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司馬遼太郎

タイトル一覧Ⅱ (ゴジラ関係、宮崎駿映画、演劇など)

リンク先タイトル一覧Ⅰ(黒澤映画、黒澤映画と関係の深い映画)

ゴジラ

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)  

タイトル一覧Ⅱ (Ⅰ、映画、1,ゴジラ、2,宮崎映画、3,その他 Ⅱ、演劇関係)  

、映画

1,ゴジラ

映画《ゴジラ》考Ⅴ――ハリウッド版・映画《Godzilla ゴジラ》と「安保関連法」の成立

映画《ゴジラ》考Ⅳ――「ゴジラシリーズ」と《ゴジラ》の「理念」の変質

映画《ゴジラ》考Ⅲ――映画《モスラ》と「反核」の理念

 映画《ゴジラ》考Ⅱ――「大自然」の怒りと「核戦争」の恐怖

 映画《ゴジラ》考Ⅰ――映画《ジョーズ》と「事実」の隠蔽

2、宮崎映画

黒澤明と宮崎駿(2)――《七人の侍》から《もののけ姫》へ

黒澤明と宮崎駿(1)――ロシア文学と民話とのかかわりを中心に

『罪と罰』のテーマと《風の谷のナウシカ》   ――ソーニャからナウシカへ 

アニメ映画《紅の豚》から《風立ちぬ》へ――アニメ映画《雪の女王》の手法 

 《風立ちぬ》Ⅱ――大地の激震と「轟々と」吹く風

 《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影 

《風立ちぬ》論Ⅳ――ノモンハンの「風」と司馬遼太郎の志

映画《風立ちぬ》論Ⅴ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(1)

映画《風立ちぬ》論Ⅵ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(2)

『もののけ姫』の大ヒットと二一世紀の地球環境 

3,その他

黒澤明と手塚治虫――手塚治虫のマンガ『罪と罰』をめぐって

ブルガリアの歴史と首都ソフィア――黒澤映画《生きる》

映画《少年H》と司馬遼太郎の憲法観 

改竄(ざん)された長編小説『坂の上の雲』――大河ドラマ《坂の上の雲》と「特定秘密保護法」

大河ドラマ《龍馬伝》と「武器輸出三原則」の見直し

大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性

『白夜』の鮮烈な魅力――「甘い空想」の破綻を描く 

、演劇

想像力の可能性――もう一つのドストエフスキー劇

帝政ロシアの農民と安倍政権下の日本人――トルストイ原作《ある馬の物語》

安倍政権下の日本の言論状況とフォーキンの劇《語れ》

「忍び寄る『国家神道』の足音」と井上ひさし《闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語》

「記憶」の痛みと「未来」への希望 ――井上ひさし《きらめく星座――昭和オデオン堂物語》

井上ひさしのドストエフスキー観――『罪と罰』と『吉里吉里人』、『貧しき人々』と『頭痛肩こり樋口一葉』をめぐって

ドストエフスキー劇の現代性――劇団俳優座の《野火》を見る

現代の日本に甦る「三人姉妹」の孤独と決意――劇団俳優座の《三人姉妹》を見て 

蟹工船」と『死の家の記録』――俳優座の「蟹工船」をみて 

ブルガリアのオストロフスキー劇 

日本におけるオストロフスキー劇とドストエフスキー劇の上演 

詩人プレシチェーエフ――劇作家オストロフスキーとチェーホフをつなぐ者

劇《石棺》から映画《夢》へ モスクワの演劇――ドストエフスキー劇を中心に

 

改竄(ざん)された長編小説『坂の上の雲』――大河ドラマ《坂の上の雲》と「特定秘密保護法」

 

二〇一一年の一二月に、長い歳月をかけて撮影され三年間という長い期間にわたって放映されたスペシャル・ドラマ『坂の上の雲』が終了した。

 莫大な予算をかけて制作されたドラマのクライマックスにあたる旅順の攻防や日本海海戦のシーンは壮大で目を見張るものがあり、また戦争の悲惨さの一面も伝えられていた。

 私は毎回は見ていなかったのでよい視聴者とは言えないが、それでも『坂の上の雲』についての研究書を書いた者の責任として、重要な場面が放映される回は見たし、終わりの頃の数回は欠かさずに見た。

