高橋誠一郎 公式ホームページ

2022年

「黒澤明研究会五〇周年とドストエフスキー生誕二〇〇年」(『黒澤明研究会会誌』46号)

黒澤明研究会の50周年を記念した『黒澤明研究会会誌』46号が届いた。黒澤映画の上映会や、黒澤映画を支えたスタッフや俳優へのインタビューを行って、『黒澤明 夢のあしあと』(共同通信社MOOK)や『黒澤明を語る人々』(朝日ソノラマ)なども刊行してきた研究会の50年振り返る座談会なども掲載されている。

週刊誌とほぼ同じ大きさのB5版のサイズで269頁の大部で関係者の思いがこもる『会誌』となっているが、特記すべきは黒澤映画関係者との貴重な写真が豊富に掲載されているばかりか、黒澤監督手書きのクリスマス・カードの絵も載せられていることである。

『デルス・ウザーラ』関係の写真はないが、ロシア文学とも深いかかわりを持つ黒澤監督を記念したこの号は、多くの黒澤映画のファンにとっても興味深い記念号となっている。

私自身は拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011)の発行をきっかけに入会した時のいきさつとその後の会での活動と私のドストエフスキー論とのかかわりについて振り返った「黒澤明研究会五〇周年とドストエフスキー生誕二〇〇年」を投稿した。

ただ、ドストエフスキーの愛読者を自称するプーチン大統領がウクライナ侵攻を行ったことで、ロシアだけでなくドストエフスキー文学の信頼が大きく揺らいでいる。それゆえ、そこではまず私がドストエフスキー論に本格的に取り組むきっかけとなったソ連崩壊後のスーパーインフレやエリツィン大統領の独裁的な手法の問題などロシア危機を踏まえて書いた『「罪と罰」を読む―「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、1996)についてふれた。

その後で、研究会の活動を踏まえて上梓した『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社、2014)の内容を下記の拙著の帯の文章を引用して紹介した。

 【なぜ映画“夢”は、フクシマの悲劇を予告しえたのか。一九五六年一二月、黒澤明と小林秀雄は対談を行ったが、残念ながらその記事が掲載されなかった。共にドストエフスキーにこだわり続けた両雄の思考遍歴をたどり、その時代背景を探る。】

ドストエフスキーの生誕200年にあたる2021年には『会誌』での発表を踏まえて『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』(群像社)を上梓した。その序章では堀田の長編小説『祖国喪失』の終わり近くには滝川事件をモデルとして教授の娘の恋愛と苦悩、そして新たな出発を描いた黒澤映画『わが青春に悔なし』の「広告が真直に眼に沁みた」と書かれ、「もしほんとうに悔のない世代が既に動いているものなら、(……)全体的滅亡の不幸の底に、未来への歴史の胚子が既に宿っているのかもしれぬ」という主人公の感想も描かれていることを指摘した。

 最後に黒澤明監督を敬愛し、彼の脚本を元にした映画『暴走機関車』(1985)を撮ったロシアの巨匠アンドレイ・コンチャロフスキー監督の言葉を紹介して締めくくった。

なお、「黒澤明研究会五〇周年とドストエフスキー生誕二〇〇年」の全文は、「主な研究」に拙著の書影も加えて再掲した。黒澤明研究会五〇周年とドストエフスキー生誕二〇〇年

 (2023/02/02、改訂と改題)

戦前のベルグソン論の再考と長編小説『橋上幻像』論の構想

はじめに

前回のブログに記したように、キリーロフの人神論とイワンの叙事詩「地質学的変動」の問題を考察することによって、「神の観念の破壊」が人肉嗜食と結びつくことはないことを明らかにした熊谷論文から私は強い知的刺激を受けた。

それは『罪と罰』についての言及もある大岡昇平の『野火』や武田泰淳の『ひかりごけ』を踏まえて、ニューギニア戦線における人肉食の問題も描かれている堀田善衞の三部作『橋上幻像』(1970)の考察を始めているためでもあるだろう。

一方、「地質学的変動」についての言及は参加者にベルグソンへの関心も呼び起こした。ただ、ウクライナ戦争が現在も続く「戦争の時代」に入っていることに留意するなら、1913年から1914年をピークとする日本の「ベルグソン・ブーム」と戦争との関りも視野に入れて考察する必要があると思える。

それゆえ、ここではベルグソン哲学の受容の流れを振り返った後で(拙著『堀田善衞とドストエフスキー』群像社、2021年、30-31頁、161-162頁参照)、長編小説『橋上幻像』論の構想を簡単に記すことにしたい。

戦前のベルグソン論の再考

まず、注目したいのは、1951年に書かれた『野火』の第19節「塩」でドストエフスキーの『罪と罰』の描写に言及し、第21節「同胞」では「俺達はニューギニヤじゃ人肉まで食って、苦労して来た兵隊だ」と語る脱落兵たちと主人公が出会う場面を描いた大岡昇平が、 第14節「降路」ではベルグソン哲学についてこう記していることである 。

「この発見はこの時私にとってあまり愉快ではなかった。私はかねてベルグソンの明快な哲学に反感を持っていた。例えばこの『贋の追想』の説明は、前進する生命の仮定に立っているが、私は果して常に前進しているだろうか。時として繰り返し後退しはしないだろうか。絶えず増大して進む生命という仮定は、いかにも近代人の自尊心に媚びる観念であるが、私はすべて自分に媚びるものを警戒することにしている。」

この時、大岡は追い詰められた兵士の視点から、「戦争」の遂行と結びついて利用されたベルクソンの「理知主義打破」の哲学の問題点を鋭く指摘していた。

実際、第一次世界大戦がはじまった1914年に評伝『ベルグソン』を書き、この哲学者を「直観の世界」、「溌剌たる生命の世界」の発見者と紹介した評論家の中津臨川は、評論「ベルグソンの戦争及び現代文明観」(1916年)では、「ベルグソンの戦争観を紹介しつつ、〈戦争〉を一つの生命現象として認識する視点」を提示していた。

同じように戦争を一つの「生命現象」と見て、人間の内なる「生命の波動」により「現状打破の運動」が「地殻変動のように起こっている」とした歌人の三井甲之(こうし)も、1914年9月に書いた評論では、「『欧州動乱』を『文化史的見地』から、『理知』に対する『精神の戦い』と意味づけ」、ベルクソンの「理知主義打破」哲学は、「戦争の時代にこそ意義を持つ」と主張した(太字は引用者。中山弘明『第一次大戦の“影”――世界戦争と日本文学』新曜社、2012年、26-27頁、72-76頁、222-223頁)。

三井甲之が右翼思想家の蓑田胸喜(むねき)などと「原理日本社」を結成したのは1925年のことであったが、社会ダーウィニズムの理論を援用して「この宇宙を支配している永遠の意志にしたがって、優者、強者の勝利を推進し、劣者や弱者の従属を要求するのが義務である、と感ずる」と記したヒトラーの『わが闘争』の第一部がドイツで出版されたのも同じ年であった

「『今の一瞬に久遠(くおん)の生命を生きる』という事が日本精神」であるとして「爆弾三勇士」を礼賛し、「殺人は普通悪い」と考えられているが、「戦争に出て敵兵を殲滅するのは善である」と『生命の實相』で説いて、軍人などにも強い影響力をもった谷口雅春の「生長の家」が創始されたのは1930年のことであった。

「生長の家」の教祖・谷口雅春はベルクソンに言及しながら「生命の実相(ほんとうのすがた)は動であって静ではないという事が判って来るのであります」と記していた(谷口雅春『古事記と日本国の世界的使命――甦る『生命の實相』神道篇』光明出版社、2008年)。

一方、『野火』の 第14節「降路」でベルグソン哲学への批判を記した大岡は、 第37節「狂人日記」ではこう記したのである。「この田舎にも朝夕配られてくる新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び欺(だま)されたいらしい人達を私は理解できない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇(あ)ったような目に遇うほかはあるまい。」

堀田善衞の『囚われて』(1954)では元憲兵だった主人公の父親が「生長の家」のもじりと思われる“成長の家”の“聖書”にピストルを隠していたと記されているが、「盾の会」を結成した後で三島由紀夫は、「生長の家」の教祖・谷口雅春の思想に魅せられるようになり、分派の「生長の家本流運動」は谷口雅春の思想を絶対視して戦前の価値観への復帰を目指す「改憲」運動を推し進めている。

そのことに、注目するならば、堀田は短編『囚われて』において「生長の家」を示唆することで、戦前と戦後の価値観の同質性に鋭く迫っていたといえるだろう。

ドストエフスキー論との関連で問題なのは、「ヒットラーと悪魔」を発表した翌年の1961年に国粋派の論客・小田村寅二郎からの依頼に応えて国民文化研究会で「現代思想について」と題した講演を行った小林秀雄が、その後の学生との対話でベルクソンの意義を再評価したあとで、こう語っていたことである。

 「凡人が、自分は死んでもこのほうが正しいと思うと、人を殺すね。僕はそういうことを考えたこともある。正しくないやつを殺さなきゃならんでしょう。」(『学生との対話』新潮社、2014年、86頁)

『橋上幻像』論の構想について

短編『審判』(1947)で原爆の問題に関連して『黙示録』にも言及していた武田泰淳は、1954年に描いた『ひかりごけ』では、「大岡昇平氏の『野火』に於(おい)ても、主人公たる飢えた一兵士は、仲間から与えられた人肉(日本兵の肉)を口までは入れますが、ついに咽喉(のど)より下へは呑み下すことをしないのです」とし、「殺人の方は二十世紀の今日、きわめて平凡で、よく見うけられるが、人肉喰いの方はほとんど地球上から消滅しつつある」と記している。

三島由紀夫も1955年9月に「雲の会」の同人でもあった加藤道夫の追悼文「加藤道夫氏のこと」を発表し、その冒頭で「加藤氏は戦争に殺された人であったと思ふ。その死は戦後八年目であつたけれど、ニューギニアにおける栄養失調、そこからもちかへつたマラリア、戦後の貧窮、肋膜炎、肺患、かういふものが悉く因をなして、彼を死へみちびいた」と書き、「もしもう少し生きのびて、この状態を克服し、客観視する時が来たならば、この夢想家は、戦争と死のおそるべきドラマを書いたであらう」とも記していた。

さらに三島は、加藤が学生時代に書き上げていた遺書ともいえるような戯曲「なよたけ」が上演されなかったことにふれて「彼の生前にこれを上演しなかった劇団というところは、残酷なところだ」と記し、「かくてこの人肉嗜食(ししょく)の末世は、一人の心美しい詩人を、喰べてしまったのである」と結んでいた[

戦後間もない時期に発表されたこれらの作品や追悼文で人肉食のことが記されているのは、当時はまだ悲惨な体験を多くの日本兵が記憶していたためだと思える。

しかし、その記憶はすぐに消え去るようなものではなく、大岡昇平はその問題を1967年から1969年にかけて『中央公論』に連載した『レイテ戦記』でさらに深く掘り下げている。

『豊饒の海』の第2巻『奔馬』では「血盟団」事件をモデルとして美意識による暗殺を描いた三島由紀夫も、第3巻『暁の寺』(新潮社、1970)では美的な視点から「性の千年王国」を夢見るドイツ文学者・今西が語る「人肉嗜好」の物語を組みこんでいた(173-180頁)。

さらに、「今西はどんな些末な現象にも、世界崩壊の兆候を嗅ぎ当てた」とも記されているが(252頁)、その感覚は三島自身のものとも重なり、三島は原爆投下のニュースを知ったときの衝撃について、「世界の終りだ、と思つた。この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある」と「民族的憤激を思ひ起せ-私の中のヒロシマ」において記しているのである(447)。 つまり、三島由紀夫の作品にも『黙示録』的な終末観が深く関わっていたのだ 。

一方、堀田善衞が1953年末に自殺した友人で劇作家の加藤道夫をモデルとした長編小説『橋上幻像』の第1部を書いたのはようやく1970年のことであった。しかし、昭和初期の暗い時代における友人たちとの交友を描いた長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(1968)で加藤道夫についても触れていた堀田は、その翌年に出版した美術紀行『美しきもの見し人は』では、『ヨハネの黙示録』にふれつつ、戦争の悲惨さにも言及していた。

そのことを想起するならば、堀田がニューギニア戦線で「地獄」を体験した加藤道夫をモデルとした小説を長く書かなかったことは、このテーマの重さを物語っているだろう。

 (2023/02/24、加筆と改題、2023/03/08、改訂)


