高橋誠一郎 公式ホームページ

司馬遼太郎

日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって

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(高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房の表紙。図版はオムスクの監獄)

はじめに  日本の近代化とナショナリズムの覚醒

明治9年(1875年、以下、年号は原則として西暦で示す)に、ベルツはその日記に、「これは最も不思議千万の事ではあるが--今日の日本人は、自身の過去に就いては何事も知る事を欲していない。教養ある人士も、過去に引け目を感じているのである」とし、「何も彼も野蛮至極であった」と言明した者や…中略…「我等は歴史を持って居ない、我等の歴史は今から始まるのだ」とまで断言する者までいるという驚きを記している*1。

だが、実はこのような自己の過去を否定するという精神の働きは、一部の日本人知識人の特殊性を物語るものではない。たとえば、社会学者の作田啓一は『個人主義の運命――近代小説と社会学』で、「ナポレオン戦争を支えたフランス民族のナショナリズム」では、「フランス革命によって到達した民主主義的な諸価値を世界に拡げること」を「彼らの使命」と説明している*2(以下、本書をKと略記し、本文中に頁数を示す)。

このような思想的潮流の中で、フランスの文明を普遍的な文明ととらえたロシアの思想家チャアダーエフは、ナポレオンを破った祖国戦争(1812)の後でも農奴制のような非近代的な制度が改革されないことに悲観し、ロシアはギリシア正教を受け入れたために「人類の普遍的な発展」から孤立したのだと厳しく批判した。こうして、それ以降ロシアでは発展のあり方をめぐって「欧化と国粋」の激しい対立が生まれることになったのである*3。

しかし、一方で「国民国家」の成立と自分たちを「普遍的な理念」の普及者として主張したフランスにおける民族意識の昂揚は、隣国ドイツやギリシア正教を国教とするロシアにおいては、激しい反発から自国の民族意識の高まりを生みだし、独自の「国民性」が求められるようになったのである。

それはロシアに限ったことではなく、いわゆる「文明開化」が求められた明治維新以降の日本でも近代化の過程における「西欧化と土着」の問題が起きてくるようになる。なぜならば、ベルツの「日記」が書かれる3年前に政府は、西欧諸国からの強い要望もあり、キリスト教の禁制をも解いており、西欧文明を学ぶ機会も大幅に拡大したが、自らの普遍性を主張する「近代西欧文明」自身が、それ以外の諸文明の独自性や意義を否定する働きをも担っていたのである。

「西洋崇拝による土着軽視」とその反発としての「国粋」思想の勃興の流れに注目した比較文明学者の山本新は、このサイクルが日本ではほぼ20周年で周期的に交替しているという説を唱えた*4。吉澤五郎は近著でこのような「西欧化と土着」のサイクルを分かりやすく図示しているが、興味深いのは、サイクルの高揚期や低迷期などの節目とドストエフスキー受容が不思議と一致していることである*5。

すなわち、松本健一は「ドストエフスキイが熱狂的に読まれた時代が過去に五度ほどあった」とし、①、1892年前後 ②、1907年前後 ③、大正期 ④、1934年から1937年 ⑤、1945年から1950年を挙げているのである*6。

以下、本稿では「個人主義のゆくえを考えることは、ナショナリズムのゆくえを考えることに通じる」(K.201)とした作田啓一の考察を踏まえながら、比較文明論的な視点から第二次世界大戦に到るまでに時期を絞って日本におけるドストエフスキー受容と「欧化と国粋」のサイクルの問題の係わりを考察し、「文明の衝突」を乗り越える可能性を探りたい*7。

第1節  ロシアの近代化とロシア文学の受容

明治維新の初期に東京外国語学校の教員として招かれていたメーチニコフは、岩倉具視、木戸孝允、副島種臣などの「維新を指導した少数の国家的人物」をはじめとする多くの人たちが、ピョートル大帝の「熱烈なファンである」と書いた*8。

彼の言葉は誇張のようにも思えるが、実際、明治維新に際しては「ざんぎり頭をたたいて見れば文明開化の音がする」と歌われたように断髪令が出されたが、ピョートルもロシア人の意識を変えるために、成人男性が生やしていたあごひげを切り取ることや衣服を西欧式に改めるなどの命令を発しているのである。さらに彼は「ペテルブルク市長に命じて、定期的に夜会をひらかせ、貴族たちが夫人同伴で出席することを義務」づけたが、「わが国の『鹿鳴館』の先駆」だったのである*9。

また、明治政府は1871年暮れに西欧文明を早急に取り入れるために、「一国の政権の最高首脳部の大半をあげて、先進文明世界を視察し、これから学ぼうとする」使節団を1年以上にわたって西欧に派遣したが*10。ピョートル大帝もロシアの内政が安定しないなか250名もの随員と留学生を連れて、一年半にわたる長い西欧視察旅行に出かけていた。さらに、1872年12月に明治政府はそれまでの太陰暦を西暦(グレゴリオ暦)に改めるという大改革を行ったが、ピョートル一世も年号を天地創造の日から数え、1年の始まりを9月1日としていたそれまでのビザンツ暦を、西暦に近いユリウス暦に改めていた。

こうして明治政府は「殖産興業」と「富国強兵」をめざしたピョートル大帝の改革をなぞるかのように息せき切って「近代化」を進めたのであった。幕末の1862年にロシアを訪れた福沢諭吉も、当時のロシアには厳しい評価をしたものの、元禄の頃に行われたピョートル大帝の改革については、「学校を設け海陸軍を建て」、「堂々たる一大国の基(もとい)を開き、今日に至るまで、威名を世界中に轟かせり」と記した*11。

