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ウクライナ危機と1986年以降のロシア危機(1)

ロシア軍によるウクライナ侵攻と蛮行が未だに収まらない状況を知らせるニュース報道を見、新聞記事を読みながら、なにも出来ないことに苛立ちながら、「チェコスロヴァキア事件とウクライナ危機」という論考を書いていました。

その中で鮮明に思い起こしたのは、学生を引率していた際に経験した1986年のチェルノブイリ原発事故や1990年初頭に学会や引率で度々モスクワを訪れていた時のロシア危機のことでした。

今回のロシア軍のウクライナ侵攻では、 1986年に史上最悪の原発事故を起こした チェルノブイリ原発も一時、占領されるという事態も発生しました。この事故については、 ホームページのグラースノスチ(情報公開)とチェルノブイリ原発事故(1988年)」、「劇《石棺》から映画《夢》へ」でも言及しました、

 また、ドストエフスキーにこだわり続けた 黒澤明と小林秀雄が 1956年12月に対談をっていたことに注目して、二人の原爆観や核エネルギー観の問題に迫った 『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社、2014年)でも映画《生きものの記録》や映画《夢》の分析を通して行いました。

 1990年初頭の体験は、私のドストエフスキー観や文明観とも深く結びついているので、教養科目「現代文明論」の授業のために編んだ『「罪と罰」を読む―「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、1996年)の「あとがき」に記していました。

 以前にこのブログではエリツィンが急激な市場経済を導入したために、一時はモスクワのスーパーの棚にはロシア産の商品がないような状態も生じて、「エリツィンは共産党政権ができなかったアメリカ型の資本主義の怖さを短期間で味わわせた」との小話も流行ったことを紹介しました。

急激な市場化によってスーパーインフレに襲われ一般庶民が塗炭の苦しみを味わったこの時期に、ロシア人の多くが反欧米の感情を持つことになったと思えるので、まだホームページには掲載していなかった 「あとがき」 の該当部分をブログに、全文を「著書・共著と書評・図書紹介」のページにアップすることにしました。

ウクライナ危機にロシア危機を振り返る――「民族的憤激」の危険性

(2022年4月15日、改稿)

「群像社通信」130号、「図書紹介」より

愛媛新聞、下野新聞 2021年12月19日/ 信濃毎日新聞 2021年12月25日 ほか

生誕200年のドストエフスキーの「日本での受容を語る上で欠かせないのが堀田善衞である。終戦直前の東京大空襲と広島、長崎へ原爆投下という事態に出合って彼は、ドストエフスキーの現代的理解を深めていくからだ。」「原爆投下に関わった米国人パイロットの苦悩を通して、核戦争が起これば人類滅亡の可能性があることを示し、登場人物たちの「罪」と「罰」を描き出」した作品『審判』はじめ堀田作品を読み解き、「黙示録的時代と向き合った2人の作家の共鳴の軌跡を追う。」(共同通信配信)。

「ウクライナ危機に際して堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』を読み直す」を「主な研究」に掲載

ドストエフスキー生誕200年の翌年に突然、プーチン大統領によってウクライナ侵攻が始まったことは晴天の霹靂のような事件であった。

1968年9月にタシケントで開催されるアジア・アフリカ作家会議に参加する準備をしていた堀田善衞にとって、8月21日にワルシャワ条約5カ国軍によってチェコスロヴァキア全土が武力で占領下におかれたことも、同じように衝撃的な事件だったと思われる。

ただ、堀田は九月二〇日から二五日までタシケントで開催されるアジア・アフリカ作家会議の一〇周年記念集会に出席して、「長年の友人である」ソ連の作家たちが「どんな顔をして何を言うか、このことだけをでもたしかめてみようと思い立った」と書いている。

その時の体験や見聞を記したのが『小国の運命・大国の運命』である。このチェコ事件はすでに見たように三島事件のきっかけにもなっていたが、今回のウクライナ侵攻は日本の軍国化を一気に推し進めるきっかけにもなり、緊張の高まりから偶発的な戦争が勃発する危険性をも孕んでいると思えた。

