高橋誠一郎 公式ホームページ

2022年

『悪霊』と『白痴』の主人公について

はじめに 同時多発テロとウクライナ危機

 本稿は「ドストエーフスキイの全作品を読む会」で2008年12月20日(土)に発表した「『白痴』における虐げられた女性たちの考察――ナスターシャ・フィリポヴナの形象をめぐって」(「読書会通信」№111)の「はじめに」の箇所の一部を削除するとともに加筆修正したものです。

 10年以上も昔の原稿の転載なので今更という気もしますが、亀山郁夫氏は『「悪霊」神になりたかった男』(みすず書房、2005年)の冒頭で、「九月十一日のあの日、ツインタワー崩落のシーンを旅先のテレビで観ながら、私はなぜか不意に『悪霊』の一節に思いをはせ、「神は死んだ」と感じ、テレビを観ているわれわれ全員が神になった、という奇妙な錯覚に囚われたものだった」と書いていました。

 この文章を読んだ際に私は、「告白」のみに焦点を当てる手法と同じようにインパクトはあるが、複雑なアフガニスタンの問題が単純化されており危険だと感じていましたが、今回のロシア軍のウクライナ侵攻でその問題が浮き彫りになったと思いました。それゆえ、 この論考を再掲する前に同時多発テロの問題とベトナム戦争やアフガン戦争の問題を考えておくことにします。

『ドストエーフスキイ広場』(第15号、2006年)に掲載された「SQUARE:亀山郁夫著『「悪霊」神になりたかった男』をめぐって」での指摘や議論を踏まえて執筆したために、「『悪霊』と『白痴』の主人公について」は多少論争的な色合いを帯びています。 なお、「SQUARE」には右記の論考が掲載されました。「少女マトリョーシャ解釈に疑義を呈す」木下豊房、「疑問に思うこと」冷牟田幸子 / 「少女マトリョーシャは、入れ子人形のマトリョーシャか?」福井勝也 / 「木を見て森を知る?」堤崇弘、「感想」熊谷暢芳。)

 同時多発テロに対してブッシュ元大統領は反米テロを繰り返すアルカイダの庇護者とみなされたタリバン政権を転覆させるために同盟国も参加させてアフガニスタンに侵攻してその勢力をほぼ壊滅させ、次いで「ならず者」国家に対しては核兵器による先制攻撃も許されると発言してイラク戦争を開始して勝利しました。しかし、武力での制圧は一時的なものでしかなく、2021年8月15日にタリバンはアフガニスタン全土を支配下においたと宣言し、アメリカ軍も撤退を余儀なくされたのです。その意味では今回のプーチンによるウクライナ侵攻はスターリンだけではなく、「復讐」の戦争を正当化したブッシュ元大統領の言動をも連想させるのです。

 さらに、その戦争に際してブッシュ政権は日本の参戦も強く要求しており、その要求に応えるために戦争法案を強行採決し、今回のウクライナ危機に際しては緊急事態条項を含んだ形で「改憲」を行おうとしている自公与党や維新・国民民主の危険性をも示しているといえるでしょう。なぜならば、1902年に日英同盟を締結して日露戦争に勝利した日本が、「鬼畜」とみなすようになった米英との「大東亜戦争」に踏み切ったのは、それからわずか39年後のことだったからです。ウクライナ危機は「正義の戦争」が第三次世界大戦に拡大する危険性をもはらんでおり、ドストエフスキーの作品を高く評価した堀田善衞が『審判』で示唆していたように、被爆国日本は核戦争の危険性をもきちんと世界に示すべきべきだと思います。

1,堀田善衞の『小国の運命と大国の運命』と私のソ連体験

 軍事力で「プラハの春」を弾圧したソ連軍とワルシャワ条約機構軍によるチェコスロヴァキアへの軍事介を『小国の運命と大国の運命』(1969)で厳しく批判した作家の堀田善衞は、同時にアメリカ軍によるベトナム戦争の問題にも言及することでこの二つの問題が絡んでいることを示唆していました。

 同じ年に発行した連作美術エッセイ『美しきもの見し人は』で堀田は、「原爆水爆とブッヘンワルト・アウシュヴィッツ――現代も、ある意味では黙示録的時代であると言いうるであろう。ヴェトナムでのアメリカの戦争が、第一のラッパであるかないかは、誰にも言えないことである」(『全集』13巻・45頁)と書いていました。

 実際、泥沼のベトナム戦争が終結した後では、「第二のラッパ」とも呼べるソ連軍のアフガニスタン侵攻が1979年に起き、それに対してアメリカがイスラムの原理派を軍事的に援助したことが、1989年のソ連のアフガンからの撤退につながっただけでなく、タリバンの勢力の拡大と「第三のラッパ」とも呼べる9月11日の同時多発テロにもつながっていたのです。

 一方、アメリカがベトナムから撤退したようにソ連もアフガニスタンから撤退せざるを得なくなりましたが、1975年にモスクワ大学に留学してドストエフスキーの初期作品の研究をしていた私は、アメリカがベトナム戦争で抱えることになったのと同じような負の遺産をアフガニスタンへの派兵によってソ連も抱え込んだとのことも後に友人から聞いて知りました。さらに、チェルノブイリ原発事故の際には留学生の引率としてモスクワに滞在しており、この事故がバルト三国などにも与えた影響の大きさを知って激動の時代を予感しました。

 実際、ソ連崩壊後に始まったグローバリゼーションの流れの中でエリツィン大統領が強引に行った急激な市場経済への移行などにより起きたスーパーインフレは市民の貯蓄などにも打撃を与えて生活水準が落ち込み、治安も悪化して「エリツィンは共産党政権ができなかったアメリカ型の資本主義の怖さを短期間で味わわせた」との小話も流行っていた時期も経験しました。ことに、治安が悪化していた1993年の夏に学生寮で強盗にあった際には、殺される確率がかなり高いことを覚悟するとともに、彼らはラスコーリニコフのように「金持ちの外国人」を「悪人」と見なして殺しても後悔することはないだろうと『罪と罰』の世界を肌身で感じたことが、『「罪と罰」を読む――「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、1996年。新版、2000年)執筆の強い動機にもなっていました。

2,『欧化と国粋』から『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』へ

 2002年に上梓した『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(刀水書房)では、当時はハンチントンの「文明の衝突?」が比較文明学会などでも話題になりその危険性も指摘されていたので、グローバリゼーションや新自由主義についての批判もこめて文明論的な視点からシベリア流刑以降のドストエフスキー作品を考察しました。

 すなわち、第1章は「欧化と国粋」の視点から「日本の開国交渉とクリミア戦争」が複雑に絡んでいることを明らかにし、ことに第5章では日本の「対東亜共栄圏」の思想にも影響を与えたと思える好戦的な西欧列強に対抗するためにはナポレオン戦争に勝利したロシア帝国を盟主とする全スラヴ同盟の必要性を説いたダニレフスキーの文明論にも言及しながら、冬に記す夏の印象』の分析を行いました。

 それとともに雑誌『時代』に掲載された『虐げられた人々』の特徴を考察し、『死の家の記録』における「支配と服従」の批判に注意を促して、民衆の描かれ方や「非凡人の思想」の萌芽の分析も行いました。

 しかし、この著作の出版後にはやはりドストエフスキーの原点に迫るためには、「正教・専制・国民性」の三原則の遵守を求められて言論の自由のなかったニコライ一世の治世下の厳しい状況で書かれた『貧しき人々』から『分身』を経て『白夜』に至る初期の作品の詳しい分析が必要だと感じて、『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)を出版しました。

 拙著の序章ではドストエフスキーの作品を「秘密警察によって読まれることを意識した『二枚舌』で」あり、それは「権力に対する隠された抗議というより、むしろ権力との共生を図るための必死のサバイバルの手法」であるとした亀山郁夫氏の『ドストエフスキー 父殺しの文学』(NHK出版、2004年)の見方を批判しました(39頁)。

 第二章「自己と他者の認識と自立の模索」では、『貧しき人々』の人物関係や論理的な筋を詳しく分析することで、『白痴』のムィシキン像につながるジェーヴシキンを亀山氏が「ブイコフの模倣者」であり、「むしろ悪と欲望の側へとワルワーラを使嗾する存在」でもあると規定していたことの問題点を指摘していたのです(110頁)。

 さらに満州事変などが起きた昭和初期に書かれた小林秀雄の『白痴』論に強い批判を持っていた私は、終章「日本の近代化とドストエフスキーの受容」で、「敬神・忠君・愛国」の精神が求められた昭和初期と帝政ロシアの類似性にも注意を払いながら、この時期の日本を描いた堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』にも言及しており、この時の考察が『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』につながりました。

『悪霊』と『白痴』の主人公について (「読書会通信」№111より)

 『「悪霊」神になりたかった男』(みすず書房、2005年)を読んだ私は、亀山氏は多くの重要な登場人物を省いて説明することにより、難解な作品『悪霊』を「分かりやすい」作品とし、さらにスタヴローギンの「告白」のみに焦点を当てることで強烈な印象を生み出すことにも成功していると感じた。長編小説のあらすじも簡単に紹介されており、全体像も伝えられている。

 しかし、理想を目指して行動しながら結局は陰謀家スペシネフに操られたというペトラシェフスキー事件でのドストエフスキー自身やその友人たちの辛い体験や苦悩をもとに描かれたシャートフやキリーロフなどの形象についての分析がほとんどなされていないことに驚かされた。
 『地下室の手記』の分析をとおしてピース IDS 副会長が『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』(のべる出版企画、2006年)で詳しく分析したように、ドストエフスキー作品では論理だけでなく登場人物も「蜘蛛の網」のように緻密にはり巡らされている。それゆえ、相互にきわめて深い関係を有している登場人物の複雑な体系から、重要な人物を除いた形で作品を解釈するとき、作者の意図とは異なった理解を生み出す危険性がある*1。

 そして「テクストというのは、いったん作家の手を離れたが最後、必ずしも書き手のいいなりにならなくてはならない道理はないのです」と書いて、少女マトリョーシャの新しい解釈を示した亀山氏の『悪霊』論はそのような危険性を端的に示していると私には思えたのである*2。
 ただ、亀山氏の『悪霊』論についてはいずれ詳しく論じることにして、ここでは『ドストエフスキー 父殺しの文学』(NHK出版、2004年)における『白痴』論に焦点を絞って論じることにしたい。
 なぜならば、ここでムイシュキンを「残酷なゲームに見入る子どものように無邪気に、死にまつわるエピソードを撒き散らし」、「人々の心をしだいに麻痺」させていく存在と規定した亀山氏は、「かくして偽キリスト、僭称者としてのムイシキンが招換するのは、他でもない次作『悪霊』の主人公スタヴローギンなのです」と続けているからである*3。
 (加筆2)〈しかし、「何よりもこの小説は、過去三十数年、私のドストエフスキー経験の中心につねに位置しつづけてきた小説であり、なかでも「告白」は、原点なのです」(41頁)という『悪霊』についての記述に注目するならば、多少きつい表現になるが、亀山氏は書かれた順番に沿ってではなく、昭和初期に『白痴』論を書いた小林秀雄と同様に、スタヴローギンについての解釈を踏まえて独自のムイシュキン像を創造しているように思える。〉

