高橋誠一郎 公式ホームページ

2015年

「アベノミクス」と「年金情報流出」の隠蔽

2015年6月3日の「東京新聞」は、「個人情報約百二十五万件が外部流出した」にもかかわらず、情報の隠蔽がなされていたことを次のように伝えていました。

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「年金情報流出で国会集中審議 対応遅れ、厚労省を追及」

日本年金機構がウイルスメールによる不正アクセスを受け、個人情報約百二十五万件が外部流出した問題で、衆院厚生労働委員会は三日、集中審議を開き、野党側は「最初に不正アクセスを確認した五月八日に抜本的な対策をとっていれば、空前絶後の情報流出はなかった」などと、監督官庁の厚生労働省の責任を追及した。また塩崎恭久厚労相の責任問題について、民主党の枝野幸男幹事長は「近い将来、そういう話になる」などと言及した。国会内で記者団に述べた。

与党は当初、この日の厚労委で、労働者派遣法改正案の質疑を求めたが、情報流出の実態解明を優先すべきだとの野党の主張を受け入れた。質問した民主党の大西健介氏は「この問題で一定の対策がとられない限り、ほかの法案審議はできない」と強調。その上で最初に不正アクセスがあった五月八日から今月一日に公表されるまで三週間以上要したことについて「もっと早く公表し、注意喚起できたのではないか」とただした(後略)。

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この記事は2013年の参議院議員選挙の前に、放射能汚染水の流出の「事実」を東電社長が「3日前に把握」していたにもかかわらず、そのことが発表されたのが選挙後であったことを思い起こさせます。

こうした一連の事態は安倍政権の「隠蔽」体質を物語っていると思われ、今回の安倍政権が明治維新後に成立した「薩長独裁政権」と同様に、日本「国民」の生命や健康や生活にほとんど関心がなく、大企業と一部のお仲間の利益のみを重視しているように感じられます。

大規模な地殻変動によって国土が誕生した日本で、再び火山活動が活発化していることが指摘されているにもかかわらず、原発の推進や日本の軍国化を進めている安倍政権はきわめて危険だと思えます。

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以前に書いたように、経済学の専門家でない私が「アベノミクス」の問題点を論じても説得力は少ないだろうとの思いは強いのですが、この問題は「国民」の生活や生命にも重大な影響を及ぼすと思えます。

次の世代に対する責任を果たす上でも、これからもこのブログで指摘していきたいと考えていますので、以下にこれまでの記事のリンク先を示しておきます。

アベノミクス(経済至上主義)の問題点(1)――株価と年金2014年11月25日

「アベノミクス」と原発事故の「隠蔽」12月1日

アベノミクス(経済至上主義)の問題点(2)――原発の推進と兵器の輸出入12月3日

「アベノミクス」とルージンの経済理論12月7日(*ルージンは『罪と罰』に登場する利己的な中年の弁護士)

〈「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観〉を「主な研究」の頁に掲載

文芸評論家の小林秀雄氏は、黒澤映画《白痴》が公開されてから1年後に書き始められた『白痴』論の末尾で次のように記していました。

「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである。〈後略〉」。

「不注意な読者」という句を小林氏は以前から愛用していたが、拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』では、この表現が1951年に映画《白痴》を公開していた黒澤明監督に向けられている可能性が強いこと指摘しました。

文芸評論家の小林秀雄氏と数学者の岡潔氏との対談『人間の建設』(新潮社)からも同じような印象を受けましたので、両者の『白痴』観に絞って考察することで、小林秀雄のドストエフスキー観の問題点に迫りたいと思います。

リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

リンク→「不注意な読者」をめぐって――黒澤明と小林秀雄の『白痴』観

リンク→小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

『黒澤明 樹海の迷宮』刊行記念特別上映会のお知らせを転載

『黒澤明 樹海の迷宮』刊行記念特別上映会のお知らせを黒澤明研究会のHPより転載します。

 

日程 2015年5月31日(日)~6月4日(木)  

会場 新文芸坐(東京都豊島区東池袋1-43-5 マルハン池袋ビル3F)

