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ウクライナ危機と1986年以降のロシア危機(1)

ロシア軍によるウクライナ侵攻と蛮行が未だに収まらない状況を知らせるニュース報道を見、新聞記事を読みながら、なにも出来ないことに苛立ちながら、「チェコスロヴァキア事件とウクライナ危機」という論考を書いていました。

その中で鮮明に思い起こしたのは、学生を引率していた際に経験した1986年のチェルノブイリ原発事故や1990年初頭に学会や引率で度々モスクワを訪れていた時のロシア危機のことでした。

今回のロシア軍のウクライナ侵攻では、 1986年に史上最悪の原発事故を起こした チェルノブイリ原発も一時、占領されるという事態も発生しました。この事故については、 ホームページのグラースノスチ(情報公開)とチェルノブイリ原発事故(1988年)」、「劇《石棺》から映画《夢》へ」でも言及しました、

 また、ドストエフスキーにこだわり続けた 黒澤明と小林秀雄が 1956年12月に対談をっていたことに注目して、二人の原爆観や核エネルギー観の問題に迫った 『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社、2014年)でも映画《生きものの記録》や映画《夢》の分析を通して行いました。

 1990年初頭の体験は、私のドストエフスキー観や文明観とも深く結びついているので、教養科目「現代文明論」の授業のために編んだ『「罪と罰」を読む―「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、1996年)の「あとがき」に記していました。

 以前にこのブログではエリツィンが急激な市場経済を導入したために、一時はモスクワのスーパーの棚にはロシア産の商品がないような状態も生じて、「エリツィンは共産党政権ができなかったアメリカ型の資本主義の怖さを短期間で味わわせた」との小話も流行ったことを紹介しました。

急激な市場化によってスーパーインフレに襲われ一般庶民が塗炭の苦しみを味わったこの時期に、ロシア人の多くが反欧米の感情を持つことになったと思えるので、まだホームページには掲載していなかった 「あとがき」 の該当部分をブログに、全文を「著書・共著と書評・図書紹介」のページにアップすることにしました。

ウクライナ危機にロシア危機を振り返る――「民族的憤激」の危険性

(2022年4月15日、改稿)

「群像社通信」130号、「図書紹介」より

愛媛新聞、下野新聞 2021年12月19日/ 信濃毎日新聞 2021年12月25日 ほか

生誕200年のドストエフスキーの「日本での受容を語る上で欠かせないのが堀田善衞である。終戦直前の東京大空襲と広島、長崎へ原爆投下という事態に出合って彼は、ドストエフスキーの現代的理解を深めていくからだ。」「原爆投下に関わった米国人パイロットの苦悩を通して、核戦争が起これば人類滅亡の可能性があることを示し、登場人物たちの「罪」と「罰」を描き出」した作品『審判』はじめ堀田作品を読み解き、「黙示録的時代と向き合った2人の作家の共鳴の軌跡を追う。」(共同通信配信)。

「ウクライナ危機に際して堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』を読み直す」を「主な研究」に掲載

ドストエフスキー生誕200年の翌年に突然、プーチン大統領によってウクライナ侵攻が始まったことは晴天の霹靂のような事件であった。

1968年9月にタシケントで開催されるアジア・アフリカ作家会議に参加する準備をしていた堀田善衞にとって、8月21日にワルシャワ条約5カ国軍によってチェコスロヴァキア全土が武力で占領下におかれたことも、同じように衝撃的な事件だったと思われる。

ただ、堀田は九月二〇日から二五日までタシケントで開催されるアジア・アフリカ作家会議の一〇周年記念集会に出席して、「長年の友人である」ソ連の作家たちが「どんな顔をして何を言うか、このことだけをでもたしかめてみようと思い立った」と書いている。

その時の体験や見聞を記したのが『小国の運命・大国の運命』である。このチェコ事件はすでに見たように三島事件のきっかけにもなっていたが、今回のウクライナ侵攻は日本の軍国化を一気に推し進めるきっかけにもなり、緊張の高まりから偶発的な戦争が勃発する危険性をも孕んでいると思えた。

それゆえ、日本ではあまり知られていないシベリア侵攻の問題をも踏まえて『小国の運命・大国の運命』の感想を「チェコ事件でウクライナ危機 を考えるⅡ」と題して書き終えた順に急遽、アップした。その後も戦火が収まらない現在、岸田政権は核戦争の危険性を考慮に入れずに、大増税と軍拡に踏み出そうとしているので、書き急いだ原稿で不満は残るが、構成などは変更せずに取りあえず「ウクライナ危機に際して堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』を読み直す」(上・下)と改題して再掲する。構成は下記のとおりであり、いずれ全体を書き直すようにしたい。

