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伊波敏男『島惑ひ 琉球沖縄のこと』と大城貞俊『島影 慶良間や見いゆしが』(ともに人文書館、2013年)

 

伊波敏男『島惑ひ 琉球沖縄のこと』(人文書館)

 

ISBN978-4-903174-27-3_xl

 

 

植田早や風そよそよと山の里

   (ホームページ「かぎやで風」、2012年6月12日)

「ふるさとの沖縄を離れ異郷での暮らしが52年、ハンセン病のため隔離生活が沖縄で3年、ヤマトで10年の合計13年、逆算すると家族と一緒にすごしたのは,たったの14年ということになる。
この頃、故郷の沖縄に関わる情報は、私の耳には悲鳴ように伝わってくる。そして、「沖縄」の地名が、時間が経つごとに「琉球」という文字に置き換えられていく。これはどうしたことだろうか? 私の心中で日本国沖縄県という枠組が、ギシギシ音を立てて歪みはじめている。」

 

[目次]

序の章

恩納岳(うんなだき)
  うわぃすーこー(三十三年忌)/しぃーみぃー(清明祭)/第19ゲート

壱の章

かたかしら(欹髻)
  ヤマトはわが御主(うしゅ)にあらず/荒地をひらく径/水盤の諍い

弐の章

士魂の残照
  銀簪(ぎんかんざし)の誉/松茂良泊手(まつもらとぅまいでぃー)/
  染屋真榮田(そめやまえだ)

参の章

貧の闇
  国頭銀行/屋取(やーどぅい)集落/年季奉公

四の章

琉球の鼓動
  南大東島/二人のウシ/伊豆味かわいいぐぁー(可愛い娘)/三棹の三線

伍の章

そして、仏桑花(ぶっそうげ)の呻き
  はるさー(農業)先生/金武湾(きんわん)/自然・平和・人権/信州沖縄塾

終の章

君たちの未来へ
  土に埋めた太陽/わが産土への言付け

「国に惑い」、「島が惑う」──後書きにかえて

 

*   *   *

 

大城貞俊『島影 慶良間や見いゆしが』(人文書館)

 

490317428X

 

大城氏の著作でも冒頭に次の詩が掲げられている。

 

島影」

島が揺れている

沈黙の過去を保持し

神々とともに

水平線を見つめ

樹木を揺らしている

 

 島がみつめている

死者たちの記憶が

珊瑚の海を彩っても

生者の肉体には宿らない

漂泊する箱舟たち

 

 それでもなお

島は沈まない

今日の空は、あの日の空ではない

今日の海は、あの日の海ではない

そんな日々を矜持として

人々を信じ未来を信じ

凜としてそこにある

 

島が見えるか

太陽に対峙して輝く島

月の光を受けて歴史を刻む島

その時を信じて

あるがままにある

沖縄(ウチナー)の

島影

 

*   *   *

ブログの記事にも書いたが、「特定秘密保護法」が国内外の法律家やジャーナリストなどから示された深い危惧の念にもかかわらず、強行採決されたことで沖縄の問題を日本中が共有することになる。

これらの著作が日本に投げかけている「問い」はきわめて重い。

 

「権力欲」と「服従欲」の考察――フロムの『自由からの逃走』(東京創元社) を読む

1,「権威主義的な価値観」への盲従の危険性と「非凡人の理論」

自らがナチズムの迫害にあった社会心理学者のエーリッヒ・フロム(1900~1980)は、『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社、1985)において、ヒトラーの考えと社会ダーウィニズムとの係わりに注目して、ヒトラーが「自然の法則」の名のもとに「権力欲を合理化しよう」とつとめていたことを指摘していました。さらにフロムは、「種族保存の本能」に「人間社会形成の第一原因」を見るヒトラーの考えは、「弱肉強食の戦い」と経済的な「適者生存」の考え方を導いたと述べています*14。

注目したいのはフロムが、人間の歴史が個人の自由の拡大の歴史であることを確認しながら、それとともに、あまりに個人の自由が大きくなった時、獲得した自由が重みにもなり、人が自らそれを放棄することもあることを指摘しえていることです。

たしかに、近代以降、それまで土地や職業に縛られていた人間は、職業の選択の自由、移動の自由、さらには恋愛の自由など様々な個人の自由を拡大してきました。しかし、自由が大きくなればなるほど、どの道を選ぶかの選択の際の苦悩や不安は深まります。こうして、フロムは自らの道を選ぶことが難しい危機的な状況になればなるほど、人間は自らの自由の重みに耐えられずに、それをより強大な他の人物に譲り、彼に道を選んでもらうことで不安から逃れようとする傾向があることを明らかにしたのです。

この際にフロムはサディズムとマゾヒズムという心理学の概念を用いながら、人間の「服従と支配」のメカニズムに迫り得ています。すなわち、彼によれば、「権力欲」は単独のものではなく、他方で権威者に盲目的に従いたいとする「服従欲」に支えられており、自分では行うことが難しい時、人間は権力を持つ支配者に服従することによって、自分の望みや欲望をかなえようともするのです*15。

フロムは「神経症や権威主義やサディズム・マゾヒズムは人間性が開花されないときに起こるとし、これを倫理的な破綻だとした」(ウィキペディア)としていますが、彼の説明は第一次世界大戦の後で経済的・精神的危機を迎えたドイツにおいて、なぜ独裁的な政治形態が現れたかを解明していると言えるでしょう。