「デルス・ウザーラ」公開40周年

『黒澤明 樹海の迷宮 映画「デウス・ウザーラ」全記録1971~1975』(野上照代・他著/小学館)  刊行記念特別上映会

・5/31(日) 『七人の侍』 (トークショーあり)

・6/ 1(月) 『羅生門』『醜聞(スキャンダル)』

・6/ 2(火) 『天国と地獄』『蜘蛛巣城』(トークショーあり)

・6/ 3(水) 『悪いやつほどよく眠る』『どん底』

・6/ 4(木) 『まあだだよ』『AK ドキュメント黒澤明』

映画と講演の夕べ『デルス・ウザーラ』(トークショーあり)

リンク→詳細はこちら

「黒澤明監督の倫理観と自然観」の要旨を掲載

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 はじめに――黒澤監督のドストエフスキー観と黒澤映画《夢》

ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグで「人類滅亡の悪夢」を描いていたが、今年の初めには世界が滅亡する時間を示す「終末時計」が冷戦時の1949年と同じ「残り3分」に戻ったと発表された。原水爆の問題を正面から取り上げた黒澤明監督(1910~98年)の映画《生きものの記録》(1955年)から原子力発電所事故を予告したような映画《夢》(1990年)への深まりを地球倫理の視点から考察する。

黒澤監督が映像をとおして描いたようにドストエフスキーの文明観や倫理観はきわめて深いので、『罪と罰』や『白痴』などにも簡単に言及しながら、作家を深く敬愛したソ連の映画監督タルコフスキーとの深い交友や映画《デルス・ウザーラ》をも視野に入れることにより、映画《夢》に至る黒澤監督の自然観や倫理観に迫る。

そのことにより、単に19世紀的な自然観の危険性と絶望的な状況を描くだけでなく、『罪と罰』の結末のように復活の可能性もきちんと示していた黒澤映画《夢》の素晴らしさも明らかにできるだろう。

 Ⅰ、『罪と罰』の「人類滅亡の悪夢」と映画《夢》の「赤富士」と「鬼哭」

a、広島・長崎の悲劇と核兵器の開発競争

b、長編小説『罪と罰』との出会い――キューバ危機からベトナム戦争へ

c、黒澤映画《白痴》における「復員兵」の主人公と「殺すなかれ」という倫理

、映画《生きものの記録》とその時代

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(作成:Toho Company, © 1955、図版は「ウィキペディア」より)

a、「第五福竜丸」事件と映画《生きものの記録》

b、「季節外れの問題作」

c、《Я живу в страхе(私は恐怖の中で生きている)》

d、湯川秀樹博士と文芸評論家・小林秀雄との対談をめぐって

、映画《デルス・ウザーラ》における環境倫理

a、シベリアの環境問題と映画《デルス・ウザーラ》の筋と構想

b、シベリアの環境問題と「自然支配の思想」の批判

c、ドストエフスキーの自然観とタルコフスキーの映画《惑星ソラリス》

、映画《夢》における黒澤明監督の倫理観と自然観

a、『罪と罰』における夢の考察と映画《夢》の構造

b、「やせ馬が殺される夢」と「日照り雨」「桃畑」「雪あらし」の各話

c、「死んだ老婆が笑う夢」と第四話「トンネル」の戦死した部下たちの亡霊

d、「人類滅亡の悪夢」と第六話「赤富士」・第七話「鬼哭」

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(画像はブログ「みんなが知るべき情報/今日の物語」より。http://blog.goo.ne.jp/kimito39/e/7da039753df523c21dcd451020f1e99c …

おわりに――ラスコーリニコフの「復活」と第八話「水車のある村」

資料 年表「終末時計の時刻と黒澤映画」

 

リンク→黒澤明・小林秀雄関連年表(1902~1998)

リンク→年表8,核兵器・原発事故と終末時計

(2015年5月27日、図版とリンク先を追加。2016年4月29日、改訂 )