「ドストエーフスキイの会」合評会(7月31日)の感想

はじめに

ロシア軍のウクライナ侵攻が深刻化する時期に行われた「ドストエーフスキイの会」の合評会では「『謙虚(謙抑)』の概念を考察した木下論文や〈神がなければすべては許される〉というテーゼが、「イワンの思想として小説の中で流布していく」過程を詳しく検証した熊谷論文からは強い知的刺激を受けた。それゆえ、合評会ではこの二つの論文を中心に感想を述べた。

例会ではそれをふまえて「大審問官」で述べられている究極の悪とされる「食人」の問題もレーベジェフが論じている『白痴』と、「食人」も起きたニューギニア戦線の記憶の問題が描かれている長編小説『橋上幻像』との関係を考察したいと考えた。

それゆえ、ここでは合評会で述べた感想と木下論文と熊谷論文については感想に加筆した形で掲載する。(例会発表の構想を練る中で『白痴』論と『橋上幻像』論とを組み合わせると時間が足りなくなることに気づき、例会では『橋上幻像』の詳しい考察は省いた)。なお、熊谷論文の考察と感想は、『橋上幻像』論の構想とも関連があるので、最後に掲載した。

『広場』31号掲載論文の感想

「ロシア・ヘシュカスム(静寂主義)」についての言及がある『広場27号』掲載の論文のテーマを受け継いだ木下豊房氏の巻頭論文「ドストエフスキーにおける「謙虚・スミレーニエ」の意味について」から私は静かだが重たい問題提起を受け取った。

なぜならば、「『謙虚(謙抑)』の概念はドストエフスキーの創作意識・方法(ポエティックス)の本質を成しているであろう」とも記されている木下論文では、「殺すこと」を厳しく批判した『罪と罰』のソーニャが「謙虚な英知の象徴」とされており、この問題はプーチンによるウクライナ侵攻の問題とも絡んでいるからである。

他方で、冒頭から4行目で「マゾヒズム」の問題に言及されているこの論文の12行目以降では、著者の問題意識が明確にこう記されている。「ロシア語の «смирение»(スミレーニエ・謙虚)」は、「欧米のフロイド主義的立場の研究者達からは精神病理学的な『マゾヒズム』と同一視され、しかもロシア人固有のメンタリティとされ、さらにはドストエフスキーとからめて論じられ、精神分析の格好な材料にされるという現象が起きている。」

この記述や論文全体で「マゾヒズム」という用語が14回も用いられていることに注目するとき、この論文は少女の行動に「マゾヒズム的快感」を読み取るような『悪霊』の解釈に疑問を示したSQUAREの論考「少女マトリョーシャ解釈に疑義を呈す」(『ドストエーフスキイ広場』第15号、2006年。『ドストエフスキーの作家像』鳥影社、2016年に再録)の問題意識を強く受け継いでいると思われる。

『現代思想』にも論文「ロシア民衆の宗教意識の淵源」が寄稿されていることに注目するならば、『悪霊』がメインテーマとなるIDSの日本大会で、この問題を深く問い直すことが読者に求められているのだろうと感じた。

「謙虚な英知の象徴」とされているソーニャ像に注目するならば、「ロシアの民衆の理想」とは漠然としたものではなく、「殺すなかれ」というイエスの理念を保持していた「ロシアの民衆」には戦争への批判も内在していると理解すべきであると思われる。

論文と同じような質の高さを持つ冷牟田エッセイ「『時間』(堀田善衞)を読む」は、堀田がエッセイ「文学の立場」で、「文学も、最早ドストエフスキー以上のものが出なければ到底間に合わないのだ。…まことの苦悩に鍛え抜かれた人間像を我々は生まねばならぬ」と記していたことに注意を向けて、この作品を丁寧に読み解くことで堀田善衞の誠実さとドストエフスキー文学への関心の深さと明らかにしている。

すなわち、まず第一章の「日記の文体」では、主人公の陳が日記を書くにあたって自ら制約を課していることに注意を促し、「感情に流されぬよう、情緒に溺れぬよう、痛々しいほど己を制御」していることを指摘している。以下、二、陳英諦の、絶望から希望へ、三、時の経過の描写、四、表題の「時間」について考える、五、鼎(かなえ)、と続いて、「むすび」では、陳英諦の年齢が著者と同じ三七歳なのは偶然ではないだろうとし、「自らの精神を陳英諦に託して『まことの苦悩に鍛え抜かれた人間像』を創出したのである」と結んでいる。/ 冷牟田氏のこの『時間』論は、『広場15号』のSQUAREに掲載された「疑問に思うこと」における『悪霊』論の読みの深さと冷静で客観的な分析にも通じていると思える。

清水論文「『死の家の記録』変奏(第一部)」では、流刑後のドストエフスキー作品の原点ともいえる『死の家の記録』について、会話体で広い視野から説得力豊かに論じられており、改めてその面白さと深さが感じられた。

たとえば、ロシア語を教えて山上の垂訓を読んだ後では回教徒のアレイが「ゆるせ、愛せよ、辱めるな、敵を愛せよ」という文章に感激したと告げられる場面やユダヤ人の活き活きとした描写からは、木下論文でも触れられているドストエフスキーの宗教観の一端が浮かび上がってくる。

「恐るべき臨死体験」についての詳しい言及からは、ブルガリアで行われた「国際ドストエフスキー・シンポジウム」に参加いただいた際の、ムィシキンの謙虚さによる行動を「魂の治癒の行動学」と呼んで分析した論文や、円卓会議での黒澤明の映画《白痴》の鋭い分析が思い起こされた。

論文では囚人たちが演じた「芝居」にもふれられているが、複雑な構造を持つこの作品を高く評価した黒澤監督が映画化をも真剣に考えていたことも付記しておきたい。

近藤論文「『二重人格』について」は、ゴーゴリの『狂人日記』とも比較することによって、「新ゴリャートキンは幻影ではなく実在していた。だからゴリャートキンは狂ってなどいなかった。それなのに精神病院行きになったのは、彼を疎ましく思う人たちの陰謀によるものであった」という説を提示し、それを丁寧に検証している。

最後に再登場する医師のクレスチャン・イワーノヴィチが正しいロシア語を話せていないことに注目して、「成りすまし」の可能性を指摘した箇所も面白い。

 「正教・専制・国民性」の厳守が求められていた当時のロシアにおいて、検閲に引っかからないような表現方法を模索しながら書かれている初期のドストエフスキー作品は、後期の作品のテーマだけでなく表現の方法においてもつながっており、その意味でも興味深く読んだ。

 長縄論文「ドストエフスキーにおける『ルーシ』の概念」は冒頭でまず、「ルーシ」と「ロシア」が同じ概念ではないことを確認している。用語の訳は作品の理解にもかかわるが、長年のゲルツェン研究の成果を踏まえてなされたこの指摘は重要だと思える。

ドストエフスキーが「農村共同体の直接的表現」とみなしている「ゼムストヴォ」との関連で「ルーシの民」は「西欧派のアソシエーションの原理は知らなかったが、すでにアルテリをもっていた」との指摘や、「西欧派の極北に位置するベリンスキーについても「ルーシの原理の闘士である」と書いていることに注意を促して、「この文章はゲルツェンについて言っているとも読めるだろう」という記述にも関心を持った。

なお、2012年はゲルツェン生誕200年にあたっていたが、「祖国戦争」勝利の記念行事で影が薄くなったと記した加藤史朗氏によれば、その年の学術会議で長縄光男氏はゲルツェンの時代と「新自由主義が跋扈する」昨今のロシアとの近似性を指摘して、プーチン政権の危険性をすでに示唆していた(『スラヴャンスキイ・バザアル――ロシアの文学・演劇・歴史』水声社,2021年)。

音楽の造詣も深い伊東氏の発表は大変興味深く聞いたが、伊東論文「《 ポリフォニー 》 における声』と『音』」では、バフチンの「ポリフォニー」論が「文化人類学に、従来の民族誌史は、作者が他者であるインフォーマントを客体として一元的に支配し、管理するモノローグ型の小説のようなものではないか、という反省を促した」ことも記されている。

さらに、ここでは「引用における対話性と二声性」については詳しくは記されてはいないが、前掲書『スラヴャンスキイ・バザアル』における「二つの『声』が同一方向のベクトルを持っているとき,それは様式化あるいは文体模倣となる」が,「異方向のベクトルを持つ二声的言葉は,批評的意識と結びつき,『笑い』と密接に関連する。『二声的言葉』の内部で二つの声は様々な対話的関係にある」という指摘はカーニヴァル理論の理解だけでなく,作者と主人公との関係や登場人物の相互関係を正しく理解するためにも重要であり、そのような理解は杉里直人氏の『カラマーゾフの兄弟』の新訳にも響いていると思われる。

熊谷論文「『神の観念の破壊』について」では〈場所柄をわきまえない会合〉におけるミウーソフの発言とミーチャの要約とが相まって〈神がなければすべては許される〉というテーゼが、「イワンの思想として小説の中で流布していく」ことが確認されている。

「悪魔の発言」をとおしてイワンの「伝道への熱意」が示され、『悪霊』のキリーロフが「もしそれを悟ったら、小さな女の子を辱めなどしなくなるでしょう」とも語っていたことに注意を向けた著者は、「我意は、利他と一体化している」としたキリーロフの人神論との類似性も指摘している。

さらに「死に対する恐怖の苦痛」という視点からキリーロフの人神論とイワンの叙事詩「地質学的変動」の問題を考察することによって、「神の観念の破壊」が人肉嗜食と結びつくことはないことを明らかにした著者は、民衆に保持される「信仰と謙譲」に希望を託しているゾシマの思想との比較も行った後で、「現代の生物学・心理学によれば利他的行動も自然の法則による」ことも記している。

こうして、ドストエフスキー作品の複雑な人物体系と相互関係に細心の注意を払いながら登場人物の発言を丁寧に分析した熊谷論文から私は強い知的刺激を受けた。

 (2023/02/24、加筆と改題)

統一教会の「黙示録」観――カルト教団の危険性(加筆版)

はじめに ①『原理講論』と『蒼ざめた馬』との出会い ②「自虐史観」の批判と「贖罪意識」の刷り込み ③「黙示録」解釈の危険性 ④ 文鮮明教祖とテロリズム

はじめに 

 「霊感商法」や「合同結婚式」などの問題でかつて危険視されていた統一教会(鈴木エイト氏が指摘しているように、本国・韓国における呼称は「統一教(トンイルギョ)」であり、日本でもその教義は変わらないので、本稿でも統一教会と記す)は、安倍政権下の2015年に「世界平和統一家庭連合」と名称の変更が許可されたことでソフトなイメージが持たれるようになっていた。

 しかし、安部元首相は母親の多額の献金などにより家庭崩壊していた宗教二世の山上徹也容疑者の手製の散弾銃で射殺された。そのあとで『聖書』を教典としつつも反日的な教義を持つこの教団の実態が徐々に明らかになってきた。また、統一教会だけでなくエホバの証人などの宗教二世たちが宗教虐待など彼らの悲惨な状況を伝え、TBSの報道特集や日本テレビのミヤネ屋を始め、週刊文春などの週刊誌や新聞も報道をしたことで、統一教会の解散請求は昨日20万の署名数に達した。

 ただ、紀藤正樹弁護士が 『決定版 マインド・コントロール』(アスコム、2017年)において記しているように、統一教会もアメリカのカルト教団や地下鉄サリン事件が起こしたオウム真理教とも共通する次のような危険な特徴を有している。

1,「信者と外部の接触を断ち、繰り返し同じ情報を吹き込むなどして、マインド・コントロールする。信者は、教祖の意のままに動くようになり、法律や常識は無意味となる」。

2,「『近くこの世の終わりがくるが、選ばれた者だけが神の国に行ける』という終末思想を語る」

 さらに、先の参議院選では自民党の多くの議員が「基本理念セミナー」への参加も求める統一教会の「推薦確認書」にサインしていたことが朝日新聞の調査で明らかになった。

 以下、最初に『原理講論』や『蒼ざめた馬』との出会いとその後のかかわりなどを簡単に振り返ったあとで、主にこの教団の教義と堀田善衞の「黙示録」観を分析することで、今も自民党の家庭観や平和観に強い影響力を持っている統一教会の危険性を指摘したい(本稿ではかっこ内の数字は半角で示す)。

