高橋誠一郎 公式ホームページ

『大正の青年と帝国の前途』

論考の題名を「司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』」に改題

「はじめに」で記したように最近の相次ぐ出版により「つくる会」が生まれた1996年が日本の歴史の大きな転換点になっていたことが明らかになりました。それゆえ、「ナショナリズムの克服――『ひとびとの跫音』考」という題名で発表し、現在は日本ペンクラブの「電子文藝館」に掲載中の論考を〈司馬遼太郎の徳富蘇峰批判――「新しい歴史教科書をつくる会」の教育観と歴史認識をめぐって〉と改めてHPに掲載してきました。

しかし、少し題名が抽象的であるばかりでなく、本稿で論じている徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』との関係は、安倍晋三氏が初代の事務局長を務め、現在は内閣総理大臣補佐官の衛藤晟一(えとうせいいち)氏が幹事長を務めている「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の方が近いと思われます。

それゆえ、題名をより内容に近づけて「司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって」と改題します。

目次

1、グローバリゼーションとナショナリズム

2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

3,大正時代と世代間の対立――徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を中心に

4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観と『大正の青年と帝国の前途』

5、治安維持法から日中戦争へ――『大正の青年と帝国の前途』と昭和初期の「別国」への道

6、窓からの風景――「国家神話をとりのけた露わな実体」への関心

7、司馬遼太郎の予感――「帝国の前途」から「日本の前途」へ

 

司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって(3)

目次

1、グローバリゼーションとナショナリズム

2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

3,大正時代と世代間の対立の考察――徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』(1916)を中心に

4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観

5、治安維持法から日中戦争へ――昭和初期「別国」の考察

6、記憶と継続――窓からの風景

7、司馬遼太郎の憂鬱――昭和初期と平成初期の類似性

 

3,大正時代と世代間の対立の考察――徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』(1916)を中心に

「丹毒」の章で司馬は、「大正デモクラシーの時代に青春を送った世代である」忠三郎とタカジを、世代論的な視点から子規の青春時代と次のように比較している。

「正岡子規のように、明治期の一ケタのころの青年が、東京にしかない大学予備門をめざして田舎から笈を負ってやってきて、自分の人生と天下国家を重ねて考えたという時代は、すでに遠くなったのである。忠三郎さんの二高入学は、大正八年であった。第一次大衆社会というべきものが現出しつつあり…中略…自分の運命と国家をかさねて考えるなど大時代な滑稽さとしてうけとられる時代がはじまって」いると指摘されていたことである。

ここで思い起こされるのは、蘇峰が第一次世界大戦中の一九一六年(大正五)に書いた『大正の青年と帝国の前途』において、明治時代の自分から「飜つて大正時代の青年を見れば、恰も金持三代目の若旦那に似たり」としていたことである(*20)。そして蘇峰は大正の青年を「されば彼等は新聞、雑誌、小冊子、講演、遊説、其他あらゆる目より入り、耳より入る学問にて一通り世間と応酬するに差支なき智識を得、且つ得つゝある也」としてその情報量の多さを指摘しつつも、「彼らに共通する特色の一は、時代と無関係なり、国家と没交渉なり。而して彼ら一切の青年を統一す可き、中心信条なく、糺合す可き、中枢心系なく、協心戮力して、大活動せしむ可き、一大根本主義なきにあり」とした(*21)。

このような時代にタカジや忠三郎は青春を送っていたのだが、司馬は「手紙のことなど」の章で、関東大震災の翌年である一九二四年(大正一三)は、「タカジが京都大学に入ったばかりの忠三郎さんあてにしばしば手紙を――富永太郎もそうだが――書いていた時期であった」とし、タカジは前々年に二高を退学して仙台を去り、東京でなすこともなく日をすごしていた」と書いていた。そして司馬は忠三郎にあてた手紙でタカジが、父から「小説家(註・タカジのいう”志望”がそれであるらしい)なんて云う物は世の中にいらん物だ」と言われたと手紙に書いていることを紹介している。

この言葉は自分は「正直に云えば、我が青年及び少年に歓迎せらるる書籍、及び雑誌等は、半ば以上は病的文学也、不完全なる文学也」と断言した蘇峰の言葉を想起させるのである(*22)。文学に夢中になって青春を過ごしていた忠三郎とタカジもまさに典型的な大正青年であり、かれらもまた徳富蘇峰的な教育観の批判の対象であったといえよう。

さらに司馬は、当時の忠三郎について富永太郎が、「独自のボヘミアン的孤立生活者のスタイルを作り出していた」と言っていたと大岡昇平から教えられたと記しているが、樋口覚は子規全集の編集に拘わっていた司馬と大岡の忠三郎への関心を「出征から帰って来て戦後に小説家になった二人それぞれが忠三郎の前半生と後半生を見ているという感じ」であるとし、司馬は富永三郎や中原中也など「詩人たちの生涯については大岡さんにおまかせして、自分はあくまで関西で知った忠三郎、詩を捨てて一般人として、一個の虚無として生きた人生に関心をもった」と説明した後でこう続けた。「つまり対象の描くべきところをそれぞれ棲み分けをしたというようなことですが、この二人にとって忠三郎の存在はそれほど大きい」(*23)。

実際、司馬はここで忠三郎がタカジだけでなく二高の同窓富永太郎からも手紙をしばしば受け取っていたことにふれて、「太郎にそれを書きつづけさせた若いころの正岡忠三郎という存在がある」とし、「太郎の場合、忠三郎さんというのは一個の巨大なふんいきで、それにくるまれてさえいれば自己を解放でき、手紙をかきつづけることによって自己が剥き身になり、意外なものを自分の中に見出すことができるという存在であったろう」と記した。

ここで注目したいのは、そのような「忠三郎さんにおける手紙の保ちのよさ」にふれつつ司馬が、「私は大正十二年に生まれたために、大正も知らぬままにその年号を半生背負ってきた。いまタカジや富永太郎や忠三郎さんのことを考えねばならない必要から、その時代の青春のにおいをむりやりに嗅ごうとしている」として、手紙に張られていた切手について次のように考察していることである。

「切手はいずれも赤地で、三銭もしくは参銭とある。切手の意匠も印刷インキもいたいたしいほどに安っぽい。『三銭』のほうは中央やや上に十六弁菊花章があり、その 両側に満開のサクラがあしらわれ、下に富士山が描かれているのは、花札の意匠に影響された感覚かもしれない」。

そして司馬は「赤っぽい花札風の切手一枚で大正期の国家や社会という巨大なものを想像することはまちがっている。ただ、(こんな切手の時代にうまれたのか)と、自分のことを思い、くびをすくめるような思いがしないでもなかった」と記して、「大正国家」の薄っぺらさに注意を促していたのである。

これに対して蘇峰は、「大正青年に愛国心の押売を試み」ようとするものではないと断りつつも(*24)、自分は「大正の青年諸君に向て、先づ第一に卿らの日本魂を、涵養せんと欲す」して、「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也。如何なる場合にも、君国を第一にし、我を第二にするの精神也」と記し、「若し日本国民にして、此の忠君愛国の精神を失墜せん乎、是れ帝国は精神的に滅亡したる也」として、「此の精神」の「涵養」と「応用」に「国民教育の要」があると主張したのである(*25)。

