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司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって(改訂版・1)

司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって(改訂版・1)

1、グローバリゼーションとナショナリズム――「司馬史観」論争と現代

2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

3,大正時代と世代間の対立――徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を中心に

4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観と『大正の青年と帝国の前途』

5、治安維持法から日中戦争へ――『大正の青年と帝国の前途』と昭和初期の「別国」への道

6、窓からの風景――「想念のなかで、子規の視線」と合わせる

7、後書きに代えて 司馬遼太郎の不安――「帝国の前途」から「日本の前途」へ

 

1,グローバリゼーションとナショナリズム――「司馬史観」論争と現代

国際政治学者のハンチントンはソ連が崩壊して、旧ユーゴスラビアなどで紛争が頻発するようになった二〇世紀末の世界を分析した大著『文明の衝突』において、「世界的にアイデンティティにたいする危機感」が噴出した結果、世界の各地で旗などの「アイデンティティの象徴」が重要な意味を持つようになり、「人びとは昔からあった旗をことさらに振りかざして行進し」、「昔ながらの敵との戦争をふたたび招くのだ」と指摘した(*1)。実際、彼の指摘を裏付けるかのように、インド・パキスタンの相次ぐ核実験やイラク戦争など、「文明の衝突」が続いて起こり、世界の各国でナショナリズムの昂揚が野火のように広がっている。

日本でも司馬遼太郎が亡くなって「司馬史観」論争が巻き起こった1996年には「『坂の上の雲』では「エリートも民衆も健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」ことが描かれているとする解釈もなされた*4。その翌年の一九九七年には、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられ、戦後の歴史教育を見直す動きが始まっていた。

こうした中、イラクへの自衛隊派遣が国会で承認されたことや二〇〇五年が日露戦争開戦百周年にあたることから、この二つの戦争を結びつけながら、日露戦争を肯定的に描いた作品として『坂の上の雲』を再評価しつつ、「教育基本法」を改正して、平成の青少年に「愛国心」や戦争への気概を求めようとする論調が強くなってきている。

たとえば、「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」というタイトルの対談で石原慎太郎・前東京都知事は、「わが国の風土が培ってきた伝統文化への愛着、歴史を担った先人への愛惜の念」や「集団としての本能に近い情念」の重要性を強調するとともに、日露戦争の勝利を「白人支配のパラダイムを最初に痛撃した」と評価しながら、「大東亜戦争」の正しさを教えられるような歴史教育の必要性を主張していた(*2)。さらに、石原氏は「もっとこの国に危機が降り積もればいいとさえ考えている」とし、「いっそ北朝鮮からテポドンミサイルが飛来して日本列島のどこかに落ちればいい。そうすれば日本人は否応もなく覚醒するでしょう」とさえ語って、戦争を煽ってさえいたのである。

たしかに『坂の上の雲』(一九六八~七二)の前半で司馬は日清戦争を考察しながら、「侵略だけが国家の欲望であった」一九世紀末において、「ナショナリズムのない民族は、いかに文明の能力や経済の能力をもっていても他民族から軽蔑され、あほうあつかいされる」と書いて、ナショナリズムを「国民国家」に必須のものとしていた(Ⅱ・「列強」)(*3)。

しかし、『坂の上の雲』の前半と同時期に、徳富蘇峰の『吉田松陰』を意識しながら『世に棲む日々』(一九六九~七〇)書いていた司馬は、史実を詳しく調べながら日露戦争を描いていく過程で、次第にナショナリズムの危険性を明らかにしていくのである(*4)。

しかも「司馬史観」は、「『明るい明治』と『暗い昭和』という単純な二項対立史観」であり、「大正史」を欠落させていると厳しく批判されることが多い(*5)。しかし、日露戦争を考察した『坂の上の雲』の後日譚ともいえるような性格をもつ『ひとびとの跫音』(一九七九~八〇)において司馬は、子規の死後養子である正岡忠三郎など大正時代に青春を過ごした人々を主人公として描いていた。

そして司馬はこの長編小説のクライマックスの一つにあたる「拓川居士」の章で、正岡子規にも大きな影響を与えた伯父・加藤恒忠(拓川、一八五九~一九二三)の「愛国心と利己心とは其心の出処も結果の利害も同様」なので、「愛国主義の発動はとかくに盗賊主義に化して外国の怨を招き」やすいと指摘した文章に注意を向けているのである。