ところで、作田啓一はデュルケームなどの考えによりながら、「近代政治史とは、さまざまの特権を持った中間集団を国家が打ち砕く過程」であり、「この闘争を通じて、中世的な共同態は衰退してゆき、それに代わって国家と個人が社会の有力な構造要素」となってきたとし、こうして「国家の成長に伴って個人主義が発展してきた」と説明している(K.90-93)。

このことは強大な西欧諸国との接触によって開国を余儀なくされた日本が、近代国家の成立をめざして行った改革を例に取れば分かりやすい。明治維新に際し、明治政府は廃藩置県をも断行し、藩にも自治を許すそれまでの幕藩体制というゆるやかな制度を取りやめて、強大な中央集権国家の設立を目指したのである。このような「近代化」を推進したのが、それまでの日本を「半開」とし、西欧を「文明」と位置づけた福沢諭吉であった。彼は『学問のすゝめ』(1872)において「唯学問を勤(つとめ)て物事をよく知る者は貴人となり、富人となり」と書き、さらに「専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」として新しい西欧の学問を学ぶことが「立身出世」につながると強調したのであった。このような見方は、同時に新政府が欲していた方向性でもあり、同じ年に学制が発布され公的な義務教育が始まり、これ以降「わずか数年の間に2万6千余校という小学校ができ」ることとなった。こうして、身分や貧富に係わらず、「富国強兵」という国家の要望に答える能力を有した者には「立身出世」が可能となったのである。

だが、作田が書いているように、「近代化が進み、公的生活において人々が参加する集団の規模が大きくなり、官僚制化してゆくと、公私の二つの領域において、人々は相互に異質的な要求に直面することを余儀なく」される。なぜならば、「自己を発展させよという個性の命令に忠実な個人」は、「どの方向へ向かうかの選択」という「苦しい自己決定を行ったあとに、葛藤と不満とが待ち受けているかもしれ」ないからだからである(K,113~4)。

このような事態を日本もむかえた。「中間集団」の文化を否定する一元的な価値の上からの強制や「西欧化」を強要する「文明開化」への反発は、すでに徴兵反対一揆(1873)や佐賀の乱(1874)などの形で噴出し始めていた。それが、ベルツが日本人知識人への驚きを記した翌年の1876年3月に「廃刀令」が出されると、同じ年の10月には神風連の乱や秋月の乱、萩の乱などが頻発することになり、その翌年には国力を二分した西南の役が起きることになった。さらに、これらの乱が鎮圧された後は、今度は武器ではなく筆を持って政府批判を繰り広げる「自由民権運動」が盛んになったのである。

このことは、日本の文明開化よりも150年以上も早くロシアの近代化を行ったピョートル大帝の改革とそれ以降の歴史の流れにも現れた。ロシアではピョートル大帝の死後、強国としての位置を築く一方で、相次ぐ宮廷クーデターの中で特権を増やした貴族とは正反対に、農民の隷属化が進んで過酷な農奴制が確立していた。このような中、ロシアの知識人たちは、国家のさらなる近代化を目指すとともに個人の自由や民衆の権利を求める運動をも展開したのだった。

これに対応しているのが、ロシア文学の受容だろう。島崎藤村は『千曲川のスケッチ』の奥書において、「明治年代に入って言文一致の創設とその発達に力を添えた人々の骨折と云うものは、文学の根底に横たわる基礎工事であったとわたしには思われる」と書いている。このような困難な作業に大きな影響を及ぼしたのが、農奴制の問題を文学的な視点から鋭く批判したツルゲーネフの『猟人日記』の中の一編を言文一致体で訳した二葉亭四迷の『あひびき』である。

川端香男里は、ロシア文学が「1908年には翻訳の点数で英米文学を追い越し」ていたことに注意を促して、「昭和20年代までに世に出た作家や評論家でドストエフスキー、トルストイ、チェーホフから影響を受けなかった者はいない」と述べ、さらにロシア文学受容のピーク時について、ツルゲーネフは明治期、トルストイは大正期、そしてドストエフスキーは昭和期に入ってからとも指摘した*12。すなわち、官民挙げて日本が「文明開化」に精力を注いでいた明治には西欧派のツルゲーネフが流行り、日露戦争前後の時期からは平和論を唱えたトルストイの作品が好んで読まれたのであり、近代化の問題点が明白となり、近代西欧文明の批判の強まるとともに、ドストエフスキーが爆発的な広がりを見せたといえよう。

 

第2節  『罪と罰』の翻訳と北村透谷

内田魯庵が二葉亭四迷の助力を得て日本で最初に『罪と罰』を訳出したのは、1892年のことであった。だが、この時は充分な購買者数を得ることができずに、その前半部分を訳したのみで終わった。ただ、この時すでに鋭く本質的な理解を示した者に北村透谷がいる。

彼は「『罪と罰』の殺人罪」(1893)という書評において、ハムレットにも言及しながら、「最暗黒の社会にいかにおそろしき魔力の潜むありて、学問はあり分別ある脳髄の中に、学問なく分別なきものすら企つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と喝破したのである*13。

しかし、このような透谷の言葉は単に彼の鋭い理解力を示すものではなく、「近代化」の流れの中での苦しい体験の結果でもあった。ラスコーリニコフの母親は息子に家名をあげることを望んでいたが、透谷の母も小田原藩藩士だった夫の禄高が、佐幕派だったために3分の1に減らされる中で、息子の「立身出世」を強く期待したのだった。さらに、ラスコーリニコフは「非凡人の理論」を編み出して高利貸しの老婆の殺害におよんだが、1884年の5月には、近隣の三郡百余村に金を貸付け、「負債人民からの憎悪の的であった」高利貸露木卯三郎が殺害されるという事件が大磯で起きていた。

注目すべきは、透谷がその末尾近くで大隈重信に爆弾を投げた来島や、来日中のロシア皇太子ニコライ二世に斬りつけた津田巡査などに言及しながら、「来島某、津田某、等のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」とすら述べていることである。