こうして蘇峰は「大正の青年」の教育という視点から論を展開しているのだが、興味深いのは司馬が、蘇峰と同じく「明治の青年」であった西沢隆二の父親である吉治が、軍部と結んで事業を大きくしたことについても触れることで、「大正の青年」たちが父親の世代の政治に不安を覚えた理由を記していることである(「手紙のことなど」)。

すなわち吉治は日清戦争の末期に「近衛師団に従って、酒保(日用品販売所)の業者として師団とともに渡海」し、その後この師団が「土匪討伐」などということで台湾に行くと、「台湾開発」によるセメント事業の波に乗ってまたたくまに事業を大きくしたのである。しかも、吉治は台湾の近くの無人島で燐鉱石が産出されることを知ると、明治四十年にはそこを占拠して西沢島としたが、後に清国政府から日本政府への抗議が来て、島は清国が買い取ることになったので、吉治は「投下した資本」に見合わぬ膨大な負債を背負って台湾を去ることになっていたのである。

このとき日本はペリーと同じように三隻の軍艦を背景に「砲艦外交」を行ったが、その時の委員長が軍艦「明石」の艦長である鈴木貫太郎であり、もう一人が秋山真之であった。それゆえ、このとき始まった海軍との交際から一九一四年(大正三)の第一次世界大戦を契機にふたたび吉治にチャンスが回ってくる。

すなわち、「タカジが中学校一年、忠三郎さんが二年のときに、日本が第一次大戦――日本側は日独戦争とよんでいた――に参戦し、多分に欧州のどさくさにつけ入るようなかたちで、アジアのドイツ領や権益をおさえたとき、海軍はドイツ領南洋諸島を占領した」。その中に燐鉱石が産出されるアンガウル島があったが、海軍によって「この島の開発と採掘」を命じられたのが、民間人の吉治だったのであり、「資金については、この当時、大正の船成金の象徴的人物といわれた内田信也から出た」。しかし、今度も「わが国の新領土の開発を一私人の手にゆだねていいのか」ということが帝国議会で問題となり、結局、一年で海軍省直営となったのである。

こうして挫折したかに見えた吉治の事業は、司馬が「古風な表現でいえば涜武の典型」であり、「国家的愚挙のはじまりであった」と厳しく批判したシベリア出兵(一九一八)のときにもう一度だけ希望がみえたかに思えた。すなわち、吉治はこれに乗じて「シベリア開発会社」を設立したのだが、「吉治の沿海州・樺太の夢も、反革命軍の崩壊と大正十一年の撤兵によってやぶれた」とし、「吉治の生涯は、噴火口から噴出する熱いガスのなかで熱気球を挙げようとする図に似ていた。たかく太虚に舞いあがっては、気球が破裂して墜落してゆく」と記したのである。

タカジや忠三郎たち大正の若い知識人が、海外へと「膨張」を続ける日本の将来に抱いた不安は大きかったのであり、このような時代に青春を送っていたタカジは二高を落第したのちに東京で、詩人たちの同人誌「驢馬」の会に近づき、次第に革命家へと変貌していくことになる。司馬はその変貌の過程を「阿佐ヶ谷」の章で描くことになるのだが、その前の一連の章で子規に強い影響を与えた叔父・加藤拓川と陸羯南の人物と思想に触れている。

 

註(3)

*20 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、六九頁。

*21 同上、七八~九頁。

*22 同上、二八一頁。

*23 樋口覚「歌のわかれ、英雄の陰に魅かれて」『司馬遼太郎 幕末・近代の歴史観』(『別冊文藝』)、一八三頁

*24 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、八一頁。

*25 同上、二八二~三頁。

司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって(改訂版・1)

1、グローバリゼーションとナショナリズム――「司馬史観」論争と現代

2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

3,大正時代と世代間の対立――徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を中心に

4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観と『大正の青年と帝国の前途』

5、治安維持法から日中戦争へ――『大正の青年と帝国の前途』と昭和初期の「別国」への道

6、窓からの風景――「想念のなかで、子規の視線」と合わせる

7、後書きに代えて 司馬遼太郎の不安――「帝国の前途」から「日本の前途」へ

 

1,グローバリゼーションとナショナリズム――「司馬史観」論争と現代

国際政治学者のハンチントンはソ連が崩壊して、旧ユーゴスラビアなどで紛争が頻発するようになった二〇世紀末の世界を分析した大著『文明の衝突』において、「世界的にアイデンティティにたいする危機感」が噴出した結果、世界の各地で旗などの「アイデンティティの象徴」が重要な意味を持つようになり、「人びとは昔からあった旗をことさらに振りかざして行進し」、「昔ながらの敵との戦争をふたたび招くのだ」と指摘した(*1)。実際、彼の指摘を裏付けるかのように、インド・パキスタンの相次ぐ核実験やイラク戦争など、「文明の衝突」が続いて起こり、世界の各国でナショナリズムの昂揚が野火のように広がっている。

日本でも司馬遼太郎が亡くなって「司馬史観」論争が巻き起こった1996年には「『坂の上の雲』では「エリートも民衆も健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」ことが描かれているとする解釈もなされた*4。その翌年の一九九七年には、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられ、戦後の歴史教育を見直す動きが始まっていた。

こうした中、イラクへの自衛隊派遣が国会で承認されたことや二〇〇五年が日露戦争開戦百周年にあたることから、この二つの戦争を結びつけながら、日露戦争を肯定的に描いた作品として『坂の上の雲』を再評価しつつ、「教育基本法」を改正して、平成の青少年に「愛国心」や戦争への気概を求めようとする論調が強くなってきている。

たとえば、「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」というタイトルの対談で石原慎太郎・前東京都知事は、「わが国の風土が培ってきた伝統文化への愛着、歴史を担った先人への愛惜の念」や「集団としての本能に近い情念」の重要性を強調するとともに、日露戦争の勝利を「白人支配のパラダイムを最初に痛撃した」と評価しながら、「大東亜戦争」の正しさを教えられるような歴史教育の必要性を主張していた(*2)。さらに、石原氏は「もっとこの国に危機が降り積もればいいとさえ考えている」とし、「いっそ北朝鮮からテポドンミサイルが飛来して日本列島のどこかに落ちればいい。そうすれば日本人は否応もなく覚醒するでしょう」とさえ語って、戦争を煽ってさえいたのである。

たしかに『坂の上の雲』(一九六八~七二)の前半で司馬は日清戦争を考察しながら、「侵略だけが国家の欲望であった」一九世紀末において、「ナショナリズムのない民族は、いかに文明の能力や経済の能力をもっていても他民族から軽蔑され、あほうあつかいされる」と書いて、ナショナリズムを「国民国家」に必須のものとしていた(Ⅱ・「列強」)(*3)。