最終回を見終わって思いだしたのは、『坂の上の雲』を「なるべく映画とかテレビとか、そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品」であると語り、その理由を「うかつに翻訳すると、ミリタリズムを鼓吹しているように誤解されたりする恐れがありますからね」と説明していた司馬遼太郎の言葉である(司馬遼太郎『「昭和」という国家』、NHK出版、一九九八年、三四頁)。

 

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  強い違和感を覚えたのは、原作に付け加えた「子規庵点描」のシーンで、英国から帰国した夏目漱石に軍人となった秋山真之を讃えさせているところから完結に至るシーンであった。たとえば、「ポーツマス講和条約」のシーンでは、「坊さんになって戦没者を供養せにゃならん」とまで苦悩した真之が、子規の墓参をした後で、兄の好古と釣りをした際に「おまえはよくやった」と慰められるという場面が付け加えられている。

 一方、原作では戦後に秋山真之が「人類や国家の本質を考えたり、生死についての宗教的命題を考えつづけたりした。すべて官僚には不必要なことばかりであった」と司馬氏は書いていた。前述のシーンが付け加えられることで真之の苦悩の深さや戦争についての本質的な考察が和らげられてしまっていると思える。

 さらに、原作の構造との決定的とも思えるような違いは、この後でナレーターによって全六巻からなる単行本『坂の上の雲』の第一巻の「あとがき」に記されている次のような司馬の文章が朗々と読み上げられたことである。

 「維新後、日露戦争までという三十余年は、文化史的にも精神史のうえからでも、ながい日本歴史のなかでじつに特異である。/これほど楽天的な時代はない。/ むろん、見方によってはそうではない。庶民は重税にあえぎ、国権はあくまで重く民権はあくまで軽く、足尾の鉱毒事件があり女工哀史があり小作争議がありで、そのような被害意識のなかからみればこれほど暗い時代はないであろう。しかし、被害意識でのみみることが庶民の歴史ではない」(下線引用者、司馬遼太郎『坂の上の雲』、単行本第一巻、文春文庫では第八巻)。

 そして、このナレーションはドラマの冒頭で毎回示される松山城の坂道を駆け上る若い主人公たちの姿とも重なり、視覚的な効果を生んでいた。それゆえ多くの視聴者は、長編小説『坂の上の雲』では戦争をも厭わなかった「日本人の気概」や「明治の栄光」が描かれていると理解したと思える。

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  注意を払わねばならないのは、この「あとがき」のある第一巻で描かれていたことと、第五巻以降で描かれている内容が大きく異なることである。

 すなわち、第一巻では江戸幕府の崩壊後に賊軍とされた松山藩士の息子として生まれたために、銭湯の風呂焚きや助教などをしつつ苦学して、士官学校に入って頭角を現した秋山好古や、兄の経済的な援助によって上京し、正岡子規といっしょに学んだあとで無料で学べる海軍兵学校に入って学ぶようになる秋山真之などの若々しい青春時代が描かれていた。

 一方、単行本第五巻の「あとがき」で「少年のころの私は子規と蘆花によって明治を遠望した」と記し、日露戦争の終結後に徳冨蘆花(一八六八~一九二七)が日露戦争の際に反戦論を唱えていたトルストイを訪ねていることを紹介した司馬は、次のように記していた。

 「明治十年代から日露戦争にいたる明治のオプティミズムはたしかに特異な歴史をつくりえたが、しかしどの歴史時代の精神も三十年以上はつづきがたいように、やがて終熄期をむかえざるをえない。どうやらその終末期は日露戦争の勝利とともにやってきたようであり、蘆花の憂鬱が真之を襲うのもこの時期である」(下線引用者、文春文庫、第八巻、「あとがき五」)。

 つまり、スペシャル・ドラマ『坂の上の雲』の最終回にナレーターによって読み上げられた文章は、司馬自身のものではあってもまったく違う時代についての記述が引用されていたのである。

 そのことは『坂の上の雲』の主人公の一人であり、『歌よみに与ふる書』で「歌は事実をよまなければならない」と記した正岡子規の精神をも侮辱するものであるといえるだろう。