この意味で注目したいのは、歴史家の磯田道史氏が「たった一人で日本人の歴史観を一変」させた「在野の歴史家」として頼山陽(一七八〇~一八三二)、徳富蘇峰(一八六三~一九五七)とともに司馬遼太郎(一九二三~一九九六)の名前を挙げ、戦前から戦中の日本で大きな位置を占めた蘇峰の「尊皇攘夷」の歴史観と比較しつつ、司馬が「日本人に染み付いた徳富史観を雑巾でふきとり、司馬史観で塗りなおしていった」と指摘していることである(*6)。

実際、第一次世界大戦の最中の一九一六年(大正五)に書いた大作『大正の青年と帝国の前途』で、徳富蘇峰は明治期の青年と大正期の青年を比較しながら、「此の新時代の主人公たる青年の、日本帝国に対する責任は奈何」、さらに「日本帝国の世界に於ける使命は奈何」と問いかけて、「吾人は斯の如き問題を提起して、我が大正青年の答案を求むる」と記して、「世界的大戦争」にも対処できるような「新しい歴史観」の必要性を強調していた(*7)。

ここで蘇峰が示した方向性は、大正や昭和の青年たちの教育に強い影響力を有してその後の「帝国の前途」を左右したばかりでなく、これからみていくように平成の青年たちの未来にも深く関わっているように思える。なぜならば、「はじめに」でふれたように「新しい歴史教科書を作る会」理事の坂本多加雄氏は、蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとし、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の現代的な意義を強調していたからである。

実際、「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」というタイトルの対談で石原慎太郎氏との対談を行っていた「新しい歴史教科書を作る会」第三代会長の高崎経済大学助教授・八木秀次氏は、同じ号に掲載された「今こそ”呪縛”憲法と歴史”漂流”からの決別を」という題の鼎談で、衆議院議員の安倍晋三氏やジャーナリストの櫻井よしこ氏と「改憲」への意気込みを語ってもいた*5

創刊31年を記念した『正論』のこの号には、「内閣法制局に挑んだ注目提言」も一挙掲載されていたが、「特定秘密保護法」や「安全保障関連法案」などが安倍政権によって強行採決された後では、原発だけでなく武器の輸出などが、この提言を行っていた財界の意向にそって実施されたように、平成の歴史も蘇峰が『大正の青年と帝国の前途』で示した方向性に多くの点で沿っているように見える*6

しかし、問題は蘇峰の示した歴史認識や教育観がどのような結果を招いたかを、きちんと検証することであり、さもないと日本は東条内閣の頃と同じ愚を繰り返すことになると思える。以下、本稿では蘇峰の歴史観にも注意を払いながら、大正の青年たちを主人公にした小説『ひとびとの跫音』で司馬がどのように教育の問題を考察しているかを分析したい。この作業をつうじて私たちは大正時代に生きた若者たちを主人公としたこの小説で、司馬がナショナリズムの危険性を鋭く指摘しながら、明治末期から大正を経て昭和に至る戦争への流れとその危険性を見事に描き出していることを明らかにしたい(本稿においては、歴史的な人物の敬称は略す)。

註(1)

* 1 ハンチントン『文明の衝突』、鈴木主税訳、一九九八年、集英社、一八五~六頁

* 2 石原慎太郎、『正論』二〇〇四年一一月号、産経新聞社、五八頁。

* 3 司馬遼太郎、『坂の上の雲』、文春文庫、第三巻。以下、巻数をローマ数字で、章の題名とともに本文中に記す。なお、『ひとびとの跫音』(中公文庫)も同様に記す。

* 4 高橋「司馬遼太郎の徳冨蘆花と蘇峰観――『坂の上の雲』と日露戦争をめぐって」『コンパラチオ』九州大学・比較文化研究会、第八号、二〇〇四年参照。

* 5 中村政則『近現代史をどう見るか――司馬史観を問う』岩波ブックレット、一九九七年参照。

* 6 磯田道史「日本人の良薬」『一冊の本』(二〇〇三年一〇月号)、朝日新聞社、二二~三頁。

* 7 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、六五頁。

 

*4 藤岡信勝『汚辱の近現代史』徳間書店、一九九六年、五一~六九頁。

*5 八木秀次・安倍晋三・櫻井よしこ、『正論』産経新聞社、二〇〇四年、八二~九五頁。

*6 日本経済調査協議会葛西委員会編、「内閣法制局に挑んだ注目提言」、『正論』産経新聞社、2004年、九六~一一五頁。

(青い字は、改訂版で追加した註の数字)。

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