しかし、『坂の上の雲』の前半と同時期に、徳富蘇峰の『吉田松陰』を意識しながら『世に棲む日々』(一九六九~七〇)書いていた司馬は、史実を詳しく調べながら日露戦争を描いていく過程で、次第にナショナリズムの危険性を明らかにしていくのである(*4)。

しかも「司馬史観」は、「『明るい明治』と『暗い昭和』という単純な二項対立史観」であり、「大正史」を欠落させていると厳しく批判されることが多い(*5)。しかし、日露戦争を考察した『坂の上の雲』の後日譚ともいえるような性格をもつ『ひとびとの跫音』(一九七九~八〇)において司馬は、子規の死後養子である正岡忠三郎など大正時代に青春を過ごした人々を主人公として描いていた。

そして司馬はこの長編小説のクライマックスの一つにあたる「拓川居士」の章で、正岡子規にも大きな影響を与えた伯父・加藤恒忠(拓川、一八五九~一九二三)の「愛国心と利己心とは其心の出処も結果の利害も同様」なので、「愛国主義の発動はとかくに盗賊主義に化して外国の怨を招き」やすいと指摘した文章に注意を向けているのである。

この意味で注目したいのは、歴史家の磯田道史氏が「たった一人で日本人の歴史観を一変」させた「在野の歴史家」として頼山陽(一七八〇~一八三二)、徳富蘇峰(一八六三~一九五七)とともに司馬遼太郎(一九二三~一九九六)の名前を挙げ、戦前から戦中の日本で大きな位置を占めた蘇峰の「尊皇攘夷」の歴史観と比較しつつ、司馬が「日本人に染み付いた徳富史観を雑巾でふきとり、司馬史観で塗りなおしていった」と指摘していることである(*6)。

実際、第一次世界大戦の最中の一九一六年(大正五)に書いた大作『大正の青年と帝国の前途』で、徳富蘇峰は明治期の青年と大正期の青年を比較しながら、「此の新時代の主人公たる青年の、日本帝国に対する責任は奈何」、さらに「日本帝国の世界に於ける使命は奈何」と問いかけて、「吾人は斯の如き問題を提起して、我が大正青年の答案を求むる」と記して、「世界的大戦争」にも対処できるような「新しい歴史観」の必要性を強調していた(*7)。

ここで蘇峰が示した方向性は、大正や昭和の青年たちの教育に強い影響力を有してその後の「帝国の前途」を左右したばかりでなく、これからみていくように平成の青年たちの未来にも深く関わっているように思える。なぜならば、「はじめに」でふれたように「新しい歴史教科書を作る会」理事の坂本多加雄氏は、蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとし、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の現代的な意義を強調していたからである。

実際、「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」というタイトルの対談で石原慎太郎氏との対談を行っていた「新しい歴史教科書を作る会」第三代会長の高崎経済大学助教授・八木秀次氏は、同じ号に掲載された「今こそ”呪縛”憲法と歴史”漂流”からの決別を」という題の鼎談で、衆議院議員の安倍晋三氏やジャーナリストの櫻井よしこ氏と「改憲」への意気込みを語ってもいた*5

創刊31年を記念した『正論』のこの号には、「内閣法制局に挑んだ注目提言」も一挙掲載されていたが、「特定秘密保護法」や「安全保障関連法案」などが安倍政権によって強行採決された後では、原発だけでなく武器の輸出などが、この提言を行っていた財界の意向にそって実施されたように、平成の歴史も蘇峰が『大正の青年と帝国の前途』で示した方向性に多くの点で沿っているように見える*6

しかし、問題は蘇峰の示した歴史認識や教育観がどのような結果を招いたかを、きちんと検証することであり、さもないと日本は東条内閣の頃と同じ愚を繰り返すことになると思える。以下、本稿では蘇峰の歴史観にも注意を払いながら、大正の青年たちを主人公にした小説『ひとびとの跫音』で司馬がどのように教育の問題を考察しているかを分析したい。この作業をつうじて私たちは大正時代に生きた若者たちを主人公としたこの小説で、司馬がナショナリズムの危険性を鋭く指摘しながら、明治末期から大正を経て昭和に至る戦争への流れとその危険性を見事に描き出していることを明らかにしたい(本稿においては、歴史的な人物の敬称は略す)。

註(1)

* 1 ハンチントン『文明の衝突』、鈴木主税訳、一九九八年、集英社、一八五~六頁

* 2 石原慎太郎、『正論』二〇〇四年一一月号、産経新聞社、五八頁。

* 3 司馬遼太郎、『坂の上の雲』、文春文庫、第三巻。以下、巻数をローマ数字で、章の題名とともに本文中に記す。なお、『ひとびとの跫音』(中公文庫)も同様に記す。

* 4 高橋「司馬遼太郎の徳冨蘆花と蘇峰観――『坂の上の雲』と日露戦争をめぐって」『コンパラチオ』九州大学・比較文化研究会、第八号、二〇〇四年参照。

* 5 中村政則『近現代史をどう見るか――司馬史観を問う』岩波ブックレット、一九九七年参照。

* 6 磯田道史「日本人の良薬」『一冊の本』(二〇〇三年一〇月号)、朝日新聞社、二二~三頁。

* 7 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、六五頁。

 

*4 藤岡信勝『汚辱の近現代史』徳間書店、一九九六年、五一~六九頁。

*5 八木秀次・安倍晋三・櫻井よしこ、『正論』産経新聞社、二〇〇四年、八二~九五頁。

*6 日本経済調査協議会葛西委員会編、「内閣法制局に挑んだ注目提言」、『正論』産経新聞社、2004年、九六~一一五頁。

(青い字は、改訂版で追加した註の数字)。

「安倍談話」と「立憲政治」の危機(2)――日露戦争の賛美とヒトラーの普仏戦争礼賛

「終戦70年」の節目に当たる今年の8月に発表された「安倍談話」で、「二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます」と語り始めた安倍晋三氏は、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と終戦よりもさらに40年も前の「日露戦争」の勝利を讃えていました。

この文章を目にした時には、思わず苦笑してしまいましたが、それはここで語られた言葉が、1996年に司馬遼太郎氏が亡くなった後で勃発した、いわゆる「司馬史観」論争に際して、「戦う気概」を持っていた明治の人々が描かれている『坂の上の雲』のような歴史観が日本のこれからの歴史教育には必要だとするキャンペーンときわめて似ていたからです。

たとえば、本ブログでもたびたび言及した思想家の徳富蘇峰は、『大正の青年と帝国の前途』において「愛国心」を強調することによって「臣民」に犠牲を強いつつ軍国主義に邁進させていましたが、「大正の青年」の分析に注目した「新しい歴史教科書を作る会」理事の坂本多加雄氏は、「公的関心の喪失」という明治末期の状況が、「『英雄』観念の退潮と並行している」ことを蘇峰が指摘し得ていたとして高く評価していたのです(*1)。

そして、蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとした坂本氏は、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の意義を強調したのです。