この言葉はドブロリューボフに言及した1862年のドストエフスキーの論評を思い起こさせる。ここでドストエフスキーは「深く神聖に真理を確信している」りっぱな人物が、「ただただ自分の高潔無比な目的を達せんがために」、誤った手段を取ることもありうるのだといい、問題は「彼が目的到達のために用いた手段に存する」ことは明瞭であると考察したのだった。このような考察は『罪と罰』などで、「十字軍」や「暴力革命」などの「手段」をも「正当化」した、「カトリック」や「テロリスト」への哲学的な批判として深化されていくのである。

透谷の考察は、「目的と手段」の問題を通じて「近代西欧文明」の問題の根元にも迫ろうとしたドストエフスキーの作品の本質にも肉薄していたのである。だが、ここでも透谷の理解は、「時代」とも深く係わっている。すなわち、1884年には朝鮮で「近代化」を推進しようとする独立党を押して内閣を作ろうとするクーデターが失敗した甲申事変が起きたが、この翌年には朝鮮での独立運動を支援するために、強盗をしてこの資金を得ようとした大阪事件が起きた。この時透谷は「自由民権運動」に係わっていた親しい友人から参加を求められていたのである。

色川大吉は、この事件の首謀者の論理が1873年に「単身韓国にのりこもうとした西郷の征韓論の論理」や「一国の人心を興起して全体を感動せしむるの方便は外戦に若(し)くものなし」と1878年に記した福沢諭吉の「通俗国権論の論理」と基本的にはほぼ共通しているとし、彼らには「封建的な事大党をたおして、開明的な独立党に政権をとらせ、朝鮮人民への連帯と友情をしめそう」とする姿勢もあったことに注目している*14。すなわち、彼らの論理には、ロシアの現状を打破するためにポーランドの独立運動にも理解を示したドブロリューボフたちの考えに近いものもあったのである。

だが、透谷はこのような「目的」を達するために、強盗のような「手段」を取ることには賛成できず拒否するという、ちょうど『悪霊』(1871~2)のシャートフ的な体験を有していたのであり、その後彼自身もキリーロフのように若くして自殺した。

 

第3節  近代化の深化と夏目漱石

夏目漱石が『三四郎』を書き上げたのは、1908年のことであった。この時期までに日本は急速な近代化を経て、日清戦争(1894~5)や日露戦争(1904~05)で勝利をおさめ、朝鮮での勢力を強めるなど「富国強兵」に成功していた。だが、ちょうどポーランドを分割し、コーカサスをも併合して領土の拡大に成功したロシアが、国家の強大化に反して民衆のレベルでは農奴化がかえって進んできたように、日本でも「強大な国権」への批判が下から噴出し、このころから価値の2分化が顕著になっていた。

このような近代化の苦悩を象徴的に物語っているのが、政府の派遣によりイギリスに留学し、帰国後に教鞭を取っていた東京帝国大学での職を辞して、近代日本の知識人の苦悩を描く小説を書くことになる夏目漱石だろう。

司馬遼太郎は『三四郎』について、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と規定するとともに、「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になった。…中略…下部(地方や下級学校)にそれを配るという配電盤の役割を果たした」と指摘している*15。

この指摘は「ペテルブルグほど人間の心に暗く、激しく、奇怪な影響を与えるところは、まずありますまいよ」と語り、「これは全ロシアの政治的中心なので、その特性が万事に反射せざるをえません」と続けた『罪と罰』の登場人物スヴィドリガイロフの言葉を思い起こさせる。実際、ロシアの首都サンクト・ペテルブルクもピョートル一世により、西欧の科学技術を大幅に取り入れるために「西欧への窓」として建設されたのである。

しかも、司馬は1872年にできた「司法職務定制」により、「弁護士の前身といえる」「代言人という職と機能が」成立したことに注目し、それ以降、1881年に明治大学の前身である明治法律学校が出来たのをはじめ、英吉利法律学校(後の中央大学)や日本法律学校(後の日本大学)が次々と設立されていることに注目し、「明治は駆けながら法をつくり、法を教える時代」だったと規定している。

司馬遼太郎の読みは『三四郎』の社会的背景だけでなく、名門サンクト・ペテルブルク大学の法学部を中退した若者を主人公とした『罪と罰』の社会的背景をも説明し得ている。すなわち、主人公のラスコーリニコフの妹ドゥーニャの婚約者で、今まさに首都に法律事務所を開こうとしていた弁護士のルージンは「いろいろな新しい傾向とか、改革とか、新思想とか、すべてそうした」、「いっさいを残りなく見ようとするには、やっぱりペテルブルクにいなければなりません」と述べていたのである。

このようなルージンの「文明観」を、ラズミーヒンは「科学、文化、思索、発明」などの知識がロシアの知識人にはまだまだ未熟でありながら、それなのに「他人の知識でお茶をにごすのが楽でいいものだから、すっかりそれになれっこになってしまった」と鋭く批判する。このような彼の批判は、明治末期の1911年に「内発的」ではない日本の開化を厳しく批判した漱石の「現代日本の開化」という講演ときわめて似ている。

実際、福沢は日本が「開国20年の間に、200年の事を成した」と「文明開化」の成功を誇ったが、一方、漱石はすでに『三四郎』において自分と同じ年齢の登場人物広田に「明治の思想は西洋の歴史にあらわれた300年の活動を40年で繰返している」と「皮相上滑り」な「文明開化」を批判させたのである*16。

この意味で注目したいのは、『三四郎』に先だって朝日新聞に発表された二つの作品である。すなわち、『三四郎』が書かれる直前には、島崎藤村が北村透谷などの若者たちを主人公とした作品『春』を発表しており、さらにその直前には漱石が、足尾銅山をテーマにした『坑夫』という作品を発表していたのである。

