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ピョートル大帝

書評 『十八世紀ロシア文学の諸相―ロシアと西欧 伝統と革新』(金沢美知子編 水声社 二〇一六年)

18世紀ロシア文学、紀伊國屋(書影は紀伊國屋書店より)

 

十八世紀ロシア文学の諸相―ロシアと西欧 伝統と革新』金沢美知子編 水声社 二〇一六年)

編者の序文によれば本書は、「ここ十数年の十八世紀ロシア文学をめぐる仕事に現れた新たな動向を日本のロシア研究の中に位置づけることを目的とし,さらにその先へと研究が発展することを願って」出版された。

第一部「近代ロシア文学の形成過程」、第二部「文学をとりまく環境」、第三部「十八世紀ロシアへの視点」から成る本書には、文学だけでなく歴史や文化にかかわる多くの論文が収められている。ただ、『ドストエーフスキイ広場』に掲載する書評という性格上、ここでは作家との関連の深い論文に絞って論じることにしたい。そのことによってドストエフスキー作品の理解も深まると思えるからである(本稿では敬称は略し、名前の表記は統一した)。

たとえば、ロモノーソフという名前は、日本の一般的な読者にはあまりなじみがないと思われるが、ドストエフスキーはペトラシェフスキー事件の裁判で「ピョートル大帝時代のロシア語はどんなものだったでしょうか? ロシア語半分にドイツ語半分だったのです。…中略…だから、ピョートル大帝の直後、ロモノーソフの出現したことは、偶然ではないのです」と語っていた。

鳥山裕介は「ロモノーソフと修辞学的崇高――十八世紀ロシアにおける『精神の高揚』の様式化」で、「十七世紀フランスの崇高論」と比較しながら、ロモノーソフにおける「崇高な文体」の創出の試みをその詩も引用しながら描き出している。ここでは聖書の記されていた文字であるギリシャ語と古代スラブ語とのかかわりや、ピョートル大帝による文字の改革の試みなどにも言及してロシア語の特徴をも浮かび上がらせており、ドストエフスキーがロモノーソフの意義を高く評価した理由を明らかにしている。

三浦清美「ロモノーソフの神、デルジャーヴィンの神」と三好俊介「ヴラジスラフ・ホダセヴィチと十八世紀ロシア─評伝『デルジャーヴィン』をめぐって」は、彼らの生きた時代と詩作品との関わりをとおして、彼らの雄大な自然観や「神」の観念などを詳しく伝えているだけでなく、詩人たちの力強い生き方をも示している。このことはなぜドストエフスキーが、シベリア流刑後に書いた長編小説『虐げられた人々』においても、ロモノーソフのもとにエカチェリーナ二世自らが訪問したことなどを主人公に語らせることで文学の意義を説明していたかをも示唆しているだろう。

「ロシア感傷小説の最初の種まき」を行ったフョードル・エミンの活動に焦点を絞った金沢美知子の二本の論文「フョードル・エミンとロシア最初の書簡体小説── 現実の様式化へ向けて」、「フョードル・エミンと十八世紀ロシア」では、職を求めてロシアを訪れ、最初は翻訳局で働いた外国人のエミンの活動を紹介しながら、「東方を舞台とした愛と冒険の物語を書いていた」エミンが、手紙を「人間の内面吐露の手段として大いに利用して」いたことを指摘するとともに、女帝エリザヴェータやエカチェリーナ二世の時代の外国との積極的な交流が十九世紀ロシア文学の豊かな土壌を形成したことを説得的に描きだしている。

安達大輔は「カラムジンの初期評論における翻訳とその外部」で、「感受性」という語には「一、外部の刺激に対する身体的な反応・感応という物質面と、二、共感・同情・哀れな者への共苦という精神面との区別」があるが、「『倫理的』転回が起きるのはセンチメンタリズムにおいてである」と本書の寄稿者でもあるコチェトコーヴァが『ロシア・センチメンタリズム文学』において記していることに注意を促している。このことはドストエフスキーの初期の作品を理解する上でも重要だろう。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の翻訳の序文で、「わが作者の考えを私が変えたところはない、と言うのもそのようなことは翻訳者には許されないと考えたからだ」と記したカラムジンの言葉からは、ドストエフスキーの作品の邦訳の問題についても考えさせられた。カラムジンが戯曲『シャクンタラー』については「この戯曲は古代インドの美しい絵といえるかもしれない」と記すのみで翻訳の困難さには言及していないことに注意を向けて、「二種類の翻訳の存在」を指摘していたことも興味深い。

