高橋誠一郎 公式ホームページ

黒澤明

「黒澤明監督の倫理観と自然観」の要旨を掲載

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 はじめに――黒澤監督のドストエフスキー観と黒澤映画《夢》

ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグで「人類滅亡の悪夢」を描いていたが、今年の初めには世界が滅亡する時間を示す「終末時計」が冷戦時の1949年と同じ「残り3分」に戻ったと発表された。原水爆の問題を正面から取り上げた黒澤明監督(1910~98年)の映画《生きものの記録》(1955年)から原子力発電所事故を予告したような映画《夢》(1990年)への深まりを地球倫理の視点から考察する。

黒澤監督が映像をとおして描いたようにドストエフスキーの文明観や倫理観はきわめて深いので、『罪と罰』や『白痴』などにも簡単に言及しながら、作家を深く敬愛したソ連の映画監督タルコフスキーとの深い交友や映画《デルス・ウザーラ》をも視野に入れることにより、映画《夢》に至る黒澤監督の自然観や倫理観に迫る。

そのことにより、単に19世紀的な自然観の危険性と絶望的な状況を描くだけでなく、『罪と罰』の結末のように復活の可能性もきちんと示していた黒澤映画《夢》の素晴らしさも明らかにできるだろう。

 Ⅰ、『罪と罰』の「人類滅亡の悪夢」と映画《夢》の「赤富士」と「鬼哭」

a、広島・長崎の悲劇と核兵器の開発競争

b、長編小説『罪と罰』との出会い――キューバ危機からベトナム戦争へ

c、黒澤映画《白痴》における「復員兵」の主人公と「殺すなかれ」という倫理

、映画《生きものの記録》とその時代

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(作成:Toho Company, © 1955、図版は「ウィキペディア」より)

a、「第五福竜丸」事件と映画《生きものの記録》

b、「季節外れの問題作」

c、《Я живу в страхе(私は恐怖の中で生きている)》

d、湯川秀樹博士と文芸評論家・小林秀雄との対談をめぐって

、映画《デルス・ウザーラ》における環境倫理

a、シベリアの環境問題と映画《デルス・ウザーラ》の筋と構想

b、シベリアの環境問題と「自然支配の思想」の批判

c、ドストエフスキーの自然観とタルコフスキーの映画《惑星ソラリス》

、映画《夢》における黒澤明監督の倫理観と自然観

a、『罪と罰』における夢の考察と映画《夢》の構造

b、「やせ馬が殺される夢」と「日照り雨」「桃畑」「雪あらし」の各話

c、「死んだ老婆が笑う夢」と第四話「トンネル」の戦死した部下たちの亡霊

d、「人類滅亡の悪夢」と第六話「赤富士」・第七話「鬼哭」

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(画像はブログ「みんなが知るべき情報/今日の物語」より。http://blog.goo.ne.jp/kimito39/e/7da039753df523c21dcd451020f1e99c …

おわりに――ラスコーリニコフの「復活」と第八話「水車のある村」

資料 年表「終末時計の時刻と黒澤映画」

 

リンク→黒澤明・小林秀雄関連年表(1902~1998)

リンク→年表8,核兵器・原発事故と終末時計

(2015年5月27日、図版とリンク先を追加。2016年4月29日、改訂 )

講演「黒澤明監督の倫理観と自然観――映画《生きものの記録》から映画《夢》へ」に向けて

 

 5月23日(土曜)に行われる「地球システム・倫理学会」の研究例会では、「黒澤明監督の倫理観と自然観――《生きものの記録》から映画《夢》へ」という題名で講演を行います。

リンク→「地球システム・倫理学会」研究例会(5月23日)のお知らせ

講演の準備に取り組む中で黒澤明・小林秀雄関連年表にいくつかの重要な事項が抜けていたことに気づきました。「核兵器・原発事故と終末時計の年表にリンクするとともに、黒澤明・小林秀雄関連年表に下記の事項を追加しました。

また、黒澤明とタルコフスキーという二人の名監督の深い交流とその意義をめぐる堀伸雄氏のすぐれた論文が二誌に掲載されましたので*、両者の交友と作品の事項も追加しました。

リンク→年表7、黒澤明・小林秀雄関連年表(1902~1998)

*   *

1945年 【ロックフェラー財団会長レイモンド・フォスディックが原爆投下の知らせを聞いて「私は良心の呵責に苦しんでいる」と手紙に記す】。

1962年8月 『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』、筑摩書房。(アインシュタインと共同宣言を出したラッセル卿の「まえがき」を所収)。