それゆえ、日本ではあまり知られていないシベリア侵攻の問題をも踏まえて『小国の運命・大国の運命』の感想を「チェコ事件でウクライナ危機 を考えるⅡ」と題して書き終えた順に急遽、アップした。その後も戦火が収まらない現在、岸田政権は核戦争の危険性を考慮に入れずに、大増税と軍拡に踏み出そうとしているので、書き急いだ原稿で不満は残るが、構成などは変更せずに取りあえず「ウクライナ危機に際して堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』を読み直す」(上・下)と改題して再掲する。構成は下記のとおりであり、いずれ全体を書き直すようにしたい。

1)アジア・アフリカ作家会議と『インドで考えたこと』

2)1968年の国内外の情勢と『小国の運命・大国の運命』の構成

3)二つの侵攻との比較――ソ連軍の満州国侵攻と日本軍のシベリア侵攻

4)「“人喰い鬼”の詩」と『プラウダ』の衝撃

5)ロシアの“魂”とペレストロイカの挫折

6)「逆効果の“白書”」――ソ連型社会主義と「大国」の問題点の考察

7)チェコスロヴァキアの歴史と「全スラヴ同盟」の思想

8)チェコスロヴァキア事件からウクライナ危機へ――民族主義的な権力者の危険性

9)日露の隣国併合政策と教育制度の類似性

10)「チェコ軍団」の動向とシベリア出兵の問題

ウクライナ危機に際して堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』を読み直す(上)

ウクライナ危機に際して堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』を読み直す(下)

(2022/04/03、 2022/12/14、 改訂)

再稼働 核の危機招く(「東京新聞」「発言」欄、3/28)

テレビで安倍晋三元首相が「核共有」に言及、橋下徹氏は「核武装について次の参院選の争点に」と語った。こうした主張は被爆国日本の国是「非核三原則」を否定するだけでなく、核兵器禁止条約の趣旨にも反し、近隣諸国の核軍拡競争をあおる危険性が高い。

一方、「非核三原則」を「昭和の価値観」と呼んだ日本維新の会の松井氏は、ウクライナ危機が深まる中で「今止まっている原発の再稼働もやむなし」と述べた。三日特報面はこれに注意を促し、「外部電源がなくなれば制御できなくなる」原発の問題を指摘した研究者の見解を紹介した。 

危機の時に恐怖心をあおって「核武装」を主張する自民党タカ派と維新が、原発再稼働にこだわることの危険性をも冷静に指摘した記事を評価したい。

(4)2・26事件の賛美と「改憲」の危険性

「磯部一等主計の遺稿について」論じた「『道義的革命』の論理」で三島由紀夫は、その前年に発表した『英霊の聲』で2・26事件の「スピリットのみを純粋培養して作品化しようと思った」と記している。

たしかに、古今東西の文学作品に通じ、華麗な文体で多くの作品を残した三島はすぐれた文学者であったが、近年のように磯部一等主計に憑依されたかのような『英霊の聲』以降の作品を政治的・宗教的な視点から評価して、「改憲」運動につなげることは危険だろう。

「日本の右翼テロリストは、その死生観において、ある伝統的な信仰につらぬかれていた。それは、かんたんにいえば、己の死後の生命の永続に関する楽天的な信念であり、護国の英雄として祭られることへの自愛的な帰依であった。そして、まさにそれを保障したものこそ、日本の国家神道と天皇信仰とにほかならなかった」と説明した「日本浪曼派」の研究者で三島の深い理解者でもあった橋川文三は、その危険性をこう指摘している。

「このような固有の神学思想は、一定の条件のもとでは、容易にいわゆる人権の抹殺をひきおこし、しかもそこに責任や罪を感じることのない心性をつくり出す。右翼テロリストにおいて「一殺多生」という仏典的発想が結びつくのも、そのような国有の死生観念を媒介とすると考えてよいと私は思う。「汝殺すなかれ」という人格神の絶対的戒律が与えられていない場合、そこには、いかなる残虐も本来的な生命への責任感をよびおこすことはないからである。」(「テロリズム信仰の精神史」『橋川文三 著作集』5、筑摩書房)。