フロムは自分の分析をより分かり説明するために、ドストエフスキーの最後の大作『カラマーゾフの兄弟』から引用していますが*16、私たちにとって興味深いのは、このような問題がすでに『罪と罰』においても扱われていることです。

すなわち、ラスコーリニコフは「凡人」について「本性から言って保守的で、行儀正しい人たちで、服従を旨として生き、また服従するのが好きな人たちです。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務で」ある(三・五)と規定するのです。別な箇所でラスコーリニコフは「どうするって? 打ちこわすべきものを、一思いに打ちこわす、それだけの話さ。…中略…自由と権力、いやなによりも権力だ!」と語った後で、「ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」(四・四)と続けています。

この「おののく」という特徴的な言葉は、彼がナポレオンのことを想起しながら、路上に大砲を並べて「罪なき者も罪ある者も片端から射ち殺し」「言訳ひとつ言おう」しなかった者の処置こそ正しいと感じた時にも、「服従せよ、おののくやからよ、望むなかれ、それらはおまえらのわざではない」(三・六)と用いられていました。

創作ノートにはラスコーリニコフには「人間どもに対する深い侮蔑感があった」(一四〇)と書かれています。ドストエフスキーは自分の「権力志向」だけではなく、大衆の「服従志向」にも言及させることでラスコーリニコフのいらだちを見事に表現しえているのです。

こうして、ラスコーリニコフの「非凡人」の理念は、劣悪な状況におかれながらも、社会を改革しようとはせず、ただ耐えているだけの民衆に対するいらだちや不信とも密接に結びついていたのです。(中略)

しかも、ドストエフスキーは予審判事のポルフィーリイに「もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ」とラスコーリニコフを批判させていました。

実際、世界を「生存闘争」の場ととらえるならば、かつての「イデオロギー」的な連帯から、「同種の文明国家」の連帯へと変わったと言っても、自らが「鬼」として滅ぼされないために、「圧倒的な力」を持つ文明に対抗して、他の文明も国力を挙げて軍備の拡大や「抑止力」としての核兵器の開発へと進まざるを得なくなるでしょう。

現在も「国益」や「抑止力」の名目で未臨界実験をも含む核実験や核兵器の保持が続けられていますが、多くの学者が指摘しているように、核兵器の使用は「核の冬」など地球環境の悪化による諸文明だけでなく、地球文明そのものの破滅をも意味するでしょう。

そのことをドストエフスキーは、ラスコーリニコフがシベリアの流刑地で見る「人類滅亡の悪夢」をとおして明らかにしていました。夢の中で彼は「知力と意志を授けられた」「旋毛虫」におかされ自分だけが真理を知っていると思いこんだ人々が互いに自分の真理を主張して「憎悪にかられて」、互いに殺し合いを始め、ついには地球上に数名の者しか残らなかったという光景を見るのです。

2,スピノザの「感情論」と『罪と罰』における感情の考察

興味深いのは、ドストエフスキーがこの「人類滅亡の悪夢」を描いた後でソーニャと再会したラスコーリニコフの「復活」を描いていたことです。

つまり、「だれが生きるべきで、だれが生きるべきじゃないか」などと裁くことが人間にできるのかとラスコーリニコフを鋭く問い質していたソーニャの考えには、論理化はされていないにせよ、存在や生命の尊厳に対する直感的な理解があると言えるでしょう。(中略)

貧しさのために大学を退学しなければならなくなり、「自尊心」を傷つけられた中で自分の専門的な知識で組み上げたラスコーリニコフの「論理」の矛盾を、ラズミーヒンが指摘しつつも彼に直接的な影響力を持てなかったのに対し、ソーニャの言葉は彼の感情に訴えかける力をもっていたのです。

この意味で注目したいのは、エーリッヒ・フロムが無意識的力に注目した思想家として、マルクスとフロイトの名を挙げながら、「西欧の思考的伝統の中で」、彼らに先立って「無意識についての明白な概念を持っていた最初の思想家は、スピノザであった」と書いていることです*7。

実際、スピノザは感情の分析をとおして「人間は、常に必然的に受動感情に屈従」するとし、「感情の力は、感情以外の人間の活動、あるいは、能力を凌駕することができる。それほどに感情は頑強に人間に粘着している」という事実を指摘しえています*8。

このような認識は自分が感情や他人の意見に左右されずに、主体的かつ理性的に行動していると考えていた人々にとっては苦痛でしょう。しかし、スピノザが指摘しているように、多くの場合「人々が自由であると確信している根拠は、彼らは自分たちの行為を意識しているがその行為を決定する原因については無知である」という理由に基づいているのです*9。

『未成年』の登場人物は、ある感情のとりこになった人間を正常に戻すには「その感情そのものを変えねばならないが、それには同程度に強烈な別な感情を代りに注入する以外に手はない」(六四)と語っています*10。この言葉は「感情は、それと反対の、しかもその感情よりももっと強力な感情によらなければ抑えることも除去することもできない」というスピノザの定理を強く思い起こさせます*11。

実際、ドストエフスキーが出版していた雑誌『時代』にはストラーホフの訳による「神に関するスピノザの学説」という論文が掲載されており、ドストエフスキーがスピノザの考えをある程度知っていたことは充分に考えられるのです*12。

つまり、評論家のシェストフは、ドストエフスキーが『地下室の手記』(一八六四)で「かつて、自分が拝跪していたものを…中略…泥の中に踏みつけてしまった」と記し、この作家をスピノザなどの哲学とは対立し、ニーチェとともに「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定していましたが、ドストエフスキーにはスピノザ的な哲学にたいする深い理解があったと思えるのです。

私たちはスピノザの感情論を高く評価したフロムの考察をとおして『罪と罰』を読み解くことで、現代日本の問題点にも迫り得るでしょう。

*     *   *

エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳『自由からの逃走』(東京創元社、1985)

序文

第一章  自由――心理学的問題か?

