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『罪と罰』

「不注意な読者」をめぐって――黒澤明と小林秀雄の『白痴』観

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一九五二年から翌年にかけて八章からなる「『白痴』について」Ⅱ」を発表していた評論家の小林秀雄(一九〇二~一九八三年)は、長い間中断した後で一九六四年に長編小説の結末について考察した短い第九章を書き、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである。〈後略〉」と結んでいた(傍線引用者、小林秀雄『小林秀雄全集』第六巻、新潮社、一九六七年、三四〇頁。以下、全集からの引用に際しては旧漢字を新漢字になおすとともに、本文中の括弧内に頁数を漢数字で示した)。

小林が時々用いる「不注意な読者」という表現に出会ったときは、この言葉は特定の人物を指すのではなく、一般的な読者に向けられていると感じていた。しかし、拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社)を書くなかで、ここでは一九五一年に映画《白痴》を公開していた黒澤明監督(一九一〇~一九九八年)を指している可能性が強いと考えるようになった。

なぜならば、一九三四年に書いた「『白痴』についてⅠ」で、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない、シベリヤから還つたのだ」と書き、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」と断じていた小林は〔八二〕、戦後の一九四八年に書いた「『罪と罰』についてⅡ」でも、「作者は、短いエピロオグを書いてゐるが、重要なことは、凡て本文で語り尽した後、作者にはもはや語るべきものは残つてゐない筈なのである」と断じていたからである〔二五〇〕。

しかも戦前の一九三七年に「スタヴロオギンは、ムイシュキンに非常によく似てゐる、と言つたら不注意な読者は訝るかも知れないが、二人は同じ作者の精神の沙漠を歩く双生児だ」と書いた小林秀雄は、未完に終わった『悪霊』論を「小さな拳を振り上げてゐる」マトリョーシャの「身振り、これがどうしても堪らないのだ……」というスタヴローギンの「手記」からの意味ありげな引用で中断していた〔傍線引用者、一五八~一六五〕。

すでに一九三四年の「『白痴』についてⅠ」において小林が、ナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定していたことを思い起こすならば〔九五〕、小林の『白痴』論は後に日本で開花することになる「サド・マゾ的心理分析」の端緒を開いていたとも思える。しかも、そこで「人々の平安は又ムイシュキン故に破れる」とも書いた小林は、「ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」と続けていたのである〔傍線引用者、九〇~九一〕。

さらに、ドストエフスキー論の絶筆となる一九六四年の『白痴』論で小林は、「作者は破局といふ予感に向かつてまつしぐらに書いたといふ風に感じられる。『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかつた。来たものは文字通りの破局であつて、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」と解釈していた〔三三九〕。

ここで注意を払っておきたいのは、このような小林の結論が「このホルバインの絵は、ドストエフスキイの思想の動きが、通過する、恐らく繰返し通過しなければならぬ、最も危険な地点を指示する様に思はれる」と書いた直後に記されている次のような考察から導き出されていたことである。 「ドストエフスキイには、外遊中、ルナンが感嘆してゐる様なルネッサンスの美しい宗教画を見る機会はいくらもあつただらうと思はれるが、彼がさういふものに感動した形跡は、彼の書いたもののうちには見当らない。恐らく、美しい宗教画など、彼には何んの興味もなかつたのである」〔二七七〕。

よく知られているようにドストエフスキーはドレスデンの美術館で「美しい宗教画」から強い感動を受けていた(『ドストエーフスキイ夫人 アンナの日記』、木下豊房訳、河出書房新社参照)。そしてグロスマンは、「このころ高遠なルネッサンスの造形美術に接したことは、ドストエフスキイの創作歴上の一大事件となった」と指摘し、『緑色のカーテン』(冨岡道子、未来社)では、『白痴』とラファエロの絵画との関係が詳しく分析されている。 しかも、小林は先の文章に続けて「ルナンが『イエス伝』を書いたのは、ドストエフスキイがシベリヤからペテルブルグに還つて間もなくの事である。この一世を風靡した書物をドストエフスキイが読んだかも知れないが、興味を覚へたとは考えられない」と書いている。

しかし、ルナンの『イエス伝』についての考察は一八六四~六五年の「手帖」だけでなく、『白痴』の草稿にも記されていることが明らかになっているのである(高橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』、一四一頁)。 これに対して、黒澤明監督は小林が『白痴』論を再開する前年に公開された映画《白痴》のラストシーンで、綾子(アグラーヤ)に「そう! ……あの人の様に……人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら……私……私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語らせていた(黒澤明『黒澤明全集』第三巻、岩波書店、一四五頁)。

そして、一九五六年の年末に小林との対談を行っていた黒澤明は、ソ連で撮った映画《デルス・ウザーラ》が公開された一九七五年の若者たちとの座談会では、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ」と語っていた(黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、二八八頁)。 実際、八五〇万人以上の死者を出した第一次世界大戦後に、ヘルマン・ヘッセはドストエフスキーの創作を「ここ数年来ヨーロッパを内からも外からも呑み込んでいる解体と混沌を、これに先んじて映し出した予言的なものであると感じる」と高く評価していた(高橋 『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、刀水書房、六頁)。

黒澤明監督も五千万人以上の死者を出した第二次世界大戦後に公開した映画《白痴》では、原作の舞台を日本に置き換えるとともに、主人公を沖縄で死刑の判決を受けるが冤罪が晴れて解放された復員兵とすることで、映像をとおして敵を殺すことで自国の「正義」を貫こうとする「戦争」の「野蛮性」を強く訴えていたのである。

これらのことに注意を払うならば、「真に美しい善意の人」を主人公とした黒澤映画《白痴》では、自分の『白痴』観に対する徹底的な批判がなされていると小林秀雄が感じていたとしても不思議ではなく、一九六四年に書かれた「不注意な読者」という言葉からは自分のドストエフスキー論に行き詰まりを感じていた小林の捨て台詞のような響きさえも感じるのである。

昨年の秋に私は日本比較文学会・東京支部の大会で「黒澤明監督のドストエフスキー理解」を口頭発表し、原爆や原子力発電所の危険性を描いていた黒澤映画《夢》が、エピローグの意味とラスコーリニコフの「悔悟」を否定した小林秀雄の『罪と罰』観の鋭い批判ともなっていることを具体的に示した。

ドストエフスキーの文明観の問題は日露の近代化や現在の日本の状況とも深くかかわるので、黒澤明監督の映画をとおして小林秀雄のドストエフスキー観の問題点を詳しく検証する著作をなるべく早くに公刊したいと考えている。

(『ドストエーフスキイ広場』第22号、2013年。再掲に際して文体を改正し図版を追加

 リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

 

司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

リンク→「主な研究」のページ構成

はじめに

私がドストエフスキーの作品と出合ったのは、ベトナム戦争が行われていた高校生のころで、原子爆弾が発明され投下されるなど、兵器の近代化によって五千万人もの戦死者を出した第二次世界大戦の後も戦争が続けられることに憤慨して、私は宗教書や哲学書、さらに文学書を学校の授業もおろそかにして読みふけって価値観を模索していた。

それゆえ、長編小説『罪と罰』や『白痴』を読んだ際には、社会状況をきちんと分析しながら、自己と他者の関係を深く考察することで個人や国家における「復讐の問題」を極限まで掘り下げているこれらの作品は、「殺すこと」が正当化されている状況を根本的に変える力になると思えたのである。そして、そのような思いから戦後も高く評価されていた小林秀雄のドストエフスキー論も一時期、熱心に読んだ。

1,情念の重視と神話としての歴史――小林秀雄の歴史認識と司馬遼太郎

しかし、私がロシア文学ではなく文明学を研究対象とした理由の一端は、一九三五年から一九三七年にかけて雑誌『文學界』に連載されていた小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』の冒頭におかれていた「歴史について」と題された「序」にあった。

この「序」で、「歴史は神話である。史料の物質性によつて多かれ少かれ限定を受けざるを得ない神話だ」と規定した小林は、「既に土に化した人々を蘇生させたいといふ僕等の希ひと、彼等が自然の裡に遺した足跡との間に微妙な均合が出来上る」とし、「歴史とは何か、といふ簡単な質問に対して、人々があれほど様々な史観で武装せざるを得ない所以である」とし、「一見何も彼も明瞭なこの世界は、実は客観的といふ言葉の軽信或は過信の上に築かれてゐるに過ぎない」と記していた((下線引用者、『小林秀雄全集』第五巻、新潮社、一九六七年、一四~一六頁。引用に際しては、旧漢字は新漢字に改めた。)。

この『ドストエフスキイの生活』が発表されていた一九三六年に日本はロンドン軍縮会議からの脱退を宣告し、一九三七年からは太平洋戦争に直結することになる日中戦争が始まっていたが、「僕は本質的に現在である僕等の諸能力を用ひて、二度と返らぬ過去を、現在のうちに呼び覚ます」と記した小林は、「僕は一定の方法に従つて歴史を書かうとは思はぬ」と宣言し、「立還るところは、やはり、さゝやかな遺品と深い悲しみとさへあれば、死児の顔を描くに事を欠かぬあの母親の技術より他にはない」と情緒的な言葉で自分の「方法」の特徴を示し、「要するに僕は邪念といふものを警戒すれば足りるのだ」という言葉で「序」を結んでいた。

こうして、この「序」で「自然」や「歴史」の問題に言及しながら、自分の方法の特徴を端的に記した小林は、「自分の情念」を大事にしながら、自分の選んだ作品の主人公や主要な登場人物について考察している。しかし、青年に達した「死児」はすでに自分独自の交友関係を有しているのであり、いかに子供を深く愛していても「母親」の「情念」だけでは、「死児」の全体像を描き出すのは難しいと思われる。

実際、日本では恋愛小説として理解されている長編小説『白痴』では、貧富の格差や貴族たちのモラルの腐敗の問題が、きわめて鮮明に描き出されているが、小林秀雄の『白痴』論ではこれらの問題にはほとんど言及されていない。

最初はこのことを不思議に感じたが、「四民平等」を謳った明治維新後に導入された「華族制度」は、帝政ロシアの貴族制度とも似ていたので、『白痴』に描かれているこれらの問題に言及することは、日本の華族制度の批判とみなされる危険性があったのである。しかも問題は、戦後になって厳しい検閲制度が廃止された後でも小林が自分の『白痴』観を変えなかったことである。

それゆえ、そのような小林秀雄の歴史認識に疑問を感じていた私は、帝政ロシアの問題をきちんと分析していない小林秀雄のドストエフスキー論が戦後も高く評価されていることに深い危機感を抱いた。なぜならば、クリミア戦争の敗北後に帝政ロシアでは、農奴制の廃止や言論の自由などの「大改革」が行われたが、しかし自分たちの利権が失われることを嫌った貴族たちによって改革は骨抜きにされて再び厳しい言論統制がおこなわれるようになり、露土戦争での勝利や日露戦争での敗戦を経て革命にいたっていたからである。

一方、司馬遼太郎は『昭和という国家』(NHK出版、一九九八年)の「買い続けた西欧近代」と題された第九章で、真珠湾攻撃の後に行われた「近代の超克」という座談会に「当時の知識人の代表者」だった小林秀雄も参加していたことを紹介し、「小林秀雄さんを尊敬しております」と断りつつも、このときの座談会については「太平洋戦争の開幕のときの不意打ちの成功によっても、日本のインテリは溜飲を下げた」ときわめて厳しい批判を投げかけていた。

このことに注目しながら、戦争中に書かれた小林の「歴史と文学」や「疑惑 Ⅱ」というエッセーを読むと、芥川龍之介の『将軍』観や菊池寛の『西住戦車長伝』観が、司馬遼太郎の見方とは正反対であることに気づく。(リンク→)最後に戦時中に書かれた「歴史と文学」における小林の歴史認識と司馬遼太郎との違いを確認することで、これまで矮小化されてきた司馬遼太郎の「文明史家」としての大きさを明らかにしたい。

2、小林秀雄の「隠された意匠」と「イデオロギーフリー」としての司馬遼太郎

「歴史と文学」の第一章で小林秀雄は、「歴史は繰返すという事を、歴史家は好んで口にする」が、「歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似てゐる。歴史を貫く筋金は、僕等の愛情の念といふものであって、決して因果の鎖といふ様なものではないと思ひます」と記していた。

そして、「大正以来の日本の文学は、十九世紀後半のヨオロッパ文学の強い影響」下にあることを指摘し、「作家たちによる、人間性といふものの無責任な乱用」や、唯物史観の影響下にある文学を批判した小林秀雄は、『大日本史』の列伝では「様々な人々の群れが、こんなに生き生きと跳り出す」ことを指摘して、作家たちが「腕に縒りをかけて、心理描写とか性格描写とかをやつてゐる」、「現代の小説」のつまらなさを糾弾していた(二一七頁)。

さらにこの文章の末尾で「僕は、日本人の書いた歴史のうちで、『神皇正統記』が一番立派な歴史だと考えてゐます」とも記した小林は、この書を小田城などの陣中で書いた北畠親房が「心性明らかなれば、慈悲決断は其中に有り」と記していることに注意を促して、物事を判断する「悟性」よりも「心性を磨くこと」の大切さを強調し、「この親房の信じた根本の史観は、今もなほ動かぬ、動いてはならぬ」と主張していた。

一方、『竜馬がゆく』(文春文庫)には「歴史こそ教養の基礎だ」とする武市半平太が、宋の学者司馬光が編んだ「古代帝国の周の威烈王からかぞえて千三百年間の中国史」を描いた「編年体」の『資治通鑑(しじつがん)』を自分が教えると誘うが、坂本竜馬はこの提案を断って漢文で書かれたこの難解な歴史書を我流で読んで、書かれている事実を理解するという場面が面白おかしく描かれていた(第二巻・「風雲前夜」)。

このエピソードは一見、竜馬の直感力の鋭さを物語っているだけのようにも見えるが、「イデオロギーフリー」としての司馬の歴史観を考えるうえではきわめて重要だろう。なぜならば、『竜馬がゆく』において幕末の「神国思想は、明治になってからもなお脈々と生きつづけて熊本で神風連(じんぷうれん)の騒ぎをおこし、国定国史教科書の史観」となったと記した司馬は、さらに「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判しているからである(第三巻・「勝海舟」)。