1,『原理講論』と『蒼ざめた馬』との出会い

 私が統一教会の講義を一人で聞きに行ったのは、ベトナム戦争が激しさを増す一方で、日本でも学生運動が過激化して、学生同士が武力衝突を繰り返すようになっていた1967年でまだ高校生の頃だった。

 それ以前に『罪と罰』を読んでキリスト教にも強い関心を持つようになり、『聖書』の教えに従って良心的兵役拒否を行っている「エホバの証人」(ものみの塔)の集まりに誘われて二度ほど参加していた私は、渋谷を歩いていて真面目な感じの青年に誘われて『原理講論』の導入部の講義を聞いたのである。玄関を開けると座って待っていた二人の若い女性たちからやさしく「お帰りなさい」と挨拶されてその家庭的な雰囲気に心を動かされたが、陰陽思想でキリスト教の「原理」を説明しようとする講師の話には疑問を持ったために、一度限りの聴講となった。

 それにも関わらずその時の印象は非常にまじめな青年たちの集まりという印象が強かったので、この集団が正体を隠して難民救済などを装うカンパや訪問販売をしたりしていることを知って痛ましい思いに駆られた。もしもあの時に最後まで講義を聞いていたら、私も信者になっていたかも知れないと感じて、その後もこの教団の動きには注意を払ってきた。

 そして、統一教会が日本でも銃器店を経営して銃の販売も行っていることも報じられた際には、宗教団体が銃器店を持つことに強い違和感を覚えた。

 統一教会の「黙示録」観については第三節で考察することにするが、「視よ、蒼ざめた馬あり、これに乗る者の名を死といい、黄泉これにしたがう」という『ヨハネの黙示録』(6章8節)の言葉が題辞で引用されているロープシンの『蒼ざめた馬』(川崎浹訳、現代思潮社)を読んで衝撃を受けたのもこの時期だったと思う。 (注:ロープシンの本名はボリス・ヴィクトロヴィチ・サヴィンコフ、ロシアの革命家、主要作品に『一テロリストの回想』)。

 『罪と罰』では近代西欧の哲学に影響された「非凡人の理論」によって「高利貸しの老婆」を「悪」と規定して殺害を行ったラスコーリニコフの深い苦悩とシベリアにおける「復活」が描かれている。一方、 『蒼ざめた馬』の主人公は、 「ラスコーリニコフは金貸しばばあを殺し、彼自身が老婆の流した血のなかで窒息する」と考え、「われ、汝に暁の明星をあたえん」など多くの「黙示録」の詩的な言葉でモスクワ総督の暗殺を正当化している。

 しかも、ソーニャとの間では殺人やラザロの復活など死と生についての会話も行われていたが、『蒼ざめた馬』でも「ぼくはよく馭者だまりで聖書を読むんだ」と語り、「すべてが許される」と考える「スメルジャコフへの道」と「キリストの道」があるとするワーニャとの対話も描かれている。

 注目したいのは、ワーニャが「すべてが許される」とする危険な考えをイワンではなくスメルジャコフに帰していることであり、この小説との出会いは、私が「黙示録」に強い問題意識を持つようになった大きなきっかけになっていたと思える。

 一方、統一教会への私の関心は徐々に弱まっていたが、久しぶりにその名前を聞いたのは、2014年3月15日に日本ペンクラブの環境委員会が行う「脱原発を考えるペンクラブの集い」の準備会合からの帰宅の際に中村敦夫・環境委員長と交わした私的な会話においてであった。

 その会話で中村さんは、統一教会やその政治組織などから多い場合には「一人の議員に九人もの秘書がついている」ことを憤慨し、かつ今もその問題がまったく解決されていないことを深く危惧されていた。

 実際、1998年9月22日法務委員会で氏は、「統一協会は宗教の名をかりてさまざまな反社会的な行動をとっている団体でございます」と指摘し、かつて統一協会の代理人だった高村外務大臣と教団との関係や国会議員に対する「秘書の派遣の問題」などについて鋭い質問も行っていたのである。

 中村氏との会話の際には統一教会がいまだに日本の政治の中枢に深く入り込むほどに力をもっていることに驚かされたが、地下鉄の乗り換えのために中断されてそのままになっていた。

2,「自虐史観」批判と「贖罪意識」の刷り込み

 その時の会話のことをまざまざと思い出したのは、安倍元首相が統一教会のせいで家庭崩壊していた宗教2世に射殺されたことを知った時であった。2021年に行われたUPF(天宙平和連合)主催の会議に、統一教会の総裁でもある「韓鶴子総裁をはじめ皆様に敬意を表します」というビデオ・メッセージを安倍元首相が送ったことが犯行の引き金になっていたのである。

 その事件の後でこの問題の深刻さを改めて認識して、中村敦夫氏の『狙われた羊』(文藝春秋、1994年)を読み始めた。この小説の見事さは「マインド・コントロールの意図的悪用が、人間の思考や人格を改造し、社会的犯罪を作り出すというメカニズムを、物語によって図解すること」に成功していたことだと思う。

 初めは映画化も考えていたとのこともあり、場面も視覚的で真夜中に起きた自動車事故のシーンから始まる『狙われた羊』は、迫力ある文体で読者を新宗教の異様な世界へと引き込み、最後まで一気に読ませる。この作品は今年の11月に講談社から30年ぶりに文庫の形で再販されることが決定したが、それはマインド・コントロールという手法を駆使するこの教団の変わらぬ本質を浮き彫りにした意義が薄れていないからであろう。(統一教会の問題を初期から粘り強く考察してきた有田芳生氏に『改訂新版 統一教会とは何か』大月書店がある)

 圧巻は正体を隠して相談に乗りながら優しく勧誘した者が、学生(羊)を研修でマインド・コントロールにより熱狂的な信者にさせる過程が鮮明に描き出している箇所であろう。

 たとえば、素直な女子学生の中道葉子が参加した中級研修の12日目の夜に上映されたドキュメンタリィ映画「大日本帝国による朝鮮半島三十八年支配」では、「モノクロニュース映画の断片」や「報道写真」などにより「朝鮮民族に対する日本軍の目を覆うばかりの残虐な行為が次々と映し出された」。そのために日韓併合の正確な知識をもっていなかった「葉子は、言葉で表現できぬほどのショックを受け」、この研修に参加していた受講生たちも「一様に心を揺さぶられ、深い罪悪感を抱かされた」のである。

 つまり、正しい歴史教育を「自虐史観」などと呼んで日本の歴史の負の側面を学校で教えないようにすることを支援していた安部元首相は統一教会の広告塔となっていたばかりでなく、心ならずも歴史の真実を知った若者たちが「罪の意識」から旧統一教会に取り込まれることに加担していたことになる。

 このような「深い罪悪感」にはアメリカによる原爆投下の問題もからんでいる。たとえば、芥川賞作家の堀田善衞は短編『国なき人々』(1949)で広島に原子爆弾が落ちて「人はもとより一木一草も滅び、地面すらもガラス状に変質した」という噂を聞いて深く動揺していた主人公の梶に、ユダヤ人のシェッセルが「いや、これは現代の劫罰の始まりだ、その序の口、序曲にすぎぬのだ」と語ったと記している。

 そしてシェッセルは、「……第一の天使ラッパを吹きしに、血の混りたる雹と火とありて地にふりくだり、地の三分の一焼け失せ樹の三分の一焼け失せもろもろの青草も焼け失せた」と、第一の天使から第五の天使にいたる『ヨハネの黙示録』の一節を暗唱していたのである。

 一方、マスコミの監視が緩んだ時期もこの教団を追い続けていた鈴木エイト氏は統一教会の日本幹部公職者が全員参加し開かれた2018年9月23日に特別集会で語られた韓鶴子総裁の“みことば”をまとめた教団内部資料を詳しく紹介している(『自民党の統一教会汚染 追跡3000日』小学館2022年、151-158頁)。

 すなわち、そこで翌年が1919年の3・1独立運動から100周年となることに注意を促し、「1945年に広島に何が落ちましたか」と幹部たちに問いかけた韓氏は「原爆が落ちました」という答えを聞くと、こう続けていた。「その歴史的事実に対して、日本の悲惨な環境だけを考えるのではなく、その背後を考えなければなりません。悔い改めなければなりません」、「国家の復帰(注:統一教会をその国の国教とすること)の責任を果たすにおいて、まずはその国の最高指導者を(……)屈伏させなければなりません」。

 鈴木エイト氏が指摘しているように、「こうして罪悪感や贖罪意識を刷り込まれ、国家復帰の責務を負った日本の幹部が末端信者を駆り立て」、「その末端信者が一連の正体隠し勧誘や霊感商法などを行い、韓国の教祖一族へ毎年数百億円を貢(みつ)いできたという構図」が生まれたと言えよう。

 しかも、この説教からは「教団内部では安倍晋三内閣総理大臣を屈服と教育の対象として見下していた」ことばかりでなく、「日本の国会議員を韓鶴子に侍(はべ)る存在として捉えていること」も判る。実は、洪蘭淑著『わが父文鮮明の正体』(林四郎訳、文藝春秋、1998年)に記されているように、1985年には文鮮明が「自らと韓鶴子を秘密儀式で、世界皇帝と皇后に即位」させていたのである。

3, 「黙示録」解釈の危険性

 拙著『堀田善衞とドストエフスキー』で考察したように、堀田善衞は長編小説『審判』(1963)、さらには美術紀行『美しきもの見し人は』(1969)や長編小説『路上の人』(1985)などの作品でドストエフスキー作品と『ヨハネの黙示録』との関係についても考察していた。

 たとえば、1969年に出版した美術紀行『美しきもの見し人は』の第六章では『ヨハネの黙示録』を読んで、「その怖ろしさに身と心とが慄えるほどの思いをした」第一回目は、「広島と長崎に原子爆弾が投下され」、「これで日本民族も放射能によって次第に絶えて行くのだ、という流言が流布していた」ときだったと記し、「黙示録」の「おどろおどろしく怖ろしい」二騎士の記述を引用している。

 第二の封印を解き給ひたれば、第二の活物(いきもの)の『来れ』と言ふを聞けり。かくて赤き馬いで来り、これに乗るもの地より平和を奪ひ取ることと、人をして互に殺さしむる事とを許され、また大(おほい)なる剣(つるぎ)を与へられたり。……

 第四の封印を解き給ひたれば、第四の活物(いきもの)の『来れ』と言ふを聞けり。われ見しに、視よ、青ざめた馬あり、之に乗る者の名を死といひ、陰府(よみ)これに随(したが)ふ、かれらは地の四分の一を支配し、剣と、餞饉と死と地の獣(けもの)とをもて人を殺すことを許されたり。

 『ヨハネの黙示録』はその後も七人の天使が「ラッパを吹き鳴らす」とさらなる大災害が次々と襲ってくる様子を詳しく描いた後で、これらの天災にもかかわらず、キリスト教の教えに従っている者は救われることが強調されている。

 一方、堀田は『至福千年』(1984)で、ユダヤ人の虐殺や究極の悪ともされる「人肉食」が行われた第一回十字軍と『ヨハネの黙示録』との関係を詳しく考察している。こうして、堀田作品からは危機的な時代には宗教自体や国家がカルト的な性質を持つこともありうることが伝わってくるが、統一教会の『原理講論』も第三次世界大戦はかならずおきねばならないが、信者は生き残ると「黙示録」に依拠して主張しているのである。

 この問題を詳しく考察する前に、まず文鮮明の後継者と目されていた長男・文孝進に15歳で嫁いだ洪蘭淑が内部から見たこの教団の実態を詳しく描いた前掲の『わが父文鮮明の正体』を見て置きたい。韓国の統一教会の幹部の子女として生まれた彼女は、日本のいわゆる「祝福二世」とは違い恵まれた状況にはあったが、幼児期から統一教会での総長の礼拝で唱えさせられていた「誓いの言葉」からは、この教団による「マインド・コントロール」の実態がつたわってくる。

 すなわち、彼女が暗記させられた五箇条からなる「誓いの言葉」には、次のような文言が記されているのである。「天国のために血を流すことによって、召使いとして、けれどもお父様の心をもって、サタンに奪われた神の子女と宇宙を取り戻すために、サタンを完全に裁くまで、敵陣に勇敢に攻撃をかけます。このことを私は誓約します」(55頁)。