 『白痴』においてドストエフスキーは、ムイシュキンにフランスの処刑制度を批判させながら「聖書にも『殺すなかれ!』といわれています。それなのに人が人を殺したからといって、その人を殺していいものでしょうか? いいえ、絶対にいけません」と明確に語らせていた*4。
 つまり、決定稿におけるムイシュキンは、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老や、若きアリョーシャにつながる風貌を持っており、ペトラシェフスキー事件をふまえつつ、ネチャーエフ事件に関わったバクーニンなどをモデルとして描いた『悪霊』のスタヴローギンとは決定的に異なると思われるのである(注3)。
 そしてこのような「哲学者」的な風貌を持つムイシュキン像は、5000万人以上の死者を出した第二次世界大戦の反省を踏まえて製作された黒澤明監督の名作「白痴」でも、登場人物を日本人に移し替えながらも、「滑稽」に見えるが、「一番大切な知恵にかけては、世間の人たちの誰よりも、ずっと優れて」いる人物として、きわめて説得的に描き出されていた。そして井桁貞義氏が書いているように、そのようなムイシュキン像は本場ロシアや海外の研究者たちによってきわめて高く評価された*5。
 さらに、新谷敬三郎氏が「初めてみたときの驚き、ドストエフスキイの小説の世界が見事に映像化されている」と書いているように、「ドストエーフスキイの会」に集った日本の研究者たちも、同じような感想を抱いていた。 たとえば、「ドストエフスキーと黒澤明とはいわば私の精神の故郷である。他の多くの人にとってそうであるように」と記した国松氏も、ラストのシーンでアグラーヤ役の綾子が、「そう! ……あの人の様に……人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら……私……私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語っていることに注意を促している*6。
 一方、亀山氏の解釈によれば、「現代の救世主たるムイシキンは、じつは人々を破滅へといざなう悪魔だった。使嗾する神ムイシキン! けっして皮肉な読みではありません。ムイシキンは完全に無力どころか、世界の破滅をみちびく役どころを演じなくてはならない」のである(上、285)。
 黒澤明による『白痴』の映画化が行われてからまだ50年ほどしか経ていない日本で、なぜ『白痴』の主人公の解釈にかくも激しい変化が起きたのだろうか。
 この意味で注目したいのは、 『悪霊』の亀山訳を鋭く批判した木下豊房氏が前掲の論考「少女マトリョーシャ解釈に疑義を呈す」で、当時問題となっていた建築家による「耐震構造」の疑惑の問題に言及しながら、少女マトリョーシャ像に関わる日本語訳が、亀山氏のドストエフスキー論の構造と深く関わっていることを鋭く指摘していることである*7。
 実際、ポリフォニー的な構造を持つ『白痴』の解釈においても、作品の構造を支えているいわば「鉄筋コンクリート」にも相当するようなアグラーヤやガーニャだけでなく、ムイシュキンの厳しい批判者でもあったイポリートなどの重要な登場人物の解釈がほとんど省かれることで、ムイシュキン像がドストエフスキーが意図したものとは正反対となった可能性が強いのである*8。
 一方、私自身はキリスト者ではないが、初めて『白痴』を読んだときからムイシュキンという主人公に軽薄な「ゲーム・マニア」のような若者ではなく、ドストエフスキーが与えようとした「キリスト公爵」としての風貌の一端を感じ、彼が語る「哲学」からは強い知的刺激や励ましをも受けてきた*9。
 『カラマーゾフの兄弟』の新訳が100万部を越えるようなベストセラーとなるなど亀山氏のドストエフスキー論は、すでに社会現象化して若い読者だけでなく研究者にも影響力を持ち始めているが、大胆な見解をきわめて率直に示した氏は「愛読者からの厳しい批判」を謙虚に求めている(下、314)。
  それゆえ次回は発表の本論である「『白痴』における虐げられた女性たちの考察」に大幅な加筆をすることにより、私が考える『白痴』の現代的な意義を亀山氏だけでなくドストエフスキーの研究者にも率直に提示するので、忌憚のないご批判を頂ければ幸いである。

*1 高橋「テーマの強調と登場人物の省略の手法をめぐって――『白痴』におけるムイシュキンとガーニャとの関係を中心に」『ドストエフスキー曼荼羅』第2号、2008年11月参照。 / *2 少女マトリョーシャをマゾヒストとする亀山氏の解釈やその年齢の扱い、さらにはスタヴローギンが『「悪霊」神になりたかった男』と題した著作の主人公となっていることなどの問題については、「SQUARE」にされた前記の論考の他、萩原俊治「ドストエフスキーの壺の壺」『江古田文学』第66号、長瀬隆「亀山郁夫氏を批判する」(ホームページ)などに詳しい。/ *3 亀山郁夫『ドストエフスキー 父殺しの文学』上巻、NHK出版、2004年、285頁。(以下、同書からの引用は、本文中に巻数と頁数のみを記す)。/ *4 訳は木村浩訳の『白痴』(新潮文庫)による。(以下、同書からの引用は、本文中に編と章をアラビア数字で記す)。/ *5井桁貞義「ドストエーフスキイの世界感覚」、『全集黒澤明月報3』、1988年、および「ドストエフスキイと黒澤明 ――『白痴』をめぐる語らい」『ロシア文化の森へ――比較文化の総合研究』第2集、ナダ出版センター、2006年、664~681頁。/ *6 新谷敬三郎「黒沢明『白痴』を見る」「ドストエーフスキイの会会報」39号、1975年。『場』第2号、110頁参照。/ *7 木下豊房氏は日本におけるドストエフスキーの受容を詳しく考察した商品としてのドストエフスキー ―商業出版とマスメディアとにおける作家像-」(『ドストエーフスキイ広場』№22、2013年。『ドストエフスキーの作家像』鳥影社、2016年に再録)で、『謎とき「悪霊」』にも言及して亀山氏の『悪霊』解釈の問題点を鋭く指摘している。/ *8 高橋「『白痴』における〈自己〉と〈他者〉(1)――哲学者ムイシュキンと肺病患者イポリートの形象をめぐって」『人間の場から』第46号、1998年参照。/ *9 高橋「私のドストエフスキー体験――世代論の視点から」『江古田文学』第66号、2007年、30~39頁。

ドストエーフスキイの会、総会と262回例会(報告者:杉里直人氏、町田航大氏)のご案内

遅くなりましたが、「ニュースレター」(No.163)より転載します。

日 時2022年5月29日(日)午後1時~5時         

開催形式:当会会員限定のZoom(オンライン)

総会(午後1時~2時);議題・会計報告、運営体制、予算案など

例会報告者:杉里直人 氏

 題 目: 《童の夢》はいかに作られているか

報告者:町田航大 氏

 題 目:いま、ドストエフスキーの言葉がいかに歪曲されているか

 〇 例会の参加方法

 Zoomによる参加希望者は、5月23日(月)までに、受付用アドレス<kaidost@yahoo.co.jp    にメールを送信してください。非会員で、会員の紹介による場合はその旨お書き添えください。5月25日(水)<予定>に返信メールでZoomログイン用URLをお知らせします。なお前回例会参加者には自動的に送信します。

報告者紹介

杉里直人(すぎさと なおと)一九五六年生まれ。ドストエフスキー研究・翻訳。最近の論文に「ドストエフスキーは細部に宿る」(井桁貞義・伊東一郎編『ドストエフスキーとの対話』水声社、二〇二一年所収)がある。翻訳書にバフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』(『ミハイル・バフチン全著作』第七巻、水声社、二〇〇七年)、ドストエフスキー『詳注版 カラマーゾフの兄弟』(水声社、二〇二〇年)ほかがある。

町田航大(まちだ こうだい) 早稲田大学大学院文学研究科ロシア語ロシア文化コース修士課程所属。同大学文学部東洋哲学コースを卒業後、社会人を経て、大学院からドストエフスキー作品の宗教性をテーマに研究している。現在、『カラマーゾフの兄弟』における旧約聖書ヨブ記の構造的影響についての考察を軸に修士論文を執筆中。

262回例会報告要旨

  《童の夢》はいかに作られているか

  今回の報告では、『カラマーゾフの兄弟』第九編第八章「証人たちの供述。童の夢」の挿話《童の夢》を取りあげる。《童の夢》は原文で一頁半、七十五行の短いエピソードである。ドミートリー・カラマーゾフはフョードル殺しの重要参考人として、遊興先で身柄を確保され、検事と司法取調官による徹夜の取調べを受ける。この《地獄めぐり》の試練に彼は心身ともに疲弊し、取調べが終わったとたん、突然睡魔に襲われて、眠りこみ、奇態な夢を見る。だが、その夢がまったく思いもよらない奇蹟的な治癒効果を発揮し、彼に魂の新生をもたらす。《童の夢》は主人公におのが存在自体の根源的な有罪性を自覚させる決定的なモメントになる(啓示としての夢)。これは『カラマーゾフ』のクライマックスの一つである。プロット構成の面では物語の折り返し点にあって、同時刻にアレクセイが見る夢《ガリラヤのカナ》と並行関係にあり、主題論的にはイワンの《反抗》のモチーフ《子どもの涙》と対応関係にある。

 本報告では形式的な観点からテクスト分析を行なう。《童の夢》の叙述はもっぱら単文の積み重ねによって簡潔・スピーディに構築され、まれに挟みこまれる複雑な総合文が主人公の感情の昂揚、その魂の死と再生をひときわ鮮明に描出する。その文体はいとも特徴的である。たとえば、夢見本体は不完了体・現在時制(いわゆる「歴史的現在」)が優勢であり、前後の覚醒時の完了体・過去による記述を枠構造として持ち、画然たる対称をなしていて美しい。ほかにも、「なぜ」という疑問副詞の十二回の使用、同語の執拗な反復、暗色の支配する世界から明への色彩の急激な転換、《光》のモチーフの出現など、ドストエフスキーは修辞的な技巧の限りをつくして、テクストの細部に陰影豊かな仕掛けを施す。