実は、作家の海音寺潮五郎が司馬との対談『日本の歴史を点検する』(講談社文庫)で語っているように、古代の中国の歴史観では自国を世界の中心と見なす「中華思想」が強く、ことに漢民族が滅亡するかもしれないという危機の時代に編まれた『資治通鑑』には、「尊王攘夷」や「大義名分」などの考え方が強く打ち出されていた。そして司馬は、南北朝の時代に『神皇正統記』を著した北畠親房を「中国の宋学的な皇帝観の日本的翻訳者」と位置づけているが、危機的な時代に著された『神皇正統記』にはそのような「尊王攘夷」史観が強く、徳川光圀が編纂した『大日本史』もそのような見方を強く受け継いでいたのである。

しかも、「歴史と文学」の第一章で、「歴史は繰返すという事を、歴史家は好んで口にする」が、「歴史は決して二度と繰返しはしない」と記していた小林秀雄は、敗戦後の一九四六年に行われた座談会で、トルストイ研究者の本多秋五から戦前の発言を問い質されると、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語っていた。

この発言について司馬は何も言及していない。しかし、満州の戦車隊で「五族協和・王道楽土」などのイデオロギーというレンズの入った「窓」を通してみることの問題点を痛感した司馬は、もし戦場から生きて帰れたら「国家神話をとりのけた露わな実体として見たい」と思うようになり、この「露わな実体」に迫るために「自分への規律として、イデオロギーという遮光レンズを通して物を見ない」という姿勢を課していた(「訴える相手がないまま」『十六の話』)。

そして、ノモンハン事件の研究者クックから戦前の日本では、国家があれほどの無茶をやっているのに、国民は「羊飼いの後に黙々と従う」羊だったではありませんかと問われた司馬は、「日本は、いま世界でいちばん住みにくい国になっています。そのことを、ほとんどの人が感じ始めている。『ノモンハン』が続いているのでしょうな」と答えていたのである。(「ノモンハンの尻尾」『東と西』朝日文庫)。

司馬遼太郎は「唯物史観」の批判者という側面のみが強調されることが多いが、「大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」、「尊王攘夷史観」の徹底した批判者でもあったのである。

青年のころに「神州無敵」といったスローガンに励まされて学徒出陣したことで、「イデオロギーにおける正義というのは、かならずその中心の核にあたるところに、『絶対のうそ』」があります」と書いている(「ブロードウェイの行進」『「明治」という国家』NHK出版)。国家が強要する「”正義の体系”(イデオロギー)」によってではなく、世界史をも視野に入れつつ自分が集めた資料や隣国の歴史などとの比較によって日本史を再構築しようとした司馬遼太郎の試みは壮大だったということができるだろう。

さらに、「二十一世紀に生きる君たちへ」という自分の文明観を分かりやすく子供たちに語りかけた文章で、「私ども人間とは自然の一部にすぎない、というすなおな考え」の必要性を訴えた司馬は、「今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きている」ことを強調し、「自国」だけでなく「他国」の文化や歴史をも理解することの重要性を明確に示していた(『十六の話』)。

分かりやすい文章で書かれた司馬遼太郎の長編小説では、描かれている個々の人物も屹立した樹木のように見事なので、一部分だけが引用されると誤解されることが多いが、その全体像は鬱蒼たる森のように奥深く、彼の文明観は厳しい形で幕が開いた二十一世紀のあり方を考える上でもきわめて重要だと思える。

(〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉『全作家』第90号、2013年より、歴史認識の問題を独立させ、それに伴って改題した)。

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

 

司馬遼太郎の戦争観――『竜馬がゆく』から『菜の花の沖』へ

リンク→「主な研究」のページ構成

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(『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』、のべる出版企画)

司馬遼太郎氏の長編小説『竜馬がゆく』(一九六二~六六)と出会ったのは、ベトナム戦争が泥沼化する一方で、日本でも学生運動が過激化していた時期であった。

この長編小説に熱中して読むようになった一因は、自己と他者との関係の考察をとおして「殺すこと」の問題を根源まで掘り下げたドストエフスキーの『罪と罰』や『白痴』などの作品を、著名な文芸評論家の小林秀雄がテキストに忠実に読み解くのではなく、自分の主観によって矮小化していることに気づいたからだと思える。

小林は犯罪者の心理や主人公たちの三角関係のもつれに焦点をあてて扇情的な読み方をしているが、「暗黒の三〇年」と呼ばれるニコライ一世の治世下に青春を過ごし、言論の自由や農奴の解放を求める運動に参加して捕らえられたドストエフスキーには、その表現方法や歴史観などの変化がシベリア流刑後には認められるものの「憲法」や「良心」の重要性の認識においては、揺るぎはなかったのである。

一方、ペリー提督の艦隊が「日本人をおどすためにごう然と艦載砲をうち放った」ことに触れて、これは「もはや、外交ではない。恫喝であった」と記し、「近代日本の出発も、この艦載砲が、火を吐いた瞬間からであるといっていい」と続けていた司馬氏は、そのような厳しい状況下で攘夷思想を持つようになった竜馬が、勝海舟などとの出会いによって「憲法」の重要性に目覚める過程を描き、竜馬が記した「船中八策」を「新日本を民主政体(デモクラシー)にすることを断乎として規定したもの」と位置づけていた。

しかも、二〇一〇年に放映されたNHKの大河ドラマ《龍馬伝》が、明治七年の台湾出兵や明治一〇年の西南戦争などで利益をあげて巨万の財を築くことになる岩崎弥太郎を語り手としていたが、『竜馬がゆく』で政商となる岩崎の負の面も描いていた司馬氏は、『坂の上の雲』(一九六八~七二)では戦争と経済の問題点を次のように鋭く指摘していた。

「日本の戦時国民経済がほぼ平時とかわらなかったのは、主として外国の同情によって順調にすすんだ外債のおかげであった。結果としての数字でいえば日露戦争は十九億円の金がかかった。このうち外債が十二億円であったから、ほとんどが借金でまかなった戦争といっていい」(五・「奉天へ」)。

司馬氏はさらに「自国の東アジア市場」を守るためにイギリスが同盟国の日本に求めたのは、「ロシアという驀進(ばくしん)している機関車にむかって、大石をかかえてその前にとびこんでくれる」ことであったと指摘して、軍事同盟の危険性も指摘していたのである(七・「退却」)。

それゆえ、『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』から、『菜の花の沖』に至る司馬作品を分析した拙著『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、二〇〇二年)を急いで発行したのは、「ならず者」国家に対しては、核兵器による先制攻撃も許されるとしたブッシュ・ドクトリンに引きずられて、日本が戦争に参加するようになることを危惧したためであった。

しかし、残念ながらそれは単なる杞憂には終わらなかった。八月一四日の安倍談話では日英の軍事同盟によって勝利した日露戦争の意義が強調され、国会でも十分な審議がなされないままに、戦争への参加を可能とする「安全保障関連法案」が「強行採決」によって可決された。その直後には武器の輸出を促進する「防衛装備庁」が発足したが、それに先だって経団連は「防衛産業を国家戦略として推進すべきだ」とする提言をまとめていたことが判明した。

この意味で注目したいのは、『坂の上の雲』において一九世紀末を「地球は列強の陰謀と戦争の舞台でしかない」と規定していた司馬氏が、江戸時代に起きた日露の衝突の危機を救った商人・高田屋嘉兵衛を主人公とした『菜の花の沖』(一九七九~八二)では、一八一二年の「祖国戦争」にもふれつつ、嘉兵衛に「欧州ではナポレオンの出現以来、戦争の絶間がないそうではないか」と批判させていたことである。

そして嘉兵衛が、日本と帝政ロシアとの軍制の違いにふれて「日本の場合、どういう怨みがあっても、自国を固めることはあっても、不法に他国を攻めるようなことがない」と語ったと描いた司馬氏は、嘉兵衛が「愛国心を売りものにしたり、宣伝や扇動材料につかったりする国はろくな国ではない」と説いたことに注意を促して、「こういうことを大見得でもって言えたのは、江戸期の日本だったればこそであったろう」と続けている。

日本はアメリカとの軍事同盟により再び軍事大国への道を歩み始めているように見えるが、兵器の輸出などは一時的な景気の上昇にはつながっても長い目で見れば、国家経済を破綻へと導くことになるだろう。原爆の悲劇を体験した日本は、伝統的な平和観に基づく「憲法」の精神を再評価すべき時期に来ているように思われる。

(『全作家』第100号、2015年12月、132-133頁。表現を一部訂正して掲載)

作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観

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 作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観

はじめに

文芸評論家・小林秀雄(1902~1983)のドストエフスキー論からは高校生の頃に強い影響を受けたが、小林秀雄の『白痴』論をドストエフスキーのテキストと具体的に比較しながら読んだ時に、客観的に分析されているように見えたその解釈が、きわめて情念的で主観的なものであることに気づいた。

フランス文学者・寺田透(1915~1995)の『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房、1978年)については、拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)で簡単に触れたが*1、自分の感性によってドストエフスキーのテキストを深く読み込むことで、ドストエフスキー作品の独自な解釈を行った小林秀雄の方法と同じように研究書には依拠せずに書きたいと考えていたために、寺田透の小林秀雄観については手つかずのままであった。

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ようやく調べ初めてみるとすぐれた卓見が随所に見つかった。私自身はフランス語にうといので、翻訳の問題に深く立ち入ることはできないが、小林の翻訳や文体についてだけでなく、『ゴッホの手紙』などの伝記的研究の問題点についても鋭い分析を行っていた寺田透の記述を年代の流れに沿って考察することにより、小林秀雄のドストエフスキー解釈の問題に迫りたい(本稿においては、敬称は略した)。

1、文体の問題と伝記的研究

1951年に発表された「小林秀雄論」で、小林の最初の評論集が上梓された時は、「中学四年の末、高等学校の入学試験準備に忙しい最中だった」と記した寺田は、「まず僕を魅したのは、かれの自我の強烈さだった、ということが今になれば分る。僕はかれの思想に食い込まれるというより、かれの精神の運動に眩惑されたというべきだ」と書いた*2。そして、「たしかにかれはその文体によって読者の心理のうちに生きた」と強烈な文体からの印象を記した寺田は、「いわば若年の僕は、そういうかれの文体に鞭打たれ、薫染されたと言えるだろう」と続けていた。

しかしその後で、小林のランボーの訳詞などに徐々に違和感を募らせたことを記した寺田は、伝記的研究の『モーツアルト』において「二つの時代が、交代しようとする過渡期の真中に生きた」とモーツアルトを規定し、「彼の使命は、自ら十字路と化す事にあった」と記していた小林自身は、「みずから現代の十字路と化すかわりに、現代の混乱と衰弱を高みから見降し、過去をたずね、そこからかれ迄通じている歴史の脈路を見出すことに、かれの資質にかなった生き方を見出す」と分析して、両者の違いを明らかにした。

さらにここではそのような解釈の方法は、小林が「対象を自分に引きつけて問題の解決をはかる、何というか、一種の狭量の持ち主であることをも語っている」と記されているが、それは小林の『ゴッホの手紙』に対する批判にも通じている。

1953年に書かれた「ゴッホ遠望」で寺田は、「批評家小林秀雄には多くのディレンマがある。そのひとつは芸術家の伝記的研究などその作品の秘密をあかすものではないと、デビュの当初から考え、…中略…それを喧伝するかれが、誰よりも余計に伝記的研究を世に送った文学評論家だということのうちに見出される」と指摘しているのである*3。

さらに寺田は、小林秀雄が度々伝記を調べて評伝を書いている理由を、「そこにあるのは、評伝が芸術作品の代用をつとめうるという仮設、といっては余りにも無態だが、巧みに書かれた評伝は、その評伝の主人公である人間の芸術作品によって惹起される感動を近似的に再現しうるのじゃないかという願望である」と想定している。

実際、小林秀雄の生活と初期の作品を小林的な方法で詳しく考察した文芸評論家の江藤淳も、伝記的研究の『小林秀雄』でE・H・カーのドストエフスキー論と比較しながら、「いはばカアの主人公はペテルスブルグの街路を歩いているが、小林のドストエフスキイは彼自身の心臓の上を歩いている」と書き、『白痴』の最後の場面の解釈について「ことに小林が『滅んで行く』三つの生命に、自分と中原中也と長谷川泰子との、『憎み合うことによつて、……協力する』あの『奇怪な三角関係』を投じて見ていることは疑いをいれない」と解釈している*4。

このような江藤の指摘は、小林秀雄の『ドストエフスキーの生活』と『白痴』論との関連をも示唆していると思える。すなわち、「『白痴』についてⅡ」では、ムィシキンの癲癇という病や、主人公とナスターシヤをめぐるロゴージンとの三角関係などに焦点をあてて解釈されるとともに、やはり癲癇という病を持ち愛人との三角関係も体験していたドストエフスキーとの類似性に注意を促していたのである。

一方、小林の伝記的研究へのこだわりを指摘した寺田は、その後で「それはそうとゴッホに対してこの小林のやり方はうまく行っただろうか。/世評にそむいて僕は不成功だったと思っている」と続けていた*5。

そして、「これらのゴッホの作品を叙する小林秀雄の論鋒は奇妙に変転し、評価のアクロバットと言いたいような趣きを呈する」と指摘した寺田は、「小林流にやったのでは」、「絵をかくものにとって大切な、画家ゴッホを理解する上にも大切な考えは、黙過されざるをえない」と指摘していた。

この批判は小林秀雄の『白痴』論にも当てはまるだろう。拙論「長編小説『白痴』における病とその描写」でも指摘したが、家族関係を解体して「孤独な個人」に焦点をあてた小林の解釈では、長編小説に描かれている複雑な人間関係が意図的に省略されているために、長編小説全体の理解に重大な「歪み」が生じているのである*6。

