高橋誠一郎 公式ホームページ

2016年

坂口安吾の小林秀雄観(2)――バルザック(1799~1850)の評価をめぐって

FRANCE - HONORE DE BALZAC

(Honoré de Balzac ,Louis-Auguste Bisson – Paris Musées. 図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

1932(昭和6)年10月に創刊された同人誌『文科』(~昭和7年3月)で小林秀雄や河上徹太郎とともに同人だった作家の坂口安吾が、戦後間もない1947年に著した「教祖の文学 ――小林秀雄論」で、「思うに、小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と書き、小林秀雄が「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったと厳しく批判したのはよく知られています。

しかし安吾は、その少し前に「日本は小林の方法を学んで小林と一緒に育つて、近頃ではあべこべに先生の欠点が鼻につくやうになつたけれども、実は小林の欠点が分るやうになつたのも小林の方法を学んだせゐだといふことを、彼の果した文学上の偉大な役割を忘れてはならない」とも断っていたのです。

実際、その翌年の1933年12月に発表した「『未成年』の独創性について」と題された論考で、「たうとう我慢がし切れないのでわたしは自分の実生活に於ける第一歩の記録を綴る事に決心した」という冒頭の言葉を引用した小林は、「『未成年』は全篇ドルゴルウキイといふ廿一歳の青年の手記である。彼の作品中で最も個性的な書出しで、この青年の手記は始る」ことに注意を促していました。

「告白」という文体の重要性を指摘した小林は、次のように記してドストエフスキー作品の特徴にも鋭く迫っていました〔一五〕。

「私は以前ドストエフスキイの作品の奇怪さは現実そのものの奇怪さだと書いた事があるが、彼の作品の所謂不自然さは、彼の徹底したリアリズムの結果である、この作家が傍若無人なリアリストであつたによる。外に秘密はない。さういふ信念から私は彼の作品を理解しようと努めてゐる」〔二〇〕。

相馬正一氏の『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』の巻末に付けられた略年譜によれば、安吾もこの年の9月に「文学仲間を誘ってドストエフスキー研究会を立ち上げ」ていました。同じ年に書いた「ドストエフスキーとバルザック」で、「小説は深い洞察によって初まり、大いなる感動によって終るべきものだと考えている」と書いた安吾は、「近頃は、主として、ドストエフスキーとバルザックを読んでいる」と記し、こう続けていたのです。

「バルザックやドストエフスキーの小説を読むと、人物人物が実に的確に、而して真実よりも遙かに真実ではないかと思われる深い根強さの底から行動を起しているのに驚嘆させられる」と記した安吾は、「ところが日本の文学ではレアリズムを甚だ狭義に解釈しているせいか、『小説の真実』がひどくしみったれている」。

このような安吾のバルザック観やドストエフスキー観は、この時期の小林秀雄のドストエフスキー観とも深く共鳴しているように見えます。しかし、小林秀雄は戦後の1948年11月に『創元』に掲載した「『罪と罰』についてⅡ」では、「ドストエフスキイは、バルザックを尊敬し、愛読したらしいが、仕事は、バルザックの終つたところから、全く新に始めたのである」と書き、「社会的存在としての人間といふ明瞭な徹底した考へは、バルザックによつてはじめて小説の世界に導入されたのである」が、「ドストエフスキイは、この社会環境の網の目のうちに隈なく織り込まれた人間の諸性格の絨毯を、惜し気もなく破り捨てた」と続けていました。

拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』では、バルザックの『ゴリオ爺さん』(一八三四)におけるヴォートランと若き主人公のラスティニャックとの関係とスヴィドリガイロフとラスコーリニコフとの関係を比較しました。ここでは詳しく検証する余裕はありませんが、知識人の自意識と「孤独」の問題を極限まで掘り下げたドストエフスキーは、むしろ、バルザックの「社会的存在としての人間」という考えも受け継ぎ深めることで、「非凡人の理論」の危険性などを示唆し得ていたと思われます。

この点で参考になるのが、1953年に『バルザック 人間喜劇の研究』(筑摩書房)を刊行していたフランス文学者・寺田透の考察です。寺田は1978年に刊行した『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房)の冒頭に置いた『未成年』論をこう始めていました。

「しばらく外国の文学者について長い文章を書かずにゐた。中でもドストエフスキーについては、それを正面からとりあげて論文めいたものを書いたたことがない。バルザックとの関係で、あるいはリアリズムの問題を論ずるついでにとりあげたことはあつても」。

そして、「ドストエフスキーほどにはバルザックを読まない日本の読者たちのために」、『村の司祭』などの筋を紹介しながら、ことに『浮かれ女盛衰記』のリュシアンの「操り手だった」ジャク・コランの思想と『罪と罰』のラスコーリニコフの主張との共通性を指摘した寺田は、作者の手法の違いについてこう記しているのです。