 さらに、結婚後には「統一教会の教えでは賭事は厳格に禁じられている。いかなる種類の賭も家族を害する社会悪で、文明の衰退に貢献する」とされているにもかかわらず、彼女はラスベガスで「再臨のメシア」とされている文鮮明とその妻が、何時間もブラックジャックなどの賭け事をする姿を眼にする。そして、「定期的に現金の詰まった紙袋」を運んできた日本人の教会幹部が、「税関の係官に、アメリカにきたのはアトランティック・シティで賭事をするためだ」と説明していたことを知る。

 彼女の夫となった文孝進氏は、酒やドラッグに溺れておりその暴力だけでなく不倫に苦しんで韓鶴子氏に相談した洪蘭淑は、義理の母もまた夫の不倫に苦しめられていたことを知らされたと記している。

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 本稿の視点からことに注目したいのは、音楽には才能のあった長男の孝進氏が「アポカリプス(黙示録)」という名のバンドを持ち、そこで演奏していたことである。バンドの命名からは「黙示録」に対する強い関心が感じられるが、アメリカで銃メーカーのカーアームズ社を経営する兄の国進氏の支援で、分派・サンクチュアリ教会を設立した七男・文亨進の「黙示録」観はさらに過激である。

 すなわち、文亨進氏が6月22日から7月13日まで行った日本縦断ツアー講演でサンクチュアリ教会の日本組織の代表者は「黙示録」の記述を現代に引き寄せて、「黙示録6章にありますが、赤い馬が暴れまわる中国・北朝鮮、白い馬が暴れまわるグローバリスト、黒い馬のディープ・ステート、そして緑の馬のイスラム圏。そしてコロナ。これは中国の生物兵器です」と解釈した(藤倉善郎「統一教会の過激分派「サンクチュアリ教会」の正体」https://toyokeizai.net/articles/-/614735

 一読しただけでは「ディープ・ステート」の意味は不明だが、それは極右陰謀論Qアノンたちがいう「アメリカ政府を支配している影の政府」を指すとのことで、実際、議事堂襲撃事件の数日後に亨進は議事堂を「サタンの玉座」と呼んで、2021年1月6日の襲撃に加わった暴徒たちを称賛していた(Rolling Stone Japan)。

 しかも、信者たちに「自動小銃を構え、銃弾を束ねた王冠を頭に載せた姿で礼拝」させている亨進は、自分こそが統一教会の正当な後継者だと考えて、自分に権力を渡さなかった母親の韓鶴子氏を恨んで、「黙示録」で最も非難されている「大淫婦バビロン」と呼んでもいる。そのことに留意するならば、亨進氏は父親の文鮮明にもあった教団の武装化の方向性を純粋に受け継いでいることも考えられる。

 『決定版 マインド・コントロール』では、「信者の家族と揉めるなど社会と対立しはじめると、そのことがカルトの結束固めに使われる。信者は、国家や警察が自分たちをつぶそうとしていると信じ、カルトは猜疑心と妄想に取りつかれていく。場合により武装集団と化す」ことも指摘されている。 

4, 文鮮明教祖とテロリズム

 地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の麻原も『ヨハネの黙示録』第16章に記されている世界最後の日に起こる善悪諸勢力の決戦場から転じて、「世界の終わり」の意味となった「ハルマゲドン」にも言及していた。このことはよく知られているが、ユダヤ人の虐殺も唱えたヒトラーにも傾倒していた麻原が「自分が日本と世界の『神聖法皇』」であるとも語っていたことを紹介した研究者のリフトンは、オウムの戦争は「神格化された天皇と日本の永遠の神性のために戦われる宗教戦争の形をとった」とも指摘している(ロバート J.リフトン著, 渡辺学訳『終末と救済の幻想 オウム真理教とは何か』岩波書店、2000年、258頁)。 

 かつての日本も「鬼畜米英」とみなした諸国との戦争に際して日本の指導部は、自国の軍隊を「無敵皇軍」と称し、いざとなれば「神風」が吹くので絶対に負けないとして、沖縄戦の後も悲惨な戦争を続けていたのである。

 一方、安倍元首相の殺害後に「自民党は所属議員に教団側との接点について調査し9月に結果を公表した」がその際には触れていなかった推薦確認書の存在とその文書が選挙支援の見返りに「政策協定」への署名を求めるだけでなく、「基本理念セミナー」への参加も要求するものであるにもかかわらず、それにサインした議員がいることが明らかになった(朝日新聞、10月10日)。

 すると参院本会議の代表質問では「多額の献金等を強いてきたこの団体の教義に、賛同するわが党議員は一人もいません」と主張していた自民・世耕弘成参院幹事長は、この件が発覚した後の26日には、この文書には「憲法改正しましょう、家族を大切にしましょうと当たり前のことが書いてある。党の政策と反していなければ、選挙で猫の手も借りたいような議員はサインするレベルだ」との認識を示した。

 しかし、洪蘭淑著『わが父文鮮明の正体』に克明に描かれているように統一教会の家族観は、明治憲法下の日本で道徳の基本理念とされていたような女性蔑視の古い家父長制的な家族観である。また、その憲法観も第三次世界大戦は起らねばならず、その最終戦争には自分たちは生き残るとされる『原理講論』の「黙示録」観に依拠している。

 自民党が最終戦争を望む統一教会の教義に沿ったような改憲を行うことは、
かつて 日本に支配されていた近隣諸国の不安をあおり、かえって戦争を誘発することになる危険性が高いと思われ、54基もの原発がある日本を巻き込んだ極東での戦争はこれまでにない悲惨な戦争になる可能性も高い。

 しかも、細田・下村・萩生田などの自民党・安倍派の有力議員はこの問題の解明に抵抗しているように見えるが、やはり安倍派の杉田水脈や和田政宗など四議員は、統一教会の過激分派「サンクチュアリ教会」の文亨進氏の日本縦断ツアー講演に応援メッセージを送っていた。

 さらにこの問題が明らかになった後も多くの地方議員が、統一教会の政策との類似性を正当化していることもTBSの「報道特集」などの取材で浮き彫りになってきている。

 すでに見たように、統一教会の韓鶴子総裁は2018年9月23日の特別集会で「(統一教会をその国の国教とするという)責任を果たすにおいて、まずはその国の最高指導者を(……)屈伏させなければなりません」と発言していた。そのことに留意するならば、前文部科学事務次官の前川喜平氏が記しているように、「(推薦確認書に)署名するのは普通ではなく異常、当たり前ではなくあるまじきことだ」と言わねばならないだろう(東京新聞「本音のコラム」10月30日)。統一教会の解散を求めるのが筋である。→ https://chng.it/ysdNwYJr

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 追記:ネット上にはすでに統一教会の教祖の『文鮮明先生マルスム(御言)選集』 が流出していたが、これについて言及することは控えていた。ようやく『週刊現代』( 11月19・26日号)のデジタル版にも掲載された。

 記事はまず『御言選集』ついて簡単に説明した後で、1920年に日本統治時代の朝鮮半島に生まれた文氏が、1941年に早稲田高等工学校に通うため来日し、1943年に帰郷後の1944年10月に日本での抗日運動に関わっていたとして逮捕されたことを紹介している。

そして「文氏にとって、”内地”での体験は、彼を抗日運動へと走らせるようなものだったのだろう」とし、次のような発言を掲載している。

〈日本は一番の怨讐の国でした。二重橋を私の手で破壊してしまおうと思いました。裕仁天皇を私が暗殺すると決心したのです〉(『御言選集』第381巻より。原文を日本語訳したもの・大意。以下同)  

〈裕仁天皇を二重橋を越えて殺してしまおうとした地下運動のリーダーだったんです〉という趣旨の発言が『御言選集』第305巻、第306巻、352巻、402巻にも記録されていることを紹介した記事は、「文氏が実際に地下運動のリーダーだったかについては明らかになっていない」と慎重に断っている。

確かに、自分を殊更大きく見せようとする傾向の強い教祖だけに実態については調査が必要だろうが、文鮮明教祖の言葉は2015年に「世界平和統一家庭連合」と名称を変更したこの教団の危険性を明らかにしていると思える。

(画像はツイッターとアマゾンより引用、加筆と画像追加 2022年11月3日、
改訂11月19日、一箇所修正、スレッドを追加 12月2日、
2023年1月16日、小見出しの変更とツイートの追加、2023/04/12、
2023/04/21、 2023/05/06、 ツイートの追加と変更 )

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改訂新版 統一教会とは何か
狙われた羊 (講談社文庫)
わが父 文鮮明の正体
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堀田善衞とドストエフスキー
終末と救済の幻想―オウム真理教とは何か
政治と宗教

カルト教団の闇に鋭く迫る渾身の作 中村敦夫著『狙われた羊』 (講談社、2022年)

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狙われた羊 (講談社文庫) | 中村 敦夫 |本 | 通販 | Amazon


真夜中に起きた自動車事故のシーンから始まる中村敦夫著『狙われた羊』は迫力ある文体で読者を新興宗教の異様な世界へと引き込み、最後まで一気に読ませる。

 その一因は失恋してなやんでいた女学生の中道葉子が、「青年の意識調査」と称して近づき、自宅にまで訪ねてきてやさしく相談に乗っていた「野ばらの会」の小川早苗と親しくなったために次第に取り込まれていく過程が具体的に描かれていたためであろう。

 「野ばらの会」の小川早苗に誘われて「自我開発ビデオ・センター」での2泊3日の研修に行った中道葉子は2週間の中級研修を経て、集団結婚式まで3年6か月の修行に励もうと決意することになる。

 その一方で、この小説では業界紙から週刊誌のトップ屋となり、一児をもうけたが離婚して今は小さな探偵事務所を開いている少しドジな主人公の探偵・牛島三郎が、松本安吾から信者となったと思われる息子・武志の救出を依頼されたことから、事務所荒らしや無言電話などこの教団とのいざこざに巻き込まれることになる

 牛島三郎の人物造の設定は成功しており、読者は教団のことをほとんど知らなかったこの探偵の失敗などをとおして、この教団の組織や教義についても徐々に知識を深めていくことになる。

 この小説のクライマックスの場面の一つは、中道葉子が参加した中級研修の12日目の夜に上映されたドキュメンタリィ映画「大日本帝国による朝鮮半島三十八年支配」から受けた印象の記述だろう。

 それは「モノクロニュース映画の断片や、報道写真などを重ね合わせ、情緒的な音楽と感情的なナレーションで構成されていた。朝鮮民族に対する日本軍の目を覆うばかりの残虐な行為が次々と映し出された。葉子は、言葉で表現できぬほどのショックを受けた。

 「文部省教育の方針として、中学、高校の歴史学習は、近代史まで深入りしないよう指導されて」いたために、そのことを全く知らなかった「葉子同様の教育背景で育った十二人の受講生たちは、一様に心を揺さぶられ、深い罪悪感を抱かされた」のである。

 その後で「(神は救世主を)、この地球上で最も苦しく、悲惨な状況にある民族の住む場所」に派遣すると講師が説明したことで、受講生は「朝鮮民族」が選ばれた民族であると理解し、3泊4日の上級研修の最終日に団体の正式名称が「国際キリスト敬霊協会」であると告げられても、政治家や学者の著名人の協力者の名前などを挙げられて安心し、『原則講典』を贈与されてつらい修行への覚悟を固めることになる。

 問題はこの小説が書かれた3年後の1997年に従来の歴史教科書が「自虐史観」の影響を強く受けているとする「新しい歴史教科書をつくる会」が創立されると、安倍元首相が「日本の前途と新しい歴史教育を考える会」を立ち上げてこの動きを強く支援したことである。

 つまり、日本の歴史の負の側面を学校で教えないようにすることを支援した安倍氏は、歴史の真実を知った若者たちが「罪の意識」から旧統一教会に取り込まれることを、意識はしていないにせよ側面から援助していたことになる。

 しかも、今年の7月8日には安倍晋三元首相が信者の二世によって殺害されるという衝撃的な事件が起きたが、『狙われた羊』では大手出版社の系列雑誌が特集で「信者の土地を担保に金融機関から金を借りさせるHK(ハヤク・カネ)作戦」に引っ掛って、「五十億円分の土地担保を取られ、家族が訴訟を起こしている事件」も取り上げていたことも記されている。

 さらに、韓国に本部を持つこの組織が「韓国、日本、アメリカなどの政治家たちを買収し、自分たちの違法行為を見逃すよう圧力を掛けている。日本だけでも百名以上の保守系議員が援助をもらったり、無給の秘書提供や選挙運動の手助けなどを受けている」として「そうそうたるメンバーが名を連ねている」議員名簿を挙げ、「信者の中から県や市議会に議員を送り出し、政権奪取を夢想している」ともいわれていることが記されている。

