高橋誠一郎 公式ホームページ

「特定秘密保護法」

新聞『日本』の報道姿勢と安倍政権の言論感覚

昨日、「日本新聞博物館」で行われている「孤高の新聞『日本』――羯南、子規らの格闘」展に行ってきました。

チラシには企画展の主旨が格調高い文章で次のように記されています。

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1889(明治22)年に陸羯南(くが・かつなん)は新聞「日本」を創刊し、政府や政党など特定の勢力の宣伝機関紙ではない「独立新聞」の理念を掲げ、頻繁な発行停止処分にも屈することなく、政府を厳しく批判し、日本の針路を示し続けました。また、初めて新聞記者の「職分」を明確に提示し、新聞発行禁止・停止処分の廃止を求める記者連盟の先頭にも立ちました。

また、羯南の高い理想、人徳にひかれて日本新聞社には正岡子規ら大勢の俊英が集い、羯南亡き後、内外の主要新聞に散り、こんにちの新聞の基礎づくりに貢献しました。本企画展では、新聞「日本」の人々の、理想の新聞を追求した軌跡を200点を超す資料やパネルで紹介します。

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実際、1,新世代の記者たち、2,「日本」登場、3,新聞というベンチャー、4,子規と羯南、5,羯南を支えた人々、6,理念と経営のはざまで、7、再評価 の7つのコーナーから成る企画展はとても充実しており、「理想の新聞を追求した」新聞「日本」の軌跡を具体的に知ることができました。

ことに司馬作品の研究者である私にとっては、新聞『日本』の記者となる子規を主人公の一人とした長編小説『坂の上の雲』や『ひとびとの跫音』を書いただけでなく、産経新聞社の後輩で筑波大学の教授になった青木彰氏への手紙などで、「陸羯南と新聞『日本』の研究」の重要性を記していた司馬遼太郎氏の熱い思いを知ることが出来、たいへん有意義でした(なお、企画展は8月9日まで開催)。

また、常設展も幕末からの新聞の歴史が忠実に展示されており、「特定秘密保護法」の閣議決定以降、強い関心をもっていましたので、ことに治安維持法の成立から戦時統制下を経て敗戦に至る時期の新聞の状況が示されたコーナーからは現代の新聞の置かれている状況の厳しさも感じられました。

リンク→

「特定秘密保護法」と子規の『小日本』

「東京新聞」の「平和の俳句」と子規の『小日本』

ピケティ氏の『21世紀の資本』と正岡子規の貧富論

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それだけに帰宅してから見た下記のような内容のニュースには非常に驚かされました(引用は「東京新聞」デジタル版による)。

「安倍晋三首相に近い自民党若手議員の勉強会で、安全保障関連法案をめぐり報道機関に圧力をかけ、言論を封じようとする動きが出た」ばかりでなく、勉強会の講師を務めた作家の百田尚樹氏は「『沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない』などと述べた」。

この後でこのことを聞かれた百田氏は、ツイッターに「沖縄の二つの新聞社はつぶれたらいいのに、という発言は講演で言ったものではない。講演の後の質疑応答の雑談の中で、冗談として言ったものだ」などと弁解したようです。

このような無責任な記述は言論人としての氏の資質を正直に現しており、百田尚樹氏と共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』を発行していた安倍首相の責任も問われなければならないでしょう。

今回の事態は「国会」や「憲法」を軽視する安倍政権が、「新聞紙条例」を発行して自分たちの意向に沿わない新聞には厳しい「発行停止処分」を下していた薩長藩閥政権ときわめて似ていることを物語っていると思えます。

この問題についてはより詳しく分析しなければならないとも感じていますが、今は新聞と憲法や戦争の問題を検閲の問題などの問題をとおしてきちんと検証するためにも、執筆中の拙著『新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』の脱稿に向けて全力を集中することにします。

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リンク→『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』における「憎悪表現」

リンク→百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「愛国」の手法

 

「特定秘密保護法」と子規の『小日本』

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(図版は正岡子規編集・執筆『小日本』〈全2巻、大空社、1994年〉、大空社のHPより)

 

「特定秘密保護法」が国会での十分な議論も行われる前に強行採決された際には、次のように語っていた半藤一利氏の記事「転換点 いま大事なとき」をこのブログに掲載しました。