「バルザックが政治的妥協によつて解決したかに見せたところを。ドストエフスキーは、罪を犯したひとりの人間にはどう手の施しやうもない情況を作ることによつて、かれを社会と対決させ、その向うでのかれの甦生をはかつたのである」。

寺田が1978年に刊行した『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房)の冒頭に『未成年』論を置いたのは、本格的なドストエフスキー論を1933年の『未成年』論で始めながら、その後バルザックの評価を大きく変えた小林秀雄への強い批判があったからではないかと私は考えています。

実は、「教祖の文学」の直前に『書評』に掲載した「通俗と変貌と」で坂口安吾はすでにこう記していたのです。少し長くなりますが、寺田透の小林観にもつながる観察ですので引用しておきます。

「いったいこの戦争で、真実、内部からの変貌をとげた作家があったであろうか。私の知る限りでは、ただ一人、小林秀雄があるだけだ。(中略)彼はイコジで、常に傲然肩を怒らして、他に対して屈することがないように見えるけれども、実際は風にもそよぐような素直な魂の人で、実は非常に鋭敏に外部からの影響を受けて、内部から変貌しつづけた人であり、この戦争の影響で反抗や或いは逆に積極的な力の論者となり得ずに諦観へ沈みこんで行った」。

このように小林秀雄を分析した安吾は、それは「勝利の変貌であるよりも、敗北の変貌であったようだ」と結んでいました。

少し寄り道をしましたが、次回は再び1948年に行われた小林秀雄と坂口安吾との対談に戻って、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャをめぐる議論を分析することにします。

 

坂口安吾の小林秀雄観(1)――モーツァルト論とゴッホ論をめぐって

Sakaguchi_ango

(坂口安吾の写真。図版は「ウィキペディア」より)

『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房、1978年)という研究書もあるフランス文学者・寺田透(1915~1995)には、文芸評論家の小林秀雄(1902~1983)についての一連の考察があります。

たとえば、1951年に発表された「小林秀雄論」で「たしかにかれはその文体によって読者の心理のうちに生きた」と小林の強烈な文体から受けた印象を記し、「いわば若年の僕は、そういうかれの文体に鞭打たれ、薫染されたと言えるだろう」と続けた寺田は、小林の伝記的研究『モーツアルト』についてこう記しているのです。

「二つの時代が、交代しようとする過渡期の真中に生きた」モーツアルトの「使命は、自ら十字路と化す事にあった」とを規定しながら、自分自身は、「みずから現代の十字路と化すかわりに、現代の混乱と衰弱を高みから見降し」た。

そして寺田は、そのような解釈の方法は小林が「対象を自分に引きつけて問題の解決をはかる、何というか、一種の狭量の持ち主であることをも語っている」と批判していたのです。

このことについては拙論 「作品の解釈と『積極的な誤訳』――寺田透の小林秀雄観」(『世界文学』第122号、2015年)でふれていましたが、今回、相馬正一氏の『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』を読み直す中で、安吾が同じような批判を直接小林秀雄に投げかけていたことに気づきました。

評論「教祖の文学」を発表した1年後の1948年に行われた小林秀雄と坂口安吾との「伝統と反逆」と題した対談について、相馬氏は評論家の奥野健男が「真剣勝負とも形容したい名対談である」と評価していることを紹介していますが、「酒豪同士の酒席での対談」からは、時に剣戟の音が聞こえるような激しいものでした。

すなわち、すでに安吾は次のように迫っていたのです。「僕が小林さんに一番食って掛りたいのはね、こういうことなんだよ。生活ということ、ジャズだのダンスホールみたいなもの、こういうバカなものとモーツァルトとは、全然違うものだと思うんですよ。小林さんは歴史ということを言うけれども、僕は歴史の中には文学はないと思うんだ。文学というものは必ず生活の中にあるものでね、モーツァルトなんていうものはモーツァルトが生活してた時は、果して今われわれが感ずるような整然たるものであったかどうか、僕は判らんと思うんですよ」。

小林が「そう、そう。それで?」と発言を促すと、安吾は「僕が小林さんの骨董趣味に対して怒ったのは、それなんだ」といい、さらに「小林さんはモーツァルトは書いただろうけど音楽を知らんよ」と批判したのです。

これに対して「知らんさ」と答えた小林は、「僕は音楽家ではないから、僕は専門の音楽批評家と争おうとは少しも考えていなかった。そんな事は出来ない。あれは文学者の独白なのですよ。モオツァルトという人間論なのです。音楽の達人が音楽に食い殺される図を描いたのだ」と弁明していました。

そして、「今度ゴッホ書くよ。冒険することは面白い事だ」と語ると、安吾は「詰らないことだよ。あなた、画のことなんか知らんから画にぶつかるのが嶮しい道だと思ってる」と切り返し、「私はぶつかりたいのだよ」と繰り返した小林との間で次のような激しやりとりをしていたのです。