 1998年9月22日法務委員会で中村敦夫氏は「教祖文鮮明の入国」や「合同結婚式」の問題だけでなく、国会議員に対する「秘書の派遣の問題」などを鋭く追及していた。

 しかし、2015年に安倍内閣が「統一教会」の「世界平和統一家庭連合」への改称を認めたことで、この「統一教会」の問題はジャーナリズムの表面からは消え、2021年に安倍晋三元首相がその総裁への賛辞のビデオ・メッセージを送っていたのである。

 『狙われた羊』の後半では、マインド・コントロールによって自主的な思考ができなくなり、教会の教えのままに行動するようになった息子や娘をなんとか取り戻そうとする家族の壮絶な戦いが描かれるとともに、この教団の教祖の歴史も調べることで、なぜこの教団では不可思議な「集団結婚式」が行われるようになった理由も解明されている。

 この作品の「あとがき」で中村氏は、「この書が目指すところは、マインド・コントロールの意図的悪用が、人間の思考や人格を改造し、社会的犯罪を作り出すというメカニズムを、物語によって図解することである」と書いている。

この小説は政治と宗教との関係に揺れる今こそ、多くの読者やことに若者に読まれるべき作品だと思う。(10月14日改訂、2023年2月2日改題)

(2023/5/29、改題してツイートを追加)

「『文明の衝突』とドストエフスキー」を「主な研究」に掲載

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 拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)では、「正教・専制・国民性」の理念が唱えられ、検閲が厳しかったニコライ一世の時期に デビューしたドストエフスキーの 『貧しき人々』から『『白夜』』に至るまでの作品を考察した。

 その終章「日本の近代化とドストエフスキーの受容」では、ニコライ一世の頃と昭和初期の類似性にも言及したが、グローバリゼーションの圧力が強まる中でナショナリズムが高揚して戦争が勃発する危険性があることを感じた。それゆえ
2008年1月26日に代々木区民会館で行われた第184回例会では、ダニレフスキーの歴史観が『作家の日記』に及ぼした影響などを考察した論考「『文明の衝突』とドストエフスキー ポベドノースツェフとの関りを中心に」を発表した。

 その後もプーチンが帝政ロシア的な政策に傾いていくことに強い危惧の念を抱いていたが、生誕200年にドストエフスキーを「天才」と賛美した翌年の2月についにウクライナへの全面的な侵攻に踏み切った。その行動に際しては『作家の日記』の記述を意図的に今回の戦争に利用していると感じたが、例会発表の際の論考が『ドストエーフスキイ広場』以外には未発表だった。それゆえ、この論文をホームページの「主な研究」に再掲する。論文の構成は次の各節からなる。

 一、ポベドノースツェフと「臣民の道徳」 二、後期作品への扉としての『白夜』 三、「正義の戦争」の批判から賛美へ――クリミア戦争の考察と露土戦争 四、残された謎――『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンの悪魔の形象 五、ドストエフスキーのユダヤ人観とポベドノースツェフの宗教観 六、皇帝暗殺の「謎」とアジアへの進出政策

→「文明の衝突」とドストエフスキー ――ポベドノースツェフとの関わりを中心に

 なお、例会発表の後では出版記念会を開いて頂き、木下代表など参加頂いた会員の方からは温かいご祝辞や貴重なご示唆を頂いた。そのことに改めて謝意を表するとともに、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』の終章「日本の近代化とドストエフスキーの受容」で堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』二言及していたことが、『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』(群像社、2021年)につながったことも記しておきたい 。

       (2022年12月2日、構成などを加筆、拙著のスレッドを追加)

平山令二氏 『堀田善衞とドストエフスキー 一大審問官の現代性-』を読む

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はじめに

群像社から2021年10月に発行した拙著の書評が掲載された『世界文学』№135が届きました。

 評者の平山令二氏(中央大学法学部名誉教授)は、ドイツ文学の研究者で近著に『ユダヤ人を救ったドイツ人―「静かな英雄たち」』(鴎出版、2021年)があります。

 ドストエフスキー文学や堀田善衞作品にも造詣が深い評者は、拙著の全体像を正確に紹介したあとで、「(本書の発行が)本年2月に突然始まったロシア軍のウクライナ侵略以前」にもかかわらず「重要な問題点の提起が見られる」とし、プーチンによるウクライナ侵攻と満州事変以降の日本との比較も戦争とプロパガンダという視点から試みています。

 拙著ではこの問題を扱うことができなかったのを残念に感じていたので、評者にはこの場を借りて感謝の意を表します。著者と編集委員会からの了解を得ましたので、一つの誤植を訂正したうえで、以下に書評の全文を転載します。

『堀田善衞とドストエフスキー 一大審問官の現代性-』を読む

 昨年2021年はドストエフスキー生誕200周年にあたる。本書はそれを記念して出版された比較文学の研究書である。ところで堀田善衞とドストエフスキーという取り合わせを見て、意外に思う人と当然と思う人に分かれるのではなかろうか。私は前者だった。

 ドストエフスキーの日本の戦後派作家への影響を考えると、すぐに思い浮かぶのは埴谷雄高、椎名麟三、武田泰淳、野間宏といった第一次戦後派の面々であろう。革命運動、弾圧、転向という彼らの体験はドストエフスキーへの強い関心につながる。彼らの下の世代にあたる堀田善衞はいかなる抵抗も不可能に見える時代に青春期を送った。世代経験が違うのである。また、堀田の晩年の大作は『ゴヤ』であり、モンテーニュについても書いている。多彩な才能を発揮した堀田であるが、ドストエフスキーとの関わりが仕事の中心にあるとは思えない。

 しかしながら、本書は堀田の仕事の最初から最後まで、ドストエフスキーが一貫して重要な刺激を与えたことを明らかにしている。本書により、堀田の仕事に対するドストエフスキーの影響の全体像が初めて明らかになり、あらたな視角から堀田文学の全体像も同時に明らかにされた。

 本書は全7章からなり、序章と終章を除く5つの章は、堀田の作品とドストエフスキーの作品を具体的に対照させて、そこに共通する両作家の問題意識や手法を論じている。

 冒頭に置かれた「はじめに 堀田善衞のドストエフスキー観」は、本書全体を貫く構想を明らかにしている。堀田は1918年に富山県伏木町の北前船の廻船問屋に生まれている。首都から離れた地方の小さな町というイメージがあるが、日本海を通じて日本各地、さらには世界にもつながる開かれた風土であった。堀田文学の日本にとどまらない世界へ開かれた開放性は、このような育ちに関係するだろう。

 堀田が中学に入学した年には、満州事変が勃発して重苦しい日々となった。受験のために上京した1936年には2.26事件が起きた。昭和初期の暗い時代に堀田が没頭したのがドストエフスキーの作品群であった。堀田はラジオから流れてきたゲッベルスのドイツ語による野蛮な演説を聞いて、政治学科からフランス文学科に転入を決意し、卒業論文では、『白痴』のムイシュキンとランボーの比較を取り上げる。

 堀田のドストエフスキー観は終戦間際の2つの体験によりきわめて現代的な深まりを示す。3月10日の東京大空襲を体験してから24日の上海出発までの短期間、集中的に『方丈記』を読み、鴨長明の記述する京の大火災が東京大空襲につながるものであることに気づいた。その後、上海で堀田は、広島、長崎への原爆投下のニュースを知り、『ヨハネの黙示録』の終末論的なビジョンとの暗合に震える思いがした。

 堀田が上海で知り合った武田泰淳は帰国後、中国で犯した殺人の罪と向き合うために現地に残る兵士を主人公とした『罪と罰』を思わせる短編『審判』を書いた。武田の問題意識は、中国の知識人の視点から南京虐殺を描いた堀田の長編小説『時間』につながっている。

 長編小説『零から数えて』と長編小説『審判』では、アメリカ人の原爆投下機のパイロットの苦悩を通して「黙示録」的な規模の悲劇が描写され、核戦争の勃発が全人類の滅亡につながる恐怖が示されている。『審判』はドストエフスキーの『白痴』の鋭い心理分析や複雑な人間関係を研究した上で描かれている。『審判』が発表された1963年のアンケートへの回答で、「現代のあらゆるものは、萌芽としてドストエフスキーにある。たとえば、原子爆弾は現代の大審間宮であるかもしれない」と堀田は書いている。晩年の大著『ゴヤ』で、堀田は国民軍が動員されたナポレオン戦争や「スペイン戦争における異端審問」の問題を文明論的な視点から深く考察している。

 本書の出版は2021年10月なので、当然ながら本年2月に突然始まったロシア軍のウクライナ侵略以前である。しかしながら、本書にはウクライナ侵略にも関係する重要な問題点の提起が見られる。本書は、単に堀田善衞とドストエフスキーを比較文学的視点から考察しただけの研究書ではない。思想弾圧、民族差別、プロパガンダ、核戦争といった現在の課題に直結する問題を扱っている。すなわち、堀田やドストエフスキーを偉大な古典と解釈して終わるのではなく、彼らの作品が今も生命力を持っていて、現在の難問に対する回答、少なくとも対処の視角を示しているという問題提起を行っている。したがって、本書にウクライナ侵略を考える視角も現れ、しかもそれが日本の今と無縁でないことがわかるのである。

 そこでこれからは、ウクライナ侵略という蛮行、悲劇を踏まえて、戦争とプロパガンダの問題に焦点を当て本書の視角を検証してみたい。

 ウクライナ侵略は、20年以上にわたり独裁体制を着々と構築してきたプーチンが最後に到達した恣意的な強権支配の「総決算」である。なぜ、21世紀にもなって、それこそ封建時代の王たちが恣意的に戦争を始めたように、このような不法な侵略が行われるのか。しかもプーチンが行ったクリミア略奪などの局地戦争の形ではなく、ウクライナという国家全体を纂奪するという全面戦争である。

 その秘密はプーチンが国家情報機関KGB出身であったことにある。プーチンは情報をつかむものが冷戦、そして熱い戦争にも勝利すると体験して、国内での権力維持にも情報の一元的支配の重要性を感じたのである。今回、プーチンはロシア国内で完全な情報統制を行い、国民に「戦争」ではなく「特別軍事作戦」を行っているだけだとプロパガンダをしている。これに反旗を翻したのが国営テレビのオフシャンニコワさんである。プーチンの手法はゲッベルスのナチス宣伝省、さらには「戦争」の代わりに「事変」を多用した軍国日本の情報統制につながる。

 このような偽情報に毎日、毎時間さらされることで国民は支配者の言い分を真に受けるようになる。そのひとりの例が『若き日の詩人たちの肖像』に登場する「アリョーシャ」という仇名の若者である。ドストエフスキーと太宰治を信奉する文学青年である「アリョーシャ」は日本軍の敗色が濃厚になるにつれ、プロパガンダに全身染められて、ついには「キリストが天皇陛下なんだ。つまり天皇陛下がキリストをも含んでいるんだ」とまで言い始める。

 国家プロパガンダの影響を受けやすいのは純真な青年層のように思えるが、他方、知識と経験のある知識人にも、プロパガンダに影響を受け、自らもプロパガンダを発信するハブのような役割を果たす人物がいる。本書では、プロパガンダに一貫して批判的な若き堀田と対照的な人物として、小林秀雄が取り上げられている。

 小林の戦時中の自らの言動に対する発言として知られるのは、1946年の「近代文学」誌における座談会「小林秀雄を囲んで」であり、戦時中の言動を批判された際、小林は「自分は黙って事変に処した、利口なやつはたんと後悔すればいい」と語ったとされる。戦争犯罪に加担したという批判に、このように「毅然とした反論」をしたことで、小林は戦後の批評の世界で教祖的な地位を占め、「大学の入試問題」にも頻出するようになった。しかし、座談会に出席していた埴谷雄高は小林の「発言」はあとで付け加えたものであると証言している。また、小林の弟子筋の大岡昇平は、小林は「黙って事変に処してはいない」と皮肉っている。小林はこのように自らの戦中の言動を巧妙に隠蔽し、戦後批評における地位を確保した。プロパガンダのハブとしての役割を見事に隠しおおせたのである。

