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「小林秀雄神話」の解体(2)――『地獄の季節』の誤訳とムィシキンの形象の曲解

2、『地獄の季節』の誤訳とムィシキンの形象の曲解

ランボオの『地獄の季節』という題名は正しくは「地獄に於ける或る季節」であると小林秀雄自身が後に断っていることに注意を促して(39)、彼の翻訳が「ほとんど『創作』に近くなっていた」と指摘した著者はこう続けています。

「ところが、その訳文の「月並みならざる」な文体が同じような精神の傾きを持った同時代の青年たちに圧倒的な熱狂をもって歓迎され、小林は一躍時代のヒーローとなり、以後五十年間、一九八〇年代に時代が転換するまで「文学の神様」の座にとどまりつづけた」のである。」(41)

その理由は小林が時代を先取りするような形で 『地獄の季節』を訳出したことにあると思いますが、著者は小林秀雄が1947年3月に書いた「ランボオの問題」(現タイトル「ランボオⅢ」)冒頭の文章を引用することで小林との出会いの意義を考察しているので引用しておきます。

「僕が、はじめてランボオに、出くわしたのは、廿三歳の春であつた。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いてゐた、と書いてもよい。向こうからやつて来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何の準備もなかつた。ある本屋の店頭で、偶然見付けたメルキュウル版の『地獄の季節』の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられてゐたか、僕は夢にも考へてはゐなかつた。而も、この爆弾の発火装置は、僕の覚束ない語学の力なぞ殆ど問題ではないくらゐ敏感に出来てゐた。豆本は見事に炸裂し、僕は、数年の間、ランボオといふ事件の渦中にあつた。それは確かに事件であつた様に思はれる。文学とは他人にとつて何であれ、少くとも、自分にとつては、或る思想、或る観念、いや一つの言葉さへ現実の事件である、とはじめて教へてくれたのは、ランボオだつた様にも思はれる」(135-136)。

「後続世代」も「小林秀雄訳のランボー」との出会いに同じような衝撃を受けており、後に「小林秀雄の訳文の完膚なきまでの否定者となった」フランス文学者の篠沢秀夫も、この訳が「白水社から刊行されて以来、戦前戦後を通じて、不安な青春の精神に強い衝撃をあたえる読み物として重きをなしてきた」と書いていることに注意を促した著者は、小林が「さういふ時だ、ランボオが現れたのは、球体は砕けて散つた。僕は出発する事が出来た」と書いている個所を引用して、それまでは「ボードレール的なガラス球体の中に閉じ込められ」ていたような状態だったのであろうと推定しています(161)。

そして、当時の木版画を多数掲載することで当時の政治や社会や経済、文化なども視覚的に紹介しつつ、『レ・ミゼラブル』の内容と意義とを分かり易くかつ伝えた『「レ・ミゼラブル」百六景』を1987年に出版していた鹿島氏は、『ドーダの人』で一世を風靡した小林秀雄訳の『地獄の季節』を篠沢秀夫訳の『地獄での一季節』と比較しながら詳しく検証し、次のように記しているのです(161)。

すなわち、「夜は明けて、眼の光は失せ、顔には生きた色もなく、行き交ふ人も、恐らくこの俺に眼を呉れるものはなかったのだ。/ 突然、俺の眼に、過ぎて行く街々の泥土は、赤く見え、黒く見えた。」という個所をランボーが『レ・ミゼラブル』を踏まえて描いていることを無視して、小林は「ランボーの『私小説』として誤読し、これを『ランボー体験』として敷衍してしまたった」(167)。

こうして著者は、小林秀雄が「ランボーを誤訳する前に誤読し、いわば、ランボーの翻訳というかたちを借りて『創作』を行った」とし、「この意味で、『他人を借りて自己を語る』という小林秀雄の批評態度はすでにランボーの段階から『確立』されていたことになる」と書いているのです。