*   *   *

坂口 でも、あそこには小林秀雄の純粋性がないよ。つまり、小林がジカにぶつかっていないね。ひねくり廻してはいるが、争ってはいない。書斎の勤労はあるかも知れないが、レーゾン・デートルがあるわけじゃない。そして、何かモデルがあるよ。スタンダールとか、変テコレンなモデルがあるよ。

小林 新しい文学批評形式の創造、それがレーゾン・デートルだ。新しいモデルがなければ、新しい技術を磨く事が出来ない。新しい技術がなければ新しい思想も出て来ない。思想と技術を離すのは観念論者にまかせて置く。

坂口 しかし小林さんは文学者だからね、文学でやってくれなくちゃ。文学者がゴッホを料理するように、絵に近づこうとせずに。

*   *   *

1953年に書かれた寺田透の「ゴッホ遠望」はこの対談を踏まえて書かれていたと思われますが、そこで寺田は「批評家小林秀雄には多くのディレンマがある。そのひとつは芸術家の伝記的研究などその作品の秘密をあかすものではないと、デビュの当初から考え、…中略…それを喧伝するかれが、誰よりも余計に伝記的研究を世に送った文学評論家だということのうちに見出される」と指摘していたのです。

「ゴッホ遠望」では『ドストエフスキイの生活』という小林秀雄の伝記的な作品についてはふれられていませんが、『ドストエフスキーを讀む』を書くことになる寺田透は、このとき小林秀雄のドストエフスキー論の問題点を強く意識していたのではないかと私は考えています。ただ大きなテーマなので、この問題については稿を改めて論じることにします。

第16回国際ドストエフスキー・シンポジュウムのお知らせ(Ⅱ)

Organizing Committee of the XVI IDS Symposium より新しいサイトのお知らせが届きましたので以下に記します。

トップページの「新着情報」と「新着情報」のタイトル一覧にも掲載しました。

詳しい内容についてはリンク先で情報をご確認ください。

the new site of the Symposium:

リンク→ www.ugr.es/~feslava/ids2016/

the Cultural Program:

リンク→ http://goo.gl/NfW8gB. 

司馬遼太郎の「昭和国家」観

前回の記事で記したように、「王政復古」が宣言された一八六八年から敗戦の一九四五年までが、約八〇年であることを考えるならば、司馬氏は「明治国家」を昭和初期にまで続く国家として捉えていたといえるでしょう。

そのことを物語っていると思われる記述を引用しておきます。バルチック艦隊の派遣を検討したロシアの「宮廷会議は、当時の日本の政治家からみれば、奇妙なものであったろう。ほとんどの要人が、――艦隊の派遣は、ロシアの敗滅になる。とおもいながら、たれもそのようには発言しなかった。文官・武官とも、かれらは国家の存亡よりも、自分の官僚としての立場や地位のほうを顧慮した」と記した司馬氏はこう続けているのです(「旅順総攻撃」)。

「一九四一年、常識では考えられない対米戦争を開始した当時の日本は皇帝独裁国ではなかったが、しかし官僚秩序が老化しきっている点では、この帝政末期のロシアとかわりはなかった。対米戦をはじめたいという陸軍の強烈な要求、というより恫喝に対して、たれもが保身上、沈黙した」。

この記述を考慮するならば、旅順の激戦などの描写をとおして、司馬氏が主に考察していたのは、戦うことを決断した明治の人々の「気概」ではなく、この戦いにおけるロシアの官僚と後の日本の官僚の類似性の指摘だったといえるように思えます。

官僚が自らの「保身上、沈黙した」ために、日本は自国だけでなく他国の民衆にも莫大な被害を与えた日中戦争から太平洋戦争へと突入したのですが、安倍政権の恫喝とも思える圧力によって再び日本は同じような事態へと突き進んでいるように見えます。

司馬遼太郎の「明治国家」観

『坂の上の雲』を書き上げた翌年に書いたエッセーで司馬氏は、明治維新の担い手であった竜馬については教科書に掲載されないばかりか、海軍の創設者として再評価される一九〇七年ごろまでは、語ることも「まるでタブーのようだった」ことに注意を促しています(「竜馬像の変遷」)。

そして、竜馬がその民主主義的な思想から「乱臣賊子の一人」と見なされていた記した司馬氏は、「明治国家の続いている八〇年間、その体制側に立ってものを考えることをしない人間は、乱臣賊子」とされたと書き、「人間は法のもとに平等であるとか、その平等は天賦のものであるとか、それが明治の精神であるべき」だが、「こういう思想を抱いていた人間」は、「のちの国権的政府によって、はるか彼方に押しやられてしまった」と指摘していたのです。

ただ、司馬氏は「結局、明治国家が八〇年で滅んでくれたために、戦後社会のわれわれは明治国家の呪縛から解放された」と続けていましたが、明治が四五年で終わることを考慮するならば「明治国家」が「八〇年間」続いたという記述は間違っているように思う人は少なくないと思われます。

しかし、「王政復古」が宣言された一八六八年から敗戦の一九四五年までが、約八〇年であることを考えるならば、司馬氏は「明治国家」を昭和初期にまで続く国家として捉えていたといえるでしょう。