1965年 小林、数学者の岡潔と対談「人間の建設」(『新潮』10月号)でアインシュタインを批判。

1973年 黒澤、モスクワで映画監督タルコフスキーとともに《惑星ソラリス》を見る。

1986年 【5月 タルコフスキーの映画《サクリファイス》上映】。

 

(* 堀伸雄「黒澤明とアンドレイ・タルコフスキー ~『七人の侍』に始まる魂の共鳴」『黒澤明研究会誌』第32号、および「ドストエフスキーへの執念が育んだ〈絆〉」『ドストエーフスキイ広場』第24号)。

「地球システム・倫理学会」例会のお知らせを「新着情報」に掲載

5月23日(土曜)に行われる「地球システム・倫理学会」の研究例会は、 「黒澤明監督の倫理観と自然観――《生きものの記録》から映画《夢》へ」という題名で行われます。

ポスターでは映画《夢》で描かれている安曇野のわさび田の清冽な水の流れをとおして黒澤監督の感性が見事に反映されています。

リンク→「地球システム・倫理学会」研究例会(5月23日)のお知らせ

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1947年に設定された「終末時計」では東西冷戦による核戦争の危機を評価の基準として「残り7分」と表示されましたが、黒澤監督も映画《生きものの記録》や映画《夢》で原水爆の危険性や原子力発電所の危険性を鋭く浮き彫りにしていました。

残念ながら、福島第一原発事故などにより悪化する地球環境問題などを踏まえて、今年の「終末時計」の表示は1949年と同じ「残り3分」にまで戻ってしまいました。

しかし、《デルス・ウザーラ》などの映画で大自然の力と美しさも描き出していた黒澤監督は、映画《夢》の最終話「水車のある村」では人類の可能性をも示唆していたのです。

 

山城むつみ著『小林秀雄とその戦争の時』(新潮社、2014年)を「書評・図書紹介」に掲載

拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』の公刊は、私が予期していなかったような様々な反応を呼びましたが、昨日、発行された『ドストエーフスキイ広場』には、小林秀雄のドストエフスキー論をめぐる論考などが収められています。

比較文学者の国松夏紀氏には、論点が多く書評の対象としては扱いにくい拙著を書誌学的な手法で厳密に論じて頂きましたが、同じ頃に公刊された山城むつみ氏の『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』の書評は私が担当しました。

『ドストエフスキイの生活』で「ネチャアエフ事件」に言及した文章を引用しながら、小林秀雄の『悪霊』論と「日中戦争の展開」との関係に注意を促しつつ、「急速にテロリズムに傾斜していった」ロシアのナロードニキの運動と、「心の清らかで純粋な人々が、ほかならぬアジアを侵略し植民地化して、まさしくスタヴローギンのように『厭はしい罪悪の遂行』に誘惑されて」いった「昭和維新の運動」との類似性の指摘は重要でしょう。

ただ、私が物足りないと観じたのは、フランス文学者であるだけでなくロシア文学にも通じており比較の重要性を認識していたはずの小林秀雄が、なぜ日本語の「正しく美しきこと」は「万国に優」るとして比較を拒絶し、「異(あだし)国」の「さかしき言」で書かれた作品を拒否した本居宣長論に傾斜していくようになるかが見えてこないことです。

また、「コメディ・リテレール」での「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」という小林秀雄の発言にも言及されていますが、同じような問題は、湯川秀樹博士との対談では、「道義心」の視点から「原子力エネルギー」の問題を鋭く指摘していた小林が、数学者との岡潔との対談では、核廃絶を実践しようとしたアインシュタインをなぜか批判的に語っていることにも見られるでしょう。

「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と断言していた小林秀雄の「富と罰」の意識は、原爆や原発事故の問題に対する日本の知識人の対応を考えるうえでも重要だと思われます。

福島第一原子力発電所事故後の日本を考える上でも重要な著作ですので、一部を注で補うような形で書評を掲載します。

ドストエーフスキイの会「第226回例会のご案内」を掲載

ドストエーフスキイの会「第226回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.127)より転載します。

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第226回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。今回は会場が変更になりました。ご注意ください!