立松和平はこの前年の1907年に「足尾銅山で鉱夫たちにより大暴動が起こり、軍隊が出動して鎮圧」されていたことに注意を向けて、「足尾銅山は、富国強兵の最先端を走っていた。…中略…日露戦争で使われた鉄砲の玉は、ほとんどが足尾で産出した銅を原料としていたといわれている」と指摘している*17。このような大量生産の結果、足尾では、現在の環境汚染の先駈けとも言える「鉱毒事件」が発生したのである。

このように見てくる時、「西欧文明を目的」とした福沢の「文明観」は、近代化を要請した「時代」の産物であり、一方、福沢よりも30年ほど遅れて生まれた漱石は、「文明開化」の結果発生した近代化の負の面をも見ねばならなかったと言える。

 

第4節  近代化の矛盾と「近代の超克」論

漱石は『三四郎』において広田先生に「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」と語らせ、このままでは「亡びるね」とさえ断言させていた。司馬遼太郎はこの言葉に注意を促して、「ひげの男の予言がわずか38年後の昭和20年(1945)に的中するのである」と記した*18。

そして、司馬は日露戦争後にロシアから充分な戦後補償を得られなかったことを不満として、日本各地で日本政府の弱腰を責めたてる「国民大会が次々に開かれ」たことを重視し、ことに放火にまで走った「日比谷公園に集まった群衆」こそが、「日本を誤らせたのではないか」と記している。そして、司馬は「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべき」だと鋭く批判していた。

ナショナリズムの加熱がどうしてこのような結果を招くかを、作田は社会学の視点から「大衆デモクラシーのもとでは、有権者の票の獲得にあたって、理性に訴える説得よりも、感情に訴える操縦のほうが有効であると言われるようになり、また事実、その傾向が強く」なったと説明している(K.110)。

ここで注目したいのは、作田が「個人の自尊心」と「国家の自尊心」とは深いところで密接に結びついていることを指摘して、「個人主義」だけでなく「個人主義の双生児であるナショナリズムも、自尊心によって動かされて」きたと指摘していることである(K.201)。つまり、お互いに自国の「正義」をかざして戦った第一次世界大戦では、フランスなどが勝って、「自民族」の優秀さを謳歌したが、それは戦争に敗れて経済的な打撃だけでなく、精神的にもドイツ人を深く傷つけてしまったのである。こうして、「自尊心」をも侮辱されたと感じた中で、ラスコーリニコフの「非凡人」の理論を「民族」にまで拡大して、「優秀な民族」は、「悪い民族」を滅ぼすべきだと主張し、ユダヤ民族の抹殺を謀ったヒトラーの理論が生まれてくることになったのである*19。

日本における『罪と罰』の受容の波が太平洋戦争へと突入する時期に高まったのも、このような流れと無関係ではない。松本健一は真珠湾攻撃の翌年に出版された堀場正夫の『英雄と祭典』にふれて、彼が『罪と罰』を「『ヨーロッパ近代の理知の歴史』とその『受難者』ラスコーリニコフの物語」ととらえ、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なしたことを紹介している*20。

むろん、このような読みは現在のレベルでの研究を踏まえた上での読みから見れば、きわめて問題があるが、このような「読み」には、時代的な背景もあった。ニーチェの思想から強い影響を受けたシェストフは、ドストエフスキーをも「超人思想」の提唱者であり、「悲劇の哲学」の創始者の一人としていたるとした*21。このようなシェストフの解釈が日本でも受け入れられる中で、優れた批評家であった小林秀雄ですらも、『罪と罰』のエピローグではラスコーリニコフは影のような存在に成っていると指摘して、書かれている彼の更生をも否定したのであった*22。

それは「近代人が近代に勝つのは近代によってである」とした小林の福沢的な近代観から導かれたものでもあった。こうして、堀場の理解は太平洋戦争の直前に「近代の超克」を謳ってなされた日本の著名な知識人たちによる討論のテーマや主張とも重なり合うものだったのである。

だが、ドストエフスキーは『罪と罰』において、「非凡人の理論」から殺人を犯したラスコーリニコフの悲劇を描くとともに、それに対抗する形でロシア正教の敬虔な信者ソーニャの苦難と彼女によるラスコーリニコフの救いを対置していた。そして、『地下室の手記』(1864)では主人公に、バックルによれば「人間は文明によって穏和に」なるなどと説かれているが、ナポレオン戦争や南北戦争では「血は川をなして流れている」ではないかと、「近代西欧の<知>」への鋭い批判を投げかけていた。実際、『戦争の社会学』によれば、すでに「フランス革命からナポレオン帝国の戦争」(1792-1815)の間に、「巻き込まれた人口は一億人。殺害されたものは200万人以上」だったのである*23。

こうして、お互いに他国によって滅ぼされないようにと「富国強兵」と武器の改良に励んだ結果、原子爆弾さえも製造されたことによって、第二次世界大戦では5000万人を越える戦死者を出すことになるのである。

作田啓一は「第二次大戦以降、自立ナショナリズムは、かつてヨーロッパに支配されていた諸民族のあいだにおいて燃え上がる」ようになったと指摘しているが、このような状況はオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した第一次世界大戦前のヨーロッパでも起きたし、さらにソ連邦が崩壊した後にも、世界的なレベルでナショナリズムの高まりが起きている。そして、これに連動する形で最近の日本でも「国家」に価値を置くことによって、このような不安定さや混乱を回避しようとするナショナリズム的な発言や行動が多く見られるようになってきた。

だが、それは一時的には国内の矛盾を解決するかに見えるが、ひいては「国権と民権」の対立だけではなく、「国益と国益」との対決を引き起こして、ハンチントン氏が指摘するような第三次世界大戦につながる危険性を含んでいる。他方、作田は「超大国の自尊心は、核戦争の危機をかもし出す条件の一つとなって」いると指摘しているが、ソ連邦の崩壊とともに、核物質や核技術も海外へと流出した現在、大国ばかりでなく、小国でさえもが「自国の自尊心」から核戦争に到る危険性が出てきているのである。