第二章 個人の解放と自由の多義性

第三章 宗教改革時代の自由

1、中世的背景とルネッサンス

2、宗教改革の時代

第四章 近代人における自由の二面性

第五章 逃避のメカニズム

1、権威主義

2、破壊性

3、機械的画一性

第六章 ナチズムの心理

第七章 自由とデモクラシー

1、個性の幻影

2、自由と自発性

付録 性格と社会過程

(拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、初版1996年、新版2000年)、第8章「他者の発見――新しい知の模索」および、第9章「鬼」としての他者」より。註の記述は省いたが、*7については、フロム著、阪本健二・志貴孝男訳『疑惑と行動』、東京創元社、1985、167頁。*8については、スピノザ『エティカ』(『世界の名著』第二五巻)工藤喜作・斎藤博訳、中央公論社、1969、273頁を参照)。

(2016年7月28日。「『罪と罰』とフロムの『自由からの逃走』』」を大幅に改訂)

 

都築政昭著『黒澤明の遺言「夢」』(近代文芸社、2005年)

 

はじめに

1986年のチェルノブイリ原発事故の際に長期留学生を引率してモスクワに滞在しており、原発事故の危険性を身にしみて感じていた私は、この原発事故を扱った劇《石棺》を見た後では黒澤明監督の言葉にも触れつつ簡単な劇評を書いた。

しかし、専門外の人間が発言してもあまり影響力は持たないだろうと考えて、映画《生きものの記録》や映画《夢》など原発や原爆を扱った黒澤作品には言及してこなかった。それゆえ、3月11日に起きた福島第一原子力発電所の爆発事故のあとでは、黒澤監督の先見の明や採算を度外視してでもこの映画を実現した勇気を改めて強く感じた。

それとともに原発の危険性について粘り強く語ってこなかった自分の不明を強く恥じたが、大学の図書館で、[見なければならない「夢」もある]というプロローグから始まる『黒澤明の遺言「夢」』を見付けたのは、拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』を発行した後のことであった。

著者の都築政昭・黒澤明研究会会長は、この著作で全七話から成るこの映画の詳しい分析だけでなく、関係者の方々へのインタビューや多くの映画の画像やロケの写真を通して、様々な困難を克服してついに公開にまでこぎつけるまでの経過も詳しく描いていた。

福島第一原子力発電所事故の後では、第六話「赤富士」がこの事故を予言していたと話題になったが、都築氏は2005年に出版されたこの著書でこの映画の全体像をとおして黒澤監督がこの映画に托した思いを明らかにしている。この著作から強い知的刺激を受けたことが、私の新しい著作の構想が生まれるきっかけともなった。都築政昭氏の労作『黒澤明の遺言「夢」』の内容を以下に簡単に紹介しておく。

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『黒澤明の遺言「夢」』の冒頭には、ドストエフスキー博物館のあるスターラヤ・ルッサで撮った作家の写真が掲げられている。

そのことに象徴的に表されているように、[第一章 夢は天才である]では映画《乱》の公開の翌年に浮かんだ映画《夢》のアイデアが、生涯にわたって敬愛していたドストエフスキーの作品『罪と罰』にヒントを得たものであることが記され、さらに、最初は完成時の八つの話以外に「飛ぶ」「阿修羅」やラストに予定された「素晴らしい夢」の三つの夢も出来ていたことも紹介されている。

[第二章 ハリウッド資本で動き出す]や[第三章 三年ぶりで《夢》始動]では、日本の会社にそのアイデアと意義を訴えても通じなかった企画が、脚本を読んで感動したスティーヴン・スピルバーグ監督の働きかけによってワーナー・ブラザーズ社が配給する形でようやく実現することになったことが記されたことや、さらに翻訳や資金の問題をようやく克服して撮影に至るまでの経過が記されている。

[第四章 自然の”精”との交感 ――懐かしい夢]から始まる、[第五章 鎮魂――悲痛な夢]、[第六章 心の一番奥の怖れ ――恐ろしい悪夢]、[第七章 自然との共生 ――ユートピアの夢]などの章では、原発事故の問題を扱った第六話「赤富士」のシーンだけでなく、八つの話全部を黒澤監督の個人史にも迫りながら、広い視野でこの映画の面白さと深さを論じている。

そしてエピローグでは、「地球がダメなら、人類は生存できない」との強い使命感から、環境問題や原発事故の問題を正面から捉えたこの作品が、黒澤明の「遺言」ともいえるような重みを有していることを確認している。

 