皆様のご参加をお待ちしています。                 

日 時2015年3月21日(土)午後2時~5時         

場 所神宮前穏田(おんでん)区民会館第3会議室(2F)

℡03-3407-1807

 報告者:槙田寿文 

 題 目: 「創造は記憶である」 黒澤映画におけるドストエフスキーとバルザックの受容

*会員無料・一般参加者=会場費500円

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報告者紹介:槙田寿文(まきたとしふみ)

1959年(昭和34)生まれ。商社、外資系メーカーを経て、現在、NPO法人映像産業振興機構所属。黒澤明研究会会員。黒澤明研究家&資料収集家。主な論文『黒澤明とバルザック』『黒澤明の青春』『謎解き「七人の侍」』(「黒澤明研究会会誌」所収)。『生誕百年 映画監督黒澤明展』(フィルムセンター)への資料協力とギャラリートーク。『イノさんのトランク~黒澤明と本多猪四郎 知られざる絆~』(NHKBS)の企画・監修。新資料発見に貢献。

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「創造は記憶である」 黒澤映画におけるドストエフスキーとバルザックの受容

槙田 寿文

 

映画監督黒澤明のドストエフスキーへの傾倒ぶりは隠れもないことであるが、実は黒澤明のバルザックへの傾倒ぶりも深いものがあったことが最近明らかになりつつある。一方、ドストエフスキーのバルザックへの深い敬愛も明らかな事実である。黒澤明、ドストエフスキー、バルザックの相互の関連性と影響度を黒澤明の終戦直後の二つのエッセイを起点として考察を展開するのが今回の発表の概要である。

二つのエッセイとは、一つは雑誌『芸苑』の昭和21年(1946年)7‐8月合併号に掲載された『わが愛読書』という題名の一文で、当時三十六歳の黒澤明が自身の愛読書に関して約二千五百字に亘って率直に述べている。もう一つは、雑誌『シナリオ』昭和23年(1948年)2月号に掲載された『シナリオ三題』というシナリオに関する当時の黒澤明の考えを述べたものである。

当時、戦後第1作『わが青春に悔いなし』を製作中であり、まだまだ、新進気鋭という枕詞がついて回る時期だった黒澤明は、『わが愛読書』の中で、「先ず、一番始めに『悪霊』という名前と『戦争と平和』という名前が浮かんできました。そして、それに続いて『カラマーゾフの兄弟』『アンナ・カレーニナ』『死の家の記録』『虐げられし人々』『白痴』と云う名前が次々に飛び出してきました。それから、少し間を置いて『従妹ベット』『ゴリオ爺さん』『セザール・ビロトー』『幻滅』と云う名前が続きます。(中略)だから、僕はやっぱり一番の愛読書はトルストイとドストエフスキーとバルザックのそれぞれの代表作であると申し上げる外はありません。(中略)何故なら、僕はこれ等の本を愛すると申すより、その前に跪づいていると申した方が適当だからです。云はば、僕にとってこれ等の本は聖書の様なものだからです。」と述べている。

一方、『シナリオ三題』の中では、「ひとつ、社会的に大きな波紋を投ずる程の人物が創造出来ないものだろうか。例えば、今の日本では、ヴォートランやスタブローギンやバザロフの様な人物の創造は不可能なのだろうか。」と述べている。この時期は、黒澤明の評価を決定づけた傑作『酔いどれ天使』の撮影開始直前である。つまり、二つのエッセイは巨匠黒澤明としてではなく、終戦後、日本人が生き方を模索していた時期に、同様に映画作家としての方向性を模索していた黒澤明として書かれたものであり、昭和20年代の黒澤映画と黒澤明の思想的発展を解くカギの一つとなりうると私はみなしている。

発表の前半では、この二つのエッセイを起点として、バルザックが各界に与えた様々な影響、ドストエフスキーのバルザックへの敬愛、そしてアンドレ・ジイドと寺田透によるドストエフスキーとバルザックの比較を通して黒澤作品への影響を考察してみたい。また、バルザック作品のドストエフスキーへの影響や、黒澤作品におけるポリフォニーとカーニバルに関しても再考したい。

発表の後半では、「戦後思想と黒澤明」を大きなテーマとして、「戦後の作家」である黒澤作品が昭和20年代に辿った精神・思想の成長過程と破綻をバルザックとドストエフスキーからの影響である自我の確立、ヒューマニズム、ニヒリズムといった切り口を交えながら見ていきたい。そこでは、最近、黒澤明がゴーストライターであったことが確認された戦中の映画『愛の世界』におけるドストエフスキー的ヒューマニズムの源流や、戦後の黒澤映画に登場するドストエスキー的人物を語ることになるだろう。また、『シナリオ三題』で挙げられたヴォートランやスタヴローギンへの強い関心や憧れはどこから来て、どのように消えたのかも類推してみたい。

