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0、文明論(地球環境・戦争・憲法)のページ構成

、「核の時代」と地球環境

1-1、自然環境

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(月から撮影した地球、写真は「ウィキペディア」より)

「大地主義」と地球環境

「生命の水の泉」と「大地」のイデア

《風立ちぬ》Ⅱ――大地の激震と「轟々と」吹く風

1-2,戦争

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リンク→チャールズチャップリン独裁者 – YouTube

 ピーター・ポール&マリー(PPM)/花はどこへ行った … – YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=bOTCa1F3F0c

 

1-3,原水爆と原発事故

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(広島に投下されたウラン型原子爆弾「リトルボーイ」によるキノコ雲と、長崎市に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」によるキノコ雲。画像は「ウィキペディア」)。

リンク→ラッセル・アインシュタイン宣言-日本パグウォッシュ会議

 430px-Ikimono_no_kiroku_poster

(作成:Toho Company, © 1955、図版は「ウィキペディア」より)

「第五福竜丸」事件と映画《生きものの記録》

特集「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」と映画《生きものの記録》

 

Ⅱ、自由民権運動と「明治憲法」

1、王政や帝政における権力と「良心」

2,正岡子規と自由民権運動

3,北村透谷と自由民権運動

,大日本帝国憲法

安倍首相の国家観――岩倉具視と明治憲法

 

「核の時代」と「日本国憲法」

3-1,日本国憲法

Enforcement_of_new_Constitution_stamp(←画像をクリックで拡大できます)

(日本国憲法施行記念切手、図版は「ウィキペディア」より)

3-2、教育制度

3-3,法律と報道

「核の時代」と「改憲」の危険性

フィクションから事実へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(1)

「ワイマール憲法」から「日本の平和憲法」へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(2)

「終末時計」の時刻と「自衛隊」の役割――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(3)

「改憲」の危険性と司馬遼太郎氏の「憲法」観

「憲法記念日」と「子供の日」に寄せて――「積極的平和主義」と「五族協和」というスローガン

憲法96条の改正と「臣民」への転落ーー『坂の上の雲』と『戦争と平和』

「集団的自衛権の閣議決定」と「憲法」の失効

 

Ⅳ、日露の近代化と日本の政治

4-1,「公地公民」という用語とロシア帝国の「農奴制」

安倍政権のTPP法案・強行採決と『竜馬がゆく』における竜馬の農民観

4-2,明治維新と薩長藩閥政府

〈忍び寄る「国家神道」の足音〉関連記事一覧

「内務省の負の伝統」関連の記事一覧

4-3,「昭和初期の別国」

〈「昭和初期の別国」と『永遠の0(ゼロ)』〉関連記事一覧

4-4、安倍政権

 「戦争法」関連記事一覧

「安倍政権の無責任体制」関連の記事一覧

〈「アベノミクス」の詐欺性〉関連記事一覧

 

Ⅴ.2017年の総選挙

総選挙に向けて(2017年)

明治時代の「立憲主義」から現代の「立憲民主党」へ――立憲野党との共闘で政権の交代を!

国際社会で「孤立」を深める好戦的なトランプ政権と安倍政権

核の危険性には無知で好戦的な安倍政権から日本人の生命と国土を守ろう

戦前の価値観と国家神道の再建を目指す「日本会議」に対抗するために、立憲野党と仏教、キリスト教と日本古来の神道も共闘を!

2015年に強行採決された安全保障関連法案の問題点を検証する

 

(2016年3月17日、11月5日、改訂)

 

三宅正樹著『文明と時間』(東海大学出版会、2005年)

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1、『文明と時間』の構造と意義

東海大学でも長く教鞭をとられてきた三宅正樹・明治大学名誉教授は、 ご専門の『ユーラシア外交史研究』(河出書房新社, 2000年)を発行された後も、『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』(朝日選書, 2007年)『スターリンの対日情報工作――クリヴィツキー・ゾルゲ・「エコノミスト」』(平凡社新書, 2010年)などの著作を次々と刊行されている。

ここでは古代ギリシャや西欧各国だけでなくギリシャ正教を受け入れたロシアや、古代から現代にいたる中国や近代日本の時間概念が比較文明論の視点から考察されている大著『文明と時間』を取り上げたい。

なぜならば、本書は3つの部から成り立っているが、第1部の「比較文明論の視角」では、湾岸戦争やボスニア・ヘルツェゴビナの紛争、チェチェン紛争などが頻発するようになったソ連の崩壊後の事態を受けて、これからは「イデオロギーの対立」に代わって「文明の衝突」の危険性がますます増えると予測して激しい議論を呼んだ政治学者サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突?」(1993年)や大著『文明の衝突と世界秩序の再編成』(1996年、邦訳『文明の衝突』)が、トインビーの文明論などとの比較をとおして詳しく考察されているからである。

しかも、ここで三宅教授は「土着」や「熱心党」という翻訳の用語の問題にも注意を促しつつ、「周辺文明」という概念から「欧化と土着」の問題を分析した「我国における比較文明研究のすぐれた開拓者のひとり」である山本新氏の考察をとおして、ハンチントンのロシア観や日本観の問題に鋭く迫っており、ロシアとの北方領土問題だけでなく、中国や韓国との間でも領土問題に揺れるようになった現在の日本を冷静に考えるための重要な示唆に富んでいる。

本稿では第1部の「比較文明論の視角」に焦点を絞って考察することで本書の意義を明らかにしたいが、その前に簡単に全体の構造を紹介しておく。

第1部に続く第2部は「時間意識・時間観念と歴史」と題されており、そこには「古代の二大歴史家、ポルピオスと司馬遷」歴史観も比較されている「ヨーロッパ史の諸時期における時間意識の様相」や、トインビーの時間概念とルネサンス論も考察されている「時間観念からみた現代ヨーロッパ史学思想の再検討」、さらには第一次世界大戦の問題や「ヴェルサイユ条約の衝撃」が分析されている「ヴァイマル共和国における『保守革命』の時間意識と歴史意識」などの興味深い章が収められている。

そして、やはり3つの章からなる第3部「進歩の理念」では、「近代ヨーロッパにおける進歩の理念の成立」に大きな役割を果たした「古代・近代論争」が、東西の多くの歴史家の比較をとおして詳しく考察されている。

この意味で注目したいのは、第1部の構想だけでなく本書全体を説明していると思われる第1章〔時間の比較文明論〕では、〔ハンチントンとトインビー〕と題されている第1節から始まり、〔時間意識と文明〕、〔進歩の理論と「古代・近代論争」〕、〔下降する時間と不連続の連続としての時間〕へと続き、〔日本とロシアの「欧化」と進歩の理念〕の節で終わっていることである。

このような構成は歴史学における時間概念の綿密な考察をとおして、現代日本の状況にも迫っている本書の性格をよく物語っているであろう。次節からは日露の近代化の比較研究を専門とする筆者の視点から、この著作における考察を詳しく読み解くことによって、本書の意義を明らかにしたい(以下、敬称は略す。また本書よりの引用箇所はかっこ内にローマ数字で示す)。

2、ハンチントンの世界観とトインビーの文明論

第1部第1章〔時間の比較文明論〕の冒頭で三宅氏は、ハンチントンがトインビーは『歴史の研究』において、「21の文明の存在を指摘したが、現在の世界に存在するのはそのうちの6つにすぎない」と記しているが、トインビーがその後「周辺文明(peripheral civilization)」の重要性を指摘したバグビーの提案を採用して「衛星文明(satellite civilization)」という概念を取り入れたので、晩年の『図説・歴史の研究』では、「独立文明は14、衛星文明は17、計31文明となっている」ことを確認している(3~4)。

そして三宅氏は、「文明の衝突」ということを論じようとするならばハンチントンは、「トインビーの文明論のこのような発展を十分に考慮に入れるべきであった。特に日本文明とロシア文明について、周辺文明ないしは衛星文明として理解する視点を導入していれば、議論がはるかに緻密なものになっていたに違いない」と記している(5)。

さらに、『現代日本の開化』で日本における「文明開化」を「皮相上滑りの開化」と指摘した夏目漱石と、ロシアの近代化の問題を深く考察したロシアの思想家チャアダーエフの歴史認識の類似性を指摘した「山本新の卓見は、継承し発展させることが可能な要素を含んでいる」とした三宅氏は、「周辺文明の時間意識の考察にも、示唆を与えるものであろう」と結んでいる(15)。

第2章の〔諸文明の「同時性」と円環的時間意識〕では、トインビーがエッセー「わが歴史観」などにおいて、1914年に第一次世界大戦が勃発した際に、大学の授業でペロポネソス戦争を実証的な視点で記述した『戦史』の著者トゥキュディデスの講義をしていたことから、「我々が今、現在の世界で経験しつつあるその経験は」、「トゥキュディデスが紀元前431年にペロポネソス戦争が勃発したときに、感じたにちがいないものを理解したように思った」ことが重視されている(19~20)。

そしてトゥキュディデスの『戦史』は、「行為の因果関係を見つめる鋭い視線などから、近代的な意味での歴史記述としての評価も高い」が*1、ここでは歴史学の発達を論じた『歴史とは何ぞや』という著作でベルンハイムが、つぎのようなトゥキュディデスの記述に注意を促していることも指摘されている(21)。

すなわち、トゥキュディデスはこの「著作の役だつべき点は、過去の事物について明確な観念を与えることにある。故に彼は、昔に似た政治上の形勢に対しては過去の知識から実用的な教訓が汲まれんことを欲し、且つすべての人間の本性と行為とは一般に類似しているから」と記し、さらに「この記述は、今日の読者に媚びて賞を得るためではなく、世々の遺産たるべく綴られた」と書いていたのである(21~22)。

第一次世界大戦に敗れたハンガリー・オーストリア帝国の崩壊が、ソ連邦の崩壊と同じように支配下の多くの国で民族紛争を呼び起こしていたことを考慮するならば、時間や空間を超えて「すべての文明の哲学的同時性」という「比較文明論」の構想を得たトインビーの「トゥキュディデス体験」の意義が第2章で詳しく論じられていることは、国際政治学の視点から『文明の衝突』の問題を考察したハンチントンの文明観の特徴を詳しく考察するためにも欠かすことのできない作業だったといえるだろう。

3、ハンチントンの文明観と比較文明学

第3章の第1節では、ハンチントンの『文明の衝突と世界秩序の再編成』を、「比較文明論の成果をただ利用しただけというような性格のものではなく」、「比較文明学に対してきわめて鋭く問題を投げかけているもの」と位置付けた哲学者で比較文明論研究の第一人者のひとりであった神川正彦氏の論文を詳しく分析することで、国際政治学との比較文明学の接点と視点の違いが確認されている。

すなわち、神川氏によれば、国際政治学と比較文明学は「第一次世界大戦を介して成立した新しい学の分野であり」、「両者は同時に誕生した『双生児』である」。しかし、比較文明学は「多文明の世界」を前提としており、「ヨーロッパ中心史観をはっきりと否定する」ので、「『多文明の世界』を認めながら」、同時に「国際政治は権力政治ないしは権力闘争であるというリアリティの確認」を原則としているハンチントンの『文明の衝突』は、「比較文明学の思想を完全に欠如している」と鋭く批判していたのである(31~32)。