(『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』より抜粋)

ツィッターの開始(ユーザー名とアカウント)

3月20日からツィッターを始めました。

ようやくプロフィール欄に情報を打ち込み、リツイートをすることができるところまできました。

まだ、慣れていないので当分は発信機能とリツイートを中心に使用したいと考えています。

ユーザー名とアカウントは下記のとおりです。

リンク→高橋誠一郎 / リンク→@stakaha5

 

これまでに以下の記事とリツイートをアップしました。

新聞記者としての正岡子規(1~3)

司馬遼太郎の「明治国家」観(1~3)

安倍政権の国家観

司馬遼太郎の「昭和国家」観(1~4)

ただ、ツイッターでは少し文章を省略しましたので、「新聞記者としての正岡子規」(1~3)以外の記事は、次回以降にこのブログでもまとめて掲載します。

相馬正一著『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』(人文書館、2006年11月)

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『国家と個人――島崎藤村「夜明け前」と現代』で長編小説『夜明け前』を本格的に論じていた相馬正一氏は、それから二カ月後に発行した『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』((人文書館、2006年11月)の第5章「教祖・小林秀雄への挑戦状」では、戦後に文芸批評の「大家」として復権した文芸評論家・小林秀雄を厳しく批判していた作家・坂口安吾について詳しく考察していました。

拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』でもその文章の一部を紹介しましたが、1947年に著した「教祖の文学──小林秀雄論」で、小林秀雄を「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったときびしく批判した坂口安吾は、「思うに小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と指摘していたのです。

相馬氏はこのような安吾の小林秀雄批判が、1947(昭和22)年に行われた鼎談「現代小説を語る」『文学季刊』〈昭和22年4月、実業日本社〉での盟友・太宰治の志賀直哉批判を踏まえた上で行われていたことを第2章「小説の神様・志賀直哉批判」で明らかにしていました。

私は坂口安吾や太宰治などの研究者ではないので、ここでは彼らの小林秀雄観などに絞って本書を紹介したいと思いますが、その前にまず『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』の構成を簡単に見ておくことにします。

*   *   *

はじめに――いま、なぜ安吾なのか

一、倫理としての「堕落論」

二、小説の神様・志賀直哉批判

三、女体の神秘「白痴」の世界

四、自伝的小説という名の虚構

五、教祖・小林秀雄への挑戦状

六、「桜の森の満開の下」の手法

七、盟友・太宰治への鎮魂歌

八、純文学作家の本格推理小説

九、飛騨のタクミと魔性の美少女

十、安吾史譚・柿本人麿の虚実

十一、サスペンス・ドラマ「信長」

十二、巨漢・安吾の褌を洗う女

十三、安吾、全裸の仁王立ち

十四、未完の長篇「火」の破綻

十五、負ケラレマセン勝ツマデハ

十六、無頼派作家の変貌と凋落

十七、風雲児・安吾逝く

おわりに――詩魂と淪落と

坂口安吾・略年譜

あとがき

*   *   *

さて、平野謙の司会で行われた鼎談「現代小説を語る」には、坂口安吾の他に太宰治と織田作之助の三人が出席していました。この鼎談について相馬氏は「三人が一処に会するのはこれが初めてであった」だけでなく、その座談会から一と月後に織田が肺結核が悪化して34歳で亡くなっていることも紹介しています。

そして、「同人誌『現代文学』で安吾と仲間同士だったという気安さもあって」冒頭から挑発的な発言をした平野に太宰治が激しく反撥したことを伝えています。重要な鼎談だと思われるので、少し長く引用しておきます。

平野「大体現代文学の常識からいふと、志賀直哉の文学といふものが現代日本文学のいつとうまつたうな、正統的な文学だとされてゐる。さういふ常識からいへばここに集まつた三人の作家はさういふオーソドックスなリアリズムからはなにかデフォルメした作家たちばかりだと見られてゐるが……。」

太宰「冗談言つちゃいけないよ。」

このような太宰の反撥に共感した織田が、「志賀直哉はオーソドックスだと思つてはゐないけど、さういふものにまつり上げてしまつたんだ。オーソドックスなものに……」と批判したのを受けて、坂口が「あれを褒めた小林の意見が非常に強いのだよ」と語ると、鼎談の流れは一気に小林秀雄批判に傾いていたのです。

織田「さうさう(繰り返し記号)、小林秀雄の文章なんか読むと、一行のうちに『もつとも」といふ言葉が二つくらゐ出て来るだらう。褒めてゐるうちに褒めていることに夢中になつて、自分の理想型をつくつてゐるのだよ。志賀直哉の作品を論じてゐるのぢやない。小林の近代性が志賀直哉の中に原始性といふノスタルヂアを感じたでけで……。』

