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ドストエーフスキイの会総会と第239回例会(報告者:清水孝純氏)のご案内

ドストエーフスキイの会総会と第239回例会(報告者:清水孝純氏)のご案内

ドストエーフスキイの会第48回総会と第239回例会のご案内を「ニュースレター」(No.140)より転載します。

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下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                      

 日 時2017520日(土)午後1時30分~5           

場 所:千駄ヶ谷区民会館第一会議室(JR原宿駅下車徒歩7分)   ℡:03-3402-7854   

総会:午後130分から40分程度、終わり次第に例会 

議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算案など

例会報告者:清水孝純氏

 題目: 悪魔のヴォードヴィル 『悪霊』における悪魔の戦略  

*会員無料・一般参加者=会場費500円

報告者紹介:清水孝純(しみず たかよし)

ドストエフスキー研究ははるか昔からのことで、『罪と罰』『白痴』『カラマーゾフの兄弟』論その他道化論をこれまで発表してきました。現在は作品論を進める一方で、「現代とドストエフスキー」という問題を中心に研究を重ねてきており、D・H・ロレンス、ベルジャーエフ、中村雄二郎との関係を考察し、また昨年には『キリスト教文学研究』にドストエフスキーの終末論的予言性をヒトラーのカリスマの中に見るという論文を発表しています。IDSのシンポジウムにもたびたび参加して発表を行ってきました。漱石についても、ドストエフスキーとの対比を試みたりしています。

 

第239回例会報告要旨

悪魔のヴォードヴィル-『悪霊』における悪魔の戦略―                     

『悪霊』においてドストエフスキーは、ニヒリズムをその極点において捉えた。『悪霊』では真の主人公はニヒリズムという悪霊に他ならない。『白痴』もまたニヒリズムが主人公とは言えたが、しかしそこではニヒリズムはまだ隠れた主人公だったかと思う。イッポリートを除いてほかの登場人物はニヒリズムに侵食されてはいるものの、なお他の情熱に囚われている。作品中唯一ニヒリストといえるイッポリートにしても、自殺未遂後彼はかなり積極的に彼を取り巻く人間関係の中に入ってゆくのだ。ナスターシャ・フィリッポーヴナとアグラーヤといういわば恋敵同士を対決させる手引きをするのもイッポリートなのだ。というのも、イッポリートの若さは、なおニヒリズムを徹底させるには生命力に富んでいたというべきだろう。

『白痴』においていわば隠れた主人公ニヒリズムが、俄然主人公としてその恐るべき姿を現すのは『悪霊』においてだ。姿だって?ニヒリズムに姿があるのか?あるはずはない。ニヒリズムは人間に憑りつくものであって、形あるものではあり得ない。やはり一種の精霊というべきもの、否定する精霊、つまり悪霊なのだ。しかし悪霊の恐るべきところは、その憑依の巧みさといえるだろう。悪霊に憑かれ乍ら、悪霊による憑依を疑うどころか否定の力を自身のうちから得たものとして振る舞う。その否定の行使において、懐疑逡巡はない。こうして憑かれたものは、群れをなし、そこに否定のユートピアをつくる。この楽園、否定が放恣な姿を取って、観客を楽しませるこの喜劇的世界、そこでは背徳的なもの、醜悪なもの、思い切って野卑下劣なものが、高貴なるものと入れ混じり、妖しげに人の眼を魅了する。これこそ悪魔の演出する喜劇的世界といえる。通常の喜劇が人間社会を風刺、批評するのに対してここではそのような風刺性、批評性はない。なぜなら、そこではプロットそのものに笑いが仕掛けられている。プロット自体が既に社会に対する否定であり、嘲笑なのだ。観客を楽しませるのは、その否定の、また嘲笑のグロテスクなることだ。この喜劇はヴォードヴィルと呼ぶのがふさわしい。

ヴォードヴィルとはフランスで発達した一種の軽喜劇だ。1830年ごろはフランスで大いにもてはやされたものだ。ロシアにもそれが入って、ヴォードヴィルが創られ、上演される。グリボエドフ、ネクラーソフも手掛けている。ではドストエフスキーはどうか。V・N・ザハロフは『ドストエフスキー 美学・詩学要覧』(1997)の「モチーフとしてのヴォードヴィル」の項でドストエフスキーにおけるヴォードヴィルの受容について述べているが、ドストエフスキーの文学では、「他人の妻とベッドの下の夫」「スチェパンチコーヴォ村とその住人達」「伯父さまの夢」などをあげている。さらに興味深いことには、『悪霊』で、自殺直前キリーロフがピョートルに言ったこの遊星の世界は「悪魔のヴォードヴィル」という表現に注目している。キリーロフはここで何故ヴォードヴィルという言葉を使ったのか。ヴォ―ドヴィルは邦訳では喜劇、茶番劇と訳されたりもする。なるほど「悪魔の喜劇」でも十分わかる。しかし元来喜劇は人間社会の愚劣・欠陥に対して鋭い批評をもって挑むものである以上、ポジティブに世界を描こうとするものだろう。しかし悪魔という否定の霊にとってその愚劣・欠陥こそ人間破壊のこよなき手掛かりであり、足掛かりなのだ。その愚劣・欠陥をこそ逆に賛美することを通して、それを拡大し、終局的には破壊へと導くことこそ、その狡猾極まりない戦略なのだ。戦略にふさわしい喜劇の様式こそヴォードヴィルといえるのではないか。『悪霊』を改めて「悪魔のヴォードヴィル」という視点から眺めて見る時、『悪霊』における悪魔の戦略もあぶり出されてくるのではないか。

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