1)アジア・アフリカ作家会議と『インドで考えたこと』

2)1968年の国内外の情勢と『小国の運命・大国の運命』の構成

3)二つの侵攻との比較――ソ連軍の満州国侵攻と日本軍のシベリア侵攻

4)「“人喰い鬼”の詩」と『プラウダ』の衝撃

5)ロシアの“魂”とペレストロイカの挫折

6)「逆効果の“白書”」――ソ連型社会主義と「大国」の問題点の考察

7)チェコスロヴァキアの歴史と「全スラヴ同盟」の思想

8)チェコスロヴァキア事件からウクライナ危機へ――民族主義的な権力者の危険性

9)日露の隣国併合政策と教育制度の類似性

10)「チェコ軍団」の動向とシベリア出兵の問題

ウクライナ危機に際して堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』を読み直す(上)

ウクライナ危機に際して堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』を読み直す(下)

(2022/04/03、 2022/12/14、 改訂)

再稼働 核の危機招く(「東京新聞」「発言」欄、3/28)

テレビで安倍晋三元首相が「核共有」に言及、橋下徹氏は「核武装について次の参院選の争点に」と語った。こうした主張は被爆国日本の国是「非核三原則」を否定するだけでなく、核兵器禁止条約の趣旨にも反し、近隣諸国の核軍拡競争をあおる危険性が高い。

一方、「非核三原則」を「昭和の価値観」と呼んだ日本維新の会の松井氏は、ウクライナ危機が深まる中で「今止まっている原発の再稼働もやむなし」と述べた。三日特報面はこれに注意を促し、「外部電源がなくなれば制御できなくなる」原発の問題を指摘した研究者の見解を紹介した。 

危機の時に恐怖心をあおって「核武装」を主張する自民党タカ派と維新が、原発再稼働にこだわることの危険性をも冷静に指摘した記事を評価したい。

(4)2・26事件の賛美と「改憲」の危険性

「磯部一等主計の遺稿について」論じた「『道義的革命』の論理」で三島由紀夫は、その前年に発表した『英霊の聲』で2・26事件の「スピリットのみを純粋培養して作品化しようと思った」と記している。

たしかに、古今東西の文学作品に通じ、華麗な文体で多くの作品を残した三島はすぐれた文学者であったが、近年のように磯部一等主計に憑依されたかのような『英霊の聲』以降の作品を政治的・宗教的な視点から評価して、「改憲」運動につなげることは危険だろう。

「日本の右翼テロリストは、その死生観において、ある伝統的な信仰につらぬかれていた。それは、かんたんにいえば、己の死後の生命の永続に関する楽天的な信念であり、護国の英雄として祭られることへの自愛的な帰依であった。そして、まさにそれを保障したものこそ、日本の国家神道と天皇信仰とにほかならなかった」と説明した「日本浪曼派」の研究者で三島の深い理解者でもあった橋川文三は、その危険性をこう指摘している。

「このような固有の神学思想は、一定の条件のもとでは、容易にいわゆる人権の抹殺をひきおこし、しかもそこに責任や罪を感じることのない心性をつくり出す。右翼テロリストにおいて「一殺多生」という仏典的発想が結びつくのも、そのような国有の死生観念を媒介とすると考えてよいと私は思う。「汝殺すなかれ」という人格神の絶対的戒律が与えられていない場合、そこには、いかなる残虐も本来的な生命への責任感をよびおこすことはないからである。」(「テロリズム信仰の精神史」『橋川文三 著作集』5、筑摩書房)。

興味深いのは、天草の乱を描いた大作『海鳴りの底』で村岡典嗣氏の論文「平田篤胤の神学に於ける耶蘇教の影響」から「復古神道」の根幹にはキリスト教からの援用があることを知ったことを記していた堀田は、主人公に「洋学応用の復古神道」が「儒仏を排し、幕末にいたっては国粋攘夷思想ということになり、祭政一致、廃仏毀釈ということになり、あろうことか、恩になったキリスト教排撃の最前衛となる。それは溜息の出るようなものである」という感想を抱かせている。

そして、作者は登場人物の一人に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせ、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせて、「復古神道」における「汝殺すなかれ」の理念の欠如を指摘していた。

日本人が情念に流されやすいことはたびたび多くの論者が指摘されてきているが、ウクライナ危機に乗じて、「敵基地攻撃論」や「緊急事態条項」が議論されるようになってきている現在、2・26事件の問題をきちんと把握しておく必要があるだろう。

(2023/2/14,ツイートの追加)

(3)、磯部浅一の「行動記」と裁判をめぐって

 2・26事件の首謀者の一人・磯部浅一は、「行動記」で「余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであろう」と記し、この文章を引用した三島由紀夫は、子供の頃に遭遇したこの事件の印象を「その雪の日、少年たちは取り残され、閑却され、無視されていた」が、「事件から完全に拒まれていた」ことが「その悲劇の客人たちを、異常に美しく空想させたのかもしれない」と「二・二六事件と私」に記している。

