高橋誠一郎 公式ホームページ

2022年

宮崎駿アニメに見る堀田善衞の世界

拙著 終章の構成

一、映画《モスラ》から《風の谷のナウシカ》へ

アニメ映画《風の谷のナウシカ》の冒頭では、「人口五〇〇人足らずの平和な農業共同体」である「風の谷」を吹く清浄な風が、大国トラキアの巨大な飛行機が運んできた腐海からの胞子や巨大な昆虫によって乱されるシーンが描かれている。

「火の七日間」と「巨神兵」による「最終戦争」によって科学文明が終わってから一〇〇〇年後の世界が描かれているこの映画と映画《モスラ》との映像的な類似性について、研究者の小野俊太郎は次のように指摘している。

「この二つの作品には、すぐに目につく類似点が多い。幼虫モスラと王蟲(オーム)の形状の類似だけではなく、成虫モスラとウシアブのふんわりとした飛行、腐海(ふかい)の毒と放射能の働きの類比は明白だし、暴走するイモ虫、巨大な繭と熱による孵化、巨大な胞子植物、怪異と意思疎通する少女、といった点も似ている。タイトルバックで神話が碑文や絵巻といった映像でされるのも共通している」*1。

そして、「風」の流れに注意を促して「問題となるのは、ナウシカが住んでいる『風の谷』で、ここには『モスラ』における日本とインファント島問題そのものが拡大して投影されている」と指摘した小野は、「ここに接合されているのは、黒澤明が『生きものの記録』(一九五五)で突きつけた、気流の関係で死の灰が寄ってくる風の谷間に暮らす日本である」と続けている*2。

実際、《風の谷のナウシカ》は核戦争後に発生した「腐海の森」から発生する有毒ガスで、生き残った人々の生存も危うくなる中で、「土壌の汚れ」の原因を突き止めようとする少女ナウシカの活躍を描いている。

《風の谷のナウシカ》のタイトルバックで示される絵巻では「その者青き衣(ころも)をまといて金色(こんじき)の野におりたつべし。失われた大地との絆(きずな)を結び、遂に人々を青き清浄の地に導かん」との言い伝えが織られていた。

さらに、ナウシカが見た「王蟲」の子供が殺される夢も自分の危険もかえりみずに傷ついた「王蟲」の子供を守るという感動的なラストシーンへとつながっていることもたしかだろう。

二、 卒論のランボオと映画《紅の豚》  より

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三、映画《風立ちぬ》と『若き日の詩人たちの肖像』の時代

《風立ちぬ》論のスレッド(Ⅰ~Ⅲ)と【書評】  アニメ映画《紅の豚》から《風立ちぬ》へ(Ⅰ) 《風立ちぬ》Ⅱ――大地の激震と「轟々と」吹く風 《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影

2024/03/19、改題と改訂

ウクライナ危機と1986年以降のロシア危機(2)――   「民族的憤激」の危険性

今回の再掲にあたって副題に付けた「民族的憤激」という用語は、週刊朝日の1967年8月11日号に書いた三島由紀夫の「民族的憤激を思ひ起せ-私の中のヒロシマ」から引用したもので、三島はそこで原爆投下のニュースを知ったときの衝撃についてこう記していました。

「広島に〝新型爆弾″が投下されたとき、私は東大法学部の学生であつた。神奈川県の高座(かうざ)にある海軍の工場に勤労動員中だつたが、ひどく虚無的な気分になつてゐて、「新型爆弾に白い衣類は危険だ」といふので、わざと自シャツ姿で町を歩いたりした。/ それが原爆だと知つたのは数日後のこと、たしか教授の口を通じてだつた。世界の終りだ、と思つた。この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある。」 (447)

だが、その前年に 2・26事件の指導者の一人であった将校 ・磯部浅一の霊に憑かれたような作品 『英霊の聲』を発表していた三島は、そのあとこう続けて
核武装」を正当化していたのです 。

「われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起こすべきではないのか」 。

三島由紀夫作品でウクライナ危機を考える――「民族的憤激」の危険性

 一方、 堀田善衞は『小国の運命と大国の運命』の終わり終章でヨーロッパと比較しつつ、「われわれの日本、中国、ヴェトナム、南北朝鮮、インドネシアなどの、相互にまったく不均衡かつ共通項を欠いた情況をもつアジアの方が、実はずっと危険でもあり深刻な様相にあるものである、と私は思う」(314)と書いています。  

