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「映画《羅生門》から映画《白痴》へ」を「映画・演劇評」に掲載

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(↑画像をクリックで拡大できます。日本版の映画《羅生門》のポスター(パブリック・ドメイン)、図版は「ウィキペディア」より。槙田寿文氏所有の旧東ドイツ版のポスター。図版は「日本経済新聞」のデジタル版より)。

先日アップした「映画ポスター・三題――《白痴》、《ゴジラ》、《生きものの記録》という記事では、槙田氏所収の旧東ドイツ版の「羅生門」のポスターにも言及しました。

テーマが拡散してしまうのでそのエッセイでは映画《羅生門》のポスターの比較を行っていませんでしたが、「むせかえる真夏の草いきれの中で繰り展げられる盗賊と美女とその夫の、息詰まるような愛慾絵巻!」という扇情的な文章が記されているポスターは、黒澤映画《羅生門》の適確な説明ではなく、小林秀雄の『白痴』論の受け売りになっているようにみえます。

この初演を見た研究者の一人が多くの日本人観客は映画を理解できずに、途中で退席した人もいたと証言していることを考慮するならば、このポスターは観客にミスリードをしていたことになるでしょう。

ある程度、正確に筋を伝えようとするならば、「価値が混乱した時代に起きた殺人事件、錯綜する証言。真相はどこに!」とでも記すべきだったと思えます。

そのことはなぜ日本ではヒットしなかったこの映画が外国ではヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞したかをも物語っていると思えます。

それゆえ、拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』の映画《羅生門》の考察の箇所に、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』より、小林秀雄の『白痴』理解の問題点を指摘した箇所と長編小説『罪と罰』のエピローグの解釈の問題を加筆して「映画・演劇評」に掲載しました。

明治人の気概を――安倍政権と「原子力村」との癒着

「東京新聞」は2015年12月4日の朝刊で、〈原子力機構 続く「不透明な契約」 関係企業・団体に222億円〉との大見出しで、次のように記していました。

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OBらが経営する「ファミリー企業」への不透明な発注が問題視されてきた日本原子力研究開発機構(茨城県東海村)が、今年九月末までの約一年間で少なくとも二百二十二億円の業務を、二十八のファミリー企業・団体に発注していたことが本紙の調べで分かった。全発注額の二割近くを占める。あり方を見直すと表明した四年前の二百七十七億円からあまり改善されていない。機構運営費の大半は税金でまかなわれている。 (小倉貞俊、山川剛史)

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この記事を受けて私は、薩長藩閥政治の腐敗に対して厳しかった明治の新聞人に言及しながら、「明治人の気概を」と題したブログ記事を書き始めたものの時間に追われてそのままになっていました。

今日の「東京新聞」朝刊は、「自民党行政改革推進本部の行政事業レビュープロジェクトチーム(PT)」が「二十一日、日本原子力研究開発機構(茨城県東海村)による不透明な入札を指摘する調査報告書を、河野太郎行革担当相に提出した」ことを報じています。

さらに記事は報告を受けた河野氏が、〈「事実なら相当ひどい。談合の疑惑が濃いとしか言いようがない数字だ」と指摘。PTの平将明座長も記者団に「正直言って異常だ」と述べ、党としても公正取引委員会と情報交換しながら対応する考えを示した〉と記しています。

すでに日本は「自然再生エネルギー」を有効に活用する科学技術を保有しているにもかかわらず、「原子力の重要性」を強調して「原子力村」との癒着を続けて、国民の税金を無駄に浪費している安倍政権は、明治の志士の気概に倣うならば、早期に平和的に打倒すべきでしょう。

安倍政権の人権感覚と福島の被曝線量――無責任体制の復活(9)

ここのところ新聞記事を追う暇がなかったために、少し古い記事になってしまいますが、「泉田新潟県知事9/5メディア懇談会」での知事の発言が「サイト阿修羅」で文字に起こされていました。