このような蘇峰の歴史観を再評価しようとする流れの中で、日露戦争をクライマックスとした『坂の上の雲』でも、「エリートも民衆も健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」ことが描かれているとする解釈も出てきていていました(*2)。

このような歴史の見直しの機運に乗じて、司馬遼太郎氏が亡なられた翌年の1997年には、安倍晋三氏を事務局長として「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられていたのです。

*   *   *

しかし、気を付けなければならないのは、かつて勝利した戦争をどのように評価するかが、その国の将来に強い影響を与えてきたことです。たとえば、ロシアの作家トルストイが、『戦争と平和』で描いた、「大国」フランスに勝利した1812年の「祖国戦争」の勝利は、その後の歴史家などによってロシア人の勇敢さを示した戦争として讃美されることも多かったのです。

第一次世界大戦での敗戦後にヒトラーも、『わが闘争』において当時の小国プロシアがフランスを破ってドイツ帝国を誕生させた普仏戦争(1870~1871)の勝利を、「全国民を感激させる事件の奇蹟によって、金色に縁どられて輝いていた」と情緒的な用語を用いて強調し、ドイツ民族の「自尊心」に訴えつつ、「新たな戦争」への覚悟を国民に求めていました。

一方、日本でもイラクへの自衛隊派遣が国会で承認されたことや二〇〇五年が日露戦争開戦百周年にあたることから、日露戦争を讃美することで戦争への参加を許容するような雰囲気を盛り上げようとして製作しようとしたのが、NHKのスペシャルドラマ《坂の上の雲》でした*3。

残念ながら、このスペシャルドラマが3年間にわたって、しかもその間に財界人岩崎弥太郎の視点から坂本龍馬を描いた《龍馬伝》を放映することで、戦争への批判を和らげたばかりでなく、武器を売って儲けることに対する国民の抵抗感や危機感を薄めることにも成功したようです。

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》と「武器輸出三原則」の見直し

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性

こうしてNHKを自民党の「広報」的な機関とすることに成功した安倍政権が、戦後70年かけて定着した「日本国憲法」の「平和主義」だけではなく、「立憲主義」や「民主主義」をも制限できるように「改憲」しようとして失敗し、取りあえず「解釈改憲」で実施しようとして強硬に「戦争法案」を可決したのが「9.17事変」*4だったのです。

 

*1 坂本多加雄『近代日本精神史論』講談社学術文庫、1996年、129~136頁。

*2 藤岡信勝『汚辱の近現代史』徳間書店、1996年、51~69頁。

*3 石原慎太郎・八木秀次「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」『正論』、2004四年11月号、産経新聞社。

*4 この用語については、〈リメンバー、9.17 ――「忘れる文化」と記憶の力〉参照)。

武藤貴也議員の発言と『永遠の0(ゼロ)』の歴史認識・「道徳」観

自民党の武藤貴也衆院議員(36才)がツイッターで、「自由と民主主義のための学生緊急行動(SEALDs=シールズ)」の行動を「極端な利己的な考え」と非難していたことが判明しました。

「毎日新聞」のデジタル版は村尾哲氏の署名入りで次のように報じています(太字は引用者)。

*   *

武藤氏は「彼ら彼女らの主張は『戦争に行きたくない』という自己中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまでまん延したのは戦後教育のせいだろうが、非常に残念だ」と書き込んだ。

民主党の枝野幸男幹事長は3日、記者団に「自分が戦争に行きたくない、みたいなレベルでしか受け止めておらず、法案の問題や本質を理解していない。戦後の平和主義、民主主義が積み重ねられてきた歴史に、全く目が向いていない」と追及する考えを示した。維新の党の柿沢未途幹事長も「権力を持っている政党の所属議員として、もってのほかの発言だ」と批判した。

*   *

安全保障関連法案について「法的安定性は関係ない」と発言した礒崎陽輔首相補佐官の場合と同じように問題は、「表現」レベルにとどまるものではなく、より深く「歴史認識」にも関わっているでしょう。

端的に私の感想を記せば、作家の百田尚樹氏を講師として招いた自民党若手の勉強会「文化芸術懇話会」にも出席していた武藤議員の発言からは、小説『永遠の0(ゼロ)』からの強い影響が見られることです。

なぜならば第7章「狂気」で百田氏は戦時中に小学校の同級生の女性と結婚した特攻兵の谷川に、戦場で命を賭けて戦っていた自分たちと日本国内で暮らしていた住民を比較して、「戦争が終わって村に帰ると、村の人々のわしを見る目が変わっていた」と語らせ、「昨日まで『鬼畜米英』と言っていた連中は一転して『アメリカ万歳』と言っていた。村の英雄だったわしは村の疫病神になっていたのだ」という激しい怒りの言葉を吐かせていました。

ここには現実認識の間違いや論理のすり替えがあり、「一億玉砕」が叫ばれた日本の国内でも学生や主婦に竹槍の訓練が行われ、彼らは大空襲に襲われながら生活していたのです。

また「鬼畜米英」というような「憎悪表現」を好んで用いていたのは、戦争を煽っていた人たちで一般の国民はそのような表現に違和感を覚えながら、処罰を恐れて黙って従っていたと思われます。映画《少年H》でも描かれていたように、戦後になると一転して「アメリカ万歳」と言い始めたのも庶民ではなく、「時流」を見るのに敏感な政治家たちだったのです。

しかし、百田氏は谷川に「戦後の民主主義と繁栄は、日本人から『道徳』を奪った――と思う。/ 今、街には、自分さえよければいいという人間たちが溢れている。六十年前はそうではなかった」と語らせているのです。

この記述と「利己的個人主義がここまでまん延したのは戦後教育のせいだろう」という武藤議員の発言に強い類似性を感じるのは私だけでしょうか。

安倍政権は「積極的平和主義」を掲げて、憲法の改定も声高に語り始めていますが、「満州国」に深く関わった祖父の岸信介首相を尊敬する安倍氏が語る「積極的平和主義」からは、「日中戦争」や「太平洋戦争」の際に唱えられた「五族協和」「王道楽土」などの「美しいスローガン」が連想されます。

いまだに『永遠の0(ゼロ)』を反戦小説と弁護している人もいるようですが、この小説や共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』に影響を受けた若者からは、「白蟻」のように勇敢に戦死することを求める一方で*1、戦争の批判者を「非国民」としていた戦前の教育や言論弾圧を当然視するかのような発言を公然と行う武藤氏のような議員が育っているのです*2

武藤議員は衆院平和安全法制特別委員会のメンバーでもあったとのことですが、礒崎陽輔首相補佐官が作成に深く関わり、武藤議員のような自民党の議員によって強行採決された「安全保障関連法案」は、廃案とすべきでしょう。

*   *

*1 『国民新聞』の社主・徳冨蘇峰は、第一次世界大戦中の大正5年に発行した『大正の青年と帝国の前途』において、白蟻の穴の前に危険な硫化銅塊を置いても「先頭から順次に」その中に飛び込み、「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」として、自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを褒め称えていた。