同じことは小林秀雄の『罪と罰』理解にも当てはまります。「高利貸し」の問題が事件の発端となっていたことや弁護士ルージンとの口論や司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて『罪と罰』を考察した小林は、「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」とし、ラスコーリニコフには「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったと断言しているのです(全集、6・45)。

ドストエフスキーがエピローグの「人類滅亡の悪夢」を見た後のラスコーリニコフの更生を示唆していたことに留意するならば、小林秀雄の『罪と罰』論がドストエフスキーの作品を分析した解釈ではなく、自分の心情に沿った解釈であったと言えるでしょう。

 このような『罪と罰』の解釈は同じ年に開始した『白痴』論とも連動しており、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない。シベリヤから還つたのだ」という大胆な解釈をした小林は(全集、6・63)、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」と記して、二つの作品の主人公の同一性を強調していました。

その理由について小林は死刑について語った後でムィシキンが「からからと笑ひ出し」たことを、「この時ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」とし、「作者は読者を混乱させない為に一切の説明をはぶいてゐる」ので、「突然かういふ断層にぶつかる。一つ一つ例を挙げないが、これらの断層を、注意深い読者だけが墜落する様に配列してゐる作者の技量には驚くべきものがある」と説明しています(全集、90-91)。

 こうして小林は、この場面を「全編中の大断層の一つ」として指摘することで、死刑や死体などの「無気味さ」について面白そうに語っていたムィシキンの異常さを強調しているのです。しかし、これは自分の解釈へと読者を「誘導」するような小林の「創作」的な解釈で、「注意深い読者」ならば、すぐにその誤読に気付くはずです。

 なぜならば、『白痴』ではムィシキンが死刑廃止論者として描かれていますが、1860年の『灯火』誌の第三号には死刑の廃止を訴えたユゴーの1829年の作品『死刑囚最後の日』がドストエフスキーの兄ミハイルの訳で掲載されていました。ドストエフスキー自身も『作家の日記』においてこの作品について、「死刑の宣告を受けたものが、最後の一日どころか、最後の一時間まで、そして文字通り最後の一瞬まで手記を書き続ける」ことが現実にはありえないにしても、ここに描かれているのは死刑囚の心理に迫り得ていることを高く評価して、これを「最もリアリスチックで最も真実味あふれる作品」と位置づけているのです(高橋誠一郎、『欧化と国粋 日露の「文明開化」とドストエフスキー』参照)。

それらのことに注目するならば、殺人を犯した後も「罪の意識も罰の意識も」現れなかったラスコーリニコフとムィシキンとの同一視は不可能だといえるでしょう。1861年にフィレンツェでユゴーの大作『レ・ミゼラブル(悲惨な人々)』を手に入れると街の見学も忘れて読みふけり、翌年にはこの長編小説と『ノートルダム・ド・パリ』についての詳しい紹介を『時代』に掲載したドストエフスキーは、その筋や人物体系を『罪と罰』に取り入れ(井桁貞義『ドストエフスキイ 言葉の生命』参照)、『白痴』にも組み込んでいるのです。

「小林秀雄神話」の解体(1)――「他人を借りて自己を語る」という方法

1,「他人を借りて自己を語る」という方法――小林秀雄とサント・ブーヴ

鹿島茂氏の『ドーダの人、小林秀雄』は、下記の章から構成されています。   小林秀雄の難関ドーダ/ 小林秀雄のフランス語と翻訳/ 小林秀雄と長谷川泰子/ ドーダと人口の関係性/ 小林秀雄と父親/ アーサー・シモンズの影響/ 小林秀雄とランボー/ 小林秀雄と河上徹太郎/ ヤンキー小林秀雄/ 小林秀雄をアモック/ 小林秀雄の純ドーダ

フランスの文学と文化の研究者の視点から、小林秀雄の『地獄の季節』訳の問題などをとおして「小林神話」の解体を試みた本書からは啓発される点が多かったのですが、ここでは時代との関りに注意を払いながら小林のランボーの理解とドストエフスキー作品の解釈との関連を中心に見ていきたいと思います。