そこでは、長崎と広島で被爆された方には、累積被曝量が1mSvを超えた人には、被爆手帳が交付され、「この被爆者手帳貰うと、医療費無料」になっていたが、それから70年を経て起きた福島第一原子力発電所の事故では、「福島は年間20mSv浴びて」も、「医療費無料の対象にもならない」ことが指摘されています。

泉田新潟県知事は「年間約5mSvを超えると、日本の普通のエリアでは、放射線管理区域になる」が、「福島では20mSvまで住んでも良い」ということになると「法の下の平等っていうのは、どうなってるんでしょうかという訴えが、私のところにも届いて来ます」と語っています。

現在は安倍政権によって強引に原発の再稼働が行われていますが、まだ「沖縄」と同じように、「福島」も特殊な問題だと認識している人が多いように見えます。

しかし、戦前の東条状英機内閣と同じように、きわめて「無責任な」安倍政権下で現在の状況が進めば、「沖縄」や「福島」と同じような同じ状態が、日本中で起きる危険性がきわめて高いと思われます。

リンク→泉田新潟県知事9/5メディア懇談会 http://www.youtube.com/watch?v=FHUyhldie9o

 

安倍政権の無責任体質・関連の記事一覧

安倍首相の「嘘」と「事実」の報道――無責任体質の復活(8)

アベノミクスと武藤貴也議員の詐欺疑惑――無責任体質の復活(7)

原子力規制委・田中委員長の発言と安倍政権――無責任体質の復活(6)

「新国立」の責任者は誰か(2)――「無責任体質」の復活(5)

デマと中傷を広めたのは誰か――「無責任体質」の復活(4)

原発事故の「責任者」は誰か――「無責任体質」の復活(3)

TPP交渉と安倍内閣――「無責任体質」の復活(2)

「戦前の無責任体系」の復活と小林秀雄氏の『罪と罰』の解釈

大義」を放棄した安倍内閣(2)――「公約」の軽視

「大義」を放棄した安倍内閣

映画《母と暮せば》を見て

山田洋次監督の映画《母と暮せば》を見ました。

NHKBS1で放送されたドキュメンタリー番組「BS1スペシャル 戦争を継ぐ ~山田洋次・84歳の挑戦~」でその苦労が詳しく描かれていた冒頭の教室での被爆とインク瓶が溶ける場面は、やはり圧巻でした。

映像では、原爆の悲惨さを示すような生々しい映像はほとんど用いられていませんが、息子を喪った母親(吉永小百合)や快活だった医学生の息子(二宮和也)、その恋人(黒木華)などがきちんと描かれていました。

広島で被爆した娘のもとに父親が亡霊となって現れ、生き残ったことに罪悪感を持つ娘を励ますという井上ひさし氏の『父と暮せば』の構想を引き継いだこの映画でも、長崎で被爆して亡くなった若者の婚約者が、再び前を向いて生きようとするまでのエピソードを丹念に描いて、平和の大切さがじんわりと伝わる説得力のある映画になっていると感じました。

黒澤映画《夢》の「トンネル」のシーンと戯曲『父と暮せば』との関連については、拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)で少し触れましたが、この映画でも映画《夢》の「トンネル」のシーンを彷彿とさせる場面があり、黒澤監督の理念の継承も感じられました。

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安保関連法案を強行採決した安倍政権は軍需産業や原発産業の育成に力を入れていますが、今年は原爆が日本に落とされてから70年目に当たります。

原爆が日本に落とされたことに責任を感じたアインシュタインは、哲学者のラッセルとともにパグウォッシュ会議を組織して、戦争の危険性を強く科学者や市民に訴えましたが、今年はその会議が初めて長崎市で行われました。

