高橋誠一郎 公式ホームページ

立憲主義

〈「安保関連法案の採決不存在の確認と法案審議の再開を求める申し入れ」への賛同のお願い〉を転載

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(図版は「『議場騒然、聴取不能』と記されるのみで、議事進行を促す委員長の発言も質疑打ち切り動議の提案も記されていない」「未定稿の速記録」)

 

至急!拡散・ご協力をお願いします! (締め切りは9月25日午前10時)

「安保関連法案の採決不存在の確認と法案審議の再開を求める申し入れ」への賛同のお願い

http://netsy.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-6f5b.html …

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「安保関連法案の採決不存在の確認と法案審議の続行を求める申し入れ」の署名が求められていることが分かりましたので、そのサイトへのリンク先を上記にアップしました。

NHKで中継された「採決」の場面を何度見直しても成立したとは思えず、また国会からあのような光景が中継されたことに呆然として「小学校のホームルームで何かを決めるための採決でそんなことをしたら、先生に厳しくしかられるでしょう」などの記載を先日の記事で書きました。

このような形での暴力的な「採決」が国会の場で認められるならば、権力者はどのような法律でも可決することができることになる危険性があります。

立憲主義、平和主義、民主主義が危機にさらされている今、「安保関連法案の採決不存在の確認と法案審議の続行を求める申し入れ」がなされることは、きわめて有意義だと思われます。

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今朝(9月22日)の「東京新聞」には、この署名運動についての記事が載っていましたので、下にリンク先を追記しておきます。

リンク→安保法案 どさくさ採決は認めない 東大名誉教授ら賛同呼び掛け(朝刊)

なぜ今、『罪と罰』か(1)――「立憲主義」の危機と矮小化された『罪と罰』

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(『罪と罰』の表紙、ロシア版「ウィキペディア」より)

いよいよ明日からドストエフスキーの長編小説『罪と罰』を比較文学の手法で読み解く大学の講義が始まりますが、昨日、成立した「安全保障関連法」によって、私たちは戦後日本に70年間かけて定着してきた立憲主義、平和主義、民主主義が根本から覆される危険と直面しています。

日本ではドストエフスキーは後期の長編小説に焦点をあてることで、犯罪者の心理や男女間の異常な心理的葛藤を描くことに長けた作家であるというような見方が文芸評論家の小林秀雄以降、深く定着しているように見えます。

しかし、これはドストエフスキーを侮辱し、彼の作品を矮小化する解釈だと私は考えています。なぜならば、「憲法」がなく、「言論の自由」も厳しく制限されていたニコライ二世のいわゆる「暗黒の30年」に青春時代を過ごしたドストエフスキーは、「言論の自由」や「人間の尊厳」、開かれた裁判制度の大切さを文学作品を通して民衆に訴えかけようとしながら、1848年のフランス2月革命の余波を受けた緊迫した状況下で捕らえられ、偽りの死刑宣言の後でシベリアに流刑されるという厳しい体験をしていたのです。

長編小説『罪と罰』が雑誌に発表された年に生まれた哲学者のレフ・シェストフ(1866~1938)は、ドストエフスキーがシベリアに流刑されてから思想的に転向して、人道主義からも決別したという解釈を1903年に刊行した『悲劇の哲学』(原題は『ドストエフスキーとニーチェ』)で記し、この本が1934年に日本語に翻訳されると満州事変以降の厳しい思想弾圧が始まり、不安に陥っていた知識人の間でたいへん流行しました*1。

しかし、これから詳しく分析していくように、厳しい検閲を考慮して推理小説的な筋立てで「謎」を組み込むなど、随所にさまざまな工夫をこらしてはいますが、そこに流れる人道主義や正義や公平性の重要性の認識は強く保たれていると思われます。

たとえば、青年時代からプーシキンなどのロシア文学だけではなく、ゲーテやディケンズ、シェイクスピアに親しみ、流刑地で読んだ『聖書』やシベリアからの帰還後に親しんだエドガー・アラン・ポーの作品やユゴーの『レ・ミゼラブル』からの影響は『罪と罰』にも強く見られるのです(リンク→3-0-1,「ロシア文学研究」のページ構成と授業概要のシラバス参照)。

長編小説『罪と罰』は「憲法」のない帝政ロシアで書かれた作品ですが、最初にも記したように9月19日に成立した「安全保障関連法」によって、現在の日本は「憲法」が仮死状態になったような状態だと思われます*2。『罪と罰』にはその頃に起きた出来事や新聞記事も取り込まれていますので、現代の日本の状況と切り結ぶような形で授業を行えればと考えています。ただ、ドストエフスキーはこの小説で読者を引き込むようなさまざまな工夫もしていますので、比較文学的な手法でその面白さも指摘しながらこの長編小説を読んでいき、ときどき感じたことや考えたことなどをこのブログにも記すようにします。

*1 池田和彦「日本における『地下室の手記』――初期の紹介とシェストフ論争前後」R・ピース著『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』のべる出版、2006年。

