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「第五福竜丸」事件

映画《ゴジラ》考Ⅴ――ハリウッド版・映画《Godzilla ゴジラ》と「安保関連法」の成立

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昨年の8月に書いた映画《ゴジラ》考Ⅳでは、映画《ゴジラvsスペースゴジラ》を考察して、〈「スペースゴジラ」や「ゴジラ」の破壊力のすさまじさは映像化されていても、「ゴジラ」が歩いたあとに残されるはずの高い放射能についての指摘はほとんど語られてはいなかった〉ことを指摘し、〈このように見てくる時、「国民の生命」を守る組織としての「自衛隊」の役割やモゲラの製造にかかわったロリシカ国との「軍事同盟」の必要性が、特撮技術を駆使した華々しい戦闘シーンをとおして描かれていた20年前の映画《ゴジラvsスペースゴジラ》は、「積極的平和」の名の下に堂々と原発や武器が売られ、それまでの政府見解とは全く異なる「集団的自衛権」が正当化されるようになる日本の政治情況を先取りしていたようにさえ見える〉と記した。

こうして映画《ゴジラ》の「理念」が変質していることを確認した後で、芹沢博士と監督の名前を組み合わせた芹沢猪四郎が活躍するアメリカ映画《Godzilla ゴジラ》が、〈映画《ゴジラ》の「原点」に戻ったという呼び声が高い〉ことを紹介し、「残念ながら当分、この映画を見る時間的な余裕はなさそうだが、いつか機会を見て映画《ゴジラ》と比較しながら、アメリカ映画《Godzilla ゴジラ》で水爆実験や「原発事故」の問題がどのように描かれているかを考察してみたい」と結んでいた。

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期待してみようと思っていたハリウッド版の映画を観たいという気が失せたのは、この映画の予告版を観たときであった。そこでは「1954年 我々は起こしてしまったんだ/当時の頻発した水爆実験/その真の目的は/あれを殺すためだった」という台詞が堂々と語られていたのである。

しかし、一九五四年の三月一日にビキニ環礁で行われたアメリカの水爆「ブラボー」の実験は、この水爆が原爆の一千倍もの破壊力を持ったために、制限区域とされた地域をはるかに超える範囲が「死の灰」に覆われて、一六〇キロ離れた海域で漁をしていた日本の漁船「第五福竜丸」の船員だけでなく、南東方向へ五二五キロ離れたアイルック環礁に暮らしていた住民も被爆していた(前田哲男監修『隠されたヒバクシャ──検証、裁きなきビキニ水爆被害』凱風社、2005年)。

さらに、水爆「ブラボー」の実験は、二ヵ月以上にわたって計六回もの核実験が行われた「キャッスル作戦」の最初におこなわれたものであったが、六〇年後の現在、この一連の核実験の情報が十分には周知されていなかったために、のべ一千隻の日本の漁船と乗組員約二三〇人が被爆していたことがわかった(高瀬毅『ブラボー 隠されたビキニ水爆実験の真実』平凡社、2014年)。

しかも、厚生省が行った健康診断の記録はないとされていたが、その記録が外務省を通じてアメリカ側には渡っていたことが、アメリカに残されていた資料によってようやく明らかになったのである(NHKスペシャル、「水爆実験 六〇年目の真実~ヒロシマが迫る”埋もれた被ばく”~」2014年8月6日放送)。

一方、この事件から強い衝撃を受けた黒澤明監督は「世界で唯一の原爆の洗礼を受けた日本として、どこの国よりも早く、率先してこういう映画を作る」べきだと考えて映画《生きものの記録》を製作したが、黒澤明監督の盟友・本多猪四郎監督もいち早く、映画《ゴジラ》の撮影に入っていたのである。

それゆえ、この台詞を聞いた時には、いかに娯楽映画とはいえこれでは「事実」の隠蔽ではないかと感じ、映画を観る気にはなれなかったので、映画のオフィシャル小説版を買い求めて当該部分を確かめた。

すると、当時「太平洋で水爆実験がくりかえされていた」ことに注意を向けた芹沢が「それは実験ではなく……」、「これを殺すことが目的だった」と説明したと描かれていた(コックス・グレッグ著、片桐晶訳『GODZILLA ゴジラ』角川文庫、153頁)。

しかも、「ゴジラ」を殺すために水爆実験が繰り返されたと説明したこの映画では、その存在が判明した巨大な「寄生有機体」のムートーをも核兵器で抹殺しようとして、サンフランシスコの「岸から少なくとも30キロ離れた起爆地を確保」しようとする作戦が描かれているのである(太字は引用者、237頁)。

このようなアメリカの危機にはるばる日本から現れて、2匹の巨大な「寄生有機体」のムートーと死闘を繰り広げることになるのが「ゴジラ」なのであり、最初は古代の危険な怪獣に見えていた「ゴジラ」が映画の終わりでは、日本から来た「救世主」のように見えてくるようにこの映画では描かれている。