一方、2・26事件の前日に受験のために上京して来た若者を主人公とした堀田善衞も『若き日の…』で「まったくの偶然であったのだが、若者が引っ越したこのアパートの隣室に2・26事件のときの首謀者中の首謀者であったⅠという男の未亡人が住んでいた」と記し、磯部浅一の裁判についてこう記述している。

「Ⅰはすでにその年の八月十五日に銃殺刑を執行されてしまっていたはずであったが、Ⅰは十九名の死刑になった首謀者のなかでも、裁判中も、終始はげしく抵抗し、軍の首脳部もまた一時彼らの青年将校たちの行動に同調し、支持さえした点をあげて、陸軍大臣の告示や戒厳命令に関係のあったぜんぶの軍事参議官もまた同罪である、と痛烈に弾劾をしつづけたので」、「重要証人として八月の十九日まで執行の延期をうけていたのである。」

そして、右翼係りの刑事から聞かされた未亡人の行動についてもこう詳しく記している。「まだまだ若い未亡人は、夫の収監されていた代々木練兵場に特設された法廷と収監所とをかねたバラックの近くの、このアパートを選んだのであった。そうして夫の死後、軍首脳部弾劾と裁判の違法性について縷々(るる)と綴られたⅠの遺書を入手し、夫人はこれをある右翼の新聞記者とはかって写真で複写をし世上に流布させようとした。

 もっとも、これらのことは、すべてⅠ未亡人を監視するために、隣室の住人である若者の部屋へしばしばやって来た右翼係りの刑事から、折にふれて聞かされていたことなのである。若者としても、偶然のこと、とはいうものの、まったく異様なところへころがり込んだものであった。(……)刑事は三日にあげずやって来た。刑事はこれらの青年将校たちにはすこぶる同情的で、時にはⅠ未亡人の私用を弁じてやったりもしていたが、なんにしてもそれは若者にとっては閉口、迷惑、この上もないことであった。」

 この記述からは堀田が磯部裁判に強い関心を持っていたことが推測できるが、ここでも焦点を磯部のみに当てるのではなく、この記述の前後に従兄から密かに「赤旗」の入ったカバンを預かってほしいと頼まれて激しく動揺したというエピソードも挿入している。

「しかし従兄には、そういう者が来るなどとは、敢えて言わないことにした。隣室に、そういう女性がいることはかつて雑談のあいだに告げたことがあったが、彼女がそこまでの厳重な監視をうけていることは言わなかったのである。それに、燈台下暗し、ということがある。かえって安全であるかもしれないではないか、と異様な具合に腹をきめて、若者は、「わかった。いいよ」/ と言ってその風呂敷包みを従兄からうけとり、学校へ通うときのカバンのなかに」押し込んだ。

こうして、堀田は磯部の裁判を描くだけでなく、警察での拷問により体を壊して表向きは転向していた従兄から預けられたカバンに入っていた「赤旗」の記事における2・26事件の記事にもふれることで、磯部を「英雄化」せずに相対化して考えようとしたのだと思われる。

しかも、この長編小説では同級生との交遊をとおして、2.26事件でも注目された皇道派の 真崎大将についてもこう記されている(注:相沢事件とは、 ドイツでヒトラー内閣が成立した1933年8月12日に統制派の軍務局長永田鉄山が皇道派の青年将校・相沢三郎中佐に斬殺された事件)。

「Mという同級生の広大な邸が、原宿にあった。その邸前でソフト帽を目深くかぶった私服の誰何(すいか)に遭った。Mの父は陸軍大将で、軍内の派閥の、その一方の頭目であるといわれていた。二・二六事件のときにも、世間の注視のまとになった人であった。また相沢事件といわれた、軍務局長を陸軍省内で斬った軍人の裁判のときにも、その軍人のためによい証言をするだろうと期待されていながら、将官は勅許を得なければ法廷で証言は出来ぬ、と言ってつっぱねた人であった。勅許とはねえ、と世間では言っていた。血の冷たい感じのする将官であった。(……)そうして級友のM自身は、たいへんな女たらしであった。そのMの勉強部屋で、少年は生れてはじめてエロ写真なるものを見せられた。親爺が上海からもって来たんだ、とMが言った。」

 (2023/02/14、改訂とツイートの追加)

(2)、2・26事件と検閲の強化

三島由紀夫が『豊饒の海』の第二巻『奔馬』のモデルとした血盟団事件(2月~3月)で井上日召に率いられた学生たちによって、井上準之助と團琢磨が暗殺されるという連続テロ事件が起きた1932年には、京都大学法学部の滝川教授の発言が問題になる滝川事件も起きていた。

さらに満州国の承認に慎重だった犬養毅・内閣総理大臣が、武装した海軍の青年将校たちと血盟団の残党らによって殺害された5・15事件が起きた。1935年には、天皇機関説事件が起きていた。

『若き日の…』ではこれらの事件については言及されていないものの、1934(昭和9)年に『ファッシズム批判』を出版して、軍国主義と「国体明徴」運動を批判したことで知られていた河合栄治郎・東京帝国大学教授が書いた二・二六事件の批判記事がかなり長く引用されている。