歴史的にみると、昭和の一ケタで、国定教科書の内容が変わって教育の国家統制が始まり、さらに情報統制が強まりました。体制固めがされたあの時代に、いまは似ています。」

そして半藤氏は「この国の転換点として、いまが一番大事なときだと思います」と結んでいました(太字は引用者)。

リンク→「特定秘密保護法」と「昭和初期の別国」――半藤一利氏の「転換点」を読んで

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しかし、テロリストによる人質殺害事件があったことで、重要な「情報」はさらに隠されるようになっただけでなく、大新聞やテレビなどのマスコミでは政権の対応を批判することすらも自粛するような傾向さえ強くなってきているようです。

掲載が遅くなりましたが、9日には「翼賛体制の構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明」が発表されていましたので、それを伝える「東京新聞」の2月10日付けの記事を転載しておきます。

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〈人質事件後「あしき流れ」 政権批判自粛にノー〉

過激派「イスラム国」による日本人人質事件が起きてから、政権批判を自粛する雰囲気がマスコミなどに広がっているとして、ジャーナリストや作家らが九日、「あしき流れをせき止め、批判すべきことは書く」との声明を発表した。

ジャーナリストの今井一さんらがまとめ、表現に携わる約千二百人、一般の約千五百人が賛同した。音楽家の坂本龍一さん、作家の平野啓一郎さん、馳星周さんら著名人も多い。今井さんは、国会で政府の事件対応を野党が追及したニュースの放映時間が一部を除き極めて短かったと述べた。

声明は、人質事件で「政権批判を自粛する空気が国会議員、マスメディアから日本社会まで支配しつつある」と指摘。「非常時に政権批判を自粛すべきだという理屈を認めれば、あらゆる非常時に批判できなくなる。結果的に翼賛体制の構築に寄与することになる」と警鐘を鳴らしている。

九日は中心メンバーの七人が会見。慶応大の小林節名誉教授(憲法学)は「今回の事件で安倍晋三首相を批判するとヒステリックな反応が出る。病的で心配している」と語った。元経済産業官僚の古賀茂明さんは「自粛が広がると、国民に正しい情報が行き渡らなくなる。その先は、選挙による独裁政権の誕生になる」と危機感をあらわにした。

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このような現在の日本のジャーナリズムの現状を見ると、明治の新聞記者であった陸羯南や正岡子規のジャーナリストとしての気概を改めて感じます。

今回は明治27年4月29日に子規が編集主任を務めていた新聞『小日本』が第一面に掲載された「政府党の常語」という記事を紹介します。

この記事は「感情といふ熟語が近頃外政上如何にに政府党の慣用せらるゝを見よ、」という文章で始まる「第1 感情」、「第2 譲歩」、「第3 文明」、「第4 秘密」の4節からなっています。

ことに「藩閥政府」の問題点を鋭く衝いた「第4 秘密」は、原発事故のその後の状況や、国民の健康や生命に深く関わるTPPの問題など多くが隠されている現代の「政府党の常語」を批判していると思えるほどの新鮮さと大胆さを持っているように思えます。その全文を一部を太字で引用しておきます。

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「秘密秘密何でも秘密、殊には『外交秘密』とやらが当局無二の好物なり、如何にも外交政策に於ては時に秘密を要せざるに非ず、去れどそは攻守同盟とか、和戦談判とかいふ場合に於て必要のみ、普通一般の通商条約、其条約の改正などに何の秘密かこれあらん、斯かる条項は成るべく予め国民一般に知らしめて世論の在る所を傾聴し、国家に民人に及ぼす利害得喪を深察するこそ当然なれ、去るに是れをも外交秘密てふ言葉の裏に推込(おしこ)めて国民の耳目に触れしめず、斯かる手段こそ当局の尊崇する文明の本国欧米にては専制的野蛮政策とは申すなれ、去れど此一事だけは終始(しじう)一貫して中々厳重に把持せらるゝ当局の心中きたなし卑し。

(2015年12月14日。図版とリンク先を追加)

 

新聞記者・正岡子規関連の記事一覧(追加版)

自著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』の紹介文を転載

正岡子規の「比較」という方法と『坂の上の雲』

川内原発の再稼働と新聞『小日本』の巻頭文「悪(に)くき者」

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)の目次を「著書・共著」に掲載

新聞『日本』の報道姿勢と安倍政権の言論感覚

「特定秘密保護法」と子規の『小日本』

「東京新聞」の「平和の俳句」と子規の『小日本』

ピケティ氏の『21世紀の資本』と正岡子規の貧富論

近著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)について

講座 「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」

「特定秘密保護法」と自由民権運動――『坂の上の雲』と新聞記者・正岡子規

年表6、正岡子規・夏目漱石関連簡易年表(1857~1910)

司馬作品から学んだことⅣ――内務官僚と正岡子規の退寮問題

 

 

「議論」を拒否する小説の構造――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(8)