 小林は、真珠湾攻撃の航空写真から受けた印象を当時のエッセイ「戦争と平和」で書いている。「空は美しく晴れ、眼の下には広々と海が輝いていた。漁船が行く、藍色の海の面に白い水脈を曳いて。さうだ、漁船の代わりに魚雷が走れば、あれは雷跡だ、といふ事になるのだ。海水は同じ様に運動し、同じ様に美しく見えるであろう。」真珠湾攻撃も空から俯瞰すると戦場の阿鼻叫喚は消えて、美的な光景しか残らない。これに対して、堀田の『若き日の詩人たちの肖像』では、特攻潜航艇での真珠湾特別攻撃で海の藻屑と消えた兵士たちについて、「親御さんたちゃ、切ないぞいね」と同情するお婆さんの言葉が語られる。人間の視点からの発言である。小林秀雄は『我が闘争』に関して「彼(ヒトラー)は、彼のいわゆる主観的に考える能力のどん底まで行く。そしてそこに、具体的な問題に関しては決して誤たぬ本能とも言うべき直覚をしっかり掴んでいる」と書いている。小林の逆説とレトリックに満ちた言説は、ヒトラーの犯罪を薄める役割をする。しかも、この文章もあとで抹消してしまう巧妙さである。

 南京虐殺を中国人知識人の目で描いた『時間』では、知識人は日本をこう批判する。「彼等は(中略)孤独に堪えずして他国に押し込み、押し込むことによって孤立する。(中略)全世界の征服と、全世界からの逃亡とは、彼等にとって同義語ではなかろうか。孤立、破滅、そこに一種の美観にも似たものがあるらしい、それがわたしにはわかる。」また、柳条溝鉄路爆破事件について知り合いの日本軍大尉の認識を批判する。「驚くべきことに、彼はあの事件が日軍が自ら手を下して爆破したものであることを知らない。中国軍がやったのだ、と思い込んでいる。日本人以外の、全世界の人々が知っていることを、彼は知らない。」この「彼」に、戦争ではない「特別軍事作戦」だというプーチンのプロパガンダを信じるロシアの兵士や市民も重なるだろう。彼らにとっては、世界中がウクライナ侵略でロシアを批判して孤立したとしても、それはむしろプーチンの正しさの証明であり、世界が欧米のプロパガンダに汚染されている証拠と解釈されてしまう。

 願わくば、この書評が掲載される時期までにウクライナの人々に平和が訪れ、ロシアの人々がプーチンのプロパガンダの呪縛から解放されますように。本書もそのような願いを目覚めさせる強い働きをしている。

               (『世界文学』№135、115~117頁)

『悪霊』と『白痴』の主人公について

はじめに 同時多発テロとウクライナ危機

 本稿は「ドストエーフスキイの全作品を読む会」で2008年12月20日(土)に発表した「『白痴』における虐げられた女性たちの考察――ナスターシヤ・フィリポヴナの形象をめぐって」(「読書会通信」№111)の「はじめに」の箇所の一部を削除するとともに加筆修正したものです。

 10年以上も昔の原稿の転載なので今更という気もしますが、亀山郁夫氏は『「悪霊」神になりたかった男』(みすず書房、2005年)の冒頭で、「九月十一日のあの日、ツインタワー崩落のシーンを旅先のテレビで観ながら、私はなぜか不意に『悪霊』の一節に思いをはせ、「神は死んだ」と感じ、テレビを観ているわれわれ全員が神になった、という奇妙な錯覚に囚われたものだった」と書いていました。

 この文章を読んだ際に私は、「告白」のみに焦点を当てる手法と同じようにインパクトはあるが、複雑なアフガニスタンの問題が単純化されており危険だと感じていましたが、今回のロシア軍のウクライナ侵攻でその問題が浮き彫りになったと思いました。それゆえ、 この論考を再掲する前に同時多発テロの問題とベトナム戦争やアフガン戦争の問題を考えておくことにします。

『ドストエーフスキイ広場』(第15号、2006年)に掲載された「SQUARE:亀山郁夫著『「悪霊」神になりたかった男』をめぐって」での指摘や議論を踏まえて執筆したために、「『悪霊』と『白痴』の主人公について」は多少論争的な色合いを帯びています。 なお、「SQUARE」には右記の論考が掲載されました。「少女マトリョーシャ解釈に疑義を呈す」木下豊房、「疑問に思うこと」冷牟田幸子 / 「少女マトリョーシャは、入れ子人形のマトリョーシャか?」福井勝也 / 「木を見て森を知る?」堤崇弘、「感想」熊谷暢芳。)

 同時多発テロに対してブッシュ元大統領は反米テロを繰り返すアルカイダの庇護者とみなされたタリバン政権を転覆させるために同盟国も参加させてアフガニスタンに侵攻してその勢力をほぼ壊滅させ、次いで「ならず者」国家に対しては核兵器による先制攻撃も許されると発言してイラク戦争を開始して勝利しました。しかし、武力での制圧は一時的なものでしかなく、2021年8月15日にタリバンはアフガニスタン全土を支配下においたと宣言し、アメリカ軍も撤退を余儀なくされたのです。その意味では今回のプーチンによるウクライナ侵攻はスターリンだけではなく、「復讐」の戦争を正当化したブッシュ元大統領の言動をも連想させるのです。

 さらに、その戦争に際してブッシュ政権は日本の参戦も強く要求しており、その要求に応えるために戦争法案を強行採決し、今回のウクライナ危機に際しては緊急事態条項を含んだ形で「改憲」を行おうとしている自公与党や維新・国民民主の危険性をも示しているといえるでしょう。なぜならば、1902年に日英同盟を締結して日露戦争に勝利した日本が、「鬼畜」とみなすようになった米英との「大東亜戦争」に踏み切ったのは、それからわずか39年後のことだったからです。ウクライナ危機は「正義の戦争」が第三次世界大戦に拡大する危険性をもはらんでおり、ドストエフスキーの作品を高く評価した堀田善衞が『審判』で示唆していたように、被爆国日本は核戦争の危険性をもきちんと世界に示すべきべきだと思います。

1,堀田善衞の『小国の運命と大国の運命』と私のソ連体験

 軍事力で「プラハの春」を弾圧したソ連軍とワルシャワ条約機構軍によるチェコスロヴァキアへの軍事介を『小国の運命と大国の運命』(1969)で厳しく批判した作家の堀田善衞は、同時にアメリカ軍によるベトナム戦争の問題にも言及することでこの二つの問題が絡んでいることを示唆していました。

 同じ年に発行した連作美術エッセイ『美しきもの見し人は』で堀田は、「原爆水爆とブッヘンワルト・アウシュヴィッツ――現代も、ある意味では黙示録的時代であると言いうるであろう。ヴェトナムでのアメリカの戦争が、第一のラッパであるかないかは、誰にも言えないことである」(『全集』13巻・45頁)と書いていました。

 実際、泥沼のベトナム戦争が終結した後では、「第二のラッパ」とも呼べるソ連軍のアフガニスタン侵攻が1979年に起き、それに対してアメリカがイスラムの原理派を軍事的に援助したことが、1989年のソ連のアフガンからの撤退につながっただけでなく、タリバンの勢力の拡大と「第三のラッパ」とも呼べる9月11日の同時多発テロにもつながっていたのです。

 一方、アメリカがベトナムから撤退したようにソ連もアフガニスタンから撤退せざるを得なくなりましたが、1975年にモスクワ大学に留学してドストエフスキーの初期作品の研究をしていた私は、アメリカがベトナム戦争で抱えることになったのと同じような負の遺産をアフガニスタンへの派兵によってソ連も抱え込んだとのことも後に友人から聞いて知りました。さらに、チェルノブイリ原発事故の際には留学生の引率としてモスクワに滞在しており、この事故がバルト三国などにも与えた影響の大きさを知って激動の時代を予感しました。

 実際、ソ連崩壊後に始まったグローバリゼーションの流れの中でエリツィン大統領が強引に行った急激な市場経済への移行などにより起きたスーパーインフレは市民の貯蓄などにも打撃を与えて生活水準が落ち込み、治安も悪化して「エリツィンは共産党政権ができなかったアメリカ型の資本主義の怖さを短期間で味わわせた」との小話も流行っていた時期も経験しました。ことに、治安が悪化していた1993年の夏に学生寮で強盗にあった際には、殺される確率がかなり高いことを覚悟するとともに、彼らはラスコーリニコフのように「金持ちの外国人」を「悪人」と見なして殺しても後悔することはないだろうと『罪と罰』の世界を肌身で感じたことが、『「罪と罰」を読む――「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、1996年。新版、2000年)執筆の強い動機にもなっていました。

2,『欧化と国粋』から『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』へ

 2002年に上梓した『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(刀水書房)では、当時はハンチントンの「文明の衝突?」が比較文明学会などでも話題になりその危険性も指摘されていたので、グローバリゼーションや新自由主義についての批判もこめて文明論的な視点からシベリア流刑以降のドストエフスキー作品を考察しました。

 すなわち、第1章は「欧化と国粋」の視点から「日本の開国交渉とクリミア戦争」が複雑に絡んでいることを明らかにし、ことに第5章では日本の「対東亜共栄圏」の思想にも影響を与えたと思える好戦的な西欧列強に対抗するためにはナポレオン戦争に勝利したロシア帝国を盟主とする全スラヴ同盟の必要性を説いたダニレフスキーの文明論にも言及しながら、冬に記す夏の印象』の分析を行いました。

 それとともに雑誌『時代』に掲載された『虐げられた人々』の特徴を考察し、『死の家の記録』における「支配と服従」の批判に注意を促して、民衆の描かれ方や「非凡人の思想」の萌芽の分析も行いました。

 しかし、この著作の出版後にはやはりドストエフスキーの原点に迫るためには、「正教・専制・国民性」の三原則の遵守を求められて言論の自由のなかったニコライ一世の治世下の厳しい状況で書かれた『貧しき人々』から『分身』を経て『白夜』に至る初期の作品の詳しい分析が必要だと感じて、『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)を出版しました。

 拙著の序章ではドストエフスキーの作品を「秘密警察によって読まれることを意識した『二枚舌』で」あり、それは「権力に対する隠された抗議というより、むしろ権力との共生を図るための必死のサバイバルの手法」であるとした亀山郁夫氏の『ドストエフスキー 父殺しの文学』(NHK出版、2004年)の見方を批判しました(39頁)。

 第二章「自己と他者の認識と自立の模索」では、『貧しき人々』の人物関係や論理的な筋を詳しく分析することで、『白痴』のムィシキン像につながるジェーヴシキンを亀山氏が「ブイコフの模倣者」であり、「むしろ悪と欲望の側へとワルワーラを使嗾する存在」でもあると規定していたことの問題点を指摘していたのです(110頁)。

 さらに満州事変などが起きた昭和初期に書かれた小林秀雄の『白痴』論に強い批判を持っていた私は、終章「日本の近代化とドストエフスキーの受容」で、「敬神・忠君・愛国」の精神が求められた昭和初期と帝政ロシアの類似性にも注意を払いながら、この時期の日本を描いた堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』にも言及しており、この時の考察が『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』につながりました。

『悪霊』と『白痴』の主人公について (「読書会通信」№111より)

 『「悪霊」神になりたかった男』(みすず書房、2005年)を読んだ私は、亀山氏は多くの重要な登場人物を省いて説明することにより、難解な作品『悪霊』を「分かりやすい」作品とし、さらにスタヴローギンの「告白」のみに焦点を当てることで強烈な印象を生み出すことにも成功していると感じた。長編小説のあらすじも簡単に紹介されており、全体像も伝えられている。

 しかし、理想を目指して行動しながら結局は陰謀家スペシネフに操られたというペトラシェフスキー事件でのドストエフスキー自身やその友人たちの辛い体験や苦悩をもとに描かれたシャートフやキリーロフなどの形象についての分析がほとんどなされていないことに驚かされた。
 『地下室の手記』の分析をとおしてピース IDS 副会長が『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』(のべる出版企画、2006年)で詳しく分析したように、ドストエフスキー作品では論理だけでなく登場人物も「蜘蛛の網」のように緻密にはり巡らされている。それゆえ、相互にきわめて深い関係を有している登場人物の複雑な体系から、重要な人物を除いた形で作品を解釈するとき、作者の意図とは異なった理解を生み出す危険性がある*1。