すると、坂口は「小林といふ男はさういふ男で、あれは世間的な勘が非常に強い。世間が何か気がつくといふ一歩手前に気がつく。さういふカンの良さに論理を托したところがある。だからいま昔の作家論を君たち読んでご覧なさい。実に愚劣なんだ、いまから見ると……。小林の作家論の一歩先のカンで行く役割といふものは全部終つてゐる役割だね」と語っていたのです。

私がこの書からことに強い刺激を受けたのは、この鼎談の翌年に太宰治が「如是我聞(にょぜがもん)」〈昭和23年3~7、『新潮』〉を書いて、自殺した芥川龍之介にも言及しながら「小説の神様」に収まっていた志賀直哉を徹底的に批判した文章を読んだときでした。

このエッセーを「太宰が後進に托した捨て身の〈遺書〉である」とした相馬氏は、太宰が「様々の縁故にもお許しをねがい、或いは義絶も思い設ける」覚悟で書いたこのエッセーから本書でかなり長い引用をしています。

注目したいのは、志賀を評して「も少し弱くなれ、文学者なら弱くなれ。柔軟になれ。おまえの流儀以外のものを、いや、その苦しさを解るやうに努力せよ。どうしても、解らぬならば、だまつてゐろ」と書いた太宰が、「君について、うんざりしてゐることは、もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解つてゐないことである。/日蔭者の苦悶。弱さ。聖書。生活の恐怖。敗者の祈り。/君たちには何も解らず、それの解らぬ自分を、自慢にさへしてるやうだ。そんな芸術家があるだろうか。知っているものは世知だけで、思想もなにもチンプンカンプン。開(あ)いた口がふさがらぬとはこのことである。」と書いていたことです。

そして、「腕力の強いガキ大将、お山の大将、乃木大将。…中略…売り言葉に買い言葉、いくらでも書くつもり」と宣言しておきながら、太宰はこの直後に自殺してしまったのです。

本書に掲載されている「略年譜」によれば、昭和2年に安吾は「私淑していた芥川龍之介の自殺に衝撃を受けて、自殺の誘惑に駆られ」ていました。このことを考えるならば、太宰の自殺から受けた安吾の衝撃の大きさが理解できます。

ただ、第7章「盟友・太宰治への鎮魂歌」で相馬氏は安吾が「不良とキリスト」で『斜陽』などの作品を「傑作として賞賛する一方で」、「死に近きころの太宰は、フツカヨイ的でありすぎた。毎日がいくらフツカヨイであるにしても、文学がフツカヨイじゃ、いけない」と批判的に捉えていたことも紹介しています。

明治期の『文学界』の精神的なリーダーであった北村透谷と徳富蘇峰との関係に関心を持っていた私が注目したのは、内閣情報局の主導で「日本文学報国会」(会長・徳富蘇峰)が結成された1942(昭和17)年6月に、安吾が『現代文学』第7号に「甘口辛口」と題する次のようなエッセーを発表して、国策文学を牽制していたことにも相馬氏が「あとがき」でふれていたことです。

すなわち、ここで「日本文学の確立ということは戦争半世紀以前から主要なる問題であった」と記した安吾は、「ところが戦争このかた、文学の領域では却ってこの問題に対する精彩を失い、独自なる立場を失い、人の後について行くだけが能でしかないという結果になっている」と続けていたのです。

こうして本書からはいろいろと考えさせられることがありましたが、相馬氏は「あとがき」で1948(昭和23)年10月に発表された安吾の「戦争論」にも言及していました。

原子爆弾のような人間の空想を遙かに超えた魔力が現われた以上、これからは「「戦争の力に頼ってその収穫を待つことは許されない。他の平和的方法によって、そして長い時間を期して、徐々に、然し、正確に、その実現に進む以外に方策はない」と当然の理を記した安吾は、すでにこう続けていたのです。

「今日、我々の身辺には、再び戦争の近づく気配が起りつつある。国際情勢の上ばかりではなく、我々日本人の心の中に」。

最後にこのような文筆活動を行っていた「坂口安吾の文学」の全体像を紹介した出版社の文章を引用することでこの小文を終えることにします。

 

坂口安吾の内部には、時代の本質を洞察する文明評論家と

豊饒なコトバの世界に遊ぶ戯作者とが同居しており、

それが時には鋭い現実批判となって国家権力の独善や欺瞞を糾弾し、

時には幻想的なメルヘンとなって読者を耽美の世界へと誘導する。

安吾文学の時代を超えた斬新さ、詩的ダイナミズムの文章力、

そして何よりも、奇妙キテレツな人間どもの生きざまを

面白おかしく説き明かす“語り”の巧さ、

などの魅力の秘密もそこに由来している。」

(2016年3月20日。青い字の部分を加筆)

 

小林秀雄の『夜明け前』評と芥川龍之介観

一,小林秀雄の『夜明け前』評

前回の小文で記したように、長編小説『夜明け前』を正面から論じた相馬正一氏の『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』(人文書館)からは、いろいろと教えられることが多くありました。