同じような批判はハンチントンの欧化と「引き裂かれた国家」をめぐる議論に注目したアメリカの著名な比較文明学者ウィルキンソンからも出されていた。

すなわち、ハンチントンは「欧化は理論上は可能である。もし、それらの国家のエリートが熱心であり、公衆が黙認し、新しく受け入れ側となる文明が歓迎するならば、これらの国家は自己の文明上のアイデンティティーを取り替えるかも知れない」が、「ロシア、トルコとメキシコは、これまでのところ欧化を試みて失敗して」おり、「これらの国家はこの過程で文化的に分裂症的な『引き裂かれた国家』になりつつあり、何らの利益も挙げていない」と記していたのである(37~38)。

ウィルキンソンの指摘を踏まえて「引き裂かれた国家」という考え方は、「ハンチントンが本書で展開しているさまざまな議論の中でもとりわけ興味深いもののひとつである」とした三宅氏は、ロシアの思想家チャアダーエフが1836年に発表した「哲学書簡 第一」の後半の部分で、「ビザンツの遺産を否定して西ヨーロッパのカトリック精神を受け入れることこそ、ロシアの歩むべき唯一の道である旨を、繰り返しくりかえし力説している」ことを紹介し、ハンチントンがチャアダーエフを「西欧派の代表的な思想家と断定している後半はロシア思想の歴史に即していない」ことを明らかにしている(38~42)。

その一方で三宅氏は、日本の比較文明学者・山本新氏がすでに『周辺文明論――欧化と土着』(神川正彦・吉澤五郎編、刀水書房、1985年)で、「チャアダーエフは夏目漱石と比較されるべき、非西欧世界の欧化につきまとう困難な問題を象徴する思想家である」と指摘して、日露の近代化の問題をより深く考察することを求めていたことに注意を促している(46)。

さらに三宅氏は、訳書では「比較文明論における重要な概念」である「土着化(Indigenization)」が、「地域主義」と訳されていることは、「言葉としてもつニュアンスを十分に伝えていないように思われる」と断ったうえで、ハンチントンがイスラム世界やインド、さらにはロシアばかりでなく、「日本においても土着化が進行している」として、1980年代の「日本人論」の流行を取り上げていることを指摘している(50)。

ここで注目したいのは、ハンチントンがロシアの思想家ダニレフスキーの著『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的および政治的諸関係の概観』(1869)に言及して、ここでは「ヨーロッパ化の努力を『ひとびとの生活を歪め、その形を異質の、外国の形に置き換える』ものとして」と批判されていたと紹介し、さらに「ソヴィエト時代は西欧派とスラヴ派の論争は、一時中止されていた」が、「ソヴィエト体制崩壊後はこのような協力関係は消滅し、両派の対立はふたたび活性化するに至った」と書いていたことである。

すでに三宅氏は政治学者中山治一氏の論文によりながら、ロシアとトルコとの戦争に際して、イギリスやフランスがイスラム国家のトルコの側に参戦したクリミア戦争を比較文明学的な視点から、「ヨーロッパ国家系」から「世界国家系」へと「世界史」が拡大し変質していく「端緒」ととらえていた*2。

実際、イギリスを「文明」とし、その一方でロシアとトルコを「野蛮」と位置付けたイギリスの歴史家バックルの『イギリス文明史』も、クリミア戦争の最中に書かれていた。その一方で、比較文明論の端緒とも位置づけられるダニレフスキーの『ロシアとヨーロッパ』も、クリミア戦争での敗戦を契機として書かれ、攻撃的な西欧列強に滅ぼされないためには、ロシアを盟主とするスラヴ連盟を締結しなければならないと訴えていたのである*3。

4、「文明の衝突」と「文明の共存」

第4節では「土着化・非西欧諸文化の復活(Indigenization:The Resurgence of Non-western Cultures)」という節をハンチントンが、次のように締めくくっていることが紹介されている。

「このように『進歩の時代の終焉』を目撃しつつある我々は、複数かつ多様な文明が相互に接触交渉を繰り返す時代に突入しつつあるのであり、地球全体に広がったこの土着化の過程が鮮明に見られるのは各種の宗教の復興」においてである(51~52)。

このことを確認したあとで三宅氏はトインビーが『歴史の研究』において、「同時代に生ずる文明の「出会い(encounter)」に際して、攻撃を受けた側の文明の内部に見られる正反対の反応を「ヘロデ主義(Herodianism)」と「ゼロト主義(Zealotism)」と名づけている」ことを確認するとともに、「ゼロト主義とは攘夷主義という意味であり、熱心党という訳語では十分にその意味が伝わってこない」ので、「攘夷党」と訳したほうがよいとの重要な指摘をしている(52)。

「文明の衝突」というテーマにもかかわる重要な用語なので、この二つの概念について分かりやすく説明しており、三宅氏が引用している日本思想史研究家の源了圓氏の言葉をここでも引用しておく。

すなわち、ヘロデ主義者とは「ローマ文化の長所を摂取してそれによってローマに対抗する力を得ようとしたヘロデ大王から得たことばであり」、ゼロト主義者とは、「烈しくローマ文化を排撃し、熱狂的に自国の宗教の純粋さを守ろうとした一団の人々(ゼロット)から得たことばであり、もっとひろく、文化摂取のさいに外来文化を排撃し、それによって自国の文化的純粋さと国家的独立を保とうとする人々」を指していた。

そして、「このヘロデ主義者とゼロットとの対立は、近代西欧文明に接触した他の文明圏において数多く見られた。帝政ロシアにおける西欧派とスラヴ愛護派もその一例であろう。またわが国の幕末に見られた開国派と攘夷派もその有力な一例であろう」と続けた源了圓氏は、「大名の中での最も有力なヘロデ主義者は島津斉彬であり、一般の武士の中のヘロデ主義者の先覚者とも言うべきは佐久間象山」であったとしたと指摘していた(53~4)。

このような源氏の考察は、「トインビーのヘロデ主義とゼロト主義という概念が」、幕末の日本の思想史を分析するのにも、「有効な指標として利用され得ることを証明している」と記した三宅氏は、「圧倒的に優勢な西欧文明に接触した日本の指導者たちは、ヘロデ主義の立場を採用して『富国強兵』の道を選択した」と説明している。

その上で、ハンチントンがこの対立する二つの概念の間に「ケマル主義」と呼ぶ「改良主義」を加えていることについては、中国における近代化と比較しながら、「東洋道徳西洋芸」を唱えた佐久間象山を「日本における『改良主義』の先駆者」と位置付けることを可能にするだろうとの肯定的な評価をしている(56)。

しかし、最後に置かれた第6節の〔ウィルキンソンのハンチントン批判〕では、『文明の衝突と世界秩序の再編成』でハンチントンが「グローバルな国際政治に文明論の分析を適用したこと」や、「グローバルな『近代化』の現象をある程度明確に関連付けることを試みたこと」を評価しつつも、そこでは「文明論的なパースペクティヴは、ハンチントンにとっては世界全体にわたるグローバルな国際政治を観察するための『枠組み(framework)』」であり、「有効性を持つかどうかによって判定されている」とウィルキンソンが批判していると書いている(64~65)。

さらに、トインビーやキグリー、メルコなどの比較文明論者は、「文明論的分析を歴史の全ての時期について有効性を持つと考えており」、さらに「それぞれの文明を本質において統一性と一貫性のある文化を有しているという見解に傾いて」いるが、「ハンチントンは、〈冷戦の時期になって、世界史上初めて、グローバルな国際政治が多極的(multipolar)ならびに多文明的(multicivilization)なものとなっている〉と断定している」ことが指摘されている(64)。

三宅氏は「ウィルキンソンによると、グローバルな文明の存在が否定される一方でハンチントンは、権力と文化とのつながりを重視しており、〈普遍的な文明は普遍的な権力を必要とする〉と断定している」ことにも注意を促している(65)。

実は、この著作を再読した際に気づいたのだが、三宅氏は「欧化と土着」の考察に際して、ハンチントンが「二十世紀においては、輸送と通信の進歩とグローバルな相互依存が、排外主義を実行した場合の代償をひどく高くつくものとし、排外主義はほとんど消滅した」と書き、「トインビーの用語を使えば、ゼロト方式は全く実行不可能な選択なのである」と断言していたことに注意を促していた(59)。

トインビーは『歴史の研究』において、それまでの西欧の歴史観を「自己中心の迷妄」と断じていた*4。その後の世界情勢を見るとき、このようなハンチントンの断言は、ソ連が崩壊したことで唯一の超大国となったアメリカに暮らす政治学者の「迷妄」とさえ思える。

なぜならば、圧倒的な武力を有するペリー艦隊と遭遇した幕末の日本では攘夷思想が広まっていた。そして、太平洋戦争の末期にも自分の生命を犠牲にしてでも祖国を守ろうとする「神風特攻隊」による攻撃が行われたが、あまり日本では知られていないが、ソ連の末期にチェチェンのイスラム教徒の過激派たちも、「神風」と呼ぶ「自爆攻撃」で自国の独立を勝ち取ろうとしていた。こうして、自国の自尊心が激しく傷つけられたと感じた時には、「攘夷思想」はいっそう激しく広がるからである。

一方、トインビーの概念を援用しつつ幕末期の日本の思想状況を説明していた源了圓氏は、「江戸後期の文化は、東アジア文化圏内において中国文化を受容しながらそれを受容、消化し、さらに変容し、創造してつくった日本の伝統文化の総仕上げともいうべき性格」があり、しかもこの時代には「自国中心主義を否定する普遍的精神」すらも成立していたことを明らかにしている*5。

このように見てくるとき、比較文明学と歴史学の視点から、時間認識をとおして国際政治学者ハンチントンの文明観が分析されている第1部「比較文明論の視角」を含む『文明と時間』は、発行から10年近い年月が経った現在もその新鮮さは失われず、かえって重要性を増しているように思える*6。学術論文を中心にまとめた著作なので多少難解ではあるが、研究者のみならず比較文明学をめざす若手の研究者にもぜひ読んでもらいたい書物である。

 

*1  安西真「戦史」『世界大百科事典』平凡社、第16巻、78頁。

*2 三宅正樹「世界の一体化と文明の時間意識」『アウローラ』19号、2000年、19―26頁。

*3 高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、2002年参照。

*4 トインビー、長谷川松治訳『歴史の研究Ⅰ』、社会思想社、1967年、75-6頁。

*5 源了圓「江戸後期の比較文化研究」、源了圓編著『江戸後期の比較文化研究』、ぺりかん社、1990年、15-21頁。

*6 三宅教授の書評論文「高橋誠一郎氏の新著『黒澤明で「白痴」を読み解く』を読んで」(『異文化交流』、第12号、2012年)からは、チャアダーエフやダニレフスキーについての著者の深い関心が、若い頃にグリボエードフの『知恵の悲しみ』やプーシキンの歴史小説『大尉の娘』を読み、映画《白痴》からも感銘を受けていた著者のロシア文学の造詣の深さによるものであるがわかる。