「帝国大学新聞」について「大学が、また大学生が新聞を刷って売っているということが、少年にはなんともいえぬほどに清新で、自身の腹の底から甲高い声が出そうなほどに、爽快でもあった」と書いた主人公は、事件直後の三月九日付の号に載った記事の「筆者は河合栄治郎という人であった」ことを紹介して、次の文章を引用している。

 「彼等の我々と異なるところは、ただ彼等が暴力を所有し、我々がこれを所有せざることのみにある。だが偶然にも暴力を所有することが、何故に自己のみの所信を敢行しうる根拠となるのか、何故に国民多数の意志を蹂躙(じゅうりん)せしめる合理性となるか」。そして、主人公は「削除は多いにしても、筆者の怒りと批判ははっきりと出ていた」と結んでいる。

一方、押し入れからさがし出した雑誌の『中央公論』は六月号で、「同じ筆者が巻頭に論文を書いていた」が、「この方は、バッテンばかりで、さっぱり見当もつかなかった」と記されているが、ここでは「第三」のみを長く引用することで具体的に示しておきたい。

「第三に彼等は政党の堕落と財閥の横暴とをみた。国体を明徴ならしむることによって、国民思想の安定を図りうると考へたことに、彼等の単純さがある。×××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××。しかし複雑なる社会問題に囲まれ、幾多の思想によりて攪乱されてゐる一般市民にとっては、×××××××××××××××××××××××、未だ問題を解決することにはなりえない。××××××××、現代に処して、いかなる内容を盛るべきかが、今や必要とされてゐるからである。」

実際、この事件の首謀者は非公開で弁護人なしという特設軍法会議で裁かれ処刑された。それによって軍部における統制派の権力は強まり、「祭政一致」の原則に基づいて「専制・正教・国民性」を厳守するように求めた「ロシア帝国」と同じような政策が実施され、それを批判することは全くできなくなったのである。

芥川龍之介は自作『将軍』の検閲と伏字に対して怒りを感じていたが、2・26事件以降には軍部における統制派の権力が強まり、「祭政一致」の原則に基づいて「専制・正教・国民性」を厳守するように求めた「ロシア帝国」と同じような政策が実施され、それを批判することは全くできなくなっていたのである。

 この長編小説ではラジオから流れてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説が主人公の重要な転機になっていたが、1933年1月にナチスが政権を握ったドイツでは「非ドイツ的な魂」に対する抗議運動が行われるようになり、5月10日のユダヤの知識人の書物を大量に焚書にした際にもゲッベルスが扇動的な演説をしており、その際に焚書の対象とされたドイツの公法学者ゲオルク・イェリネックの著書『人権宣言論』を1906年に訳出していたのが「天皇機関説」事件でやり玉に挙げられることになる美濃部達吉だったのである。

主人公が仏文科への転科を決意したのは1940年秋のことだったが、その際には白柳君との会話などをとおして日本では「商工省の通達があって、洋書の輸入は禁止された」が、「一九三五年にパリで行われた国際作家会議の記録によると、ドイツの作家代表は匿名は無論のこと、顔に覆面までをかぶって出て来るというひどい政治の有様」になっていたことなども記されている。

 (2023/02/14、改訂とツイートの追加)

『若き日の詩人たちの肖像』で2・26事件を考える (1)2・26事件とシベリア出兵

堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(以下、『若き日の…』と略記する)第一部の冒頭ではドイツから帰国した新進の指揮者によるラヴェルのボレロとベートーヴェンの運命交響楽を聞くために早めに上京した主人公が、その翌日に交通規制で足止めされていて友人宅から下宿に戻った兄から、戒厳令が布かれ前日にボレロを聴いた軍人会館が「戒厳司令部」になったと告げられる。

三島由紀夫が『英霊の聲』で神道系の「帰神(かむがかり)の会」で英霊に語らせたように「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに大蔵大臣・高橋是清や内大臣・斎藤実、教育総監・渡辺錠太郎などの政府要人を殺害した皇道派の陸軍青年将校たちは、自分たちの行動は幕末の志士が起こした桜田門外の変と同様に高く評価されるものと信じていた。

しかし、反乱軍とされたために彼らが率いた1、483名の下士官や兵士と鎮圧に向かった軍との間での戦闘もありうるような危険な状況に首都が陥ったのであり、この地域の住民は退去せよとの命令が出ていた。主人公は受験勉強を理由に家からの移動を拒否したのだが、それは1918年に起きた米騒動が少年の港町にも波及して来た時に、「北前船の廻船問屋をいとなんで来た家の曾祖母は、米をめぐっての民衆の騒乱のことを知悉(ちしつ)して」おり、「直ちに家の者、店の者の先頭に立っててきぱきと指示」をして、民衆に粥をくばり騒ぎをおさめていたからである。