たとえば、「長年藤村の告白文学に馴染んできた批評家の多くは『夜明け前』をもその延長線上で捉え、父・島崎正樹をモデルにした〈私小説〉だ」と評価してきたことを紹介した相馬氏は、批評家の篠田一士が「もし世界文学というべきものが近い将来構成されるとすれば、『夜明け前』は当然、たとえば、『戦争と平和』の隣りに並ぶことになるだろう」と述べ、作家の野間宏もこの作品を「近代を超えて現代に通じるものを内に大きくかかえこんでいる」、「近代日本文学のもっとも重要な作品の一つ」と絶賛していたことにもふれています。

ここでは昭和11年に『文学界』5月号に掲載された合評会で、この作品の脚色をした村山知義の「人間が充分に描けていない」という批判に対して、小林秀雄が「人間が描けていないという様な議論もあったが、これは作者が意識して人物の性格とかを強調しなかったところからくる印象ではあるまいか」と弁護していたことも記されています。この前年の1月から『文学界』に『ドストエフスキイの生活』(~37年3月号)を連載し始めていた小林秀雄のこのような評価は客観的で『夜明け前』の意義をすでに見抜いていたことはさすがだと感じました。

ただ、相馬氏の少し踏み込みが足りないと感じたのは、この後で出席者の多くが『夜明け前』を特定のイデオロギーで意味づけようとしていたのに対して小林秀雄が、「『夜明け前』のイデオロギイという言葉自体が妙にひびくほど、この小説は詩的である。この小説に思想を見るというよりも、僕は寧ろ気質を見ると言いたい」と語って、「気質」を強調していたことが批判抜きで紹介されていたことです。

なぜならば、相馬氏は〈結、「夜明け前」と現代〉の章で、この長編小説と時代との関わりについてこう記していたからです。

「藤村が『夜明け前』第二部を発表した昭和七年から十年までは、日本が中国東北部に傀儡(かいらい)政権の〈満州国〉を造り上げて戦争へと突き進んだ時期であり、皇国史観と治安維持法を武器にして自由主義者や進歩的な学者への弾圧を強化した時期である」。

そして相馬氏は、「藤村にとっては、まさに戦前の恐怖政治を見据えての執筆だったのである」と続けていました。

長編小説『夜明け前』の合評会はこのような時期の直後の昭和11年に行われていたのですが、上海事変が勃発した1932(昭和7)年6月に雑誌『改造』に書いた評論「現代文学の不安」で、文芸評論家の小林秀雄は「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していました〔『小林秀雄全集』第1巻〕。

こうして芥川文学の意義を低める一方で、小林はドストエフスキーについては「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記し、「『憑かれた人々』は私達を取り巻いてゐる。少くとも群小性格破産者の行列は、作家の頭から出て往来を歩いてゐる。こゝに小説典型を発見するのが今日新作家の一つの義務である」と高らかに宣言していました。

執筆中の拙著『絶望との対峙――「坂の上の雲」の時代と「罪と罰」の受容』(仮題)で詳しく考察することにしますが――なお、ここで用いている「『坂の上の雲』の時代」とは、夏目漱石と正岡子規が生まれた1867年から日露戦争の終結までの時期を指しています――、私は絶望して自殺した北村透谷と同じように芥川龍之介もドストエフスキー文学の深い理解者だったと考えています。

それゆえ、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定することは、比較文明的な広い視野と文明論的な深い考察を併せ持つドストエフスキー文学をも矮小化する事にもつながっていると思えるのです。

二、小林秀雄の芥川龍之介論と徳富蘇峰の北村透谷観

一九四一年に書いた「歴史と文学」という題名の評論の第二章で小林秀雄は、「先日、スタンレイ・ウォッシュバアンといふ人が乃木将軍に就いて書いた本を読みました。大正十三年に翻訳された極く古ぼけた本です。僕は偶然の事から、知人に薦められて読んだのですが、非常に面白かつた」と、徳富蘇峰による訳書推薦の序文とともに目黒真澄の訳で出版された『乃木大将と日本人』という邦題の伝記を高く評価していました。

問題はその直後に小林が日露戦争時の乃木大将をモデルにした芥川の『将軍』にも言及して、「これも、やはり大正十年頃発表され、当時なかなか評判を呼んだ作で、僕は、学生時代に読んで、大変面白かつた記憶があります。今度、序でにそれを読み返してみたのだが、何んの興味も起こらなかつた。どうして、こんなものが出来上つて了つたのか、又どうして二十年前の自分には、かういふものが面白く思はれたのか、僕は、そんな事を、あれこれと考へました」と続け、「作者の意に反して乃木将軍のポンチ絵の様なものが出来上る」と解釈していたことです(下線引用者))。

このことについてはすでに(〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉(『全作家』第90号、2013年)で書きましたが、実はそのときに思い浮かべていたのが、明治期の『文学界』(1893年1月~1898年1月)の第2号に発表した「人生に相渉るとは何の謂ぞ」で、頼山陽を高く評価した山路愛山の史論を厳しく批判したことから徳富蘇峰の民友社からの激しい反論にあい、生活苦や論戦にも疲れて次第に追い詰められ日清戦争の直前に自殺した北村透谷と徳富蘇峰の関係のことでした。