多田道太郎は黒澤明の戦後の歩み(昭和20年代)を「黒沢明はずい分遠い道を歩いたものだ。(中略)しかし通してずっとみてみると、それは戦後の、芸術分野での、最高の歩みの一つである。」と述べているが、それを上記のような様々な切り口で追体験できればと考えている。

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 例会の「傍聴記」と「事務局便り」など会の活動については、「ドストエーフスキイの会」のHPhttp://www.ne.jp/asahi/dost/jdsでご確認ください。

なお、HPにはスペインのグラナダで2016年6月7日から10日に開催される国際ドストエフスキー・シンポジュウムの情報も掲載されました。

小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

アメリカの科学誌『原子力科学者会報』は、2015年01月22日に、核戦争など人類が生み出した技術によって世界が滅亡する時間を午前0時になぞらえた「終末時計」が、「残り3分」になったと発表しました。

私自身が文学を研究する道を選んだ大きな動機は、「人類滅亡の悪夢」が描かれている『罪と罰』などをとおして戦争の危険性を訴えるためだったので、「終末時計」がアメリカに続いてソ連も原爆実験に成功した1949年と同じ「残り3分」になったことに強い衝撃を受けています。

それゆえ、「ウィキペディア」などを参考に「核兵器・原発事故と終末時計」の年表を作成しましたので、年表Ⅶとして年表のページに掲載します。

リンク→年表Ⅶ、核兵器・原発事故と終末時計

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(広島と長崎に投下された原子爆弾のキノコ雲、1945年8月、図版は「ウィキペディア」より)

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日本における反原爆の運動と原発事故の問題については、前著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』で考察しました。

しかし、1965年に行われた数学者の岡潔氏との対談「人間の建設」についての言及が抜けていたのでそれを補いながら、小林秀雄の「原子力エネルギー観」と歴史観との関連について簡単に記しておきます。

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1947年に創設された終末時計は東西冷戦による核戦争の危機を評価の基準として、当初は「残り7分」に設定されましたが、文芸評論家の小林秀雄のすばらしい点はその翌年8月に行われた湯川秀樹との対談「人間の進歩について」で、「原子力エネルギー」と「高度に発達した技術」の問題を「道義心」を強調しながら批判していたことです。

しかし、年表をご覧頂ければ分かるように、日本を取り巻く核廃絶の環境はその頃から急速に悪化していき、そのような流れに沿うかのように小林秀雄の原子力エネルギーの危険性に対する指摘は陰を潜めてしまうのです。

リンク→http://zero21.blog65.fc2.com/blog-entry-130.html(湯川秀樹博士の原子力委員長就任と辞任のいきさつ)

たとえば、米ソで競うように水爆実権が繰り返されるようになる1953年から1960年までは最悪の「残り2分」となり、1962年の「キューバ危機」では核戦争が勃発する寸前にまで至りました。それを乗り越えたことにより「終末時計」は「残り12分」に戻ったものの、相変わらず「残り時間」がわずかとされていた1965年に小林秀雄は数学者の岡潔と対談しています。

ことにこの対談で哲学者ベルグソン(1859~1941)にも言及しながら物理学者としてのアインシュタイン(1879~1955)と数学者との考え方の違いについて尋ねた箇所は、この対談の山場の一つともなっています。

しかし、「(アインシュタインが――引用者注)ベルグソンの議論に対して、どうしてああ冷淡だったか、おれには哲学者の時間はわからぬと、彼が答えているのはそれだけですよ」という発言に現れているように、小林の関心は両者の関係に集中しているのです(『人間の建設』新潮文庫、60頁)。

小林秀雄はさらに、「アインシュタインはすでに二十七八のときにああいう発見をして、それからあとはなにもしていないようですが、そういうことがあるのですか」とも尋ねています(太字は引用者、68頁)。

しかし、日本に落とされた原爆が引き起こした悲惨さを深く認識したアインシュタインは、水爆などが使用される危険性を指摘して戦争の廃絶を目指し、それは彼が亡くなった1955年に「ラッセル・アインシュタイン宣言」として結実していたのです。

リンク→ラッセル・アインシュタイン宣言-日本パグウォッシュ会議

湯川博士との対談では「原子力エネルギー」と「高度に発達した技術」の危険性を小林が鋭く指摘していたことを思い起こすならば、ここでもアインシュタインの「道義心」を高く評価すべきだったと思えるのですが、そのような彼の活動の意義はまったく無視されているのです。