極東の諸国は日本に侵略されたり併合されたりして民族的な自尊心を著しく傷つけられた過去を持っています。 右派の政治家が三島が敬愛する2・26事件の将校たちと同じような「民族的憤激」を煽って、軍拡や核武装に踏み切ることになれば、極東から核戦争が始まる危険性が高まると思われます。

冷静に国家の未来を創造すべき政治家が「民族的憤激」を煽ることは、地震大国でありながら54基もの原発を建設した日本だけでなく、極東を滅亡の危機にさらすことにつながるでしょう。

ウクライナ危機にロシア危機を振り返る――「民族的憤激」の危険性

『「罪と罰」を読む―「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、1996年) の「あとがき」より。

 本書に推理小説的な手法を持ち込むきっかけとなったことが他にもありました。それは現代ロシアの犯罪状況が、『罪と罰』当時のロシアの状況ときわめて似ていることを実感したことです。ラズミーヒンはラスコーリニコフの母と妹にサンクト・ペテルブルクの危険性を指摘していますが、この言葉は現在のロシアの大都市にもそのままあてはまります。

つまり、新たに市場経済を採用したロシアでは、まだ経済のルールが確立されておらず、「儲ける」ためには「あらゆることが許されている」と考える者も少なくなく、そのような中、最も手っ取り早い儲けの手段として強盗や泥棒などの犯罪が多発しているのです。実はこの年(九三年)の夏に学生を引率してモスクワを訪れた際、私自身が強盗にあって殺されかけるという経験をしました。ピストルをこめかみに当てられながら、私を殺しても彼らはラスコーリニコフのように後悔することはないだろうとふと思い、『罪と罰』の世界がとても身近なものに感じられたのです。

 また、この時期に、モスクワ大学の本屋などに英語で書かれたビジネス書や様々な英語の雑誌が急に増えていたことに驚かされましたが、本論で見たように、農奴解放がなされる一八六一年の前後にもロシアには西欧の様々な思想がどっと入り、それらをめぐって鋭い論戦が行われていたのです。さらに、既存の思想やモラルが根底から揺れ動き、激しいインフレと失業率の増大、犯罪の多発に苦しむ現在のロシアや旧ユーゴスラヴィアの状況は、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊して第一次世界大戦へと至った頃や、その戦いに破れたドイツ帝国の社会的状況とも似ているように思えます。

一九九二年の夏に、私はロシアのいくつもの本屋でヒトラーの『わが闘争』のロシア語訳を見かけ、なぜドイツとの戦いであれほどの犠牲者を出した国で、この本が売れているのか不思議に思いました。しかし、その後に行われたロシアの総選挙で過激な民族主義者のジリノーフスキイが率いる党が勝利をおさめたのを見るとき、その理由の一端が分かったように思いました。チェチェン紛争に際しては、彼の主張にきわめて近い政策が取られて四万人以上とも言われる死者を出していますが、政治的・経済的混乱の中では、自国民の優秀さを訴えるとともに、闘争の必然性とその勝利を説く者が、民衆の傷ついた自尊心を強く刺激するようです。この意味において、わかりやすい言葉でドイツ民族の優秀さと権力への意志を訴えた『わが闘争』は、論理の一貫した説得力のある書物と言わねばならないのです。

一方、戦後めざましい経済復興を遂げ、繁栄を謳歌しているかに見える日本も、環境破壊やバブル経済の破綻、さらには「地下鉄サリン」事件や頻発するいじめ問題など、社会の抱える問題の根は深いように思われます。

 こうして、本書では殺人を引き起こすことになったラスコーリニコフの考えが現代の問題ともつながっていることも視野に入れながら、彼の思索や行動、さらに他者との議論の考察などを通して、彼の理論と当時のヨーロッパ思想との深い係わりを文明論的な視点から検証しました。文学作品『罪と罰』には様々な読み方が可能だと思われますが、本書がより広い視野と百年単位の長い視点から自分や社会について考察するきっかけとなれば幸いです。またこれを機会に『罪と罰』やその研究書だけでなく、ここで言及した多くの文学作品や思想書にも挑戦してもらえればと思っています。

 (2022/04/15、改訂)

 

ウクライナ危機と1986年以降のロシア危機(1)

ロシア軍によるウクライナ侵攻と蛮行が未だに収まらない状況を知らせるニュース報道を見、新聞記事を読みながら、なにも出来ないことに苛立ちながら、「チェコスロヴァキア事件とウクライナ危機」という論考を書いていました。