ここのところ考察してきたコラムで寺川氏は、〈憲法や安全保障について具体的に国を動かそうという政権が現れたいま、少なくともそれに反対する側は、レッテル貼りをして相手を非難している場合ではなく、意見の違う相手とも、その違いを知ったうえで議論し、考えていくことが大事なのではないか――。〉と書いていました。

「対話」や「議論」の重要性はまさしく指摘されている通りなのですが、問題なのは、国民の生命にもかかわる「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」、さらには「武器や原発の輸出」などの重要なことを「国会」での十分な議論を経ずに閣議で決定している安倍政権と同じように、『永遠の0(ゼロ)』という小説も「他者」との「対話」や「議論」を拒否するような構造を持っていることです。

それゆえ、「対話」や「議論」を拒否する安倍政権の手法の危険性を明らかにするためにも、『永遠の0(ゼロ)』の構造の問題点を明らかにすることが重要だと私は考えています。

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単独犯ではなく、多くの人間が様々な役を演じるような「進化」した「オレオレ詐欺」の場合は、詐欺グループからの様々な情報を一方的に聞かされることで、被害者は相手の言うことを次第に信じるようになります。

『永遠の0(ゼロ)』でも姉の慶子と「ぼく」は、「聞き取り」による取材という制約を与えられているために、相手から非難されてもきちんとした反論ができないし、読者もそのような関係を不自然だとは感じないような構造になっているのです。

たとえば、すでに見たように戦闘機搭乗員としてラバウル航空隊で祖父の宮部久蔵と一緒だった長谷川は、開口一番に久蔵のことを「奴は海軍航空隊一の臆病者だった」と決めつけ、さらに「奴はいつも逃げ回っていた。勝つことよりも己の命が助かることが奴の一番の望みだった」と語ります。

それに対して、「命が大切というのは、自然な感情だと思いますが?」と慶子が言うと長谷川は「それは女の感情だ」と決めつけ、それはね、お嬢さん。平和な時代の考え方だよ」と続け、「みんながそういう考え方であれば、戦争なんか起きないと思います」という慶子の反論に対しては、有無を言わせぬようにこう断言しているのです。

「もちろん戦争は悪だ。最大の悪だろう…中略…だが誰も戦争をなくせない。今ここで戦争が必要悪であるかどうかをあんたと議論しても無意味だ。」(太字引用者)。

「文学作品」では作者の思想や感性が何人かの登場人物に分与されていることが多いのですが、語り手としての「ぼく」だけでなく、長谷川にも作者の思想や感性は与えられているといえるでしょう。

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「特攻」という大きなテーマの本を出版するならば、祖父が「命が大切」と語っていたことを知った後で慶子は、取材の範囲を広げるべきだったと思えます。

たとえば、海軍特攻隊隊長だった作家の島尾敏雄氏は、自分たちの水上特攻兵器がアメリカ軍からは「自殺艇」と呼ばれていたことを紹介しつつも、「私は無理な姿勢でせい一ぱい自殺艇の光栄ある乗組員であろうとする義務に忠実であった」と記し、「我々のその行為によって戦局が好転するとも考えられなかったが、それでも誰に対してしたか分からぬ約束を義理堅く大事にしていたのだ」と書いているのです(『出孤島記』)。

このような思いは、島尾氏と対談した若き司馬遼太郎氏にとっても同じだったでしょう。なぜならば、彼は自分が戦車兵として徴兵された時のことについてこう書いているのです。

「私の小さな通知書には『戦車手』と書かれていた。Aはその紙片をじっと見つめていたが、やがて、『戦車なら死ぬなぁ、百パーセントあかんなぁ』と気の毒そうにいって、顔をあげた」(「石鳥居の垢」『歴史と視点』)。

司馬氏は彼と同じ「世代の学生あがりの飛行機乗りの多くは沖縄戦での特攻で死んだ」と記していましたが(「那覇・糸満」)、特攻かそうでないかの違いはあるものの、戦車兵に要求されていたのも特攻的な精神だったのです。

リンク→『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』第3章「文明」と「野蛮」の考察――『沖縄・先島への道』より、ですます体に変えて引用)

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若き司馬氏は、満州に「夢と希望」をたくしていた多くの日本人を守るために自分たちは戦うのだという思いで勇気を奮い立たせていたのですが、「本土決戦」のために彼らをほとんど無防備のままに残して戦車隊が本土に引き上げるという決定を聞いたときに深い悲哀を感じていました。

実際、日本の軍隊が「本土防衛」のために引き上げたあとで、広田弘毅内閣の際に決定された「国策」に従って移民として送られていた約155万人の日本人はたいへんな困難と遭遇しました。