*  *

その理由の一端は、「歴史の一回性」を強調し、科学としての歴史的方法を否定した1939年の「歴史について」と題する『ドストエフスキイの生活』の次のような序で明らかでしょう。

「歴史は決して繰返しはしない。たゞどうにかして歴史から科学を作り上げようとする人間の一種の欲望が、歴史が繰返して呉れたらどんなに好都合だらうかと望むに過ぎぬ。そして望むところを得たと信ずるのは人間の常である」〔五・一七〕。

さらに、評論家の河上徹太郎と1979年に行った「歴史について」と題された対談でも、「煮詰めると歴史問題はどうなります? エモーション(感情、感動、編集部注)の問題になるだろう」と河上に語りかけた小林は、「なんだい、エモーションって……」と問われると、「歴史の魂はエモーショナルにしか掴めない、という大変むつかしい真理さ」と説明しているのです。

たしかに、「エモーション」を強調することで「歴史の一回性」に注意を促すことは、一回限りの「人生の厳粛さ」は感じられます。しかし、そこには親から子へ子から孫へと伝承される「思想」についての認識や、法律制度や教育制度などのシステムについての認識が欠けていると思われます。

「歴史の一回性」を強調した歴史認識では、同じような悲劇が繰り返されてしまうことになると思われますし、私たちが小林秀雄の歴史観を問題にしなければならないのも、まさにその点にあるのです*

*  *

そのような問題意識を抱えながらベトナム戦争の時期に青春を過ごしていた私は、伝承される「思想」や法律制度や教育制度などのシステムについての分析もきちんと行うためには、「文学作品」の解釈だけではなく、「文明学」の方法をも取り入れてドストエフスキー作品の研究を行いたいと考えたのでした。

それから半世紀以上も過ぎた現在、人類が同じような問題に直面していることに愕然としますが、学生の頃よりは少しは知識も増え、伝達手段も多くなっていますので、この危機を次世代に引き継がせないように全力を尽くしたいと思います。

*  *

注 *1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていた。

重大な問題は、戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていたことである。

この言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示したのである。(太字は引用者、「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁。不二出版、復刻版、2008~2011年)。

(2015年6月4日、注を追加。6月11日、写真を追加)

 

「映画《醜聞(スキャンダル)》から映画《白痴》へ」を「映画・演劇評」に掲載

 

黒澤明監督の映画《白痴》は、観客の入りを重視した経営陣から「暗いし、長い。大幅カットせよ」と命じられてほぼ半分の分量に短縮されたために、字幕で筋の説明をしなければならないなど異例の形での上映となりました。

それだけの長さを有していたオリジナル版の映画《白痴》でも、複雑な人間関係や深い思想をもつ多くの人物が登場する長編小説『白痴』の全体の流れを描き切るのは難しく、重要な役割を果たしているイッポリートについてのエピソードは映画《白痴》ではまったく描かれてはいません。

しかし、自分の余命がほとんどないことを知って、「死刑の宣告」を受けたように苦しむ定年退職前の市民課の課長・渡辺の苦悩と、新しい生きがいを見つけた喜びをモノクロのトーンでしっくりと描いた映画《生きる》は、イッポリートが望みながら死期を告げられたことで断念してしまった「他者を変え、そして生かす思想」の問題が描かれていた可能性があります。

リンク→映画《白痴》から映画《生きる》へ

映画《白痴》では長編小説の流れにおいてきわめて重要な役を担っているムィシキンの「恩人」パヴリーシチェフやその息子と称してムィシキンが受け取った遺産の一部を受け取る権利があると主張する若者をめぐるスキャンダルも全く描かれていません。

しかし、スキャンダルラスな新聞記事の背後に弁護士の資格を取ったレーベジェフが深く関わっていたことに注目するとき、映画《白痴》の前年に公開された映画《醜聞》(脚本・黒澤明、菊島隆三)と長編小説『白痴』との関わりが浮かび上がってくると思えます。

なぜならば、映画《醜聞》、映画《白痴》、映画《生きる》の三本は、三部作とも言えるほどに深い関係を有しているからです。

「戦時中、李香蘭として日本の男性にひかれる中国人女性を熱演し」、「結果として、日本の戦争に協力することになった」山口淑子氏は、戦後は「ベトナムや中東の戦場にたびたび赴き、争いに翻弄される人々に寄り添い続け」て、平和活動をすることなります(NHK、「クローズアップ現代」)。