比較文明学者の神川正彦は、「近代」の「学的パラダイム」が、ナポレオン以後に成立した国民国家を成立させている「ナショナリズム」と同じように、「ディシプリン(専門個別科学領域)の自律性」にもとづいた「単純化と排除のパラダイム」であると分析している*24。

「文明の衝突」が語られるようになった現在、近代的な古いパラダイムを克服して、「文明の共存」を可能にするような新しい「学的パラダイムの確立」が、焦眉の課題となっている。

 

*1 『ベルツの「日記」』、濱邊正彦訳、岩波書店、昭和14年、14~15頁、なお、引用に際しては新かな、新字体に改めた。

*2  作田啓一、『個人主義の運命――近代小説と社会学』、岩波新書、107頁。

*3  高橋「ヨーロッパ『近代』への危機意識の深化(1)――ドストエーフスキイの西欧文明観」参照。神川正彦、川窪啓資編、『講座比較文明』第1巻、朝倉書店、1999年、50~63頁。

*4  山本新、神川正彦・ 吉澤五郎編『周辺文明論ーー欧化と土着』、刀水書房、1985年。

*5  吉澤五郎、『世界史の回廊--比較文明の視点』、世界思想社、1999年、96頁

*6  松本健一、『ドストエフスキーと日本人』、朝日新聞社、昭和50年。

*7  本稿は、東海大学で行われた比較文明学会の公開シンポジウムで「『欧化と国粋の「サイクル』克服の試み――ドストエフスキーの受容と司馬遼太郎文明観」という題名で発表した論考(『比較文明』第16号、2000年、146~151頁)に、日本における『罪と罰』の受容と「欧化と土着」の問題に焦点を絞って、加筆したものである。なお、ドストエフスキーの訳は『ドストエフスキー全集』(新潮社)により、巻数と頁数を本文中に( )内に示す。

*8  メーチニコフ、渡辺雅司訳『亡命ロシア人が見た明治維新』、講談社学術文庫、1982年、25頁。

*9  相田重夫、『帝政ロシアの光と影』(『人間の世界歴史』、第12巻)、三省堂、1983年、128頁。

*10  井上清、『明治維新』、(『日本の歴史』、第20巻、中央公論社、200頁)。

*11  福沢諭吉の文明観については、高橋「日本の近代化とドストエーフスキイ――福沢諭吉から夏目漱石へ」参照。(『日本の近代化と知識人』、東海大学出版会、2000年、所収)。

*12  川端香男里『ロシアソ連を知る事典』、平凡社、1989年、520頁。

*13  『北村透谷選集』、勝本清一郎校訂、岩波文庫、212頁。

*14  色川大吉、『明治精神史』(上)、講談社学術文庫、175頁。

*15  司馬遼太郎、『本郷界隈』(『街道をゆく』第巻)、朝日文芸文庫、267~271頁。

*16 司馬遼太郎の夏目漱石観については、日本ペンクラブ電子文藝館に寄稿した「司馬遼太郎の夏目漱石観   ―比較の重要性の認識をめぐって―」を参照。

*17  立松和平、「足尾から『坑夫』を幻視する」、『夏目漱石:青春の旅』所収。

*18  司馬遼太郎の近代化観の変化については、高橋「『文明の衝突』と『他者』の認識――『坂の上の雲』における方法の変遷」(『異文化交流』創刊号、31~58頁、参照)。この考察は「司馬遼太郎における文明観の変遷と沖縄――周辺文明論の視点から」(『文明研究』第20号、2001年)へと受け継がれ、拙著『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)の第2章と第3章として収録されている。

*19  勝田吉太郎、『神なき時代の預言者――ドストエフスキーと現代』、日本教文社、昭和59年、44~6頁。

*20  松本健一、前掲書、198頁。

*21 拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、2002年、125~126ページ、および注に挙げた文献を参照。

*22  『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、53頁。

*23  引用は、前田哲男、『戦争と平和――戦争放棄と常備軍廃止への道』、ほるぷ出版、156頁による。

*24  神川正彦、「比較文明学という学的パラダイムの構築のために」(神川正彦、川窪啓資編、前掲書『講座比較文明』第1巻、6~9頁、180~181頁)。

 (『東海大学外国語教育センター紀要』第21輯、2000年)

 

追記:再掲に際しては、人名の表記を現在のものに統一した他、文体や注の記述なども改訂した。

「トルストイで司馬作品を読み解く――『坂の上の雲』と『翔ぶが如く』を中心に」(レジュメ)

 

Ⅰ.トルストイの受容と司馬遼太郎

a.「小さくなった」トルストイ――森鴎外『青年

「……日本人は色々な主義、色々なイズムを輸入して来て、それを弄んで目をしばだたいてゐる。何もかも日本人の手に入っては小さいおもちやになるのであるから、元が恐ろしいものであつたからと云つて、剛(こは)がるには当らない。何も山鹿素行や、四十七士や、水戸浪士を地下に起して、その小さくなつたイブセンやトルストイに対抗させるには及ばないのです」(『青年』)。

b.夏目漱石とトルストイの民話『イワンの馬鹿』

「どうかしてイワンの様な大馬鹿に逢つて見たいと存候。出来るならば一日でもなつて見たいと存候。近年感ずる事有之イワンが大変頼母しく相成候。イワンの教訓は西洋的にあらず寧ろ東洋的と存候」(内田魯庵訳の『イワンの馬鹿』への礼状)。

c.夏目漱石の日露戦争観と司馬遼太郎

長編小説『三四郎』で、夏目漱石は自分と同世代の登場人物広田先生に、「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」と語らせているばかりでなく、「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」とした三四郎の反論にたいしては「亡びるね」と断言させていた。