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  大河ドラマ《坂の上の雲》におけるナレーションは、「庶民は重税にあえぎ、国権はあくまで重く民権はあくまで軽く、足尾の鉱毒事件」があっても、「国民」は国家に尽くしたことが「明治の栄光」につながったと視聴者に錯覚させる結果になり、それは選挙における自民党の勝利にも影響を与えたとさえ思える。

  「原作の改竄」の問題は現在にまで影響しており、多くの国民が今も「庶民は消費税にあえぎ、国権はあくまで重く民権はあくまで軽く、福島第一原子力発電所の大事故とその後の事態に苦しんでいても」、「国民」が国家に尽くすことが「平成の栄光」につながると錯覚していると思えるのである。

  多くの国民が安くない視聴料を払って楽しむとともに正確な報道を期待しているNHKに、自分たちのイデオロギーにあったような番組を強要する安倍政権には、「特定秘密保護法案」を提出する資格には欠けると思えるがどうだろうか。

映画《少年H》と司馬遼太郎の憲法観

文庫本で2巻からなる妹尾河童氏の自伝的小説『少年H』は、発行された時に読んで少年の視点から戦争に向かう時期から敗戦に至る時期がきちんと描かれていると感心して読んだ。

妹尾河童氏の『河童が覗いた…』シリーズを愛読していたばかりでなく、ことに日露両国の「文明の衝突」の危機に際して、冷静に対処して戦争の危機を救った一介の商人高田屋嘉兵衛を主人公とした司馬遼太郎氏の長編小説『菜の花の沖』を高く評価していたので、ジェームズ三木氏の演出で舞台化され、妹尾氏が舞台美術にかかわった「わらび座」の劇《菜の花の沖》からも深い感銘を受けていたからだ。

すなわち、妹尾河童氏は劇《菜の花の沖》を映像化したVHSの《菜の花の沖》(制作、秋田テレビ)で、「舞台の上に、嘉兵衛が挑んだ海の広さが表現できればいいなと思っています」と語っているが、実際に劇では大海原を行く船の揺れをも表現するとともに、牢屋のシーンでは光によって嘉兵衛の内面の苦悩を描くことに成功し、ことに最後の場面における菜の花のシーンは圧巻であった。

それゆえ、この作品がテレビドラマ《相棒》にも深く関わったプロデューサー松本基弘氏の企画と古沢良太氏の脚本により、降旗康男監督のもとで『少年H』がどのような映画化されるかに強い関心を持っていたのである。

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映画の冒頭では長男のために編んだセーターに当時は敵性言語とされていた英語で肇のイニシャルのHを母親が縫い込んだことで、からかわれる場面が描かれており、当時の排外的な雰囲気とともに《少年H》という映画の主題が明確に表現されていた。

そのような時代に肇少年は、クリスチャンであった両親につれられて教会に通っていたが、時代の流れのなかで、日本を離れたアメリカ人の女性からエンパイアーステートビルの絵はがきをもらったことで、次第に「非国民」視されるようになる過程が、洋楽好きの青年が思想犯としてとらえらたり、「オトコ姉ちゃん」と呼ばれていた役者が軍隊から脱走して自殺したするなどのエピソードをはさみながら描かれていく。

注目したいのは、洋服店を営んでいた父親が修繕を行った服の中には杉原千畝のビザを受け取って来日したユダヤ人たちが、日本がナチスドイツなどと三国同盟を結んだために、ようやく到着した日本からも脱出しなければならなくなるという光景も描かれることにより、国際的な関わりも示唆し得ていたことである。

少年Hよりも少し前に学徒動員で満州の戦車部隊に配属された司馬遼太郎氏は、『坂の上の雲』で帝政ロシアと比較しながら日露戦争を描いた後で、「日露戦争が終わると、日本人は戦争が強いんだという神秘的な思想が独り歩きした。小学校でも盛んに教育が行われた」とし、自分もそのような教育を受けた「その一人です」とし、「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析している(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

この映画が描いた時代には、奉安殿に納められていた教育勅語と現人神である天皇のご真影への最敬礼が義務づけられていたが、遅刻しかけて慌てて忘れたために殴られる場面を初めとして、外国人を顧客としていた洋服屋の父親などの情報から、その戦争に違和感を抱くようになっていた肇が学校に派遣されていた教練の教官から目の敵とされて、ことあるごとに殴られるシーンも描かれていた。