これらのことに注意を払うならば、映画《醜聞》では三船敏郎と共演した彼女が語った「贖罪」という言葉は重く、映画《白痴》の亀田(ムィシキン)像を考える上でも重要だと思いますので、「映画・演劇評」のページに映画《醜聞》について考察した記述を再掲しておきます。

リンク→映画《醜聞(スキャンダル)》から映画《白痴》へ

 

映像資料:

NHK:BSプレミアム、「特集 世界・わが心の旅」、「李香蘭 遙(はる)かなる旅路~中国、ロシア」、2014年9月24日(水)放送。

NHK「クローズアップ現代」、「李香蘭・激動を生きて」、2014年10月21日(火)放送。

参考文献:山口淑子『「李香蘭」を生きて 私の履歴書』日本経済新聞出版社、2004年。

 

「学徒兵・木村久夫の悲劇と映画《白痴》」を「主な研究」に掲載

 

強い関心を持っていた加古陽治著の『真実の「わだつみ」――学徒兵 木村久夫の二通の遺書』(東京新聞)が刊行されましたので、「戦犯」として処刑された学徒兵・木村久夫と、映画《白痴》の亀田欽司の人物像をとおして「植民地」と「戦争」との関連を新たな資料に基づいて考察しました。

拙著『黒澤明と小林秀雄』でも小林の歴史観に関連して触れましたが、『真実の「わだつみ」』を読みながら改めて強く感じたのは、「内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立」しようとしたプロシア的な国家観から脱却しようとしたドイツと異なり、日本では未だに戦前の問題が残されているということです。

ヒトラーはフランスを破ってドイツ帝国を誕生させた普仏戦争(1870~1871)の勝利を「全国民を感激させる事件の奇蹟によって、金色に縁どられて輝いていた」と情緒的な用語を用いて強調し、ドイツ民族の「自尊心」に訴えつつ、「復讐」への「新たな戦争」へと突き進みました。私が危惧するのは、「日露戦争」での勝利を強調する政治家たちが日本を同じような道を歩ませようとしていることです。

復員兵の視点から戦後の日本を描いた黒澤映画《白痴》が提起している問題をきちんと考えなければならない時代にさしかかっていると思えます。

*   *

脱稿後に黒澤映画《醜聞(スキャンダル)》(1950)で主演した女優の山口淑子氏が亡くなくなられました。

黒澤明監督がなぜ彼女を選んでいたのかが気になっていたのですが、中国名・李香蘭で多くの映画に出演していたために祖国を裏切ったという罪で銃殺になるはずだった山口氏が、日本人であることが証明されて無罪となり、戦後は「贖罪」として平和活動をされていたことを報道特集で知りました。

論文では追記として記しましたが、「贖罪」という言葉は重く、映画《白痴》の亀田(ムィシキン)像を考える上でも重要だと思いますので、いつか機会を見て改めて考察したいと考えています。

リンク→学徒兵・木村久夫の悲劇と映画《白痴

リンク→「映画《醜聞(スキャンダル)》から映画《白痴》へ」を「映画・演劇評」に掲載

小林秀雄と「一億玉砕」の思想

前回のブログ記事で書いたように。本来は国民の「生命を守り」、豊かな生活を保障するためにある「国家」が、自分たちの責任を放棄して「国民」に「一億玉砕」を命じるのはきわめて異常であると思います。

かつて、そのことを考えていた私は「戦争について」というエッセーで「銃をとらねばならぬ時が来たら、喜んで国の為に死ぬであらう。僕にはこれ以上の覚悟が考へられないし、又必要だとも思はない」と書いていた文芸評論家の小林秀雄が、戦前の発言について問い質されると「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語っていた文章に出会ってたいへん驚きました。

『永遠の0(ゼロ)』という小説を私が詳しく分析しようと思ったきっかけの一つは小林秀雄の歴史認識の問題でしたので、ここでは林房雄との対談の一節を引用しておきます。

*   *

1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていました。

戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていました。

この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していたのです。(太字は引用者、「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁((不二出版、復刻版、2008~2011年)。

*   *

「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」という林房雄の無責任な発言には唖然とさせられましたが、戦後は軍人の一部がA級戦犯として処刑される一方で、戦争を煽っていたこれらの文学者の責任はあまり問われることはなく、小林秀雄の文章は深く学ぶべきものとして、大学の入試問題でもたびたび取り上げられていたのです。