 『カラマーゾフ』での類似の記述や、『罪と罰』の《馬殺しの夢》なども合わせて取りあげ、その共通点と相違点をも明らかにしたい。

いま、ドストエフスキーの言葉がいかに歪曲されているか 

ロシア軍によるウクライナへの軍事侵攻は世界中に恐怖と衝撃を与えている。ロシア文化研究者は、この戦争のショックとロシア政府に対する憤りが、文化的に密接した関係にあるウクライナとロシアを安易な対立図式によって分断する事態を招き、その分断がロシア文化に対する見方にも悪影響を及ぼすのではないかという懸念を表明している。

発表者も同様の問題意識から調査を行ったところ、このウクライナとロシアの対立と分断が、ドストエフスキーの言葉の解釈という領域に入り込んでいる事例を確認した。それは、ドストエフスキーが自身の個人雑誌『作家の日記』(1876-1877)のなかでロシアや西欧、スラヴ民族について当時語った言葉が、クリミア併合から現在に至る経過のなかで、ウクライナ、ロシア双方の一部メディアによって恣意的に切り取られ、両国の対立を煽る目的で利用されている現象である。

本発表はそのような事例を紹介しつつ、作家・評論家ドストエフスキーの紡いだ言葉が、戦争のもたらす混乱のなかで単純化されてしまう問題について報告する。その上で、作家や文学が歪曲にさらされる危機に対しどのように対応していくべきかを考えたい。

従来のドストエフスキー研究では、小説作品に対する多種多様なアプローチがなされてきた一方、『作家の日記』をはじめとする評論作品にはあまり関心が向けられてこなかったように思われる。ロシアの民衆やキリスト教などに関するドストエフスキー自身の見解を『作家の日記』から参照することはあっても、この作品そのものが有する具体的性格や文体的特徴、この作品内で提示された作者の見解の背景などについて、歴史的文脈に照らした綿密な研究が十分なされてきたとは言い難い。本発表ではこうした状況をふまえ、作者自身の意図と無関係に『作家の日記』を引用する行為がいかなる問題を孕んでいるかを指摘しつつ、『作家の日記』自体の専門的研究を行う意義を改めて問い直したい。

*   *   *

例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

ドストエフスキーの受容とウクライナ危機――ロシア帝国的価値観と「改憲」の危険性

はじめに ウクライナ危機と日本

ドストエフスキー生誕200年を迎えた昨年は、多くの関連書が出版されてロシア文学への関心も高まった。しかし、今年に入ってロシア軍が突如ウクライナへの侵攻を始め、戦闘が激化するとロシアのイメージは一転して否定的なものへと激変し、「独裁者の暴走」などの見出しも踊るようになり、ツイッターなどでプーチン大統領をたたえていた人々も一斉に激しい非難を始めた。

むろん、武力による攻撃を行い続けているプーチン大統領に弁護の余地はない。しかし、日本の報道機関などはロシアの問題だけを詳しく伝えているが、今回のウクライナ危機の問題はプーチン政権の危険性だけではなく、安倍元首相の「憲法」観の危険性や日本の「権力者の暴走」の可能性をもあぶりだしている側面もあると思える。

なぜならば、クリミアを併合したプーチン大統領と27回もの会談を行い、ファーストネームで「ウラジーミル」と呼びかけて「君と僕は、同じ未来を見ている」と語っていたことは、ふたりがロシア帝国的価値観を共有していた可能性もあるからである。

以下、多少これまでに書いてきたことと重複する箇所もあるが、まず第1節ではドストエフスキーの作品にも言及しながらロシア帝国が明治国家の近代化のモデルの一つであったことを確認する。第2節では日清戦争に勝利した後には大日本帝国の「祭政一致」政策のモデルともされていることを堀田善衞の自伝的長編小説『若き日の詩人たちの肖像』などを通して検証する。

第3節ではペレストロイカ政策とその破綻を概観したあとで、ロシアの初代大統領となったエリツィン政権の政策とそれを受け継いだプーチン大統領の問題を考察する。第4節では昭和初期に東条内閣の閣僚として満州政策に深く関わりながら戦後に首相として復権した岸信介氏とその孫で「改憲」を目指す安倍元首相の国家観をプーチン大統領の国家観と比較する。

1、日本の近代化のモデルとしてのロシア帝国 

「日露戦争」の勝利の意義を強調している安倍元首相は明治維新をも賛美しているが、工業や軍備などの面では遅れていた日本が、「文明開化」のモデルの一つとして選んでいたのは、上からの近代化を行い当時の大国スウェーデンとの北方戦争に勝利したピョートル大帝の改革であった。すなわち、自ら先頭にたって行った西欧の視察旅行を行ったピョートルは、海軍を創設しただけでなく、様々な学校を設立して外国語のできる知識人を養成してロシア帝国の基礎を築いたが、それは岩倉使節団の派遣など明治期の日本の改革にも受け継がれていた。

しかし、ナポレオンが率いる大国フランスとの「祖国戦争」に勝利してポーランドを併合した帝政ロシアでは、若者にも影響力をもち始めていた「自由・平等・友愛」という理念に対抗するために、「ロシアにだけ属する原理」として、「正教・専制・国民性」の三位一体が厳しく教え込まれた。その時代に文壇にデビューしたドストエフスキーは『貧しき人々』などの作品でイソップの言葉を用いて巧みに検閲を避けながら、農奴解放や言論の自由、そして裁判制度の改革を訴えた。1848年にフランスで2月革命が起きてヨーロッパが騒然とすると、ドストエフスキーは文筆活動を続けるかたわら空想社会主義者フーリエの考えを広めるために印刷所を設けようとするなどの活動を秘密裏に行っていた。この頃に書かれたのが初期の佳作『白夜』だが、発表後に逮捕されたドストエフスキーは、偽りの死刑宣告を下された後で、恩赦という形でシベリアに流刑となった。

クリミア戦争後の敗戦後にロシアでは農奴解放や裁判制度の改革などが行われ、首都に帰還したドストエフスキーも兄ミハイルとともに雑誌『時代』を発行してユゴーやポーなど西欧の文学作品の翻訳を掲載するとともに、西欧の思想も伝えた。しかし、1863年のポーランドの反乱で雑誌『時代』が発禁処分を受け、後続の雑誌『世紀』も売れ行きが悪く廃刊となった。

その後でドストエフスキーが1866年に描いたのが、ナポレオンにあこがれて「非凡人の思想」を唱えた若者による「高利貸しの老婆」の殺人と深い苦悩を描いた長編小説『罪と罰』であった。

その頃の日本でも「天誅」という名のテロが頻発しており、『竜馬がゆく』で人を殺さない武士として坂本龍馬を描いた司馬遼太郎は、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と続けていた。

2、大日本帝国の「祭政一致」政策とロシア帝国

「眠れる獅子」と恐れられたアジアの大国・清との日清戦争(1894-95)に勝利して日本は莫大な賠償金と新たな領土を得て大国化へのきっかけをつかむが、司馬遼太郎は1896年に行われた「ニコライ二世の戴冠式に、使節として出席」して、「ギリシア正教で装飾された」、「戴冠式の荘厳さ」を見た山県有朋のロシア帝国観が、1912(明治45)年に起きた、上杉慎吉の天皇主権説と美濃部達吉の天皇機関説との対立を経て1935年の「天皇機関説事件」にも反映している可能性を示唆していた。

すなわち、明治初期にも政府は「廃仏毀釈」運動を試みて失敗していたが、山県有朋にとって「国家的象徴に重厚な装飾を加える」ことが「終生のテーマだった」とした司馬遼太郎は、その理由をニコライ二世の「戴冠式の荘厳さ」に強いショックを受けたからであると説明しているのである(「竜馬像の変遷」『歴史の中の日本』)。

日英同盟を結んで日露戦争に勝利した日本は、ロシア革命が起きるとアメリカなどの連合国ととともにシベリア出兵を行い、当初の約束に反してイルクーツクまでも占領し、傀儡国家の建設の試みも行った。

こうして満州事変後に建国された満州国では「五族協和」や「王道楽土」のスローガンが唱えられたが実態とはかけ離れており、「天皇機関説事件」後の1938年に「国体の本義解説叢書」の一冊として出版された小冊子『我が風土・国民性と文学』には、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無い」と強調されるなど、最もロシア帝国的な価値観に近づいていた。

この時期に高まったのがロシア帝国の制度を全く批判せずにドストエフスキー文学を解釈した小林秀雄の評価であり、1959年には芸術院会員となったことで、彼の歴史観は国家の権威を背景に戦後も現在に至るまで強い影響力を持っている。

一方、昭和初期の重苦しい時期にドストエフスキー文学を愛読していた堀田善衞は、自伝的長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(1968)で隣国を併合した日露両国の制度にも言及しながら『罪と罰』や『白痴』などを深く読み解いている。

3、ペレストロイカの破綻とエリツィン大統領の政策

ソ連のゴルバチョフはソ連においても「プラハの春」のようにペレストロイカ(再建)やグラースノスチ(情報公開)などの政策を打ち出して、遅ればせながら、チェコスロヴァキアで試みられていた「人間の顔をした社会主義」への改革を行い始めていた。しかし、その矢先に起きたチェルノブイリ原発事故はその歩みを大幅に遅らせたばかりでなく、放射能の被害にもあったバルト三国の離反を招き、保守派によるクーデターを鎮圧したエリツィン・ロシア大統領がウクライナ・ベラルーシのソ連からの離脱と独立国家共同体(CIS) の樹立を宣言したことで1991年にソ連は崩壊した。こうして社会主義と決別したロシアは同時に東スラヴの三国とのつながりを強調するとともに、チェチェンを弾圧するなど民族主義的な国家に復帰した。

しかも、エリツィン・ロシア大統領が、拙速な市場の自由化を行ったことによるハイパーインフレーションが市民の貯蓄に深刻な打撃を与え、さらに国有企業の民営化を行って一部の人間のみに莫大な富を得させた。そのために「エリツィンは共産党政権ができなかったアメリカ型の資本主義の怖さを短期間で味わわせた」との小話も流行るなどロシア国民にアメリカ型の自由主義に対する強い不信感を植え付けていた。

ソ連崩壊後のコソボ紛争の経緯やハンチントンのアメリカの国益の視点から書かれた「文明の衝突」論とともに、問題を武力で一気に解決しようとする傾向がアメリカやNATOで強まったことで、それに対する警戒心が強まり、強引で強力なグローバリゼーションと対抗するようにナショナリズムの高揚が世界の各国で野火のように広がっているという状況も無視しえない。