興味深いのは、天草の乱を描いた大作『海鳴りの底』で村岡典嗣氏の論文「平田篤胤の神学に於ける耶蘇教の影響」から「復古神道」の根幹にはキリスト教からの援用があることを知ったことを記していた堀田は、主人公に「洋学応用の復古神道」が「儒仏を排し、幕末にいたっては国粋攘夷思想ということになり、祭政一致、廃仏毀釈ということになり、あろうことか、恩になったキリスト教排撃の最前衛となる。それは溜息の出るようなものである」という感想を抱かせている。

そして、作者は登場人物の一人に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせ、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせて、「復古神道」における「汝殺すなかれ」の理念の欠如を指摘していた。

日本人が情念に流されやすいことはたびたび多くの論者が指摘されてきているが、ウクライナ危機に乗じて、「敵基地攻撃論」や「緊急事態条項」が議論されるようになってきている現在、2・26事件の問題をきちんと把握しておく必要があるだろう。

(2023/2/14,ツイートの追加)

(3)、磯部浅一の「行動記」と裁判をめぐって

 2・26事件の首謀者の一人・磯部浅一は、「行動記」で「余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであろう」と記し、この文章を引用した三島由紀夫は、子供の頃に遭遇したこの事件の印象を「その雪の日、少年たちは取り残され、閑却され、無視されていた」が、「事件から完全に拒まれていた」ことが「その悲劇の客人たちを、異常に美しく空想させたのかもしれない」と「二・二六事件と私」に記している。

一方、2・26事件の前日に受験のために上京して来た若者を主人公とした堀田善衞も『若き日の…』で「まったくの偶然であったのだが、若者が引っ越したこのアパートの隣室に2・26事件のときの首謀者中の首謀者であったⅠという男の未亡人が住んでいた」と記し、磯部浅一の裁判についてこう記述している。

「Ⅰはすでにその年の八月十五日に銃殺刑を執行されてしまっていたはずであったが、Ⅰは十九名の死刑になった首謀者のなかでも、裁判中も、終始はげしく抵抗し、軍の首脳部もまた一時彼らの青年将校たちの行動に同調し、支持さえした点をあげて、陸軍大臣の告示や戒厳命令に関係のあったぜんぶの軍事参議官もまた同罪である、と痛烈に弾劾をしつづけたので」、「重要証人として八月の十九日まで執行の延期をうけていたのである。」

そして、右翼係りの刑事から聞かされた未亡人の行動についてもこう詳しく記している。「まだまだ若い未亡人は、夫の収監されていた代々木練兵場に特設された法廷と収監所とをかねたバラックの近くの、このアパートを選んだのであった。そうして夫の死後、軍首脳部弾劾と裁判の違法性について縷々(るる)と綴られたⅠの遺書を入手し、夫人はこれをある右翼の新聞記者とはかって写真で複写をし世上に流布させようとした。

 もっとも、これらのことは、すべてⅠ未亡人を監視するために、隣室の住人である若者の部屋へしばしばやって来た右翼係りの刑事から、折にふれて聞かされていたことなのである。若者としても、偶然のこと、とはいうものの、まったく異様なところへころがり込んだものであった。(……)刑事は三日にあげずやって来た。刑事はこれらの青年将校たちにはすこぶる同情的で、時にはⅠ未亡人の私用を弁じてやったりもしていたが、なんにしてもそれは若者にとっては閉口、迷惑、この上もないことであった。」

 この記述からは堀田が磯部裁判に強い関心を持っていたことが推測できるが、ここでも焦点を磯部のみに当てるのではなく、この記述の前後に従兄から密かに「赤旗」の入ったカバンを預かってほしいと頼まれて激しく動揺したというエピソードも挿入している。

「しかし従兄には、そういう者が来るなどとは、敢えて言わないことにした。隣室に、そういう女性がいることはかつて雑談のあいだに告げたことがあったが、彼女がそこまでの厳重な監視をうけていることは言わなかったのである。それに、燈台下暗し、ということがある。かえって安全であるかもしれないではないか、と異様な具合に腹をきめて、若者は、「わかった。いいよ」/ と言ってその風呂敷包みを従兄からうけとり、学校へ通うときのカバンのなかに」押し込んだ。