しかも、評論家の河上徹太郎と1979年に行った「歴史について」と題された対談で、「歴史の魂はエモーショナルにしか掴めない」と説明した小林は、「歴史の『おそろしさ』を知り抜いた上での発言と解していいのだな」と河上から確認されると、「それは合理的な道ではない。端的に、美的な道だと言っていいのだ」と断言していました。

『罪と罰』を論じて「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と解釈していた小林秀雄が、果たして「歴史の『おそろしさ』を知り抜いた」と言えるでしょうか。「同じ過ちを犯さないため」に「歴史を学ぶ」ことを軽視して、小林秀雄のように「情念」を強調する一方で歴史的な「事実」を軽視すると、日本人は同じ過ちを繰り返して「皆んな一緒に滅びて」しまう危険性があるのではないでしょうか。

リンク→『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社、2014)

小林秀雄の著書の題名には「考えるヒント」という読者を魅了するようなすぐれた題名の本もありますが、しかし、彼の方法は「考える」ことを断念して「白蟻」のような勇敢さを持つように大正の若者たちに説いた徳富蘇峰の方法に近いのです。

地殻変動によって国土が形成され、地震や火山の活動が再び活発になっている今、19世紀の「自然支配」の思想を未だに信じている経済産業省や産業界は、大自然の力への敬虔な畏れの気持ちを持たないように見える安倍首相を担いで原発の推進に邁進しています。

原発や戦争の危険性には目をつぶって「景気回復、この道しかない。」と国民に呼びかける安倍政権のポスターからは、「欲しがりません勝つまでは」と呼びかけながら、戦況が絶望的になると自分たちの責任には触れずに「一億玉砕」と呼びかけた戦前の政治家と同じような体質と危険性が漂ってくるように思えます。

リンク→「一億総活躍」という標語と「一億一心総動員」 

(2016年2月17日。リンク先を追加)

映画《七人の侍》と映画《もののけ姫》

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(東宝製作・配給、1954年、図版は「ウィキペディア」より)、(《もののけ姫》、図版は「Facebook」より)。

 

2014年10月24日のブログ記事で、『七人の侍』誕生60周年を記念し、黒澤明監督の作品全30本を上映する「黒澤明映画祭」が、大阪・九条のシネ・ヌーヴォで8週間にわたって開催されるとの情報を掲載しました。リンク→「シネ・ヌーヴォ」で「黒澤明映画祭」が開催

その後、11月に宮崎駿監督がアメリカ・アカデミー賞の第87回名誉賞を受賞したとの朗報が入ってきました。これは1989年に黒澤明監督が第62回の名誉賞を日本人として初めて受賞したのに続く快挙です。

実は、黒澤明研究会でも『七人の侍』誕生60周年を記念した特集を組むとのことでしたので、「《七人の侍》と《もののけ姫》」と題した論文を投稿するつもりで半分ほど書き上げていました。

しかし、今年は映画《ゴジラ》の60周年でもあるため、原爆や原発の問題を扱った映画《夢》との深い関連を明らかにするために、急遽「映画《ゴジラ》から映画《夢》へ」という論文の執筆に切り替えました。

そのため「《七人の侍》と《もののけ姫》」について詳しい考察はいずれ機会を見て発表することにし、ここではかつて映画《もののけ姫》について書いた短い記事と、前著 『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、2011年)の一部を抜粋して紹介することで、宮崎駿監督が黒澤明監督から受け継いだこととその意味を簡単に考えて見ることにします。

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映画《もののけ姫》の現代的な意義については、地球環境の問題との関連で次のような短い記事を1997年に書きました。

「(前略)文明理論の授業で未来に対するイメージを質問したところ、多くの学生から悲観的な答えが帰って来て驚いたことがある。しかし、一二月に温暖化を防ぐ国際会議が京都で持たれるが、消費文明の結果として、一世紀後には海面の水位が九五センチも上がる危険性が指摘され、洪水の多発など様々な被害が発生し始めている。(中略) こうして、現代の若者たちを取り巻く環境は、きわめて厳しい。大和政権に追われたエミシ族のアシタカや人間に棄てられ山犬に育てられた少女サンの怒りや悲しみを、彼らは実感できるのだ。

『もののけ姫』には答えはない。だが、難問を真正面から提示し、圧倒的な自然の美しさや他者との出会いを描くことで、観客に「生きろ」と伝え得ている。」

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映画《七人の侍》が高く評価される一方で、映画《白痴》は日本ではあまり高い評価を受けていません。そのことについて長い間考えていた私は、日本においては強い影響力を持っている文芸評論家・小林秀雄が、「『白痴』についてⅡ」の第九章で、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである」と断定していたことが大きいだろうと考えるようになりました。