その中で鮮明に思い起こしたのは、学生を引率していた際に経験した1986年のチェルノブイリ原発事故や1990年初頭に学会や引率で度々モスクワを訪れていた時のロシア危機のことでした。

今回のロシア軍のウクライナ侵攻では、 1986年に史上最悪の原発事故を起こした チェルノブイリ原発も一時、占領されるという事態も発生しました。この事故については、 ホームページのグラースノスチ(情報公開)とチェルノブイリ原発事故(1988年)」、「劇《石棺》から映画《夢》へ」でも言及しました、

 また、ドストエフスキーにこだわり続けた 黒澤明と小林秀雄が 1956年12月に対談をっていたことに注目して、二人の原爆観や核エネルギー観の問題に迫った 『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社、2014年)でも映画《生きものの記録》や映画《夢》の分析を通して行いました。

 1990年初頭の体験は、私のドストエフスキー観や文明観とも深く結びついているので、教養科目「現代文明論」の授業のために編んだ『「罪と罰」を読む―「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、1996年)の「あとがき」に記していました。

 以前にこのブログではエリツィンが急激な市場経済を導入したために、一時はモスクワのスーパーの棚にはロシア産の商品がないような状態も生じて、「エリツィンは共産党政権ができなかったアメリカ型の資本主義の怖さを短期間で味わわせた」との小話も流行ったことを紹介しました。

急激な市場化によってスーパーインフレに襲われ一般庶民が塗炭の苦しみを味わったこの時期に、ロシア人の多くが反欧米の感情を持つことになったと思えるので、まだホームページには掲載していなかった 「あとがき」 の該当部分をブログに、全文を「著書・共著と書評・図書紹介」のページにアップすることにしました。

ウクライナ危機にロシア危機を振り返る――「民族的憤激」の危険性

(2022年4月15日、改稿)

「群像社通信」130号、「図書紹介」より

愛媛新聞、下野新聞 2021年12月19日/ 信濃毎日新聞 2021年12月25日 ほか

生誕200年のドストエフスキーの「日本での受容を語る上で欠かせないのが堀田善衞である。終戦直前の東京大空襲と広島、長崎へ原爆投下という事態に出合って彼は、ドストエフスキーの現代的理解を深めていくからだ。」「原爆投下に関わった米国人パイロットの苦悩を通して、核戦争が起これば人類滅亡の可能性があることを示し、登場人物たちの「罪」と「罰」を描き出」した作品『審判』はじめ堀田作品を読み解き、「黙示録的時代と向き合った2人の作家の共鳴の軌跡を追う。」(共同通信配信)。

「ウクライナ危機に際して堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』を読み直す」を「主な研究」に掲載

ドストエフスキー生誕200年の翌年に突然、プーチン大統領によってウクライナ侵攻が始まったことは晴天の霹靂のような事件であった。

1968年9月にタシケントで開催されるアジア・アフリカ作家会議に参加する準備をしていた堀田善衞にとって、8月21日にワルシャワ条約5カ国軍によってチェコスロヴァキア全土が武力で占領下におかれたことも、同じように衝撃的な事件だったと思われる。

ただ、堀田は九月二〇日から二五日までタシケントで開催されるアジア・アフリカ作家会議の一〇周年記念集会に出席して、「長年の友人である」ソ連の作家たちが「どんな顔をして何を言うか、このことだけをでもたしかめてみようと思い立った」と書いている。

その時の体験や見聞を記したのが『小国の運命・大国の運命』である。このチェコ事件はすでに見たように三島事件のきっかけにもなっていたが、今回のウクライナ侵攻は日本の軍国化を一気に推し進めるきっかけにもなり、緊張の高まりから偶発的な戦争が勃発する危険性をも孕んでいると思えた。

それゆえ、日本ではあまり知られていないシベリア侵攻の問題をも踏まえて『小国の運命・大国の運命』の感想を「チェコ事件でウクライナ危機 を考えるⅡ」と題して書き終えた順に急遽、アップした。その後も戦火が収まらない現在、岸田政権は核戦争の危険性を考慮に入れずに、大増税と軍拡に踏み出そうとしているので、書き急いだ原稿で不満は残るが、構成などは変更せずに取りあえず「ウクライナ危機に際して堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』を読み直す」(上・下)と改題して再掲する。構成は下記のとおりであり、いずれ全体を書き直すようにしたい。