こうして、堀田は磯部の裁判を描くだけでなく、警察での拷問により体を壊して表向きは転向していた従兄から預けられたカバンに入っていた「赤旗」の記事における2・26事件の記事にもふれることで、磯部を「英雄化」せずに相対化して考えようとしたのだと思われる。

しかも、この長編小説では同級生との交遊をとおして、2.26事件でも注目された皇道派の 真崎大将についてもこう記されている(注:相沢事件とは、 ドイツでヒトラー内閣が成立した1933年8月12日に統制派の軍務局長永田鉄山が皇道派の青年将校・相沢三郎中佐に斬殺された事件)。

「Mという同級生の広大な邸が、原宿にあった。その邸前でソフト帽を目深くかぶった私服の誰何(すいか)に遭った。Mの父は陸軍大将で、軍内の派閥の、その一方の頭目であるといわれていた。二・二六事件のときにも、世間の注視のまとになった人であった。また相沢事件といわれた、軍務局長を陸軍省内で斬った軍人の裁判のときにも、その軍人のためによい証言をするだろうと期待されていながら、将官は勅許を得なければ法廷で証言は出来ぬ、と言ってつっぱねた人であった。勅許とはねえ、と世間では言っていた。血の冷たい感じのする将官であった。(……)そうして級友のM自身は、たいへんな女たらしであった。そのMの勉強部屋で、少年は生れてはじめてエロ写真なるものを見せられた。親爺が上海からもって来たんだ、とMが言った。」

 (2023/02/14、改訂とツイートの追加)

(2)、2・26事件と検閲の強化

三島由紀夫が『豊饒の海』の第二巻『奔馬』のモデルとした血盟団事件(2月~3月)で井上日召に率いられた学生たちによって、井上準之助と團琢磨が暗殺されるという連続テロ事件が起きた1932年には、京都大学法学部の滝川教授の発言が問題になる滝川事件も起きていた。

さらに満州国の承認に慎重だった犬養毅・内閣総理大臣が、武装した海軍の青年将校たちと血盟団の残党らによって殺害された5・15事件が起きた。1935年には、天皇機関説事件が起きていた。

『若き日の…』ではこれらの事件については言及されていないものの、1934(昭和9)年に『ファッシズム批判』を出版して、軍国主義と「国体明徴」運動を批判したことで知られていた河合栄治郎・東京帝国大学教授が書いた二・二六事件の批判記事がかなり長く引用されている。

「帝国大学新聞」について「大学が、また大学生が新聞を刷って売っているということが、少年にはなんともいえぬほどに清新で、自身の腹の底から甲高い声が出そうなほどに、爽快でもあった」と書いた主人公は、事件直後の三月九日付の号に載った記事の「筆者は河合栄治郎という人であった」ことを紹介して、次の文章を引用している。

 「彼等の我々と異なるところは、ただ彼等が暴力を所有し、我々がこれを所有せざることのみにある。だが偶然にも暴力を所有することが、何故に自己のみの所信を敢行しうる根拠となるのか、何故に国民多数の意志を蹂躙(じゅうりん)せしめる合理性となるか」。そして、主人公は「削除は多いにしても、筆者の怒りと批判ははっきりと出ていた」と結んでいる。

一方、押し入れからさがし出した雑誌の『中央公論』は六月号で、「同じ筆者が巻頭に論文を書いていた」が、「この方は、バッテンばかりで、さっぱり見当もつかなかった」と記されているが、ここでは「第三」のみを長く引用することで具体的に示しておきたい。

「第三に彼等は政党の堕落と財閥の横暴とをみた。国体を明徴ならしむることによって、国民思想の安定を図りうると考へたことに、彼等の単純さがある。×××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××。しかし複雑なる社会問題に囲まれ、幾多の思想によりて攪乱されてゐる一般市民にとっては、×××××××××××××××××××××××、未だ問題を解決することにはなりえない。××××××××、現代に処して、いかなる内容を盛るべきかが、今や必要とされてゐるからである。」