カラムジンの『哀れなリーザ』や書簡体で書かれたゲーテの『若きウェルテルの悩み』が、ドストエフスキーの第一作『貧しき人々』にも強い影響を与えたことはよく知られているが、「ロシア・センチメンタリズムに見る『死への憧憬』と『離郷願望』」で、「感傷小説」には「悲劇型」ばかりでなく、「めでたし型」も存在していたことを紹介した金沢美知子は、スシコフの『ロシアのウェルテル』などにおける主人公たちの自殺についての言動に注意を向けて、「作家と読者の中に、個人主義あるいは個人と社会の対立についての問題意識が育ち始めていたことを証している」とし、この主人公が「『余計者』の原型」であると指摘している。

大塚えりな「カラムジン『ロシア人旅行者の手紙』における虚実」は、カラムジンが『モスクワ新聞』に掲載した広告文で「私の友人に物好きなのがいて、ヨーロッパ各地を旅行して、…中略…考えたこと、創造したことを書きとめてきた」と書いて、「作家はあくまで編者の立場」をとっていることに注意を促すとともに、最新の研究資料を紹介してここには「個人的な『旅行記』としての側面」もあることを具体的に示している。この論文からは『冬に記す夏の印象』の書き出しの文がカラムジンの『ロシア旅行者の手紙』の「パロディという要素」が非常に強く、「自分の旅行を機縁にして、以前から考えていた西欧観を吐き出そうとしたもの」であるという川端香男里の指摘が思い出される。

金沢友緒は「ロシアで翻訳された最初のゲーテ文学――О・П・コゾダヴレフと悲劇『クラヴィーゴ』」で、『若きウェルテルの悩み』では「ドイツの旧いモラルと自由を求める個人の葛藤の中でドラマが展開する」のに対して、悲劇『クラヴィーゴ』では「複数の国家社会と文化の対立の構図をとおして」主人公の恋愛が描かれていることに注目している。そして、ドイツのライプツィッヒ大学に留学した翻訳者コゾダヴレフが、この劇に「異文化衝突のドラマ」を見たと指摘し、後に彼が「国家の様々な文化事業に関与し」、「教育システムの構築と雑誌の発行」に携わることになることとの関連を指摘している。それは小説の創作ばかりでなく、ヨーロッパの情勢をも伝える総合雑誌『時代』や『世紀』の発行にも関わっていたドストエフスキーの視野の広さにも深く関わっているだろう。

私がもっとも関心を持って読んだのは「古来さまざまな議論が行われている」プーシキンのラジシチェフ論をゲルツェン研究の視点からの解釈を示した長縄光男の論文「『ペテルブルグからモスクワへの旅』をめぐって──ラジシチェフ・プーシキン・ゲルツェン」であった。

よく知られているように、ラジシチェフは「ザイツォヴォ」という章で、「農民に対する地主の非人間的横暴」によって引き起こされた「農民による地主の集団的殺害事件」を担当した裁判所長官の良心の苦しみを描いていた。このエピソードは自分の父が農民たちによって殺害されたことを知った若きドストエフスキーの苦悩や良心観を理解する上でも重要と思えたために、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』(成文社、二〇〇七年)で詳しく紹介するとともに、歴史家・國本哲夫の説に従ってプーシキンのラジシチェフ論が「イソップの言葉」によって記されていると解釈していた。

しかし、ラジシチェフがきわめて率直に農奴制を批判したのは、「ルソーやディドロやヴォルテールらと親密に付き合っていた」エカチェリーナ二世が、「若者たちにも彼らの思想を学ぶように奨励した」ためだったと説明した長縄は、プガチョフの乱が起きるなど時代は変化し、フランス革命の翌年に刊行されたこの本をエカチェリーナが「プガチョフより悪質だ」と評したことを紹介している。

そして、「プーシキンはラジシチェフと真逆の道筋――すなわち、モスクワからペテルブルグへという経路を辿った。この事実そのものに、まず、プーシキンのラジシチェフ批判の意図を読み取ることができるだろう」と指摘し、「『知恵の悲しみ』も今ではすでに古びた悲しいアナクロニズムでしかない」と書いたのは、「本音」だっただろうと書いている。

たしかに、若い頃と『エヴゲーニイ・オネーギン』を書き上げた頃のプーシキンの考えが大きく変わっていることに留意するならば一八三三年から三六年にかけて書かれたラジシチェフ論は、「イソップの言葉」ではなく「本音」で書かれていたと考えられる。

ドストエフスキーもシベリア流刑以降は、むしろグリボエードフの『知恵の悲しみ』を批判するようになった頃のプーシキンを理想として掲げていたのである。ただ、ここでは詳しく論じる余裕はないが、それは『罪と罰』のエピローグに記された「人類滅亡の悪夢」が示しているように、日本の近海にも及んだクリミア戦争など近代兵器の進化に伴って戦争がさらに世界的な規模へと広がることへの危険感とも深く結びついていたと思える。

