高橋誠一郎 公式ホームページ

「ドストエーフスキイの会」

ドストエーフスキイの会、第236回例会(報告者:熊谷のぶよし氏)のご案内

ドストエーフスキイの会、第236回例会のご案内を「ニュースレター」(No.137)より転載します。

*   *   *

第236回例会のご案内

下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

日 時2016年11月19日(土)午後2時~5時         

場 所場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)

       ℡:03-3402-7854

報告者:熊谷のぶよし 氏

題 目: ラスコーリニコフの深き欲望

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:熊谷のぶよし (くまがい・のぶよし)

 59歳、妻有、子供二人 40歳の時にドストエーフスキイの会に参加。

過去に例会で発表した題目は次のとおり。

「ドミートリイ・カラマーゾフの二重性」「『永遠の夫』を読む」「戦士アリョーシャの誕生」「イワンの論理と感情」「「ネヴァ河の幻」出現の経緯」

*   *   *

第236回例会報告要旨

ラスコーリニコフの深き欲望

三年前に『罪と罰』を再読したとき、センナヤ広場で身を投げ出すラスコーリニコフに圧倒的な解放感を体験した。彼のこの行為は、欲望に突き動かされたもので、その欲望と私は一体となり、自分もこの時このように身を投げ出すだろうと思った。この感想を人に話すと、「それではエピローグについてもわかったんですね」といわれて絶句してしまった。それ以来このつながりが気になっていて、今回の発表はこの宿題の回答である。ラスコーリニコフの深いところにある、人々とつながりたいという欲望を中心に小説を読んでいこうというものである。話す内容は以下の5章となる予定である。

1 最後の独白

『罪と罰』のエピローグにおける「彼女の信念がおれの信念となっていいはずではないのか?」というラスコーリニコフの独白は、ふつうソーニャの愛によってラスコーリニコフが信仰を得ることになったと解される。しかし、ラスコーリニコフの信念はソーニャの信念とはかけ離れたもので、それが容易に入れ替わるものとは思えない。この独白の中では、彼の信念とソーニャの信念は並立することになる。

こうした信念の持ち方は自己のあり方を不純なものにする。それは、独立した自己に重きを置く文学的な人間像からは受け入れがたいものであろう。しかし、この不純な自己のあり方を肯定的にとらえてみたい。囚人たちとの和解の契機ともなるこの信念の並立を、ラスコーリニコフが世界を肯定的に受け入れるあり方として考える。その結果、ラスコーリニコフの人々と繋がりたいという欲望が見えてくる。その欲望は、孤独や実存よりも深いものとしてある。その欲望にたどり着くために、その欲望の反転したものとしての彼の孤独について、以下の章で検討する。

2 ネワ川で体験したこと

ラスコーリニコフが犯行後に体験する孤独は、ロマン主義的な孤独とはまったく別物である。犯行前の孤独は彼が自ら選んだものであり、犯行後の孤独は人々の側から切りはなされたものだ。ラスコーリニコフのネワ川の体験の要諦は、犯行前に彼が体験した「唖、聾の鬼気」の異様な印象を、この時彼が体験していないということにある。かつて彼にとって貴重だったテーマはもはや意味を持たない。このことがふたつの孤独の断裂を示している。

3 警察署での孤独の体験

犯行後のラスコーリニコフの孤独とはどのようなものかを考える。

警察署でラスコーリニコフが体験した「せつない、無限の孤独と疎外の暗い感覚」は、人殺しによって、彼が人々とつながりたいという深い欲望を持つことができなくなったことに由来する。この感覚の発生の描写を引用し、下記の4点を中心に、ラスコーリニコフの人々と繋がりたいという欲望を探る。

①自意識の苦痛が消滅したこと、②嫌疑から解放されたことによる歓喜の体験を直前にし、それを忘れてしまっていること、③彼にとってどうでもいい人間達が貴重な存在となっていること、④そして彼らに話しかける理由を失ってしまったこと。

ラスコーリニコフの人々と繋がりたいという欲望は俗念にまみれたものであり、文学が避けてきたものでもある。あるべき自己イメージとかけ離れていて、この自覚は彼の自我を危うくする。この欲望はラスコーリニコフによって無意識に追いやられる。

4 センナヤ広場にて

ラスコーリニコフの深い欲望はセンナヤ広場で解放される。彼がセンナヤ広場で身を投げ出す時の感情の推移は、警察署で彼が経験した歓喜の感情から孤独という筋道の逆をたどる。ラスコーリニコフは、人々と繋がりたいという、深い欲望に突き動かされて身を投げ出した。しかし、この時においても、彼はその欲望が何かを自覚していない。

5 ソーニャの発見

流刑地において、ソーニャはラスコーリニコフに取ってどのような存在であったか。

彼は、病中に見た悪夢によって、すでに彼の側らにいるソーニャを再発見することになる。

悪夢の中心テーマは、前面に描かれている殺し合う人々ではなく姿の見えない「数人の清い、選ばれた人たち」である。彼らのあり方とソーニャとの関連性を明らかにする。

夢を覆う殺し合う者達は信念を持ちかつその信念を他者に押しつけようとしている。一方、「数人の清い、選ばれた人たち」が夢に姿を顕さないのは、彼らが殺し合う者達の持つ出現の要件を欠いているからだ。彼らは信念を持ちしかしその信念を他者に押しつけない。そのために夢に出現しないのだ。そう思えるのは、ラスコーリニコフが信仰を奨めないソーニャを驚きを持って見ているからだ。ソーニャがラスコーリニコフに信仰をすすめなかったのは、ラスコーリニコフが信仰を持つようになることを信じて疑わなかったからだ。あるいはもうすでに信仰を持っていると信じていたからであろう。そのことに気づいたラスコーリニコフは、「彼女の信念がおれの信念となっていいはずではないのか?」と思ったのだ。