満州での一般人の死者は20万人を超えたのですが、開拓関係者とその家族の死者は9万人に近く、その内の1万人ほどが「婦女子や年寄りの自決」でしたが、それは「男たちが対ソ連の戦闘要員として根こそぎ召集されたためだったのです(坂本龍彦『集団自決 棄てられた満州開拓民』岩波書店、2000年)。

祖国に残された妻や娘のことを考えて「命が大切」と語っていた祖父の汚名を晴らすためにも、戦争を取材するジャーナリストとして慶子は、広田弘毅内閣の際に決定された「国策」や、青少年に「白蟻」の勇敢さを強要した徳富蘇峰の思想が招いた結果を、長谷川に伝えねばならなかったと思えます。

しかし、『永遠の0(ゼロ)』という小説では、「対話」や「議論」が封じられているだけではなく、取材の範囲も祖父の関係者への「聞き取り」という形で制限されているために、満州に視野が及ぶことはないのです。(続く)

 

総選挙を終えて――若者よ、『竜馬がゆく』を読もう

 

今回の総選挙は、一昨年の参議院選挙と同じように、国会での十分な審議もなく「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」を閣議決定する一方で、原発の危険な状況は隠して、急遽、行われることになりました。

『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)で、「憎悪表現」とも思われる発言を繰り返す「お友達」の百田尚樹氏を優遇して戦前の道徳観を復活させようとしている安倍政権に強い危機感を覚えました。

私自身の非力さは認識しつつも、辻説法を行う法師のように『永遠の0(ゼロ)』を批判し、選挙の権利を行使するように訴える記事をブログに書いていました。

ことに終盤にはメディアから自民党だけで300議席を超えるなどの予想が出されたために、批判の調子を強めて書きました。

選挙の結果はマスコミが予想した数と近いものになりましたが、それでも「極端な排外主義」を掲げる「次世代の党」が激減しただけでなく、九条改憲を促進する勢力や「原発推進」を掲げる議員が減ったことで、今後の可能性が残されたと思えます。

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今回の選挙で指摘された点の一つは若者の選挙離れでしたが、司馬氏は『竜馬がゆく』で最初は他の郷士と同じように「尊皇攘夷」というイデオロギーを唱えて外国人へのテロをも考えた土佐の郷士・坂本龍馬が、勝海舟との出会いで国際的な広い視野と、アメリカの南北戦争では近代兵器の発達によって莫大な人的被害を出していたなどの知識を得て、武力で幕府を打倒する可能性だけでなく、選挙による政権の交代の可能性も模索するような思想家へと成長していくことを壮大な構想で描いていたのです。

一方、来年度のNHKの大河ドラマ『花燃ゆ』では、安倍首相の郷土の英雄・吉田松陰の末妹で松陰の弟子・久坂玄瑞の妻となる杉文が主役になるとのことです。

司馬遼太郎氏が『世に棲む日日』で描いたように、佐久間象山の弟子で深い知識と広い視野を有していた吉田松陰は、アメリカとの秘密裏の交渉を行い、批判されると言論の弾圧を行った大老・井伊直弼によって安政の大獄で処刑されました。

「尊皇攘夷」の嵐が吹き荒れたこの時期の日本を描くには、たいへんな注意深さが必要と思われますが、安倍政権の影響力が強く指摘されているNHKで果たして、そのようなことが可能でしょうか。

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幕末の日本を長州からだけでなく、薩摩や土佐、さらに愛媛や、江戸、会津など広い視点から描いた司馬氏の作品と比較しながら、来年はNHKの大河ドラマ『花燃ゆ』を注意深く観察することで、選挙の重要性を幕末に唱えた龍馬を描いた『竜馬がゆく』の先見性を確認したいと思います。

 

安倍政権による「言論弾圧」の予兆

「征韓論」に沸騰した時期から西南戦争までを描いた長編小説『翔ぶが如く』で司馬遼太郎氏は、「この時期、歴史はあたかも坂の上から巨岩をころがしたようにはげしく動こうとしている」と描いていました(太字引用者、『翔ぶが如く』、第3巻「分裂」)。

この記述に言及した昨年11月13日の記事では「世界を震撼させた福島第一原子力発電所の大事故から「特定秘密保護法案」の提出に至る流れを見ていると、現在の日本もまさにこのような状態にあるのではないかと感じます」と記しました。

リンク→「特定秘密保護法案」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)

その時は、大げさだと感じられた方も少なくないと思われますが、それから、2週間も経ない11月26日には、「与党が採決を強行」し「特定秘密保護法」が衆議院を通過したとの記事が各新聞から号外で報じられました。