戦後70年を迎えた今こそ、原水爆の危険性を深く思い起こすべき時期だと思われます。

リンク→映画『母と暮せば』予告 – YouTube

「寺田透の小林秀雄観」を「主な研究」に掲載

本日、『世界文学』第122号が届きました。

そこにはロシア文学関係では木下豊房氏の「ドストエフスキー文学翻訳の過去と現在」や、杉山秀子氏の「夏葉のチエホフ受容とその翻訳」などの論文が掲載されていますが、「作品の解釈と『積極的な誤訳』――寺田透の小林秀雄観」と題した私の小論も掲載されています。

論文の「はじめに」に記したように、寺田透の小林秀雄観についてはかねてから強い関心を持っていましたが、自分の感性によってドストエフスキーのテキストを読み込むことで、独自な解釈を行った小林秀雄の方法と同じように研究書には依拠せずに書きたいと考えていたために、手つかずのままでした。

拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』を上梓したあとで調べ初めてみるとすぐれた卓見が随所に見つかりましたので、小林の翻訳や文体についてだけでなく、『ゴッホの手紙』などの伝記的研究の問題点についても鋭い分析を行っていた寺田透の小林秀雄観を「主な研究」に掲載します。

リンク→作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観

リンク→「様々な意匠」と隠された「意匠」

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「映画ポスター・三題」を「映画・演劇評」に掲載

本日、黒澤明研究会の「会誌」第34号が届きました。

この号では黒澤映画には欠かせない俳優の井川比佐志氏を囲んでのインタビューや追加取材など黒澤映画と出演者への敬意が感じられる丁寧な作りで「井川比佐志さん特集」が組まれています。参加者の方々の井川さんへの適確な質問で、黒澤明映画の現場に立ち会っているような感さえ受けます。

また、「井川比佐志さんの役者魂と安部公房との時代」と題された堀伸雄氏の論稿や槙田寿文氏の「シナリオ、書いたり消したり『どですかでん』」など特集に関連した論稿だけでなく、一般投稿にも「黒澤明と漱石山脈の接点(上)」と題された三井庄二氏の論稿も集まり、編集にあたった方々の思いが反映した充実した雑誌となっています。

私も「映画ポスター・三題――《白痴》、《ゴジラ》、《生きものの記録》」という短いエッセイを書きました。内容的には目新しいものではありませんが、映画のポスターという視点から、これらの映画の特徴に少しは迫ることができたのではないかと思えますので、「映画・演劇評」に掲載します。

国際比較文明学会での発表論文(英文)を「主な研究」に掲載

前回の記事では、サンクト・ペテルブルクで行われた国際比較文明学会で発表した拙論の要旨を記すとともに、科学アカデミーの学術センター会議室で行われた「サンクト・ペテルブルク――文明間の対話の都市」、「東西の諸文明と諸文化の交流におけるロシア」、「グローバリゼーションと文明の未来」の3つの部会の模様と、「北西ロシア――ロシア文明の源とその絶頂」と題して行われた学術旅行の簡単な紹介をしました。

 リンク→サンクト・ペテルブルクでの国際比較文明学会の報告

今回は国際比較文明学会での発表論文”The Acceptance of Dostoevsky in Japan — the theme of St.Petersburg and dialogue as the means”を「主な研究」に掲載します。

 リンク→The Acceptance of Dostoevsky in Japan

安倍政権の核政策・関連記事一覧

先ほど「パグウォッシュ会議の閉幕と原子炉「もんじゅ」の杜撰さ」という記事をアップしました。

祖父である岸信介氏の核政策を受け継いで、福島第一原子力発電所の大事故の後も、「国策」として行われてきた安倍政権の核政策の問題についてはこれまで書いてきましたので、以下に、関連記事を掲載します。

 

安倍政権の核政策・関連記事一覧

「安全保障関連法案」の危険性(2)――岸・安倍政権の「核政策」

原子力規制委・田中委員長の発言と安倍政権――無責任体質の復活(6)

原発事故の「責任者」は誰か――「無責任体質」の復活(3)

安倍晋三首相の公約とトルーマン大統領の孫・ダニエル氏の活動――「長崎原爆の日」に(2)