黒澤監督の対談や「ノート」などを詳しく研究した都築氏は、映画《夢》のヒントとなったのが、ドストエフスキーの長編小説『罪と罰』(一八六六年)に記された「やせ馬が殺される夢」であり、その文章から強い感銘を受けた黒澤が「ノート」に次のような一節をそのまま書き写していたことを明らかにしている。

映画《夢》と『罪と罰』との深い関連を理解するためにも重要だと思えるので、少し長くなるが書き写された全文を引用しておきたい。

 

「夢というものは病的な状態にある時には、並はずれて浮き上がるような印象とくっきりとした鮮やかさと並々ならぬ現実との類似を特色とする。そういうことがたびたびあるものである。時とすると奇怪な場面が描き出されるが、この場合夢の状況や過程全体が場面内容を充実させる意味で芸術的にぴったり合った、きわめて微細な、しかも奇想天外なデテールを持っている。それはたとい夢を見る当人が、プーシキンやツルゲーネフほどの芸術家でも、うつつには考え出さないほどである。こうした夢、こうした病的な夢はいつも長く記憶に残って攪乱され、興奮した人間の組織に強烈な印象を与えるものである」。         (『ドストエフスキイ全集』小沼文彦訳・筑摩書房)

そして都築氏は、黒澤監督が引用した『罪と罰』の文章の横に、「夢というものの特質を把握しなければならない。現実を描くのではなく、夢を描くのだ。夢が持っている奇妙なリアリティをつかまえなければならない」というメモを記していることにも注意を促している。

黒澤監督のこのメモからは、夢の問題についての深い関心がうかがえるだけでなく、エピローグでは「人類滅亡の悪夢」も描かれている『罪と罰』のテーマや構造に対する黒澤監督の認識の深さも感じられる*1。

 

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福島第一原子力発電所での大事故の後では、この事故の大きさに衝撃を受けたドイツやイタリアなどでは脱原発という大きな決断がなされた。しかし、地震国であるだけでなく、近い将来に大地震が起こることが予測されている日本の原子力政策はあまり変わらず、未曾有の大危機に直面して原発再稼働の見直しを進めていた菅直人元総理は、政財界からの激しい非難を浴びて退陣に追いやられ、国民レベルでの議論や国会での討議もないままに原発の輸出さえもが決められた。

このような事態に対して、まだ未見ではあるが、ドキュメンタリー映画『100,000年後の安全』を撮ったデンマーク出身のマドセン監督は、「日本には、事実を国民に教えない文化があるのか」と問いかけ、「福島事故で浮き彫りになったのは、日本人の”心のメルトダウン”だ」と感じていると語ったことが報道されている*2。

映画《白痴》を撮った黒澤監督は、ロシアのみならず世界できわめて高い評価を受けているが、日本では「第五福竜丸」事件の影響を扱った映画《生きものの記録》や映画《夢》などは、いまだに低い評価が続いていると思える。

黒澤映画《夢》の現代的な意義を考察することで、現在の問題を直視するためにも多くの方にぜひ読んで頂きたい書物である。

*1 映画《夢》と『罪と罰』に描かれた夢の詳しい比較は、近く「主な研究(活動)」のページで比較文学会での例会発表や黒澤明研究会の『会誌』に発表した論文の概要を掲載する予定である。

*2 「処理先送り 倫理の問題」[こちら特報部]『東京新聞』2011年12月23日。

三宅正樹著『文明と時間』(東海大学出版会、2005年)

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1、『文明と時間』の構造と意義

東海大学でも長く教鞭をとられてきた三宅正樹・明治大学名誉教授は、 ご専門の『ユーラシア外交史研究』(河出書房新社, 2000年)を発行された後も、『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』(朝日選書, 2007年)『スターリンの対日情報工作――クリヴィツキー・ゾルゲ・「エコノミスト」』(平凡社新書, 2010年)などの著作を次々と刊行されている。

ここでは古代ギリシャや西欧各国だけでなくギリシャ正教を受け入れたロシアや、古代から現代にいたる中国や近代日本の時間概念が比較文明論の視点から考察されている大著『文明と時間』を取り上げたい。

なぜならば、本書は3つの部から成り立っているが、第1部の「比較文明論の視角」では、湾岸戦争やボスニア・ヘルツェゴビナの紛争、チェチェン紛争などが頻発するようになったソ連の崩壊後の事態を受けて、これからは「イデオロギーの対立」に代わって「文明の衝突」の危険性がますます増えると予測して激しい議論を呼んだ政治学者サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突?」(1993年)や大著『文明の衝突と世界秩序の再編成』(1996年、邦訳『文明の衝突』)が、トインビーの文明論などとの比較をとおして詳しく考察されているからである。

しかも、ここで三宅教授は「土着」や「熱心党」という翻訳の用語の問題にも注意を促しつつ、「周辺文明」という概念から「欧化と土着」の問題を分析した「我国における比較文明研究のすぐれた開拓者のひとり」である山本新氏の考察をとおして、ハンチントンのロシア観や日本観の問題に鋭く迫っており、ロシアとの北方領土問題だけでなく、中国や韓国との間でも領土問題に揺れるようになった現在の日本を冷静に考えるための重要な示唆に富んでいる。