*2 〈安倍政権の「民意無視」の暴挙と「民主主義の新たな胎動」〉参照。

(2015年9月23日。「長編小説『罪と罰』を読み解く(1)――なぜ今、『罪と罰』か」より改題)。

 

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(2)――「ゴジラ」の咆哮と『罪と罰』の「呼び鈴」の音

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(3)――事実(テキスト)の軽視の危険性

安倍政権の「民意無視」の暴挙と「民主主義の新たな胎動」

今回の国会審議で多数を占めた与党からは「法的安定性は関係ない」と発言した礒崎陽輔首相補佐官や、シールズを批判して利己的個人主義がここまでまん延したのは戦後教育のせいだろうが、非常に残念だ」と記した自民党の武藤貴也衆院議員の常識外れの発言が目立った程度で、最期まで灰色の二つの大きな物言わぬ集団という印象しか受けませんでした。

一方、質問などに立った野党議員は一人一人が個人として屹立し凜々しく見えました。日本の将来を真剣に憂慮して考え抜いた野党議員たちの渾身の発言は、今後も憲政史上長く語り継がれるものと思われます。それは単に私個人の印象にとどまるものではなく、多くの人が共有する思いでしょう。

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9月15日のブログで私は「権力」を乱用する安倍晋三氏と江戸時代の藩主を比較して次のように書きました。

「江戸時代には民衆のことを考えない政治をする暴君に対しては、厳しい処罰を覚悟してでもそれを諫める家老がいましたが、現在の自民党には『独裁的な傾向』を強めている安倍首相を諫める勇気ある議員がほとんどいないということです。与党の公明党にも、安倍首相の『国会』を冒涜した発言に苦言を呈する議員がほとんどいないということも明らかになりました」。

しかし、国民からは巨額の税金を取る一方で、国民には秘密裏にTPP交渉を進め、アメリカが始めた「大義なき戦争」に、かつての「傭兵」のように自衛隊を「憲法」に違反してまでも差し出そうとしている安倍晋三氏を藩主に喩えるのは褒めすぎでしょう。

安倍晋三氏にはこのような評価は不本意でしょうが彼が行おうとしていることは、ドイツの作家シラーなどが戯曲『ウィリアム・テル』(ヴィルヘルム・テル)で描いたオーストリアから派遣された14世紀の悪代官ヘルマン・ゲスラーがスイス人に対して行った暴政に似ているのです。

東京新聞:これからどうなる安保法 (1)米要望通り法制化:政治(TOKYO Web)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015092202000210.html …

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15日のブログでは「『暴君』を代えるまでにはもう少し時間がかかるかもしれませんが、昨日のデモからは今回の運動が確実に政治を変えていくだろうという思いを強くしました」と続けていました。

なぜならば、その思いは単なる願望ではなく日本では明治時代に自由民権運動の高まりをとおして薩長藩閥政府を追い詰めて、明治14年(1881)には1889年には国会を開設するという約束を獲得したという歴史を持っているからです。

注目したいのは、その2年後の明治16年(1883)に、『坂の上の雲』の主人公の一人で新聞記者となる若き正岡子規が中学校の生徒の時に、「国会」と音の同じ「黒塊」をかけて、立憲制の急務を説いた「天将(まさ)ニ黒塊ヲ現ハサントス」という演説を行っていたことです。

俳人となった正岡子規は分かりやすい日本語で一人一人が自分の思いを語れるように俳句の改革を行いました。

「民主主義ってなんだ」と問いかけるSEALDs(Students Emergency Action for Liberty and Democracy–s、自由と民主主義のための学生緊急行動)がツイッターの冒頭に掲げている「作られた言葉ではなく、刷り込まれた意味でもなく、他人の声ではない私の意思を、私の言葉で、私の声で主張することにこそ、意味があると思っています」という文章からも、「憲法」と「国会」の獲得に燃えていた明治の若者たちと同じような若々しい思いと高い志が感じられるのです。

最期に、参院特別委員会での強行採決が「無効」であると強く訴えた福山哲郎議員の参議院本会議での反対討論のまとめの部分を引用しておきます。

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残念ながらこの闘い、今は負けるかもしれない。しかし、私は試合に負けても勝負には勝ったと思います。私の政治経験の中で、国会の中と外でこんなに繋がったことはない。ずっと声を上げ続けてきたシールズや、若いお母さん、その他のみなさん。3.11でいきなり人生の不条理と向き合ってきた世代がシールズだ。彼らの感性に可能性を感じています。

どうか国民の皆さん、あきらめないで欲しい。闘いはここから再度スタートします。立憲主義と平和主義と民主主義を取り戻す戦いはここからスタートします。選挙の多数はなど一過性のものです。

お怒りの気持ちを持ち続けて頂いて、どうか戦いをもう一度始めてください。私たちもみなさんお気持ちを受け止め戦います! 国民のみなさん、諦めないでください。

私たちも安倍政権をなんとしても打倒していくために頑張ることをお誓い申し上げて、私の反対討論とさせて頂きます。

(2015年9月23日。「東京新聞」の記事へのリンク先を追加)