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井桁貞義著『ドストエフスキイ 言葉の生命』 (群像社、2003年)

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井桁貞義著『ドストエフスキイ 言葉の生命』  (群像社、2003年)

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長い間、刊行が待たれていた井桁氏のドストエフスキー論が、「聖書と語らう」「ロシアと語らう」「ヨーロッパと語らう」「ドストエフスキイと語らう」、そして「アジアでの語らい」の五部で構成され、五〇〇頁を越える大著の形で出版された。

あとがきで著者の井桁貞義氏はプーシキンの詩に託しながら、ドストエフスキーの作品との出会いと別れ、そして新しい再会について触れている。実際、「ドストエフスキーの会会報」の編集など手間と時間がかかる作業に従事し(『場――ドストエフスキーの会の記録』Ⅰ~Ⅳ、参照)、さらに毎回特集を組んだ『ドストエフスキー研究』の編集者の一人として重責を担った氏は、それまでの豊富な知識を活かし、「<文化歴史派>と<詩学派>の方法を交互」に用いて、斬新な切り口でわかりやすくドストエフスキーの「人と思想」に迫った『ドストエフスキイ』(清水書院、一九八九年)を発行し、いよいよ本格的なドストエフスキー論の刊行が待たれていたときに、氏はドストエフスキー研究から離れた。しかし、それはペレストロイカからソ連の崩壊に到る激動の中で、ロシアに対する新しい見方が求められる時代的な要求に対する著者の応答であったともいえ、そのような問題意識は本書に収められた「光の制度――ロシア・ユートピア・ヴィジョン」(一九八九年)に顕著であろう。

「常にもっとも面白い文化の最前線に身を置くことに努めてきた」と認めているように、その後氏は、『ソヴィエト・カルチャー・ウォッチング』(編著、窓社)、『現代ロシアの文芸復興』(群像社)、さらにはインターネットによる授業などにも次々と取り組んだ。ただ、それは研究者としてだけではなく、教育者としてもロシア文学の「最前線」に身を置いてきた著者が、時代の中で引き受けた責務でもあったように思える。

その意味で、ソ連崩壊後のロシアにおけるドストエフスキー研究の新しい方向性とも密接につながっているばかりでなく、インターネットという新しい通信媒体による「聖書と語らう」が第一部に置かれているのは、激動の時代と著者との関わりを象徴的に示していると思える。

そして、著者は二〇〇〇年に千葉大学で行われた国際ドストエフスキー集会が、ドストエフスキーとの再会のきっかけになったと記しているが、こうして本書には比較文学の手法でドストエフスキーの精神的な西欧の関わりを考察した「ドストエフスキーとヴォルテール」や「ドストエフスキイとシラー」などの基礎的で不可欠な作業を踏まえた一九七〇年代後半の論文から、「大地――聖母――ソフィア」や「ポリフォニイ小説の成立――イワーノフ・プンピャンスキイ・バフチン」など国際学会で発表されて大きな反響を呼んだ論文、さらに最新の論文「武田泰敦『富士』とカーニバル」までが収められており、氏の長年のドストエフスキー研究の成果を一望できることとなった。

ことに筆者にとって興味深いのは、「ドストエフスキイとピョートル大帝」を初めとして、「ドストエフスキイとナポレオン」、「ドストエフスキーにおける<分身>モチーフについて」、「ポオ・ドストエフスキイ・アンドレーエフ――ロシア世紀末における<我>とその変容」など、一見、様々なテーマをあつかっているかに見える多くの論文が、権力のあり方や「自己と他者」の関係など、ドストエフスキー文学における中心的な問題にたいする一貫した持続的な問題意識によって統一されていることであった。

さたに、第五部の「アジアでの語らい」では単に日本だけではなくアジアにおけるドストエフスキーの受容をも視野に入れつつ、手塚治虫の『罪と罰』観や『刑事コロンボ』との比較、高村薫の『マークスの山』や、柳美里の『ゴールドラッシュ』にも言及した論文「『罪と罰』と二〇世紀後半の日本」や、「村上春樹とドストエフスキー」などの章も収められている。ここには、学問としての文学の斜陽が語られる中で、若い世代との対話を試みようとする著者の真摯な姿勢が伝わってくる。

こうして、それぞれがドストエフスキー研究史の中で先端を担った個々の論文から成る本書からは、ドストエフスキーにおけるヨーロッパ文学(文化)の深い受容を踏まえて、ロシアにおけるドストエフスキーの受容と理解の深まりに迫り、ドストエフスキーの作品と日本の文学との深い関わりを明らかにしているといえよう。そして『ドストエーフスキー広場』第四号(一九九四年)に発表され、本書にも掲載されている「『レ・ミゼラブル』『罪と罰』『破戒』」は、「言葉の生命」による他者とのつながりを明らかにすることで文学の可能性をも示していると思える。

ただ、井桁氏はまもなく自殺することになる芥川龍之介が『歯車』において、『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』に言及した「不気味な一節」にも触れているが、この二年前には治安維持法が施行された日本は「新しい戦争」への道を歩み始めていた。「グローバリゼーション」の強い圧力のもとでロシアだけでなく、日本でも民族主義や国家主義の流れが強くなり、文学の意味が希薄になりつつあると思える現在、文学の言葉で自己と他者の問題を極北まで考察した「ドストエフスキー文学」の意味はきわめて重たい。

その意味でも時代の流れと対峙しながら、比較という方法を重視して真正面から文学の可能性を考えている本書は、今後の文学理論の形成に於いても重要な役割を果たし得ると思える。ドストエフスキーとの「対話」をとおして、ヨーロッパやロシア、さらにアジアとの「対話」を試みた本書が、専門家だけでなく若い世代にも広く読まれて、「新しい対話」のきっかけになることを強く望みたい。

『ドストエーフスキイ広場』(第13号、2004年)。

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追記:本文中でふれていた『ドストエフスキイ』(清水書院、1989年)の新装版が2014年9月に発行された。比較文学的な手法によるすぐれたドストエフスキーの入門書となっているので、目次を紹介しておく。

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【目次】 1、デビューまで 2、『貧しき人々』―“テクストの出会い”と“出会いのテクスト” 3、“ユートピア”の探求 4、『地下室の手記』―“アンチ‐ヒーロー”による“反物語” 5、宗教生活 6、『罪と罰』―再構築と破壊 7、カタログ式西欧旅行案内 8、『悪霊』―レールモントフとニーチェを結ぶもの 9、ジャーナリスト‐ドストエフスキイ 10、『カラマーゾフの兄弟』―修道僧と“聖なる愚者”たち