その一方で、第一次チェチェン紛争での強硬策の失敗や腐敗も見られたために、第二回目の大統領選挙では共産党に僅差まで追い上げられ、新興財閥からの巨額の選挙資金などでかろうじて乗り切ったものの、その後は新興財閥との癒着も強まった。共産党政権の末期には「赤い貴族」が批判されるようになっていたが、エリツィンは政権の末期にはロシア帝国の皇帝のような独裁者に近くなっていた。

エリツィン政権を受け継いだプーチンは大統領になった当初は、エリツィンとの癒着で莫大な富を得ていた新興財閥にも税金を課し、不正を取り締まったことで国民からの支持を得たが、2期目となる2004年には地方の知事を直接選挙から大統領による任命制に改めるなど中央集権化を進め、2020年12月22日には大統領経験者とその家族に対する不逮捕特権を成立させた。こうして、プーチンもエリツィンと同じように独裁者的な傾向を強めたばかりでなくロシア正教会との関係も強めて、「正教・専制・国民性」を国民に強いたニコライ一世の頃のロシア帝国的価値観に近づいていたのである。

4、プーチン大統領と安倍元首相の国家観

こうしてウクライナへの武力侵攻に踏み切ったプーチン大統領の決定や言動は厳しく批判されるべきだが、今回のウクライナ問題の背景にはNATOの東方拡大という問題がある。アウシュビッツなどで悲惨な体験をしたユダヤ人にはそのトラウマからパレスチナにたいする過激な反応も時に見られるが、同じように、西欧のキリスト教とは異なるロシア正教の信者が多く、「大祖国戦争」と呼ばれる第二次世界大戦で三千万人近くが亡くなり、レニングラードの攻防戦では多くの飢餓による死者を出していたロシア人にも同じようなトラウマがあると言えるだろう。また、プーチンの宗教政策の一因には、1610年のポーランド軍によるモスクワ占領という事態に際して、国民に団結を呼びかけ成功していたのがロシア正教会であったという事情も絡んでいると思える。

一方、岸信介氏は昭和初期に東条内閣の閣僚として満州政策に深く関わっていたが、首相として復権すると原爆投下の罪をアメリカ政府に問うことなく、国会で「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ないと答弁する一方で、復古的な価値観への復帰を目指して「改憲」も掲げていた。

1993年に父の地盤を引き継いで衆議院議員に当選した安倍晋三氏は、『大正の青年と帝国の将来』(1916)で「忠君愛国の精神」の重要性を説いた復古的な思想家・徳富蘇峰の書名を連想させるような名称の「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の事務局長を1996年に務めた。

さらに二期目の首相選では「戦後レジーム(体制)からの脱却」を唱えて「神道政治連盟国会議員懇談会」の会長やイギリスのガーディアン紙が「超保守的なロビー団体」と呼ぶ「日本会議」の「国会議員懇談会」特別顧問を務めて復古的な宗教や教育政策の普及に努めている。

その安倍氏が大統領とその家族の不逮捕特権を自らの在任中に制定したプーチン大統領と27回もの会談を重ねていたのは、大日本帝国のモデルの一つであるロシア帝国的な価値観により、皇帝のような絶対的な権力を手に入れようとしていたプーチン大統領の権力を自分も得たいと願っていたためではないかとさえ思える。

このように見てくるとき、現在は国民に「事実」を知らせないで改憲できるようにする「国民投票法改正案」も議論されているが、安倍元首相を自由民主党憲法改正実現本部最高顧問として大々的な宣伝活動を行っている自公与党や維新の掲げる「改憲」や自民党案に記されている「緊急事態条項」は首相の独裁につながり、きわめて危険であると言わねばならない。

最後に断っておきたいのは、プーチン大統領によって多くの市民は沈黙を余儀なくされているが、ドストエフスキーやトルストイの文学を愛し、ペレストロイカの時期を経験してグラースノスチ(情報公開)の重要性を知っているロシアの知識人や民衆の中には明確に反戦の意思を表明するものがかなりいることである。

大日本帝国の時代のように悲惨な戦争に再び巻き込まれないためにも、自民党的な「改憲」の危険性を明確に示し、立憲野党ができる限り協力して参議員選挙を行うことを強く望みたい。

ドストエフスキーの受容と現代

はじめに

ドストエフスキー生誕200年を迎えた昨年は多くの関連書が出版されて盛り上がり、ロシア文学への関心も高まりましたが、今年に入ってロシア軍が突如ウクライナへの侵攻を始め、戦闘が激化するとロシアのイメージは一転して否定的なものへと激変しました。それゆえ、盛り上がっていたロシア文学への関心も低下し、ドストエフスキー生誕200年に寄せて「しんぶん赤旗日曜版」の11月14日号に寄稿した拙論の意味も薄れたかに感じました。

しかし、「敬神・忠君・愛国」の精神が求められるなど日本が最もロシア帝国的な価値観に近づいた時期に青春を過ごしてドストエフスキーの作品を愛読していた堀田の作品では日露の近代化の類似性と危険性の鋭い分析がなされており、堀田の視線はウクライナ危機に至るソ連崩壊後のロシアや日本の民主主義の危機をもあぶりだしているように思えます。それゆえ、「ドストエフスキーの受容と現代」と改題し、誤記を訂正したうえで拙稿をそのままホームページにアップします。

この後ではウクライナ危機の展開を踏まえて日露の近代化の問題点を掘り下げた論考「ウクライナ危機と日本の危機――ロシア帝国的価値観と「改憲」の危険性」(仮題)を掲載する予定です。

  *   *   *

作家ドストエフスキー(一八二一~一八八一)は、ナポレオンがセント・ヘレナ島で亡くなった年に父親が医者として勤務するモスクワの貧民救済病院で、新暦の一一月一一日に生まれました。父親のミハイルはナポレオンが率いる大軍と戦い奇跡的に勝利した「祖国戦争」に参戦したことが出世の糸口となり、一八二八年には八等官に昇進して貴族の身分となりました。

 外国にも出兵してナポレオン戦争に勝利したロシア帝国はポーランドを併合してヨーロッパの大国となり、ナショナリズムの高揚も見られました。一方、農奴と呼ばれるような農民の苦しい生活は変わらず、憲法の発布を求めた近衛将校たちの反乱も起きました。しかし、反乱後の一八三三年にはロシア独自の「正教・専制・国民性」の「三位一体」を厳守するように求める「道徳綱領」が出されて検閲制度も強化されました。

 このような時代に『貧しき人々』で作家としてデビューしたドストエフスキーは、農奴制を批判し言論の自由や裁判制度の改革を求めるグループで活動し、『白夜』の発表後に捕らえられました。要塞監獄での尋問にもプーシキンの名前を挙げながら検閲制度を批判したドストエフスキーは、偽りの死刑宣告の後に恩赦という形で酷寒のシベリア流刑となりました。その時の体験を元に監獄の劣悪な状況を描き、絶対的な権力を持つ刑吏と囚人との関係を鋭く分析した『死の家の記録』を書き、巨大な作家へと成長していきます。

 上からの改革を強引に行ったロシアのピョートル大帝の改革をモデルの一つとした日本も急速な「文明開化」に成功しました。日露戦争に勝利した後では韓国を併合し、ロシア革命後にはシベリアにも出兵して満州への足掛かりをつかみます。そして、日中戦争が泥沼に入り込んだ昭和初期には日本独自の「国体」が強調され、「日本への回帰」をうたった「日本浪曼派」や小林秀雄のドストエフスキー論が賛美されるようになったのです。

 たしかに、激情家の面も強いドストエフスキーは、露土戦争に際しては虐げられたバルカン半島のスラブの同胞を救うために軍を派遣すべきだとの主張もしましたが、言論人としての気概は生涯変わりませんでした。『カラマーゾフの兄弟』では自分とは異なる思想の持ち主を火刑にすることも厭わなかったスペインの異端審問制度を「大審問官」の章でイワンに厳しく批判させました。

 ここには、「英雄」には「高利貸しの老婆」のような悪人を殺害することも許されるとしたラスコーリニコフの「非凡人の理論」の破綻と「人類滅亡の悪夢」を見た後での主人公の更生が示唆されている『罪と罰』のテーマの深まりが感じられます。

 このようなドストエフスキー作品の意義を正確に把握したのが、芥川賞作家の堀田善衞(一九一八~一九九八)です。堀田は長編小説『夜の森』で日露戦争以降の両国の複雑な関係を踏まえてシベリア出兵を描き、原爆パイロットをモデルにした長編小説『審判』では『白痴』の人物体系や主人公の心理描写を踏まえて原水爆の危険性を明らかにし、大作『ゴヤ』ではスペインにおけるナポレオンとの戦争や異端審問制度の問題を詳しく描きました。

 ことに友人たちとの交友をとおして重苦しい昭和初期を活き活きと描き出した自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では、『白夜』冒頭の文章が引用されているばかりでなく、堀田が卒業論文のテーマとして選んでいた『白痴』の詳しい考察や『罪と罰』と『悪霊』の感想が記され、『カラマーゾフの兄弟』の愛読者で「大審問官」を熱く論じていた若者が「狂的な国学信奉者」となるまでの変貌も詳しく描かれています。

 これらの堀田善衞の作品を注意深く読み解き、昭和におけるドストエフスキーの受容の問題を考察することは、再び昭和初期と同じように日本の「伝統への回帰」や「改憲」が声高に唱えられるようになってきた現在、ドストエフスキー文学の現代的な意義を明らかにするためにも重要だと思えます。(「しんぶん赤旗日曜版」11月14日号、改訂版)

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関連論文と書評などは右記を参照⇒『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』(群像社、2021年)

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司馬遼太郎のドストエフスキー観  (5)「人類滅亡の悪夢」の直視

 堀場正夫は真珠湾攻撃の翌年に出版された『英雄と祭典』において 、『罪と罰』を「『ヨーロッパ近代の理知の歴史』とその『受難者』ラスコーリニコフの物語」ととらえ、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なしていた。 むろん、このような読みは現在のレベルでの研究を踏まえた上での読みから見れば、明らかな「誤読」であると言える。

 しかし、堀場正夫の「誤読」には、時代的な背景もあった。ニーチェによるドストエフスキー理解を踏まえたシェストフは、ドストエフスキーをも「超人思想」の提唱者であり、「悲劇の哲学」の創始者の一人とした。このようなシェストフの解釈が日本でも受け入れられる中で、優れた批評家であった小林秀雄ですらも、『罪と罰』のエピローグではラスコーリニコフは影のような存在になっていると指摘して、書かれている彼の更生を否定していた(小林秀雄『ドストエフスキイ』講談社、昭和四一年、二七五頁)。それは「近代人が近代に勝つのは近代によってである」とした彼の近代観から導かれたものでもあった (河上徹太郎、竹内好他『近代の超克』富山房百科文庫、昭和五四年、二四七頁)。