こうして、堀田善衞は第一部の冒頭で首都を揺るがした2・26事件と主人公の少年が生まれた年に起きた米騒動を比較することで、読者により広い視点でみることの大切さを示唆していたと言えるだろう。

1955年に発表した長編小説『夜の森』で堀田はすでに、北陸で発生した米騒動の拡がりや九州の炭鉱での暴動が、8月2日の「出兵宣言」の後で起きたコメの価格の高騰とも深い関りをもっていることを示したばかりでなく、この出兵の際には虐殺が行われていたことや、満州国の建国に先駆けて傀儡国家樹立の試みがなされていたことも記していたのである。

そして、『若き日の…』では「シベリア出兵のときに、ロシア人の家から掻っ払って来たのだという、黄色い大きな琥珀(こはく)をくりぬいてつくった置時計」を自慢にしていた管理人のことも記されているが、 何の理由も告げられずに逮捕された主人公が 、「物品のように」どさりと留置場へ放り込まれて一三日間拘留されたのは、満州国皇帝来日の予備拘禁であったことも記されている。

「日本浪曼派」の保田與重郎は「『満州国皇帝旗に捧ぐる曲』について」で、「満州国の理念」を「フランス共和国、ソヴエート連邦以降初めての、別箇に新しい果敢な文明理論とその世界観の表現」と讃えていた。一方、堀田は武力による満州国の建国はその後の日本の政治や法律をも変えて「無法が法の名において」行われ、無謀な戦争の拡大へと突き進ませることになったことを明確に描写していたのである。

本稿では「二・二六は最終的な落着におちつくまで接着してはなれなかった」と記されている『若き日の…』における2・26事件の描写をとおして、この問題と三島事件のかかわりを以下の順で考察する。
2, 2・26事件と検閲の強化、3,磯部浅一の「行動記」と裁判、4, 2・26事件の賛美と「改憲」の危険性。

  (2023/02/14、改訂、改題してツイートを追加)

ウクライナ危機と満州事変 

 作家の堀田善衞は自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』 (以下、『若き日の…』と略記) で中学に入学した年に勃発した1931年の満州事変の後では「事変という奴は終わりそうもない」と感じていたと描いています。

それゆえ、ソ連崩壊後のチェチェン紛争の鎮圧後には言論への弾圧を強めていたロシアのプーチン大統領によるウクライナ侵攻は、関東軍による満州事変を連想させます。

関東軍による満洲全土の占領後に現地調査したリットン調査団の報告書を受けて国際連盟特別総会が満洲国の存続を認めない勧告案を採択すると、日本は1932年の3月27日に国際連盟に脱退を表明しました。そして、紀元2600年を盛大に祝った1940年の翌年には太平洋戦争に突入していたのです。

堀田善衞の長編小説『若き日の…』が出版されたのは1968年9月のことでしたが、その翌月の10月23日には日本政府主催の「明治百年記念式典」が日本武道館で開催されました。このような日本の状況を考慮するならば、堀田善衞が長編小説『若き日の…』で昭和初期の重苦しい時代を克明に描き出したのは、この時代の危険性を記しておく必要があると考えたためではないかと思えます。今回の事態に際してはプーチン大統領の誤った決断だけでなく、この事態に乗じて「改憲」を行い、緊急事態条項を入れるなど昭和初期の日本へと逆戻りさせようとしていることへの批判も必要です。

(2022年3月26日改訂と改題、2023/02/13、改訂と改題、ツイートを追加)

チェコ事件でウクライナ危機 を考えるⅠ

はじめに 堀田善衞と三島由紀夫のチェコ事件観

ロシア軍のウクライナ侵攻というニュースを聞いて、最初に思ったことはソ連軍がワルシャワ条約五カ国軍とともに民主化運動を展開していたチェコスロヴァキアに侵攻した1968年のチェコ事件のことでした。

むろん、ソ連の政権下で起きたチェコ事件とソ連崩壊後の今回の侵攻とでは性格も大きく異なります。しかし、前回考察したように、西欧列強に滅ぼされないためにはナポレオンに勝利したロシア帝国を盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して対抗すべきだと主張したダニレフスキーの考えは、露土戦争以降、ロシア正教を国教としていたロシアで広まりました。また、革命政権が誕生した後の1918年に行われた日本やアメリカなどの連合国によるシベリア出兵で多くの死傷者を出し、この戦争以降も常に外国からの圧力を感じていたソ連や、ソ連時代の情報将校だったプーチン大統領にもその「恐怖」は受け継がれているように思われます。

他方で、ゼレンスキー大統領が今回のロシアの侵略を「真珠湾攻撃」にたとえたことが日本の右派の怒りを買っているようですが、ダニレフスキーの歴史理論は昭和初期の「大東亜共栄圏」の思想にも影響を与えており、今回のドネツク・ルガンスクの建国を図ったロシアのように満州国の建国をしたことなどから経済制裁を受けた日本は戦争を開始する理由として、A・B・C・D包囲網を挙げていたのです。