そのことに触れたブログ記事「司馬作品から学んだことⅡ――新聞紙条例(讒謗律)と内務省」では、〈安倍首相は「この法案は40時間以上の審議がなされている。他の法案と比べてはるかに慎重な熟議がなされている」と答弁したとのことですが、首相の「言語感覚」だけでなく、「時間感覚」にも首をかしげざるをえません。〉と記しました。

さらに、11月28日のブログ記事「政府与党の「報道への圧力」とNHK問題」では、「自民党が衆院解散の前日、選挙期間中の報道の公平性を確保し、出演者やテーマなど内容にも配慮するよう求める文書を、在京テレビ各局に渡していたこと」の問題についても言及しました。

選挙戦も終盤になった現在、「もっとも自由な言論が保障されなければならない大学にも、安倍自民党は露骨な“言論弾圧”をかけている」ことが明らかになったと「日刊ゲンダイ」が報じていますので、「前滋賀知事を牽制 大学までも言論弾圧する安倍自民の暴挙」と題された記事の全文を下に引用しておきます。

安倍首相の「お友達」で共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』を出版している百田尚樹・NHK経営委員が、自分の気に入らない人物に対してはツイッターで、「憎悪宣伝」とも思われるような表現で罵倒することに対しては傍観する一方で、「言論の自由」や「国民の生命」を守ろうとする言論は弾圧しようとする現在の自民党には強い危機感を覚えます。

百田氏の『永遠の0(ゼロ)』を安倍首相は絶賛していますが、著者がその第7章で登場人物の谷川に語らせているような戦前の「道徳」を、安倍自民党の閣僚の多くが目指しているからです。

リンク→「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(1)

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前滋賀知事を牽制 大学までも言論弾圧する安倍自民の暴挙

「日刊ゲンダイ」(ネット版)2014年12月13日

「公平中立な報道」という言葉を錦の御旗に、政権批判を封じ込めようとしている安倍自民党だが、“ドーカツ”をかけている対象は大メディアだけではなかった。もっとも自由な言論が保障されなければならない大学にも、安倍自民党は露骨な“言論弾圧”をかけている。こんな暴挙を許していいのか。

問題となっているのは自民党滋賀県連の佐野高典幹事長が今月8日付で大阪成蹊学園の石井茂理事長に送った文書だ。佐野自民県連幹事長は大阪成蹊学園所属の「びわこ成蹊スポーツ大学」の学長である嘉田由紀子前滋賀県知事が民主党の公認候補の街頭演説に参加するなど、活発に支援していることを問題視。私学といえども私学振興という税金が交付されていることに言及したうえで、こんな文章を大学に送りつけたのである。

<国政選挙中、一般有権者を前にして、特定の政党、特定の候補を、大々的に応援されるということは、教育の「政治的中立性」を大きく損なう行為であり、当県連と致しましては、誠に遺憾であります。本来、公平中立であるべき大学の学長のとるべき姿とはとても考えられません。本件につきましては、自民党本部、および日本私立大学協会とも、協議を重ねており、しかるべき対応を取らざるを得ない場合も生じるかと存じます。東京オリンピックや滋賀県の2巡目国体を控え、スポーツ振興が進められる中、政権与党自民党としても、本事態に対しましては、大きな危惧を抱かざるを得ません。貴職におかれましては、嘉田学長に対しまして、節度ある行動を喚起いただきますよう切にお願い申し上げます>

■近大理事長だった世耕官房副長官

「なんだ、これは!」という文書ではないか。自民党の論法であれば、教育に関わるものは一切、政治活動ができなくなってしまう。

断っておくが、安倍首相のお友達である世耕弘成官房副長官(参院議員)は近畿大の理事長だった時期がある。大学関係者だからといって、政治活動をしなかったのか。嘉田学長の応援がダメなら、大学の理事長などは国会議員になれないことになる。  安倍自民党は東大教授を筆頭に多くの学者をブレーンにして、アベノミクスを喧伝しているくせに、まったく、よくやる。要するに、嘉田学長の政治活動が「ケシカラン」のではなく、安倍自民党を批判するのが許せないということだ。

しかも、この文書は東京五輪や滋賀での国体を引き合いに出している。野党を応援するなら、協力しないぞ、という脅しである。こんな破廉恥な文書は見たことないが、果たして、嘉田前知事も怒り心頭に発している。