1)アジア・アフリカ作家会議と『インドで考えたこと』

2)1968年の国内外の情勢と『小国の運命・大国の運命』の構成

3)二つの侵攻との比較――ソ連軍の満州国侵攻と日本軍のシベリア侵攻

4)「“人喰い鬼”の詩」と『プラウダ』の衝撃

5)ロシアの“魂”とペレストロイカの挫折

6)「逆効果の“白書”」――ソ連型社会主義と「大国」の問題点の考察

7)チェコスロヴァキアの歴史と「全スラヴ同盟」の思想

8)チェコスロヴァキア事件からウクライナ危機へ――民族主義的な権力者の危険性

9)日露の隣国併合政策と教育制度の類似性

10)「チェコ軍団」の動向とシベリア出兵の問題

ウクライナ危機に際して堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』を読み直す(上)

ウクライナ危機に際して堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』を読み直す(下)

(2022/04/03、 2022/12/14、 改訂)

再稼働 核の危機招く(「東京新聞」「発言」欄、3/28)

テレビで安倍晋三元首相が「核共有」に言及、橋下徹氏は「核武装について次の参院選の争点に」と語った。こうした主張は被爆国日本の国是「非核三原則」を否定するだけでなく、核兵器禁止条約の趣旨にも反し、近隣諸国の核軍拡競争をあおる危険性が高い。

一方、「非核三原則」を「昭和の価値観」と呼んだ日本維新の会の松井氏は、ウクライナ危機が深まる中で「今止まっている原発の再稼働もやむなし」と述べた。三日特報面はこれに注意を促し、「外部電源がなくなれば制御できなくなる」原発の問題を指摘した研究者の見解を紹介した。 

危機の時に恐怖心をあおって「核武装」を主張する自民党タカ派と維新が、原発再稼働にこだわることの危険性をも冷静に指摘した記事を評価したい。

(4)2・26事件の賛美と「改憲」の危険性

「磯部一等主計の遺稿について」論じた「『道義的革命』の論理」で三島由紀夫は、その前年に発表した『英霊の聲』で2・26事件の「スピリットのみを純粋培養して作品化しようと思った」と記している。

たしかに、古今東西の文学作品に通じ、華麗な文体で多くの作品を残した三島はすぐれた文学者であったが、近年のように磯部一等主計に憑依されたかのような『英霊の聲』以降の作品を政治的・宗教的な視点から評価して、「改憲」運動につなげることは危険だろう。

「日本の右翼テロリストは、その死生観において、ある伝統的な信仰につらぬかれていた。それは、かんたんにいえば、己の死後の生命の永続に関する楽天的な信念であり、護国の英雄として祭られることへの自愛的な帰依であった。そして、まさにそれを保障したものこそ、日本の国家神道と天皇信仰とにほかならなかった」と説明した「日本浪曼派」の研究者で三島の深い理解者でもあった橋川文三は、その危険性をこう指摘している。

「このような固有の神学思想は、一定の条件のもとでは、容易にいわゆる人権の抹殺をひきおこし、しかもそこに責任や罪を感じることのない心性をつくり出す。右翼テロリストにおいて「一殺多生」という仏典的発想が結びつくのも、そのような国有の死生観念を媒介とすると考えてよいと私は思う。「汝殺すなかれ」という人格神の絶対的戒律が与えられていない場合、そこには、いかなる残虐も本来的な生命への責任感をよびおこすことはないからである。」(「テロリズム信仰の精神史」『橋川文三 著作集』5、筑摩書房)。

興味深いのは、天草の乱を描いた大作『海鳴りの底』で村岡典嗣氏の論文「平田篤胤の神学に於ける耶蘇教の影響」から「復古神道」の根幹にはキリスト教からの援用があることを知ったことを記していた堀田は、主人公に「洋学応用の復古神道」が「儒仏を排し、幕末にいたっては国粋攘夷思想ということになり、祭政一致、廃仏毀釈ということになり、あろうことか、恩になったキリスト教排撃の最前衛となる。それは溜息の出るようなものである」という感想を抱かせている。

そして、作者は登場人物の一人に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせ、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせて、「復古神道」における「汝殺すなかれ」の理念の欠如を指摘していた。

日本人が情念に流されやすいことはたびたび多くの論者が指摘されてきているが、ウクライナ危機に乗じて、「敵基地攻撃論」や「緊急事態条項」が議論されるようになってきている現在、2・26事件の問題をきちんと把握しておく必要があるだろう。