 ところで、ワルシャワ条約5カ国軍が武力で8月21日にはチェコスロバキア全土を占領下においたことを知った堀田善衞は、1956年のハンガリー事件を連想して、「単純な怒りとともに、呆れてしまい、また同時に、彼らのやりそうなことをやったものだ、という感をもったものであった」と記しています。

しかし、堀田は丸山眞男や久野収らが提唱したチェコ事件をめぐる抗議声明に署名しませんでした。それは、9月20日から25日までタシケントで開催されたアジア・アフリカ作家会議の一〇周年記念集会に出席して、「長年の友人である」ソ連の作家たちが「どんな顔をして何を言うか、このことだけをでもたしかめてみようと思い立った」からでした。

つまり、この時の事件に堀田はまず現場に行って観察しようという鴨長明と同じような精神で対応していたのです。こうして、9月19日に日本を出発した堀田は記念集会に参加した後で、ヘルシンキ、ストックホルム、ロンドン、パリ、プラハ、ウィーン、ベルリン、ブラティスラバなどヨーロッパ各地を訪問して、ことに不幸なチェコスロヴァキアには前後二回、約1カ月滞在して、さまざまな人々と話し合い、約3カ月後の12月24日に日本に帰国しました。その間に見聞きしたことや考えたことを詳しく記したのが堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』です。

一方、『文化防衛論』に収められた「自由と権力の状況」という論考でチェコ事件について考察した三島由紀夫は、「学生とのティーチ・イン」でもこの問題に言及しており、この事件が「三島事件」を起こすきっかけの一つになっていたことが感じられます。

それゆえ、本稿ではまずチェコ事件をとおして「政治と文学」の問題について考察した三島の「自由と権力の状況」を簡単に見た後で、昭和初期に流行った小林秀雄の『罪と罰』論にも注意を払いながら、三島の革命観とテロリズム観を考察します

そして、最後に堀田の小国の運命・大国の運命』を詳しく分析することにより堀田の視野の広さと考察の深さを示すことにします。

そのことによってウクライナ危機に際しての維新や自民党安倍派の対応と、チェコ事件に対する三島の反応との類似性を明らかにし、報道や言論への圧力を徐々に強めながら昭和初期と同じように戦争へと急速に傾斜している現代日本の危険性を示すことができるでしょう。

1,「政治と文学」の考察――「自由と権力の状況」

三島は「自由と権力の状況」という論考の冒頭でチェコの問題への強い関心の理由をこう記しています。

「チェコの問題は、自由に関するさまざまな省察を促した。それは、ただ自由の問題のみではなく、小国の持ちうる、政治的なオプションの問題でもある。それは、力と力の世界の出来事であると同時に、イデオロギーの対立の中に、いかに身を処しうるかという微妙な戦術の心理的出来事でもある。事、表現の自由に触れるかぎり、「政治と文学」の問題も、ここにドラマティックなモデル・ケースを作り出した。それに比べると、日本で語られている政治と文学の対立状況などは児戯に類する。極端に言えば、あそこでは文学と戦車との対立が劇的に演じられたのである。」(『文化防衛論』、ちくま文庫、119頁、以下頁数のみをかっこ内に記す)。

そして、「安保条約下の日本もアメリカの大国主義に対して警戒し、これを排除し、あるいはこれに抵抗しなければならないと教えるであろう」(123)という意見も紹介した三島は「大国の強大な武力の前には、多少の自衛上の武力など持っても何にもならない。だから非武装中立こそは、国を護る最上の良策である、という考えの論理的矛盾は明らかである」(125)としています。

そして、三島はかろうじて核戦争を回避したキューバ危機後の世界のあり方をも批判して、「われわれにけじめを失わせ、弁別を失わせたものが、冷戦と平和共存の論理」(129)であると結論していました。

2,「みやび」とテロリズム――「文化防衛論」

注目したいのは、「反革命宣言」で神風特攻隊員が遺書に記した「『あとにつづく者あるを信ず』の思想こそ、『よりよき未来社会』の思想に真に論理的に対立するものである」と記した三島がここでも「自由と権力の状況」に言及していることです。

「文化防衛論」で「『みやび』は、宮廷の文化的精華であり、それへのあこがれであったが、非常の時には、『みやび』はテロリズムの形態をさえとった」とした三島は、「天皇のための廠起は」「一筋のみやび」を実行した桜田門の変の義士たちのように、「容認されるべきであった」と主張したのです(74)。

ここからは幕末に頻発した「天誅」という名前のテロを称賛する姿勢が感じられますが、このような三島の主張とは正反対の主張をしたのが、『竜馬がゆく』で主人公の坂本竜馬を、殺すことを嫌う武士として描いたにもかかわらず、「新しい歴史教科書をつくる会」から高く評価されたことで誤解されることになった司馬遼太郎でした。