「教育基本法14条では『学校での政治活動』については『中立』と書いてありますが、学外や時間外での教育関係者の(政治的)行動を禁止していません。無理やり、教育基本法を拡大解釈したのです。憲法19条には個人の思想信条の自由が定められているので、たとえ大学の学長であっても、個人的な思想信条の自由に基づく(政治的)行動は制限されません。自民党内には教育関係者を兼務していた国会議員がいるのに、私の応援は許さないというのはダブルスタンダードです。今回の自民党からの文書は“圧力”“恫喝”としか思えません。こうした体質こそ、今回の総選挙で国民に信を問わねばなりません」

実は、今度の選挙中、ある大学では自民党に批判的な孫崎享氏(元外交官)の講演が急に中止になることがあった。選挙中ということで、大学側が自主規制したとみられている。

「1941年2月、情報局は中央公論など総合雑誌に対して、リストを提示し、矢内原忠雄(東大総長)、横田喜三郎(最高裁長官)らの執筆停止を求めた。戦前の悪夢がもうすぐそこまで来ているような気がします」(孫崎享氏)

〈子や孫を 白蟻とさせるな わが世代〉

%e7%99%bd%e8%9f%bb(イエシロアリ、図版は「ウィキペディア」より)

昨日、若者に向けたスローガン風のメッセージをアップしました。

一方、「特定秘密保護法」が正規式に施行される以前の11月末に「法律事務所員などを名乗る複数の男から『あなたは国家秘密を漏らした。法律違反で警察に拘束される。金を出せば何事もなかったようにする』などと電話で脅された女性が、2500万円をだまし取られたという事件が発生していました(「東京新聞」、11月23日)。

私もすでに年金をもらう年齢になりましたが、同世代の中には成人に達した孫がいる人もいます。それゆえ、子や孫たちの世代を戦前のような悲惨な目に遭わせないためにも、〈「オレ、オレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』〉のシリーズをもう少し続けることで、被害者の数が増えないようにしたいと思います。

少し大げさに言えば、それが司馬遼太郎氏の作品から比較文明学的な視野の重要性を学んだ研究者としての私の責務だと考えています。

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第一次世界大戦中の1916年に発行された『大正の青年と帝国の前途』で若者たちに「白蟻」の勇気をまねるように諭した徳富蘇峰は、敗色が濃厚となった1945年には「尊皇攘夷」を主張した「神風連の乱」を高く評価していしました。

このことを思い起こすならば、平成の若者を子や孫に持つ世代は、戦前の価値観や旧日本軍の「徹底した人命軽視の思想」を受け継いでおり、十分な議論もなく「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」を閣議決定した安倍政権にNOを突きつけねばならないでしょう。

(2017年1月7日、図版と蘇峰の文章を追加)

「集団的自衛権」と『永遠の0(ゼロ)』

「集団的自衛権」を閣議決定した安倍首相は、百田氏との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)に収められた対談で、映画《永遠の0(ゼロ)》について次のように語っていました。

百田氏:映画が公開されて大ヒットしたら、どうせまた中国や韓国が『右翼映画』だとかなんとか言ってイチャモンつけてくると思います。

安倍首相:本をきちんと読めば、そのような印象を受けることはないと思いますね。

*   *

しかし、映画《永遠の0(ゼロ)》について「ウィキペディア」で調べたところ、中国や韓国だけでなくアメリカからも厳しい批判が出ていたことが分かりました。

〈アメリカ海軍の関連団体アメリカ海軍協会(英語版)は、2014年4月14日付の記事「Through Japanese Eyes: World War II in Japanese Cinema(日本人の目に映る『映画の中の第二次世界大戦』)」の中で本作の好評を危険視し、最近の日本の戦争映画について「戦争の起因を説明せず、日本を侵略者ではなく被害者として描写する」「修正主義であり、戦争犯罪によって処刑される日本のリーダーを、キリストのような殉教者だと主張している」と批判した。〉

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百田氏の原作に基づくこの映画がこのように厳しい糾弾を受けるようになることは、「9.11同時多発テロ」に対するブッシュ政権の反応を考えれば、たやすく予想できたはずなのです。

これについても、拙著よりその箇所を引用しておきます。

「同時多発テロ」が発生した時も、アメリカの幾つかの報道機関では「自爆テロ」の問題を、日本軍による真珠湾の奇襲攻撃や「神風特攻隊」と重ねて論じ、日米開戦日前日の一二月六日にはラムズフェルド国防長官が「明日は二〇〇〇人以上の米国人が殺された急襲記念日だ」と発言し、「対テロ戦を行う上で、あの教訓を思い出すのは正しい」と強調した。