本稿では第1部の「比較文明論の視角」に焦点を絞って考察することで本書の意義を明らかにしたいが、その前に簡単に全体の構造を紹介しておく。

第1部に続く第2部は「時間意識・時間観念と歴史」と題されており、そこには「古代の二大歴史家、ポルピオスと司馬遷」歴史観も比較されている「ヨーロッパ史の諸時期における時間意識の様相」や、トインビーの時間概念とルネサンス論も考察されている「時間観念からみた現代ヨーロッパ史学思想の再検討」、さらには第一次世界大戦の問題や「ヴェルサイユ条約の衝撃」が分析されている「ヴァイマル共和国における『保守革命』の時間意識と歴史意識」などの興味深い章が収められている。

そして、やはり3つの章からなる第3部「進歩の理念」では、「近代ヨーロッパにおける進歩の理念の成立」に大きな役割を果たした「古代・近代論争」が、東西の多くの歴史家の比較をとおして詳しく考察されている。

この意味で注目したいのは、第1部の構想だけでなく本書全体を説明していると思われる第1章〔時間の比較文明論〕では、〔ハンチントンとトインビー〕と題されている第1節から始まり、〔時間意識と文明〕、〔進歩の理論と「古代・近代論争」〕、〔下降する時間と不連続の連続としての時間〕へと続き、〔日本とロシアの「欧化」と進歩の理念〕の節で終わっていることである。

このような構成は歴史学における時間概念の綿密な考察をとおして、現代日本の状況にも迫っている本書の性格をよく物語っているであろう。次節からは日露の近代化の比較研究を専門とする筆者の視点から、この著作における考察を詳しく読み解くことによって、本書の意義を明らかにしたい(以下、敬称は略す。また本書よりの引用箇所はかっこ内にローマ数字で示す)。

2、ハンチントンの世界観とトインビーの文明論

第1部第1章〔時間の比較文明論〕の冒頭で三宅氏は、ハンチントンがトインビーは『歴史の研究』において、「21の文明の存在を指摘したが、現在の世界に存在するのはそのうちの6つにすぎない」と記しているが、トインビーがその後「周辺文明(peripheral civilization)」の重要性を指摘したバグビーの提案を採用して「衛星文明(satellite civilization)」という概念を取り入れたので、晩年の『図説・歴史の研究』では、「独立文明は14、衛星文明は17、計31文明となっている」ことを確認している(3~4)。

そして三宅氏は、「文明の衝突」ということを論じようとするならばハンチントンは、「トインビーの文明論のこのような発展を十分に考慮に入れるべきであった。特に日本文明とロシア文明について、周辺文明ないしは衛星文明として理解する視点を導入していれば、議論がはるかに緻密なものになっていたに違いない」と記している(5)。

さらに、『現代日本の開化』で日本における「文明開化」を「皮相上滑りの開化」と指摘した夏目漱石と、ロシアの近代化の問題を深く考察したロシアの思想家チャアダーエフの歴史認識の類似性を指摘した「山本新の卓見は、継承し発展させることが可能な要素を含んでいる」とした三宅氏は、「周辺文明の時間意識の考察にも、示唆を与えるものであろう」と結んでいる(15)。

第2章の〔諸文明の「同時性」と円環的時間意識〕では、トインビーがエッセー「わが歴史観」などにおいて、1914年に第一次世界大戦が勃発した際に、大学の授業でペロポネソス戦争を実証的な視点で記述した『戦史』の著者トゥキュディデスの講義をしていたことから、「我々が今、現在の世界で経験しつつあるその経験は」、「トゥキュディデスが紀元前431年にペロポネソス戦争が勃発したときに、感じたにちがいないものを理解したように思った」ことが重視されている(19~20)。

そしてトゥキュディデスの『戦史』は、「行為の因果関係を見つめる鋭い視線などから、近代的な意味での歴史記述としての評価も高い」が*1、ここでは歴史学の発達を論じた『歴史とは何ぞや』という著作でベルンハイムが、つぎのようなトゥキュディデスの記述に注意を促していることも指摘されている(21)。

すなわち、トゥキュディデスはこの「著作の役だつべき点は、過去の事物について明確な観念を与えることにある。故に彼は、昔に似た政治上の形勢に対しては過去の知識から実用的な教訓が汲まれんことを欲し、且つすべての人間の本性と行為とは一般に類似しているから」と記し、さらに「この記述は、今日の読者に媚びて賞を得るためではなく、世々の遺産たるべく綴られた」と書いていたのである(21~22)。

第一次世界大戦に敗れたハンガリー・オーストリア帝国の崩壊が、ソ連邦の崩壊と同じように支配下の多くの国で民族紛争を呼び起こしていたことを考慮するならば、時間や空間を超えて「すべての文明の哲学的同時性」という「比較文明論」の構想を得たトインビーの「トゥキュディデス体験」の意義が第2章で詳しく論じられていることは、国際政治学の視点から『文明の衝突』の問題を考察したハンチントンの文明観の特徴を詳しく考察するためにも欠かすことのできない作業だったといえるだろう。

3、ハンチントンの文明観と比較文明学

第3章の第1節では、ハンチントンの『文明の衝突と世界秩序の再編成』を、「比較文明論の成果をただ利用しただけというような性格のものではなく」、「比較文明学に対してきわめて鋭く問題を投げかけているもの」と位置付けた哲学者で比較文明論研究の第一人者のひとりであった神川正彦氏の論文を詳しく分析することで、国際政治学との比較文明学の接点と視点の違いが確認されている。