 そして「テクストというのは、いったん作家の手を離れたが最後、必ずしも書き手のいいなりにならなくてはならない道理はないのです」と書いて、少女マトリョーシャの新しい解釈を示した亀山氏の『悪霊』論はそのような危険性を端的に示していると私には思えたのである*2。
 ただ、亀山氏の『悪霊』論についてはいずれ詳しく論じることにして、ここでは『ドストエフスキー 父殺しの文学』(NHK出版、2004年)における『白痴』論に焦点を絞って論じることにしたい。
 なぜならば、ここで ムィシキン を「残酷なゲームに見入る子どものように無邪気に、死にまつわるエピソードを撒き散らし」、「人々の心をしだいに麻痺」させていく存在と規定した亀山氏は、「かくして偽キリスト、僭称者としてのムイシキンが招換するのは、他でもない次作『悪霊』の主人公スタヴローギンなのです」と続けているからである*3。
 (加筆2)〈しかし、「何よりもこの小説は、過去三十数年、私のドストエフスキー経験の中心につねに位置しつづけてきた小説であり、なかでも「告白」は、原点なのです」(41頁)という『悪霊』についての記述に注目するならば、多少きつい表現になるが、亀山氏は書かれた順番に沿ってではなく、昭和初期に『白痴』論を書いた小林秀雄と同様に、スタヴローギンについての解釈を踏まえて独自のムイシュキン像を創造しているように思える。〉

 『白痴』においてドストエフスキーは、 ムィシキン にフランスの処刑制度を批判させながら「聖書にも『殺すなかれ!』といわれています。それなのに人が人を殺したからといって、その人を殺していいものでしょうか? いいえ、絶対にいけません」と明確に語らせていた*4。
 つまり、決定稿におけるムィシキンは、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老や、若きアリョーシャにつながる風貌を持っており、ペトラシェフスキー事件をふまえつつ、ネチャーエフ事件に関わったバクーニンなどをモデルとして描いた『悪霊』のスタヴローギンとは決定的に異なると思われるのである(注3)。
 そしてこのような「哲学者」的な風貌を持つ ムィシキン 像は、5000万人以上の死者を出した第二次世界大戦の反省を踏まえて製作された黒澤明監督の名作「白痴」でも、登場人物を日本人に移し替えながらも、「滑稽」に見えるが、「一番大切な知恵にかけては、世間の人たちの誰よりも、ずっと優れて」いる人物として、きわめて説得的に描き出されていた。そして井桁貞義氏が書いているように、そのような ムィシキン 像は本場ロシアや海外の研究者たちによってきわめて高く評価された*5。
 さらに、新谷敬三郎氏が「初めてみたときの驚き、ドストエフスキイの小説の世界が見事に映像化されている」と書いているように、「ドストエーフスキイの会」に集った日本の研究者たちも、同じような感想を抱いていた。 たとえば、「ドストエフスキーと黒澤明とはいわば私の精神の故郷である。他の多くの人にとってそうであるように」と記した国松氏も、ラストのシーンでアグラーヤ役の綾子が、「そう! ……あの人の様に……人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら……私……私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語っていることに注意を促している*6。
 一方、亀山氏の解釈によれば、「現代の救世主たるムイシキンは、じつは人々を破滅へといざなう悪魔だった。使嗾する神ムイシキン! けっして皮肉な読みではありません。ムイシキンは完全に無力どころか、世界の破滅をみちびく役どころを演じなくてはならない」のである(上、285)。
 黒澤明による『白痴』の映画化が行われてからまだ50年ほどしか経ていない日本で、なぜ『白痴』の主人公の解釈にかくも激しい変化が起きたのだろうか。
 この意味で注目したいのは、 『悪霊』の亀山訳を鋭く批判した木下豊房氏が前掲の論考「少女マトリョーシャ解釈に疑義を呈す」で、当時問題となっていた建築家による「耐震構造」の疑惑の問題に言及しながら、少女マトリョーシャ像に関わる日本語訳が、亀山氏のドストエフスキー論の構造と深く関わっていることを鋭く指摘していることである*7。
 実際、ポリフォニー的な構造を持つ『白痴』の解釈においても、作品の構造を支えているいわば「鉄筋コンクリート」にも相当するようなアグラーヤやガーニャだけでなく、 ムィシキンの厳しい批判者でもあったイポリートなどの重要な登場人物の解釈がほとんど省かれることで、ムィシキン像がドストエフスキーが意図したものとは正反対となった可能性が強いのである*8。
 一方、私自身はキリスト者ではないが、初めて『白痴』を読んだときから ムィシキン という主人公に軽薄な「ゲーム・マニア」のような若者ではなく、ドストエフスキーが与えようとした「キリスト公爵」としての風貌の一端を感じ、彼が語る「哲学」からは強い知的刺激や励ましをも受けてきた*9。
 『カラマーゾフの兄弟』の新訳が100万部を越えるようなベストセラーとなるなど亀山氏のドストエフスキー論は、すでに社会現象化して若い読者だけでなく研究者にも影響力を持ち始めているが、大胆な見解をきわめて率直に示した氏は「愛読者からの厳しい批判」を謙虚に求めている(下、314)。
  それゆえ次回は発表の本論である「『白痴』における虐げられた女性たちの考察」に大幅な加筆をすることにより、私が考える『白痴』の現代的な意義を亀山氏だけでなくドストエフスキーの研究者にも率直に提示するので、忌憚のないご批判を頂ければ幸いである。

*1 高橋「テーマの強調と登場人物の省略の手法をめぐって――『白痴』におけるムイシュキンとガーニャとの関係を中心に」『ドストエフスキー曼荼羅』第2号、2008年11月参照。 / *2 少女マトリョーシャをマゾヒストとする亀山氏の解釈やその年齢の扱い、さらにはスタヴローギンが『「悪霊」神になりたかった男』と題した著作の主人公となっていることなどの問題については、「SQUARE」にされた前記の論考の他、萩原俊治「ドストエフスキーの壺の壺」『江古田文学』第66号、長瀬隆「亀山郁夫氏を批判する」(ホームページ)などに詳しい。/ *3 亀山郁夫『ドストエフスキー 父殺しの文学』上巻、NHK出版、2004年、285頁。(以下、同書からの引用は、本文中に巻数と頁数のみを記す)。/ *4 訳は木村浩訳の『白痴』(新潮文庫)による。(以下、同書からの引用は、本文中に編と章をアラビア数字で記す)。/ *5井桁貞義「ドストエーフスキイの世界感覚」、『全集黒澤明月報3』、1988年、および「ドストエフスキイと黒澤明 ――『白痴』をめぐる語らい」『ロシア文化の森へ――比較文化の総合研究』第2集、ナダ出版センター、2006年、664~681頁。/ *6 新谷敬三郎「黒沢明『白痴』を見る」「ドストエーフスキイの会会報」39号、1975年。『場』第2号、110頁参照。/ *7 木下豊房氏は日本におけるドストエフスキーの受容を詳しく考察した商品としてのドストエフスキー ―商業出版とマスメディアとにおける作家像-」(『ドストエーフスキイ広場』№22、2013年。『ドストエフスキーの作家像』鳥影社、2016年に再録)で、『謎とき「悪霊」』にも言及して亀山氏の『悪霊』解釈の問題点を鋭く指摘している。/ *8 高橋「『白痴』における〈自己〉と〈他者〉(1)――哲学者ムイシュキンと肺病患者イポリートの形象をめぐって」『人間の場から』第46号、1998年参照。/ *9 高橋「私のドストエフスキー体験――世代論の視点から」『江古田文学』第66号、2007年、30~39頁。

ドストエフスキーの受容とウクライナ危機――ロシア帝国的価値観と「改憲」の危険性

はじめに ウクライナ危機と日本

ドストエフスキー生誕200年を迎えた昨年は、多くの関連書が出版されてロシア文学への関心も高まった。しかし、今年に入ってロシア軍が突如ウクライナへの侵攻を始め、戦闘が激化するとロシアのイメージは一転して否定的なものへと激変し、「独裁者の暴走」などの見出しも踊るようになり、ツイッターなどでプーチン大統領をたたえていた人々も一斉に激しい非難を始めた。

むろん、武力による攻撃を行い続けているプーチン大統領に弁護の余地はない。しかし、日本の報道機関などはロシアの問題だけを詳しく伝えているが、今回のウクライナ危機の問題はプーチン政権の危険性だけではなく、安倍元首相の「憲法」観の危険性や日本の「権力者の暴走」の可能性をもあぶりだしている側面もあると思える。

なぜならば、クリミアを併合したプーチン大統領と27回もの会談を行い、ファーストネームで「ウラジーミル」と呼びかけて「君と僕は、同じ未来を見ている」と語っていたことは、ふたりがロシア帝国的価値観を共有していた可能性もあるからである。

以下、多少これまでに書いてきたことと重複する箇所もあるが、まず第1節ではドストエフスキーの作品にも言及しながらロシア帝国が明治国家の近代化のモデルの一つであったことを確認する。第2節では日清戦争に勝利した後には大日本帝国の「祭政一致」政策のモデルともされていることを堀田善衞の自伝的長編小説『若き日の詩人たちの肖像』などを通して検証する。

第3節ではペレストロイカ政策とその破綻を概観したあとで、ロシアの初代大統領となったエリツィン政権の政策とそれを受け継いだプーチン大統領の問題を考察する。第4節では昭和初期に東条内閣の閣僚として満州政策に深く関わりながら戦後に首相として復権した岸信介氏とその孫で「改憲」を目指す安倍元首相の国家観をプーチン大統領の国家観と比較する。

1、日本の近代化のモデルとしてのロシア帝国 

「日露戦争」の勝利の意義を強調している安倍元首相は明治維新をも賛美しているが、工業や軍備などの面では遅れていた日本が、「文明開化」のモデルの一つとして選んでいたのは、上からの近代化を行い当時の大国スウェーデンとの北方戦争に勝利したピョートル大帝の改革であった。すなわち、自ら先頭にたって行った西欧の視察旅行を行ったピョートルは、海軍を創設しただけでなく、様々な学校を設立して外国語のできる知識人を養成してロシア帝国の基礎を築いたが、それは岩倉使節団の派遣など明治期の日本の改革にも受け継がれていた。

しかし、ナポレオンが率いる大国フランスとの「祖国戦争」に勝利してポーランドを併合した帝政ロシアでは、若者にも影響力をもち始めていた「自由・平等・友愛」という理念に対抗するために、「ロシアにだけ属する原理」として、「正教・専制・国民性」の三位一体が厳しく教え込まれた。その時代に文壇にデビューしたドストエフスキーは『貧しき人々』などの作品でイソップの言葉を用いて巧みに検閲を避けながら、農奴解放や言論の自由、そして裁判制度の改革を訴えた。1848年にフランスで2月革命が起きてヨーロッパが騒然とすると、ドストエフスキーは文筆活動を続けるかたわら空想社会主義者フーリエの考えを広めるために印刷所を設けようとするなどの活動を秘密裏に行っていた。この頃に書かれたのが初期の佳作『白夜』だが、発表後に逮捕されたドストエフスキーは、偽りの死刑宣告を下された後で、恩赦という形でシベリアに流刑となった。

クリミア戦争後の敗戦後にロシアでは農奴解放や裁判制度の改革などが行われ、首都に帰還したドストエフスキーも兄ミハイルとともに雑誌『時代』を発行してユゴーやポーなど西欧の文学作品の翻訳を掲載するとともに、西欧の思想も伝えた。しかし、1863年のポーランドの反乱で雑誌『時代』が発禁処分を受け、後続の雑誌『世紀』も売れ行きが悪く廃刊となった。

その後でドストエフスキーが1866年に描いたのが、ナポレオンにあこがれて「非凡人の思想」を唱えた若者による「高利貸しの老婆」の殺人と深い苦悩を描いた長編小説『罪と罰』であった。

その頃の日本でも「天誅」という名のテロが頻発しており、『竜馬がゆく』で人を殺さない武士として坂本龍馬を描いた司馬遼太郎は、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と続けていた。

2、大日本帝国の「祭政一致」政策とロシア帝国

「眠れる獅子」と恐れられたアジアの大国・清との日清戦争(1894-95)に勝利して日本は莫大な賠償金と新たな領土を得て大国化へのきっかけをつかむが、司馬遼太郎は1896年に行われた「ニコライ二世の戴冠式に、使節として出席」して、「ギリシア正教で装飾された」、「戴冠式の荘厳さ」を見た山県有朋のロシア帝国観が、1912(明治45)年に起きた、上杉慎吉の天皇主権説と美濃部達吉の天皇機関説との対立を経て1935年の「天皇機関説事件」にも反映している可能性を示唆していた。