ベトナム戦争や学生紛争の時期にこの長編小説を読んだ私は、「天誅」を「正義の殺人」とする思想に『罪と罰』に描かれている「非凡人の理論」と同じような傲慢さを感じて、司馬作品にも熱中しました。あまり知られていないようですが、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘した司馬は、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と明確に記していたのです(『竜馬がゆく』文春文庫)。

一方、桜田門外の変を「一筋のみやび」と解釈した三島は、そのような視点から「西欧的立憲君主政体に固執した昭和の天皇制は、二・二六事件の『みやび』を理解する力を喪っていた」(75)と厳しく批判していました。

たしかに、二・二六事件で処刑された磯部一等主計の視点から描いた『英霊の聲』などにおける三島由紀夫の主張は、亡くなった者たちの無念の思いも伝えて迫力がありますが、しかし、情報将校だったプーチンと同様の「国粋主義」的な視野の狭さを感じます。

一方、堀田善衞は誕生したばかりの革命政権を打倒も意図して日本がアメリカなどの連合国と共に行ったシベリア出兵を描いた『夜の森』で、1919年には日本が併合した韓国で三・一独立運動が起きていたことや、この出兵ではすでに満州国に先立って傀儡国家の樹立もはかられていたことなどを記しています。  

一方、三島の視野には、併合された韓国や「五族協和」というスローガンで樹立されながら、土地を奪われた満洲の人々などの苦悩や不満は入ってきていないのです。

3,「決闘」と「暗殺」をめぐる議論 と『罪と罰』の解釈

「学生とのティーチ・イン」でも三島はチェコの民主化運動についてこう批判しています。「いよいよ世間は米ソ二大強国の共存時代に入ってきた、これなら大抵のことをやったって片一方が手を出すわけはない、キューバ事件もそうだからあれでもそうだろう。これはいまがやり時だ、ここで両方のいいところをちょっと取ってやれば、共産主義体制に属しながらしかも自由というものをアメリカ並みに味わえるのじゃないか、こうしたら世界中に一番いいお手本を示してやれる、という山気があったに違いない。こんな山気に私は同情しない」(288)

しかし、私が「学生とのティーチ・イン」で一番興味を持ったのは、学生Dの「三島先生はさきほど、暗殺的行為は一つの思想が一つの思想を殺すことで、これは決闘である、決闘という行為は非常に美しいものであると、賛美なさいましたけれども、(……)暗殺というのは非常に卑怯な行為だと思うのです」(202)という核心を突いた質問に対して、三島が少したじろぎながら、こう答えていたことです。

「決闘との比較は多少当を得ていなかったと思いますけれども」としながらも、警備がきわめて厳重なことを考慮するならば、「だからプラクティカルな問題として、暗殺が卑怯に見えても、暗殺という形をとらざるを得ないと思うのです」(203)。

こうして三島は学生の批判を受け入れて、「暗殺が卑怯」であることは認めつつも「暗殺という形」の殺人を認めているのです。

 このような主張は一見、不合理で説得力を欠いていると思えます。しかし、なぜ三島がそのような主張をしたのかを考えると、二・二六事件が起きる2年前の1934年に小林秀雄が書いた「『罪と罰』についてⅠ」の構造が浮かんできます。ここで「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」とした小林は、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」とその義理の妹を殺した主人公のラスコーリニコフには、「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったと断言していたのです(全集、6・45)。

つまり、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」を殺害しても「罪の意識」が現れなかったと解釈するならば、「政府要人」を「悪人」と見なして殺した青年将校たちにも「罪の意識も罰の意識も」現れるはずはなかったのです。

このような解釈は、我田引水のように思える人もいるかも知れませんが、「文化防衛論」で「社会主義が厳重に管理し、厳格に見張るのは、現に創造されつつある文化についてであるのは言うまでもない。これについては決して容赦しないことは、歴史が証明している」と記した三島が、「ソヴィエト革命政権がドストエフスキーを容認するには五十年かかってなお未だしの観があるが」と続けています。

 この記述からはドストエフスキーへの三島の深い関心がうかがえ、当時、流行していた小林秀雄の『罪と罰』論からも影響を受けたことが感じられるのです。

「耽美的パトリオティズム」の批判――「美神との刺違へ」という表現と林房雄の「玉砕」の美化

4,復讐と絶望の分析と人類滅亡の危険性――『罪と罰』から『白痴』へ

 神西清は三島由紀夫論「ナルシシスムの運命」で、「戦争は確かに、彼の美学の急速な確率を促した。(略)美の信徒は、今やはっきりと美の行動者になったからである」と記していました(『神西清全集』第6巻、484頁)。

実際、三島由紀夫はデビュー作といえる『仮面の告白』のエピグラフで、「美の中では両方の岸が一つに出合つて、すべての矛盾が一緒に住んでゐるのだ」という『カラマーゾフの兄弟』のセリフを引用していたのです。