(2023/2/14,ツイートの追加)

(3)、磯部浅一の「行動記」と裁判をめぐって

 2・26事件の首謀者の一人・磯部浅一は、「行動記」で「余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであろう」と記し、この文章を引用した三島由紀夫は、子供の頃に遭遇したこの事件の印象を「その雪の日、少年たちは取り残され、閑却され、無視されていた」が、「事件から完全に拒まれていた」ことが「その悲劇の客人たちを、異常に美しく空想させたのかもしれない」と「二・二六事件と私」に記している。

一方、2・26事件の前日に受験のために上京して来た若者を主人公とした堀田善衞も『若き日の…』で「まったくの偶然であったのだが、若者が引っ越したこのアパートの隣室に2・26事件のときの首謀者中の首謀者であったⅠという男の未亡人が住んでいた」と記し、磯部浅一の裁判についてこう記述している。

「Ⅰはすでにその年の八月十五日に銃殺刑を執行されてしまっていたはずであったが、Ⅰは十九名の死刑になった首謀者のなかでも、裁判中も、終始はげしく抵抗し、軍の首脳部もまた一時彼らの青年将校たちの行動に同調し、支持さえした点をあげて、陸軍大臣の告示や戒厳命令に関係のあったぜんぶの軍事参議官もまた同罪である、と痛烈に弾劾をしつづけたので」、「重要証人として八月の十九日まで執行の延期をうけていたのである。」

そして、右翼係りの刑事から聞かされた未亡人の行動についてもこう詳しく記している。「まだまだ若い未亡人は、夫の収監されていた代々木練兵場に特設された法廷と収監所とをかねたバラックの近くの、このアパートを選んだのであった。そうして夫の死後、軍首脳部弾劾と裁判の違法性について縷々(るる)と綴られたⅠの遺書を入手し、夫人はこれをある右翼の新聞記者とはかって写真で複写をし世上に流布させようとした。

 もっとも、これらのことは、すべてⅠ未亡人を監視するために、隣室の住人である若者の部屋へしばしばやって来た右翼係りの刑事から、折にふれて聞かされていたことなのである。若者としても、偶然のこと、とはいうものの、まったく異様なところへころがり込んだものであった。(……)刑事は三日にあげずやって来た。刑事はこれらの青年将校たちにはすこぶる同情的で、時にはⅠ未亡人の私用を弁じてやったりもしていたが、なんにしてもそれは若者にとっては閉口、迷惑、この上もないことであった。」

 この記述からは堀田が磯部裁判に強い関心を持っていたことが推測できるが、ここでも焦点を磯部のみに当てるのではなく、この記述の前後に従兄から密かに「赤旗」の入ったカバンを預かってほしいと頼まれて激しく動揺したというエピソードも挿入している。

「しかし従兄には、そういう者が来るなどとは、敢えて言わないことにした。隣室に、そういう女性がいることはかつて雑談のあいだに告げたことがあったが、彼女がそこまでの厳重な監視をうけていることは言わなかったのである。それに、燈台下暗し、ということがある。かえって安全であるかもしれないではないか、と異様な具合に腹をきめて、若者は、「わかった。いいよ」/ と言ってその風呂敷包みを従兄からうけとり、学校へ通うときのカバンのなかに」押し込んだ。

こうして、堀田は磯部の裁判を描くだけでなく、警察での拷問により体を壊して表向きは転向していた従兄から預けられたカバンに入っていた「赤旗」の記事における2・26事件の記事にもふれることで、磯部を「英雄化」せずに相対化して考えようとしたのだと思われる。

しかも、この長編小説では同級生との交遊をとおして、2.26事件でも注目された皇道派の 真崎大将についてもこう記されている(注:相沢事件とは、 ドイツでヒトラー内閣が成立した1933年8月12日に統制派の軍務局長永田鉄山が皇道派の青年将校・相沢三郎中佐に斬殺された事件)。

「Mという同級生の広大な邸が、原宿にあった。その邸前でソフト帽を目深くかぶった私服の誰何(すいか)に遭った。Mの父は陸軍大将で、軍内の派閥の、その一方の頭目であるといわれていた。二・二六事件のときにも、世間の注視のまとになった人であった。また相沢事件といわれた、軍務局長を陸軍省内で斬った軍人の裁判のときにも、その軍人のためによい証言をするだろうと期待されていながら、将官は勅許を得なければ法廷で証言は出来ぬ、と言ってつっぱねた人であった。勅許とはねえ、と世間では言っていた。血の冷たい感じのする将官であった。(……)そうして級友のM自身は、たいへんな女たらしであった。そのMの勉強部屋で、少年は生れてはじめてエロ写真なるものを見せられた。親爺が上海からもって来たんだ、とMが言った。」