実際、この事件の首謀者は非公開で弁護人なしという特設軍法会議で裁かれ処刑された。それによって軍部における統制派の権力は強まり、「祭政一致」の原則に基づいて「専制・正教・国民性」を厳守するように求めた「ロシア帝国」と同じような政策が実施され、それを批判することは全くできなくなったのである。

芥川龍之介は自作『将軍』の検閲と伏字に対して怒りを感じていたが、2・26事件以降には軍部における統制派の権力が強まり、「祭政一致」の原則に基づいて「専制・正教・国民性」を厳守するように求めた「ロシア帝国」と同じような政策が実施され、それを批判することは全くできなくなっていたのである。

 この長編小説ではラジオから流れてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説が主人公の重要な転機になっていたが、1933年1月にナチスが政権を握ったドイツでは「非ドイツ的な魂」に対する抗議運動が行われるようになり、5月10日のユダヤの知識人の書物を大量に焚書にした際にもゲッベルスが扇動的な演説をしており、その際に焚書の対象とされたドイツの公法学者ゲオルク・イェリネックの著書『人権宣言論』を1906年に訳出していたのが「天皇機関説」事件でやり玉に挙げられることになる美濃部達吉だったのである。

主人公が仏文科への転科を決意したのは1940年秋のことだったが、その際には白柳君との会話などをとおして日本では「商工省の通達があって、洋書の輸入は禁止された」が、「一九三五年にパリで行われた国際作家会議の記録によると、ドイツの作家代表は匿名は無論のこと、顔に覆面までをかぶって出て来るというひどい政治の有様」になっていたことなども記されている。

 (2023/02/14、改訂とツイートの追加)

『若き日の詩人たちの肖像』で2・26事件を考える (1)2・26事件とシベリア出兵

堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(以下、『若き日の…』と略記する)第一部の冒頭ではドイツから帰国した新進の指揮者によるラヴェルのボレロとベートーヴェンの運命交響楽を聞くために早めに上京した主人公が、その翌日に交通規制で足止めされていて友人宅から下宿に戻った兄から、戒厳令が布かれ前日にボレロを聴いた軍人会館が「戒厳司令部」になったと告げられる。

三島由紀夫が『英霊の聲』で神道系の「帰神(かむがかり)の会」で英霊に語らせたように「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに大蔵大臣・高橋是清や内大臣・斎藤実、教育総監・渡辺錠太郎などの政府要人を殺害した皇道派の陸軍青年将校たちは、自分たちの行動は幕末の志士が起こした桜田門外の変と同様に高く評価されるものと信じていた。

しかし、反乱軍とされたために彼らが率いた1、483名の下士官や兵士と鎮圧に向かった軍との間での戦闘もありうるような危険な状況に首都が陥ったのであり、この地域の住民は退去せよとの命令が出ていた。主人公は受験勉強を理由に家からの移動を拒否したのだが、それは1918年に起きた米騒動が少年の港町にも波及して来た時に、「北前船の廻船問屋をいとなんで来た家の曾祖母は、米をめぐっての民衆の騒乱のことを知悉(ちしつ)して」おり、「直ちに家の者、店の者の先頭に立っててきぱきと指示」をして、民衆に粥をくばり騒ぎをおさめていたからである。

こうして、堀田善衞は第一部の冒頭で首都を揺るがした2・26事件と主人公の少年が生まれた年に起きた米騒動を比較することで、読者により広い視点でみることの大切さを示唆していたと言えるだろう。

1955年に発表した長編小説『夜の森』で堀田はすでに、北陸で発生した米騒動の拡がりや九州の炭鉱での暴動が、8月2日の「出兵宣言」の後で起きたコメの価格の高騰とも深い関りをもっていることを示したばかりでなく、この出兵の際には虐殺が行われていたことや、満州国の建国に先駆けて傀儡国家樹立の試みがなされていたことも記していたのである。