司馬遼太郎は、広田の「予言が、わずか三十八年後の昭和二十年(一九四五)に的中する」と指摘して、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と絶讃していた(『本郷界隈』『街道をゆく』第37巻)。

d.『坂の上の雲』から『翔ぶが如く』へ――「坂」という単語の両義性

「この時期、歴史はあたかも坂の上から巨岩をころがしたようにはげしく動こうとしている」(『翔ぶが如く』、第3巻「分裂」)。

 

Ⅱ.日本の近代化のモデルとしてのロシア――トルストイのドストエフスキー観

  a.徳冨蘆花の『トルストイ』と『戦争と平和』論

「露国政治上の圧政は万の迹出口を塞いで内に燃え立つ満腔の不平感懐は仮寓文字の安全管を通じて出るの外なかったのである」。

「『戦争と平和』は実に奈翁入寇前後露国社会の大パノラマである」。「花やかな人形の斬合や、小供役者の真似芝居でなくて、活人間の動く活社会が歴々と浮み出る」。

 b.司馬遼太郎の正岡子規観と徳冨蘆花観

  「少年のころの私は子規と蘆花によって明治を遠望した」(『この国のかたち』)。

 c.トルストイの『戦争と平和』観とダニレフスキーの評価

「愛国に過ぎたる所あり」(徳冨蘆花「順禮紀行」)。

ロシアの思想家ダニレフスキーは、大著『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的および政治的諸関係の概要』で、トルストイの『戦争と平和』を高く評価しながら、大国フランスに勝つことによって抑圧されていたスラヴの諸民族にも独立の気概を与えたと「祖国戦争」の意義を讃えていた。

d.トルストイの『罪と罰』観と「大地(土壌)主義」の評価

「甚佳甚佳(はなはだよし、はなはだよし)」(徳冨蘆花「順禮紀行」)。

「当時のロシアの現実は貴族であろうと民衆であろうと破滅させてしまうような厳しいもの」であり、「トルストイが情熱を注いだ教育活動は、貴族と民衆の融合・調和を目指していました」(川端香男里『100分de名著、トルストイ「戦争と平和」』)。

「われわれはこの上なく注目に値する重大な時代に生きている」としたドストエフスキーも、ピョートル大帝による「文明開化」以降に生まれた「民衆」と「知識人」との間の断絶を克服するためには、農奴制の中で遅れたままの状態に取り残されている民衆に対する「教育の普及」こそが「現代の主要課題である」と強調していた。

e.トルストイと『死の家の記録』――近代の制度としての法律、監獄、病院

「数日来病気で、暇にまかせて『死の家』を読みました。我を忘れてあるところは読み返したりしましたが、近代文学の中でプーシキンを含めてこれ以上の傑作を知りません。作の調子ではなく、観点に驚いたのです。誠意にあふれており、自然であり、キリスト教的で、申し分のない教訓の書です」(批評家のストラーホフへの手紙)。

f.『アンナ・カレーニナ』とドストエフスキーの『作家の日記』

「『アンナ・カレーニナ』は芸術作品としては、まさに時宜を得てさっと現われた完成された作品であって、現代のヨーロッパ文学中、何ひとつこれと比べることができないような作品である。第二に、これはその思想的内容から言って、何ともロシア的なものである。われわれ自身と血でつながっているものである」(『作家の日記』)。

しかし、主人公のリョーヴィンが次のように語る箇所を引用したドストエフスキーはトルコによる大量虐殺を指摘しながら、次のような考えをそれは「復讐」ではないと厳しく批判している。

「……自分の兄をもふくむ数十人の人びとが、首都からやって来た何百人かの口達者な義勇兵たちの話を根拠にして、民衆の意志と思想とを表現しているのは、新聞と、それから自分たちであると揚言する権利をもっているという考えには、彼はとうてい同意することはできなかった。しかもその思想たるや、復讐と殺人とによって表現されるものではないか。」

g.トルストイの『白痴』観と『イワンの馬鹿』

「その値打ちを知っている者にとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」(『白痴』の主人公ムィシキン評)。

 

Ⅲ.『坂の上の雲』における「教育」と「軍隊」の制度の考察

a.「二つの祖国戦争」――『戦争と平和』の最近の評価と『坂の上の雲』

ロシア語書籍の最良作品リストのアンケート。

1位、トルストイ『戦争と平和』、32パーセント。

3位、ドストエフスキー『罪と罰』、16パーセント。

(2位、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』、19パーセント。)

b.トルストイの困惑と司馬遼太郎の德富蘆花観

「日露戦争そのものは国民の心情においてはたしかに祖国防衛戦争であった」が、「近代を開いたはずの明治国家が、近代化のために江戸国家よりもはるかに国民一人々々にとって重い国家をつくらざるをえなかった」。「蘆花は、そういう国家の重苦しさに堪えられなかった。かれは国家が国民に対する検察機関になっていくことを嫌悪」した(『坂の上の雲』「あとがき五」)。

c.『戦争と平和』における主人公と作品の構成

d.『坂の上の雲』における主人公と作品の構成

e.ピエールの戦争観察と正岡子規の従軍

f.『坂の上の雲』における「普仏戦争」の考察

「プロシャ憲法をまねした」明治憲法には、「天皇は陸海軍を統率するという一項があり、いわゆる統帥権は首相に属して」おらず、「作戦は首相の権限外」だった。

「首相の伊藤博文も陸軍大臣の大山巌もあれほどおそれ、その勃発をふせごうとしてきた日清戦争を、参謀本部の川上操六が火をつけ、しかも手ぎわよく勝ってしまった」が、「昭和期に入り、この参謀本部独走によって明治憲法国家がほろんだことをおもえば、この憲法上の『統帥権』という毒物のおそるべき薬効と毒性がわかるであろう」(第2巻「日清戦争」)。