実は、「戦車第十九連隊に初年兵として入隊したとき、スパナという工具も知らなかった」ために若き司馬氏も、古年兵から「スパナをもってこい」と命じられた時に、「足もとにそれがあったのにその名称がわからず、おろおろしていると、古年兵はその現物をとりあげ、私の頭を殴りつけた。頭蓋骨が陥没するのではないかと思うほど痛かった」という体験もしていたのである(「戦車・この憂鬱な乗物」『歴史の中の日本』)。

映画の圧巻は、神戸の大空襲のシーンであろう。この場面は《風立ちぬ》で描かれた関東大震災のシーンに劣らないような迫力で描かれており、当時はバケツ・リレーによる防火訓練が行われていたが、実際には焼夷弾は水では消火することはできず、そのために生命を落とした人も少なくなく、映画でも主人公の少年と母親が最後まで消火しようと苦闘した後で道に出てみると、ほとんどの町民はすでに逃げ出していたという場面も描かれていた。

このシーンは、戦争中のスローガンと行動が伴ってはいなかったことをよく示していたが、終戦後にはそれまで「国策」にしたがって肇に体罰を与えていた教官が、ころっと見解を変えたことで、かえって肇が傷つくという場面も描かれていた。

こうして初めは、やんちゃな少年だった主人公が苦しい時代にさまざまな試練にあいながらもくじけずに戦争を乗り越えて自立するまでを見事に描き出しており、《少年H》は現代の青少年にも勇気を与えることのできる映画になっていた。

脇役を固めた役者も母親役の伊藤蘭を初めとして、岸部一徳や國村隼などの渋い役者や小栗旬や早乙女太一、原田泰造や佐々木蔵之介などの旬な役者が脇を固めていたほか、妹役の花田優里音の愛らしさも印象に残った。

なかでも律儀な洋服屋の役を演じた水谷豊の演技には刮目させられた。水谷豊という俳優には、かたくななまでに正義と真実を貫こうとする天才肌の警部役という難しい役柄を見事に演じたころからことに注目していたが、髙橋克彦原作の『だましゑ歌麿』をテレビドラマ化した《だましゑ歌麿》で、狂気をも宿したような天才画家になりきって演じた際には、一回り大きくなったと感じた。時代の流れの中でおとなしくしかし信念を曲げずに家族を守って生きた今回の父親役からは、演技の重みさえも感じることができた。

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司馬遼太郎氏は「昭和十八年に兵隊に取られるまで」、「外務省にノンキャリアで勤めて、どこか遠い僻地の領事館の書記にでもなって、十年ほどして、小説を書きたい」と、「自分の一生の計画を考えて」いた。そして司馬氏は、「自国に憲法があることを気に入っていて、誇りにも思っていた」が、「太平洋戦争の最中、文化系の学生で満二十歳を過ぎている者はぜんぶ兵隊にとるということ」になって、自国の憲法には「徴兵の義務がある」ことが記されていることを確認して「観念」したと書き、敗戦の時には「なぜこんなバカなことをする国にうまれたのだろう」と思ったと激しく傷ついた自尊心の痛みを記している(「あとがき」『この国のかたち』第5巻)。

それゆえ、『坂の上の雲』を書く中で近代戦争の発生の仕組みを観察し続けていた司馬氏は、自国の防衛のための自衛隊は認めつつも、その海外への派遣には強く反対して、「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである」と書いていたのである(『歴史の中の日本』)。

かつて司馬作品の愛読者であることを多くの政治家は公言していたが、その人たちは司馬氏のこの言葉をどのように聞くのだろうか。

戦前の教育や憲法がどのような被害を日本やアジアの国々にもたらしたかを知るためにも、「改憲」を主張する人々にもぜひ見て頂きたい映画である。

《風立ちぬ》Ⅱ――大地の激震と「轟々と」吹く風

《風立ちぬ》の冒頭で描かれた夢のシーンの後に、「大地」が揺れることを実感させられる関東大震災の圧倒的な描写がある。

汽車に乗っていた主人公の二郎は、大地震の際に菜穂子との運命的な出会いをすることになるのだが、長編小説『竜馬がゆく』で1854年の「東海地震」に遭遇した竜馬の心理と行動を詳しく描いていた司馬遼太郎氏は、「大国」土佐の領主となる山内一豊の妻・千代を主人公とした『功名が辻』でも、地震について二度触れている。