それゆえ、このような事実の歪曲に対しては強い批判がなされてしかるべきだと感じたのだが、「ゴジラの海外派兵」と題された、「東京新聞」の8月12日のコラム「大波小波」でも、アメリカ映画《Godzilla ゴジラ》は安倍政権の「集団的自衛権の行使容認をアメリカ側が歓迎し、祝福する映画ではないか」と批判し、「日本の映画人よ、一刻も早く本道に戻り、3・11以降の日本人の魂を鎮めてくれる『ゴジラ』を撮りあげてほしい」と「正助」の署名で記していた。

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ゴジラ2014 ハリウッドは核爆弾をナメてるし 設定はガメラ」と題された2014/08/03付けの映画評は、ビキニ環礁の頃とは「桁違いのメガトン級核爆弾」を積んだボートで、主人公がようやくゴールデンゲートブリッジの下を通過したのが、核爆発まで残り5分の時であることを考えるならば、「サンフランシスコは蒸発してしまうはず」と書いていた。

実際、徐々に明らかになってきた、「キャッスル作戦」の実態に注目するならば、映画で描かれているアメリカ軍の作戦がいかに荒唐無稽なものであるかは明白であろう。

9月25日夜に「金曜ロードSHOW!」で地上波初放送されたアメリカ映画《Godzilla ゴジラ》で確かめたかったのは、「ゴジラ」やムートーがどのように視覚化されているかということと、「数キロ後方のすさまじい閃光」の後で見えた「きのこ雲」がどのように描かれているかにあった。

この映画はゴールデンゲートブリッジの下を「メガトン級核爆弾」を積んだボートで通過し、ヘリコプターで救出された主人公が、機上から「キノコ雲」を眺める場面が描かれたあとで、救出された市民たちが集められたスタジアムで妻子と再会するという感動的な場面で終わっている。

しかし、広島や長崎型の原爆をはるかに上回る威力の核爆弾が爆発した後ではそこにいるのは、黒焦げになった死体や焼けただれた姿で助けを求める人々の姿であるはずなのだ。

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イラク戦争に際してブッシュ元大統領は、「ならず者」国家に対しては核兵器による先制攻撃も許されると発言し、アーミテージ元国務副長官も「日本も旗を見せる」べきだと厳しい要求していた。

これらの発言を踏まえてこの映画を観るとき、「予期せぬ侵入者」にどこからか「テロリスト」という言葉が聞こえてきた」という記述もあるこの映画では、日本から来た「ゴジラ」は、まさに強力な援軍のように描かれているといえるだろう。

このように見てくるとき、1954年のオリジナル版への敬意があるとの評価が高かったアメリカ映画《Godzilla ゴジラ》は、「原点」に戻ったのは「ゴジラ」の尾や姿、咆哮などだけで、その「理念」の面では残念ながら第一作とは正反対であると言わねばならない。

《坂の上の雲》や《龍馬伝》などのNHKの大河ドラマの場合にもあてはまるが、印象的な場面により歴史的な事実が歪められて記憶される危険性が強いのは、報道番組よりもむしろこのような娯楽映画なのである。

映画《Godzilla ゴジラ》は、予想を超える興行収入を日本でもあげて、第38回日本アカデミー賞優秀外国映画賞が与えられたとのことである。

1954年の「第五福竜丸」の悲劇を矮小化していただけでなく、敵との戦争においては核兵器の使用をも可能とするこの映画に対しては日本の映画人だけでなく観客も強い批判を行わねばならないだろう。

映画《この子を残して》と映画《夢》

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(長崎市に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」によるキノコ雲。画像は「ウィキペディア」)。

 

映画《この子を残して》と映画《夢》

 映画《生きものの記録》が「第五福竜丸」事件を契機に製作されたことについてはすでにふれたが、その約二ヵ月前には「原子力潜水艦ノーチラス号」の進水が行われており、間もなくソ連でもそれに対抗するために「原子力潜水艦Kー19」の製造に成功するなど、「核技術」の戦争兵器への応用が各国において進められた。

 こうして、多くの科学者が「国益」の名のもとにその開発に従事するようになり、一九六二年のキューバ危機では地球が破滅するような核戦争が勃発する危機の寸前にまでいたることになる。

 さらに、一九七九年には「原子力の平和利用」というスローガンのもとに建設されたスリーマイル島の原発で大事故が起き、核兵器と同じ原理で成立している原子炉の危険性が再びクローズアップされることとなった。

 木下恵介監督が長崎で原爆に遭った自分たち家族のことを描いた医師・永井隆の『この子を残して』の映画化を決意するのは、このような時代の流れとも深く関連しているだろう。

 注目したいのは、この時は黒澤監督が「原爆映画は、被爆者以外には他人ごとだ、客なんか来やしない」と映画化の企画に反対していたことである(1)。この言葉からは《生きものの記録》の失敗が骨身にこたえていたばかりでなく、そのような映画をとおして「現実」をきちんとみつめようともしない「観客」に対する強い不信感も感じられる。