「憲法記念日」と「子供の日」に寄せて――「積極的平和主義」と「五族協和」というスローガン

まだ福島第一原子力発電所事故も修復していないなか、汚染水は「アンダーコントロール」であると宣言した安倍政権は、日本の沖縄の民意を無視して辺野古基地の建設も強行しています。

その安倍政権は「積極的平和主義」を掲げて、憲法の改定も声高に語り始めていますが、「満州国」に深く関わった祖父の岸信介首相を尊敬する安倍氏が語る「積極的平和主義」は、「日中戦争」や「太平洋戦争」の際に唱えられた「五族協和」「王道楽土」などの「美しいスローガン」が連想されます。

すでにこのブログでも何回か触れたように「満州国」などの実態は、それらの「美しいスローガン」とは正反対のものだったのです。ただ、現在はまだ拙著の執筆に追われており、この問題についてじっくりと考える時間的な余裕がないので、ここでは、「子供の日」に寄せて――司馬遼太郎と「二十一世紀に生きる君たちへ」という題名で昨年の5月5日に書いたブログの記事の一部を改訂した上で抜粋しておきます。

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幕末の志士・坂本龍馬などの活躍で勝ち取った「憲法」の意味が急速に薄れてきているように思われます。他民族への憎しみを煽りたて、「憲法」を否定して戦争をできる国にしようとしたナチス・ドイツの政策がどのような事態を招いたかはよく知られています。悲劇を繰り返さないためにも、今日は「子供の日」ですので、司馬氏の歴史観と 「二十一世紀に生きる君たちへ」の意味を確認したいと思います。

司馬遼太郎氏との対談で作家の海音寺潮五郎氏は、孔子が「戦場の勇気」を「小勇」と呼び、それに対して「平常の勇」を「大勇」という言葉で表現していることを紹介しています。そして海音寺氏は日本には命令に従って戦う戦場では己の命をも省みずに勇敢に戦う「小勇」の人は多いが、日常生活では自分の意志に基づいて行動できる「大勇の人」はまことに少ないと語っていました(太字は引用者、『対談集 日本歴史を点検する』、講談社文庫、1974年)。

司馬氏が長編小説『竜馬がゆく』で描いた坂本竜馬は、そのような「大勇」を持って行動した「日本人」として描かれているのです。

たとえば、「時流はいま、薩長の側に奔(はし)りはじめている。それに乗って大事をなすのも快かもしれないが、その流れをすて、風雲のなかに孤立して正義を唱えることのほうが、よほどの勇気が要る」と説明した司馬氏は、竜馬に「おれは薩長人の番頭ではない。同時に土佐藩の走狗でもない。おれは、この六十余州のなかでただ一人の日本人だと思っている。おれの立場はそれだけだ」と語らせていました。(太字は引用者、五・「船中八策」)。

司馬氏が竜馬に語らせたこの言葉には、生まれながらに「日本人である」のではなく、「藩」のような狭い「私」を越えた広い「公」の意識を持った者が、「日本人になる」のだという重く深い信念が表れていると思えます。

子供たちのために書いた「二十一世紀に生きる君たちへ」という文章を再び引用すれば、「自己を確立」するとともに、「他人の痛みを感じる」ような「やさしさ」を、「訓練して」「身につけ」た者を司馬氏は「日本人」と呼んでいるのです。

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子供や孫の世代を再び他国への戦場へと送り出す間違いと悲劇を繰り返さないためにも、時代小説などで戦争を描き続けていた司馬氏の「二十一世紀に生きる君たちへ」という文章は重要でしょう。

ドストエーフスキイの会「第46回総会と227回例会のご案内」を掲載

「第46回総会と第227回例会のご案内」と「報告要旨」を「ニュースレター」(No.128)より転載します。

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下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

ご注意! 今回の会場は奥の和室です)                                     

 日 時2015516日(土)午後1時30分~5 

場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)  ℡:03-3402-7854 

 総会:午後1時30分から40分程度、終わり次第に例会

議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算などについて

 

例会報告者:樋口稲子 氏

題 目: 旧約聖書「エデンの園」と「大審問官」における「カーニバル原理」と「救済原理」―「自由」に対する観点から―

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:樋口稲子(ひぐち いねこ)