乗松亨平は「ベリンスキーとロシアの十八世紀──『ロシア史』はいかに語られるか」で、デビュー評論で文学は「ナロードの内的な生を、最奥の深淵と鼓動にいたるまで表現する」がロシアにはまだ「文学はない」と宣言したベリンスキーの歴史観の変遷を考察している。すなわち、一八四〇年の初頭以降は「ロシアとヨーロッパ、教養階級と民衆の断絶が、漸減されていく過程としてロシア文学史を捉える」というベリンスキーの視点が基本的に変わっていないことを指摘するとともに、「ロシアの未熟さ、若さ」を未来の可能性として「ポジティヴに読みかえる」という論法をベリンスキーが、「生のあらゆる領域、あらゆる世紀と国へ自由に移動できるプーシキンの芸術的能力」にも用いていることを指摘した。

そして乗松は、その手法が「プーシキンのロシア特有の天才は、きわめて多様な感情や人々を描けることにある」として「プーシキンの詩的創造の全世界性を称賛」したプーシキン像除幕式講演におけるドストエフスキーにも通じることを強調している。ベリンスキーと晩年のドストエフスキーのプーシキン観の意外な類似性をも指摘したこの記述からは、ドストエフスキーとベリンスキーの関係を再考察する必要性を感じさせられる。

文学について考察した論文ではないが、豊川浩一の「十八世紀ロシアにおける国家と民間習俗の相克──シンビルスクの『魔法使い(呪術師)』ヤーロフの裁判を中心に」は、ドストエフスキー初期の作品『主婦』に描かれた世界を理解するのに役立つだろう。矢沢英一の論文「イワン・ドルゴルーコフの回想記から見えてくるもの」は、ロシアの貴族たちの間でどのようにアマチュア演劇が広まり、大規模な農奴劇場が生まれたかを詳しく記しており、子供の頃に『知恵の悲しみ』を感激して見たドストエフスキーがシベリアの監獄で演じられた民衆芝居について『死の家の記録』で記していたこととの関連で非常に興味深く読んだ。

モスクワ大公国時代の儀礼との比較をとおしてピョートル改革後の特徴の解明を試みて、「信念の祝賀」や、「聖水式」などを考察した田中良英の「十八世紀初頭におけるロシア君主の日常的儀礼とその変化」は、視覚的な資料も多く掲載されている大野斉子の「女帝の身体」とともに、当時の宮廷の衣裳や風俗の特徴を浮かび上がらせている。

中神美砂「E・R・ダーシコヴァに関するロシアにおける研究と動向」も頁数は少ないが読み応えがあり、ナターリヤ・ドミトリエヴナ・コチェトコーヴァによるロシア科学アカデミー・ロシア文学研究所の詳しい紹介論文「プーシキンスキー・ドームの十八世紀ロシア文学研究部門──その歴史と現在」も、ロシアにおける研究史を知る上で役立つ。

これらの論文からはドストエフスキーの作品と十八世紀ロシアの密接な関係が浮かび上がってくる。また、かつて文明論的な視点からロモノーソフのことを少し調べたことのある私は、その後の研究分野の広がりと深まりには刮目させられるとともに多くの知見を得ることができた。本書がロシア文学の研究者だけでなく、比較文学や歴史の研究者、そしてロシアに関心を持つ多くの方に読まれることを期待したい。

(『ドストエーフスキイ広場』第26号、2017年、141~145頁より転載)

 

『若き日本と世界ーー支倉使節から榎本移民団まで』(東海大学出版会、1998年)を「著書・共著」に掲載しました

昨日、掲載した「ドストエフスキー関連年表」には、1792年に第1回ロシア使節としてラクスマンが漂流民の大黒屋光太夫を伴って来日したことや、光太夫の貴重な異文化体験を記録した蘭学者・桂川甫周の『北嵯聞略』を元に、作家の井上靖氏が長編小説『おろしや国酔夢譚』を書いたことや、その長編小説を元に日ソ合作の映画《おろしや国酔夢譚》が撮られたことも記しました。

江戸時代に行われたこのような日露の交流や大黒屋光太夫によってもたらされた情報は、吉田松陰の師・佐久間象山に日本でもピョートル大帝の改革をモデルに海軍建設の必要性を説かせるほどの影響を与えました。しかし、ペリー提督がアメリカ艦隊を率いて浦賀に来航した翌月には、ロシアのプチャーチン提督がやはり艦隊を率いつつも、シーボルトの助言により、浦賀ではなく長崎に来航していたことはあまりしられていません。

本書において私は、ドストエフスキーと同時代の作家でプチャーチン提督の秘書官として来日したゴンチャローフの眼をとおして、幕末の日本だけでなく上海や沖縄がどのように描かれていたかにも注目しながら、日本の「開国」とほとんど同じ時期に勃発していたクリミア戦争の問題も考察しました。

支倉常長の使節団の考察から始まる本書には、ロシアからの二回目の使節団に同行したラングスドルフの著作の紹介や、日露関係にも深く関わっていたシーボルトの研究、さらには高杉晋作の見た上海租界の状況など、幕末期だけをとっても興味深い論文が多く収められています。