(『文明研究』、第31号、2012年。2013年8月、改訂)

都築政昭著『黒澤明の遺言「夢」』(近代文芸社、2005年)

 

はじめに

1986年のチェルノブイリ原発事故の際に長期留学生を引率してモスクワに滞在しており、原発事故の危険性を身にしみて感じていた私は、この原発事故を扱った劇《石棺》を見た後では黒澤明監督の言葉にも触れつつ簡単な劇評を書いた。

しかし、専門外の人間が発言してもあまり影響力は持たないだろうと考えて、映画《生きものの記録》や映画《夢》など原発や原爆を扱った黒澤作品には言及してこなかった。それゆえ、3月11日に起きた福島第一原子力発電所の爆発事故のあとでは、黒澤監督の先見の明や採算を度外視してでもこの映画を実現した勇気を改めて強く感じた。

それとともに原発の危険性について粘り強く語ってこなかった自分の不明を強く恥じたが、大学の図書館で、[見なければならない「夢」もある]というプロローグから始まる『黒澤明の遺言「夢」』を見付けたのは、拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』を発行した後のことであった。

著者の都築政昭・黒澤明研究会会長は、この著作で全七話から成るこの映画の詳しい分析だけでなく、関係者の方々へのインタビューや多くの映画の画像やロケの写真を通して、様々な困難を克服してついに公開にまでこぎつけるまでの経過も詳しく描いていた。

福島第一原子力発電所事故の後では、第六話「赤富士」がこの事故を予言していたと話題になったが、都築氏は2005年に出版されたこの著書でこの映画の全体像をとおして黒澤監督がこの映画に托した思いを明らかにしている。この著作から強い知的刺激を受けたことが、私の新しい著作の構想が生まれるきっかけともなった。都築政昭氏の労作『黒澤明の遺言「夢」』の内容を以下に簡単に紹介しておく。

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『黒澤明の遺言「夢」』の冒頭には、ドストエフスキー博物館のあるスターラヤ・ルッサで撮った作家の写真が掲げられている。

そのことに象徴的に表されているように、[第一章 夢は天才である]では映画《乱》の公開の翌年に浮かんだ映画《夢》のアイデアが、生涯にわたって敬愛していたドストエフスキーの作品『罪と罰』にヒントを得たものであることが記され、さらに、最初は完成時の八つの話以外に「飛ぶ」「阿修羅」やラストに予定された「素晴らしい夢」の三つの夢も出来ていたことも紹介されている。

[第二章 ハリウッド資本で動き出す]や[第三章 三年ぶりで《夢》始動]では、日本の会社にそのアイデアと意義を訴えても通じなかった企画が、脚本を読んで感動したスティーヴン・スピルバーグ監督の働きかけによってワーナー・ブラザーズ社が配給する形でようやく実現することになったことが記されたことや、さらに翻訳や資金の問題をようやく克服して撮影に至るまでの経過が記されている。

[第四章 自然の”精”との交感 ――懐かしい夢]から始まる、[第五章 鎮魂――悲痛な夢]、[第六章 心の一番奥の怖れ ――恐ろしい悪夢]、[第七章 自然との共生 ――ユートピアの夢]などの章では、原発事故の問題を扱った第六話「赤富士」のシーンだけでなく、八つの話全部を黒澤監督の個人史にも迫りながら、広い視野でこの映画の面白さと深さを論じている。

そしてエピローグでは、「地球がダメなら、人類は生存できない」との強い使命感から、環境問題や原発事故の問題を正面から捉えたこの作品が、黒澤明の「遺言」ともいえるような重みを有していることを確認している。

 

黒澤監督の対談や「ノート」などを詳しく研究した都築氏は、映画《夢》のヒントとなったのが、ドストエフスキーの長編小説『罪と罰』(一八六六年)に記された「やせ馬が殺される夢」であり、その文章から強い感銘を受けた黒澤が「ノート」に次のような一節をそのまま書き写していたことを明らかにしている。

映画《夢》と『罪と罰』との深い関連を理解するためにも重要だと思えるので、少し長くなるが書き写された全文を引用しておきたい。

 

「夢というものは病的な状態にある時には、並はずれて浮き上がるような印象とくっきりとした鮮やかさと並々ならぬ現実との類似を特色とする。そういうことがたびたびあるものである。時とすると奇怪な場面が描き出されるが、この場合夢の状況や過程全体が場面内容を充実させる意味で芸術的にぴったり合った、きわめて微細な、しかも奇想天外なデテールを持っている。それはたとい夢を見る当人が、プーシキンやツルゲーネフほどの芸術家でも、うつつには考え出さないほどである。こうした夢、こうした病的な夢はいつも長く記憶に残って攪乱され、興奮した人間の組織に強烈な印象を与えるものである」。         (『ドストエフスキイ全集』小沼文彦訳・筑摩書房)

そして都築氏は、黒澤監督が引用した『罪と罰』の文章の横に、「夢というものの特質を把握しなければならない。現実を描くのではなく、夢を描くのだ。夢が持っている奇妙なリアリティをつかまえなければならない」というメモを記していることにも注意を促している。

黒澤監督のこのメモからは、夢の問題についての深い関心がうかがえるだけでなく、エピローグでは「人類滅亡の悪夢」も描かれている『罪と罰』のテーマや構造に対する黒澤監督の認識の深さも感じられる*1。

 

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福島第一原子力発電所での大事故の後では、この事故の大きさに衝撃を受けたドイツやイタリアなどでは脱原発という大きな決断がなされた。しかし、地震国であるだけでなく、近い将来に大地震が起こることが予測されている日本の原子力政策はあまり変わらず、未曾有の大危機に直面して原発再稼働の見直しを進めていた菅直人元総理は、政財界からの激しい非難を浴びて退陣に追いやられ、国民レベルでの議論や国会での討議もないままに原発の輸出さえもが決められた。

このような事態に対して、まだ未見ではあるが、ドキュメンタリー映画『100,000年後の安全』を撮ったデンマーク出身のマドセン監督は、「日本には、事実を国民に教えない文化があるのか」と問いかけ、「福島事故で浮き彫りになったのは、日本人の”心のメルトダウン”だ」と感じていると語ったことが報道されている*2。

映画《白痴》を撮った黒澤監督は、ロシアのみならず世界できわめて高い評価を受けているが、日本では「第五福竜丸」事件の影響を扱った映画《生きものの記録》や映画《夢》などは、いまだに低い評価が続いていると思える。

黒澤映画《夢》の現代的な意義を考察することで、現在の問題を直視するためにも多くの方にぜひ読んで頂きたい書物である。

*1 映画《夢》と『罪と罰』に描かれた夢の詳しい比較は、近く「主な研究(活動)」のページで比較文学会での例会発表や黒澤明研究会の『会誌』に発表した論文の概要を掲載する予定である。

*2 「処理先送り 倫理の問題」[こちら特報部]『東京新聞』2011年12月23日。

「権力欲」と「服従欲」の考察――フロムの『自由からの逃走』(東京創元社) を読む

1,「権威主義的な価値観」への盲従の危険性と「非凡人の理論」

自らがナチズムの迫害にあった社会心理学者のエーリッヒ・フロム(1900~1980)は、『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社、1985)において、ヒトラーの考えと社会ダーウィニズムとの係わりに注目して、ヒトラーが「自然の法則」の名のもとに「権力欲を合理化しよう」とつとめていたことを指摘していました。さらにフロムは、「種族保存の本能」に「人間社会形成の第一原因」を見るヒトラーの考えは、「弱肉強食の戦い」と経済的な「適者生存」の考え方を導いたと述べています*14。

注目したいのはフロムが、人間の歴史が個人の自由の拡大の歴史であることを確認しながら、それとともに、あまりに個人の自由が大きくなった時、獲得した自由が重みにもなり、人が自らそれを放棄することもあることを指摘しえていることです。

たしかに、近代以降、それまで土地や職業に縛られていた人間は、職業の選択の自由、移動の自由、さらには恋愛の自由など様々な個人の自由を拡大してきました。しかし、自由が大きくなればなるほど、どの道を選ぶかの選択の際の苦悩や不安は深まります。こうして、フロムは自らの道を選ぶことが難しい危機的な状況になればなるほど、人間は自らの自由の重みに耐えられずに、それをより強大な他の人物に譲り、彼に道を選んでもらうことで不安から逃れようとする傾向があることを明らかにしたのです。

この際にフロムはサディズムとマゾヒズムという心理学の概念を用いながら、人間の「服従と支配」のメカニズムに迫り得ています。すなわち、彼によれば、「権力欲」は単独のものではなく、他方で権威者に盲目的に従いたいとする「服従欲」に支えられており、自分では行うことが難しい時、人間は権力を持つ支配者に服従することによって、自分の望みや欲望をかなえようともするのです*15。

フロムは「神経症や権威主義やサディズム・マゾヒズムは人間性が開花されないときに起こるとし、これを倫理的な破綻だとした」(ウィキペディア)としていますが、彼の説明は第一次世界大戦の後で経済的・精神的危機を迎えたドイツにおいて、なぜ独裁的な政治形態が現れたかを解明していると言えるでしょう。

フロムは自分の分析をより分かり説明するために、ドストエフスキーの最後の大作『カラマーゾフの兄弟』から引用していますが*16、私たちにとって興味深いのは、このような問題がすでに『罪と罰』においても扱われていることです。

すなわち、ラスコーリニコフは「凡人」について「本性から言って保守的で、行儀正しい人たちで、服従を旨として生き、また服従するのが好きな人たちです。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務で」ある(三・五)と規定するのです。別な箇所でラスコーリニコフは「どうするって? 打ちこわすべきものを、一思いに打ちこわす、それだけの話さ。…中略…自由と権力、いやなによりも権力だ!」と語った後で、「ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」(四・四)と続けています。

この「おののく」という特徴的な言葉は、彼がナポレオンのことを想起しながら、路上に大砲を並べて「罪なき者も罪ある者も片端から射ち殺し」「言訳ひとつ言おう」しなかった者の処置こそ正しいと感じた時にも、「服従せよ、おののくやからよ、望むなかれ、それらはおまえらのわざではない」(三・六)と用いられていました。

創作ノートにはラスコーリニコフには「人間どもに対する深い侮蔑感があった」(一四〇)と書かれています。ドストエフスキーは自分の「権力志向」だけではなく、大衆の「服従志向」にも言及させることでラスコーリニコフのいらだちを見事に表現しえているのです。

こうして、ラスコーリニコフの「非凡人」の理念は、劣悪な状況におかれながらも、社会を改革しようとはせず、ただ耐えているだけの民衆に対するいらだちや不信とも密接に結びついていたのです。(中略)

しかも、ドストエフスキーは予審判事のポルフィーリイに「もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ」とラスコーリニコフを批判させていました。

実際、世界を「生存闘争」の場ととらえるならば、かつての「イデオロギー」的な連帯から、「同種の文明国家」の連帯へと変わったと言っても、自らが「鬼」として滅ぼされないために、「圧倒的な力」を持つ文明に対抗して、他の文明も国力を挙げて軍備の拡大や「抑止力」としての核兵器の開発へと進まざるを得なくなるでしょう。