一方、司馬遼太郎は真珠湾攻撃の後で「近代の超克」を謳って河上徹太郎や小林秀雄など日本の一流の知識人が行い、この「当時の読者に大きな衝撃を与えた」座談会について、当時は「読みはしたものの難しかった」ので、「よくわからなかった」と認めた。しかし司馬は、現在読み返してみると「基本的におかしなことは」、「ここでいう超克すべき近代というのは、要するにヨーロッパの近代」であり、当時の一流の知識人たちが江戸時代に培われた日本の文化的伝統をまったく無視していると指摘している。こうして司馬は、「ヨーロッパの近代に対して、太平洋戦争の開幕のときの不意打ち成功によって、日本のインテリは溜飲を下げた」が、「それは嘘の下がり方なんですよ」と厳しく批判したのである(「買い続けた西欧近代」『「昭和」という国家』)。

 この時司馬は「西欧派とスラヴ派」の激しい対立にゆれた近代ロシアにおいて、「大地主義」の視点から「西欧派と国粋派」の和解だけでなく、「知識人と民衆」との和解の可能性をも探求した『罪と罰』の意義を理解していたと言えるだろう。つまり、彼が『菜の花の沖』の主人公で、ナポレオンと同じ年に生まれた高田屋嘉兵衛に「好んでいくさを催し、人を害する国は、国政悪しき故」と語らせている背景には、ナポレオン以降の「自国中心」の歴史観を、「自己中心の迷妄」と断じたトインビーと同じような歴史認識があったのである(トインビー、長谷川松治訳『歴史の研究』第二巻、社会思想社、昭和四二年、七五~六頁)。

加筆(2022/04/30)【東京大空襲を体験した後で国際文化振興会の上海資料調査室に赴任した堀田善衞は、広島と長崎に原子爆弾が投下された後には「日本民族も放射能によって次第に絶えて行くのだ」という流言を聞いて、『ヨハネの黙示録』の次のような文章の恐ろしさを実感していた。

「第一の御使(みつかひ)ラッパを吹きしに、血の混りたる雹(へう)と火とありて地にふりくだり、地の三分の一焼け失せ、樹(き)の三分の一、焼け失せ、もろもろの青草(あをくさ)焼け失せたり」

 この時、堀田は『罪と罰』のエピローグでラスコーリニコフが流刑地のシベリアで見た、「知力と意志を授けられた」「旋毛虫」におかされ自分だけが真理を知っていると思いこんだ人々が、互いに自分の真理を主張して殺し合いを始め、ついには地球上に数名の者しか残らなかったという夢が、単なる悪夢ではなく、現実にも起こりうることを実感したはずである。

 実際、「高利貸しの老婆」を悪人と規定して殺害していたラスコーリニコフに対して司法取締官のポルフィーリイは、「あの婆さんを殺しただけですんで、まだよかったですよ。もし別の理論を考えついておられたら、幾億倍も醜悪なことをしておられたかもしれない」とラスコーリニコフに語っていたが、ヒトラーの「非凡民族」という理論は実際にユダヤ人虐殺という醜悪な結果を招いていた。 さらに化学兵器はその非人道性ゆえに禁止されたが、広島と長崎に投下された原子爆弾の悲惨さが隠蔽されたために、原水爆は禁止されなかったためにその実験でも多大の被害を生み出し、それはチェルノブイリ原発事故と福島第一原子力発電所の事故にもつながった。】

 一方、ドストエフスキーは長編小説『罪と罰』において、「近代的な知」に囚(とら)われて自分をナポレオンと同じ様な「非凡人」と考え、自分が「悪人」とみなした「他者の殺人」をも正当化したラスコーリニコフの悲劇を描き出すとともに、そのエピローグではシベリアの流刑地で「人類滅亡」の悪夢を見させることにより、自己中心的な「非凡人の思想」が、自国中心的な「国民国家」史観に基づいていることを示唆して、「自国の正義」や「報復の権利」を主張して、限りなく大規模化する近代戦争の危険性を明らかにしていた。

 そして、エピローグでは主人公をぺテルブルクから遠く離れたシベリアの大地で暮らさせることにより、森や泉の尊さや民衆の「英知」にも気づいた彼の「復活」を描き出して、「自然支配」の思想との決別をも描いていたのである(高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、二〇〇〇年、第九章「鬼」としての他者、および第一〇章「他者としての自然」参照)。

  「地面を投機の対象にして物狂い」をした現象に対して司馬も、「日本国の国土は、国民が拠って立ってきた地面なのである」とし、「大地」に対する哲学的な見方の変革を求め、「でなければ、日本国に明日はない」と結んだ(『風塵抄』Ⅱ)。さらに、「樹木と人」という講演で司馬は、「ソ連のチェルノブイリの原子炉」の事故で「死の灰が各地で降って大騒ぎ」になったことにふれて、「この事件は大気というものは地球を漂流していて、人類は一つである、一つの大気を共有している。さらにいえばその生命は他の生物と同様、もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」と語り、言葉を続けて一九八〇年代になって、「ようやく、われわれは地球の緑をすべて守らなければいけない、切ったら必ず植えなければいけない、そして生態系を変えるような切り方はしてはいけない」ことに気づいたのだと強調した(「樹木と人」『十六の話』)。

 しかも、ロシア帝国の貴族たちと日本の高級官僚との類似を意識しながら司馬は、日露戦争のあとで「教育機関と試験制度による人間が、あらゆる分野を占めた」が、「官僚であれ軍人であれ」、「それぞれのヒエラルキーの上層を占めるべく約束されていた」彼らは、「かつて培われたものから切り離されたひとびとで」あり、「わが身ひとつの出世ということが軸になっていた」とした(「あとがき」『ロシアについて』)。それはロシアの大地から遊離したロシアの知識人に対するドストエフスキーの鋭い批判とも重なり合うのである。そして司馬は、これらの官僚や軍人たちは「自分たちが愛国者だと思っていた。さらには、愛国というものは、国家を他国に対し、狡猾に立ちまわらせるものだと信じていた」とし、「それを支持したり、煽動したりする言論人の場合も、そうだった」と厳しく批判したのである。

 さらに、ノモンハン事件の研究者クックは、戦前の日本では、国家があれほどの無茶をやっているのに、国民は「羊飼いの後に黙々と従う」羊だったではありませんかと司馬に問い質したが、この指摘の正しさを認めた司馬も、大蔵省のかけ声のもとに国民がこぞって金儲けに走った問題にふれて、「日本は、いま世界でいちばん住みにくい国になっています。そのことを、ほとんどの人が感じ始めている。『ノモンハン』が続いているのでしょうな」と続けた(「ノモンハンの尻尾」『東と西』)。

 加筆(2022/04/30)【「司馬史観」論争で司馬が右派の思想家とされてしまったために、残念ながら司馬の言説は説得力を失ってしまった。しかし、すでに『竜馬がゆく』(文春文庫)で幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘した司馬遼太郎は、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と記していた。

 晩年の『この国のかたち』(第五巻)でも司馬は 、「キリスト教に似た天地創造の世界を展開した」平田篤胤によって、「別国が湧出したのである」と書いていた。「昭和別国」という特徴的な用語を使っていた司馬氏がここでも「別国」と記していることは、『若き日の詩人たちの肖像』に記された堀田善衞の平田篤胤批判に通じる考えを司馬も持っていたと思われる。】

 こうして司馬は、「国際化」に対応するために個性の尊重を謳いながら、多発するようになった青少年犯罪を「行きすぎた欧化」のせいであるとして、「権威」や「国家」への「服従」を求める「国粋」的な傾向を強めている教育のもとで、日本の国民は再び「従順な羊」になり始めているのではないかという深刻な不安を示したのである。実際、自国の「国益」を優先しつつ、グローバリゼーションを押し進めるアメリカ政府に対する反撥から、世界では各国においてナショナリズムが野火のような広がりを見せつつある。

 このように見てくる時、日露の「文明開化」の比較をとおして、「欧化と国粋」のサイクルの危険性を認識し、「自国の正義」を主張して「野蛮」と規定した「他国」の征伐を正当化するような歴史観を鋭く批判した司馬遼太郎の文明観は、プーシキンの広い視野を受け継いでいたドストエフスキーの文明観を理解するうえでも有益だろう。

加筆(2022/05/3)【 このような司馬遼太郎の認識と重なるだけでなく、核兵器の危険性を直視するとともに、その克服の方法についても考察していたのが原爆パイロットを主人公の一人とした長編小説『審判』などを書いた堀田善衞であった。堀田善衞のドストエフスキー観と戦争観については新著で考察したが、ウクライナ危機をも視野に入れてつつ今後も研究を深めたい。 】

(2022/05/3、加筆と改題)

司馬遼太郎のドストエフスキー観  (4)「教育勅語」と「ウヴァ一ロフの通達」

 福沢諭吉は日本の「文明開化」のモデルの一つがピョートル大帝のロシアであることを十分に知っていたが、『坂の上の雲』を書き終えた後での司馬遼太郎の認識の深さは、日露戦争に勝って「神州不滅」を唱えるようになる日本の近代化が、ニコライ一世の独裁制をモデルにしていたことを明らかにしていることである。

 たとえば、司馬遼太郎は山県有朋にとって、「国家的象徴に重厚な装飾を加える」ことが「終生のテーマだった」とし、その理由を「ニコライ二世の戴冠式に、使節として出席し」て、「ギリシア正教で装飾された」、「戴冠式の荘厳さ」を見た彼が、強いショックを受けたからであると説明している(「竜馬像の変遷」『歴史の中の日本』)。

 しかも司馬は、「教育勅語」はその意味が分かりにくかったが、それは文章が「日本語というよりも漢文」だったためとして、この「勅語」が形式的にはかつての「文明国」中国をモデルとすることで権威付けされていたことを明らかにしていた(「教育勅語と明治憲法」『語る日本』)。実際、西村茂樹は「修身書勅撰に関する記録」において、清朝の皇帝が「聖諭広訓を作りて全国に施行せし例に倣い」(太字引用者)、我が国でも「勅撰を以て」、「修身の課業書を作らしめ」るべきだと記していたのである。