 

Ⅳ.『坂の上の雲』の広瀬武夫と『戦争と平和』

a.『坂の上の雲』における秋山真之の親友・広瀬武夫

「少尉当時からロシアに関心をもち、ロシア語を独習」していたために、兵学校の卒業席次がきわめて劣等だったにもかかわらず、ロシアに派遣された。広瀬武夫がロシアでは、「プーシキンの詩の幾編かを漢詩に訳したり、ゴーゴリの『隊長ブーリバ』」やアレクセイ・トルストイの全集に熱中するなど「日本人としては、ロシア文学をロシア語で読むことができたごく初期のひとびとの一人であろう」(第3巻「風雲」)。

b.「軍神・西住戦車長」と広瀬武夫

菊池寛の『西住戦車長伝』によりながら、「西住小次郎が篤実で有能な下級将校であったことはまちがいない」としながらも、西住戦車長が「軍神」になりえたのは、陸軍が「軍神を作って壮大な機甲兵団があるかのごとき宣伝をする必要があった」からであると冷徹な記述をした司馬氏は、その一方で比較文学者の島田謹二が描いた『ロシヤにおける広瀬武夫』を読んで「この個性的な明治の軍人がすぐれた文化人の一面をもっていたことを知った」と続けている(「軍神・西住戦車長」)。

c.広瀬武夫と『知恵の悲しみ』

トルストイの『復活』を読み、「叙事詩『ルスランとリュドミーラ』を脚色したミハイル・グリンカの楽劇をマリヤ座でみた」広瀬は、帝政ロシアの貴族社会を痛烈に批判してデカブリストたちにも影響を与えた「グリボエードフの『知恵の悲しみ』を見にいった。モスクワの上流社会を舞台にした風俗劇だ。…中略…セリフは口語にちかい言葉でありながら、りっぱな詩になっているのが耳にこころよい」との感想も記していた(『ロシアにおける広瀬武夫』)。

d.広瀬のロシア観とピエールへの共感

「いろいろな方面で、せまかった私の眼をロシヤは開いてくれました」と語った広瀬は、「あのころは日本からもっていった日本人の眼で、ロシヤの風俗を外から眺めて、日本人の心で判断して、笑ったり怒ったりしていたのだと思います」とし、「国家としては、日本の恐るべき敵でしょうが、個人的な交際を考えると、いい人が多いですな」とも続けたことが描かれている。

「とうとう僕も『戦争と平和』をよみあげました」と語った広瀬は『戦争と平和』の構造について、「ずいぶん長いもので、はじめは迷宮にはいったよな気がしましたが、だんだん家族と家族の結びつきがわかってきました。しまいにはボルコンスキー家と、ロストフ家の人々が記録の中からぬけだして、生きてきました」と分析した。

そして、「ピエール・ベズーホフがことにいい。結婚に失敗して、社交界のつまらぬことを知るでしょう。それから生き甲斐のあるものをいろいろ求めるでしょう。…中略…わが命一つをなげだして、圧制者ナポレオンを暗殺しようとするでしょう。あすこがいい」と、広瀬は激賞したと描かれている。

その言葉を聞いた川上が笑いながら、「君にもピエールのようなところがあるよ」というと、「そう。理想家というのでしょうね。ピエールは、神秘家でもなければ、聖者でもありません。ただ心をきよくして単純な生き方をしているうちに、満ちわたる生命(いのち)の光をあびたんです。澄んだ眼をしている男と書いてありますね。……」と分析した広瀬は、「日本の将校だから、日本のために戦うのは当然だが、同時に、ロシヤにも報いるような道をみつけたい。それが人道というものでしょうね」と続けたと描かれている。

e.『坂の上の雲』における『セヴァストーポリ』への言及

トルストイは「下級将校として従軍」して「籠城の陣地で小説『セヴァストーポリ』を書き、愛国と英雄的行動についての感動をあふれさせつつも、戦争というこの殺戮だけに価値を置く人類の巨大な衝動について痛酷なまでののろいの声をあげている」(第5巻「水師営」)。

 

Ⅴ.『翔ぶが如く』における「内務省」と「法律」の考察

a.「藩閥政治」の腐敗と「征韓論」

「孤絶した環境にある日本においては、外交は利害計算の技術よりも、多分に呪術性もしくは魔術性をもったものであった」。「明治初年になってふたたび朝鮮問題がもちあがったとき、桐野(利秋)など多くの壮士的征韓論者は、(豊臣)秀吉の無知の段階からすこしも出ていなかった」と続けている(括弧内は引用者の補注、第1巻「情念」)。

b.内務省の問題と木戸孝允の危惧

大久保利通は「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立しようとした」(第1巻「征韓論」)。

「内務省は各地方知事を指揮するという点で、その卿たる者は事実上日本の内政をにぎってしまうということになる。知事は地方警察をにぎっている。従って内務卿は知事を通して日本中の人民に捕縄(ほじょう)をかけることもできる」(第1巻「小さな国」)。

幕末に活躍していた木戸孝允(桂小五郎)には、「内務省がいかにおそるべき機能であるかということ」を「十分想像できた」ので、「欧州から帰ったあと憲政政治を主唱」した(第2巻「風雨」)。

 c.正岡子規の退寮問題と与謝野晶子の批判

内務官僚の佃一予が、「常磐会寄宿舎における子規の文学活動」を敵視し、「正岡に与(くみ)する者はわが郷党をほろぼす者ぞ」と批判したことを紹介した司馬は、「官界で栄達することこそ正義であった」佃にとっては、「大学に文科があるというのも不満であったろうし、日本帝国の伸長のためにはなんの役にも立たぬものと断じたかったにちがいない」とし、「この思想は佃だけではなく、日本の帝国時代がおわるまでの軍人、官僚の潜在的偏見となり、ときに露骨に顕在するにいたる」と続けている。