現在も「国益」や「抑止力」の名目で未臨界実験をも含む核実験や核兵器の保持が続けられていますが、多くの学者が指摘しているように、核兵器の使用は「核の冬」など地球環境の悪化による諸文明だけでなく、地球文明そのものの破滅をも意味するでしょう。

そのことをドストエフスキーは、ラスコーリニコフがシベリアの流刑地で見る「人類滅亡の悪夢」をとおして明らかにしていました。夢の中で彼は「知力と意志を授けられた」「旋毛虫」におかされ自分だけが真理を知っていると思いこんだ人々が互いに自分の真理を主張して「憎悪にかられて」、互いに殺し合いを始め、ついには地球上に数名の者しか残らなかったという光景を見るのです。

2,スピノザの「感情論」と『罪と罰』における感情の考察

興味深いのは、ドストエフスキーがこの「人類滅亡の悪夢」を描いた後でソーニャと再会したラスコーリニコフの「復活」を描いていたことです。

つまり、「だれが生きるべきで、だれが生きるべきじゃないか」などと裁くことが人間にできるのかとラスコーリニコフを鋭く問い質していたソーニャの考えには、論理化はされていないにせよ、存在や生命の尊厳に対する直感的な理解があると言えるでしょう。(中略)

貧しさのために大学を退学しなければならなくなり、「自尊心」を傷つけられた中で自分の専門的な知識で組み上げたラスコーリニコフの「論理」の矛盾を、ラズミーヒンが指摘しつつも彼に直接的な影響力を持てなかったのに対し、ソーニャの言葉は彼の感情に訴えかける力をもっていたのです。

この意味で注目したいのは、エーリッヒ・フロムが無意識的力に注目した思想家として、マルクスとフロイトの名を挙げながら、「西欧の思考的伝統の中で」、彼らに先立って「無意識についての明白な概念を持っていた最初の思想家は、スピノザであった」と書いていることです*7。

実際、スピノザは感情の分析をとおして「人間は、常に必然的に受動感情に屈従」するとし、「感情の力は、感情以外の人間の活動、あるいは、能力を凌駕することができる。それほどに感情は頑強に人間に粘着している」という事実を指摘しえています*8。

このような認識は自分が感情や他人の意見に左右されずに、主体的かつ理性的に行動していると考えていた人々にとっては苦痛でしょう。しかし、スピノザが指摘しているように、多くの場合「人々が自由であると確信している根拠は、彼らは自分たちの行為を意識しているがその行為を決定する原因については無知である」という理由に基づいているのです*9。

『未成年』の登場人物は、ある感情のとりこになった人間を正常に戻すには「その感情そのものを変えねばならないが、それには同程度に強烈な別な感情を代りに注入する以外に手はない」(六四)と語っています*10。この言葉は「感情は、それと反対の、しかもその感情よりももっと強力な感情によらなければ抑えることも除去することもできない」というスピノザの定理を強く思い起こさせます*11。

実際、ドストエフスキーが出版していた雑誌『時代』にはストラーホフの訳による「神に関するスピノザの学説」という論文が掲載されており、ドストエフスキーがスピノザの考えをある程度知っていたことは充分に考えられるのです*12。

つまり、評論家のシェストフは、ドストエフスキーが『地下室の手記』(一八六四)で「かつて、自分が拝跪していたものを…中略…泥の中に踏みつけてしまった」と記し、この作家をスピノザなどの哲学とは対立し、ニーチェとともに「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定していましたが、ドストエフスキーにはスピノザ的な哲学にたいする深い理解があったと思えるのです。

私たちはスピノザの感情論を高く評価したフロムの考察をとおして『罪と罰』を読み解くことで、現代日本の問題点にも迫り得るでしょう。

*     *   *

エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳『自由からの逃走』(東京創元社、1985)

序文

第一章  自由――心理学的問題か?

第二章 個人の解放と自由の多義性

第三章 宗教改革時代の自由

1、中世的背景とルネッサンス

2、宗教改革の時代

第四章 近代人における自由の二面性

第五章 逃避のメカニズム

1、権威主義

2、破壊性

3、機械的画一性

第六章 ナチズムの心理

第七章 自由とデモクラシー

1、個性の幻影

2、自由と自発性

付録 性格と社会過程

(拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、初版1996年、新版2000年)、第8章「他者の発見――新しい知の模索」および、第9章「鬼」としての他者」より。註の記述は省いたが、*7については、フロム著、阪本健二・志貴孝男訳『疑惑と行動』、東京創元社、1985、167頁。*8については、スピノザ『エティカ』(『世界の名著』第二五巻)工藤喜作・斎藤博訳、中央公論社、1969、273頁を参照)。

(2016年7月28日。「『罪と罰』とフロムの『自由からの逃走』』」を大幅に改訂)

 

伊波敏男『島惑ひ 琉球沖縄のこと』と大城貞俊『島影 慶良間や見いゆしが』(ともに人文書館、2013年)

 

伊波敏男『島惑ひ 琉球沖縄のこと』(人文書館)

 

ISBN978-4-903174-27-3_xl

 

 

植田早や風そよそよと山の里

   (ホームページ「かぎやで風」、2012年6月12日)

「ふるさとの沖縄を離れ異郷での暮らしが52年、ハンセン病のため隔離生活が沖縄で3年、ヤマトで10年の合計13年、逆算すると家族と一緒にすごしたのは,たったの14年ということになる。
この頃、故郷の沖縄に関わる情報は、私の耳には悲鳴ように伝わってくる。そして、「沖縄」の地名が、時間が経つごとに「琉球」という文字に置き換えられていく。これはどうしたことだろうか? 私の心中で日本国沖縄県という枠組が、ギシギシ音を立てて歪みはじめている。」

 

[目次]

序の章

恩納岳(うんなだき)
  うわぃすーこー(三十三年忌)/しぃーみぃー(清明祭)/第19ゲート

壱の章

かたかしら(欹髻)
  ヤマトはわが御主(うしゅ)にあらず/荒地をひらく径/水盤の諍い

弐の章

士魂の残照
  銀簪(ぎんかんざし)の誉/松茂良泊手(まつもらとぅまいでぃー)/
  染屋真榮田(そめやまえだ)

参の章

貧の闇
  国頭銀行/屋取(やーどぅい)集落/年季奉公

四の章

琉球の鼓動
  南大東島/二人のウシ/伊豆味かわいいぐぁー(可愛い娘)/三棹の三線

伍の章

そして、仏桑花(ぶっそうげ)の呻き
  はるさー(農業)先生/金武湾(きんわん)/自然・平和・人権/信州沖縄塾

終の章

君たちの未来へ
  土に埋めた太陽/わが産土への言付け

「国に惑い」、「島が惑う」──後書きにかえて

 

*   *   *

 

大城貞俊『島影 慶良間や見いゆしが』(人文書館)

 

490317428X

 

大城氏の著作でも冒頭に次の詩が掲げられている。

 

島影」

島が揺れている

沈黙の過去を保持し

神々とともに

水平線を見つめ

樹木を揺らしている

 

 島がみつめている

死者たちの記憶が

珊瑚の海を彩っても

生者の肉体には宿らない

漂泊する箱舟たち

 

 それでもなお

島は沈まない

今日の空は、あの日の空ではない

今日の海は、あの日の海ではない

そんな日々を矜持として

人々を信じ未来を信じ

凜としてそこにある

 

島が見えるか

太陽に対峙して輝く島

月の光を受けて歴史を刻む島

その時を信じて

あるがままにある

沖縄(ウチナー)の

島影

 

*   *   *

ブログの記事にも書いたが、「特定秘密保護法」が国内外の法律家やジャーナリストなどから示された深い危惧の念にもかかわらず、強行採決されたことで沖縄の問題を日本中が共有することになる。

これらの著作が日本に投げかけている「問い」はきわめて重い。

 

井桁貞義著『ドストエフスキイ 言葉の生命』 (群像社、2003年)

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井桁貞義著『ドストエフスキイ 言葉の生命』  (群像社、2003年)

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長い間、刊行が待たれていた井桁氏のドストエフスキー論が、「聖書と語らう」「ロシアと語らう」「ヨーロッパと語らう」「ドストエフスキイと語らう」、そして「アジアでの語らい」の五部で構成され、五〇〇頁を越える大著の形で出版された。

あとがきで著者の井桁貞義氏はプーシキンの詩に託しながら、ドストエフスキーの作品との出会いと別れ、そして新しい再会について触れている。実際、「ドストエフスキーの会会報」の編集など手間と時間がかかる作業に従事し(『場――ドストエフスキーの会の記録』Ⅰ~Ⅳ、参照)、さらに毎回特集を組んだ『ドストエフスキー研究』の編集者の一人として重責を担った氏は、それまでの豊富な知識を活かし、「<文化歴史派>と<詩学派>の方法を交互」に用いて、斬新な切り口でわかりやすくドストエフスキーの「人と思想」に迫った『ドストエフスキイ』(清水書院、一九八九年)を発行し、いよいよ本格的なドストエフスキー論の刊行が待たれていたときに、氏はドストエフスキー研究から離れた。しかし、それはペレストロイカからソ連の崩壊に到る激動の中で、ロシアに対する新しい見方が求められる時代的な要求に対する著者の応答であったともいえ、そのような問題意識は本書に収められた「光の制度――ロシア・ユートピア・ヴィジョン」(一九八九年)に顕著であろう。

「常にもっとも面白い文化の最前線に身を置くことに努めてきた」と認めているように、その後氏は、『ソヴィエト・カルチャー・ウォッチング』(編著、窓社)、『現代ロシアの文芸復興』(群像社)、さらにはインターネットによる授業などにも次々と取り組んだ。ただ、それは研究者としてだけではなく、教育者としてもロシア文学の「最前線」に身を置いてきた著者が、時代の中で引き受けた責務でもあったように思える。

その意味で、ソ連崩壊後のロシアにおけるドストエフスキー研究の新しい方向性とも密接につながっているばかりでなく、インターネットという新しい通信媒体による「聖書と語らう」が第一部に置かれているのは、激動の時代と著者との関わりを象徴的に示していると思える。

そして、著者は二〇〇〇年に千葉大学で行われた国際ドストエフスキー集会が、ドストエフスキーとの再会のきっかけになったと記しているが、こうして本書には比較文学の手法でドストエフスキーの精神的な西欧の関わりを考察した「ドストエフスキーとヴォルテール」や「ドストエフスキイとシラー」などの基礎的で不可欠な作業を踏まえた一九七〇年代後半の論文から、「大地――聖母――ソフィア」や「ポリフォニイ小説の成立――イワーノフ・プンピャンスキイ・バフチン」など国際学会で発表されて大きな反響を呼んだ論文、さらに最新の論文「武田泰敦『富士』とカーニバル」までが収められており、氏の長年のドストエフスキー研究の成果を一望できることとなった。

ことに筆者にとって興味深いのは、「ドストエフスキイとピョートル大帝」を初めとして、「ドストエフスキイとナポレオン」、「ドストエフスキーにおける<分身>モチーフについて」、「ポオ・ドストエフスキイ・アンドレーエフ――ロシア世紀末における<我>とその変容」など、一見、様々なテーマをあつかっているかに見える多くの論文が、権力のあり方や「自己と他者」の関係など、ドストエフスキー文学における中心的な問題にたいする一貫した持続的な問題意識によって統一されていることであった。