このような政府首脳の発言もあり、新聞も「タリバーンは旧日本軍と同じ狂信集団。核兵器の使用を我慢しなければならない理由は何もない」などという論評を相次いで載せ、「世論調査会社が調べると、五四パーセントが『対テロ戦争に核兵器は有効』と答えた」のである*26。

リンク→『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)

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繰り返すことになりますが、安倍政権は「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」の危険性を隠したままで選挙に踏み切りました。

近隣諸国だけでなくアメリカとの関係も悪化させる可能性が高い危険な書物『永遠の0(ゼロ)』を絶賛している安倍首相が率いる政権には選挙でNOと言わねばなりません。

 

「集団的自衛権」と「カミカゼ」

前回、指摘した「特定秘密保護法」と同じように「集団的自衛権」もきわめて重大な問題を含んでいます。私は防衛の専門家でもないのですが、「カミカゼ」という視点から、日本本土が攻撃される危険性を指摘しておきたいと思います。

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私が「カミカゼ」という言葉を衝撃を持って受け止めたのは、研究のためにイギリスに1年間、滞在していたときに起きた「チェチェン紛争」の際でした。

その際にも日本からはほとんど取材陣は派遣されていなかったようですが、イギリスの放送局は、現在は「テロリスト」と呼ばれている「チェチェンの独立派」への密着取材を行っており、指導者の一人から「我々は絶対に降伏しない。いざとなればモスクワへの『カミカゼ』攻撃を行ってでも、独立を達成する」と語っていたのです。

チェチェンや中東での戦争については日本ではあまり報道されないこともあり、日本とは関係の薄い遠い国の出来事のように捉えられているようです。

しかし、2014年7月1日に安倍政権は憲法解釈を変更し、以下の場合には集団的自衛権を行使できるという閣議決定をしました。

「日本に対する武力攻撃、又は日本と密接な関係にある国に対して武力攻撃がなされ、かつ、それによって「日本国民」に明白な危険」がある場合は「必要最小限度の実力行使に留まる」集団的自衛権行使ができる。

文面だけを読むと「自衛隊」とはあまり関係がないようにも読めますが、かつてブッシュ大統領が「報復の権利」を主張して行ったイラクやアフガンの情勢は、アメリカ軍だけでは制圧できないほどに混沌としてきています。

世界有数の軍事力を保持するようになった「自衛隊」への支援要請が早晩来るのは確実と思われ、その際に安倍政権はその要請を断ることができないでしょう。

ここで注目したいのは、アフガンへの攻撃にブッシュ政権が踏み切ろうとしていた際にアメリカの新聞が、アフガンの歴史にも言及しながら、その危険性を指摘したことです。拙著よりその箇所を引用しておきます。

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ニューヨーク・タイムズ紙の記者フランク・リッチもアメリカでの同時多発テロへの「報復」をうたった「今回の戦争には、反対しない」としながらも、「(アメリカ)国民の多数は、米国が冷戦中にアフガニスタンでイスラム過激派をソ連と戦わせていたことも、そしてその後にソ連が退却すると、アフガニスタンを見捨てたことも、理解していない」と指摘している*29。

つまり、アメリカ政府は「テロ」の「野蛮さ」を強調する一方で、なぜテロリストが生まれたのかを国民に説明しないまま「新しい戦争」へと突き進んだのである。

リンク→『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)

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トルコを含むイスラム圏で日本人が高い尊敬を受けている理由の一つは、日本が勝利の可能性が少ないにもかかわらず、日露戦争や太平洋戦争でロシアやアメリカなどの「大国」と戦っていたからです。

そしてことに、イスラムの過激派が深い尊敬の念を抱いているのは、戦いが圧倒的に不利になると日本軍が「カミカゼ」攻撃を行って戦争を続ける意思を示してていたからなのです。

その日本の「自衛隊」がアメリカ軍の「護衛」という形であっても参戦した場合、彼らの激しい憎しみが、自分たちがモデルとしていた「カミカゼ」を行っていた日本にも向けられる可能性は高いと思われます。

つまり、十分な審議もなく閣議で決定された「集団的自衛権」は、「日本国民」の生命を守るどころか、「明白な危険」を生み出す可能性がある危険な法律なのです。

リンク→「集団的自衛権」と『永遠の0(ゼロ)』

今回の総選挙では「アベノミクス」が争点だと明言したことで、閣議決定された「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」の問題には、言及されていません。

それゆえ、総選挙後もこれらの問題に対する「国民」の審判を受けたと安倍政権は主張することはできないでしょう。

しかし、そのことも「争点」になっていることも忘れてはならないでしょう。「特定秘密保護法」と同じように、安倍政権はこれらの法律の危険性が国民に知られる前に総選挙を行おうとしている可能性さえあるからです。