すなわち、長浜城主に封ぜられてから四ヵ月目の夜に起きた「天正地震」で、最愛の娘を失った山内一豊夫妻はその衝撃から抜け出せずに「ひと月あまり廃人同然になった」と書かれている。そして、「伏見大地震」の際には怖がる千代を一豊が「いまおなじ大地で太閤殿下も揺れている。江戸内大臣殿(家康)も揺れている。みな裸か身で揺れておるわい」と慰め、「権勢富貴などは地が一震すれば無になるものだ」という哲学的な言葉を語らせている。(『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』人文書館、2009年、54~56ページ参照)。

ここには人間は大自然の激動の前にはほとんど無力であるという司馬氏の自然観がよく出ているだろう。それはニヒリズムではなく、地球という星を創造し、火山活動によって日本列島を産み出した大自然への深い畏敬の念なのである。

「太国」土佐の領主となった山内一豊は、征服された後も抵抗をやめない長曾我部家の家臣たちを「鬼」とみなして計略で殺してしまう。その後で司馬氏は「一豊様が一国のあるじになっていただくことが、わたくしの夢でした」が、その夢のために「領民がくるしんでいるとすれば、この夢はわたくしたち夫婦の我執にみちた立身欲だっただけのことになります」と千代に語らせている(第四巻・「種崎浜」)。

司馬氏はそれまでは「殺さない武将」として豊臣秀吉を高く評価していた千代の眼をとおして、「朝鮮征伐」を行うようになった豊臣秀吉を「英雄」の「愚人」化と厳しく批判している。このとき司馬氏は「権力」を得ることによって慢心した政治家は、人の生命の尊さだけでなく、大自然に対する畏敬の念さえも失ってしまうことを示唆していたようにも思える。

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《風立ちぬ》における大地震の描写からは、その激しい揺れが観客席にまで伝わってくるような衝撃を受けたが、高台に停車した列車から脱出した二郎と菜穂子の眼をとおして観客は、大地震の直後に発生した火事が風に乗って瞬く間に広がり、東京が一面の火の海と化す光景を見ることになる。しかも、菜穂子を実家に連れて行こうと歩き出した二郎の歩みとともに逃げ惑う民衆の姿がアニメ映画とは思えない克明さで描かれているのである。

このときの「風」と原発事故後の「風」について宮崎監督は、インタビューででこう語っている。

「福島の原発が爆発した後、風が轟々と吹いたんです。絵コンテに悩みながら、上の部屋で寝っころがっていると、その後ろの木が本当に轟々と鳴りながら震えていました。子供を持っているスタッフたちは線量計を買っていましたが、『ああ、これも風なんだ』と思いましたね。爽やかな風じゃない、轟々と吹く、放射能を含んだ風もこの世界の一部なのだと思いました。そういうことですね、風って」(アトリエ「二馬力」での完成会見より、「風立ちぬ特別号」『スポーツ報知』 )。

宮崎監督のこの言葉を読んだときに思い出したのが、1986年に起きたチェルノブイリ原発事故の後で行われた講演会で語られた司馬遼太郎氏の言葉であった。

「この事件は大気というものは地球を漂流していて、人類は一つである、一つの大気を共有している。さらにいえばその生命は他の生物と同様、もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」(「人と樹木」『十六の話』、中公文庫)。

しかも司馬氏は「平凡なことですが、人間というのはショックが与えられなければ、自分の思想が変わらないようにできているものです」と続けていたが、福島第一原子力発電所の大事故はチェルノブイリ原発事故に匹敵するものであり、しかも後者はともかくも「石棺」によって放射能の流出は止まったが、フクシマからはいまも膨大な量の汚染水が太平洋へと注ぎ出ているのである。

現在の日本に必要なのは、対外的な問題のみを強調して危機感を煽り立てる政治家ではなく、日本の大地や近海だけでなく地球環境をも破壊しつつある重大な問題を直視して、このような原発を推進した者の責任を明らかにするとともに、地球環境の保全のためにもきちんとした対策を立てることのできる政治家であるだろう。