さたに、第五部の「アジアでの語らい」では単に日本だけではなくアジアにおけるドストエフスキーの受容をも視野に入れつつ、手塚治虫の『罪と罰』観や『刑事コロンボ』との比較、高村薫の『マークスの山』や、柳美里の『ゴールドラッシュ』にも言及した論文「『罪と罰』と二〇世紀後半の日本」や、「村上春樹とドストエフスキー」などの章も収められている。ここには、学問としての文学の斜陽が語られる中で、若い世代との対話を試みようとする著者の真摯な姿勢が伝わってくる。

こうして、それぞれがドストエフスキー研究史の中で先端を担った個々の論文から成る本書からは、ドストエフスキーにおけるヨーロッパ文学(文化)の深い受容を踏まえて、ロシアにおけるドストエフスキーの受容と理解の深まりに迫り、ドストエフスキーの作品と日本の文学との深い関わりを明らかにしているといえよう。そして『ドストエーフスキー広場』第四号(一九九四年)に発表され、本書にも掲載されている「『レ・ミゼラブル』『罪と罰』『破戒』」は、「言葉の生命」による他者とのつながりを明らかにすることで文学の可能性をも示していると思える。

ただ、井桁氏はまもなく自殺することになる芥川龍之介が『歯車』において、『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』に言及した「不気味な一節」にも触れているが、この二年前には治安維持法が施行された日本は「新しい戦争」への道を歩み始めていた。「グローバリゼーション」の強い圧力のもとでロシアだけでなく、日本でも民族主義や国家主義の流れが強くなり、文学の意味が希薄になりつつあると思える現在、文学の言葉で自己と他者の問題を極北まで考察した「ドストエフスキー文学」の意味はきわめて重たい。

その意味でも時代の流れと対峙しながら、比較という方法を重視して真正面から文学の可能性を考えている本書は、今後の文学理論の形成に於いても重要な役割を果たし得ると思える。ドストエフスキーとの「対話」をとおして、ヨーロッパやロシア、さらにアジアとの「対話」を試みた本書が、専門家だけでなく若い世代にも広く読まれて、「新しい対話」のきっかけになることを強く望みたい。

『ドストエーフスキイ広場』(第13号、2004年)。

*   *   *

追記:本文中でふれていた『ドストエフスキイ』(清水書院、1989年)の新装版が2014年9月に発行された。比較文学的な手法によるすぐれたドストエフスキーの入門書となっているので、目次を紹介しておく。

42082(82ドストエフスキー)

【目次】 1、デビューまで 2、『貧しき人々』―“テクストの出会い”と“出会いのテクスト” 3、“ユートピア”の探求 4、『地下室の手記』―“アンチ‐ヒーロー”による“反物語” 5、宗教生活 6、『罪と罰』―再構築と破壊 7、カタログ式西欧旅行案内 8、『悪霊』―レールモントフとニーチェを結ぶもの 9、ジャーナリスト‐ドストエフスキイ 10、『カラマーゾフの兄弟』―修道僧と“聖なる愚者”たち

山城むつみ著『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』(新潮社、2014年)

 

山城むつみ著『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』(新潮社、2014年)

著者の山城むつみ氏については、詳しい説明の要はないだろう。一九九二年に「小林批評のクリティカル・ポイント」で第三五回群像新人文学賞を受賞し、二〇一〇年には『ドストエフスキー』(講談社)で毎日出版文化賞を受賞している。この他にも中野重治、椎名麟三、吉本隆明などを論じた『転形期と思想』(講談社、一九九九年)、『文学は〈人間学〉だ。』(佐藤泰正氏との共著、笠間書院、二〇一三年)などを次々と発表しており、本書もそうした知的蓄積の上に書かれている。

満州国が建国された翌年の一九三三年からドストエフスキー論を書き始めた小林にあった『ドストエフスキイの文学』という「作品論集成の腹案」が、「小林の望んだ形ではついに刊行されなかった」と記した著者は、その「空白」に焦点を絞って考察した本書で、「ゆっくり読もう。焦点が合いさえすれば、その先には何かそら恐ろしいものさえ見えるはずである」と書いている。評者もゆっくりと読むことで、戦争の時代における殺人や人の心の闇に迫った本書を考察したい(以下、敬称は略す)*1。

 

〈回帰する一八七〇年代〉と題された序章で、山城は小林が『罪と罰』に続いて「『白痴』を論じた後に「すぐには『悪霊』を論じず、むしろ、禁欲的に作品への論評を避けながら作家の実生活とその時代に分け入ってゆく『ドストエフスキイの生活』の連載に直ちに着手し」、とくに「ネチャアエフ事件」を論じた次のような文章を引用していることを指摘している。

「この動機の為に、心の清らかな単純な人間でも、あの様な厭はしい罪悪の遂行に誘惑され得るのだ。其処に、恐ろしいものがあるのだ。僕等は、厭ふべき人間に堕落しないでも厭ふべき行為を為し得る」(『作家の日記』一八七三年十二月十日)。

そして、「約二年をかけた周到な用意の上で」書き始められた小林の『悪霊』論が、「一九三七年七月に始まった日中戦争の展開と雁行するように連載され、いわゆる南京事件の前月の号に掲載された第四回で中断された」ことに注意を促した著者は、「急速にテロリズムに傾斜していった」ロシアのナロードニキの運動と、「心の清らかで純粋な人々が、ほかならぬアジアを侵略し植民地化して、まさしくスタヴローギンのように『厭はしい罪悪の遂行』に誘惑されて」いった「昭和維新の運動」が酷似していると書いている。

〈一九三八年の戦後〉と題された第一章は、「第二次上海事変、杭州湾上陸、そして南京事件という一連の大きな動きのあった直後に上海、杭州、南京と戦跡の生々しい各地を転々と」していた小林秀雄が、最初の従軍記事「杭州」を「上海時間と日本時間の時差のため杭州行きの汽車に乗り遅れる」という出来事から書き出し、「同じ場所で二つ時間があるといふ事にたゞもう無性に腹が立つた」と書いていることに注意を促し、次のように記している。

「小林が『そこ』に渡っていくつもの失錯につまずきながら次第に感受していくのは、『そこ』の日常には、ほんの『一時間』(東京と上海の時差)程度の些細なひずみによって、感知できない小さな穴がいくつも空いていて、そこに踏み入ってしまえば、強姦へであろうと、虐殺へであろうと、掠奪へであろうと、放火へであろうと、どんな『ど強い』異常へもこの日常から地続きにわずか一歩で易々と至り着いてしまうこと」の「恐ろし」さだった。

『悪霊』におけるスタヴローギンが自ら告白する少女凌辱の場面で小林秀雄が中断していたことに触れていた著者は、「文藝春秋」一九三八年六月号に発表された従軍記事「蘇州」の検閲で伏字になっていたり、ページが破り取られたりしている箇所を様々な図書館で確認しながら復元し、小林がこの従軍記事で「皇軍慰安所なるものがあってその『切符』に『一発』何円と書いてあるなど、あまりに露骨で、とうてい『ここ』の感覚では考えられない馬鹿馬鹿しいことである。しかし、そのありえないことが『そこ』では」、「平然と通用している」ことを明らかにしていたことを確認している。

「蘇州」の記事の「慰安所」の箇所などが削除された翌日の新聞に小林は、「今日までの思想家、文学者に対して行はれた当局の非常的処置については、僕は当然な事だと考へてゐた。今もさう思つてゐる」と書いた。しかし、小林がこの後で、従軍記者として現地を見た文学者は「日本人として今日の危機に関する生ま生ましい感覚だけは必ず持つて還るのだ…中略…そしてそれは、彼等の書くものに必ず現れるだらう」と書いていたことを指摘した山城は、小林が「文学」という方法で戦争に肉薄しようとしていたと解釈した。

第二章の〈日本帝国のリミット〉では、「満蒙開拓青少年義勇隊孫呉訓練所」を見学した小林が、「日本の国民が大人もこども」も「事変」に処するにいかに「黙つて」いるかを思い知り、「説明となると、僕の才能を越える」などと従軍記事「満洲の印象」で少なくとも三度も表現を断念していたが、それは単に「検閲」を考慮してのことではなく、この「時点ですでに『帝国』の果てようとしている境界まで来て歴史の硬い岩盤にぶつかっていたのだ」とし、小林が訪ねた「綏棱移民地瑞穂村」の四百九十五人の村民が「青酸カリで自決」したことにもふれている*2。

検閲で削除された従軍記事のテキストを再現しようとした山城の明晰な文章からは異様な迫力も伝わってくるが、「自分でもはつきりしないが、見物して来た戦後のど強い支那の風物は、僕の心のうちの何かを変へたらうとは感じてゐる」と書いていた小林秀雄のドストエフスキー論に「歴史の硬い岩盤」は、どのように反映されているのだろうか。

〈世界最終戦争と「魂の問題」〉と題された第三章では、「やはり中断」された『カラマーゾフの兄弟』論を中心に考察されているが、まず、確認しておきたいのは、「『白痴』についてⅠ」で「キリスト教の問題が明らかに取扱はれるのを見るには、『カラマアゾフの兄弟』まで待たねばならない」と書いていた小林がここで、「今日、僕等が読む事が出来る『カラマアゾフの兄弟』が、凡そ続編といふ様なものが全く考へられぬ程完璧な作と見えるのは確かと思はれる」と断言していたことである*3。

山城も「自由」という「耐え難く『恐ろしい贈物』を与える者」としての「キリスト」への「飢ゑ」を強調しながら、「その眼が見ている位相においては、殺したラスコーリニコフと殺さなかったミーチャとが『まったく等価』になる」とし、小林の記述が突然、断ち切られたことに「加害者」としての「ミイチャの魂の問題」との関わりを見て、戦後に書かれた『罪と罰』論との強い関連を示唆している。

〈戦後日本からの流刑〉と題された第五章は、一九四六年に行われた座談会「コメディ・リテレール」での小林の発言の紹介から始まっている。

「僕のような気まぐれ者は、戦争中支那なぞをうろつき廻り、仕事なぞろくにしなかったが、ドストイエフスキイの仕事だけはずっと考えていた。これは千枚も書いて、本を出すばかりになっているんですが、また読返してみると詰らなくて出せなくなった。しかし、まだ書き直す興味は充分あるのです」。

小林のこの言葉を受けて著者は「戦争中に心血を注いだ『ドストエフスキイの文学』は一応、完成していたようだが、敗戦という事実の後に読み返せば、『一向に纏まりのつかぬ疑はしい多量な研究ノオト』でしかなかったようだ」と記し、戦後に書いた『罪と罰』論で小林がエピローグについてこう書いていることに注意を促している。

「そこに一つの眼が現れて、僕の心を差し覗く。突如として、僕は、ラスコオリニコフという人生のあれこれの立場を悉く紛失した人間が、そういふ一切の人間的な立場の不徹底、曖昧、不安を、とうの昔に見抜いて了つたあるもう一つの眼に見据ゑられてゐる光景を見る。言はば光源と映像とを同時に見る様な一種の感覚を経験するのである。」