さらに注目したいのは、ルナンの『イエス伝』がゴッホに与えた強い影響に言及した小林が、「ルナンが『キリスト伝』を書いたのは、ドストエフスキイが、シベリヤから還つて来て間もない頃である。ドストエフスキイが、この非常な影響力を持った有名な著書を読んだかどうかは明らかではないが、読んだとしても、恐らく少しも動かされることはなかったであらう」と断言し、「恐らく、美しい宗教画など、彼には何んの興味もなかつたのである」と続けて、「無気味なものや奇怪な現象に強い興味を示したムィシキン」と作者との類似性を強調していたことである*7。

ゴッホとドストエフスキーとを比較しつつ描かれているこれらの記述は、映画監督を目指す前にはゴッホやセザンヌのような画家になることを目指していた黒澤に、強い反発心を起こさせたと思える。

なぜならば、黒澤明監督は木下恵介監督により1948年に公開された映画《肖像》のシナリオで、『白痴』のナスターシヤと同じような境遇のミドリを主人公とし、老画家から頼まれて肖像画のモデルとなったミドリに、「私ね、じっと座ってその画描きの綺麗な眼でじっと見られていると、なんだか、澄んだ冷い流れに身体をひたしている様な気がするの」と告白させていたからである。こうして、黒澤はこの脚本で画家の家族にも励まされて苦しくとも自立しようとするミドリの姿を描き、真実を見抜く観察眼の必要性と辛くても「事実」を見る勇気が、状況を変える唯一の方法であることを強調していたのである*8。

映画《夢》を論じた拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』の第4章では、この映画が『罪と罰』における夢の構造との驚くような類似性があることを示して、そのような類似性が生じたのは小林秀雄の『罪と罰』観を黒澤明が批判的に考察し続けたことの結果ではないかと記した*9。

さらに、ゴッホの絵の展覧会場で絵に見入っていた主人公の「私」が絵の中に入り込み、ゴッホと出会うシーンが描かれている第五話「鴉」が挿入されているのも、小林秀雄のゴッホ観への批判が根底にあったかではないかという想定をしていた。「ゴッホ遠望」における寺田の考察は、私のこの想定を支える有力な根拠となりうると思える。

この考察に続いて1955年に発表した「小林秀雄の功罪」という題のエッセーでも寺田透は、「ゴッホにとっては、その内部に蠢(うごめ)き、かれをつき動かし、かれに静止を許さなかったその情熱的な、というより宿命的な生の規範が、小林氏にとっては、いわば箴言(しんげん)にすぎなくなっているのを見た」と小林の『ゴッホの手紙』を痛烈に批判していたのである*10。

 2、「自意識過剰」という訳語――翻訳と解釈

「その頃のヴァレリー受容」と題された1983年の日本フランス語フランス文学会関東支部春季総会の講演で、小林秀雄の『テスト氏』の翻訳が出版された1932年に、「僕は第一高等学校の文科丙類の生徒で、二年生」であったと語った寺田透は、当時は「ひどい就職難の時代で」、「こういう閉塞状態が自意識、自己意識の問題を発達させた」こともあり、

「それで小林秀雄氏の訳したヴァレリーの『テスト氏』の中の訳語、自意識過剰というようなものも、たちまち行き渡り、時代の、少なくも青春にかかわる一般的命題になった」と当時のヴァレリー受容と時代との関わりを語った*11。

その後で小林秀雄が「exces」*という原文を「過剰」と訳していることにふれて、「過剰といいますと、だいたい量的に多すぎるということがその日本語としての語感」であるのに対し、「excesという言葉は」、「分量の問題よりも程度の問題になってくる。平面的にひろがる多さではなく、高く、強く、上にのびる大きさということになる」と説明している。

そして寺田は、『テスト氏』の主人公が「そのころの青年たちが抱えていた自意識過剰とは違う、もっといわば能動的、積極的な、自分をふたりとない強力な存在として意識するときの誇り高い自意識に苦しんでいた」ことを指摘し、「それは批評家として乗り出して行こうとしている小林さんの自意識とはずいぶん性格のちがうものだったと考えていいでしょう」と続けて、原文と訳語のニュアンスの違いに注意を促していた。

この指摘から思い起こされたのは、小林秀雄が「『白痴』についてⅠ」で「『白痴』は一種の比類のない恋愛小説には相違ないが、ムイシュキン、ナスタアシャ、ラゴオジン、アグラアヤの四人の錯雑した関係のうちに、読者は尋常な恋愛感情、恋愛心理を全く読みとる事は出来ない」と断定し、ことにナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定していたことである*12。長編小説『白痴』にプーシキンの作品からだけではなく、フランスの『椿姫』や『レ・ミゼラブル』からの強い影響と、独自な受容を見ていた私はこのような解釈にたいへん驚かされた。このように規定されてしまうと、小林秀雄のドストエフスキー論の読者は、ナスターシヤの内に精神的な自立を目指した女性や、彼女にふさわしい男性になろうとしてプーシキンの作品を読み、ロシア史を学ぼうと努力していたロゴージンの可能性を読み落とすことになると思われる。

さらに、主人公の「善」と「悪」の意識に関わる重要な箇所を小林秀雄が意図的に誤訳したと指摘している寺田の次の指摘は小林秀雄のドストエフスキー論の厳しい批判ともなっている。少し長くなるが引用しておきたい。

「こういう、より情緒的、より人間臭く、そして、じかに生理にはたらきかけてくる表現の方向をとる小林さんの傾向は『テスト氏』の翻訳の中にも頻繁に見出され」と書いた寺田透は、「『善と縁を切る』といった訳語でなければならない」、「s’abstraire de」という原文を、「『善に没頭する事はひどく拙い』と小林さんのように訳しては、話が反対になってしまいはしないでしょうか。/小林さんはこういった間違いを不注意でやったのではないと僕は感じるのです」と記して、こう続けている*13。

「善を断つにはひどい苦渋を伴うが、悪を断つことは楽々とできるテスト氏の性分を暗示した対句ととらなければなりませんでしょう。/あとのほうを小林さんは『悪には手際よく専念している……』と訳していますが、こうなると、ある人間解釈にもとづく、積極的な誤訳としかいいようがありません」(太字は引用者)。

そして「小林秀雄氏の死去の折にⅢ」という副題を持つ講演記録では、「小林さんは良心の導き手である宗教人といったものを、俗物ときめてかかったのではないか」という深刻な疑問も記されているのである。

寺田が『テスト氏』で感じた疑問は、主人公には「罪の意識も罰の意識も」ないと解釈して、ラスコーリニコフの精神的な「復活」を描いた『罪と罰』のエピローグが読者のために書かれたと小林が解釈していたこととも深く結びついているだろう。

3,「後世のために自分の姿を作つて行くひと」

1948年の8月に行われた物理学者・湯川秀樹博士との対談で、原爆の発明と投下について、「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」と語った小林秀雄は、「高度に発達する技術」の危険性を指摘するとともに、「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」と強調していた*14。

問題はそのように時代を先取りするような倫理的な発言をしていた小林が、原発が国策となると沈黙していただけでなく、さらに、「国策」としての戦争の遂行を擁護するような戦前に書いた文章を全集に収録する際に改竄したり削除していたことである。

一方、寺田透は『文学界』に寄稿した「小林秀雄氏の死去の折に」という記事で、「男らしい、言訳けをしないひととする世評とは大分食ひちがふ観察だと自分でも承知してゐるが」と断った上で、次のように明記していた*15。

「戦後一つ二つと全集が出、その中に昔読んで震撼を受けた文章が一部削除されて入つてゐるのを見たり、たしかに読んだ筈の警句がどこからも見出されない経験をしたりしてゐるうち、僕はかれを、後世のために自分の姿を作つて行くひとと思ふやうになつた。/作られた自分の姿のうしろから自分は消える、さうしなければならない。自分を抜け殻――かつてはさう呼んだもの――のかげに消してしまふこと」。

小林秀雄の文芸評論は今も高く評価されているように見えるが、寺田の小林評は日本における文学の意義を再構築する上できわめて重要だと思える。

 

フランス語の「exces」にアクサン・グラーヴが付けられれないので、そのままになっている。

*1 高橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、2011年、155頁。

*2 寺田透「小林秀雄論」『小林秀雄集』(『現代日本文學大系』60)、1969年、427頁。

*3 寺田透「ゴッホ遠望」、前掲書『小林秀雄集』、438頁。

*4 『江藤淳著作集』第3巻、講談社、1977年、137~146頁。

*5 寺田透、前掲論文「ゴッホ遠望」、439~441頁。

*6 高橋「長編小説『白痴』における病とその描写――小林秀雄の『白痴』論をめぐって」『世界文学』117号、2013年参照。

*7 『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、186~187頁、277頁。

*8 高橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、2014年、34~38頁。

*9 平野具男氏の精緻な「書評的短見」では、哲学的な議論が多い第4章については「論の運びが突っ込みと展開にやや物足りない観」があるとの厳しい指摘とともに非常に温かい評価を頂いた。『世界文学』120号、2014年、100~108頁。

*10 寺田透「小林秀雄の功罪」、前掲書『小林秀雄集』、441~448頁。

*11 寺田透「その頃のヴァレリー受容――小林秀雄氏の死去の折にⅢ」『私本ヴァレリー』、筑摩叢書、1987年、58~63頁。

*12 『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、94~95頁。

*13 寺田透、前掲論文「その頃のヴァレリー受容」、74~77頁

*14 『小林秀雄全作品』第16巻、新潮社、2004年、51~54頁。

*15 寺田透「小林秀雄氏の死去の折に」『文學界』、1983年、70頁。

(『世界文学』第122号、2015年12月、96~100頁)

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(2016年2月1日、関連記事一覧を追加。2017年11月9日、書影を追加))

サンクト・ペテルブルクでの国際比較文明学会の報告

リンク→「主な研究」のページ構成

 

はじめに

2003年9月16日から22日まで国際比較文明学会とそれに続いて学術研修旅行がサンクト・ペテルブルクの建設300周年を記念してロシアで開かれ、筆者は「日本におけるドストエフスキー受容ーーサンクト・ペテルブルクのテーマと方法としての対話」という発表を行った。

主な関心はサンクト・ペテルブルクとロシア文学との関わりを再考察するとともに、比較文明学の創始者の一人とも言われるダニレフスキーや文学作品において深い歴史的考察を行ったプーシキンやその伝統を受け継ぐドストエフスキーやトルストイなどの大作家を輩出しているロシアにおいて、比較文明学の大会がどのように受け入れられるかに強い興味を持ったからでもある。

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(アレクサンドル・ネフスキー大修道院の外観。図版は「ウィキペディア」より)

もう一つの関心は学会での発表が終わったあとに組まれていた学術旅行で、そこにはロシア建国の際の都市であるノヴゴロドやプーシキンゆかりの都市であるプスコフなどとともに、ロシア最古の都市として耳慣れない都市の名前も書かれており、きわめて強い関心をもった。

ただ、ロシアの経済が混乱から完全には脱し切れていない中で、国際比較文明学会と国立エルミタージュ美術館、ソローキン・コンドラチェフ研究所、ロシア科学アカデミー歴史部門などロシア側の5学術団体が共同して行うこのような規模での国際学会を果たしてきちんと乗り越えられるかにも強い不安もあった。実際、運営方法をめぐっては様々ないきさつがあったようで、最初の日程表とは異なるものとなり、レジュメを送ってからもそれに対する応答がほとんどなく、さらには送金先の銀行に対する情報がなく入金されるかどうかは確信がありませんと日本の銀行から言われたり、ビザも出発間際までとれるかどうかもわからないなど、多くの不安を抱えたままでの出発となった。

それゆえ、モスクワからの夜行列車でサンクト・ペテルブルクの駅に16日の早朝に着いて、出迎えの係りの人から報告者の名前が記入された正式な予定表を渡された時には、ほっとした。なぜならば様々な困難に直面して途中で参加を取りやめにした方も多いと聞いていたが、そこには多くの日本人研究者の名前があったからだ。

すなわち、後でロシア側の組織者からもらった資料によれば、ロシア人約110名の他に、外国からも、アメリカ、日本、アイルランドから4名、スイス、フィンランド、スペイン、韓国などから44名(同伴者を含む)が参加していたが、アメリカ人の19名に次ぐ14名の方が万難を排して日本から参加されていたのである。お名前を記してその労に報いたい。すなわち、伊東俊太郎夫妻、川窪啓資夫妻、服部英二父子、宮原一武夫妻、奥山道明、松崎登、犬飼孝夫と私の他に、サンクト・ペテルブルク大学大学院で研究中で通訳などの労も買ってくれた大高まどか氏とホームページで見て飛び入りで参加された藤原ゆりこの各氏である。

以下、このときの大会と学術旅行の模様を簡単に報告する(本稿では原則として敬称を略す)。

 

1,サンクト・ペテルブルクでの学会

宿泊のホテルは、ネヴァ川添いにありアレクサンドル・ネフスキー大修道院の向かいに位置する大きなモスクワ・ホテルであった。この大修道院にはドストエフスキーやチャイコフスキー、さらにモスクワ大学の創設者ロモノーソフなどの墓があるので、いわばロシアの歴史と直面しながらの学会となり、初日から船による市内観光が組まれており、時間的な制約のなかでの精一杯の歓迎ぶりがみられた。

2日目の午前中は、4つのグループに分かれて、国立エルミタージュ美術館、文化人類学・民族学博物館(クンストカメラ)、科学アカデミー・東洋学研究所、科学アカデミー物質文化史研究所などを見学し、専門員からの説明を受けた。

私はピョートル一世によって創設され、ロモノーソフなどとも関係が深い文化人類学・民族学博物館(クンストカメラ)を訪れた。残念ながら、日本人学校の教師ゴンザなどのデスマスクを見ることはできなかったが、日本人の研究者が多いのを知った係員からラクスマンからエカテリーナ二世に献上された漂流民・大黒屋光太夫ゆかりの品物などや日本にも訪れたことのあるラングスドルフがアメリカで収集した物品のコーナーなどの詳しい説明があった。

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(クンストカメラ。図版は「ウィキペディア」より)

