難していましたが、第一次世界大戦の時期に「国体教育主義を経典化した」『教育勅語』の精神の徹底を求めたのが、『国民新聞』社主の徳富蘇峰だったのです。

一方、作家の島崎藤村は明治学院に在学中の明治二三年から二六年までの時期を描いた自伝的な長編小説『桜の実の熟するとき』で、「日本にある基督教界の最高の知識を殆(ほと)んど網羅(もうら)した夏期学校」に参加した際に徳富蘇峰と出会ったときの感激を「京都にある基督教主義の学校を出て、政治経済教育文学の評論を興し、若い時代の青年の友として知られた平民主義者が通った」と描いていました。

実際、『将来之日本』(一八八六)において若き蘇峰は、具体的な統計資料に基づいて数字を挙げながら欧米列強における戦争や軍事費がいかに国力や民力を疲弊させてきたかを指摘し、「わが邦に流行する国権論武備拡張主義」を、「その新奇なる道理の外套を被るにもかかわらず、みなこれ陳々腐々なる封建社会の旧主義の変相に過ぎざるなり」と一刀両断に論駁して内閣批判の鋭い論陣を張っていました。

しかし、日清戦争後に欧米旅行から一八九七年に帰国して内務省勅任参事官に任じられた蘇峰は、読者からその「変節」を厳しく批判されて雑誌『国民之友』の廃刊に追い込まれると、その翌年に成立した山県内閣がすすめた大増税・軍備拡張に協力するようになったのです。さらに、『大正の青年と帝国の前途』で蘇峰は、「正直に云えば、我が青年及び少年に歓迎せらるる書籍、及び雑誌等は、半ば以上は病的文学也、不完全なる文学也」と断言し、「大正の青年諸君に向て、先づ第一に卿らの日本魂を、涵養せんと欲す」として次のように続けていたのです。

「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」。

一方、司馬氏は『子規全集』の解説「文章日本語の成立と子規」において、大町桂月や徳富蘇峰の文章と比較しながら、次のように記していました。

「文章を道具にまで還元した場合、桂月も鏡花も蘇峰も一目的にしか通用しないが、漱石や子規の文章は愚痴も表現できれば国際情勢も論ずることができ、さらには自他の環境の本質や状態をのべることもできる」(『新聞への思い』、152頁)。

子規と漱石について記されたこの言葉に留意するならば、『坂の上の雲』において述べられている歴史観が、徳富蘇峰の歴史認識と異なるばかりでなく、これを厳しく批判するものであることは明らかでしょう。

正岡子規の時代と現代(4)――明治6年設立の内務省と安倍政権下の総務省

「この時期、歴史はあたかも坂の上から巨岩をころがしたようにはげしく動こうとしている」(司馬遼太郎『翔ぶが如く』、文春文庫、第3巻「分裂」。拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』81頁))

「よく考えてみると、敗戦でつぶされたのは陸海軍の諸機構と内務省だけであった。追われた官吏たちも軍人だけで、内務省官吏は官にのこり、他の省はことごとく残された。/ 機構の思想も、官僚としての意識も、当然ながら残った」(『翔ぶが如く』、「書きおえて」)。

isbn978-4-903174-33-4_xl装画:田主 誠/版画作品:『雲』

 

正岡子規の時代と現代4――1873年(明治6年)の内務省と安倍政権下の総務省

司馬遼太郎氏は長編小説『翔ぶが如く』で、「普仏戦争」で「大国」フランスに勝利してドイツ帝国を打ち立てたビスマルクと対談した大久保利通が、「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立」しようとしたと書いていました(第1巻「征韓論」、拙著『新聞への思い』、88頁)。

これらの指摘は一見、現代の日本を考える上では参考になるとは見えません。しかし、ドイツが福島第一原子力発電所の大事故の後で、国民的な議論と民衆の「英知」を結集して「脱原発」に踏み切る英断をしたのを見て、改めて痛感したのは、ドイツ帝国やヒトラーの第三帝国の負の側面をきちんと反省していたドイツと日本との違いです。

なぜならば、敗戦70年の談話で安倍首相は、「日露戦争の勝利」を強調していましたが、ヒトラーも『わが闘争』においてフランスを破ってドイツ帝国を誕生させた普仏戦争(1870~1871)の勝利を、「全国民を感激させる事件の奇蹟によって、金色に縁どられて輝いていた」と情緒的な用語を用いて強調していたのです。