この文章について著者は、「小林は、エピローグに、作中人物が作者の視線を異様な忍耐で堪えているという『小説形式に関する極限意識と言ふべき異様な終止符』を見ようとしている」と書いている。そして、「『白痴』についてⅠ」で小林が「ドストエフスキーにとつて、この純粋さの象徴がキリストであった事は、疑ふ余地がない」と書いた時、「そこでは、キリストは象徴でしかなかった。だが、今では、比喩や象徴ではなく、『一つの眼』となって小林の心を差し覗いている。それが見ているのだ。それが見えるのではない」と続け、「『犯罪』を犯して丸太の上に腰を下ろして黙想しているのは敗戦後の小林秀雄自身である」と記した著者は、小林の『罪と罰』論の印象的な文章を引用している。

「見える人には見えるであらう。そして、これを見て了つた人は、もはや『罪と罰』という表題から逃れる事は出来ないであらう。…中略…聞こえるものには、聞こえるであらう『すべて信仰によらぬことは罪なり』(ロマ書)と」。

「キリスト」や「一つの眼」に言及しつつ、緊迫した文体で書かれた山城の文章からは、高校生の時に小林秀雄のドストエフスキー論に夢中になった時に感じた「異様な熱気」を再び体感することができた*4。

しかし、この『罪と罰』論の後に書いた『白痴』論で小林は、太平洋戦争直前の一九四一年一〇月号から翌年の九月号まで掲載されていた『カラマーゾフの兄弟』論以前のレベルへと後退していると思われる。

なぜならば、本書に掲載されている詳しい関連年表からは抜けているが、『「白痴」について』(角川書店)が単行本として発刊された翌年の一九六五年一〇月に『新潮』に掲載された対談で、「ムイシキン公爵は悪人ですか」と数学者の岡潔から問われた小林秀雄が、「悪人と言うと言葉は悪いが、全く無力な善人です」と言い直し、こう続けているからである。

「もっと積極的な善人をと考えて、最後にアリョーシャというイメージを創(つく)るのですが、あれは未完なのです。あのあとどうなるかわからない。また堕落させるつもりだったらしい」(『人間の建設』新潮文庫)。

一方、〈まえがき〉でこの「『白痴』についてⅡ」について、「何とも異様な書記の運動なのだ。小林も、このような文は二度とは創りえなかった。いったい、どうしたらこれほどの強度と密度の文が出来上がるのか」と書いていた著者は、〈戦後日本への復員〉と題された終章で戦後の『白痴』論について、こう記している。

「『白痴』読解の位相を突き破りそれを別の位相に容赦なく転換する『一つの眼』の視線に堪えながら」、『白痴』論を書いている小林には、「殺したロゴージンの不安と殺さなかったムイシュキンの不安とが全く同格に並列する世界があることが最初から『はつきり』しているのだ」(太字は引用者)。

そして、「『或る一点』とは、無論、『死』の事だ」とした小林の文章を引用した著者は、「あの『或る一点』の悩ましい感触から発している彼の『限りない憐憫の情』は、人々には『魔性』として、どこか破滅的に働きかけずにいないのだ」と続け、「ムイシュキンがロゴージンの『共犯者』であると小林が最後に仄めかしたのはこのことだ」と好意的に解釈している。

しかし、岡潔との対談で「無明」を強調しながら「だいいちキリスト教というものが私にはわからないのです。私は『白痴』の中に出ている無明だけを書いたのです」と語った小林は、「ムイシキンという男はラゴージンの共犯者なんです」と続けていた*5。

この説明から浮かんでくるのは、戦後の『白痴』論において小林がムイシキンの「魔性」を強調したことが、『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャの解釈の変更をも招いた可能性が高いということである。

デビュー作「様々な意匠」で小林は「指嗾」という用語を用いながら、「劣悪を指嗾しない如何なる崇高な葉」もないと書いていた。そのことに注目するならば、『カラマアゾフの兄弟』論が「中断」せざるを得なかった一因は、自殺したスメルジャコフに自分が殺人を「指嗾」をしていたことに気づいたイワンが「良心の呵責」に激しく苦しんだことにも触れざるをえなくなるのを恐れたことにあると思われる。

「たしかに、小林はミーチャ同様、犯罪者ではなかった。だが、敗戦後には罪人(単独者)になったのだ」と山城は書いている。しかし、先に見た座談会「コメディ・リテレール」でトルストイ研究者の本多秋五から戦前の発言について問い質された日本の代表的な知識人の小林秀雄は、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した」と語っていた(太字引用者)。

小林が自分を「罪人」と感じた期間はきわめて短く、「『白痴』読解の位相を突き破り」、テキストから離れた『新白痴』論を創作していたのではないだろうか*6。

ただ、著者が小林秀雄の『白痴』論に「異様な書記の運動」を見いだしているのは、戦争の苦しい体験から産み出された武田泰淳の「審判」、「ひかりごけ」や『森と湖のまつり』、さらには大岡昇平の『野火』などの深い記述の分析を、小林のドストエフスキー論に反映させて読み解いた結果だと思われる*7。

すでに誌数が尽きたので詳しく論じる余裕はないが、本書には第四章〈「終戦」の空白――『絶対平和論』と「マチウ書試論」〉や第六章〈復員者との対話――『野火』と『武蔵野夫人』〉、さらには『遙かなノートル・ダム』などについての付論も収録されている。強い知的刺激を受けたそれらの考察は次の機会に譲りたい。

 

*1 紙数の都合上、ここでは小林秀雄のドストエフスキー観を考察した箇所のみを対象とする。

*2 小林秀雄と満州とのかかわりについては、西田勝「小林秀雄と『満州国』」、『すばる』2月号、集英社、2015年に詳しい。

*3 ただ、小林秀雄はここで「ルナンが『キリスト伝』を書いたのは、ドストエフスキイが、シベリヤから還つて来て間もない頃である。ドストエフスキイが、この非常な影響力を持った有名な著書を読んだかどうかは明らかではないが、読んだとしても、恐らく少しも動かされることはなかったであらう」と書いていた。すぐれた『カラマーゾフの兄弟』論ではあるが、このような認識は戦後の『白痴』論に受け継がれている。

*4 小林秀雄のドストエフスキー論との出会いと決別については、リンク→「あとがきに代えて──小林秀雄と私参照。

*5 この対談については稿を改めて考察したいが、小林秀雄の『白痴』論を何度か読み直す中で強い違和感を抱くようになった一因は、読者を「注意深い読者」と「普通の読者」、「不注意な読者」の三種類に分類していることであった。そのような小林の見方からは、人間を「非凡人」「凡人」「悪人」の三種類に分類していたラスコーリニコフの「非凡人の理論」との類似性が感じられたのである。

*6 小林秀雄の『白痴』論における登場人物の相互関係の単純化の問題については、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』序章、30~31頁参照。

*7 大岡昇平のドストエフスキー観については、劇評「ドストエフスキー劇の現代性――劇団俳優座の《野火》を見る」、『ドストエーフスキイ広場』第16号、2007年。大岡昇平の戦争観については、司馬遼太郎との対談に言及した『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』のべる出版企画、2002年、第2章、84~85頁参照。

 (『ドストエーフスキイ広場』第24号、2015年、144~150頁)。

中川久嗣著『ミシェル・フーコーの思想的軌跡――<文明>の批判理論を読み解く』(東海大学出版会、2013年)

ミシェル・フーコーの思想的軌跡 - 〈文明〉の批判理論を読み解く (書影は「KINOKUNIYA WEB STORE」より)

 

序に代えて フーコーとドストエフスキー

私がフーコーを強く意識するようになったのは、『講座比較文明』第1巻の『比較文明学の理論と方法』に掲載された中川氏の「ヨーロッパ近代への危機意識の深化(2)――ニーチェとフーコー」を読んだときであった*1。

この論文の題名に(2)という番号が付いているのは、ドストエフスキーを中心にロシア思想史の流れを概観した私の論文「ドストエーフスキイの西欧文明観」が「ヨーロッパ近代への危機意識の深化」の(1)として置かれていたからである。

ただ、なぜ「ドストエフスキー」から「フーコー」なのか、私には当初その流れがよく理解できなかったが、フーコーは最初の著作『狂気の歴史』の冒頭でパスカルとドストエフスキーに触れてこう書いていた。

「パスカルによると、『人間が狂気じみているのは必然的であるので、狂気じみていないことも、別種の狂気の傾向からいうと、やはり狂気じみていることになるだろう』。またドストエフスキーには『作家の日記』のなかに、『隣人を監禁してみても、人間は自分がちゃんと良識をもっているという確信をもてない』という文章がある」。

そして、「非理性が理性の恥辱、その表向きの恥辱であることをやめるためには」、パスカルから2世紀後の「ドストエフスキーとニーチェまで」待たねばならないと第5章で記したフーコーは、「キリストは万人の目に自分が狂人――自らの托身によって、人間の失墜のあらゆる惨めさをたどる狂人――に見えることをも欲したのである」とも書いていた*2。

この文章を目にしたときに私は、若きドストエフスキーが兄ミハイルへの手紙で「私にはプランがあります。それは狂人になることです」と記していたことを思い出した。ドストエフスキーが「哲学に反対することは、それ自体哲学することです」とも書いていたことを想起するならば、フーコーの記述は検閲がきわめて厳しく「言論の自由」がほとんどなかった「暗黒の30年」と呼ばれる時代に青春を過ごしたドストエフスキーの小説の方法をも説明しているように思われる*3。

それゆえ、『狂気の歴史』を読んだ後では、この論文集の「総論」で「ヨーロッパ文明が唯一の文明と想定されるにいたった」19世紀の学的〈近代〉パラダイムを超える「新しい知の形成」の必要性を強調していた比較文明学会理事(当時)の神川正彦氏が、近代的な知の根源に迫ろうとしていたドストエフスキーとフーコーの作品の考察をも組み込むことで、「比較文明学という学的パラダイムの構築」を企画していたことに気づいた*4。

この論文集に掲載された「トインビーのルネサンス論をめぐる再検討」などを含む三宅正樹・明治大学名誉教授の『文明と時間』(東海大学出版会、2005年)についてはこの学会誌に書く機会を得た*5。今回はミシェル・フーコーの最初の著作『狂気の歴史』(1961年)から最晩年の『自己への配慮』(1984年)に至るまでの著作までが詳しく論じられている中川氏の『ミシェル・フーコーの思想的軌跡』が出版された。この著作からも強い知的刺激を受けたので、この機会に本書の内容をなるべく忠実に紹介しながら、比較文明学的な視点からドストエフスキーの作品にもふれつつフーコーの意義を考えてみたい。

1,フーコーの著作と「他者の思想」

「はじめに」でフーコーについて「哲学と歴史(そしてしばしば心理学や文学)を軸とした幅広い人文諸科学の領域において、実に多様な思想を展開した思想家であった」と記した著者は、彼の行った知的活動を次のように簡単に紹介している。