 さらに、「教育勅語」の執筆者の一人である元田永孚は「国教大教」において、「天皇は全国治教の権を統べられること」を強調していたが、西村茂樹も「修身書勅撰に関する記録」の冒頭で「西洋の諸国が昔より耶蘇教を以て国民の道徳を維持し来れるは、世人の皆知る所なり」とし、ことにロシアでは形式的には皇帝と総主教に分かれてはいるが、実質的には、「其国の皇帝と宗教の大教主とを一人」で兼ねており、それゆえ「国民の其の皇帝に信服すること甚深く世界無双の大国も今日なお君主独裁を以て其政治を行えるは、皇帝が政治と宗教との大権を一身に聚めたるより出たるもの亦多し」と述べた (西村茂樹「修身書勅撰に関する記録」『教育に関する勅語換発五〇年記念資料展覧図録』教学局編纂、一九四一年、一〇〇頁)。こうして彼は、我が国でも「皇室を以て道徳の源となし、普通教育中に於て、其徳育に関することは 皇室自ら是を管理」すべきであると説いたのである。この箇所は日本における「修身教育」の実質的なモデルが、ロシアの国教である正教への信仰と、皇帝への忠誠心を持つことを徹底させたロシアの教育制度であったことを物語っているだろう。

 しかも、司馬遼太郎が中学に入学した翌年の一九三七年には文部省から『国体の本義』が発行されたが、「国体の本義解説叢書」の一冊として出版された『我が風土・国民性と文学』と題する小冊子では、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無い」と強調されていた(教学局編纂『我が風土・国民性と文学』(国体の本義解説叢書)、昭和一三年、六一頁)。それは「正教・専制・国民性」 の「三位一体」こそが、「ロシアの理念」であるとした文部大臣「ウヴァ一ロフの通達」を連想させるのである。

 この意味で注目したいのは、司馬が『若き日の詩人たちの肖像』の著者である堀田善衞や宮崎駿との鼎談を一九九二年に行っていることである。堀田善衞はこの長編小説において、上京した日に二・二六事件に遭遇した主人公の若者が、ラジオから聞こえてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から受けた衝撃と比較しながら、厳しい言論弾圧と迫り来る戦争の重圧の中で描かれた『白夜』(一八四八年)の冒頭の美しい文章に何度も言及していた。しかもこの作品で堀田は、ドストエフスキーの作品の鋭い分析を行うとともに、厳しい検閲制度や監視のもとに時勢が「右傾化」する中でドストエフスキーの読み方を変えていった愛読者の姿や、烈しい拷問によって苦しんだいわゆる「左翼」の若者たちや、イデオロギー的には異なりながらも彼らに共感を示して「言論の自由」のために文筆活動を行っていた主人公の若者の姿をとおして、昭和初期の暗い時代を活き活きと描いていたのである(堀田善衞『若き日の詩人たちの肖像』新潮社、一九六八年)。

 このような堀田の作品理解を踏まえて司馬は、芥川龍之介が自殺した後で中野重治など同人雑誌『驢馬』に係わっていた同人たちが「ほぼ、全員、左翼になった」と指摘している(司馬遼太郎・堀田善衞・宮崎駿『時代の風音』朝日文芸文庫、一九九七年、四二~四四頁)。そして、司馬は「後世の人たち」は「その理由がよくわからないでしょう」が、「私は年代がさがるので一度もなったことはないけれども」と断りつつも、「昭和初年、多くの知識青年が左翼になった」「そういう時代があったということは、これはみんな記憶しなければいけない」と続けていたのである(この時代のドストエフスキーをめぐる日本の状況については、池田和彦「詩人たちのドストエフスキイ」『ドストエーフスキイ広場』第一一号、および菅原純子「『広場』合評会報告」「読書会通信」七五~七七号参照)。

 こうして昭和初期の検閲の厳しく暗い「別国」の時代に青春を過ごした司馬の言葉は、「ロシアの教育勅語」ともいわれる「ロシアの理念」が打ち出されて、自由思想すらも厳しく規制されていたニコライ一世の「暗黒の三〇年」の時期に、なぜドストエフスキーがペトラシェーフスキイ事件に関与するようになったのかをも説明し得ているであろう。

 つまり、言論や集会の自由が奪われて厳しい監視下におかれ、自国の欠点に対する批判も禁じられていた日露両国においては、「出口」が見いだせないなかで、ドストエフスキーや堀田善衞のように感受性豊かな青年たちが、極端な「国粋思想」に対する反発から新しい「原理」を示した「左翼」に共感を示すようになったのである。

 たとえば、立花隆は「私の東大論」において、「日本中を右傾化させた」事件として、一九三二年(昭和七年)の五・一五重件と神兵隊事件を挙げるとともに、「ほとんどこの事件と重なるようにして」、滝川幸辰教授に辞職を求めた文部大臣に対して、京都帝国大学法学部の教授全員だけでなく助教授から副手にいたる三九名も辞表を提出し抗議した、いわゆる滝川事件が起きていたことを指摘している。そして立花はこの時の辞任要求の真の理由は滝川教授が治安維持法に対して「最も果敢に闘った法学者だった」ためではないかという説を展開している(立花隆「私の東大論」『文藝春秋』二〇〇二年九月号~一一月号参照)。

 すなわち、治安維持法は一九二五年(大正一四年)に制定されたが、同じ年に全国の高校や大学で軍事教練が行われるようになると、これに対する反発から全国の高校や大学で反対同盟が生まれて「社研」へと発展したが、文部省は命令により高校の社研を解散させるとともに、「学問の自由」で守られていた大学の「社研」に対しては、治安維持法を最初に運用して一斉検挙を行ったのである。しかもこの京都学連事件では、後に著名な文化人類学者となる石田英一郎は、治安維持法への違反が咎められただけでなく、中学時代の日記に天長節で「教育勅語」を読み上げ最敬礼させることへの批判が書かれていたとして不敬罪にも問われていたのである(立花隆『文藝春秋』二〇〇二年一一月号、三七二~三七九頁参照)。

 こうして、司馬が青春を過ごした昭和初期は、外国の書物の輸入が禁止されたばかりでなく、国内での検閲も強まり学校でも軍事教練が行われるなど、福沢諭吉が「野蛮」と見なして厳しく批判したニコライ一世の「暗黒の三〇年」ときわめて似た政治状況に陥っていたのである。

 晩年の『風塵抄』で司馬は、「健全財政の守り手たちはつぎつぎに右翼テロによって狙撃された。昭和五年には浜口雄幸首相、同七年には犬養毅首相、同十一年には大蔵大臣高橋是清が殺された」と記し、「あとは、軍閥という虚喝集団が支配する世になり、日本は亡国への坂をころがる」と厳しく批判した(『風塵抄』Ⅱ)。

司馬遼太郎のドストエフスキー観  (3)自国への絶望とその克服

 以上のことに注目する時、司馬遼太郎の「作風の変化」が、実は、日露文明の比較の深まりや「近代化」の問題点の認識と対応していることに気づく。たとえば、日露の衝突を防いだ商人高田屋嘉兵衛を主人公としつつ、江戸時代の文化的な成熟度の高さを丹念に描いた『菜の花の沖』において司馬は、「『国家』という巨大な組織は、近代が近づくにつれていよいよばけもののように非人間的なものになってゆく。とくに、国家間が緊張したとき、相手国への猜疑と過剰な自国防衛意識」が起きるだけでなく、「さらには双方の国が国民を煽る敵愾心の宣伝といった奇怪な国家心理」も働くと鋭く指摘するのである。つまり、司馬遼太郎は「欧化と国粋」のサイクルの問題を踏まえた上で、それを乗り越え多様性を許容するような新たな文明のあり方を考察していたと言えよう。

 沼野充義は司馬遼太郎のロシア観について、「それは自由で因習に捕らわれない発想に満ちていながら、深い学識に裏打ちされて」いるとし、『ロシアについて - 北方の原形』を「ロシアの専門家には決して書けないような種類の非常に優れたロシア論であることは、確かである」と結んでいるが、それは決して誉めすぎではないのである(沼野充義「司馬遷太郎とロシア」『大航海』No.13、一九九六年、六九頁)。

 注目したいのは、『菜の花の沖』の中の嘉兵衛がロシア人に捕らえられるきっかけとなったゴロヴニーンの日本での抑留のエピソードをめぐる考察の中で、司馬がドストエフスキーに言及していることである。この抑留という状態について司馬は、「被抑留者の精神はそれを味わったものでしかわからない。『生命』というものを相手ににぎられてしまっているのである」と説明し、このような中で、一人の青年士官が「監禁と死の恐怖」から精神に異常をきたしたことを伝えて、「幽囚が、人間としていかに耐えがたいものであるかが、この一事でもわかる」と解説している。それは「戦車」の中に閉じこめられて死を待っていた司馬自身や「独房」の中にいたドストエフスキーにも通じることだろう。

 この後、司馬はこの青年士官の変節についてゴロヴニーンがくわしく書いた文章にふれて、そこには「すこしの攻撃的なにおいもないばかりか」、若者の弱さに対する「理解といたわりがあった」ことに注目し、「背信に対し、相手を人間として理解すべく努めようとする知的寛容さは、…中略…近代が生んだ精神といっていい」とし、「この時代、ロシアの知識階級にはすでに『近代』があったということをあざやかに思うべきである」と記している。そして、司馬はこの十年後に、「人間の心理の中の質と相剋をつきつめた」ドストエフスキーが生まれていることに注意を喚起している(Ⅴ・「カムチャツカ」)。こうして新しい視野を得た後で司馬は、心理的なタブーを克服して醜い現実をも直視できるようになったドストエフスキーの作品を高く評価するのである。

 この意味で注目したいのは、一九三九年のノモンハン事件を主題にした長編小説をも描こうとして膨大な資料類を集めていた司馬が、「戦闘というより一方的虐殺」となった、「ばかばかしい戦闘を現場でやらせられた」、「有能な指揮官」が発狂したことを怒りをこめて書き記していることである(「戦車・この憂鬱な乗り物」『歴史と視点』)。

実は、このような発狂の可能性は戦車中隊の指揮官であった司馬自身にもあった。すなわち、司馬は終戦間際にアメリカ軍との本土決戦のために満州から引き揚げて北関東に配置されたが、そこで敵の邀撃(ようげき)作戦などを説明するために大本営から来た将校は、「東京方面から大八車などに家財道具を積んで逃げてくる物凄い人数の人々をどのように交通整理するのか」との問いに対して、「昂然と、『轢っ殺してゆけ』と、いった」のである。司馬は「国家」のために死を覚悟したが、ここでは民衆を守るはずの「国家」が「同じ国民」を殺すことを命じたのである。