さらに、敗色が濃厚になった1945年に著した「西南の役(二)――神風連の事変史」で、「大東亜聖戦の開始以来、わが国民は再び尊皇攘夷の真意義を玩味するを得た」とした蘇峰は、神風連の乱を「この意味から見れば、彼らは頑冥・固陋でなく、むしろ先見の明ありしといわねばならぬ」と高く評価した。

*2 武藤貴也「日本国憲法によって破壊された日本人的価値観」より

「最近考えることがある。日本社会の様々な問題の根本原因は何なのかということを」と切り出した後藤氏は、「憲法の『国民主権・基本的人権の尊重・平和主義』こそが、「日本精神を破壊するものであり、大きな問題を孕んだ思想だと考えている」とし、「滅私奉公」の重要性を次のように説いている。

〈「基本的人権」は、戦前は制限されて当たり前だと考えられていた。…中略…国家や地域を守るためには基本的人権は、例え「生存権」であっても制限されるものだというのがいわば「常識」であった。もちろんその根底には「滅私奉公」と いう「日本精神」があったことは言うまでも無い。だからこそ第二次世界大戦時に国を守る為に日本国民は命を捧げたのである。しかし、戦後憲法によってもたらされたこの「基本的人権の尊重」という思想によって「滅私奉公」の概念は破壊されてしまった。〉   武藤貴也/オフィシャルブログ(2012年7月23日)

 

リンク→安全保障関連法案」の危険性と小説『永遠の0(ゼロ)』の構造

リンク→「安全保障関連法案」の危険性(4)――対談『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』

リンク→歪められた「司馬史観」――――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(11)

(2015年8月5日、注を追加し、題名を変更)

歪められた「司馬史観」――――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(11)

前回の記事では、『永遠の0(ゼロ)』の第10章「阿修羅」と映画《紅の豚》で描かれた空中戦のシーンとを比較することにより、「豚のポルコ」と宮部との類似性を示すとともに、作品に描かれている女性たちと主人公との関係が正反対であることを指摘しました。

同じようなことが、いわゆる「司馬史観」との関係でも言えるようです。

*   *

宮崎駿監督が「書生」として司会を務めた鼎談集『時代の風音』(朝日文庫、1997)で司馬氏は、20世紀の大きな特徴の一つとして「大量に殺戮できる兵器を、機関銃から始まって最後に核まで至るもの」を作っただけでなく、「兵器は全部、人を殺すための道具ながら、これが進歩の証(あかし)」とされてきたことを厳しく批判していました(「二十世紀とは」)。

しかし、このような司馬氏の深い歴史観は、『永遠の0(ゼロ)』では矮小化された形で伝えられているのです。

*   *

第7章「狂気」では慶子が、「私、太平洋戦争のことで、いろいろ調べてみたの。それで、一つ気がついたことがあるの」と弟に語りかけ、「海軍の長官クラスの弱気なことよ」と告げる場面が描かれています。

さらに慶子は「これは私の個人的意見だけど」と断りながら、「もしかしたら、彼らの頭には常に出世という考えがあったような気がしてならないの」と語り、「出世だって――戦争しながら?」と問われると、「穿ちすぎかもしれないけど、そうとしか思えないフシがありすぎるのよ」と答えています。

その答えを聞くと「ぼくは心の中で唸った。姉の意外な知識の豊富さにも驚かされたが、それ以上に感心したのが、鋭い視点だった」と書かれています。

その言葉を裏付けるかのように、慶子はさらに「つまり試験の優等生がそのまま出世していくのよ。今の官僚と同じね」と語り、「ペーパーテストによる優等生」を厳しく批判しているのです。

*   *

慶子は「これは私の個人的意見だけど」と断っていましたが、いわゆる「司馬史観」をめぐって行われた論争に詳しい人ならば、これが司馬氏の官僚観を抜き出したものであることにすぐ気づくと思います。

すなわち、軍人や官吏が「ペーパーテストによって採用されていく」、「偏差値教育は日露戦争の後にもう始まって」いたとした司馬氏は、「全国の少年たちからピンセットで選ぶようにして秀才を選び、秀才教育」を施したが、それは日露戦争の勝利をもたらした「メッケルのやり方を丸暗記」してそれを繰り返したにすぎないとして、創造的な能力に欠ける昭和初期の将軍たちを生み出した画一的な教育制度や立身出世の問題点を厳しく批判していたのです(「秀才信仰と骨董兵器」『昭和という国家』)。

つまり、「ぼく」が「心の中で唸った」「鋭い視点」は、姉・慶子の視点ではなく、作家・司馬遼太郎氏の言葉から取られていたのです。

*   *

『永遠の0(ゼロ)』では姉・慶子の言葉を受けて、「ぼく」は次のような熱弁をふるいます。

「高級エリートの責任を追及しないのは陸軍も同じだよ。ガダルカナルで馬鹿げた作戦を繰り返した辻政信も何ら責任を問われていない。…中略…ちなみに辻はその昔ノモンハンでの稚拙な作戦で味方に大量の戦死者を出したにもかかわらず、これも責任は問われることなく、その後も出世しつづけた。代わって責任は現場の下級将校たちが取らされた。多くの連隊長クラスが自殺を強要されたらしい」(371頁)。

さらに、姉の「ひどい!」という言葉を受けて「ぼく」は、「ノモンハンの時、辻らの高級参謀がきちんと責任を取らされていたら、後のガダルカナルの悲劇はなかったかもしれない」と続けています。

*   *

実はこの記述こそは作家の司馬氏が血を吐くような思いで調べつつも、ついに小説化できなかった歴史的事実なのです。

「私は小説にするつもりで、ノモンハン事件のことを徹底的に調べたことがある」と記した司馬氏は、連隊長として戦闘に参加した須見新一郎元大佐の証言をとおして、「敗戦の責任を、立案者の関東軍参謀が取るのではなく」、貧弱な装備で戦わされ勇敢に戦った「現場の連隊長に取らせている」と指摘し、「天幕のなかにピストルを置いて、暗に自殺せよと命じた」ことを作家・井上ひさし氏との対談で紹介していたのです(『国家・宗教・日本人』)。

司馬氏が心血を注いで構想を練っていたこの長編小説は、取材のために、商事会社の副社長となり政財界で大きな影響力を持つようになっていた元大本営参謀の瀬島龍三氏との対談を行ったことから挫折していました。

この対談記事を読んだ須見元連隊長は、「よくもあんな卑劣なやつと対談をして。私はあなたを見損なった」、「これまでの話した内容は使ってはならない」との激しい言葉を連ねた絶縁状を司馬氏に送りつけたのです(半藤一利「司馬遼太郎とノモンハン事件」)。

リンク→《風立ちぬ》論Ⅳ――ノモンハンの「風」と司馬遼太郎の志(2013年10月6日 )