すなわち、神川氏によれば、国際政治学と比較文明学は「第一次世界大戦を介して成立した新しい学の分野であり」、「両者は同時に誕生した『双生児』である」。しかし、比較文明学は「多文明の世界」を前提としており、「ヨーロッパ中心史観をはっきりと否定する」ので、「『多文明の世界』を認めながら」、同時に「国際政治は権力政治ないしは権力闘争であるというリアリティの確認」を原則としているハンチントンの『文明の衝突』は、「比較文明学の思想を完全に欠如している」と鋭く批判していたのである(31~32)。

同じような批判はハンチントンの欧化と「引き裂かれた国家」をめぐる議論に注目したアメリカの著名な比較文明学者ウィルキンソンからも出されていた。

すなわち、ハンチントンは「欧化は理論上は可能である。もし、それらの国家のエリートが熱心であり、公衆が黙認し、新しく受け入れ側となる文明が歓迎するならば、これらの国家は自己の文明上のアイデンティティーを取り替えるかも知れない」が、「ロシア、トルコとメキシコは、これまでのところ欧化を試みて失敗して」おり、「これらの国家はこの過程で文化的に分裂症的な『引き裂かれた国家』になりつつあり、何らの利益も挙げていない」と記していたのである(37~38)。

ウィルキンソンの指摘を踏まえて「引き裂かれた国家」という考え方は、「ハンチントンが本書で展開しているさまざまな議論の中でもとりわけ興味深いもののひとつである」とした三宅氏は、ロシアの思想家チャアダーエフが1836年に発表した「哲学書簡 第一」の後半の部分で、「ビザンツの遺産を否定して西ヨーロッパのカトリック精神を受け入れることこそ、ロシアの歩むべき唯一の道である旨を、繰り返しくりかえし力説している」ことを紹介し、ハンチントンがチャアダーエフを「西欧派の代表的な思想家と断定している後半はロシア思想の歴史に即していない」ことを明らかにしている(38~42)。

その一方で三宅氏は、日本の比較文明学者・山本新氏がすでに『周辺文明論――欧化と土着』(神川正彦・吉澤五郎編、刀水書房、1985年)で、「チャアダーエフは夏目漱石と比較されるべき、非西欧世界の欧化につきまとう困難な問題を象徴する思想家である」と指摘して、日露の近代化の問題をより深く考察することを求めていたことに注意を促している(46)。

さらに三宅氏は、訳書では「比較文明論における重要な概念」である「土着化(Indigenization)」が、「地域主義」と訳されていることは、「言葉としてもつニュアンスを十分に伝えていないように思われる」と断ったうえで、ハンチントンがイスラム世界やインド、さらにはロシアばかりでなく、「日本においても土着化が進行している」として、1980年代の「日本人論」の流行を取り上げていることを指摘している(50)。

ここで注目したいのは、ハンチントンがロシアの思想家ダニレフスキーの著『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的および政治的諸関係の概観』(1869)に言及して、ここでは「ヨーロッパ化の努力を『ひとびとの生活を歪め、その形を異質の、外国の形に置き換える』ものとして」と批判されていたと紹介し、さらに「ソヴィエト時代は西欧派とスラヴ派の論争は、一時中止されていた」が、「ソヴィエト体制崩壊後はこのような協力関係は消滅し、両派の対立はふたたび活性化するに至った」と書いていたことである。

すでに三宅氏は政治学者中山治一氏の論文によりながら、ロシアとトルコとの戦争に際して、イギリスやフランスがイスラム国家のトルコの側に参戦したクリミア戦争を比較文明学的な視点から、「ヨーロッパ国家系」から「世界国家系」へと「世界史」が拡大し変質していく「端緒」ととらえていた*2。

実際、イギリスを「文明」とし、その一方でロシアとトルコを「野蛮」と位置付けたイギリスの歴史家バックルの『イギリス文明史』も、クリミア戦争の最中に書かれていた。その一方で、比較文明論の端緒とも位置づけられるダニレフスキーの『ロシアとヨーロッパ』も、クリミア戦争での敗戦を契機として書かれ、攻撃的な西欧列強に滅ぼされないためには、ロシアを盟主とするスラヴ連盟を締結しなければならないと訴えていたのである*3。

4、「文明の衝突」と「文明の共存」

第4節では「土着化・非西欧諸文化の復活(Indigenization:The Resurgence of Non-western Cultures)」という節をハンチントンが、次のように締めくくっていることが紹介されている。

「このように『進歩の時代の終焉』を目撃しつつある我々は、複数かつ多様な文明が相互に接触交渉を繰り返す時代に突入しつつあるのであり、地球全体に広がったこの土着化の過程が鮮明に見られるのは各種の宗教の復興」においてである(51~52)。

このことを確認したあとで三宅氏はトインビーが『歴史の研究』において、「同時代に生ずる文明の「出会い(encounter)」に際して、攻撃を受けた側の文明の内部に見られる正反対の反応を「ヘロデ主義(Herodianism)」と「ゼロト主義(Zealotism)」と名づけている」ことを確認するとともに、「ゼロト主義とは攘夷主義という意味であり、熱心党という訳語では十分にその意味が伝わってこない」ので、「攘夷党」と訳したほうがよいとの重要な指摘をしている(52)。