国立エルミタージュ美術館での昼食を挟んで、美術館に納められているトラキアやギリシャの金製品の多くには専門の研究者も目をみはっていた。さらにこの後には噴水で有名なピョートル宮殿への小旅行が実施され、夜には主催者による晩餐会も用意されていた。

18日の10時から科学アカデミーの学術センター会議室で行われた発表は、「サンクト・ペテルブルクーー文明間の対話の都市」、「東西の諸文明と諸文化の交流におけるロシア」、「グローバリゼーションと文明の未来」の3つの部会に分かれていた。しかし、いずれの部会も同じ会議室で行われたことや、ロシア側の実行委員会の組織が5つの学術団体で組織されていたために、予想通りそれぞれの組織から多くの発表希望者が出たので、その場で発表時間を大幅に制限され、さらに質疑応答の時間も削られるなどの不備がでた。ただ、発表はロシア語と英語で行われ、英語には2名の同時通訳者がついた。また、直前まではレジュメが印刷されているかどうか分からずに心配していた資料集は、下記のような2冊の論文・レジュメ集の形で渡され、発表時間の不足の不備を補ってあまりあるものだった。

たとえば、『東西の諸文明と諸文化の対話におけるサンクト・ペテルブルク』と題された191頁からなる論文・レジュメ集には、編者の一人であるソローキン・コンドラチェフ研究所所長のヤコベッツ氏の論文「諸文明の対話と相互関係におけるロシア――歴史的経験と21世紀の展望」が巻頭を飾っており、それに続く「第1部 サンクト・ペテルブルク--諸文明と諸文化の対話の都市」と、「第2部 東西の諸文明と諸文化の相互関係におけるロシア」に、最初の二つの部会で発表された多くの論文のレジュメが収められていた。それゆえ、本書ではテーマの関係もあり、ロシア人の発表が多かったが、それらとともに東京が今年400周年にあたることを紹介しながら、佐久間象山におけるピョートル大帝の改革やプスコフの修道士プロフェイの「第三ローマ・モスクワ」説にも言及しながら、トインビーの視点からロシア文明の特徴を考察した川窪啓資氏の「比較文明学的観点から見たサンクト・ペテルブルク」や私のレジュメも載せられていた。

私の発表「日本におけるドストエフスキーの受容――サンクト・ペテルブルクのテーマと方法としての対話」では、2001年に千葉大学で行われた国際ドストエフスキー集会の模様などについても言及しつつ、日本の近代化と『罪と罰』の受容との関わりを分析して、第二次世界大戦の前には、「生存闘争」を自然の法則と捉えた主人公に対する共感をしめすような解釈もあったことを紹介した。それとともに、ドストエフスキーが文学における対話という手法をとることによって、単一的な声ではなく、「多声的」(ポリフォニー)な世界を描きだしていたことに注意を払いながら、そのエピローグでは主人公に「人類滅亡の夢」を見させることにより、それまでの「自己中心的な世界観」を批判していることを指摘した。

さらに、司馬遼太郎の長編小説『菜の花の沖』に言及しつつ、ロシアにナポレオン一世が侵攻した1812年に、戦争という手段の問題点を根気強く説明することにより、領海侵犯の咎などで捉えられていたゴロヴニーンの解放に成功し、日露間で生じていた「文明の衝突」の危機を救った商人・高田屋嘉兵衛の「対話的な方法」の意義を考察した。そして、後期の江戸時代が有した高い文化水準と多様性が、ゴロヴニーンの『日本幽囚記』によって紹介されたことが、後に来日してロシアの文化を伝えることになる宣教師ニコライにも大きな影響を与えたことを指摘して、江戸時代が有した多様性についても注意を喚起して、単一的な原理による「グローバリゼーション」の問題をも指摘した。

最後の第3部会「グローバリゼーションと文明の未来」で発表された論文のレジュメは、『グローバリゼーションと諸文明の運命――グローバリゼーションの新しいモデルと文明間の交流をめざして』と題され、4部からなる論文・レジュメ集に収められていた(総頁数322頁)。これは科学アカデミーのチモフェーエフ教授、ソローキン・コンドラチェフ研究所のヤコベッツ所長、ブレッドソー国際比較文明学会長の編になるもので、多くの論文には発表者の紹介とともに簡単なロシア語訳がつけられていた。

この本の構成で眼を惹いたのは、第1部には「国連総会決議 56/6(2001年9月9日)/ ユネスコ一般声明(2001年)、/ ロシア・イラン国際シンポジウム・アピール」などの文書が資料として載せられていたことである。さらに第4部では「著書紹介」として比較文明学関係のロシアの書物が紹介されていたことである。それはもう一冊の場合も同様で、その分野におけるロシアの「研究論文集紹介」も収められていた。

第2部として編集された「グローバリゼーションと文明間の対話」には、国際比較文明学の会員だけでなくチモフェーエフ氏の「グローバル化する世界における文明間の相互関係の諸問題」やボンダレンコ氏の「グローバル社会認識のための方法論諸相」など多くのロシア人の論文も掲載されていたが、経済関係の専門家が多かったせいもあり、このような視点からの「グローバリゼーション」の問題点を論じたものが多いとの印象を受けた。

ここでは、国際比較文明学の形成を論じたブレッドソー氏の「文明間の対話――トインビー、クレーバー、ソローキンとコンドラチェフ」に続いて、”文明交流圏”という考えの重要性を説いた伊東俊太郎氏の「文明の対話と”文明交流圏”」のレジュメが国際比較文明学会・終身名誉会長の肩書きの紹介とともに載り、また国連における「文明間の対話の試みやイランのハタミ大統領による提案などを紹介しつつ、そのような対話の重要な例としてのシルクロードの意味を論じた服部英二氏の「シルク・ロードと文明間の対話」が掲載されていた。

また、国連の活動に注目しながら、「不殺生・共存共生・公正」という3つの原則を説いた伊東俊太郎氏の提案にも言及した犬飼孝夫氏の「地球企業市民のための〈シヴィリゼーショナル・ミニマム〉とは? 国連グローバル・コンパクト」のレジュメや、第3部の「グローバリゼーションの時代における文化と宗教の対話」には、主に明治期における神道と国家神道との関わりを論じた奥山道明氏の「日本と西欧との対話および近代宗教制度の確立」が掲載されていた。

こうして、日本人研究者の発表はいずれも大きな関心をもって受け止められた。ただ、先にも記したように時間的な制限のために質疑応答の時間がなく、また、最後に第4部として予定されていた討議と会議総括の時間もあまりとれなかったのは残念であった。

しかし、その夜に日本人の研究者10人が集まってホテルのレストランで催された夕食会では、ロシアに対する様々な理解を「神話」と断じて新しいロシア像を示したヤコベッツ氏の「北西ロシアの過去とロシア文明の未来」というきわめて興味深い論文を取り上げた伊東俊太郎名誉会長の問題提起を受けて、ロシア文明の位置をめぐって質疑応答の時間のたっぷりある議論が交わされ、思いがけぬ「円卓会議」となり、楽しいひとときを持つことができた。実際、次節でみるようにこの論文は「ロシア文明の源」を訪ねた学術旅行へのテーゼの如きものでもあったのである。

2,学術旅行「北西ロシア――ロシア文明の源とその絶頂」

学会の後に組まれた旅行は、外国人向けの国内旅行に少し学問的な色彩を加えた程度のものかと最初は思っていた。しかし、ほぼ毎日開かれた「円卓会議」など、朝は8時から時には夜の10時半の夕食といったいささかハードなスケジュールの中で「ロシア国家の建国や理念」をめぐって、知的好奇心を刺激するきわめておもしろい論争や場所が示された。まず、スケジュールを掲げる。

9月19日 レニングラード攻防戦記念パノラマ館、スタラヤ・ラドガ――ロシア最古の都市で古代ロシア最初の首都、歴史的記念物と考古学的発掘の見学、文明の対話の方法(スタラヤ・ラドガ1250周年記念円卓会議)、ノヴゴロド到着

9月20日 ベリーキー・ノヴゴロド――歴史と文化の探訪、ロシア文明の歴史におけ るノブゴロド共和国(円卓会議)

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(ノヴゴロドのクレムリン。図版は「ウィキペディア」より)。

9月21日 プスコフ、イズボルスク、ウスペンスキー修道院のあるエストニア近くのペチョールィ訪問

9月22日 ロシア文明の西の前哨地点(プスコフ1100周年記念円卓会議)、プーシキンゆかりの地訪問、サンクト・ペテルブルク帰還

 

議論の焦点の一つは、これまでロシア最古の都市とされてきたノヴゴロドよりも古く、1250年前に創られたとされるロシア最古の町スタラヤ・ラドガ(Staraya Lagoda)の発掘現場と展示館の見学であった。

ロシアの建国にかかわる論争は、ピョートル一世によって創設された科学アカデミーに招かれたドイツ人の歴史家バイエルが『原初年代記』によって、ノヴゴロドがバイキングの一族であるバリャーグ族の長リューリクによって創られたとしたときから持ち上がっていた。これは日本の建国がそれまでいた民族ではなく、朝鮮からきた少数の「騎馬民族」によって形成されたとする江上波夫説を思いださせるようないわば「ロシアの騎馬民族説」論争ともいえるようなものであった。

ロモノーソフをはじめとするロシア人の歴史家は、平和的に招いたと書かれていたことや、その後のリューリク朝ではスラヴ的な要素が強いことなどから、すでにロシアが高い文化的水準をもっていたことを示してロシアの独自性を示そうとしてきたのである。しかしドストエフスキーもこのことに言及しているが、これまでの歴史的な研究からはバイエルによって指摘された「ロシア国家のバイキング起源説」を覆すのは難しいように思われていたのである。

これに対してスタラヤ・ラドガの発掘は、すでにノヴゴロドの建設に先立ってスラヴ的な要素の強い都市が造られていたことを示すものとして、高い関心を呼んでいるのである。たとえば、現在の発掘責任者のキルピチニコフ氏は、今回の発掘とロモノーソフの説の正しさを証明するのかとの私の質問に対して、たしかにこの発掘成果はロモノーソフの先見性を実証するものであると強く語った。この議論についての結論がでたのかとおもわれたのだが、ノヴゴロドで行われた「円卓会議」では、発見されたものは古いがしかしヴァイキング的な性格を持つとして、歴史学者から前日の結論に対する疑問が出されて、激しい議論となった。日本の王朝が朝鮮系の騎馬民族によって創られたとする江上波夫説に対する反発が強く激しい議論を巻き起こしたが、ロシアでもふたたび「ロシアの騎馬民族説」とでも名付けられるような議論がふたたび巻き起こっているのである。

さらにノヴゴロドやプスコフの「円卓会議」では、ハンザ同盟との関わりを論じた発表やプーシキンとミハイロフスコエ村との関わりが論じられるなど、「ロシア国家の理念」にかかわるもう一つの重要な議論もなされた。

すなわち、「ロシア最古の都市」であったノヴゴロドやプスコフは、国家の中心がキエフに移り、キエフ・ロシアが形成された後でも、ハンザ同盟に加入して、「ロシアの〈自由都市〉と呼ばれる共和政体の都市として発展し、政治的にもその後のロシア史上に例を見ない独自の一時期を画した」が、その後「分裂したロシアの再統一を進めるモスクワによって」、15世紀末から16世紀初頭にかけて次々と併合されていた(『ロシア・ソ連を知る事典』平凡社)。

これらの都市の独自性については、歴史家だけでなくロシアの改革を試みたデカブリストたちがが強い関心を抱いたことは知られているが、ロシア国家の統一性が重要視されるなかで、政治的な意味でこれらの都市にスポットライトがあてられることは少なかった。

しかし、これまではロシア最初の国家として位置づけられてきたキエフ・ロシアの中核をなしていたかつてのキエフ公国を受け継いだウクライナが独立し、新しい「ロシア国家の理念」が求められる中で浮かんできたのが、モスクワ公国にも受け継がれたキエフ・ロシアの専制的な政治原理とはことなる民主的な原理による「ノヴゴロド・ロシア」あるいは「北西ロシア」の理念なのである。

残念ながら、学術旅行への参加者は半数以下であり、日本人も私を含めて4人だったが、宮原夫妻とはロシア正教の現在をめぐって、犬飼氏とはロシアの自然環境問題などについて意見を交わすことができ、また個人的にも長い間の念願でもあったロシア民話に出てくる蜂蜜酒を古風なロシア風のレストランで飲むことができた。こうして、付随的だと思われていた旅行は、終わってみると私にとってはむしろこちらの方の収穫の方が大きかったとも感じられるほどに充実した内容であった。

 

結語

ロシアでの初めての国際比較文明学会は一般の外国からの参加者にとっては、様々なロシアの歴史的事物やエルミタージュ美術館などを訪れることができた一方で、かなりハードなスケジュールのために発表や質問時間が制限されたという不満も残ったようだ。

しかし、ロシア研究者である私にとっては、現在のロシアの政治・経済状況を知ることができるとともに、「ロシアの理念」が現在のロシアにおいて、どのように構築されようとしているのかをも知ることができ、きわめて有益な大会となった。

ただ、多くの外国人研究者の中でロシア語を話すのが筆者一人であったことや、単独行動主義的な原則を強めている現在のアメリカ政府に対する厳しい批判をしているフランスやドイツからの参加者が全くいなかったのはさびしかった。川窪国際委員長はかつて総会で、国際比較文明学会でも日本人が日本語で発表できるように通訳をつける制度を作ってはどうかと提案されたことがあったが、今回はロシア側の発表者が全員ロシア語で発表していたのが印象に残った。先に言及した国際ドストエフスキー学会ではロシア語の他にも英独仏の各言語の使用が認められているが、梅棹忠夫氏がフランスで国際交流の必要性を通訳をつけて日本語で語っていたことを思い起こすならば、文明間の共存と多様性の重要性を訴える国際比較文明学会においては、将来、日本語も含めた形での使用言語の多言語主義が考えられる時期にきているのかとも思った。