これらのことを紹介した宮嶋繁明氏は、三島にとって「美」が如何に重要な理念として確立したかに注意を促した神西が、さらに「美の殉教者が一変して、美による殺戮者になったのだ。彼は美という兇器をふりかざして、あらゆる敵へ躍りかかって行った」と続けて、「三島事件」を予見するような考察も行っていたことに注意を促しています(『三島由紀夫と橋本文三』弦書房、2011年、46~47頁)。

ドストエフスキーにおける美の問題は『白痴』の理解にも深く関わりますが、先にみたように、「学生とのティーチ・イン」では「暗殺」の正当性を主張するために「決闘」にも言及することで「暗殺」を「美化」しようとした三島がかえって学生から卑怯だと指摘されていました。

実は、この前段階で三島は「私はアウシュビッツを認めるわけじゃない。私はナチスのああいうやり方を認めるわけじゃない。/私があくまでそこを分けたいと思うのは、人間が全身的行為、全身的思想で、人と人とぶつかり合うという決闘の思想というものが私は好きなんです」と語っていました(196)。

さらにスターリンが行った「粛清」とも比較することで、「あれだけ警備の多勢いるところで、死刑を覚悟でやるというのは大変だと思う。私は人間の行動というのは、行動のボルテージの高さで評価する」と語った三島は、一対一で行う「勇気」にも言及して「暗殺」を正当化していました。

そのような人物の一人がドストエフスキーが『罪と罰』で描いたラスコーリニコフであり、 「非凡人の理論」を考え出して、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」を殺害したのです。こうして、ドストエフスキーは「小説という方法を生かして「非凡人」の理論を、「他者」の殺人という極限的な事態の中で、主人公の身体や感情の動きをもきわめて具体的に分析しながら考察することにより、フロイトなどに先だって絶望の諸相や人間心理の無意識的な深みにまで迫り得た」のです(『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、9頁)。

『罪と罰』では老婆とその義理の妹を殺害したラスコーリニコフの更生が、エピローグでの「人類滅亡の悪夢」を見た後で示唆されていました。

一方、『白痴』ではスイスでの治療から戻ったムィシキンは出会った絶世の美女ナスターシヤの内に深い「絶望」を見抜いて、なんとか癒そうとしたのですが果たせずに終わります。「決闘」の問題を「復讐」のテーマともからめて考察しているこの長編小説では(拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、176~180頁)、さらにより深い「絶望者」が描かれています。

それが自分の余命が長くないことを知らされたイッポリートです。自殺をしようとして失敗していた彼は、自暴自棄となり「もしもいまこのぼくが急に思いたって、好き勝手に十人ばかりも人を殺したり」、あるいは「世の中で一番ひどいと思われることをしでかしたりした」らどうだろうかと問いかけていました。

 「つまり、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」では、他者は軽蔑すべき対象としてでも存在したのにたいし、「自己」の可能性を見失って「絶望」したイッポリートにとっては、「他者の生命」も意味をなさなくなってしまって」いたのです(前掲書、217頁)。

この意味で興味深いのは、三島との討論の際に学生Eが、次のような鋭い質問を投げかけていました。 「たった一人でこの世の中を全(すべ)て破壊できると考える人間が、自分の考えを貫こうとして、この全世界を破壊するしかない」と考えて、「合理的に、自分の自殺と他の全世界の人々を滅ぼすということを同時にやったとして、それで全世界を滅ぼすことになっても、ボルテージの高まったその個人に意義はあるのですか。それを伺いたいのです」(206)。

この質問は私が『白痴』のイッポリート から受けた印象とも重なっていました。 彼が考えたのは「無差別殺人」のことでしたが、核の時代の現代においてそれは核兵器の使用になると思えるからです。

こうして、「憲法」を変えるために三島由紀夫が東部方面総監を人質にして自衛隊のクーデターを呼びかけ、その後、割腹自殺をした事件から私は激しい衝撃を受けたのですが、その一因は 椎名麟三が自殺した芥川龍之介が遺書の『或旧友へ送る手記』で、「僕の手記は意識している限り、みずから神としないものである」と記していることに注意を促していたことにもありました。

つまり、「三島事件」を知った時には、三島が芥川とは反対に「みずから神」となるために自刃をしたことに強い反発を覚えたのです。

その後、この衝撃的な事件の印象は薄れましたが、その関心は「昭和維新」を掲げた2・26事件に遭遇した若者を主人公とした堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の考察 や、原爆パイロットをモデルにして原水爆の危険性を考察した『審判』の考察へと向かうことになりました。

 次回の「チェコ事件でウクライナ危機を考えるⅡ」では、ドストエフスキーについての言及もある堀田善衞の小国の運命・大国の運命』を詳しく考察することにより、彼の社会主義観や文明観に迫りたいと思います。

(2022年3月21日、加筆、改訂)