そして、『若き日の…』では「シベリア出兵のときに、ロシア人の家から掻っ払って来たのだという、黄色い大きな琥珀(こはく)をくりぬいてつくった置時計」を自慢にしていた管理人のことも記されているが、 何の理由も告げられずに逮捕された主人公が 、「物品のように」どさりと留置場へ放り込まれて一三日間拘留されたのは、満州国皇帝来日の予備拘禁であったことも記されている。

「日本浪曼派」の保田與重郎は「『満州国皇帝旗に捧ぐる曲』について」で、「満州国の理念」を「フランス共和国、ソヴエート連邦以降初めての、別箇に新しい果敢な文明理論とその世界観の表現」と讃えていた。一方、堀田は武力による満州国の建国はその後の日本の政治や法律をも変えて「無法が法の名において」行われ、無謀な戦争の拡大へと突き進ませることになったことを明確に描写していたのである。

本稿では「二・二六は最終的な落着におちつくまで接着してはなれなかった」と記されている『若き日の…』における2・26事件の描写をとおして、この問題と三島事件のかかわりを以下の順で考察する。
2, 2・26事件と検閲の強化、3,磯部浅一の「行動記」と裁判、4, 2・26事件の賛美と「改憲」の危険性。

  (2023/02/14、改訂、改題してツイートを追加)

ウクライナ危機と満州事変 

 作家の堀田善衞は自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』 (以下、『若き日の…』と略記) で中学に入学した年に勃発した1931年の満州事変の後では「事変という奴は終わりそうもない」と感じていたと描いています。

それゆえ、ソ連崩壊後のチェチェン紛争の鎮圧後には言論への弾圧を強めていたロシアのプーチン大統領によるウクライナ侵攻は、関東軍による満州事変を連想させます。

関東軍による満洲全土の占領後に現地調査したリットン調査団の報告書を受けて国際連盟特別総会が満洲国の存続を認めない勧告案を採択すると、日本は1932年の3月27日に国際連盟に脱退を表明しました。そして、紀元2600年を盛大に祝った1940年の翌年には太平洋戦争に突入していたのです。

堀田善衞の長編小説『若き日の…』が出版されたのは1968年9月のことでしたが、その翌月の10月23日には日本政府主催の「明治百年記念式典」が日本武道館で開催されました。このような日本の状況を考慮するならば、堀田善衞が長編小説『若き日の…』で昭和初期の重苦しい時代を克明に描き出したのは、この時代の危険性を記しておく必要があると考えたためではないかと思えます。今回の事態に際してはプーチン大統領の誤った決断だけでなく、この事態に乗じて「改憲」を行い、緊急事態条項を入れるなど昭和初期の日本へと逆戻りさせようとしていることへの批判も必要です。

(2022年3月26日改訂と改題、2023/02/13、改訂と改題、ツイートを追加)

「小林秀雄神話」の解体(3)――「人生斫断家」という定義と2・26事件

3、「人生斫断家」という定義と2・26事件

鹿島茂氏は神田で売られていた古本の中に「『地獄の季節』を見つけて衝撃の出会いを経験してからすでに二十二年近くを経過している」にもかかわらず、小林秀雄が「烈しい爆薬が」「見事に炸裂」したといった「妙に青臭い」表現を用いているのはなぜだろうかと問いかけています。

恐らくその一因は著者も視野に入れている時代との関りを考慮することで明らかになるでしょう。すなわち、小林が『地獄の季節』を翻訳したのはロンドン海軍軍縮条約が批准された1930年でしたが、「統帥権干犯」問題で浜口首相が銃撃され、海軍の「艦隊派」も北一輝などの右翼やマスコミ対策などをとおして条約反対の機運を盛り上げたことで、一気に「国粋主義」的な機運が高まって翌年には満州事変が起きていたのです。

小林がサント・ブーヴの『我が毒』を翻訳した1939年にはノモンハン事変の敗北、アメリカの対日経済制裁、独ソ不可侵条約の締結」などの大事件が相次ぐ一方で、「国内的には日本浪曼派の台頭など、日本回帰の風潮は強まり」、小林自身も「着実に日本の伝統へと向かいつつあった」(52)のです。