また、ロシア文明の独自性を強く主張する一方で、国連の「多元的な原理」をも重視しながら、新しい「グローバリゼーション」のモデルを探そうとする今回のロシア側の姿勢や戦略は、ブッシュ・ドクトリンの一元的な原理に従う傾向が強いように見える日本の戦略から見るときわめてしたたかに映った。また、今回の学術旅行も単なる研究活動とせずに、外国人の研究者に対してロシアの新しい観光旅行の魅力をもアピールする場ともなっていたのは、いささか功利的な色彩も少し感じたが、しかしそれはペレストロイカからロシアへの移行期の時期に、ロシアの経済が二流国へと低迷するようになったことへの厳しい反省の中で、なんとか自立的な形でロシアの経済を改革しようとする力強い試みの一環として評価できよう。

日本の比較文明学の創始者の一人である山本新は、トインビーの考察を深めることによって、日本とロシアにおける近代化を比較して「欧化と国粋」の問題に気づき、「100年以上の距離をおいて、二つの文明のあいだに並行現象がおこっている」と鋭く重い分析をした。この意味で筆者はこれまでロシアと日本の近代化の比較を中心に研究してきたが、日本の今後の方向性を考える上でもロシアの比較文明学(文化学)の状況を追っていくことはこの意味でも重要であろう。

今後ともロシアにおけるこのような研究の流れを注意深く見守っていきたいと思う。

(「サンクト・ペテルブルクでの国際比較文明学会報告」『文明研究』第22号、2003年。再掲に際しては、人名の表記や文体などを一部変更した)。

「様々な意匠」と隠された「意匠」

リンク→4,「主な研究」のページ構成

 

「様々な意匠」と隠された「意匠」

『全作家』の第九〇号に「司馬遼太郎と小林秀雄」という評論を発表して小林秀雄のドストエフスキー観に言及したことが、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)の発行につながった。

予想をしていたように、少し刺激的な副題をつけたこともあり厳しい批判も頂いたが、その反面、「批評の神様と奉られている小林秀雄をよくぞ取り上げた」との好意的な礼状も多く頂いた。また、平成二六年度の全作家合同出版記念会には参加することができなかったが、フェイスブックで思いがけず拙著の題名の垂れ幕がかかっているのを見てありがたく感じた。

実は、前回の評論では言及しなかったが、拙著『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、二〇〇二年)に収録した『竜馬がゆく』論で簡単にふれていたように、『罪と罰』を読んでその文明論的な広い視野と哲学的な深い考察に魅せられた私は、幕末の混乱した時期を描いた司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読んで感動し、そこでは日本を舞台としながらもクリミア戦争敗戦後の価値の混乱したロシアの問題点を鋭く描きだしていたこの長編小説のテーマが深い形で受け継がれていると感じていた。

さらに、『罪と罰』のエピローグで「人類滅亡の悪夢」を描いたドストエフスキーが、次作の『白痴』ではこのような危機を救うロシアのキリスト(救世主)を描きたいと考えて、悲劇には終わるが、混迷のロシアで「殺すなかれ」と語った主人公・ムィシキンの理念も『竜馬がゆく』の主人公・坂本竜馬には、強く反映されているとも考えていた。

一方、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──主人公)には現れぬ」と記した文芸評論家の小林秀雄は、「『白痴』についてⅠ」でも「ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」と記し、一九六四年の『白痴』論では、「作者は破局といふ予感に向かつてまつしぐらに書いたといふ風に感じられる。『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかつた。来たものは文字通りの破局であつて、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」と解釈していた。

それゆえ、私は「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論から一時期、強い影響を受けていたものの、小林が『白痴』論で描いたムィシキン像よりは、『竜馬がゆく』で日本のキリスト(救世主)として描かれている坂本竜馬像の方が、むしろドストエフスキーのムィシキン像に近いのではないかとひそかに思っていた。

原作のテキストと比較しながら小林秀雄の評論を再読した際には、「異様な迫力をもった文体」で記されてはいるが、そこでなされているのは研究ではなく新たな「創作」ではないかと感じ、一九二九年のデビュー作「様々な意匠」で小林秀雄が「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」と率直に記していることに深く納得させられもした。

「様々な意匠」は次のように結ばれている。「私は、今日日本文壇のさまざまな意匠の、少なくとも重要と見えるものの間は、散歩したと信ずる。私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。たゞ一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。」

しかし、改めてこの文章を読んだ私は強い違和感を覚えた。なぜならば、『竜馬がゆく』第二巻の「勝海舟」ではその頃の「尊皇攘夷思想」が「国定国史教科書の史観」となったばかりでなく、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判されていたからである。

ここで詳しく論じる余裕はないが、司馬が「昭和初期」の「別国」と呼んだこの時期には「尊皇攘夷思想」という「意匠」が、政界や教育界だけでなく文壇の考えをも支配していた。そのことに留意するならば司馬の痛烈な批判の矛先は戦前の代表的な知識人の小林秀雄にも向けられているのではないだろうか。

司馬の視線をとおして「様々な意匠」を読み直すとき、イデオロギーには捉えられることなく「日本文壇のさまざまな意匠」を「散歩」したかのように主張されているが、ここでは当時の文壇の考えを支配していた重要な「意匠」が「隠されて」おり、それはライフワークとなった『本居宣長』で再び浮上することになったのではないかと思われる。この重たい問題については稿を改めて考察したい。

(『全作家』第98号、2015年)

『復活』の二つの訳とドストエフスキーの受容

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『復活』の二つの訳とドストエフスキーの受容

はじめに

昨年の3月に「日本トルストイ協会」で行われた講演で籾内裕子氏は、内田魯庵訳の『復活』への二葉亭四迷の関わりを詳しく考察し、12月にはトルストイの劇《復活》を上演した島村抱月主宰の劇団・藝術座百年を記念したイベントも開かれました。

さらに、夏には故藤沼貴氏による長編小説『復活』の新しい訳が岩波文庫から出版され、「解説」には『罪と罰』の結末との類似性の指摘がされていました。その記述からは、改めてドストエフスキーとトルストイのテーマと問題意識の深い繋がりや、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とした文芸評論家の小林秀雄の『罪と罰』解釈の問題点が感じられました*1。

本稿では『復活』とその訳に注目することで、対立して論じられることの多いドストエフスキーとトルストイの作品の内的な深い関係をエッセー風に考察したいと思います(図版はいずれも「岩波文庫」より)。

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一、雑誌『時代』とトルストイ

農奴制の廃止や言論の自由などを求めたために1848年のペトラシェフスキー事件で逮捕され、死刑の宣告を受けた後に減刑されてシベリアに流刑されたドストエフスキーは、流刑中の1852年に『同時代人』に掲載された『幼年時代』に記されている「Л.Н.とはだれのことか」と兄ミハイルへの手紙で尋ねていました*2。

農奴解放だけでなく法律や教育制度の改革も行われた「大改革」の時期に首都に帰還したドストエフスキーは、兄とともに総合雑誌『時代』を創刊し、多くが文盲の状態に取り残されている民衆に対する教育の普及の重要性を強調し、そこで1862年2月に創刊された月刊教育雑誌『ヤースナヤ・ポリャーナ』の紹介を行ったばかりでなく、『死の家の記録』では厳しい検閲の下にもかかわらず、監獄の状況を鋭く描き出しました*3。

それゆえ、トルストイはこの長編小説について「我を忘れてあるところは読み返したりしましたが、近代文学の中でプーシキンを含めてこれ以上の傑作を知りません。作の調子ではなく、観点に驚いたのです。誠意にあふれており、自然であり、キリスト教的で、申し分のない教訓の書です」と書いているのです*4。

一方、ドストエフスキーが唱えた「大地主義」について、「その教義は、要するに西欧派とスラヴ派との折衷主義であつて、…中略…穏健だが何等独創的なものもない思想であり、確固たる理論も持たぬ哲学であつた」とした文芸評論家の小林秀雄は、『死の家の記録』についても「厭人と孤独と狂気とが書かせた」ゴリャンチコフの「手記だつた事を思ひ出す必要がある」と書いています*5。

しかし、この作品が一時、「検閲官」の差し止めで中止されるなど厳しい検閲下で書かれていたことを忘れてはならないでしょう。興味深いのは、雑誌『時代』の創刊号から7ヵ月にわたって連載された長編小説『虐げられた人々』(原題は『虐げられ、侮辱された人々』)でドストエフスキーが登場人物にトルストイの作品にも言及させていることです。

「大改革」の時代のロシアが抱えていた問題を浮き彫りにしているこの作品のことはあまり知られていないので、まずその粗筋を紹介しその後で『罪と罰』との関連にふれることにします。

この長編小説は、主人公のイワンがみすぼらしい老人と犬の死に立ち会うというシーンから始まり、その後で少女ネリーをめぐる出来事とイワンを養育したイフメーネフの没落と娘ナターシャをめぐる筋が並行的に描かれていきます。

物語が進むにつれて、しだいにこれらの悲劇の原因が、ワルコフスキー公爵の犯罪的な詐欺によるものであることがはっきりしてくるのです。すなわち、物語の冒頭で亡くなるネリーの祖父はイギリスで工場の経営者だったのですが、娘がワルコフスキー公爵にだまされて父の書類を持ち出して駆け落ちしたために全財産を失って破産に陥っていました。

一方、150人の農奴を持つ地主で、主人公のイワンを養育したイフメーネフ老人の悲劇も900人の農奴を所有する領主としてワルコフスキー公爵が隣村に引っ越してきたことに起因しています。しばしばイフメーネフ家を訪れて懇意になったワルコフスキー公爵は、自分の領地の管理を依頼し、5年後にはその経営手腕に満足したとして新たな領地の購入とその村の管理をも任せたのです。

ここで注目したいのは、ワルコフスキーがイワンに「私はかつて形而上学を学びましたし、博愛主義者になったこともあるし、ほとんどあなたと同じ思想を抱いていたこともある」と語っていることです。父親からあまり関心を払われずに親戚の伯爵の家に預けられていた息子のアリョーシャは、トルストイの『幼年時代』と『少年時代』を熱中して読んだとイワンに伝えていますが、この時彼は父親のうちに、自分の領地ヤースナヤ・ポリャーナに学校や病院を建設して農民の養育に励んだトルストイのような面影を見ていたように思えます。人の良いイフメーネフ老人がワルコフスキー公爵を信じて彼の領地の管理や新たな領地の購入を手伝ったのは、改革者のような彼の姿勢に幻惑されたためだったといえるでしょう*6。

しかし、領地を購入した後でワルコフスキー公爵は、領地の購入代金をごまかされたという訴訟を起こし、隣村の地主たちを抱き込んでさまざまな噂を流し、有力なコネや賄賂を使って裁判を有利に運んだために、裁判に敗れて一万ルーブルの支払いを命じられたイフメーネフ老人は自分の村を手放さねばならなくなったのです。

この小説が連載された雑誌『時代』(1861年1月号~1863年4月号)が検閲で発行禁止となった後、ドストエフスキーは新たに創刊した雑誌『世紀』に『地下室の手記』などを発表してなんとか存続させようとしましたが、この雑誌も1865年には廃刊になりました。その翌年に発表されたのが、「強者のみに有利なる法律」に激しい怒りを覚え、「高利貸しの老婆」を「悪人」と規定して殺した元法学部の学生・ラスコーリニコフの苦悩と行動を詳しく描いた長編小説『罪と罰』でした。

二、内田魯庵訳の『復活』と新聞『小日本』

日本では内田魯庵が二葉亭四迷の助力を得て1892年に『罪と罰』の第一部を、翌年には第二部を英語から訳していましたが、充分な購買者数を得ることができなかったために『罪と罰』の後半部分は出版されませんでした。それにも関わらず、評論「『罪と罰』の殺人罪」できわめて深い解釈を記したのが北村透谷だったのです*7。

『罪と罰』を訳していた内田魯庵訳の『復活』が政論新聞『日本』に連載されたのは、日露戦争終結前の1905年4月5日から12月22日にかけてでした*8。魯庵はこの訳を掲載する前日に「トルストイの『復活』を訳するに就き」との文章を載せて、そこでこの長編小説の意義を次のように記していました。

「社会の暗黒裡に潜める罪悪を解剖すると同時に不完全なる社会組織、強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」。

私が強い関心を抱いたのは、どのような経緯で魯庵訳の『復活』が『日本』に掲載されたのかということでした。そのことに関連してまず注目したいのは、正岡子規が編集主任に抜擢されていた家庭向けの新聞『小日本』に掲載された文芸評論家・北村透谷の自殺についての次のような記事が子規によって書かれていた可能性が高いことです*9。

「北村透谷子逝く 文学界記者として当今の超然的詩人として明治青年文壇の一方に異彩を放ちし透谷北村門太郎氏去る十五日払暁に乗し遂に羽化して穢土の人界を脱すと惜(をし)いかな氏年未だ三十に上(のぼ)らずあたら人世過半の春秋を草頭の露に残して空しく未来の志を棺の内に収め了(おは)んぬる事嗟々(あゝ)エマルソンは実に氏が此世のかたみなりけり、芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶの際氏が幽魂何処(いづこ)にか迷はん」。

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(図版は正岡子規編集・執筆『小日本』〈全2巻・別巻、大空社、1994年〉、大空社のHPより)

この記事が掲載された新聞『小日本』は明治八年に発布された「讒謗律」や「新聞紙条例」によってたびたび発行停止処分を受けていた新聞『日本』を補う形で創刊されたのですが、俳句や和歌のコーナーを設けて投稿を広く呼びかけた子規は、その創刊号からは自分の小説「月の都」を卯之花舎(うのはなや)の署名で掲載していました。

若い仏師の悲恋を描いた幸田露伴の『風流仏』に強い感銘を受けた子規が、1891年の冬期休暇中に一気に書き上げたこの小説の原稿は「露伴氏の一閲を乞うた」ものの批評が芳しくなかったために、社主の羯南翁から自恃(じじ)居士(高橋建三氏)の手に渡り、二葉亭四迷のところまで行っていたのです*10。

それゆえ、夏目漱石が英国から親友の正岡子規に書いた手紙でトルストイの破門についてのイギリスの新聞の記事を紹介していたのは一方的な紹介ではなく、子規の関心に応えていたという可能性さえあると思われます。