徳富蘇峰はなぜが自殺に追い詰められたかを分析するのではなく、北村透谷や戦争中の1895年にピストル自殺した正岡子規より四歳年下の従兄弟・藤野古伯のことを念頭に、「文学界に不健全の空気充満せんとする……吾人は断然此種不健全の空気を文学界より排擠(せい)せんと欲す」と『国民新聞』で断じていたのです。

一方、先に見た昭和11年の『文学界』5月号に掲載された合評会で小林秀雄は言葉を継いで長編小説『破戒』なども視野に入れつつ、『夜明け前』をこう絶賛していました。

「作者が長い文学的生涯の果に自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしているのである。個性とか性格とかいう近代小説家が戦って来た、又藤村自身も戦って来たもののもっと奥に、作者が発見し、確信した日本人の血というものが、この小説を支配している。この小説の静かな味わいはそこから生れているのである」。

ここで小林秀雄が『夜明け前』を高く評価していることは確かです。しかし、藤村が敬愛した北村透谷と徳富蘇峰との関係をも視野に入れるならば、「日本人の血」が強調されているのを読んだ藤村は、喜多村瑞見(モデルは栗本鋤雲)の「東西文明を見据えた公平な史観」などによりながら激動の時代を描いた自作が矮小化されているとの強い不満を感じたのではないでしょうか。

おわりに――島崎藤村から坂口安吾へ

こうして、多くの知的刺激を受けた相馬氏の『国家と個人――島崎藤村「夜明け前」と現代』における小林秀雄の評価には、物足りなさと強い違和感を覚えていたのですが、その二ヶ月後に刊行された『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』(人文書館、2006年11月)を読んだ時に、その印象は一変しました。

太宰治の研究で知られる相馬氏は、太宰治の志賀直哉批判を踏まえた上で、太宰の盟友でもあった坂口安吾の厳しい小林秀雄批判にも言及していたのです。

この本については、稿を変えて紹介することにします。

リンク→相馬正一著『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』(人文書館、2006年11月)

相馬正一著『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』(人文書館、2006年)

ISBN4-903174-07-7_xl

 

五街道の一つである中山道の馬籠宿で本陣・問屋・庄屋を兼務した島崎藤村の父・正樹をモデルにした青山半蔵の悲劇を描いた『夜明け前』を相馬氏は「はじめに」でこう規定しています。

「江戸と京都の中間地点の宿場に生きる一庶民の目を通して、幕末から明治維新にかけての時代の激動期を、膨大な資料を踏まえて描き切った労作である」。

主人公・青山半蔵の人物造形については、彼が「『こう乱脈な時代になって来ると、いろいろな人が飛び出すよ。世をはかなむ人もあるし、発狂する人もある』と嘆きながらも、『まあ、賢明で迷っているよりも、愚直でまっすぐに進むんだね』と自分に言い聞かせる」ような人物として描かれていと指摘しています。

らに相馬氏は、「藤村が『夜明け前』の構想を練っていた昭和二年から、これを発表しはじめた昭和四年までの日本の政情は、藤村の父正樹の生きた明治維新初期の政情と酷似している点が多い」ことにも注意を促しているのです。

さて、本書は次のような章からなっています。

一、  「夜明け前」の性格とゾライズム
二、  幕藩体制崩壊と黒船の脅威
三、  栗本鋤雲著『匏菴十種』の翻案
四、  和宮降嫁の波紋と天狗党の義挙
五、  報復劇としての王政復古クーデター
六、  戸長罷免とお粂の自殺未遂

七、  献扇事件とその余波
八、  神官罷免と生家追放
九、  万福寺放火事件の顛末
十、  平田門下・青山半蔵の最期
結、  「夜明け前」と現代

構成からもうかがえるように、本書の特徴の一つは木曽谷住民の生活を守るために奔走した国学者の青山半蔵に焦点をあてて、幕末から明治維新にかけての激動の時期を描きながらも、半蔵の言動を静かに見つめる万福寺の松雲和尚の広い視野や藤村の師でもあった栗本鋤雲(小説では喜多村瑞見)の「東西文明を見据えた公平な史観」をとおして、半蔵の思想が相対化され客観的に描かれていることです。

半蔵の思想は国学の師匠や学友、さらには自分の弟子との関係だけでなく、義兄の思想の純粋さには同感しながらも、時勢のイデオロギーに引きずられていくことへの危惧の念も示していた妻の兄・寿平次の言動をとおして批判的にも描かれています。

島崎藤村は「田中ファシズム内閣が、〈国家〉の名において個人の言論・思想を封殺する狂気を実感しながら、『夜明け前』の執筆と取り組んでいたのである」と相馬氏は記しています。

