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欧化

「テロと新しい戦争」の時代と「憲法」改悪の危険性

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「テロと新しい戦争」の時代と「憲法」改悪の危険性

本書は「祖国戦争」から「大改革」の終焉に至る激動のロシア史とその特徴を、ドストエフスキーの作品を通して考察しようとした構想の第一部にあたる。

本来ならば、ドストエフスキーの初期作品を考察した本書から始めるべきであったが、折から同時多発テロの後で「新しい戦争」が「報復の権利」の名のもとに勃発する危険性が増大していたので、「自己の正義」を絶対化することで、「他者」の殺害をも正当化するような、近代西欧の問題点を明らかにしたクリミア戦争後の作品を扱った第二部を先に『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(刀水書房、二〇〇二年)として出版した。

(中略)

これまで時間がかかってしまったのは、ひとえに筆者の怠慢によるものだが、あえてその理由を探すならば、若きドストエフスキーと父親との関係やペトラシェフスキー事件に至るまでの道を選ぶことになるドストエフスキーの心象風景が、なかなか浮かんでこなかったためでもある。

ただ、テロへの「報復の正当性」を訴えて始められた無謀なイラク戦争が始まったことで、世界中でナショナリズムがいっそう高まり、日本でも「国権」の強化や「伝統」への回帰が見られる一方で、一気に格差社会が進んで子供たちの「いじめ」や「自殺」などの問題も頻発することになった。皮肉なことに、このような現象に心を痛めつつ、ドストエフスキーの初期作品を再考察する中で、若きドストエフスキーの心象風景がはっきりと見えてきたように思える。

また、本書の初校校正に入った頃にアメリカの大学における銃の乱射という痛ましい事件のニュースが届いて、イラク戦争を始めたアメリカが抱える銃社会という病巣を見せつけられた思いがしたが、同じ日に原爆の使用やイラク戦争を厳しく批判していた長崎市長への狙撃という暗いニュースが飛びこんできた。

日本もイラク戦争には深く係わっているので、これらの事件は戦争という形の武力によって自国の正義を主張する国の内外では、同じように「自分の正義」を力によって示そうという傾向が強くなることを象徴的に語っていると思える。

しかし、「新しい戦争」への懐疑を示して「古い国家」と揶揄されたヨーロッパでは、イラク戦争への支持を表明した政治家はすべて失脚し、また自由や平等の理念が尊重されるアメリカでも、イラク戦争への批判を行った若い代議士が有力な大統領候補として急浮上するなど戦争への反省が深まっている。

一方、戦争の悲惨さを忘れて「平和ぼけ」した日本では、イラク戦争への批判を語った若者たちへの激しい「いじめ」が報じられたが、その後も破綻した「ブッシュ・ドクトリン」に依拠する形で、巨大な軍事費の肩代わりを求める超大国アメリカの要求に忠実に従いつつ、沖縄の軍事基地の能率化や、アメリカによって定められたとする「平和憲法」の改正が急速に進められており、国際社会における孤立化の危険性さえ深まっているように見える。

日本が独自性を世界に対して主張しようとするならば、「被爆という現実」やイスラム世界と戦争したことがないという特徴ある歴史的な伝統を生かして、外交的な形で世界の平和の確立を目指すべきであろう。

「テロ」や「新しい戦争」によって幕が開けられ、地球の温暖化などの問題が山積する二一世紀において、日本が示す方向性は日本の国民にとってだけでなく、世界にとっても重たい意味を持つと思われる。「欧化」に対する激しい反撥である「暗黒の三〇年」の時代に新しい可能性を模索したドストエフスキーの試みを考察した本書が、そのような日本のおかれている状況を広い視野から再検討し、新しい歴史観を創造するためにささやかでも参考になればと願っている。

(『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』「あとがき」より。語句を一部改訂。2016年2月14日。リンク先を追加)

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