しかも、「大地主義」を「穏健だが何等独創的なものもない思想であり、確固たる理論も持たぬ哲学であつた」とした小林は、「彼らの教義の明瞭な表象といふより寧ろ新雑誌の商標だつた」と続けていたのです。

しかし、拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年)に記したように、クリミア戦争の敗戦後にシベリアから首都に帰還して雑誌『時代』を創刊したドストエフスキーが、「貴族と民衆との和解」の必要性を強調して、「農奴の解放」や「言論の自由」、「農民への教育」などを訴えたのが「大地主義」だったのです。

「大地主義」との関連に注意を払うならば、長編小説『白痴』は貴族の横暴さや傲慢さを認識した名門貴族の主人公ムィシキンが遺産を得たことで、自分の非力さを知りつつも「貴族と民衆との和解」をなんとか行おうとし、激しい情熱を持ちつつもそのエネルギーを使う方向性を見いだせなかったロシアの商人ロゴージンに新しい可能性を示そうとしつつも、複雑な人間関係やレーベジェフの企みなどによって果たせず、ついに再び正気を失ってしまうという悲劇を描いているといえるでしょう。

このことに注目する時、黒澤映画《白痴》が舞台を敗戦直後の日本を舞台に主人公も復員兵とし、さらには長編小説の流れとは異なるシーンを描きつつも、クリミア戦争敗戦後の混乱した時代を舞台したドストエフスキーの長編小説『白痴』の本質を見事に映像化していたと思われます。

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「大地主義」に対する深い理解は1954年に公開された映画《七人の侍》(脚本・黒澤明、橋本忍、小國英雄)にも現れており、三船敏郎が演じた強いエネルギーを持つ農民出身の若者・菊千代はロゴージン的な役割を担っているといえるでしょう。

なぜならば、依頼者の百姓たちが落ち武者狩りをしていたことを知った浪人の勘兵衛たちは怒って去ろうとしたときに菊千代は、百姓たちに落ち武者狩りをさせたのは戦いや略奪を繰り返してきた侍だと叫んで、百姓たちの気持ちを代弁していたからです。

映画《七人の侍》は戦いに勝ったあとで、百姓たちが行っていた田植えの場面を大写しにしながら、勘兵衛に「いや……勝ったのは……あの百姓たちだ……俺たちではない」と語らせ、さらに「侍はな……この風のように、この大地の上を吹き捲って通り過ぎるだけだ……土は……何時までも残る……あの百姓たちも土と一緒に何時までも生きる!」と続けさせているのです。

宮崎駿監督は黒澤明監督との対談の後で、《七人の侍》が「日本の映画界に一つの基準線を作った」ことを認めて、「その時の経済情勢や政治情勢や人々の気持ちや、そういうもののなかで、まさにあの時代が生んだ作品でもある」と続けた後で、「今、自分たちが時代劇を作るとしたら、それを超えなきゃいけないんです」と結んでいました(黒澤明・宮崎駿『何が映画か 「七人の侍」と「まあだだよ」をめぐって』徳間書店、1993年)。

この言葉はきついようにも見えますが、両者が同じように映画の創作に関わっていることを考えるならば、黒澤映画を踏まえつつ新しい作品を造り出すことこそが、黒澤明監督への深い敬意を現すことになるといえるでしょう。実際、宮崎監督は1997年にアニメ映画《もののけ姫》を公開することになるのです。

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残念ながら、現代の日本はまだ宮崎監督が映画《もののけ姫》で描いたような厳しい状況から抜け出ていません。しかし、現状を直視することによってのみ解決策は生まれると思います。

宮崎監督の最後の長編アニメ映画《風ちぬ》について記したブログには、今も多くの閲覧者の方が訪れられていますが、宮崎駿監督がアメリカ・アカデミー賞の名誉賞を受賞されたこの機会に、《もののけ姫》の源流の一つとなっている《七人の侍》だけでなく、多くの黒澤映画を鑑賞して頂きたいと願っています。

追記:映画《七人の侍》(1954年)にはドストエフスキーの作品からだけではなく、『戦争と平和』からの影響も見られ、一方、黒澤監督を敬愛したタルコフスキー監督の映画(映画《アンドレイ・ルブリョフ》には、《七人の侍》からの影響が見られます。

(2016年1月10日。誤記を訂正し、追記とポスターの図版を追加)