*   *

問題は、このような姉・慶子の変化や「ぼく」の参謀観が新聞記者の高山隆司と「一部上場企業の社長まで務めた」元海軍中尉の武田貴則との対決が描かれている第9章の前に描かれているために、「私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と決めつけた武田の次のような言葉を正当化してしまっていることです。すでにこのブログでも記しましたが、重要な箇所なのでもう一度、引用しておきます。

「日露戦争が終わって、ポーツマス講和会議が開かれたが、講和条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った。国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった…中略…反戦を主張したのは德富蘇峰の国民新聞くらいだった。その国民新聞もまた焼き討ちされた。」

しかし、「戦時中の言論統一と予」と題した節で德富蘇峰は、「予の行動は、今詳しく語るわけには行かぬ」としながらも、戦時中には戦争を遂行していた桂内閣の後援をして「全国の新聞、雑誌に対し」、内閣の政策の正しさを宣伝することに努めていたと書いていました(徳富蘇峰『蘇峰自伝』中央公論社、1935年)。

つまり、思想家・德富蘇峰の『国民新聞』が「焼き討ち」されたのは彼が「反戦を主張した」からではなく、最初は戦争を煽りつつ、戦争の厳しい状況を知った後ではその状況を隠して「講和」を支持し、「内閣の政策の正しさを宣伝」したからであり、その「御用新聞」的な性格に対して民衆が怒りの矛先を向けたからだったのです。

*   *

司馬氏は日露戦争以降の日本で強まった「自殺戦術とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学」を長編小説『坂の上の雲』で厳しく批判していました。

そのような哲学を広めた代表的な思想家の一人が、『国民新聞』の社主でもあった徳富蘇峰でした。彼は第一次世界大戦中に書いた『大正の青年と帝国の前途』においては白蟻の穴の前に危険な硫化銅塊を置いても、白蟻が「先頭から順次に其中に飛び込み」、その死骸でそれを埋め尽し、こうして「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」と記すようになります。

こうして蘇峰は、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを大正の青年が持つように教育すべきだと説いていたのですが、作家の司馬遼太郎氏が亡くなられた後で起きた1996年の「司馬史観」論争の後では『坂の上の雲』を「戦争の気概」を持った明治の人々を描いた歴史小説と矮小化する解釈が広まりました。

ことに、その翌年に安倍晋三氏を事務局長とする「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられると、戦後の歴史教育を見直す動きが始まったのです。

安倍首相が母方の祖父にあたる元高級官僚の岸信介氏を深く尊敬し、そのような政治家を目指していることはよく知られていますが、厳しい目で見ればそれは戦前の日本を「美化」することで、祖父・岸信介氏やその「お友達」に責任が及ぶことを逃れようとしているようにも見えます。

安倍氏は百田氏との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)に収録されている対談で、『永遠の0(ゼロ)』にも「他者のために自分の人生を捧げる」というテーマがあると賞賛していました(58頁)。安倍首相と祖父・岸信介氏との関係に注目しながら百田氏の『永遠の0(ゼロ)』を読むと、「戦争体験者の証言を集めた本」を出すために、特攻隊員として死んだ実の祖父のことを知る「当時の戦友たち」をたずねて取材する姉・慶子の仕事を手伝うなかで変わっていく「ぼくの物語」は、安倍首相の思いと不思議にも重なっているようです。

百田氏は安倍首相との共著で、「安倍総理も先ほどおしゃっていたように、この本を読んだことによって、若い人が日本の歴史にもう一度興味を持って触れてくれることが一番嬉しいですね」と自著を誇っています(67頁)。

しかし、この『永遠の0(ゼロ)』で主張されているのは、巧妙に隠蔽されてはいますが、青年たちに白蟻のような勇敢さを持たすことを説いた徳富蘇峰の歴史観だと思われるのです。

*   *

「司馬史観」論争の際には『坂の上の雲』も激しい毀誉褒貶の波に襲われましたが、褒める場合も貶(けな)す場合も、多くの人が文明論的な構造を持つこの長編小説の深みを理解していなかったように思えます。

前著『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年)では、司馬氏の徳冨蘆花観に注目しながら兄蘇峰との対立にも注意を払うことで『坂の上の雲』を読み解く試みをしました。

たいへん執筆が遅れていますが、近著『司馬遼太郎の視線(まなざし)――子規と「坂の上の雲」と』(仮題、人文書館では、今回は「文明史家」とも呼べるような広い視野と深い洞察力を持った司馬遼太郎氏の視線をとおして、主要登場人物の一人であり、漱石の親友でもあった新聞記者・正岡子規が『坂の上の雲』において担っている働きを読み解きたいと考えています。

(1月18日、濃紺の部分を追加し改訂)

 

「戦争の批判」というたてまえ――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(5)

『永遠の0(ゼロ)』についてのブログ記事を書き始めてから、太平洋戦争を批判的に考えている人でもこの本を評価している読者が少なくないことに気づきました。

たとえば、『マガジン9』のスタッフの寺川薫氏は、〈どうしても違和感を覚えてしまう『永遠の0』への「戦争賛美」批判〉という題名の「コラム」で、ツイッターなどで「憎悪表現」を多用する百田氏とその作品とは区別すべきであるとし、「対話」の必要性を強調しています。

〈私は小説を読み終えたとき「この作品のどこが戦争賛美、特攻隊賛美なのだろう」と素直に疑問を感じました。以下に記す旧日本軍上層部に対する批判や、特攻という作戦そのものへの批判などをしっかりと書き込んでいるだけでも、少なくとも「戦争賛美」や「特攻賛美」と本作を切り捨てるのは間違いだと思います。〉

2014年3月14日付けの記事ですので、すでに見解は変わっているかもしれませんが、「人を信じたい」という思いが率直に記されている文章だと思います。しかし、それゆえに小説『永遠の0(ゼロ)』の構造に惑わされているとも感じました。

「オレオレ詐欺」の場合は、少なくとも数日中には、被害者がだまされていたことを分かると思います。一方、「五族協和」「八紘一宇」などの「美しい神話」が語られていた「昭和国家」では、敗戦になるまで多くの「国民」がそれを信じ込まされていたのです。

そのような「神話」を支える「美しい物語」と同じような働きをしている『永遠の0(ゼロ)』を讃えることは、意図せずに人々を「戦争」へと導く働きに荷担してしまう危険性がありますので少し長くなりますが、この文章を詳しく検証することで問題点に迫りたいと思います。

*   *

  「『永遠の0』では、旧日本軍の組織としてのダメさ加減や作戦の杜撰さなどに対する記述が繰り返し出て」くることを指摘した寺川氏は、次のような戦争批判の記述をその具体的な例として挙げています。

〈たとえば、太平洋戦争の分岐点となったガダルカナルでの戦いを取り上げ、戦力の逐次投入による作戦の失敗や、参謀本部が兵站を軽視したことによって多くの兵士が餓死や病死したことが書かれています。また、ゼロ戦の航続距離の長さを過信した愚かな作戦によって、多くのパイロットの命が失われたことなども記述されています。