すなわち、明治初期にも政府は「廃仏毀釈」運動を試みて失敗していたが、山県有朋にとって「国家的象徴に重厚な装飾を加える」ことが「終生のテーマだった」とした司馬遼太郎は、その理由をニコライ二世の「戴冠式の荘厳さ」に強いショックを受けたからであると説明しているのである(「竜馬像の変遷」『歴史の中の日本』)。

日英同盟を結んで日露戦争に勝利した日本は、ロシア革命が起きるとアメリカなどの連合国ととともにシベリア出兵を行い、当初の約束に反してイルクーツクまでも占領し、傀儡国家の建設の試みも行った。

こうして満州事変後に建国された満州国では「五族協和」や「王道楽土」のスローガンが唱えられたが実態とはかけ離れており、「天皇機関説事件」後の1938年に「国体の本義解説叢書」の一冊として出版された小冊子『我が風土・国民性と文学』には、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無い」と強調されるなど、最もロシア帝国的な価値観に近づいていた。

この時期に高まったのがロシア帝国の制度を全く批判せずにドストエフスキー文学を解釈した小林秀雄の評価であり、1959年には芸術院会員となったことで、彼の歴史観は国家の権威を背景に戦後も現在に至るまで強い影響力を持っている。

一方、昭和初期の重苦しい時期にドストエフスキー文学を愛読していた堀田善衞は、自伝的長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(1968)で隣国を併合した日露両国の制度にも言及しながら『罪と罰』や『白痴』などを深く読み解いている。

3、ペレストロイカの破綻とエリツィン大統領の政策

ソ連のゴルバチョフはソ連においても「プラハの春」のようにペレストロイカ(再建)やグラースノスチ(情報公開)などの政策を打ち出して、遅ればせながら、チェコスロヴァキアで試みられていた「人間の顔をした社会主義」への改革を行い始めていた。しかし、その矢先に起きたチェルノブイリ原発事故はその歩みを大幅に遅らせたばかりでなく、放射能の被害にもあったバルト三国の離反を招き、保守派によるクーデターを鎮圧したエリツィン・ロシア大統領がウクライナ・ベラルーシのソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS) の樹立を宣言したことで1991年にソ連は崩壊した。こうして社会主義と決別したロシアは同時に東スラヴの三国とのつながりを強調するとともに、チェチェンを弾圧するなど民族主義的な国家に復帰した。

しかも、エリツィン・ロシア大統領が、拙速な市場の自由化を行ったことによるハイパーインフレーションが市民の貯蓄に深刻な打撃を与え、さらに国有企業の民営化を行って一部の人間のみに莫大な富を得させた。そのために「エリツィンは共産党政権ができなかったアメリカ型の資本主義の怖さを短期間で味わわせた」との小話も流行るなどロシア国民にアメリカ型の自由主義に対する強い不信感を植え付けていた。

ソ連崩壊後のコソボ紛争の経緯やハンチントンのアメリカの国益の視点から書かれた「文明の衝突」論とともに、問題を武力で一気に解決しようとする傾向がアメリカやNATOで強まったことで、それに対する警戒心が強まり、強引で強力なグローバリゼーションと対抗するようにナショナリズムの高揚が世界の各国で野火のように広がっているという状況も無視しえない。

その一方で、第一次チェチェン紛争での強硬策の失敗や腐敗も見られたために、第二回目の大統領選挙では共産党に僅差まで追い上げられ、新興財閥からの巨額の選挙資金などでかろうじて乗り切ったものの、その後は新興財閥との癒着も強まった。共産党政権の末期には「赤い貴族」が批判されるようになっていたが、エリツィンは政権の末期にはロシア帝国の皇帝のような独裁者に近くなっていた。

エリツィン政権を受け継いだプーチンは大統領になった当初は、エリツィンとの癒着で莫大な富を得ていた新興財閥にも税金を課し、不正を取り締まったことで国民からの支持を得たが、2期目となる2004年には地方の知事を直接選挙から大統領による任命制に改めるなど中央集権化を進め、2020年12月22日には大統領経験者とその家族に対する不逮捕特権を成立させた。こうして、プーチンもエリツィンと同じように独裁者的な傾向を強めたばかりでなくロシア正教会との関係も強めて、「正教・専制・国民性」を国民に強いたニコライ一世の頃のロシア帝国的価値観に近づいていたのである。

4、プーチン大統領と安倍元首相の国家観

こうしてウクライナへの武力侵攻に踏み切ったプーチン大統領の決定や言動は厳しく批判されるべきだが、今回のウクライナ問題の背景にはNATOの東方拡大という問題がある。アウシュビッツなどで悲惨な体験をしたユダヤ人にはそのトラウマからパレスチナにたいする過激な反応も時に見られるが、同じように、西欧のキリスト教とは異なるロシア正教の信者が多く、「大祖国戦争」と呼ばれる第二次世界大戦で三千万人近くが亡くなり、レニングラードの攻防戦では多くの飢餓による死者を出していたロシア人にも同じようなトラウマがあると言えるだろう。また、プーチンの宗教政策の一因には、1610年のポーランド軍によるモスクワ占領という事態に際して、国民に団結を呼びかけ成功していたのがロシア正教会であったという事情も絡んでいると思える。

一方、岸信介氏は昭和初期に東条内閣の閣僚として満州政策に深く関わっていたが、首相として復権すると原爆投下の罪をアメリカ政府に問うことなく、国会で「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ないと答弁する一方で、復古的な価値観への復帰を目指して「改憲」も掲げていた。

1993年に父の地盤を引き継いで衆議院議員に当選した安倍晋三氏は、『大正の青年と帝国の将来』(1916)で「忠君愛国の精神」の重要性を説いた復古的な思想家・徳富蘇峰の書名を連想させるような名称の「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の事務局長を1996年に務めた。

さらに二期目の首相選では「戦後レジーム(体制)からの脱却」を唱えて「神道政治連盟国会議員懇談会」の会長やイギリスのガーディアン紙が「超保守的なロビー団体」と呼ぶ「日本会議」の「国会議員懇談会」特別顧問を務めて復古的な宗教や教育政策の普及に努めている。

その安倍氏が大統領とその家族の不逮捕特権を自らの在任中に制定したプーチン大統領と27回もの会談を重ねていたのは、大日本帝国のモデルの一つであるロシア帝国的な価値観により、皇帝のような絶対的な権力を手に入れようとしていたプーチン大統領の権力を自分も得たいと願っていたためではないかとさえ思える。

このように見てくるとき、現在は国民に「事実」を知らせないで改憲できるようにする「国民投票法改正案」も議論されているが、安倍元首相を自由民主党憲法改正実現本部最高顧問として大々的な宣伝活動を行っている自公与党や維新の掲げる「改憲」や自民党案に記されている「緊急事態条項」は首相の独裁につながり、きわめて危険であると言わねばならない。

最後に断っておきたいのは、プーチン大統領によって多くの市民は沈黙を余儀なくされているが、ドストエフスキーやトルストイの文学を愛し、ペレストロイカの時期を経験してグラースノスチ(情報公開)の重要性を知っているロシアの知識人や民衆の中には明確に反戦の意思を表明するものがかなりいることである。

大日本帝国の時代のように悲惨な戦争に再び巻き込まれないためにも、自民党的な「改憲」の危険性を明確に示し、立憲野党ができる限り協力して参議員選挙を行うことを強く望みたい。

ドストエフスキーの受容と現代

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はじめに

ドストエフスキー生誕200年を迎えた昨年は多くの関連書が出版されて盛り上がり、ロシア文学への関心も高まりましたが、今年に入ってロシア軍が突如ウクライナへの侵攻を始め、戦闘が激化するとロシアのイメージは一転して否定的なものへと激変しました。それゆえ、盛り上がっていたロシア文学への関心も低下し、ドストエフスキー生誕200年に寄せて「しんぶん赤旗日曜版」の11月14日号に寄稿した拙論の意味も薄れたかに感じました。

しかし、「敬神・忠君・愛国」の精神が求められるなど日本が最もロシア帝国的な価値観に近づいた時期に青春を過ごしてドストエフスキーの作品を愛読していた堀田の作品では日露の近代化の類似性と危険性の鋭い分析がなされており、堀田の視線はウクライナ危機に至るソ連崩壊後のロシアや日本の民主主義の危機をもあぶりだしているように思えます。それゆえ、「ドストエフスキーの受容と現代」と改題し、誤記を訂正したうえで拙稿をそのままホームページにアップします。

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作家ドストエフスキー(一八二一~一八八一)は、ナポレオンがセント・ヘレナ島で亡くなった年に父親が医者として勤務するモスクワの貧民救済病院で、新暦の一一月一一日に生まれました。父親のミハイルはナポレオンが率いる大軍と戦い奇跡的に勝利した「祖国戦争」に参戦したことが出世の糸口となり、一八二八年には八等官に昇進して貴族の身分となりました。

 外国にも出兵してナポレオン戦争に勝利したロシア帝国はポーランドを併合してヨーロッパの大国となり、ナショナリズムの高揚も見られました。一方、農奴と呼ばれるような農民の苦しい生活は変わらず、憲法の発布を求めた近衛将校たちの反乱も起きました。しかし、反乱後の一八三三年にはロシア独自の「正教・専制・国民性」の「三位一体」を厳守するように求める「道徳綱領」が出されて検閲制度も強化されました。

 このような時代に『貧しき人々』で作家としてデビューしたドストエフスキーは、農奴制を批判し言論の自由や裁判制度の改革を求めるグループで活動し、『白夜』の発表後に捕らえられました。要塞監獄での尋問にもプーシキンの名前を挙げながら検閲制度を批判したドストエフスキーは、偽りの死刑宣告の後に恩赦という形で酷寒のシベリア流刑となりました。その時の体験を元に監獄の劣悪な状況を描き、絶対的な権力を持つ刑吏と囚人との関係を鋭く分析した『死の家の記録』を書き、巨大な作家へと成長していきます。

 上からの改革を強引に行ったロシアのピョートル大帝の改革をモデルの一つとした日本も急速な「文明開化」に成功しました。日露戦争に勝利した後では韓国を併合し、ロシア革命後にはシベリアにも出兵して満州への足掛かりをつかみます。そして、日中戦争が泥沼に入り込んだ昭和初期には日本独自の「国体」が強調され、「日本への回帰」をうたった「日本浪曼派」や小林秀雄のドストエフスキー論が賛美されるようになったのです。

 たしかに、激情家の面も強いドストエフスキーは、露土戦争に際しては虐げられたバルカン半島のスラブの同胞を救うために軍を派遣すべきだとの主張もしましたが、言論人としての気概は生涯変わりませんでした。『カラマーゾフの兄弟』では自分とは異なる思想の持ち主を火刑にすることも厭わなかったスペインの異端審問制度を「大審問官」の章でイワンに厳しく批判させました。

 ここには、「英雄」には「高利貸しの老婆」のような悪人を殺害することも許されるとしたラスコーリニコフの「非凡人の理論」の破綻と「人類滅亡の悪夢」を見た後での主人公の更生が示唆されている『罪と罰』のテーマの深まりが感じられます。

 このようなドストエフスキー作品の意義を正確に把握したのが、芥川賞作家の堀田善衞(一九一八~一九九八)です。堀田は長編小説『夜の森』で日露戦争以降の両国の複雑な関係を踏まえてシベリア出兵を描き、原爆パイロットをモデルにした長編小説『審判』では『白痴』の人物体系や主人公の心理描写を踏まえて原水爆の危険性を明らかにし、大作『ゴヤ』ではスペインにおけるナポレオンとの戦争や異端審問制度の問題を詳しく描きました。

 ことに友人たちとの交友をとおして重苦しい昭和初期を活き活きと描き出した自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では、『白夜』冒頭の文章が引用されているばかりでなく、堀田が卒業論文のテーマとして選んでいた『白痴』の詳しい考察や『罪と罰』と『悪霊』の感想が記され、『カラマーゾフの兄弟』の愛読者で「大審問官」を熱く論じていた若者が「狂的な国学信奉者」となるまでの変貌も詳しく描かれています。

 これらの堀田善衞の作品を注意深く読み解き、昭和におけるドストエフスキーの受容の問題を考察することは、再び昭和初期と同じように日本の「伝統への回帰」や「改憲」が声高に唱えられるようになってきた現在、ドストエフスキー文学の現代的な意義を明らかにするためにも重要だと思えます。(「しんぶん赤旗日曜版」11月14日号)

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関連論文と書評などは右記を参照⇒『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』(群像社、2021年)

(2023/01/17、ツイートを追加)