まず注目したいのは、「小林秀雄と父親」の章で1921年に小林秀雄が父親を失っていることに注意を促して、幼くして「家長」となった「小林には、俗な言葉でいうなら『家運』を『挽回』し、病気の母の療養を扶けねばならない責任」を課せられたという江藤淳の言葉を紹介していることです(117)。

一方、『三四郎』で日露戦争以降の日本に対する厳しい見方を記した夏目漱石が、『それから』では大逆事件(1910)が起きることを示唆するような描写をし、森鷗外も『沈黙の塔』で検閲への強い懸念を記したことはよく知られていますが、芥川龍之介もこの事件に対する政府の対応を強く批判した徳冨蘆花の演説から強い影響を受けて1915年に『羅生門』を書いた可能性が高く、小林も一時は日露戦争を批判的に記した芥川の『将軍』(1922)を愛読していたのです。

しかし、漱石たちの危惧したように、時代は悪化の一途をたどりますが、そのような中で小林秀雄が選んだのがフランス文学であり、1926年のボードレールから始まって、1939年のサント・ブーヴに終わる小林秀雄の翻訳履歴を概観した著者は、小林秀雄が「この時代のインテリが好みそうなフランス文学を探り当てそれを時代に先駆けて訳している」という印象を伝えています。

そして小林が最後にサント・ブーヴの『我が毒』を翻訳していることに注意を促し、「小林が日本において近代批評を確立するにあたって、他人を借りて自己を語るというサント・ブーヴの方法に拠ったこともよく知られている」と記した著者は続けて、「中原中也の死を契機に」、「昭和十四年に小林は『我が毒』を「わがこと」と思って創作的翻訳を行ったと見なすべきなのである」と主張しています(55)。

 ここだけを引用すると強引なようにも見えますが、その後で著者はその理由を「日本の小林秀雄研究者はあまり気づいていないようだが、それは十九世紀のフランス文学を少しでも齧(かじ)ったものには至極自明なものである。中原に対する小林の関係は、ユゴーに対するサント・ブーヴのそれと相似的であるということだ。つまり、親友の妻(内縁の妻)を寝取ったということである」と説明しているのです(56)。

しかも、「東大仏文科に在籍しながら、中原中也から愛人・長谷川泰子を奪い、杉並の天沼で同棲生活を始めた小林秀雄」は、「泰子の潔癖症が激化することで、一転して地獄のような生活へ」と変わり、「まるでシベリア流刑だ」とその苦痛を泰子に語るようになっていました。

「この泰子の証言は、小林におけるドストエフスキー受容史を調べる上で、かなり大きな手掛かりになるはずだ」とした鹿島氏は、この頃から小林が「ドストエフスキーの著作、とりわけ『死の家の記録』に」親しんでいたことが分かるからだと記しています。

ただ、 「小林が日本において近代批評を確立するにあたって、他人を借りて自己を語るというサント・ブーヴの方法に拠ったこともよく知られている」という著者の指摘に注目するならば、 長谷川泰子の同棲の体験は『死の家の記録』よりも『白痴』に対する小林秀雄の「創作」的な解釈とより深く結びついていると思えます。

すなわち、 1934年に『罪と罰』論に続いて連載した『白痴』論では、 この長編小説の複雑な人物体系や筋の流れを省略し、ナスターシヤの心理や行動を理解する上で欠かせない スイスの村でのマリーの悲劇を描いたエピソードには全く触れずに、 彼女をめぐる主人公ムィシキンとロゴージンとの三角関係に焦点を絞ってこの長編小説を論じているのです。

 
しかも、よく知られているように、 ナスターシヤは 孤児となって貴族のトーツキーに養育されたものの少女趣味のあった彼によって無理矢理に妾にさせられていたのですが、そのような状況を省いた小林はナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定していたのです。

さらに、結末の異常性を強調して「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはただ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と記していた(全集、6・100)。