それゆえ、保田與重郎主宰の「日本浪曼派」を考察した評論家の橋川文三は、小林秀雄の美意識が「むしろ過剰な自意識解析の果てに、一種の決断主義(太字の個所は原文では傍点)として規定されるのに反し、保田の国学的主情主義は、(……)むしろ没主体への傾向が著しい」と指摘し、「満州国の理念」を賛美した「日本浪曼派」の「保田と小林とが戦争のイデオローグとしてもっともユニークな存在であった」と記していました(『日本浪曼派批判序説 耽美的パトリオティズムの系譜』、講談社文芸文庫)。

入学試験のために主人公が上京した翌日に、皇道派の将校たちが「昭和維新、尊皇斬奸」を掲げてクーデターを起こそうとした2・26事件と遭遇したことが描かれている『若き日の詩人たちの肖像』では、中学に入学した年に勃発した満州事変の後では「事変という奴は終わりそうもない」と主人公が感じていたことも描かれています。

『若き日の詩人たちの肖像』の主人公は、留置場に理由もなく入れられた際には芥川龍之介の遺書『或旧友へ送る手記』の文章を思い出して憤慨したことが記されていますが、なんとか「出口」を見つけたいと願っていた若き主人公にとって、芥川が自殺という手段でこの世から去っていたことは、腹立たしいことだったのです。

一方、小林秀雄がランボーを「人生斫断家」と定義していたことに注目した鹿島茂は、「斫断」というのは辞書にはないので「同じ意味の漢字を並べて意味を強調する」ための造語で、「いきなりぶった切る」という意味を出したかったのではないかと記しています(170)。

そして著者は小林秀雄のランボー論が流行った理由を、当時の時代状況などにも注意を払いながら「昭和維新」を熱心に論じあい、「斎藤実や高橋是清を惨殺した二・二六の将校」と、小林が「その深層心理ないしは無意識において」は、「それほどには違っていなかったのではあるまいか?」と推定し(186)小林秀雄訳『地獄の季節』に見られる「美神との刺違へ」的イメージが二・二六の青年将校などの同世代人にも共通して見られる」と書いているのです(263)。

 きわめて大胆な仮定ですが、たしかにランボーの詩について「彼は美神を捕らえて刺違へた」と解釈し、戦闘用語の「爆薬」とか「炸裂」という単語を用いていた小林の「いきなりぶった切る」という意味の「斫断」という単語は、「一思いに打ちこわす、それだけの話さ」と語り、「いやなによりも権力だ!」と続けていたラスコーリニコフの言葉を想起させます。 

つまり、ドストエフスキーはラスコーリニコフに「凡人」について、「服従するのが好きな人たちです」と語らせたドストエフスキーは「どうするって? 打ちこわすべきものを、一思いに打ちこわす、それだけの話さ。(……)自由と権力、いやなによりも権力だ! (……)ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」(江川卓訳)とも語らせていました。

さらに、1940年には『我が闘争』の短評でヒトラーの考えを賛美した小林秀雄が、その翌月に『文学界』に掲載された作家・林房雄や石川達三との鼎談「英雄を語る」では、ナポレオンを「英雄」としたばかりでなく、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「暴力の無い所に英雄は無いよ」と続けていました。

一方、『罪と罰』の創作ノートにはラスコーリニコフには「人間どもに対する深い侮蔑感があった」と書かれています。ドストエフスキーはラスコーリニコフに、自分の「権力志向」だけではなく、大衆の「服従志向」にも言及させることでラスコーリニコフのいらだちを見事に表現しえており、それゆえ小林秀雄の『罪と罰』論も主人公の苛立ちをも見事に指摘したことで、同時代の若者たちの共感をも勝ち得ることができたのです。

それとともに1936年に発表した「文学の伝統性と近代性」というエッセイでは中野重治などを批判しつつ、「伝統は何処にあるか。僕の血のなかにある。若し無ければぼくは生きていないはずだ。こんな簡単明瞭な事実はない」と書き、「僕は大勢に順応して行きたい。妥協して行きたい」とも記すことになる小林は、芥川を厳しく批判することですでに時勢に順応しようとしていたことも感じられるのです。