 (2023/02/14、改訂とツイートの追加)

(2)、2・26事件と検閲の強化

三島由紀夫が『豊饒の海』の第二巻『奔馬』のモデルとした血盟団事件(2月~3月)で井上日召に率いられた学生たちによって、井上準之助と團琢磨が暗殺されるという連続テロ事件が起きた1932年には、京都大学法学部の滝川教授の発言が問題になる滝川事件も起きていた。

さらに満州国の承認に慎重だった犬養毅・内閣総理大臣が、武装した海軍の青年将校たちと血盟団の残党らによって殺害された5・15事件が起きた。1935年には、天皇機関説事件が起きていた。

『若き日の…』ではこれらの事件については言及されていないものの、1934(昭和9)年に『ファッシズム批判』を出版して、軍国主義と「国体明徴」運動を批判したことで知られていた河合栄治郎・東京帝国大学教授が書いた二・二六事件の批判記事がかなり長く引用されている。

「帝国大学新聞」について「大学が、また大学生が新聞を刷って売っているということが、少年にはなんともいえぬほどに清新で、自身の腹の底から甲高い声が出そうなほどに、爽快でもあった」と書いた主人公は、事件直後の三月九日付の号に載った記事の「筆者は河合栄治郎という人であった」ことを紹介して、次の文章を引用している。

 「彼等の我々と異なるところは、ただ彼等が暴力を所有し、我々がこれを所有せざることのみにある。だが偶然にも暴力を所有することが、何故に自己のみの所信を敢行しうる根拠となるのか、何故に国民多数の意志を蹂躙(じゅうりん)せしめる合理性となるか」。そして、主人公は「削除は多いにしても、筆者の怒りと批判ははっきりと出ていた」と結んでいる。

一方、押し入れからさがし出した雑誌の『中央公論』は六月号で、「同じ筆者が巻頭に論文を書いていた」が、「この方は、バッテンばかりで、さっぱり見当もつかなかった」と記されているが、ここでは「第三」のみを長く引用することで具体的に示しておきたい。

「第三に彼等は政党の堕落と財閥の横暴とをみた。国体を明徴ならしむることによって、国民思想の安定を図りうると考へたことに、彼等の単純さがある。×××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××。しかし複雑なる社会問題に囲まれ、幾多の思想によりて攪乱されてゐる一般市民にとっては、×××××××××××××××××××××××、未だ問題を解決することにはなりえない。××××××××、現代に処して、いかなる内容を盛るべきかが、今や必要とされてゐるからである。」

実際、この事件の首謀者は非公開で弁護人なしという特設軍法会議で裁かれ処刑された。それによって軍部における統制派の権力は強まり、「祭政一致」の原則に基づいて「専制・正教・国民性」を厳守するように求めた「ロシア帝国」と同じような政策が実施され、それを批判することは全くできなくなったのである。

芥川龍之介は自作『将軍』の検閲と伏字に対して怒りを感じていたが、2・26事件以降には軍部における統制派の権力が強まり、「祭政一致」の原則に基づいて「専制・正教・国民性」を厳守するように求めた「ロシア帝国」と同じような政策が実施され、それを批判することは全くできなくなっていたのである。

 この長編小説ではラジオから流れてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説が主人公の重要な転機になっていたが、1933年1月にナチスが政権を握ったドイツでは「非ドイツ的な魂」に対する抗議運動が行われるようになり、5月10日のユダヤの知識人の書物を大量に焚書にした際にもゲッベルスが扇動的な演説をしており、その際に焚書の対象とされたドイツの公法学者ゲオルク・イェリネックの著書『人権宣言論』を1906年に訳出していたのが「天皇機関説」事件でやり玉に挙げられることになる美濃部達吉だったのである。

主人公が仏文科への転科を決意したのは1940年秋のことだったが、その際には白柳君との会話などをとおして日本では「商工省の通達があって、洋書の輸入は禁止された」が、「一九三五年にパリで行われた国際作家会議の記録によると、ドイツの作家代表は匿名は無論のこと、顔に覆面までをかぶって出て来るというひどい政治の有様」になっていたことなども記されている。

 (2023/02/14、改訂とツイートの追加)