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司馬遼太郎のドストエフスキー観 ――満州の幻影とぺテルブルクの幻影  (1)昭和初期の「別国」とニコライ一世の「暗黒の三〇年」

司馬遼太郎のドストエフスキー観 ――満州の幻影とぺテルブルクの幻影  (1)昭和初期の「別国」とニコライ一世の「暗黒の三〇年」

はじめに

 ロシアと日本の近代化の類似性に注目して司馬遼太郎の2・26事件観にふれていた「司馬遼太郎のドストエフスキー観」(『ドストエーフスキイ広場』第12号、2003年)を、旧かなづかいと旧字を現代の表記に改めるなど文体を一部修正し 、 註を本文中の()内に記す形で再掲する。
 なぜならば、堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』にも言及していた本稿は、新著『堀田善衞とドストエフスキー 大審問官の現代性』(群像社)の内容と深く関わっているだけでなく、プーチンのロシアと帝政ロシアの類似性と危険性をも示唆していたからである。

一、昭和初期の「別国」とニコライ一世の「暗黒の三〇年」

 「自国に憲法があることを気に入っていて、誇りにも思っていた」若き司馬遼太郎は、「外務省にノンキャリアで勤めて、どこか遠い僻地の領事館の書記にでもなって、十年ほどして、小説を書きたい」という自分の人生計画を持っていた(司馬遼太郎・井上ひさし「普遍性なき『絶対主義』」『国家・宗教・日本人』)。

 しかし太平洋戦争の最中、文化系の学生で満二十歳を過ぎている者はぜんぶ兵隊にとるということ」になった時、自国の憲法には「徴兵の義務がある」ことが記されていることも知って、司馬は「観念」したのであった(「あとがき」『この国のかたち』Ⅴ。 本稿においては、司馬遼太郎の作品は、章と作品名、および巻数をローマ数字で本文中に示す)。

 しかも学徒出陣で彼が配属されたのは、満州の戦車隊であった。司馬は後に戦車について「悲しいほど重要なことは、あれは単なる機械ではなく、日本国家という思想の反映、もしくは思想のカタマリであった」と記して、「無敵皇軍とか神州不滅とかいう」用語によって、「自国」を「他と比較すること」を断った当時の日本を厳しく批判した。つまり日本軍の戦車は「敵よりもはるかに鋼材が薄く、砲が敵にかすり傷も与えることができないほどに小さすぎた」ので、「敵戦車が出現した瞬間が私の死の瞬間になる」ことを意味していた。そして、敵の強力な戦車とは、ロシア(ソ連)の戦車に他ならなかったのである。

 司馬は戦車の閉ざされた空間の中で「国家とか日本とかいうものは何かということ」を考え込んでいるうちに、「むこうの外界にあらわれたのは敵の戦車ではなく、…中略…成立後半世紀で腐熱しはじめた明治国家が、音をたてて崩れてゆく」という幻影を見、もし生きて帰れたら「明治国家成立の前後や、その成立後の余熱の限界ともいうべき明治三十年代というものを、国家神話をとりのけた露わな実体として見たいという関心をおこした」と記している。 明治国家の「露わな実体」に迫ろうとした司馬は、同時に自分に死を宣告する筈だったロシアの「露わな実体」をも明らかにしたいと思った筈であり、このことが司馬に日露戦争を主題とした『坂の上の雲』を書かせたといっても過言ではないだろう。

 ところで、司馬遼太郎が深く尊敬していた福沢諭吉は、一八七九年に書いた『民情一新』で、日本に先駆けてロシアの「文明開化」を行ったピョートル大帝の改革を高く評価した。その一方で彼は、西欧の「良書」や「雑誌新聞紙」を見るのを禁じただけでなく、国内の学校においては「有名なる論説及び学校読本を読むを禁じ」、さらには「学校の生徒は兵学校の生徒」と見なしたニコライ一世治下の政治を「未曽有(みぞう)の専制」と断じ、このような結果、「人民も政府も共に狼狽して方向に迷う者」の如くになったと批判した。

 実際、ロシアは「富国強兵」策によって強国となり、貴族の富は増大したものの、それに反比例する形で民衆、ことに農民の「奴隷化」が進んだのである。しかも、ロシアの文部大臣となったウヴア一ロフは、西欧化の流れの中で若者にも影響力をもち始めていた「自由・平等・友愛」という理念に対抗するために、「ロシアにだけ属する原理を見いだすことが必要」と考えて、「わが皇帝の尊厳に満ちた至高の叡慮によれば、国民の教育は、正教と専制と国民性の統合した精神においてなされるべきである」とし、国民にたいしてこの理念の遵守を求めた通達を一八三三年に出した。しかし、国内の劣悪な政治状況を放置したまま「為政者」にではなく「国民」に「道徳」を課し、これを批判する者を厳しく罰したこの理念は、ロシアにおける「欧化と国粋」の対立の激化を招いたのである ( 高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、二〇〇二年、四八~五三頁参照 )。

 ドストエフスキーが生涯敬愛し続けたプーシキンは、このようなロシアの二重性を叙事詩『青銅の騎士』(一八三三)において見事に描き出していた。すなわち、この作品の主人公である若い官吏エヴゲーニイは、ペテルブルグを襲った大洪水で最愛の婚約者を失った悲しみから茫然として街をさまよい、ついにはピョートル大帝の「青銅の騎士」像に追いかけられるという強迫観念に駆られて狂死したのである。

 ドストエフスキーもフランス二月革命が起きた一八四八年に書いた小説『弱い心』で、最愛の娘との婚約にまでこぎつけた主人公の若い官吏が、有頂天になって仕事に手が着かず、「職務不履行のために兵隊にやられる」のではないかと恐れて「発狂」するという悲劇を描いた。こうして、農奴制の改革などを求めて、ペトラシェフスキーの会に参加していたドストエフスキーは、佳作『白夜』の発表から間もなく捕らえられて刑が決まるまでの約八か月、サンクト・ぺテルブルクの中心部に位置したペトロパヴロフク要塞の独房に監禁された。

 司馬は「私はいまでもときに、暗い戦車の中でうずくまっている自分の姿を夢にみる」と書いていた(「石鳥居の垢」『歴史と視点』)。ドストエフスキーもまた、いつ看守が死刑を告げにくるかも知れぬ暗い独房の中で、「うずくまっている自分の姿を夢に」見てうなされたことであろう。そして、そのような閉ざされた空間の中で、「ロシアとかいうものは何かということ」を考え込んでいるうちに、彼が見たのはピヨートル大帝によって造られた壮麗な都市サンクト・ぺテルブルクが「音をたてて崩れ」、もとの沼地に戻るという光景だったのではないだろうか。

 譜の作成者は司馬遼太郎が学生時代には『史記』だけでなく、ロシア文学を耽読していたことも記している(山野博史編「司馬遼太郎の七二年」『司馬遼太郎の跫音』中公文庫、一九九八年、六九二頁)。司馬遼太郎がドストエフスキーに言及している箇所はそれはど多くはないが、以下に詳しく見るように、言及されている箇所は司馬の「作風」や文明観の変化にも係わる重要な役割を担っているのである。本稿ではドストエフスキーが青春を過ごしたニコライ一世の「暗黒の三〇年」と、司馬が「別国」と呼んだ昭和初期の類似性に注目しながら、司馬のロシア観の変化を追うことによって、ドストエフスキーヘの言及の意味に迫りたい。

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