さらに、『罪と罰』を高く評価した北村透谷は、トルストイの長編小説『戦争と平和』や『イワンの馬鹿』を英訳で読み、徳冨蘆花よりも早くにトルストイの戦争観にも言及して、両者をともに高く評価していました*11。二葉亭四迷の勧めで1908年に連載した長編小説『春』で島崎藤村が、『文学界』の同人であった北村透谷との友情やその死について描いていたことはよく知られていますが、短い記事とはいえ子規はすでに北村透谷の意義を高く評価する記事を書いていたのです。

子規が書いた短い記事を視野にいれると二葉亭四迷だけでなく、夏目漱石も深い印象を受けただろうと推測され、内田魯庵訳の『復活』が政論新聞『日本』に掲載されるようになった遠因は正岡子規にあったと言ってもよいのではないかと思えます。

さらに正岡子規や北村透谷との関連で注目したいのは、1910年に修善寺で大病を患った夏目漱石が、「思い出す事など」で「無意識裡に経過した大吐血の間の死の数瞬間」とドストエフスキーの「癲癇時の体験」との比較をしつつ、ペトラシェフスキー事件で捉えられ、刑場に連れ出された「寒い空と、新しい刑壇と刑壇の上にたつ彼の姿と、襯衣一枚で顫えてゐる彼の姿を根氣よく描き去り描き來って已まなかった」と記していたことです。

比較文学の清水孝純氏はこの時漱石が「時代を震撼させた」日本の大逆事件を「思い浮かべていたことは想像に難くない」と記しています*12。この指摘は重要でしょう。ペトラシェフスキー事件の翌年にオーストリア帝国の要請によってハンガリー出兵に踏み切っていたロシア帝国はその数年後にクリミア戦争へと突入していました。大逆事件で幸徳秋水などを逮捕した年に「日韓併合」を行った日本も、その後大陸への進出を強めることになったのです。

三、トルストイの『罪と罰』観と『復活』

トルストイの『罪と罰』観を考える上で重要なのは、日露戦争後にヤースナヤ・ポリャーナを訪れた德富蘆花からロシアの作家のうち誰を評価するかと尋ねられた際に、「ドストエフスキー」であると答え、さらに蘆花が『罪と罰』についての評価を問うと「甚佳甚佳(はなはだよし、はなはだよし)」と続けていたことです*13。

そのような高い評価に注目するならば、トルストイは「高利貸しの老婆」を「悪人」と規定してその殺害を正当化した主人公ラスコーリニコフの悲劇と苦悩を描き出すとともに、ソーニャとの関わりに読者の注意を促しながら、シベリアの流刑地で森や泉の尊さを知る民衆との違いを認識させていたエピローグの意義を深く理解していたと思えます。

たしかに、ドストエフスキーは『罪と罰』の本編では、「殺してやれば四十もの罪障がつぐなわれるような、貧乏人の生き血をすっていた婆ァを殺したことが、それが罪なのかい?」と妹に問わせ、さらに自分が犯した殺人と比較しながら、「なぜ爆弾や、包囲攻撃で人を殺すほうがより高級な形式なんだい」と反駁もさせていました*14。

しかし、ドストエフスキーはラスコーリニコフに「人類滅亡の悪夢」を見させていた後で、「罪の意識」に目覚めた主人公が徐々に変わっていく「新しい物語」を次のように示唆していたのです。

「ここにはすでに新しい物語がはじまっている。それは、ひとりの人間が徐々に更生していく物語、彼が徐々に生まれかわり、一つの世界から他の世界へと徐々に移っていき、これまでまったく知ることのなかった新しい現実を知るようになる物語である。それは、新しい物語のテーマとなりうるものだろう。しかし、いまのわれわれの物語は、これで終わった。」

自分の理論が核兵器の発明にも利用されてしまったことを知ってから、核兵器廃絶と戦争廃止のための努力を続けた物理学者のアインシュタインは、ドストエフスキーについて「彼はどんな思想家よりも多くのものを、すなわちガウスよりも多くのものを私に与えてくれる」と述べていました*15。兵器の改良により大量殺人が可能になった現代では、新たな戦争が「人類滅亡」につながる可能性が実際に出てきていたのであり、ドストエフスキーやトルストイはその危険性をいち早く洞察していたといえるでしょう。

一方、1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄は、ラスコーリニコフには「罪の意識」はなかったと断言し、エピローグも「半分は読者の為に書かれた」と記していました。そして、戦後に書いた『罪と罰』論でもエピローグの結末に記された「新しい物語」に言及した小林は、ドストエフスキーが『白痴』で「この『新しい物語』を書かうと考へた事は確かである」としながらも、主人公が「次第に更生し、遂に新しい現実を知ることは可能であるか」と読者に問い、不可能であると断言していたのです*16。

このような解釈と正反対の解釈を示したのがトルストイ研究者の藤沼貴氏でした。『罪と罰』の粗筋を「誤った『超人』思想に駆られて殺人を犯し、シベリアに流刑されたラスコーリニコフは、彼と共に流刑地まで来たかつての娼婦ソーニャの純粋な愛によってよみがえり、自分の罪を認めて復活する」と簡明に記した藤沼氏は、『復活』の結末の次のような文章が『罪と罰』の結末に酷似していることを指摘していました*17。

「この夜から、ネフリュードフにとってまったく新しい生活が始まった、それは彼が新しい生活条件に入ったからというよりむしろ、このとき以来彼の身に生じたすべてのことが、彼にとって以前とまったく別の意味を得ることになったからだった。ネフリュードフの人生のこの新しい時期がどのようなかたちで終わるか、それは未来が示してくれる」。

四、『復活』のネフリュードフと『白痴』のムィシキン

トルストイの劇《復活》で松井須磨子が「カチューシャの唄」を歌ってから百年に当たることを記念して行われたイベントでは、トルストイの原作とそれを劇化したアンリ・バタイユの脚本やその英訳をしたビアボム・トゥリーの脚本をもとにした島村抱月の劇との違いも論じられました*18。

私にとってことに興味深かったのは、名門貴族のネフリュードフが奔走したかいがあり、皇帝からの特赦状が届いてカチューシャ(マスロワ)は自由になるが、彼女は政治犯のシモンソンとともにシベリアへいくことを選ぶことです。

この後で、トルストイは「奇妙な斜めを向いた目とあわれを誘うような微笑の中に」、ネフリュードフが彼女は自分を愛していたが、彼女は娼婦だった「自分を彼に結びつければ、彼の一生をだいなしにすると考え、シモンソンといっしょに姿を消して、ネフリュードフを自由にしようとしていたのだ」と読み取ったと記しています*19。

トルストイの『復活』が誘惑した後で捨てた小間使いのカチューシャと裁判所で再会したことで「良心の呵責」に苦しむようになった貴族のネフリュードフの物語であることに注意を払うならば、その描写は、子供の時の火事が原因で孤児となり貴族のトーツキーによって養われていたが、美しい乙女になると犯されて妾にさせられていたナスターシヤが、ムィシキンからのプロポーズに歓喜しながらも、子供のように純粋な彼の一生をだいなしにすると考えて、ロゴージンとともに去っていたことを思い起こさせます。

『罪と罰』の結末に記された「ひとりの人間が徐々に更生していく物語」という記述に注目しながら、『復活』と『白痴』の第一部を比較するとき、主人公と虐げられた女性との関係の描かれ方の類似性に驚かされます。

トルストイは長編小説『白痴』の主人公ムィシキンを「その値打ちを知っている者にとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」と高く評価していました*20。

長編小説『罪と罰』や『白痴』における「良心」という単語の用法に注目しながら読むとき、しばしば否定的に論じられるムィシキンの行動は、名門貴族の末裔であったという「贖罪的な意識」から自分の非力さを知りつつも「殺すなかれ」という理念を広めようとしていたと解釈できるのではないでしょうか*21。

おわりに

ドストエフスキーとトルストイはしばしば対立的な作家として対置されてきましたが、ドストエフスキーはトルストイの農民に対する教育活動を高く評価していましたし、トルストイもまた「大地主義」の理念に深い関心を寄せていたのです。

長編小説『復活』と『罪と罰』の結末に記された「新しい物語」の記述の類似性を指摘した藤沼氏の言葉に注目しながら、『罪と罰』から『白痴』への流れを分析するとき、両者の相互関係を深く理解することが、二人の大作家の作品を正しく理解する上でも必要不可欠であることを物語っているでしょう。

 

《注》

*1  小林秀雄「『罪と罰』についてⅠ」、『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、45頁。

*2  川端香男里『100分de名著、トルストイ「戦争と平和」』NHK出版、2013年。

*3  ドストエフスキー、望月哲男訳『死の家の記録』光文社、2013年参照。

*4  グロスマン、松浦健三訳編「年譜(伝記、日記と資料)『ドストエフスキー全集』(別巻)、新潮社、1980年、483頁。

*5  小林秀雄「『罪と罰』についてⅠ」、『小林秀雄全集』第5巻、新潮社、66頁。

*6  高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年、第2章〈「大改革の時代」と「大地主義」〉参照。

*7  北村透谷「『罪と罰』の殺人罪」『北村透谷選集』岩波文庫、1970年参照。

*8  籾内裕子「内田魯庵と二葉亭四迷――『復活』初訳をめぐって」『緑の杖』(日本トルストイ協会報)第12号、2015年、2~13頁。

*9  『「小日本」と正岡子規』大空社、1994年、34頁。

*10柴田宵曲『評伝正岡子規』岩波文庫、2002年。

*11北村透谷、前掲書、1970年。

*12 清水孝純「日本におけるドストエフスキー ――大正初期に見る紹介・批評の状況」、『ロシア・西欧・日本』朝日出版社、昭和51年、452~454頁。

なお蘆花のトルストイ観については、阿部軍治『徳富蘆花とトルストイ――日露文学交流の足跡』(改訂増補版)彩流社、2008年参照。

*13 徳冨蘆花「順禮紀行」、『明治文學学全集』第42巻、筑摩書房、昭和41年、183~186頁。

*14 ドストエフスキー、江川卓訳『罪と罰』岩波文庫より引用。

*15 クズネツォフ、小箕俊介訳『アインシュタインとドストエフスキー』れんが書房新社、1985年、9頁。

*16 小林秀雄、前掲書、『小林秀雄全集』第6巻、291頁。小林秀雄のドストエフスキー観の問題点については、髙橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、2014年参照。

*17 藤沼貴「トルストイ最後の長編小説『復活』」、藤沼貴訳『復活』岩波文庫下巻、2014年。初出は『トルストイ』第三文明社、2009年、504頁。

*18 昨年12月7日のパネルデスカッション「カチューシャの唄大流行と大衆の時代」、および、木村敦夫「トルストイの『復活』と島村抱月の『復活』」、東京藝術大学音楽学部紀要、第39集、平成26年、39~58頁参照。

*19 トルストイ、藤沼貴訳『復活』岩波文庫下巻、440頁。

*20 トルストイ、訳は『白痴』新潮文庫下巻、「あとがき」の木村浩訳より引用。

*21 髙橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、2011年参照。

(『緑の杖』〈日本トルストイ協会報〉第12号、2015年)

 

戦争と文学 ――自己と他者の認識に向けて(縮小版)

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はじめに 「湾岸戦争」から「人質事件」へ

ブログの記事にも書いたが、「人質殺害」の報に接した安倍首相が、「この(テロ殺害事件)ように海外で邦人が危害に遭ったとき、自衛隊が救出できるための法整備をしっかりする」との発言をしたことは大きな問題を孕んでいると思われる。

なぜならば、同時多発テロの後で自国の安全を脅かす「ならず者国家」に対しては核兵器などの先制使用も許されるとして、国連憲章に違反したイラクへの先制攻撃に踏み切ろうとした際には、イラクを崩壊させることはむしろアルカイダなどのテロ組織の拡大を招くことになるという正鵠を射た指摘がすでになされていたからである。

「人質を殺す」という残虐なテロ行為は厳しく咎められなければならない。しかし、国政をゆだねられている日本の首相としては、かつての太平洋戦争をも踏まえて、大規模な空襲や劣化ウラン弾を用いた攻撃で多くの市民や子供を死傷させたアメリが軍の行為が、この事態を招いたこともきちんと認識した上で発言する必要があったと思える。

それゆえ、少し古い出来事を扱ってはいるが、以下に「湾岸戦争」から「イラク戦争」への流れを比較文明学的な視点から分析するとともに、ドストエフスキーや司馬遼太郎の作品などをとおして「戦争の問題」を考察した論考の一部を再掲する。

 

一、「新しい戦争」と教育制度

二〇〇一年は国連によって「文明間の対話年」とされたが、残念なことにその年にニューヨークで旅客機を用いた同時多発テロが起きた。むろん、市民をも巻き込むテロは厳しく裁かれなければならないし、それを行った組織は徹底的に追及されなければならないことは言うまでもない。ただ、問題なのはこれを「新しい戦争」の勃発ととらえたブッシュ政権が、「卑劣なテロ」に対する「報復の権利」の行使として市民をも巻き込む激しいアフガニスタンの空爆を行い、それを「文明」による「野蛮の征伐」の名のもとに正当化したことである。

そして、「野蛮」なタリバン政権をあっけないほど簡単に崩壊させると、ブッシュ政権は敵対しているイラクや北朝鮮だけでなくアフガンの際には協力を求めたイランをも「悪の枢軸国」と名付けて、これらの国々に対する攻撃を示唆し、さらにイラクが国連決議を無視し続けていると厳しく批判した国連総会の演説に続いて、アメリカが「敵」とした国に対しては核兵器の使用も含む先制攻撃が出来るとするブッシュ・ドクトリンを公表し、実際にイラクへの攻撃を開始したのである。

「イラク戦争」が終わってすでに一年以上が経った現在も、攻撃の根拠となった「大量破壊兵器」はまだ見つかっておらず、イギリスではこの戦争を支持したブレア首相が窮地に立たされている。しかし、「同盟国」を助けることが「常識」であるとして、自衛隊の派遣を決めた日本政府は、その一方で行きすぎた「欧化」による弊害を防ぐためとして、「国家」としての一体感を確保するためには、「欧米的な理念」に基づく教育基本法を改変し、「自国」の独自な伝統や文化の価値、さらには「愛国心」をより強く教えるべきであるとする方向性をも強く打ち出している。