「文明の衝突」というテーマにもかかわる重要な用語なので、この二つの概念について分かりやすく説明しており、三宅氏が引用している日本思想史研究家の源了圓氏の言葉をここでも引用しておく。

すなわち、ヘロデ主義者とは「ローマ文化の長所を摂取してそれによってローマに対抗する力を得ようとしたヘロデ大王から得たことばであり」、ゼロト主義者とは、「烈しくローマ文化を排撃し、熱狂的に自国の宗教の純粋さを守ろうとした一団の人々(ゼロット)から得たことばであり、もっとひろく、文化摂取のさいに外来文化を排撃し、それによって自国の文化的純粋さと国家的独立を保とうとする人々」を指していた。

そして、「このヘロデ主義者とゼロットとの対立は、近代西欧文明に接触した他の文明圏において数多く見られた。帝政ロシアにおける西欧派とスラヴ愛護派もその一例であろう。またわが国の幕末に見られた開国派と攘夷派もその有力な一例であろう」と続けた源了圓氏は、「大名の中での最も有力なヘロデ主義者は島津斉彬であり、一般の武士の中のヘロデ主義者の先覚者とも言うべきは佐久間象山」であったとしたと指摘していた(53~4)。

このような源氏の考察は、「トインビーのヘロデ主義とゼロト主義という概念が」、幕末の日本の思想史を分析するのにも、「有効な指標として利用され得ることを証明している」と記した三宅氏は、「圧倒的に優勢な西欧文明に接触した日本の指導者たちは、ヘロデ主義の立場を採用して『富国強兵』の道を選択した」と説明している。

その上で、ハンチントンがこの対立する二つの概念の間に「ケマル主義」と呼ぶ「改良主義」を加えていることについては、中国における近代化と比較しながら、「東洋道徳西洋芸」を唱えた佐久間象山を「日本における『改良主義』の先駆者」と位置付けることを可能にするだろうとの肯定的な評価をしている(56)。

しかし、最後に置かれた第6節の〔ウィルキンソンのハンチントン批判〕では、『文明の衝突と世界秩序の再編成』でハンチントンが「グローバルな国際政治に文明論の分析を適用したこと」や、「グローバルな『近代化』の現象をある程度明確に関連付けることを試みたこと」を評価しつつも、そこでは「文明論的なパースペクティヴは、ハンチントンにとっては世界全体にわたるグローバルな国際政治を観察するための『枠組み(framework)』」であり、「有効性を持つかどうかによって判定されている」とウィルキンソンが批判していると書いている(64~65)。

さらに、トインビーやキグリー、メルコなどの比較文明論者は、「文明論的分析を歴史の全ての時期について有効性を持つと考えており」、さらに「それぞれの文明を本質において統一性と一貫性のある文化を有しているという見解に傾いて」いるが、「ハンチントンは、〈冷戦の時期になって、世界史上初めて、グローバルな国際政治が多極的(multipolar)ならびに多文明的(multicivilization)なものとなっている〉と断定している」ことが指摘されている(64)。

三宅氏は「ウィルキンソンによると、グローバルな文明の存在が否定される一方でハンチントンは、権力と文化とのつながりを重視しており、〈普遍的な文明は普遍的な権力を必要とする〉と断定している」ことにも注意を促している(65)。

実は、この著作を再読した際に気づいたのだが、三宅氏は「欧化と土着」の考察に際して、ハンチントンが「二十世紀においては、輸送と通信の進歩とグローバルな相互依存が、排外主義を実行した場合の代償をひどく高くつくものとし、排外主義はほとんど消滅した」と書き、「トインビーの用語を使えば、ゼロト方式は全く実行不可能な選択なのである」と断言していたことに注意を促していた(59)。

トインビーは『歴史の研究』において、それまでの西欧の歴史観を「自己中心の迷妄」と断じていた*4。その後の世界情勢を見るとき、このようなハンチントンの断言は、ソ連が崩壊したことで唯一の超大国となったアメリカに暮らす政治学者の「迷妄」とさえ思える。

なぜならば、圧倒的な武力を有するペリー艦隊と遭遇した幕末の日本では攘夷思想が広まっていた。そして、太平洋戦争の末期にも自分の生命を犠牲にしてでも祖国を守ろうとする「神風特攻隊」による攻撃が行われたが、あまり日本では知られていないが、ソ連の末期にチェチェンのイスラム教徒の過激派たちも、「神風」と呼ぶ「自爆攻撃」で自国の独立を勝ち取ろうとしていた。こうして、自国の自尊心が激しく傷つけられたと感じた時には、「攘夷思想」はいっそう激しく広がるからである。

一方、トインビーの概念を援用しつつ幕末期の日本の思想状況を説明していた源了圓氏は、「江戸後期の文化は、東アジア文化圏内において中国文化を受容しながらそれを受容、消化し、さらに変容し、創造してつくった日本の伝統文化の総仕上げともいうべき性格」があり、しかもこの時代には「自国中心主義を否定する普遍的精神」すらも成立していたことを明らかにしている*5。

このように見てくるとき、比較文明学と歴史学の視点から、時間認識をとおして国際政治学者ハンチントンの文明観が分析されている第1部「比較文明論の視角」を含む『文明と時間』は、発行から10年近い年月が経った現在もその新鮮さは失われず、かえって重要性を増しているように思える*6。学術論文を中心にまとめた著作なので多少難解ではあるが、研究者のみならず比較文明学をめざす若手の研究者にもぜひ読んでもらいたい書物である。