司馬氏が「昭和初期の別国」と呼んだこのような暗い時代に、木曽路の馬篭宿を視座として黒船の来航に始まる幕末から西南戦争に至る激動の時代を見事に活写した藤村の観察力と気力には改めて感心させられます。

青山半蔵の人物造形が、北村透谷をモデルとした長編小説『春』の主人公・青木駿一が下敷きにされていることをたびたび指摘していた相馬氏は、「島崎正樹に〈青山〉姓を名告らせたのは、先に北村透谷を〈青木〉姓にしたことと無関係ではあるまい」とも記しています。

ただ、透谷を深く敬愛していた藤村は「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」とも書いていました。

このことに留意するならば、北村透谷の形象は主人公の青山半蔵のモデルとなっているだけでなく、喜多村瑞見(モデルは栗本鋤雲)の「東西文明を見据えた公平な史観」にも分与されているのではないかと私は考えています。

ともあれ、青山半蔵の人物造形と北村透谷との関係に深く踏み込んで分析しているばかりでなく、透谷と藤村におけるテーヌの〈民族・環境・時代〉の三因子の受容についても指摘しているこの著書から私は強い知的刺激を受けました。

このHPの読者の方々にも強く推薦したい著書です。

島崎藤村と司馬遼太郎――長編小説『夜明け前』をめぐって

『罪と罰』からの強い影響が指摘されている長編小説『破戒』ばかりでなく、北村透谷を中心に『文学界』の同人との交友を描いた長編小説『春』や『桜の実の熟する時』を書いた島崎藤村(1872~1943)と司馬作品との関係については、以前から気になっていました。

たとえば、島崎藤村は司馬氏が『ひとびとの跫音』でもふれている芥川龍之介の自殺から2年後の昭和4年から連載した長編小説『夜明け前』の冒頭を次のような印象的な文章で始めています。

「木曾路(きそじ)はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖(がけ)の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道(かいどう)はこの深い森林地帯を貫いていた」。

このように街道の地形を描いた藤村はこう続けて、「街道」の重要性に注意を促していました。

「この道は東は板橋(いたばし)を経て江戸に続き、西は大津(おおつ)を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの旅人は、否(いや)でも応(おう)でもこの道を踏まねばならぬ。」

一方、司馬氏は織田信長の伊賀攻略により一族を皆殺しにされ、復讐のために権力の後継者である豊臣秀吉を暗殺しようとした忍者を主人公とした『梟の城』(一九五八)の冒頭でこう描いています。

「伊賀の天は、西涯(せいがい)を山城国境い笠置の峰が支え、北涯を近江国境いの御斎(おとぎ)峠がささえる。笠置に陽が入れば、きまって御斎峠の上に雲が湧いた」。

そして司馬氏は、「(この)小盆地を、山城、伊勢、近江の四ヵ国の山がとりまき、七つの山越え道が、わずかに外界へ通じて」おり、それらの「京から発し琵琶湖東岸を通り、岐阜、駿河、小田原、鎌倉、江戸へ通じた交通路はそのまま日本史における権力争奪の往還路でもあった」と書いていたのです。

司馬氏が後に後にライフワークともいえる『街道をゆく』シリーズを書くことになることにも留意するならば、直木賞を受賞した『梟の城』の冒頭に記されたこの文章からは、『夜明け前』の文章だけでなく藤村の文明観との類似性が強く感じられるでしょう。

*   *   *

しかも、前著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)を書く中で、明治27(1894)年には正岡子規が編集主任をしていた家庭向けの新聞『小日本』第74号に北村透谷の追悼記事が掲載されていたことや透谷を尊敬していた島崎藤村が1897年に子規と会って、新聞『日本』への入社についての相談をしたばかりでなく、子規の小説についての感想も語っていたことが分かりました。

子規のことを敬愛していた司馬氏が、「私は、このひとについて、『坂の上の雲』と『ひとびとの跫音』を書いた」と書いていたことに注目するならば、子規と藤村が会っていたことの意味は大きいと思われます。

ただ、司馬氏が藤村に言及している箇所は意外に少ないのですが、このことは関心の少なさを物語るものではないでしょう。昭和初期の暗い時期に少年時代を過ごした司馬氏は、この時期を「別国」と名付けていました。このことからも想像できるように、日本から言論の自由がなくなり、戦争へと走り出していた暗い時代に、文明開化と国粋思想の間に揺れた激動の幕末から明治初期の時代を真正面から見据えて描いた長編小説『夜明け前』は、簡単に文字化することが難しいほどに司馬氏の内面にも深く関わっていると思われるのです。

この問題については、執筆中の『絶望との対峙――「坂の上の雲」の時代と「罪と罰」の受容』(仮題)で考察したいと考えていますが、次回は相馬正一氏の『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』(人文書館、2006年)を書評のページで簡単に紹介しながら、長編小説『夜明け前』の意味と司馬作品との関わりを簡単に確認することにします。

リンク→相馬正一著『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』(人文書館、2006年)