これら一連の事態をまだ多くの人々は、自分にはあまり関わりのない遠い出来事のように感じているようである。しかし、過去の歴史を振り返ると、「教育制度」の改変から「戦争」までは一直線だったのである。(以下、略)

三、「報復の連鎖」と「国際秩序」の崩壊

アメリカが危険と認めた国に対しては核兵器の使用も含む先制攻撃が出来るとするブッシュ・ドクトリンに対しては、仏独などの同盟国からも「国際法違反」との厳しい批判が出された。

この意味で興味深いのは、ドストエフスキーがすでに『虐げられた人々』(一八六一年)において、プーシキンによって鋭く提起されていた「血の復讐」の考察を深めて、一見正当に見える個人的なレベルでの「復讐の権利」の行使でさえ、「階級」や「国家」にも持ち込まれることによって「階級闘争」や「国家間の戦争」が拡大し、際限のない「報復」の連鎖となることを示唆していたことである。

イラク戦争勃発の危険性が高まるとともに、改めて「湾岸戦争」との係わりも論じられ始めた。この節では一九九一年の「湾岸戦争」の勃発時に同人誌『人間の場から』に書いた文章からいくつかの論点を抽出することにより、「報復の連鎖」という視点から「湾岸戦争」と「新しい戦争」との係わりを見ておきたい。

「一月一七日未明、ついに懸念されていた戦争が勃発してしまった。むろん、隣国を武力で併合したフセイン大統領の非は議論の余地無く明らかだ。だが、既に経済制裁がかなりの効果を挙げており、しかも撤退期限をほんの一六時間越えただけの時点で、犯罪的行為を理由に宣戦を布告したブッシュ大統領(注――父親)の『決断』も同じように大きな誤りであるように思える」。

なぜならば、「同じアラブの人々の大量の血が流された後では、反米、反イスラエルの感情が高まることはほぼ確実」であり、「戦争の後に平和が訪れたとしても、大量の爆弾とともにイラクやパレスチナの国民の心にまかれた憎しみの種は、もはや消える事はないのである」。

「今回の危機が、湾岸戦争に至ったことで、否応無くキリスト教世界とイスラム教世界との対立が深まるだろう。そして、それは国連決議に賛成したゴルバチョフ大統領に対するソ連内のイスラム系民衆の反感を招き、ソ連の分裂へと連動していくように思える。その一方で、多国籍軍側の徹底的な空爆は、ソ連軍部に恐怖感を植え付け、保守化に一層の拍車をかけるという危険性をも生み出したのではないか」。

しかも、国連安保理決議に従わずに占領を続ける「イスラエルに対しては経済制裁をもしなかったアメリカが、同じように他国の占領という暴挙に出たイラクの非を一方的に主張」する一方で、イスラエルの「報復の権利」を認めたことは、アラブの民衆の間に不正義に対する怒りと絶望を生み出すのである。

そして、出口のない絶望から「非凡人の理論」を生みだしてついに、高利貸しの老婆を殺害した『罪と罰』の主人公の心理に言及して、「『国際秩序』の確立を目的に始められた今回の戦争は、長期的な視野に立つとき、これまであった『国際秩序』すらも著しく破壊してしまったように私には思える」と結んだ(『人間の場から』第二二号、一九九一年参照)。

残念ながら、「湾岸戦争」後の経過は私の危惧の正しさを証明したように思える。すなわち、イスラエルのシャロン首相は、「報復の権利」を正当化したアメリカの論理にのっとって自爆テロに対する「自衛権の行使」として、パレスチナ自治区への武力侵攻を行い、お互いの「報復の応酬」によって、中東情勢は混迷の色を濃くしているからである。

このような中アメリカはようやく重い腰を上げて和平交渉に乗りだした。しかし、パレスチナ国家樹立への前提条件としてブッシュ政権はアラファト議長の退陣を強く示唆した。たしかに「自爆テロ」に断固とした対応をとれないでいる議長の排除は、アメリカ国内では評価されるかも知れないが、アナン国連事務総長がこの案の偏りを批判したように、国際的にはアメリカの「裁きの不公平さ」、あるいは「価値の二重性」を印象づけたように思われる。

このような「裁き」の危険性は、遠く江戸時代に起きた事件を想起するだけでも明白であろう。すなわち、殿中松の廊下での刃傷沙汰に対して吉良上野介の罪を問わなかったお上の裁きは、「喧嘩両成敗」の慣習に反するとして一般庶民からも批判され、「赤穂浪士」たちによる「復讐」が喝采を浴びることになったのである。

四、「非凡人の理論」とブッシュ・ドクトリン

自分を現在の法に従うべき「凡人」ではなく、未来の法の創り手である「非凡人」であると見なした『罪と罰』の主人公は、多くの者に嫌われている高利貸しの老婆を「有害な悪人」と規定して、その殺害に踏み切った(高橋誠一郎『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、二〇〇〇年参照)。

興味深いのは、ドストエフスキーが一八六六年に『罪と罰』で鋭く批判したこの「非凡人の理論」が、二一世紀の初頭に発表されたブッシュ・ドクトリンときわめて似ていることである。すなわち、ブッシュ・アメリカ大統領は、一国単独行動主義を採って、ABM制限条約脱退や温暖化防止京都議定書の批准拒否、さらには国際刑事法廷への不参加など国際社会の協調を乱す一方で、イラク・イラン・北朝鮮を「悪の枢軸国」と名付けて、自国の安全を脅かすこれらの「ならず者国家」に対しては、核兵器などの先制使用も許されるとして、国連憲章に違反したイラクへの先制攻撃に踏み切ったのである。

司馬遼太郎は日露戦争後に「国粋」の流れが強まり、反対する者を弾圧あるいは暗殺して「新たな戦争」に突き進んだ日本の歴史を分析して、「戦争は勝利国においてむしろ悲惨である」と記した。「冷戦」に勝利した「多民族国家」アメリカにおいて現在起きていることも、自国を「絶対化」し自国を批判するものを「悪」として排除するような「国粋」の流れのように見える。

しかも、ドストエフスキーは主人公のラスコーリニコフに自分の理論が、頭の中で考え出されたゲームではないかとの疑いを抱かせていた。トルストイも『戦争と平和』において、戦争をゲームのようにとらえたナポレオンを厳しく批判するとともに、戦争においては「犯罪行為」も正当化されてしまうと指摘した。

しかし、驚かされたのはイギリスやスペインの首相との三者会談のあとで、戦争の必然性を説いたブッシュ大統領が、そこでトランプのゲームを意識しながら、拒否権というカードが示された以上議論は無駄だと語り、さらに闘牛において「最後の一撃」を意味する「真実の時(正念場)」という単語を用いて、決戦への決意を語っていたことである。

多くの人命が失われることが確実視される戦争の必要性を、情念的な用語で説いたアメリカ大統領の演説は、「正義の戦争」が、テロのような「正義の犯罪」の論理と同レヴェルにあることを物語っている。

アメリカ大統領が「神の名を出して戦争を正当化」していると批判したローマ法王は、その翌日にも声明で「イラク戦争は人類の運命を脅かすものだ」と厳しく批判した。実際、「他国」を「悪」と規定するアメリカの姿勢に反発するかのように、フセイン大統領もアメリカを「悪」と断じて、「神の名」により「祖国防衛戦争」の正義を主張したのである。

しかし、ニューヨーク・タイムズ紙のフランク・リッチは、タリバン政権への攻撃には「反対しない」としながらも、「(アメリカ)国民の多数は、米国が冷戦中にアフガニスタンでイスラム過激派をソ連と戦わせていたことも、そしてその後にソ連が退却すると、アフガニスタンを見捨てたことも、理解していない」と指摘している(朝日新聞、二〇〇一年一二月七日)。つまり、アメリカ政府は「テロ」の「野蛮さ」を強調する一方で、なぜテロリストが生まれたのかを国民に説明しないまま「新しい戦争」へと突き進んでいたのである。

ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグにおいて、自分だけが「真理」を知っていると思い込んだ人々が、互いに殺し合いを始め、ついに人類が滅亡に瀕するという悪夢を描いた。今度の戦争はそのような危険性すらも孕んでいると思える。

五、「核兵器の先制使用」と「非核三原則の見直し」

実際、アメリカに協力してアフガニスタンでのタリバン政権を崩壊させたばかりのパキスタンとインドとの間で軍事紛争が勃発し、一時は両国首脳が核兵器の使用も真剣に考えるほどに緊張が高まった。この危険は一応は回避されたが、このような緊張の高まりの背景には、国際連合などが有した「公平な裁き」に対する深刻な不信感があり、軍事力の増大によってしか自国を防衛できないという意識を各国が持ち始めたことにあるだろう。

このような国際機関の調停能力の低下には、インドとパキスタンの核実験に対しては経済制裁を両国に課すなど強力な批判を実行しつつも、核の超大国となったアメリカの度重なる未臨界実験や弾道弾迎撃ミサイル制限条約からの一方的な離脱にたいしては、苦言を呈することもできない被爆国日本の核政策もその責任の一端を担っていると、残念ながらいわざるをえないだろう。

こうして現在世界では核戦争が勃発する危険性すら生まれている中でブッシュ政権は「ならず者国家」に対する核兵器の先制使用をも言明した。ここには核兵器の使用が日本にもたらした惨状への無知が顕著であるが、このような中「有事法制」の制定を急ぐ日本政府からも、「非核三原則」の見直しを示唆するような福田官房長官の発言や、それを支持する石原都知事の発言が続いた。この発言が大きな反響を呼ぶと福田長官は、現政権では見直しは全く考えていないと弁明したが、問題は閣僚ではないとしても公職にある石原氏の発言が、「日本の核武装」を唱える氏の持論であることである。

こうした流れを受けて「いつまで日本はアメリカ帝国の属国でいるのか?」という刺激的な問いかけと共に、日本を「アメリカの核の傘の下で『平和病』にかかり、北朝鮮に国民を拉致されても何もできない腰抜け国家」と呼び、「自国を自力で守れない国は『国家』とは言わない」との説明を持つ『日本核武装』という本さえ上梓されるようになっている。

このような強硬な主張は、「野蛮視」された結果、広島と長崎の二都市に原子爆弾を投下された日本の国民の激しいルサンチマン(弱者の強者に対する怨恨や復讐の感情)を煽る一方で、近隣の諸国に対しては強大な軍事力を持つ日本への恐怖心を与え、また「赤穂浪士」の上演を禁じるほどに日本からの復讐を恐れたアメリカにも、日本の将来に対する「深刻な不信感」を与えたように思える。

なぜならば、哲学的な書物においてルサンチマンの心理を鋭く分析したニーチェ自身の内に、「平等や自由」を普遍的な理念として自国の優位性を主張したフランス「文明」へのルサンチマンが強くあったように思えるからである。このような激しい感情を利用してドイツ国民の復讐心をあおり、「新しい戦争」へと駆り立てたのが天才的な大衆の煽動者だったヒトラーなのである。

この意味で注目したいのは、坂本龍馬の志を継いだ中江兆民が明治憲法発布の二年前に書いた『三酔人経綸問答』において、軍拡主義者の「豪傑君」に、文明の発達につれて「武器はいよいよ優秀に」なり、強国プロシアとフランスの国民は、「おたがいに以前の敗戦を恥じ」、「いつまでも絶えることのない復讐心」によって、「臥薪嘗胆」に耐えつつ「富国強兵」に努めたのだと説明させていることである。実際、ナポレオン戦争以降の世界では、戦勝国は一時的には繁栄を得たが、それは敗戦国の憎しみを生んで新たな「復讐」に遭い、互いに武器の増産と技術的な革新を競いあう中で、ついには生物・化学兵器や原子爆弾などの大虐殺兵器さえもが使用されるにいたったのである。

宇都宮徳馬は「核兵器の現状が人類を十回以上も死滅させる大量破壊能力をもつことはよく知られているが、それが人間を死にいたらしめるまでの激しい永続する苦痛については充分に知られていない」とし、その理由として、核兵器の使用者である米軍の当事者が、「被爆者の死にいたるまでの名状し難い苦しみや痛みを秘匿する政策」をとったばかりでなく、「日本の当局者もその顰みにならって現在にいたったからである」と指摘している。つまり、戦争犯罪は被害国が告発しなければ立件されないために、第一次世界大戦で用いられた「毒ガス」の使用は「戦争犯罪」として裁かれることになったが、日本政府が告発しなかったために三〇万人以上の日本人が苦しみながら亡くなった核兵器使用の非人道性は、アメリカ国内ではいまだによく理解されておらず、現在でもその使用は「戦争犯罪」にはあたらないとされているのである。

圧倒的な軍事力を有するアメリカの核の傘の下で「平和病にかかっている」日本政府は、世界中を永久的な戦争状態におとしいれる危険性のあるブッシュ・ドクトリンや、イラク戦争に際してアメリカ軍が劣化ウラン弾を使用したことに対してなんらの批判もしていないが、日本が真に自立していることを示すためには、いまだに一九世紀的な思考法で軍事力ですべての問題を解決できると考えているアメリカの錯誤とその危険性を指摘すべきであろう。

 

(本稿は日本価値観変動研究センターの季刊誌「クォータリーリサーチレポート」に連載した論考に、時間的な経過を踏まえて改訂を行い日本ペンクラブの「電子文藝館」に掲載した評論の一部である)。

(2015年1月27日.人質の殺害と以前の戦争との関わりについての考察を追加。2016年9月13日、「電子文藝館」版との違いを示すために題名に〈縮小版〉を追加)。

「グローバリゼーション」と「欧化と国粋」の対立

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(高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房の表紙。図版はオムスクの監獄)

序に代えて――「欧化と国粋」の対立とドストエフスキー

クリミア戦争敗北後にロシアは西欧の思想やシステムを大胆に取り入れるべきと主張した西欧派とそれに対する反発からロシア独自の伝統を保持すべきとしたスラヴ派との対立に揺れた。