もちろん本作のテーマである「特攻」に関する批判も随所に出てきます。特攻はパイロットの志願ではなく強制のケースが多かったこと、米軍の圧倒的な物量や新型兵器によって特攻機のほとんどが敵艦にたどり着く前に撃ち落とされたこと、それを軍上層部は分かっていながらも特攻という作戦を続けたこと。さらには 「俺もあとから行くぞ」と言った上官たちの中には責任をとることなく戦後も生き延びた人がたくさんいたことなど、特攻という作戦を立案・推進した「軍上層部」への批判が展開されます。〉

これらの点を指摘した寺川氏は、次のように結論しています。

〈「作品」でなく「人」で判断することの愚かさは、「主張の内容」でなく、それを唱えている「人や組織」で事の是非を判断することと似ています。憲法九条、原発、死刑制度ほか国論を二分する議論はいくつもありますが、ともすると「どうせあの人(団体)が言っているのだからロクなことはない」と決めつけてしまうことが、よくあるような気がします(引用者注――「作者と作品の関係」に言及したこの文章の問題点については稿を改めて考察します)。

憲法や安全保障について具体的に国を動かそうという政権が現れたいま、少なくともそれに反対する側は、レッテル貼りをして相手を非難している場合ではなく、意見の違う相手とも、その違いを知ったうえで議論し、考えていくことが大事なのではないか――。〉

*   *

たしかに、『永遠の0(ゼロ)』の第5章には、「ガダルカナル島での陸軍兵士」の悲惨な戦いについて語られる次のような記述もあります。

少し長くなりますが具体的に引用しておきます

〈「あわれなのはそんな場当たり的な作戦で、将棋の駒のように使われた兵隊たちです。

二度目の攻撃でも日本軍はさんざんに打ち破られ、多くの兵隊がジャングルに逃げました。そんな彼らを今度は飢餓が襲います。ガダルカナル島のことを『ガ島』とも呼びますが、しばしば「餓島」と書かれることがあるのはそのためです。」

「結局、総計で三万以上の兵士を投入し、二万人の兵士がこの島で命を失いました。二万のうち戦闘で亡くなった者は五千人です。残りは飢えで亡くなったのです。生きている兵士の体にウジがわいたそうです。いかに悲惨な状況だったかおわかりでしょう。

ちなみに日本軍が『飢え』で苦しんだ作戦は他にもあります。ニューギニアでも、レイテでも、ルソンでも、インパールでも、何万人という将兵が飢えで死んでいったのです」〉。

(ガダルカナルの戦い。図版は「ウィキペディア」より)

第6章ではラバウル航空隊整備兵として祖父の機体などを整備していた元海軍整備兵曹長の永井清孝からの話を聞いた語り手の「ぼく」の激しい批判が記されています。

〈「永井に会った後、ぼくは太平洋戦争の関係の本を読み漁った。多くの戦場で、どのような戦いが行われてきたのかを知りたいと思ったのだ。

読むほどに怒りを覚えた。ほとんどの戦場で兵と下士官たちは鉄砲の弾のように使い捨てられていた。大本営や軍司令部の高級参謀たちには兵士たちの命など目に入っていなかったのだろう。」〉

*   *

これらの文章だけに注目するならば、『永遠の0(ゼロ)』は「反戦」的な強いメッセージを持った小説と捉えることも可能でしょう。

しかし、これらの文章が小説の中盤に記されており、新聞記者の高山が罵倒され、追い返されるシーンが描かれている第9章の前に位置していることに注意を払う必要があるでしょう。

戦争の「実態」に関心のある読者にとっては、第5章や第6章の描写は強く心に残ると思われますが、一般の読者にとっては小説が進みその「記憶」が薄れてきたころに、「私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と記者の高山が怒鳴りつけられる場面が描かれているのです。

「『永遠の0』の何が問題なのか? 」と題された冷泉彰彦氏のコラム記事は、この小説の構成の問題点に鋭く迫っていると思えます(「ニューズウィーク」、2014年02月06日、デジタル版)。

〈問題は「個々の特攻隊員の悲劇」へ感情移入する余りに、「特攻隊全体」への同情や「特攻はムダではなかった」という心情を否定しきれていないのです。作戦への批判は入っているのですが、本作における作戦批判は「主人公達の悲劇性を高める」セッティングとして「帳消しに」されてしまうのです。その結果として、観客なり読者には「重たいジレンマ」を感じることなく、悲劇への共感ないし畏敬の念だけが残ってしまうのです。〉

*   *

原作の『永遠の0(ゼロ)』を高く評価する一方で、映画《永遠の0(ゼロ)》を「小説とは似て非なる映画」と厳しく批判した寺川氏自身の次の文章は、小説自体の問題点をも浮き彫りにしていると思われます。

〈それに対して映画ですが、「どうしてこのような作品になってしまったのか」と私は残念に思います。その理由は簡単。上記の小説でしっかりと描かれた軍部批判や特攻批判等の部分が相当薄まっていて、「特攻という問題」が「個人の問題」に見えてしまうからです。〉

そして、筆者は「この作品にとっての生命線である「軍部批判」や「特攻批判」の要素を薄めてしまっては、まったく別の作品となってしまいます。」と続けています。

映画から受けた印象についての感想は、「軍部批判」や「特攻批判」の記述が「戦争に批判的」な読者をも取り込むために組み込まれた傍系の逸話に留まり、この小説の流れには本質的な影響を及ぼしてはいないことを明らかにしていると思われます。

*   *

この小説の構造で感心させられた点は、主に「空」で戦ったパイロットの視点から戦争を描いていることです。そのために、「五族協和」「八紘一宇」などの「美しい神話」を信じて、満州国に移民した「満蒙開拓移民」の悲惨な実態や、植民地における現地の民衆と日本人との複雑な関係は全く視野に入ってこないことです。

最近書いた論文「学徒兵 木村久夫の悲劇と映画《白痴》」では、中国名・李香蘭で多くの映画に出演していたために祖国を裏切ったという罪で銃殺になるはずだった女優の山口淑子氏が、日本人であることが証明されて無罪となり、戦後は「贖罪」として平和活動をされていたことにも触れました。

リンク→学徒兵・木村久夫の悲劇と映画《白痴》

『「李香蘭」を生きて 私の履歴書』と題された山口氏の著書の「獄中からの手紙」では、満州国皇帝につながる王族の一員で、日本人の養女となった川島芳子氏の悲劇が描かれています。「軍上層部」への批判が記されているものの『永遠の0(ゼロ)』では批判は「軍上層部」で留まり、「満州経営に辣腕」を振った岸信介氏などの高級官僚や、戦争の準備をした政治家、さらには徳富蘇峰などの思想家にはまったく及んでいません。

たとえば、第一章では武田の「反戦を主張したのは德富蘇峰の国民新聞くらいだった。その国民新聞もまた焼き討ちされた」という言葉が描かれています。しかし、すでに見たように、『国民新聞』が焼き討ちされたのは、政府の「御用新聞」だったからであり、しかも、蘇峰は『大正の青年と帝国の前途』において、自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを褒め称えていたのです。