「精神医学、司法、監獄、言説(ディスクール)、権力、知、生-権力(バイオ・パワー)、性(セクシュアリテ)」など、「多様なテーマ・領域を貫く形で」、「『権力』と『知』の間の濃密な結びつき(すなわち『権力-知』」)の分析およびそれに対する批判的な論述を行った」。

その後で著者は本書の方法について、「フーコーのテクストを丹念に追いながら、彼が諸著作・諸論文において展開した『権力-知』についてのさまざまな批判的分析を、可能な限り一貫したやり方で」行うと明確に記している。

本書は以下の章から構成されている。

第1章 『狂気の歴史』と思考の可能性 ――フーコー・デリダ論争をめぐって

第2章 『言葉と物』における他者の思考について

第3章 『知の考古学』における言表/言説の実定性について

第4章 『知への意志』から『快楽の活用』へ――フーコーの「自己の倫理」の問題系と「権力-知」批判

第5章 ローマ帝政期における自己への配慮と批判的知の問題――古代倫理をめぐるミシェル・フーコーの比較研究について

第6章 ミシェル・フーコーの批判理論――いわゆる規範的問題をめぐって

第7章 ミシェル・フーコーの比較文明論――境界からの批判的思考の可能性について

『狂気の歴史』(正式な題名は『古典主義時代における狂気の歴史』)を扱った第1章では、この書でフーコーが「西洋近代理性が、非理性的存在(ここでは狂気)を自分自身にとって根本的な『他者』として同定し、それを分離・排除することで自らのアイデンティティーを確定してゆく有様を叙述」していることを明らかにしている。

そして、フーコーとデリダの論争を中心に考察しながら、「狂気」の問題は、「理解不可能な他者を前にして、思考がいったい何をなしえるのか、また何をなすべきか(あるいは何をなすべきでないか)という、倫理的問題に帰着する」とした著者は、フーコーが「デカルト的省察を西洋近代文明における理性の思考の代表であるとして、それ以外の思考の可能性を認め、また他者的要素の思考の内部への方途を模索しようとするのである」と書いている。

このような指摘は齋藤博・元東海大学文明学会会長が、「我思う、ゆえに我あり」を哲学の第一原理としたデカルト以降、近代西欧哲学では「世界観としての自我論的なパラダイム」が定着する中で、「他者」が「廃棄」されてしまったので、共存の問題を考える「文明理論の構築には、他者論の展開が不可欠の基礎作業である」と記していたことを想起させる*6。

著者にはすでに「他者」を主題とした共著があるが、フーコーの著作をとおして他者論の問題を深く考察したこの著書は、「文明理論の構築」を求めた重たい要請に答えるものでもあるといえるだろう*7。

本稿における私の関心は、フーコーの後期の著作『監視と処罰』(1975年)とドストエフスキーの『死の家の記録』との関係を中心に分析することで、「権力-知」と「他者」の問題がどのように深められているかを考察することにある。この意味で注目したいのは、「前期フーコーの方法論とされる『考古学』が、いかに後期フーコーの権力論の下地を形作り、準備するものであったのか」についても著者が詳しく検討していることである

フーコーの主著の一つとされる『言葉と物』(1966年)を論じた第2章では、古典主義時代(17・18世紀)の「表象作用によって人間に獲得された世界という記号群」が何よりも「同一性と差異性の原理に従って」、「『表』の形をした体系のうちに分配」され、「この時代の三つの大きな学問」である「一般文法」「博物学」「富の分析」もそれぞれの体系を完成することを目指していたと指摘している。

前期最後の著作として位置づけられる『知の考古学』(1969年)を論じた第3章では、この時期にフーコーが、「一貫した特徴・型・形式を抽出することの可能な独自のシステムを持つひとかたまりの総体、つまり社会や文化や文明といった、時間空間的に限定された大きな歴史的単位を分析するという基本姿勢をとっている」ことに注意を促した著者は、『知の考古学』が「各時代の支配的な知を構成する言表/言説の出現と、それにかかわる規則性の分析に主たる関心を払うこの時期のフーコーの、いわば理論的な総括となっている」と指摘している。

それとともに注目したいのは、第2章で「古典主義的な世界認識にあっては、たとえば博物学などに典型的に見られるように『自然のうちには連続性がある』と考えられなければならない」と分析していたフーコーが、第3章では「一九世紀の思考を規定している」「歴史的・時間的連続性」を指摘しているとし、「連続性の原理を基盤とする『同一者の思考』に対して、フーコーがひとつのアンチ・テーゼとしてこの『非連続性』の観点を提出しようとしていること」に著者が注意を促していることである。

2,「権力-知」の分析と「監視社会」の考察

論文「ニーチェ、系譜学、歴史」(1971年)には「フーコーの思想において中心的な役割を持つ『他者』『知』『批判』という三つの大きな概念を有機的に結びつける核心がある」と指摘した著者は、後期の方法論たる「系譜学」が、「ものごとの今現在の価値づけや意味づけを批判的に動揺・解体させようと試みるもの」であり、「『系譜学』は現在を批判するために、まさしく歴史を用いるのである」と記している。

そのような方法で書かれたのが1975年の『監視と処罰』であり、前期の諸著作にあっては「言表/言説の編制とそれを支配する規則性の分析にウエイトが置かれていた」ために、「具体的な社会的諸制度との関わりへの視点が比較的希薄であったが」、この著作は「一七世紀以来の近代西欧を全面的に覆う規律-訓練型権力システムの出現について」考察している。

では、『監視と処罰』においてはこの問題がどのように描かれているのだろうか。フーコーはロシアのエカテリーナⅡ世(在位1762~96)が、1767年に発布した『訓令』(ナカース)には死刑や体罰の廃止を強く求めたベッカリーアの『犯罪と刑罰』(1764年)の思想やモンテスキューなどの思想が盛り込まれ、実際にはあまり機能しなかったものの、理念的には法哲学の最新の成果が取り入れられていたことを指摘している*8。

この記述からは作家ドストエフスキーを生んだロシア帝国の法制度に対するフーコーの強い関心がうかがえるので、ドストエフスキーの場合と比較しながら具体的に見ていきたい。

農奴制の廃止や言論の自由などを求めたために1848年のペトラシェフスキー事件で逮捕され、死刑の宣告を受けた後に減刑されてシベリアの監獄に流刑になったドストエフスキーは『死の家の記録』において、肺病で死んでいく病人ですら足枷を外されなかったことに注意を促して、「足枷は――恥辱をあたえる一つの罰なのである。恥辱と苦痛、肉体と精神に加えられる罰なのである」と記している*9。

一方、監獄の考察をとおして鋭く「権力-知」の問題に迫ったフーコーも、囚人たちが足枷につながれて移送されることについて、「鉄鎖の一群の大がかりな光景(=見世物)は、身体刑の公開の古い伝統につながっていた」と指摘している*10。

興味深いのはドストエフスキーが「病院」が、「民衆をおびやかしているいちばん大きな理由」として、「ドイツ式の病院規則、病気のあいだじゅう見知らぬ人に取巻かれていなければならぬこと、食事のきびしい制限、衛生兵や医師のがんこなきびしさについての噂、死体の切開や解剖の話など」を挙げていることである。

ドストエフスキーは「病院」と題したこの章で、笞刑を行うことに慣れた刑吏の心理を分析して、「他者」の存在に対して、「もっとも残酷な方法で侮辱する権力と完全な可能性を一度経験した者は、もはや自分の意志とはかかわりなく感情を自制する力を失ってしまうのである」と指摘し、「暴虐は習慣である」と断言していた。

ドストエフスキーはさらに「刑吏の特性の芽は現代の人々のほとんどが持っている」と書き、「わたしが言いたいのは、どんなりっぱな人間でも習慣によって鈍化されると、野獣におとらぬまでに暴虐になれるものだということである。血と権力は人を酔わせる」と書き、「どんな工場主でも、どんな事業経営者でも、自分の労働者はときには家族ぐるみすっかり自分の思いどおりになるのだと考えて、一種のうずくような満足をおぼえるに相違ないのである」と続けている。ここには「権力」の危険性が鋭く指摘されているといえよう*11。

厳しい刑罰のことが詳しく描写されるこれらの章が「病院」と題され、病院や医師の考察がなされているのは一見奇妙に思われる。しかし、フーコーは近代における病院の役割が軍隊に続いて大きかったとし次のように記している。「病院、ついで学校、もっと後に工場は、単に規律・訓練によって《秩序化される》にとどまらなかったのであり、規律・訓練のおかげで、それらは、客体化のあらゆる機構がそこでは服従強制の道具という価値をもちうる、しかもそこでは権力のあらゆる増大が存在可能な知識を生み出す、そうした装置になった」*12。

このように見てくると、ドストエフスキーの監獄観とフーコーの監獄観がきわめて似ていることに気づくが、類似の一因は若い頃に「空想社会主義者」のフーリエから強い影響を受けていたドストエフスキーが、たとえ理想社会に見えようともプライヴァシーさえも完全に管理されるような社会の問題点を、シベリア流刑後に『地下室の手記』で鋭く指摘することになるためだろう*13。ベンサムを「治安本位の社会のいわばフーリエ」であると呼んだフーコーも、フーリエの提唱した理想社会の住居である「ファランステール(共同体住居)」を「〈一望監視施設〉の形式」をとっているようだとも記している*14。

フーコーの記述によって功利主義者のベンサムが考案した監獄の新しい建築様式「一望監視施設」を一瞥しておこう。それは「中心に塔を配して、塔には円周上にそれを取巻く建物の内側に面して大きい窓」をいくつも持ち、周囲の「円環状の建物」は、「独房に区分け」されており、「中央の塔のなかに監視人を一名配置して、各独房内には狂人なり病者なり受刑者なり労働者なり生徒なりをひとりずつ閉じ込めるだけで十分」な施設なのである。

つまり、フーコーの言葉を借りれば、「一望監視施設」は「見る=見られるという一対の事態を切離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである」*15。

こうして、技術が発展した近代においては「監視」の面でも、「権力を持つ」「少数者に、さらには唯一の者に、大多数の者の姿を即座に見させる」ことを可能としたことを指摘したフーコーは、ナポレオンを「過去の王権の簒奪者であると同時に新しい国家の組織者である君主」と位置づけ、ナポレオンこそが「統治権の君主的で祭式本位な行使」と「際限のない規律・訓練」との「接合点に位置する」と規定している*16。

この意味で注目したいのはドストエフスキーが長編小説『罪と罰』で、自分をナポレオンのような「英雄」であると見なし、「悪人」と決めつけた高利貸しの老婆の殺害を行った若き主人公の行動と苦悩をとおして、「自己」の絶対化の問題点をえぐり出していたことである。

『監視と処罰』では言及されていないが、権力者の元にすべての情報が集まるような仕組みの危険性は、核戦争後で3つの超大国によって分割統治されるようになった世界が描かれているジョージ・オーウェルの長編小説『1984年』(1949年)ですでに描かれていた。ことに「テレスクリーン」という双方向のテレビによって市民のほとんどの活動が監視されているという状況は、全体主義的な国家のみならず、現代の監視管理社会の問題をも先取りしていたといえよう。