原子雲を見た英国軍人の「良心の苦悩」と岸信介首相の核兵器観――「長崎原爆の日」に(1) 

真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して

御嶽山の噴火と川内原発の再稼働――映画《夢》と「自然支配」の思想

「長崎原爆の日」と「集団的自衛権」 

原発事故の隠蔽と東京都知事選

終戦記念日と「ゴジラ」の哀しみ

原爆の危険性と原発の輸出

汚染水の危機と黒澤映画《夢》

汚染水の深刻さと劇《石棺》

 

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館のホームページより転載)

ISBN978-4-903174-33-4_xl(←画像をクリックで拡大できます)

装画:田主 誠/版画作品:『雲』

ジャンル[歴史・文学・思想]/四六判上製 245頁 /定価:本体2,700円+税

人文書館・HPより

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明治という激動と革新の時代のなかで

山茶花に新聞遅き場末哉 (子規 明治三十二年、日本新聞記者として)

司馬遼太郎の代表的な歴史小説、史的文明論である 『坂の上の雲』等を通して、近代化=欧化とは、 文明化とは何であったのかを、 比較文学・比較文明学的視点から問い直す!

「坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、 それのみをみつめてのぼってゆく」明治の幸福な楽天家たちとその後の 「時代人」たちは、「坂の上」のたかだかとした「白い雲」のむこうに 何を見たのであろうか。

陸羯南(くが・かつなん)が創刊した新聞『日本』の「文苑」記者であり、 歌人・俳人・写生文家・正岡子規の軌跡を辿り、生涯の友・夏目漱石、 そして新聞人でもあった司馬遼太郎の視線(まなざし)から、しなやかに読む。

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目次

 序章 木曽路の「白雲」と新聞記者・正岡子規

第一章 春風や――伊予松山と「文明開化」

第二章 「天からのあずかりもの」――子規とその青春

第三章 「文明」のモデルを求めて――「岩倉使節団」から「西南戦争」へ

第四章  「その人の足あと」――子規と新聞『日本』

第五章 「君を送りて思ふことあり」――子規の眼差し

終章 「秋の雲」――子規の面影

リンク→ 『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、目次詳細

〈ハリウッド版・映画《Godzilla ゴジラ》と「安保関連法」の成立〉を「映画・演劇評」に掲載

昨年は映画《ゴジラ》が初めて公開されてから60周年ということで、原爆や原発に焦点をあてながら映画《ゴジラ》の特徴と「ゴジラシリーズ」の問題を4回にわたって考察した後で、〈映画《ゴジラ》の芹沢博士と監督の本多猪四郎の名前を組み合わせた芹沢猪四郎が活躍するアメリカ映画《Godzilla ゴジラ》は、映画《ゴジラ》の「原点」に戻ったという呼び声が高い〉ことを紹介し、下記のように結んでいました。

「残念ながら当分、この映画を見る時間的な余裕はなさそうだが、いつか機会を見て映画《ゴジラ》と比較しながら、アメリカ映画《Godzilla ゴジラ》で水爆実験や「原発事故」の問題がどのように描かれているかを考察してみたい」。

昨年は様々な事情からこの映画を観るのを控えていましたが、「安保関連法」が国会で「強行採決」された直後の9月25日夜に日本テレビ系「金曜ロードSHOW!」で地上波初放送されたので、「映画・演劇評」のページに感想を記すことにします。

 

映画《ゴジラ》関連の記事一覧

映画《ゴジラ》考Ⅴ――ハリウッド版・映画《Godzilla ゴジラ》と「安保関連法」の成立

映画《ゴジラ》考Ⅳ――「ゴジラシリーズ」と《ゴジラ》の「理念」の変質

映画《ゴジラ》考Ⅲ――映画《モスラ》と「反核」の理念

 映画《ゴジラ》考Ⅱ――「大自然」の怒りと「核戦争」の恐

映画《ゴジラ》考Ⅰ――映画《ジョーズ》と「事実」の隠蔽