 この言葉を聞いた瞬間、若き司馬遼太郎の脳裡をどのような思いが走ったのだろうか。そして、彼はどのようにしてその思いを耐えたのだろうか。松本健一は「司馬さんが、天皇制イデオロギーにほかならない皇国史観ばかりでなく、五・一五事件や二・二六事件に対する違和感、いや憤りのような感情をいだいていた」と書いている(松本健一『司馬遼太郎 歴史は文学の華なり、と』小沢書店、一九九六年、三八頁)。

 追記(2022/04/30)
【 一方、華族のための学習院の初等科6年生の時に2・26事件と遭遇していた三島由紀夫は『英霊の聲』ではこの事件の「スピリットのみを純粋培養して作品化しようと思った」と記し、青年将校たちの精神を美化していた。

 ただ、それは思想や見方の違いだけに帰着するのではなく、年代の差によるところが大きいだろう。司馬と三島の年齢差はわずか二歳であったが、三島が徴兵を免れたのに対して、司馬は満州の戦車隊に徴兵されていたのである。堀田の親友・中村真一郎はそのことについてこう記している。

 「私だけの経験で云えば、昭和になってからの十数年は、まことに慌ただしいもので、昭和元年の二十歳と昭和十年の二十歳とでは、殆んど会話が不能であり、いや、昭和十三年に二十歳であった私には、昭和十年に二十歳であった野間宏とも、非常に大きな感覚的な相違が感じられることがある。」(『全集』、解説「同時代者堀田善衞」)】

 堀田が『若き日の詩人たちの肖像』で詳しく記しているように彼の世代にはすでに体制に批判的な行動を起こすことはできなかったが、まだ批判的に見ることはできた。しかし、それから5年後の司馬遼太郎の世代やそれから2年後の三島の時代には、「昭和初期の政治的軍人」を批判的に見るような自由も残されていなかったように思える。

「革命思想」の正当性をめぐって内ゲバをくり返していた学生運動を鋭く批判した次の文章はこの時司馬が受けた「絶望」に近い衝撃の大きさを正確に物語っていると思われる。「昭和初期の政治的軍人とそっくりの、つまり没常識・非論理的のなかでこそ大閃光を発するという貧相で陰惨なしかし、であればこそ民族的な深層心理に訴えやすいという日本的ファナティズムが学生運動の分裂のあげくに出てきているようである。幻想と没常識のタイプも酷似しているし、他民族への(学生運動の場合は他の分派への)残忍さまでそっくりである。…中略…それはかつての日本軍が中国人に対して加えたそれとひどく似ているようにおもえて、暗然とした。日本人は地球から消えてしまえと思いたくなったほどだが」(「戦車・この憂鬱な乗り物」『歴史と視点』)。

 この文章は、説得力が豊かで穏やかな司馬の普段の文体とは全く異なる。ここで、司馬は論理的な考察を拒絶して、感情的に自分より「次の世代」の学生たちを論じつつ、「日本人」を全否定している。そしてこの時、司馬遼太郎は自分の信じるイデオロギーを唯一の「普遍的な正義」とした学生たちの考えと、「自国」を「神国」と称して太平洋戦争を導くにいたる自分より「前の世代」の国粋主義的な政治的軍人たちとのあいだに明らかな類似性を見ていたのである。

 最初、この文章と出会ったとき私は司馬を捉えていた絶望の深さに愕然としたが、何度か読み返す中で、母親や農民たちに対する実の父親の暴虐ぶりに暗澹たる思いをしたであろうドストエフスキーの絶望が重なり合った。卓越した心理描写で読者を驚かせたドストエフスキーが、父親の欠点をも直視しつつ、「父親殺し」のテーマを真正面から描いたのは、ようやく最後の作品『カラマーゾフの兄弟』においてであった。ドストエフスキーにおける「父親殺し」のテーマと比較する時、この文章こそが「司馬史観」の争点の一つとなっている「昭和初期の(別国)」論を解く鍵だとも言えるだろう。

 ジラールは父と息子の対立のテーマを分析しながら、「ある意味で父親と息子は同一である」ので、非道な「父親は『他者』として憎まれるが、もっと深いところでは『自己』としての羞恥心の対象」であり、「圧制者=父親に向けられた奴隷=息子の犯罪」といえる「父親殺し」は、「殺人であると同時に自殺」でもあると結論している(ルネ・ジンラール、鈴木晶訳『ドストエフスキー二重性から単一性へ』法政大学出版局、一九八三年、前掲訳書、一二二~三頁)。「父親」の欠点は、父という存在がきわめて大切で身近であり、それらが直接「自分」にもつながっているだけに、それらの欠点が直前に示された場合には、それを論理的に考察するのは精神的につらいので、できれば自分の前から消えて欲しいと願うのであろう。

 同じことが、「自分」と「祖国」の関係についてもほぼ当てはまる(ついでながら、ロシア語では「親」と「祖国」の語源は同じである)。つまり、ニコライ治世下のロシアで育ったドストエフスキーは少年の時に「正教、専制、国民性」をロシアの理念として教育されたが、五・一五事件の二年前の一九三〇年に尋常小学校に入学した司馬も「とにかく、あらゆる式の日に非常に重々しい儀式を伴いながら、教育勅語が読まれた」と語っているように、文部省が『国体の本義』を発行して国粋的な教育をいっそう強化していた時代に青少年時代を過ごしたのである。おそらく、子供から青年期の時代に、論理だけでなく感性的なレベルで教育を受けた者にとって、「国家」と「自分」を距離を置いて客観的に考えるのは難しかったのである。

 このように見てくる時、ドストエフスキーが「父親殺し」を直接のテーマとして描くには多くの歳月を必要としたが、昭和前期を司馬が『十数年の“別国″』と見なしたのも、「日本人」全体を否定したくなるような衝動や深い絶望を抑えるための、一種の『仮構』だったと言っても過言ではないように思える。

司馬遼太郎のドストエフスキー観  (2)日露戦争と日露両国の近代化の考察

 日露戦争を中心に措いた『坂の上の雲』の初期においては、司馬は「憲法」を持たなかったことから未曽有の大混乱となりついには革命に至ったロシアと、アジアで最初に「憲法」を持つようになった民主的な国家日本を比較しながら、祖国の防衛戦争として日露戦争を位置づけて、その意義を強調していた。

 たとえば、司馬は福沢と共に「当時の西ヨーロッパ人からみれば半開国にひとしかった」ロシアの「文明開化」を行ったピョートル大帝の改革を高く評価し、彼が使節団を西欧に派遣したり「ひげをはやしている者には課税」するなど岩倉使節団や断髪令など日本の明治維新に先行して「つぎつぎに改革と西欧化を断行した」ことを指摘している(Ⅱ・「列強」)。その一方で司馬は、民衆には将校になる可能性がほとんどなかったニコライ一世治下のロシアと比較しながら、「日本ではいかなる階層でも、一定の学校試験にさえ合格できれば平等に将校になれる通がひらかれている」明治の新しい教育制度のよさに注意を向けている(Ⅰ・「七変人」)。

 この時、司馬は主人公の一人である秋山好古が福沢諭吉を尊敬していたことを強調することによって、自由民権運動や教育における福沢の意義に注意を促していたが、ロシアを「野蛮」とする見方は、福沢諭吉が『民情一新』において示したロシア観とも重なるものだったのである。だが、このような日露観は日露戦争という悲劇的な形で現れた日本とロシアという二つの強国の接触を、雄大な構想のもとに具体的な事実を丁寧に調べ直しながら描いていた『坂の上の雲』を書く中で次第に変化していく。

 第四巻のあとがきには「当時の日本人というものの能力を考えてみたいというのがこの作品の主題だが、こういう主題ではやはり小説になりにくい」と記され、その理由としてこのような小説は「事実に拘束される」が、「官修の『日露戦史』においてすべて都合のわるいことは隠蔽」されていることが挙げられている(Ⅷ・「あとがき四」)。事実に対する「冷厳な感覚」によって日露戦争の実態を綿密に調べながら書くことによって、彼は日本の近代化の問題点についての理解も深めていくのである(中島誠〈 文 〉、清重仲之〈 イラスト 〉『司馬遷太郎と「坂の上の雲」』現代書館、二〇〇二年参照)。

 さらに、第五巻でロシア側が都市を要塞化して守っていた旅順攻防の悲惨な戦いを描く中でクリミア戦争に言及した司馬は、二十七歳の時にクリミア戦争に「下級将校として従軍」していたトルストイがロシア要塞の攻防を描いた小説『セヴァストーポリ』を「籠城の陣地」で描いていたことに言及している。そして、トルストイがそこで「愛国と英雄的行動についての感動をあふれさせつつも、戦争というこの殺戦だけに価値を置く人類の巨大な衝動について痛酷なまでののろいの声をあげている」ことに注目している(Ⅴ「水師営」)。

 こうして、日露戦争における旅順の攻防とクリミア戦争のセヴァストーポリの攻防との類似性に気づいた司馬は、日露戦争以降に顕著になった「時世時節の価値観が事実に対する万能の判定者になり、都合のわるい事実を消す」という傾向を指摘し、日露戦争の戦史が事実を伝えていない事が多いことに触れて、「日本人は、事実を事実として残すという冷厳な感覚にかけているのだろうか」という深いため息にも似た言葉をも記すようになるのである(「『坂の上の雲』を書き終えて」『歴史の中の日本』)。

 この時司馬は、「祖国戦争」によってヨーロッパの大国・フランスに対する勝利を奇跡的に収めた後では、ヨーロッパ文明に対するそれまでの劣等感の反発から「自国」を神国化する「国粋」的な思想が広がったロシアと、強国ロシアを破って日露戦争に勝利した後の「明治国家」との間にある類似性に気づいたと言えよう。

 この意味で興味深いのは、木下豊房が「空想家の系譜――ネフスキー大通りから地下室へ」において、「空想家に特有のロマン主義的現実離脱の願望が、時代閉塞状況での『弱き心』から生まれることをいみじくも指摘したのは、石川啄木であるが、ニコライ一世の専制体制下と明治絶対天皇制下に類似する精神的閉塞の状況において、ドストエフスキーと啄木のエッセイに次のような似通った記述が見られるのは興味深い」と指摘していることである(木下豊房『ドストエフスキー その対話的世界』成文社、二〇〇二年、八九~九〇頁)。