こうして、ヒトラーはドイツ民族の「自尊心」に訴えつつ、「復讐」への「新たな戦争」へと突き進んだのですが、「官の絶対的威権を確立」したドイツ帝国を模範として第三帝国を目論んだヒトラー政権は、50年足らずで崩壊した「ドイツ帝国」よりもはるかに短期間で滅んでいました。

それゆえ、敗戦後に母国だけでなくヨーロッパ全域に甚大な被害を与えたナチスドイツの問題を詳しく考察したドイツでは、「官僚」の命令に従うのではなく、原発など「国民の生命」に関わる大きな問題を国民的なレベルで議論することを学んだのだろうと思われるのです。

*   *   *

それに対して日本では、「ドイツのワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか」とヒトラーの政治手法に言及した麻生副総理の発言は内外に強い波紋を呼んだものの、集中審議開催を与党が拒否したために、国会でのきちんとした論戦もないままに終わっていました。

本場のドイツとは異なり、日本では敗戦後も「内務省のもつ行政警察力」を中心とした「プロシア風の政体」の問題や政治家や経済界の責任を明らかにしなかったために、

『新聞紙条例』(讒謗律)が発布される2年前の明治6年に設置された内務省の危険性がいまもきちんと認識されていないようです。

一方、『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬氏はナチスドイツと「昭和前期の日本」との類似性を意識しない日本の政治家の危険性を次のように厳しく批判していました。

「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒットラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか」(「『坂の上の雲』を書き終えて」)。

司馬氏のこのような問題意識は、『坂の上の雲』の終了後に書き始めた『翔ぶが如く』にも受け継がれています。

すなわち、その後書きで「土地バブル」に多くの民衆が踊らされて人々の生命をはぐくむ「大地」さえもが投機の対象とされていた時期に、「土地に関する中央官庁にいる官吏の人」から「私ども役人は、明治政府が遺した物と考え方を守ってゆく立場です」という意味のことを告げられた時の衝撃を司馬氏はこう書いているのです。

「私は、日本の政府について薄ぼんやりした考え方しか持っていない。そういう油断の横面を不意になぐられたような気がした」。

そして司馬氏は、「よく考えてみると、敗戦でつぶされたのは陸海軍の諸機構と内務省だけであった。追われた官吏たちも軍人だけで、内務省官吏は官にのこり、他の省はことごとく残された。/ 機構の思想も、官僚としての意識も、当然ながら残った」と続けていたのです(『翔ぶが如く』文春文庫、第10巻「書きおえて」)。

福島第一原子力発電所の大事故のあとで、原子力産業を優遇してこのような問題を発生させた官僚の責任が問われずに、地震大国である日本において再び国内だけでなく国外にも原発の積極的なセールスがなされ始めた時に痛感したのは「書きおえて」に記された司馬氏の言葉の重みでした。

*   *   *

それゆえ、11月28日に私は下記の文面とともに、「特定秘密保護法案に反対する学者の会」に賛同の署名を送りました。

〈「テロ」の対策を目的とうたったこの法案は、諸外国の法律と比較すると国内の権力者や官僚が決定した情報の問題を「隠蔽」する性質が強く、「官僚の、官僚による、官僚と権力者のための法案」とでも名付けるべきものであることが明らかになってきています。それゆえ私は、この法案は21世紀の日本を「明治憲法が発布される以前の状態に引き戻す」ものだと考えています。〉

特定秘密保護法案の衆議院強行採決に抗議し、ただちに廃案にすることを求めます

*   *   *

新聞報道の問題や言論の自由の問題のことを考えていたこの時期にたびたび脳裏に浮かんできたのは、郷里出身の内務省の官僚との対立から寄宿舎から追い出された後で、木曽路の山道を旅して「白雲や青葉若葉の三十里」という句を詠んだ正岡子規の姿でした。

日露戦争をクライマックスとした『坂の上の雲』では、どうしても多くの頁数が割かれている戦闘の場面の描写の印象が強くなるのですが、この後で東京帝国大学を中退して新聞『日本』の記者となった正岡子規を苦しめることになる「内務省」や新聞紙条例などの問題もこの長編小説では詳しく分析されているのです。

それゆえ、子規の叔父・加藤拓川と新聞『日本』を創刊する陸羯南との関係にも注意を払いながらこの長編小説を読み進めるとき、「写生」や「比較」という子規の「方法」が、親友・夏目漱石の文学観だけでなく、秋山真之や広瀬武夫の戦争観にも強い影響を及ぼしていることを明らかにすることができると思えたのです。

(初出、2013年11月27日~29日。改訂しリンク先を追加、2016年11月1日)

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(目次

人文書館のHPに掲載された「ブックレビュー」、新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』