しかし、堀田善衞が自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』で、『白痴』の主人公を「天使」と解釈しているように、ドストエフスキーが「ロシアのキリスト」を意識して造形したムィシキンを 「悪魔に魂を売り渡して了つた」人間と解釈することは作者を侮辱することでもあると思えます。(なお、『若き日の詩人たちの肖像』について鹿島氏は「日本の文学の主流は、いわゆる私小説です。つまり、私(わたくし)とその周辺のことだけを考えて書いている。それが日本的な個人主義ですが、堀田さんの考える個人主義は、他の人とのつながりも書いている」と『堀田善衞を読む』(集英社新書)で高く評価しています。

原作とは全く異なると思える『白痴』解釈の問題については、次節の後半で再度考察することにします。

ウクライナ侵攻と安倍元首相のプーチン観

 1936年にクーデター未遂が起きた2月26日の今日もロシア軍のウクライナ軍事侵攻が現在も続いています。

しかし、旧ソ連諸国を統合する「大国ロシア」の防衛線としてウクライナを重視するプーチン大統領の見方の古さが指摘されてiいるように、「大義」を欠いた侵攻に参加させられたロシア兵の士気は上がっていないようです。

 一方、 安倍元首相 はプーチン大統領に「ウラジーミル。君と僕は、同じ未来を見ている」と親しげに呼びかけていましたが、安倍氏の祖父・岸元首相は満州国にも深く関わっていました。

  それにもかかわらずフジテレビの報道番組では橋本徹氏が「次の参院選で核兵器保有を争点にすべき」と語ると、安倍氏元首相は「核兵器」についての「議論をタブー視してはならない」と応じ、ウクライナ危機に乗じて「改憲」の動きを早めようとしています。

 それゆえ、ウクライナ危機は単に他国の問題ではなく、日本の民主主義や 「核兵器禁止条約」の問題とも深く関わっていると言えるでしょう。

一方、28日の 17時のJIJI.COMには 維新の松井大阪市長が「非核三原則、昭和の価値観」、 「米国の原子力潜水艦をリースしてもらうというような議論もすべきだ」と語ったとの記事が載りました。

21世紀にようやく批准された「核兵器禁止条約」の意義を真っ向から否定する ような、「昭和維新」をスローガンにした青年将校達のように威勢のよい発言ですが、「八紘一宇」を唱えた彼らの行動がどのような悲惨な状況を生みだしたかを冷静かつ真剣に考えるべき重大な岐路に立っていると思えます。

(2022/ 02/28 改訂、 03/24 改訂し改題)

「明治維新」の賛美と「国家神道」復活の危険性

 司馬遼太郎氏が亡くなられた後で起きたいわゆる「司馬史観」論争では、「#日本会議」系の論者が、対立する歴史家の見方を「自虐史観」と名づけ、司馬氏の歴史観とは正反対の見方を安倍元首相などの政治家が全面的に応援して広めた。

 しかし、司馬氏は坂本竜馬をテロリズムの批判者として描いた『竜馬がゆく』において、自分の言葉で「神国思想」や「維新」の理念をこう批判していたのである。

 幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となり、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」(「勝海舟」『竜馬がゆく』)。

 「天誅」という名のテロが横行した「明治維新」を無条件に賛美することは日本社会の右傾化を促して、2・26事件から太平洋戦争に至る流れを繰り返す危険があった。

 実際、安倍元首相などの意向に沿ってNHKの大河ドラマなどで「維新」が美しく描かれたことや、「#日本会議」系の論客たちの理論に立脚して物語を創作した『永遠の0』がヒットしたことは、日韓関係の緊張や現在の「憲法」問題につながっていると思える。

 劇作家の井上ひさし氏や憲法学者の樋口陽一氏は、司馬氏の歴史観に深い理解を示していたが、司馬氏の歴史観を右翼的な立場から賛美した「司馬史観」論争以降は大幅に説得力を減じて、改めて論じることには無力感も覚える。

 だが、日本が危機に瀕している現在、あきらめずに論じることにする。ここでは安倍元首相の国家観を論じたツイートの後で、その危険性を指摘していた司馬遼太郎の「明治国家観」、「昭和国家観」、「沖縄観」、「韓国観」の順番に掲載する。