「論理」よりも「情念」を重視する傾向がもともと強い日本では、疑うよりは人を信じたいと考える善良な人が、再び小説『永遠の0(ゼロ)』の構造にだまされて、戦争への道を歩み出す危険性が高いと思われます。

(2016年11月18日、図版を追加)

 

 

隠された「一億玉砕」の思想――――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(4)

長くなりそうなので一端中断すると先ほど書きましたが、宮部久蔵が語った「命が大切」という言葉はきわめて重要なので、この稿では安倍政権の問題点と絡めてもう少し続けます。

*   *

「臆病者」と題された『永遠の0(ゼロ)』の第2章では、「命が大切というのは、自然な感情だと思いますが?」と反論していた慶子が、「それは女の感情だ」と長谷川から言われると沈黙してしまうように百田氏は描いていました。

本来ならば、慶子の祖父・宮部久蔵が抱いていた「命が大切」という思想は、日本国民の生命や「地球環境」にも関わるような重要な思想で、単に「女の感情」で切り捨てられるべきものではないのです。

ここで注目したいのは、「祖父」の宮部を「臆病者」と批判した長谷川が「あの戦争が侵略戦争だったか、自衛のための戦争だったかは、わしたち兵士にとっては関係ない」と語っていたことです。

百田氏は長谷川に「もちろん戦争は悪だ。最大の悪だろう」と語らせつつも、一国家だけでなく世界全体の運命に関わる戦争の問題を、一兵士の視点から「情念的に」語らせるという手法を取ることで、重大な論理のすり替えを密かに行っているのです。

『大正の青年と帝国の前途』で若者たちに「白蟻」の勇気をまねるようにと説いた徳富蘇峰の思想によって教育され、命じられるままに行動するような訓練を受けていたこの世代の若者たちにとっては、「考えること」は禁じられたも同然だったのであり、兵士が「命が大切」と主張することは「分を超えている」ことでした。

*   *

第3回の終わりに記したように、「五族協和」「八紘一宇」などの「美しい神話」で戦争の勝利が語られていた「昭和国家」では、多くの若者がそれを信じて戦ったのですが、敗色が濃厚になると日本では一転して「一億玉砕」というスローガンさえ現れます。

すなわち、「ウィキペディア」によれば、戦局が絶望的となった1944年(昭和19年)6月24日、大本営は戦争指導日誌に「もはや希望ある戦争政策は遂行し得ない。残るは一億玉砕による敵の戦意放棄を待つのみ」との記載をし、1945年4月の戦艦大和の沖縄出撃では、軍内の最後通告に「一億玉砕ニサキガケテ立派ニ死ンデモライタシ」との表現が使用されたとのことです。

それゆえ、『永遠の0(ゼロ)』で描かれているように、広島と長崎に原爆が投下されたあとも戦争が続けられ、それまで生き残っていた主人公の宮部久蔵も特攻で亡くなりました。

%e7%89%b9%e6%94%bb%e3%81%af%e7%be%8e%e3%81%97%e3%81%8f%e3%81%aa%e3%81%84元特攻隊員 「勇ましさ陶酔は簡単」

→「上官は出撃せず、上官に目をかけられている人間は指名されなかった。強者が弱者を矢面に立たせることを実感した」( 琉球新報 2014.8.16)

*   *

本来は、国民の「生命を守り」、豊かな生活を保障するためにある「国家」が、自分たちの責任を放棄して「国民」に「一億玉砕」を命じるのはきわめて異常であり、戦争を行った自分たちの責任を隠蔽するものであると感じます。

それゆえ、「命が大切」という思想を持っていたこの小説の主人公である宮部久蔵がもし生き残っていたら、彼は目先の利益につられて原発の再稼働に着手しようとしている安倍政権を厳しく批判して、「反核」「脱原発」運動の先頭に立っていたと思われます。

『永遠の0(ゼロ)』では主人公・宮部久蔵の死はそのような現政権の批判とは結びつかず、むしろ戦前の「道徳」の正しさが強調されているのです。そのような価値の逆転がなぜ起きたのかについては、次の機会に改めて考察したいと思います。

(2016年11月22日、図版を追加)

 

〈子や孫を 白蟻とさせるな わが世代〉

%e7%99%bd%e8%9f%bb(イエシロアリ、図版は「ウィキペディア」より)

昨日、若者に向けたスローガン風のメッセージをアップしました。

一方、「特定秘密保護法」が正規式に施行される以前の11月末に「法律事務所員などを名乗る複数の男から『あなたは国家秘密を漏らした。法律違反で警察に拘束される。金を出せば何事もなかったようにする』などと電話で脅された女性が、2500万円をだまし取られたという事件が発生していました(「東京新聞」、11月23日)。

私もすでに年金をもらう年齢になりましたが、同世代の中には成人に達した孫がいる人もいます。それゆえ、子や孫たちの世代を戦前のような悲惨な目に遭わせないためにも、〈「オレ、オレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』〉のシリーズをもう少し続けることで、被害者の数が増えないようにしたいと思います。

少し大げさに言えば、それが司馬遼太郎氏の作品から比較文明学的な視野の重要性を学んだ研究者としての私の責務だと考えています。

*   *

第一次世界大戦中の1916年に発行された『大正の青年と帝国の前途』で若者たちに「白蟻」の勇気をまねるように諭した徳富蘇峰は、敗色が濃厚となった1945年には「尊皇攘夷」を主張した「神風連の乱」を高く評価していしました。

このことを思い起こすならば、平成の若者を子や孫に持つ世代は、戦前の価値観や旧日本軍の「徹底した人命軽視の思想」を受け継いでおり、十分な議論もなく「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」を閣議決定した安倍政権にNOを突きつけねばならないでしょう。

(2017年1月7日、図版と蘇峰の文章を追加)

〈若者よ 白蟻とならぬ 意思示せ〉

%e7%99%bd%e8%9f%bb (イエシロアリ、図版は「ウィキペディア」より)

『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』に収められた安倍首相との対談で百田尚樹氏は、映画も近く封切られるので『永遠の0(ゼロ)』は「四百万部近くいくのではないかと言われています」と語っていました(64頁)。

興味深いのは、小説『永遠の0(ゼロ)』の主要登場人物の武田が賛美している思想家の徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』の発行部数は当時としては異例の約100万部にのぼっていたことです。権力者に媚びてその意向を反映するような著書は大ヒットすることがこの二つの書の売れ行きからも分かります。

問題なのは徳富蘇峰がここで、白蟻の穴の前に硫化銅塊を置いても、蟻が「先頭から順次に其中に飛び込み」、その死骸で硫化銅塊を埋め尽し、こうして「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」として、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを讃えて、「我が旅順の攻撃も、蟻群の此の振舞に対しては、顔色なきが如し」と記していたことです(『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、三二〇頁)。

このことを思い起こすならば、「人間」としての尊厳を奪い「白蟻」とするような政権に対して、平成の若者はきちんとNOを突きつけねばならないでしょう。

(2017年1月7日、図版と蘇峰の文章を追加)