 しかし、一九八三年に公開された映画《この子を残して》(脚本・木下恵介、山田太一)は、原寸の三分の二の縮尺で浦上天主堂を建て直し、町並みも忠実に再現した大オープンセットで映画を撮影することにより、失われたものの大きさと悲しみを映像をとおして視覚的に描き出すことに成功している(2)。しかも、広島に原爆が落とされたという噂が入ってくるようになった終戦直前の八月七日の日常的な生活から描くことで、市民の生命と平和な生活が一瞬にして奪われることの悲惨さを明らかにしている。

 この映画ではさまざまな人々の悲しみが描かれているが、ことに自分の娘(十朱幸代)の死を孫たちに告げることをためらっていた祖母のツモ(淡島千景)が、孫の誠一とともに被爆地で娘の骨を拾う場面からは、深い悲しみが伝わってくる。

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  実は、『長崎の鐘』や『この子を残して』書いた医師の永井隆氏が、自らも被爆しながらも病人を献身的に治療していたことは以前から知っていた。

 それらの著作を私が読んでいなかったのは、「神は戦争を終結させるため、あなた方の命を犠牲として求められたのです」と語ったという言葉をどこかで読んで、戦争の問題を「神」のせいにすることはおかしいと強い反発を感じたためだと思える。

 しかし、木下恵介監督の映画《この子を残して》は、永井隆という医師の内面にも深く関わるこの問題にも迫りえていた。すなわち、合同慰霊祭の時に信者代表として永井隆が先の文章を弔辞で読むと、信者たちから「異議あり!」との鋭い怒りの声が飛ぶ場面が描かれていた。

 しかも、このテーマはそこで終わったのではなく、映画の終わり近くで孫・誠一の教育のことで隆と義母のツモが言い争う場面と密接につながり、言いたいことがもう一つあると続けたツモは、すでに負け戦なのが分かったあとも戦争を続けて沖縄だけでなく広島・長崎の犠牲者を生んだのは戦争の遂行者たちの罪であると語って、合同慰霊祭の時の隆の弔辞を批判するのである。

 娘の緑だけでなく多くの近親者を失っていた祖母ツモの戦争責任に関する発言は重く、それは戦争を推進していた高級軍人や政治家だけでなく、威勢のよい発言で国民を戦争へと駆り立てる一方、敗戦後のことには責任を持とうとしなかった林房雄や小林秀雄などの「知識人」にも関わるだろう(3)。

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  拙著では「盟友・木下監督がこの映画を公開したことが、黒澤監督に映画《夢》だけでなく、その翌年に封切られた映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》(原作・村田喜代子『鍋の中』、脚本・黒澤明)》の製作を決意させたようにも思える」と書き、長崎の被爆をテーマとした映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》の内容を簡単に紹介していた。

 なぜならば、この映画でも夏休みに長崎を訪れた孫たちの眼をとおして、原爆によって夫を失った祖母の深い悲しみと怒りがたんたんと描かれていたからである。

 ただ、「すでに負け戦なのが分かったあとも戦争を続けて沖縄だけでなく広島・長崎の犠牲者を生んだのは戦争の遂行者たちの罪である」と語ったツモの重たい言葉は、富士山に建てられた原発が事故で爆発するシーンが描かれている映画《夢》の子供を連れた母親の批判と深く結びついていると思える。

 「放射能は目に見えないから危険だと言って、放射性物質の着色技術を開発したってどうにもならない、知らずに殺されるか、知ってて殺されるか、それだけだ」と続けた原発の関係者の男は、「ぐじぐじ殺されるより、一思いに死ぬ方がいいよ」と結んだ。

 すると幼い子供たちを連れた母親は、次のように鋭く政治家や官僚などの責任を問い質していたのである。

 「でもね、原発は安全だ! 危険なのは操作のミスで、原発そのものに危険はない、絶対ミスを犯さないから問題はない、とぬかした奴等は、ゆるせない! あいつら、みんな縛り首にしなくちゃ、死んでも死に切れないよ!」。

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  映画《この子を残して》が過去の記録というだけでなく、現代にも訴える力を持っているのは、映画の後半で成人して記者となりベトナムや中東の戦争の報道にも携わるようになった息子・誠一(山口崇)の視点から、進駐軍の厳しい検閲にも関わらず、病気で寝込むようになりながらも次々と原爆についての記録を書き残した医師・永井隆(加藤剛)の記憶が描かれているためであると思える。

 この映画のラストシーンでは、『長崎の鐘』がようやく出版された後で父が亡くなったという息子・誠一の言葉が語られる。

 その直後に、柱時計を指さしながら戦争を二度と起こしてはならないと告げた父の姿に被さるように、八月九日一一時二分に投下された原爆により浦上天主堂や町が被爆する映像が流され、「ちちをかえせ、ははをかえせ、としよりをかえせ、こどもをかえせ」という言葉で始まる峠三吉の詩とともに被爆後の人々の苦しみが実写も含めた映像が流され、圧倒的な説得力で観客に迫ってくる。

 

*1 横堀幸司、『木下恵介の遺言』朝日新聞社、2000年、203頁。

*2 木下恵介、DVD《この子を残して》、松竹、2013年。

*3 1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていた。戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていたのである。この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していた。(「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁。不二出版、復刻版、2008~2011年)。