その時代にドストエフスキーは多くのロシアや西欧の先行者の考察を踏まえて西欧派とスラヴ派の理論的な対立を鋭く批判しつつ、両者の対立を乗り越える総合としての道として「大地主義」の思想を唱えて『虐げられた人々』や、『死の家の記録』などの作品を発表し、それらは『罪と罰』などの長編小説で結実することになった。

興味深いのは一八六二年に日本の啓蒙思想家・福沢諭吉とドストエフスキーが相次いで西欧の主要な都市を訪れ、ロンドンで行われていた万国博覧会なども見学し、その印象を『西航記』や『冬に記す夏の印象』に記していたことである。

この二人の文明観を比較しつつ、ドストエフスキーの作品をとおして「欧化」と「国粋」の問題を考察することは、強いグローバリゼーションの圧力のもとで「集団的自衛権」という名前で「軍事同盟」の必要性が再び唱えられるようになった日本の未来を考える上でも重要だと思われる(以下、『欧化と国粋』の序章より引用)。

 

 「文明開化」と「グローバリゼーション」

ところで、福沢諭吉とドストエフスキーの二人が同じ年に西欧を訪れたのは単なる偶然ではなかった。三宅正樹はクリミア戦争を「ヨーロッパ国家系」から「世界国家系」へと「世界史」が拡大し変質していく「端緒」ととらえた政治学者中山治一の論文を比較文明学的な視点から紹介しているが、実際にクリミア戦争も主戦場となった黒海沿岸だけでなく、カムチャツカや日本近海でも行われ、日本の開国交渉にも深い影響を及ぼしていたのである*23。バックルの『イギリス文明史』がクリミア戦争の最中に書かれ、比較文明論の端緒とも位置づけられるダニレーフスキイの『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的および政治的諸関係の概観』(一八六九)がクリミア戦争を契機として書かれているという事実も三宅の指摘の重要性を裏付けているだろう。

それとともに注目しておきたいのは、この当時、大企業主としてサンクト・ペテルブルクで活動をしていたノーベルの父が、クリミア戦争に際して「機雷を実用化させ」ていたが、戦争に負けて「ロシア陸軍からの収入がすべて途絶え」たために一家がスウェーデンに戻ることになっていることである*24。ノーベル一族はその後、息子のアルフレッドがダイナマイトを発明したことによって、巨万の富を築くことになるが、つまりクリミア戦争は兵器の進化と殺傷能力の大規模化という面でも一時代を画すものとなったのである。

こうして、一八五四年の日本の開国と一八五六年のクリミア戦争の敗北後に、日露両国は近代化の必要性を痛感し、大きな危機を内蔵しながら、近代西欧文明に対抗できるだけの国家体制を模索することになったのである。しかも、原卓也は一八四〇年代の末にロシアでは、「建国一千年の記念」をいつにするかをめぐって、「日本の紀元節論争」のような論争が起こっていたことを紹介しているが*25、ドストエフスキーがヨーロッパから帰国した一八六二年の九月八日にロシア建国一千年祭が行われている*26。また、ピョートル大帝の生誕二〇〇周年を祝う祝典が行われた一〇年後の一八七二年には、一連の公開講座でモスクワ大学を卒業した後、ギゾーやランケに学んだ歴史家のソロヴィヨーフがピョートル大帝の改革の意義を強調して、改革をめぐる論議を呼ぶことになる*27。

一八六一年に兄のミハイルとともに総合雑誌『時代』を創刊して、バックルの『イギリス文明史』の紹介や翻訳を載せるとともに、モスクワ大学の世界史の教授で西欧派の歴史学者グラノーフスキイの論文ややはりモスクワ大学の出身でスラヴ派のホミャコーフについての論文をも掲載していたドストエフスキーが、これからの文明のあり方に強い関心を抱いたのは当然といえよう。

つまり、「幕末」における激動の時代を生きていた福沢諭吉と同じように、ドストエフスキーもまた「ペレストロイカ」の時期に先だって「グラースノスチ」(言論の自由と情報公開)の必要性が叫ばれた「大改革」と呼ばれる激動の時代を生きていたのであり、彼らはこのような流れの中で、西欧を自分の目でじかに観察することによって、今後、自分の国が歩むべき方向性を見定めようとしていたのである。

湾岸戦争やソ連の崩壊後、「グローバリゼーション」という名のもとに情報、政治、経済だけでなく文化の分野でも画一化が進む現在、これに対する反発から「ローカリゼーション」が強いナショナリズムを伴いながら、世界の各地で野火のような広がりを見せている。このような流れの中で日本でも「黒船の来航」や「敗戦」に続く「第三の開国」とも言われるような状況が生まれ、小学校からの「英語教育」の必要性を強調するような「欧化」の流れに対する鬱積した不満や「アイデンティティの危機」が強まり、「自国」の歴史の優越性を強調する「国粋」の流れが強まっている。

しかし、日本では「欧化と国粋」の激しい振幅が、ほぼ二〇年で周期的に交替していることをも山本新は指摘していたが、このような「振り子の揺れにも似た振幅」が、現代にいたっても続いていることを確認した吉澤五郎は、「新しい『地球文明』に適合する日本的結実の可能性を開示」することによりこのサイクルを克服することが急務であると記している*29。

他方で、「非西洋における西洋化と西洋における近代化の問題」を問い続けた山本新の仕事を高く評価した神川正彦は、一九世紀に「〈中心文明〉にせりあがった」、西欧の「一九世紀〈近代〉パラダイム」を根本的に問い直すには、「欧化」の問題を「〈中心ー周辺〉の基本枠組においてはっきりと位置づけ」ることや、「〈土着〉という軸を本当に民衆レベルにまで掘り下げる」ことの重要性を指摘している*30。

以下、本書では日本の開国とほぼ同時に起きていたクリミア戦争とその敗北後の「大改革」の時期に焦点を絞って、こうした比較文明学の視点から日露の「文明開化」を比較しつつドストエフスキーの作品を分析することにより、「欧化と国粋」の対立を克服しようとして彼が唱えた「大地主義」の現代的な意義に迫りたい*

『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年より、序章「二つの文明観――福沢諭吉の文明観とドストエフスキー」の一部を掲載。再掲に際してはわかりにくい箇所を削除したが、人名表記は本書のままに残し、注は省略した。8月29日改訂)。

リンク→ 『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(人名・作品名索引)

*「大地主義」とはドストエフスキーがシベリア流刑後に創刊した雑誌『時代』で唱えた考えで、『虐げられた人々』や『死の家の記録』、さらに『冬に記す夏の印象』などの作品や、長編小説『罪と罰』と『白痴』にもその考えが強く見られるだけでなく、『カラマーゾフの兄弟』にもその流れは続いている。

日本ではこの時期のドストエフスキーの考えや作品は軽視されてきたが、最近、 戦時中の1943年1月に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》の主要な脚本家が黒澤明であり、映画《赤ひげ》で示されることになる『虐げられた人々』の深い理解を踏まえて書かれていることが明らかになったと思われる(『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、2014年、第2章および第3章参照)。

あとがきに代えて──小林秀雄と私

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あとがきに代えて──小林秀雄と私

 

 「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論は、それまで高校の文芸部で小説のまねごとのような作品を書いていた私が評論という分野に移行するきっかけになった。原作の文章を引用することにより作品のテーマに迫るという小林秀雄の評論からは私の文学研究の方法も大きな影響を受けていると思える。

 『カラマーゾフの兄弟』には続編はありえないことを明らかにしていただけでなく、「原子力エネルギー」の危険性も「道義心」という視点から批判していた小林の意義はきわめて大きい。

 しかし「『罪と罰』についてⅠ」で、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と書いた小林秀雄が、「『白痴』についてⅠ」で「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない、シベリヤから還つたのだ」と記していたことには強い違和感を覚えた。

 さらに、小林秀雄のドストエフスキー論を何度も読み返す中で、原作から多くの引用がされているがそこで記されているのは小林独自の「物語」であり、これは「創作」ではないかという深刻な疑問を持つようになった。

 ただ、これまで上梓した著作でほとんど小林秀雄に言及しなかったのは、長編小説『白痴』をきちんと読み解くことが意外と難しく、イッポリートやエヴゲーニーの発言に深く関わるグリボエードフの『知恵の悲しみ』やプーシキンの作品をも視野に入れないとムィシキンの恩人やアグラーヤの名付け親など複雑な人物構成から成り立っているこの長編小説をきちんと分析することができないことに気づいたためである。

 『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、二〇一一年)でようやく黒澤監督の映画《白痴》を通してこの長編小説を詳しく分析したが、小林秀雄のドストエフスキー論について言及するとあまりに議論が拡散してしまうために省かざるをえなかった。

 少年の頃に核戦争の危機を体験した私がベトナム戦争のころには文学書だけでなく宗教書や哲学書なども読みふけり、『罪と罰』や『白痴』を読んで深い感銘を受けたことや、『白痴』に対する私の思いが揺らいだ際に「つっかえ棒」になってくれたのが黒澤映画《白痴》であったことについては前著の「あとがき」で書いた。ここでは簡単に小林秀雄のドストエフスキー論と私の研究史との関わりを振り返っておきたい。

 *    *  *

  小林秀雄は、戦後に書いた「『罪と罰』についてⅡ」で、「ドストエフスキイは、バルザックを尊敬し、愛読したらしいが、仕事は、バルザックの終つたところから、全く新に始めたのである」と書いた。そして、「社会的存在としての人間といふ明瞭な徹底した考へは、バルザックによつてはじめて小説の世界に導入されたのである」が、「ドストエフスキイは、この社会環境の網の目のうちに隈なく織り込まれた人間の諸性格の絨毯を、惜し気もなく破り捨てた」と続けていた。〔二四八〕

 しかし、知識人の自意識と「孤独」の問題を極限まで掘り下げたドストエフスキーは、バルザックの「社会的存在としての人間」という考えも受け継ぎ深めることで、「非凡人の理論」の危険性などを示唆していた。この文章を読んだときには小林が戦争という悲劇を体験したあとでも、自分が創作した「物語」を守るために、原作を矮小化して解釈していると感じた。

  それゆえ、修士論文「方法としての文学──ドストエフスキーの方法をめぐって」(『研究論集 Ⅱ』、一九八〇年)では、感覚を軽視したデカルト哲学の問題点を批判していたスピノザの考察にも注意を払いながら、社会小説の側面も強く持つ『貧しき人々』から『地下室の手記』を経て『白痴』や『未成年』に至る流れには、シェストフが見ようとした断絶はなく、むしろテーマの連続性と問題意識の深まりが見られることを明らかにしようとした。

  上梓した時期はかなり後になったが、厳しい検閲制度のもとで戦争の足音が近付く中で、なんとか言論の自由を確立し農奴制を改革しようとしたドストエフスキーの初期作品の意味をプーシキンの諸作品などとの関わりをとおして考察した『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、二〇〇七年)には、私の大学院生の頃の問題意識がもっとも強く反映されていると思える。

 ラスコーリニコフの「罪の意識と罰の意識」については、「『罪と罰』における「良心」の構造」(『文明研究』、一九八七年)で詳しく分析し、その論文を元に国際ドストエフスキー学会(IDS)で発表を行い、そのことが機縁となってイギリスのブリストル大学に研究留学する機会を得た。イギリスの哲学や経済史の深い知識をふまえて、『地下室の手記』では西欧の歴史観や哲学の鋭い批判が行われていることを明らかにしていたピース教授の著作は、後期のドストエフスキー作品を読み解くために必要な研究書と思える(リチャード・ピース、池田和彦訳、高橋編『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』のべる出版企画、二〇〇六年)。

 この時期に考えていた構想が『「罪と罰」を読む──「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、一九九六年、新版〈追記――『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』〉、二〇〇〇年)につながり、そこでラスコーリニコフの「良心」観に注意を払いつつ、「人類滅亡の夢」にいたる彼の夢の深まりを考察していたことが、映画《夢》の構造との類似性に気づくきっかけともなった。

 日露の近代化の類似性と問題点を考察した『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(刀水書房、二〇〇二年)でも、雑誌『時代』に掲載された『虐げられた人々』、『死の家の記録』、『冬に記す夏の印象』などの作品を詳しく分析することで小林秀雄によって軽視されていた「大地主義」の意義を示そうとした。

 プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』については授業では取りあげていたが、僭称者の問題を扱う予定の『悪霊』論で本格的に論じようとしていたためにこれまで言及してこなかった。今回、この作品における「夢」の問題にも言及したことで、『罪と罰』から『悪霊』に至る流れの一端を明らかにできたのではないかと考えている。

 「テキスト」という「事実」を自分の主観によって解釈し、大衆受けのする「物語」を「創作」するという小林の方法は、厳しい現実を直視しないで威勢のよい発言をしていた鼎談「英雄を語る」*などにおける歴史認識にも通じていると思える。このような方法の問題がきちんと認識されなければ、国民の生命を軽視した戦争や原発事故の悲劇が再び繰り返されることになるだろう。

 「『罪と罰』をめぐる静かなる決闘」という副題が浮かんだ際には、少し大げさではないかとの思いもあった。しかし、本書を書き進めるにつれて、映画《白痴》が小林の『白痴』論に対する映像をとおしての厳しい批判であり、映画《夢》における「夢」の構造も小林の『罪と罰』観を生涯にわたって批判的に考え続けていたことの結果だという思いを強くした。黒澤明は映画界に入る当初から小林秀雄のドストエフスキー観を強く意識しており、小林によって提起された重たい問題を最後まで持続して考え続けた監督だと思えるのである。

 時が経つと不満な点も出て来るとは思うが、現時点では本書がほぼ半世紀にもわたる私のドストエフスキー研究の集大成となったのではないかと感じている。

 黒澤明監督を文芸評論家・小林秀雄の批判者としてとらえることで、ドストエフスキー作品の意義を明らかにしようとした本書の方法については厳しい批判もあると思うので、忌憚のないご批判やご助言を頂ければ幸いである。

 

注 1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていた。

戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていたのである。この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していた。(「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁((不二出版、復刻版、2008~2011年)。

(2014年5月3日、注の加筆:7月14日)