 すなわち、ドストエフスキーは一八四七年のフェリエトン「ぺテルブルグ年代記」において、「二人の親しいぺテルブルグ人がどこかで出会って、挨拶を交わしたあと、『声を合わせたように、何か新しいことはないか? とたずねると、どんな声の調子で会話が始まったにせよ、しみいるような憂鬱な気分が感じられる』」と書いていた。石川啄木も一九一〇年に起きた大逆事件の頃にエッセイ「硝子窓」で、その頃、若い人々の間で、「何か面白いことは無いかねえ」がはやり言葉になり、「“無いねえ”、“無いねえ″、そういって口を噤むと、何がなしに焦々した不愉快な気持ちが滓(かす)のように残る」と書いていたのである。

 比較文明学の視点からロシアと日本の近代化を比較した山本新は、「一〇〇年以上の距離をおいて二つの文明のあいだに並行現象がおこっている」と分析していた( 山本新著、神川正彦・吉澤五郎編『周辺文明論――欧化と土着』刀水書房 )。司馬遼太郎も『坂の上の雲』を書き終えた後では、「自分たちは西のほうに行けばロシア人だといってばかにされるけれど、東に行けば自分たちは西洋人でもある」とドストエフスキーが言っていたはずだと先のエッセイで書いている。この時、司馬遷太郎は強い近代化(欧化)への圧力の中でロシアの知識人もまた、「拝外と排外」という心理の揺れを持っていたことを認識したのであり、名誉白人であることを望む日本人の心理にもロシア人の場合と同じような「欧化と国粋」のねじれがあることに気付いたと思える(高橋誠一郎『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』のべる出版企画、二〇〇二年、第二章参照)。

司馬遼太郎のドストエフスキー観 ――満州の幻影とぺテルブルクの幻影  (1)昭和初期の「別国」とニコライ一世の「暗黒の三〇年」

はじめに

 ロシアと日本の近代化の類似性に注目して司馬遼太郎の2・26事件観にふれていた「司馬遼太郎のドストエフスキー観」(『ドストエーフスキイ広場』第12号、2003年)を、旧かなづかいと旧字を現代の表記に改めるなど文体を一部修正し 、 註を本文中の()内に記す形で再掲する。
 なぜならば、堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』にも言及していた本稿は、新著『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』(群像社)の内容と深く関わっているだけでなく、プーチンのロシアと帝政ロシアの類似性と危険性をも示唆していたからである。

一、昭和初期の「別国」とニコライ一世の「暗黒の三〇年」

 「自国に憲法があることを気に入っていて、誇りにも思っていた」若き司馬遼太郎は、「外務省にノンキャリアで勤めて、どこか遠い僻地の領事館の書記にでもなって、十年ほどして、小説を書きたい」という自分の人生計画を持っていた(司馬遼太郎・井上ひさし「普遍性なき『絶対主義』」『国家・宗教・日本人』)。

 しかし太平洋戦争の最中、文化系の学生で満二十歳を過ぎている者はぜんぶ兵隊にとるということ」になった時、自国の憲法には「徴兵の義務がある」ことが記されていることも知って、司馬は「観念」したのであった(「あとがき」『この国のかたち』Ⅴ。 本稿においては、司馬遼太郎の作品は、章と作品名、および巻数をローマ数字で本文中に示す)。

 しかも学徒出陣で彼が配属されたのは、満州の戦車隊であった。司馬は後に戦車について「悲しいほど重要なことは、あれは単なる機械ではなく、日本国家という思想の反映、もしくは思想のカタマリであった」と記して、「無敵皇軍とか神州不滅とかいう」用語によって、「自国」を「他と比較すること」を断った当時の日本を厳しく批判した。つまり日本軍の戦車は「敵よりもはるかに鋼材が薄く、砲が敵にかすり傷も与えることができないほどに小さすぎた」ので、「敵戦車が出現した瞬間が私の死の瞬間になる」ことを意味していた。そして、敵の強力な戦車とは、ロシア(ソ連)の戦車に他ならなかったのである。

 司馬は戦車の閉ざされた空間の中で「国家とか日本とかいうものは何かということ」を考え込んでいるうちに、「むこうの外界にあらわれたのは敵の戦車ではなく、…中略…成立後半世紀で腐熱しはじめた明治国家が、音をたてて崩れてゆく」という幻影を見、もし生きて帰れたら「明治国家成立の前後や、その成立後の余熱の限界ともいうべき明治三十年代というものを、国家神話をとりのけた露わな実体として見たいという関心をおこした」と記している。 明治国家の「露わな実体」に迫ろうとした司馬は、同時に自分に死を宣告する筈だったロシアの「露わな実体」をも明らかにしたいと思った筈であり、このことが司馬に日露戦争を主題とした『坂の上の雲』を書かせたといっても過言ではないだろう。

 ところで、司馬遼太郎が深く尊敬していた福沢諭吉は、一八七九年に書いた『民情一新』で、日本に先駆けてロシアの「文明開化」を行ったピョートル大帝の改革を高く評価した。その一方で彼は、西欧の「良書」や「雑誌新聞紙」を見るのを禁じただけでなく、国内の学校においては「有名なる論説及び学校読本を読むを禁じ」、さらには「学校の生徒は兵学校の生徒」と見なしたニコライ一世治下の政治を「未曽有(みぞう)の専制」と断じ、このような結果、「人民も政府も共に狼狽して方向に迷う者」の如くになったと批判した。

 実際、ロシアは「富国強兵」策によって強国となり、貴族の富は増大したものの、それに反比例する形で民衆、ことに農民の「奴隷化」が進んだのである。しかも、ロシアの文部大臣となったウヴア一ロフは、西欧化の流れの中で若者にも影響力をもち始めていた「自由・平等・友愛」という理念に対抗するために、「ロシアにだけ属する原理を見いだすことが必要」と考えて、「わが皇帝の尊厳に満ちた至高の叡慮によれば、国民の教育は、正教と専制と国民性の統合した精神においてなされるべきである」とし、国民にたいしてこの理念の遵守を求めた通達を一八三三年に出した。しかし、国内の劣悪な政治状況を放置したまま「為政者」にではなく「国民」に「道徳」を課し、これを批判する者を厳しく罰したこの理念は、ロシアにおける「欧化と国粋」の対立の激化を招いたのである ( 高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、二〇〇二年、四八~五三頁参照 )。

 ドストエフスキーが生涯敬愛し続けたプーシキンは、このようなロシアの二重性を叙事詩『青銅の騎士』(一八三三)において見事に描き出していた。すなわち、この作品の主人公である若い官吏エヴゲーニイは、ペテルブルグを襲った大洪水で最愛の婚約者を失った悲しみから茫然として街をさまよい、ついにはピョートル大帝の「青銅の騎士」像に追いかけられるという強迫観念に駆られて狂死したのである。

 ドストエフスキーもフランス二月革命が起きた一八四八年に書いた小説『弱い心』で、最愛の娘との婚約にまでこぎつけた主人公の若い官吏が、有頂天になって仕事に手が着かず、「職務不履行のために兵隊にやられる」のではないかと恐れて「発狂」するという悲劇を描いた。こうして、農奴制の改革などを求めて、ペトラシェフスキーの会に参加していたドストエフスキーは、佳作『白夜』の発表から間もなく捕らえられて刑が決まるまでの約八か月、サンクト・ぺテルブルクの中心部に位置したペトロパヴロフク要塞の独房に監禁された。

 司馬は「私はいまでもときに、暗い戦車の中でうずくまっている自分の姿を夢にみる」と書いていた(「石鳥居の垢」『歴史と視点』)。ドストエフスキーもまた、いつ看守が死刑を告げにくるかも知れぬ暗い独房の中で、「うずくまっている自分の姿を夢に」見てうなされたことであろう。そして、そのような閉ざされた空間の中で、「ロシアとかいうものは何かということ」を考え込んでいるうちに、彼が見たのはピヨートル大帝によって造られた壮麗な都市サンクト・ぺテルブルクが「音をたてて崩れ」、もとの沼地に戻るという光景だったのではないだろうか。

 譜の作成者は司馬遼太郎が学生時代には『史記』だけでなく、ロシア文学を耽読していたことも記している(山野博史編「司馬遼太郎の七二年」『司馬遼太郎の跫音』中公文庫、一九九八年、六九二頁)。司馬遼太郎がドストエフスキーに言及している箇所はそれはど多くはないが、以下に詳しく見るように、言及されている箇所は司馬の「作風」や文明観の変化にも係わる重要な役割を担っているのである。本稿ではドストエフスキーが青春を過ごしたニコライ一世の「暗黒の三〇年」と、司馬が「別国」と呼んだ昭和初期の類似性に注目しながら、司馬のロシア観の変化を追うことによって、ドストエフスキーヘの言及の意味に迫りたい。

ウクライナ危機と1986年以降のロシア危機(2)――   「民族的憤激」の危険性

今回の再掲にあたって副題に付けた「民族的憤激」という用語は、週刊朝日の1967年8月11日号に書いた三島由紀夫の「民族的憤激を思ひ起せ-私の中のヒロシマ」から引用したもので、三島はそこで原爆投下のニュースを知ったときの衝撃についてこう記していました。

「広島に〝新型爆弾″が投下されたとき、私は東大法学部の学生であつた。神奈川県の高座(かうざ)にある海軍の工場に勤労動員中だつたが、ひどく虚無的な気分になつてゐて、「新型爆弾に白い衣類は危険だ」といふので、わざと自シャツ姿で町を歩いたりした。/ それが原爆だと知つたのは数日後のこと、たしか教授の口を通じてだつた。世界の終りだ、と思つた。この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある。」 (447)

だが、その前年に 2・26事件の指導者の一人であった将校 ・磯部浅一の霊に憑かれたような作品 『英霊の聲』を発表していた三島は、そのあとこう続けて
核武装」を正当化していたのです 。

「われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起こすべきではないのか」 。

三島由紀夫作品でウクライナ危機を考える――「民族的憤激」の危険性

 一方、 堀田善衞は『小国の運命と大国の運命』の終わり終章でヨーロッパと比較しつつ、「われわれの日本、中国、ヴェトナム、南北朝鮮、インドネシアなどの、相互にまったく不均衡かつ共通項を欠いた情況をもつアジアの方が、実はずっと危険でもあり深刻な様相にあるものである、と私は思う」(314)と書いています。  

極東の諸国は日本に侵略されたり併合されたりして民族的な自尊心を著しく傷つけられた過去を持っています。 右派の政治家が三島が敬愛する2・26事件の将校たちと同じような「民族的憤激」を煽って、軍拡や核武装に踏み切ることになれば、極東から核戦争が始まる危険性が高まると思われます。

冷静に国家の未来を創造すべき政治家が「民族的憤激」を煽ることは、地震大国でありながら54基もの原発を建設した日本だけでなく、極東を滅亡の危機にさらすことにつながるでしょう。