ロシア文学作品を読み始めたのはラスプーチン、パウストフスキー等の比較的現代の作家の作品からであったが、次第に古典に関心が移り、主にドストエフスキーの作品と関わるようになった。それと同時に、聖書、特に旧約の原初史に関心を持ち、広大な聖書の世界を覗いた。ドストエフスキーの作品でも『死の家の記録』は、他の作品には無い魅力を感じている。現在では、多くの作家の作品に関心を持っているが、特に、オドエフスキー、ドストエフスキー、ザミャーチンを一線上に関連付けて見ている。

 

第227回例会報告要旨

 古来より楽園と見なされてきた「エデンの園」と、「大審問官」の言説をとりあげ、「カーニバル原理」と「救済原理」の機能的内容を見ながら「自由」の問題を考察してゆく。カーニバル原理については、ミハイル・バフチンのカーニバル文学理論を適用し、キリスト教の救済原理については、プロテスタントのジョン・マーレーの救済理論を適用した。言うまでもなく、二つの原理は全く対立する原理である。さらに、バフチンは、「カーニバル理論」の一応の要件と特性の定義をしているが、どうみてもその定義には揺れがある。

「エデンの園」の物語において最も関心を引くのは、〈蛇〉の存在である。彼は、謎に満ち同時に魅力的な存在である。だが、神が万物の創造主であるならば、神の似姿を以って創られ、神の愛を他の誰よりも受けた人間が生きるエデンの園に、神に背信し人間を神に立ち向かわせる蛇が、神の被造物として何故存在するのか、こうした疑問は今までも多くの研究者の提起してきたものであった。しかも、創世記の「エデンの園」の登場人物は、アダムとイヴの関係を除けば互いに対立する存在であり、(蛇と神のように)、また、初めは神に対して従順な人物(アダムとイヴ)が蛇の唆しをきっかけに、神への反抗という背反的行動をして、そのことにより追放され、神の恩寵から離れ、異なる世界に移行することになる。エデンの園の物語は、こうした対立要素を必須要素として含有することで初めて成り立つ。こうした対立関係が生まれるための具体的な役割を持った存在が「蛇」である。もし「蛇」が存在しなければ、エデンの園の物語は成立しない。従って、人間が神の禁を破り〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べて、独立と自由を獲得するというプロセスはありえなくなる。人間の発展にとって、絶対に必要な存在である蛇は、否むべき存在として位置づけられているが、しかし、その否むべき存在が、なぜ神の言葉と真実との矛盾を知っていて、人間にその神の言葉と真実との矛盾を告げる正しき者の役割を果たしたのか、そして同時に唆しの罪を犯す役割を担わされているのか、一体「蛇」はどの様な存在として理解すればよいのか、この点については今もって謎である。

「大審問官」には、最大のカーニバル性が認められる。キリストに対して奪冠し卑俗な存在におとしめたのは、つまり、カーニバル化の立役者は大審問官なのである。これは単に彼がイエスという神の一人子に対する奪冠を行ったというのではない。彼が本当に奪冠をした相手は、キリストの神性に対して行ったのであって、それは〈神〉に対する奪冠であった。だから、キリストの卑俗化、奪冠とは結局、キリスト教と神に対する卑俗化であり、奪冠なのである。それは、公認されたものへのこの上ない挑戦である。それにもかかわらず大審問官が、微塵もひるむことなく、キリストを見据えて、堂々と語った〈背信の思想〉は人間の真実であり真理でもあった。しかも、キリスト教が抱えることの出来ない、肯定もできない、キリスト教とは対極にある真理である。大審問官は人間の真理を代表し、キリストは神の真理を代って現わそうとしている。(大審問官の物語では、メニッペアの基本的性格5の特性が濃い。)

「大審問官」には、世界を支配する二つの原理が相克するさまが描かれている。取るに足らぬ存在の真理と神の真理は、それぞれ互いに対立する極に足場を置いて、その真理の正当性を主張する。