実際、日露戦争の最中に『君死にたまふことなかれ』を書いた与謝野晶子は、評論家の大町桂月によって「教育勅語」を非議したと激しく批判されることになる。

d.明六社と新聞紙条例

「『明六雑誌』は創刊の明治七年以来、毎月二回か三回発行されたが、初年度は毎号平均三千二百五部売れたという。明治初年の読書人口からいえば、驚異的な売れゆきといっていい。しかしながら、宮崎八郎が上京した明治八年夏には、この雑誌は早くも危機に在った」(第5巻「明治八年・東京」)。

「明治初年の太政官が、旧幕以上の厳格さで在野の口封じをしはじめたのは、明治八年『新聞紙条例』(讒謗律)を発布してからである。これによって、およそ政府を批判する言論は、この条例の中の教唆扇動によってからめとられるか、あるいは国家顛覆論、成法誹毀(ひき)ということでひっかかるか、どちらかの目に遭った」。

e.中江兆民と宮崎八郎――「壮士」から「民権論者」へ

「宮崎八郎は本来、思想的体質のもちぬしであったが、しかし文明とはたとえば人類共通の思想であるということを、この時期、わずかでも思ったことがない」(第5巻「壮士」)。

宮崎八郎がルソーの『民約論』を中江兆民訳で読んだ後では「泣いて読む、廬騒(ルソー)民約論」と「あたかも雷に打たれたような感動を発し」て大きく変わることを指摘した司馬は、「幕末にルソーの思想が入っていたとすれば、その革命像はもっと明快なものになっていたにちがいない。中江兆民という存在が、十五年前に出ていれば、明治維新という革命に、おそらく世界に共通する普遍性が付与されたに相違ない」と続けていた(第5巻「肥後荒尾村」)。

f.『坂の上の雲』から『翔ぶが如く』へ――近代国家の「原形」の考察

西南戦争がおさまったあとで、「もういっぺんこんなことがあったら明治政府はしまいだ」と考えた山県有朋がその翌年に「軍人訓戒」を出し、さらに西南戦争から五年たった明治15年には軍人勅諭が出されたが、それは「教育勅語」へと直結しているように見える。

デカブリスト事件を書き始めたトルストイが、その原点となった「祖国戦争」の時代へと関心を深めて『戦争と平和』を書くことになることはよく知られている。『坂の上の雲』で正岡子規の退寮問題で内務官僚にふれていた司馬も、その原点ともいうべき明治初期の時代を『翔ぶが如く』で描いたといえるだろう。

 

おわりに――「小さくされた」司馬遼太郎

学徒動員で満州の戦車部隊に配属された司馬遼太郎は、「防衛と日本史」という講演で、「日露戦争が終わると、日本人は戦争が強いんだという神秘的な思想が独り歩きした。小学校でも盛んに教育が行われた」が、自分もそのような教育を受けた「その一人です」とし、「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析している(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

『坂の上の雲』を書く中で近代戦争の発生の仕組みや近代兵器の威力を観察し続けていた司馬は、「日本というこの自然地理的環境をもった国は、たとえば戦争というものをやろうとしてもできっこないのだという平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが、「大事なように思える」とも書いていた(「大正生れの『故老』」『歴史と視点』)。

さらに司馬は自衛隊の海外への派遣には強く反対して、「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである」と記している(『歴史の中の日本』)。

ここには『イワンの馬鹿』を高く評価した夏目漱石と同じようなトルストイの深い理解が反映されているように思える。

 

主な参考文献

阿部軍治『〔改訂増補版〕徳富蘆花とトルストイ――日露文学交流の足跡』、彩流社、2008年。

阿部軍治『白樺派とトルストイ――武者小路実篤・有島武郎・志賀直哉を中心に』、彩流社、2008年。

梅棹忠夫『近代世界における日本文明――比較文明学序説』、中央公論社、2000年。

大木昭男『漱石と「露西亜の小説」』ユーラシア・ブックレット、東洋書店、2010年。

川端香男里『100分de名著、トルストイ「戦争と平和」』、NHK出版、2013年。

グロスマン著、松浦健三訳編「年譜(伝記、日記と資料)『ドストエフスキー全集』(別巻)、新潮社、1980年。

司馬遼太郎『坂の上の雲』(全8巻)、文春文庫、1978年。

司馬遼太郎『「昭和」という国家』、NHK出版、1998年。

司馬遼太郎『翔ぶが如く』(全8巻)、文春文庫(新装版)、2002年。

島田謹二『ロシアにおける広瀬武夫』(上下)朝日選書、1976年。

Данилевский,Н.Я., Россия и Европа. СПб.,изд.Глагол и изд.С-Петербургского университета, 1995.

徳冨蘆花『トルストイ』(『徳冨蘆花集』第1巻)、日本図書センター、1999年。

徳冨蘆花「順禮紀行」、『明治文學学全集』(第42巻)、筑摩書房、昭和41年。

ドストエフスキー著、川端香男里訳『作家の日記』(『ドストエフスキー全集』第17巻~第19巻)、新潮社、1980年。

トルストイ著、藤沼貴訳『戦争と平和』(全6巻)、岩波文庫、2006年。

ヒングリー著、川端香男里訳『19世紀ロシアの作家と社会』、中公文庫、1984年。

藤沼貴『トルストイ』、第三文明社、2009年。

藤沼貴『トルストイ・クロニクル――生涯と活動』、ユーラシア・ブックレット、東洋書店、2010年。

法橋和彦『古典として読む 「イワンの馬鹿」』未知谷、2012年。

柳富子『トルストイと日本』、早稲田大学出版会、1998年。

米川哲夫「第四回日ソシンポジウムに参加して――報告の要約と雑感」『ソヴェート文学』第95号、群像社、1986年。