「特定秘密保護法」と「オレオレ詐欺」

「国際情勢の複雑化に伴い我が国及び国民の安全の確保に係る情報の重要性が増大するとともに、高度情報通信ネットワーク社会の発展に伴いその漏えいの危険性が懸念される」ことを理由に、閣議決定で決められた「特定秘密保護法」が12月10日から施行されることになります。

「共同通信」が行ったアンケートの結果では、「特定秘密の件数は政府全体で四十六万件前後」と膨大な数字になるばかりでなく、「適性評価や内部通報の窓口はどの部署が担当するか」などの点も「不透明さが際立つ」ことが明らかになりました。

このアンケート結果を受けて「東京新聞」は、12月6日の紙面で「政府の意のままに秘密の範囲が広がり、国民に必要な情報が永久に秘密にされ、市民や記者に厳罰が科される可能性がある」という「三つの懸念」を指摘しています。

このことは日本ペンクラブなど日本のさまざまな団体だけでなく、「国連人権理事会」が「内部告発者やジャーナリストを脅かす」との懸念を表明し、元NSC高官のハンペリン氏もこの法案を「国際基準」を逸脱しており、「過剰指定 政府管理も困難」との指摘をしたにもかかわらず、十分な審議もなく閣議決定で公布されたこの法律の性質を物語っていると思えます。

以前のブログ記事で書いたように「テロ」の対策を目的とうたったこの法案は、諸外国の法律と比較すると国内の権力者や官僚が決定した情報の問題を「隠蔽」する性質が強く、「官僚の、官僚による、官僚と権力者のための法案」とでも名付けるべきものだろうと私は考えています。

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(秘密裏に交渉されるTPPに対する自民党のポスター。図版はネット上に出回っている写真より)。

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一方、すでに11月末に「法律事務所員などを名乗る複数の男から『あなたは国家秘密を漏らした。法律違反で警察に拘束される。金を出せば何事もなかったようにする』などと電話で脅された女性が、2500万円をだまし取られたという事件が発生していました(「東京新聞」、11月23日)。

「特定秘密保護法」が施行される前に起きたこの事件は、法律が正式に施行された後では、戦前の日本のように厳しい言論統制で「国民」が萎縮し、言論の自由などを奪われて、次第に「臣民」に近い状態になる危険性が高いことを示唆しているでしょう。

 

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安倍首相が共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック)で絶賛した百田尚樹氏の小説『永遠の0(ゼロ)』では、徳富蘇峰の歴史観が正当化されており、この小説には若者たちに死をも恐れぬ「白蟻」のような勇敢さを求める戦前の「道徳」が秘められていると思われます。

(2016年11月18日、図版を追加)

〈若者よ スマホを置いて 選挙に行こう〉

急な選挙となったために、日本では「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」の危険性はまだ理解されず、多くの国民はこれらの法律が「公務員」や「自衛隊員」のみに関わると誤解していると思われます。

しかし、昨日の「東京新聞」では、「内閣情報調査室」が、「海外経験者は、『秘密漏らす』」との懸念を示していたことが報道されています(第26面)。

「特定秘密保護法」が10日に施行されたあとでは海外への留学や外国からの観光客と話すことにも恐怖を感じるような時代に近づくと思われ、安倍政権が「特定秘密保護法」の施行前に総選挙を急いで行うのもそのためではないかと感じています。

映画《少年H》では、クリスチャンであった両親につれられて教会に通っていた肇少年が、日本を離れたアメリカ人の女性からエンパイアーステートビルの絵はがきをもらったことで、次第に「非国民」視されるようになる過程が描かれていました。

リンク→映画《少年H》と司馬遼太郎の憲法観

400万部も売れたと言われる小説『永遠の0(ゼロ)』では、他国の人々と否応なく関わらざるを得ない陸上での戦闘とはことなり、「神風特攻隊員」の空中での「戦闘」や「家族の物語」に焦点が絞られているために、「外国」との関わりや当時の厳しい言論統制の問題は巧妙に避けています。

しかし、「特定秘密保護法」に続いて「集団的自衛権」が施行されたあとの日本は、これまでの日本とは全く異なり戦前のような雰囲気に支配される危険性がきわめて高いと思われます。常に上司や政治家の眼を気にするようになったと思われるNHKのアナウンサーがそのことを示唆しているでしょう。

第二次世界大戦では若者だけでなく中年の人々も招集されました。

今のかりそめの繁栄に惑わされることなく、1年後の日本を思い浮かべて、安倍政権に「NOといえる」毅然とした投票を!