ロシア文学との関わりで興味深いのは、革命後の1920年から21年にザミャーチンが書いた長編小説『われら』ではどんな個人的な会話も記録されることで個性を全く奪われるという未来の全体主義国家をすでに詳しく描いており、1924年に英訳されたこの作品は1949年に刊行されたオーウェルの小説にも影響を与えていたことである。

ザミャーチンが「この小説は人類をおびやかしている二重の危険――機械の異常に発達した力と国家の異常に発達した力――に対する警告である」と語っていたことを紹介した訳者の川端香男里氏は、「自然を圧殺する科学技術、産業文明、組織化される統治技術など」に向けられたザミャーチンの視野は、『カラマーゾフの兄弟』における「大審問官伝説」や『悪霊』のシガリョフの言葉とも深く関わっていると記している*17。

著者はフーコーがヨーロッパ社会を「監視文明」と呼んでいたことを紹介しているが、現代の世界ではインターネットの普及により情報の量は格段に増える一方で、米国家安全保障局による世界各国首脳の通話の盗聴が明るみに出るなど、「敵対国」だけでなく「友好国」相互でも「監視」が進んでいる。

その意味でも「監獄」の詳しい分析を通して「権力」と「他者」の問題に迫った『監視と処罰』の意義は大きいといえるだろう。

 3,「自己への配慮」とフーコーの比較文明論的な視野

フーコーが死ぬ直前に発行された『快楽の活用』と『自己への配慮』が出版されると、「多くの失望」の声があがったと著者は記している。たしかに『監視と処罰』の後で、急に古代のギリシアやローマの倫理をめぐる比較研究という幾分古めかしいテーマを示されると腰が引ける感じがしていた。

しかし、「古代ギリシアにおける自己の倫理と『権力-知』の問題――ミシェル・フーコーの古代研究について」という題名で行われた第91回比較文明学会の例会での講演を聴いて驚いたのは、それが現代にも通じるきわめて新鮮な切り口であったことである*18。

本書でも著者は「フーコーはあくまでも考古学者として、古典古代という古層を発掘し、それをありのままに復元している」という批判に対して、「古典古代の自己・主体の倫理に関する」研究も、「あくまでも系譜学、しかも出来事が力の場で繰り広げられるダイナミックなあり様を分析しようとする批判的な系譜学の試みとして、受け取る必要がある」と主張している。

著者によれば、「中世キリスト教の修道的倫理とその自己認識を一貫して『自己放棄』を目指したもの」であると指摘したフーコーは、「ギリシア的自己認識」についても、その本質は「記憶や想起に基礎を置いて行われる『神的な要素としての自己の認知』である」と指摘していた。

一方、フーコーが例に挙げている「ローマ的な自己認識」は、「自己の不適正な言動や誤った行為に対して注意深く警戒・審査・査察の視線を注ぎ、絶えず試練のふるいにかけるような知の形式」であり、それは「自己に向けられた強力な『批判』的な視線であると言ってよい」と著者は記している。

興味深いのはセネカなどのストア哲学を好んだロシアの作家チェーホフが、友人の俳優にマルクス・アウレリウスの『自省録』を勧めて次のように語っていたことである。

「あなたが読みたがっておられるマルクス・アウレリウスを送ります。空欄に鉛筆で書き込みがありますが、気にしないでお読みください。続けて全部、お読みください――なぜなら全部、同じように素敵ですから。」

このことを記したロシア文学者の佐藤清郎氏は、19世紀末のロシアではセネカなどのストア哲学が、「多くの知識人の間でかなり広く読まれていたそうです」とも記している*19。

ストア派のセネカの著書『心の平静について』にも言及した著者は、「フーコーがしばしばローマ期の自己への配慮と医学・医術との類比に注目している」ことを指摘しているが、世紀末の混乱の時期を生きた作家のチェーホフが医師でもあったことを思い起こすと彼の言葉は「古典古代の自己・主体の倫理に関する」フーコーの哲学を考える上でも含蓄の深い言葉だと思える。

なぜならば、2001年の「同時多発テロ」を「新しい戦争」の勃発ととらえて「報復の権利」の行使としてアフガンへの空爆を行ったブッシュ政権は「悪の枢軸国」と名付けたイラクとの戦争にも踏み切っていたからである。しかし、「大量破壊兵器」が見つからなかったために、この戦争には「大義」がなかったことが明白になった*20。こうして、圧倒的な軍事力の差からアフガンのタリバン政権やイラクのフセイン政権は簡単に打倒されたが、それが中東情勢やアフガンの混乱、さらには「イスラム国」の問題とも直結しているように見える。

『比較文明学の理論と方法』に載せた論文で私は若い頃にフーリエの思想から強い影響を受けていたダニレフスキーがクリミア戦争(1853~56)によって激しく西欧文明に幻滅した後では、『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的政治的諸関係の概観』(1869)で、攻撃的な西欧から仕掛けられる戦争で亡ぼされないために「全スラヴ同盟」を作ることの必要性を説き、ドストエフスキーも『悪霊』や『作家の日記』を書いていた頃にはこのような考えから強い影響を受けていることを示唆した*21。

後期のドストエフスキーとダニレフスキーの文明論の問題点についてはいずれ稿を改めて考察することにしたいが、ここでは権力の奪取の方法を想定していなかったために批判されたフーリエの思想を、若きドストエフスキーが「悪意ある攻撃によってではなく、人類愛によって人を鼓舞する」と説明していたことを指摘しておきたい*22。

「権力-知」の問題をとおして他者の「理解可能性」を模索したフーコーの著作が、「思考のうちに『他者』を取り込んだ形で、『他者』とともに成立する新しい主体性の形式を目指そうとするものである」と著者は記している。最近はドストエフスキーの文学を「父殺しの文学」とスキャンダラスに捉えるような傾向も見られるが、ドストエフスキーは最後の長編小説『カラマーゾフの兄弟』で、「他者」を殺すことや自然との関わりの問題を哲学的な深さで展開していたのである。

「フーコーの一連の批判的な歴史分析の仕事は、具体的には西欧文明の『権力-知』をめぐる合理性の歴史を扱い、権力や力に貫かれた西欧文明の来歴を明らかにし、その実際の姿をあらためて認識すること」であったとした著者は、「自己の歴史こそが唯一の正当性を持つとの考えの否定は、自己とは異なる他者の歴史の存在、自己とは異なる別のあり方の再認識に私たちを導いてくれるのである」と続けている。

このようなフーコーの「他者」の認識は、比較文明学の創始者といわれるトインビーの見方にも通じるであろう。世界戦争を引き起こすにいたった近代西欧の「自国」中心の歴史観がはらむ危険性を深く認識したトインビーは、『フランス文明史』を書いたギゾーや『イギリス文明史』を書いたバックルが唱えた歴史観を大著『歴史の研究』において「自己中心の迷妄」と厳しく批判したのである*23。

「比較」という方法の重要性にも注意を喚起した著者は、「フーコーは力のシステムたる文明の現実/裏面を単に顕わにし、分析するだけではない。彼の仕事は、そうした文明の力のシステムを批判し、かつそれを変容させようとする強い動機に裏打ちされている」と書き、次のように結んでいる。

「過去と未来を同時に見据えようとするフーコーの『〈文明〉の批判理論』は、それ自体、そうした力の可能性のひとつを明らかにしてくれるものなのである」。

本書の書評で加藤泰氏は、フーコーが最初の著作で明らかにしたことは〈「狂気」をまえにした「理性」にとってのみならず、人類が「深い多元性」(コノリー)をもつ存在である限り根源的な意義をもつ〉と指摘するとともに、「フーコーを『文明』についての批判理論として明晰に理解する試みはこれまでほとんどなされたことはないのではないか」と結んで本書の意義を高く評価している*24。

博士論文をもとにした著作なので多少難解な点は残るが、哲学や歴史の研究者のみならず、文学や比較文明学をめざす若手の研究者にもぜひ読んでもらいたい書物である。

 

*1 中川久嗣「ヨーロッパ近代への危機意識の深化(2)――ニーチェとフーコー」、伊東俊太郎・梅棹忠夫・江上波夫監修『講座比較文明』第1巻、神川正彦・川窪啓資編『比較文明学の理論と方法』、朝倉書店、1999年、64~79頁。

*2 フーコー、田村俶訳『狂気の歴史――古典主義時代における』、新潮社、1975年、177~178頁。

*3 高橋『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』、成文社、2007年、66~67頁。

*4 神川正彦「比較文明学という学的パラダイムの構築のために」、前掲書、『講座比較文明』第1巻、1~13頁。

*5 高橋、書評「三宅正樹著『文明と時間』」、『文明研究』、第31号、2012年。

*6 齋藤博「他者のトポロジー」、『文明』、第39号、1983年、20頁

*7 中川久嗣・石浜弘道・浅見聡『他者の風景──自己から関係世界へ』、批評社、1990年。

*8 フーコー、田村俶訳『監獄の誕生――監視と処罰』、新潮社、1977年、121頁。

*9 ドストエフスキー、工藤精一郎訳『死の家の記録』、『ドストエフスキー全集』第5巻、新潮社、1979年参照。

*10 フーコー、田村俶訳、前掲訳書『監獄の誕生――監視と処罰』、262頁。

*11 高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、2002年、第3章〈権力と強制の批判――『死の家の記録』と「非凡人の思想」〉参照。

*12 フーコー『監獄の誕生――監視と処罰』、引用は桜井哲夫『「近代」の意味――制度としての学校・工場』、NHKブックス、1984年、90頁より。

*13 リチャード・ピース、池田和彦訳『ドストエフスキイ 『地下室の手記』を読む』、のべる出版、2006年、102~128頁。

*14 フーコー、田村俶訳、前掲訳書『監獄の誕生――監視と処罰』、224頁。

*15 同上、202~204頁。

*16 同上、217~218頁。

*17 川端香男里「解説」、ザミャーチン、川端香男里訳『われら』、岩波文庫、1992年、357~371頁。

*18 2011年7月に東海大学高輪校舎で行われた第91回比較文明学会の研究例会については、比較文明学会HPの「研究例会」の頁を参照。

*19 佐藤清郎『わが心のチェーホフ』、以文社、2014年、「チェーホフとストア哲学」参照。

*20 戦争によって問題を解決しようとすることの危険性については、日本価値観変動研究センターの季刊誌「クォータリーリサーチレポート」に連載した8編の論考を再構成した拙論「戦争と文学 ――自己と他者の認識に向けて」『日本ペンクラブ電子文藝館』、2005年参照。

*21 髙橋「ドストエーフスキイの西欧文明観」、前掲書『比較文明学の理論と方法』、58~59頁。

*22 若きドストエフスキーとフーリエ主義との関係については、ベリチコフ編、中村健之介訳『ドストエフスキー裁判』北海道大学図書刊行会、1993年参照。

*23 トインビー、長谷川松治訳『歴史の研究Ⅰ』、社会思想社、1967年、75~76頁。

*24 加藤泰「書評」、『比較文明』第30号、2014年、255頁。

(『文明研究』第33号、東海大学文明学会、2014年、77~81頁)。

(2018年1月20日、書影を追加)