 結論 日露戦争の美化から太平洋戦争へ

 (2022/01/24、改題)

〔主なスレッドの目次Ⅰ〕

重要な問題が山積しているので、テーマの確認とテーマの深化のために〔スレッドの目次〕を作成しました。ツイートを記載順にまとめただけのものもありますが、論文を元にしたものはこれからもそのテーマを掘り下げて考察したいと考えています。(ホームページのみが示されている場合は、引用ツイートからスレッドに入れます)

〔立憲野党と非カルト教団は共闘を!〕、〔統一教会と自民・維新との癒着〕、〔核兵器禁止条約に至る道と日本の「核の傘」政策〕、〔核兵器禁止条約と日本の「核の傘」政策〕、〔 安倍元首相の母方の祖父・岸信介元首相と昭和初期の日本の政治〕、〔「明治維新」の賛美と「国家神道」復活の危険性〕、〔「コロナ禍の中で行われたオリンピックを振り返る〕、〔自民と維新による「改憲」と「緊急事態条項」の危険性〕、〔「日米地位協定」の危険性』〕、

〔立憲野党と非カルト教団は共闘を!〕

〔 安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動 〕

〔明治の「維新」と平成の維新という用語の危険性〕

〔統一教会と自民・維新との癒着〕 第一次世界大戦の頃からの『黙示録』と『悪霊』受容史を考察することは自民党や維新と統一教会との癒着の原因を明らかにすることにつながる。

〔核兵器禁止条約に至る道と日本の「核の傘」政策〕

〔 安倍元首相と母方の祖父・岸信介元首相との関係をとおして昭和期の政治の問題を考える〕

〔〔日本の近代化と『若き日の詩人たちの肖像』〕

〔「明治維新」の賛美と「国家神道」復活の危険性〕

〔「コロナ禍の中で行われたオリンピックを振り返る〕

〔「維新」の危険性を考える〕 「明治維新」を讃える大河ドラマが何本もNHKで放映されたために、「維新」という用語は今も華やかに響くようだが、これは政権を正当化するために薩長政府が1880年頃から用い始めた用語であった。

〔自民と維新による「改憲」と「緊急事態条項」の危険性〕

〔「日米地位協定」の危険性』〕

以下、主なスレッドの目次Ⅱへ

〔小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』の考察――長編小説『審判』の成立〕

〔新聞と報道の問題を考える――藤井道人監督のドラマ『新聞記者』〕

〔ドストエフスキー生誕200年と『堀田善衞とドストエフスキー』〕

〔明治の文学者の視点で『罪と罰』を読み解く――『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』〕

〔夏目漱石と司馬遼太郎の日露戦争観と自殺戦術の批判〕

〔『竜馬がゆく』とその時代(「神国思想」批判と平和憲法の高い評価) 〕

(2023/05/21、2023/12/12、 ツイートを追加)


明治の文学者の視点で『罪と罰』を読み解く――『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』

  「教育勅語」渙発後の北村透谷たちの『文学界』と徳富蘇峰の『国民の友』との激しい論争などをとおして「立憲主義」が崩壊する過程を再考察することにより、蘇峰の英雄観を受け継いだ小林秀雄の『罪と罰』論の危険性にも迫る 。

 目次より
はじめに 危機の時代と文学──『罪と罰』の受容と解釈の変容
第一章 「古代復帰の夢想」と「維新」という幻想──『夜明け前』を読み直す
第二章 一九世紀のグローバリズムと日露の近代化──ドストエフスキーと徳富蘇峰
第三章 透谷の『罪と罰』観と明治の「史観」論争──徳富蘇峰の影
第四章 明治の『文学界』と『罪と罰』の受容の深化
第五章 『罪と罰』で『破戒』を読み解く──差別と「良心」の考察
第六章 『罪と罰』の新解釈とよみがえる「神国思想」──徳富蘇峰から小林秀雄へ
あとがきに代えて──「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

権力による情報の「操作」と「隠蔽」の危険性に鋭く迫った映画『新聞記者』

映画『新聞記者』では「大学の新設」に関わった官僚の自殺が主人公たちの出会いのきっかけとなっている。

黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》も汚職事件で自殺させられた主人公の父親の死が事件の発端となっており、A級戦犯被疑者の岸信介が首相として復権して新安保条約を強行採決した1960年に公開された。

かつてナチスドイツはオリンピックの映画をプロパガンダとして利用したが、同じような問題が日本でも起きている.