作家にとって、我々が神の原理を取ることにも、あるいは人間の原理を取ることにも、どちらの選択をするかについて本当は無関心であろう。彼の関心は、神の原理が、キリスト教的な言い方をすれば、神の〈愛〉の原理が、彼の理論に従えば、崩壊するということにある。これは、キリスト教文明の世界が今までの価値を失う事を意味する。それを承知で、作家はこの問題を提示しないではおれなかった。何故なら、彼が自らを〈懐疑と不信の子です〉と言い、信仰の危機に到ったのは、この問題、すなわち神の原理の崩壊の可能性に気付いたからではないだろうか。この問題は、作家自身が述べているとおり一生作家を悩まし続けたに相違ない。作家の最後の作品に組み込まれた『大審問官』は作家の答えになるべく構成され、神の原理と人間の原理の相克を描いたものである。

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

講演「黒澤明監督の倫理観と自然観――映画《生きものの記録》から映画《夢》へ」に向けて

 

 5月23日(土曜)に行われる「地球システム・倫理学会」の研究例会では、「黒澤明監督の倫理観と自然観――《生きものの記録》から映画《夢》へ」という題名で講演を行います。

リンク→「地球システム・倫理学会」研究例会(5月23日)のお知らせ

講演の準備に取り組む中で黒澤明・小林秀雄関連年表にいくつかの重要な事項が抜けていたことに気づきました。「核兵器・原発事故と終末時計の年表にリンクするとともに、黒澤明・小林秀雄関連年表に下記の事項を追加しました。

また、黒澤明とタルコフスキーという二人の名監督の深い交流とその意義をめぐる堀伸雄氏のすぐれた論文が二誌に掲載されましたので*、両者の交友と作品の事項も追加しました。

リンク→年表7、黒澤明・小林秀雄関連年表(1902~1998)

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1945年 【ロックフェラー財団会長レイモンド・フォスディックが原爆投下の知らせを聞いて「私は良心の呵責に苦しんでいる」と手紙に記す】。

1962年8月 『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』、筑摩書房。(アインシュタインと共同宣言を出したラッセル卿の「まえがき」を所収)。

1965年 小林、数学者の岡潔と対談「人間の建設」(『新潮』10月号)でアインシュタインを批判。

1973年 黒澤、モスクワで映画監督タルコフスキーとともに《惑星ソラリス》を見る。

1986年 【5月 タルコフスキーの映画《サクリファイス》上映】。

 

(* 堀伸雄「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー ~『七人の侍』に始まる魂の共鳴」『黒澤明研究会誌』第32号、および「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉」『ドストエーフスキイ広場』第24号)。

「地球システム・倫理学会」例会のお知らせを「新着情報」に掲載

5月23日(土曜)に行われる「地球システム・倫理学会」の研究例会は、 「黒澤明監督の倫理観と自然観――《生きものの記録》から映画《夢》へ」という題名で行われます。

ポスターでは映画《夢》で描かれている安曇野のわさび田の清冽な水の流れをとおして黒澤監督の感性が見事に反映されています。

リンク→「地球システム・倫理学会」研究例会(5月23日)のお知らせ

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1947年に設定された「終末時計」では東西冷戦による核戦争の危機を評価の基準として「残り7分」と表示されましたが、黒澤監督も映画《生きものの記録》や映画《夢》で原水爆の危険性や原子力発電所の危険性を鋭く浮き彫りにしていました。

残念ながら、福島第一原発事故などにより悪化する地球環境問題などを踏まえて、今年の「終末時計」の表示は1949年と同じ「残り3分」にまで戻ってしまいました。

しかし、《デルス・ウザーラ》などの映画で大自然の力と美しさも描き出していた黒澤監督は、映画《夢》の最終話「水車のある村」では人類の可能性をも示唆していたのです。

 

「ロシア史関連年表」Ⅰを「年表」のページに掲載

「年表」のページに「年表1」として、「ロシア史関連年表」を掲載しました。

「キエフ・ロシアとギリシャ正教の受容」と題したⅠでは、ロ-マ帝国がキリスト教を公認した313年から、1240年のモンゴル軍によるキエフの破壊までをまとめました。