 

*1  安西真「戦史」『世界大百科事典』平凡社、第16巻、78頁。

*2 三宅正樹「世界の一体化と文明の時間意識」『アウローラ』19号、2000年、19―26頁。

*3 高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、2002年参照。

*4 トインビー、長谷川松治訳『歴史の研究Ⅰ』、社会思想社、1967年、75-6頁。

*5 源了圓「江戸後期の比較文化研究」、源了圓編著『江戸後期の比較文化研究』、ぺりかん社、1990年、15-21頁。

*6 三宅教授の書評論文「高橋誠一郎氏の新著『黒澤明で「白痴」を読み解く』を読んで」(『異文化交流』、第12号、2012年)からは、チャアダーエフやダニレフスキーについての著者の深い関心が、若い頃にグリボエードフの『知恵の悲しみ』やプーシキンの歴史小説『大尉の娘』を読み、映画《白痴》からも感銘を受けていた著者のロシア文学の造詣の深さによるものであるがわかる。

(『文明研究』、第31号、2012年。2013年8月、改訂)

0、文明論(地球環境・戦争・憲法)のページ構成

、「核の時代」と地球環境

1-1、自然環境

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(月から撮影した地球、写真は「ウィキペディア」より)

「大地主義」と地球環境

「生命の水の泉」と「大地」のイデア

《風立ちぬ》Ⅱ――大地の激震と「轟々と」吹く風

1-2,戦争

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リンク→チャールズチャップリン独裁者 – YouTube

 ピーター・ポール&マリー(PPM)/花はどこへ行った … – YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=bOTCa1F3F0c

 

1-3,原水爆と原発事故

800px-Atomic_cloud_over_Hiroshima220px-Nagasakibomb

(広島に投下されたウラン型原子爆弾「リトルボーイ」によるキノコ雲と、長崎市に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」によるキノコ雲。画像は「ウィキペディア」)。

リンク→ラッセル・アインシュタイン宣言-日本パグウォッシュ会議

 430px-Ikimono_no_kiroku_poster

(作成:Toho Company, © 1955、図版は「ウィキペディア」より)

「第五福竜丸」事件と映画《生きものの記録》

特集「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」と映画《生きものの記録》

 

Ⅱ、自由民権運動と「明治憲法」

1、王政や帝政における権力と「良心」

2,正岡子規と自由民権運動

3,北村透谷と自由民権運動

,大日本帝国憲法

安倍首相の国家観――岩倉具視と明治憲法

 

「核の時代」と「日本国憲法」

3-1,日本国憲法

Enforcement_of_new_Constitution_stamp(←画像をクリックで拡大できます)

(日本国憲法施行記念切手、図版は「ウィキペディア」より)

3-2、教育制度

3-3,法律と報道

「核の時代」と「改憲」の危険性

フィクションから事実へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(1)

「ワイマール憲法」から「日本の平和憲法」へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(2)

「終末時計」の時刻と「自衛隊」の役割――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(3)

「改憲」の危険性と司馬遼太郎氏の「憲法」観

「憲法記念日」と「子供の日」に寄せて――「積極的平和主義」と「五族協和」というスローガン

憲法96条の改正と「臣民」への転落ーー『坂の上の雲』と『戦争と平和』

「集団的自衛権の閣議決定」と「憲法」の失効

 

Ⅳ、日露の近代化と日本の政治

4-1,「公地公民」という用語とロシア帝国の「農奴制」

安倍政権のTPP法案・強行採決と『竜馬がゆく』における竜馬の農民観

4-2,明治維新と薩長藩閥政府

〈忍び寄る「国家神道」の足音〉関連記事一覧

「内務省の負の伝統」関連の記事一覧

4-3,「昭和初期の別国」

〈「昭和初期の別国」と『永遠の0(ゼロ)』〉関連記事一覧

4-4、安倍政権

 「戦争法」関連記事一覧

「安倍政権の無責任体制」関連の記事一覧

〈「アベノミクス」の詐欺性〉関連記事一覧

 

Ⅴ.2017年の総選挙

総選挙に向けて(2017年)

明治時代の「立憲主義」から現代の「立憲民主党」へ――立憲野党との共闘で政権の交代を!

国際社会で「孤立」を深める好戦的なトランプ政権と安倍政権

核の危険性には無知で好戦的な安倍政権から日本人の生命と国土を守ろう

戦前の価値観と国家神道の再建を目指す「日本会議」に対抗するために、立憲野党と仏教、キリスト教と日本古来の神道も共闘を!

2015年に強行採決された安全保障関連法案の問題点を検証する

 

Ⅵ. 旧「新着情報」より移動

「安全保障関連法案に反対する学者の会」のアピール2014年7月3日

「脱原発を考えるペンクラブの集い」part4、3月15日のお知らせ2014年2月13日

「リレートーク 表現の自由が危ない!12月4日

「特定秘密保護法案」の強行採決に抗議する日本ペンクラブの声明11月27日

日本政府の「特定秘密保護法案」に対する声明(国際ペン会長)2013年11月22日

 

(2016年3月17日、11月5日、2022年1月16日、改訂)