そのような中で権力による情報の「操作」と「隠蔽」の問題に鋭く切り込んだ『#新聞記者』が、日本アカデミー賞6部門で受賞した意義は大きい。

優秀作品賞 優秀監督賞(藤井道人) 優秀主演男優賞(松坂桃李) 優秀主演女優賞(シム・ウンギョン) 優秀脚本賞(詩森ろば/高石明彦/藤井道人) 優秀編集賞(古川達馬)。

新聞がオリンピックという「国策」で開催される大イベントのスポンサーに成ってしまったために政府に対する批判も封じられて、国民のストレスがたまる中、新たな分野で配信されたこのドラマも大ヒットして、現状を変える力を持っていると思われる。 このドラマが持つインパクトはきわめて大きいだろう。

 (2023/05/29、改題してツイートを追加)

 

 

『ユーラシア研究』65号に「黒澤明監督のドストエフスキー観――『罪と罰』と『白痴』のテーマの深まり」を寄稿

はじめに 『白痴』の発表150年にあたる2018年にブルガリアで行われた国際シンポジウムの最終日に行われた円卓会議では黒澤映画『白痴』(1951)が取り上げられ、学生向けにブルガリア語の字幕付きの映画『白痴』も大きな講堂で上映された。

 「円卓会議」で私は「映画『白痴』と黒澤映画における「医師」のテーマ」という題で報告した。長編小説『白痴』ではシュネイデル教授をはじめ、有名な外科医ピロゴフ、そしてクリミア戦争の際に医師として活躍した「爺さん将軍」などに言及されており、黒澤映画でも『白痴』だけでなく、『酔いどれ天使』(1948)、『静かなる決闘』(1949)から『赤ひげ』(1965)に至る作品で医師が非常に重要な役割を演じているからである。 

 しかも、医師のテーマに肉体だけでなく精神の治癒者としての医師に注目し、社会の病理の改革をも含めるとき、ドストエフスキー作品における裁判のテーマも浮かび上がってくる。黒澤明のもとで助監督を務めた堀川弘通は「『白痴』はソ連では、日本人のクロサワはロシア人よりもドストエフスキーを理解していると評判だった」ことを紹介している。本稿では黒澤映画における医師と裁判のテーマの分析をとおして、『罪と罰』や『白痴』を生涯にわたって考察していた黒澤映画の現代性を明らかにする。

〔論考の構成〕  はじめに/  一、黒澤監督の芥川龍之介観とドストエフスキー観――映画『わが青春に悔なし』/  二、映画『野良犬』から『羅生門』へ――黒澤映画における『罪と罰』のテーマ/  三、長編小説『白痴』と黒澤映画における「医師」と「裁判」のテーマ

小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』の考察――長編小説『審判』の成立

 『悪霊』で扇動家として否定的に描かれているピョートルのモデルとなった扇動家ネチャーエフの良心を論じたエッセイ「良心」で小林秀雄は、本居宣長に依拠しながら「良心は、はっきりと命令もしないし、強制もしまい。本居宣長が、見破っていたように、恐らく、良心とは、理智ではなく情なのである」と書いた。

 一方、一九五五年に「ラッセル・アインシュタイン宣言」を出したラッセル卿は、原爆パイロット・イーザリーの哲学者アンデルスの往復書簡をまとめ、ドイツでは『良心の立ち入り禁止』」という題名で発行された本の前書きでこう記した。

「イーザリーの事件は、単に一個人に対するおそるべき、しかもいつ終わるとも知れぬ不正をものがたっているばかりでなく、われわれの時代の、自殺にもひとしい狂気をも性格づけている。(……)彼は結局、良心を失った大量殺戮の行動に比較的責任の薄い立場で参加しながら、そのことを懺悔したために罰せられるところとなった」。

 日本では『ヒロシマわが罪と罰』という邦題で発行されているように、この往復書簡の主題は核の時代における「良心」の問題なのだが、小林秀雄はなぜかこの往復書簡については沈黙を守った。

拙著『#堀田善衞とドストエフスキー』第四章では長編小説『審判』の詳しい考察の前に『ヒロシマわが罪と罰』の問題を考察したので、ここではそれに先だってアップしていたツイートを掲載する。

岩本憲児氏が『黒澤明の映画 喧々囂々』(論創社)で拙著を紹介

 昨年、「日本映画を長くリードし、海外映画にも多大な影響を与えた「世界のクロサワ」。公開時の映画評を時系列に紹介。黒澤映画の何が評価され、何が評価されなかったか」を緻密に論じた岩本憲児氏の『黒澤明の映画 喧々囂々 同時代批評を読む』(論創社、2021)が刊行された。

 ドストエフスキー生誕200年にふさわしくこの本の第6章では、黒澤映画とドストエフスキー作品との関連についての井桁貞義氏と清水孝純氏とともに私の考察にも詳しく言及して紹介されている。 

 以下に、ここではその個所を引用することにより感謝の意を表したい。

 「もう一人、高橋誠一郎はさらに徹底して、黒澤映画とドストエフスキー小説の強い結びつき、そして黒澤におけるドストエフスキーの影響を細部にわたって検証していった。(……)高橋誠一郎は二冊の著書『黒澤明で「白痴」を読み解く』(2011年)と『黒澤明と小林秀雄』(2014年)を上梓、後者には「『罪と罰』」をめぐる静かなる決闘」の副題を付けた。彼は黒澤のドストエフスキーへの関心がいつごろからあったのか、黒澤自身の回想やインタビューから探り出していく。」(310頁、314頁)

「黒澤作品におけるドストエフスキー的、またはロシア文学的要素、これを実証的に分析していくことは可能だろう。黒澤とドストエフスキー、両者を深く調べることができる人であれば。

 高橋誠一郎はドストエフスキーの研究者だったから、その研究者的態度を黒澤研究にも生かすことになった。彼の熱意には脱帽させられるし、一九世紀ロシア文学の思想的・社会的背景、ドストエフスキー文学の位置や特徴、とりわけ『白痴』の読解に関してなど、筆者(岩本)は教わることが大きかった。すなわち、『わが青春に悔なし』の強い信念を持った女性・八木原幸枝(原節子)、『醜聞(スキャンダル)』の蛭田弁護士(志村喬)、その純情娘(桂木洋子)、もちろん原作『白痴』と映画『白痴』の高い親密性、『生きものの記録』の核爆発に恐怖する中島喜一(三船敏郎)、『赤ひげ』の売春宿に生きる少女・おとよ(二木てるみ)等々ドストエフスキー的人物像の説明は具体的である。

 さらに、『黒澤明と小林秀雄 「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』では、ドストエフスキーに関する多数の評論を書いた小林秀雄の理解度と黒澤の理解度を比較しながら、小林が黒澤映画を一本も見ずに対談したことなどにふれ、ドストエフスキーを自己流に曲げて解釈した小林を批判している。はたして黒澤明は自身が言う「本物のインテリ小林秀雄」を表面では尊敬しながら、一方では、自己の作品のなかで小林のドストエフスキー解釈に異を唱えていたのだろうか。また、のちに黒澤本人が「ドストエフスキー論争においては小林秀雄に負けない」と言ったことが具体的には何を指していたのか、高橋誠一郎はスリリングな両者の「静かな決闘」を組み立てている。

 このようにロシア文学研究に軸足を置いて書かれた二冊の本は、これまでの黒澤研究に新たな視点、しかも深い解釈をもたらしてれる。」(318~319頁)