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『日本沈没』

映画《ゴジラ》考Ⅳ――「ゴジラシリーズ」と《ゴジラ》の「理念」の変質

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映画《ゴジラ》考Ⅳ――「ゴジラシリーズ」と《ゴジラ》の「理念」の変質

 

はじめに

映画《ゴジラ》の60周年ということで、テレビ東京では8月5日に放映した1992年公開の映画《ゴジラvsモスラ》に続いて、翌日には映画《ゴジラvsスペースゴジラ》(製作:田中友幸、監督:山下賢章、脚本:柏原寛司、特技監督:川北紘一)が放映された。

この映画でも特撮の技術を駆使したクライマックスの戦いのシーンの映像はことに迫力があった。しかし、「破壊神降臨」をキャッチコピーとしていたように、宇宙に飛散したゴジラの細胞がブラックホール内で結晶生命体を取り込み怪獣化して地球に飛来した宇宙怪獣スペースゴジラは終始、抹殺すべき「敵」として描かれていた。            

《水戸黄門》などの勧善懲悪的なテーマを持つ時代劇では、主人公が人々を苦しめる「悪代官」などを「征伐すべき者」として描かれ、主人公が彼らを「退治」する場面に観客は共感するので、この映画もそのような流れを受け継いでいるといえるだろう。                                                       しかし、これまで考察してきたように本多監督の映画《ゴジラ》や《モスラ》では、これらの「怪獣」は、自然を破壊する水爆実験や環境破壊によって深い眠りから目覚めた「生き物」として描かれ、「敵」を抹殺するためや、膨大な利益をあげるために科学を利用する人間の傲慢さが厳しく批判されていた。

今回はこの映画《ゴジラvsスペースゴジラ》を分析することで、「敵」の危険性を強調する一方で、「積極的平和」の名の下に堂々と原発や武器が売られ「集団的自衛権」が唱えられるようになった日本の問題に迫ることにしたい。

 1,「ゴジラシリーズ」と映画《ゴジラvsスペースゴジラ》

「ゴジラシリーズ」の第21作にあたる映画《ゴジラvsスペースゴジラ》は、1994年12月に公開され、観客動員数では映画《ゴジラvsモスラ》には及ばなかったものの340万人を集め、配給収入は16億5千万円を記録した(「ウィキペディア」)。

ゴジラに似た容姿を持つこのスペースゴジラは、「大気圏内ではマッハ3で飛行」し、「周囲をエネルギー吸収のための結晶体の要塞に変え」、「敵を超重力波で無重力状態にして攻撃を封じ」、「口から強力破壊光線」を発するのである(『GODZILLA 60:COMPLETE GUIDE』、マガジンハウス、2014年)。

物語は南太平洋に浮かぶバース島でゴジラの抹殺のために設立された国連ゴジラ対策センターに所属するG-Forceの隊員たちが、ゴジラの後頭部にテレパシーを受信する増幅装置を埋め込み、ゴジラの行動を誘導しようとするTプロジェクトを展開する一方で、ゴジラに親友を殺されていたはみだし隊員の結城晃(柄本明)がゴジラを倒すための様々な罠をしかけているところから始まる。

その結城晃にまとわりついていたリトルゴジラの愛くるしい容姿や行動がユーモラスな笑いを呼び、シリアスな活劇に可笑しさを生み出している。さらに、フェアリーモスラに化身した小美人「コスモス」(今村恵子と大沢さやか)からのメッセージを受け取って、なんとかゴジラを殺さずに地球を救おうとする超能力者の三枝未希(小高恵美)とGフォース隊員の新城功二(橋爪淳)との恋愛劇が描かれていることも怪獣映画に幅を与え、観客の共感を呼んだと思える。

NASAからスペースゴジラが地球に向けて飛来していることを知らされたGフォースは早速、最新のロボットMOGERA(モゲラ)で迎撃しようとしたが失敗に終わり、バース島に降り立ったスペースゴジラは最初の戦いではゴジラを圧倒し、結晶体にリトルゴジラを幽閉した。

その後、Tプロジェクトを横取りしてゴジラを操り、利益を上げようとする企業マフィアに拉致された超能力者の未希を新城たちが奪還しようとする銃撃戦が描かれたあとで、いよいよ札幌、山形、神戸などを破壊し、九州の福岡タワーの周囲に結晶体で囲まれた不思議な空間を作りだしたスペースゴジラとゴジラとの戦いや、無敵にも思える兇暴な怪獣スペースゴジラを倒すために、MOGERA(モゲラ)を操縦してゴジラを援助したGフォースの隊員たちの献身的で激しい戦いが詳しく描かれていた。

2,映画《ゴジラvsスペースゴジラ》と「集団的自衛権」

「ゴジラシリーズ」では最初の映画《ゴジラ》から「国民の生命」を守るために怪獣ゴジラと果敢に戦う防衛隊(自衛隊)の活動は描かれていた。そして映画《ゴジラvsモスラ》では丹沢でのゴジラ迎撃戦でメーサー戦闘機が初登場して、大規模な戦闘が繰り広げられている様子が描かれていたように、圧倒的な力を有する「敵」の怪獣と戦うために自衛隊の装備も徐々に強化されていった。

ただ、映画《ゴジラvsスペースゴジラ》ではスペースゴジラがはじめから、キャッチコピーで「破壊神」と描かれていたように妥協のない「敵」と規定されており、この凶悪な「敵」と戦うために科学力を駆使して強力な戦闘ロボットMOGERAなどを製造して戦うGフォースが、「国民の生命」を守る「正義の組織」として描かれていたことには強い違和感を覚えた。

なぜならば、映画《ゴジラ》では水爆実験によって誕生した「ゴジラ」が持つ、目には見えない強い放射能の危険性が、ガイガーカウンターによる放射能の測定のシーンをとおして映像として指摘されていたからである。広島型原爆の1000倍の威力を持つ水爆の実験で起きた「第五福竜丸」事件を契機に製作された映画《ゴジラ》の第一作では、「反原爆」の強い思いだけでなく、武力では「平和」を作り出すことはできないというメッセージがきわめて強く打ち出されていたといえよう。

ことに、「ゴジラ」を抹殺することのできる最終兵器のオキシジェン・デストロイヤーを発明した芹沢が、兵器の制作方法を知っている自分が莫大な富や名誉などに惑わされてその制作方法を明かすようになることを恐れて「ゴジラ」とともに滅ぶことを選ぶという最後のシーンでは、いかなる兵器もそれが発明された後では悪用される危険性があり、武力では平和を達成することはできないという倫理的な視点が提示されていた。

*   *   *

このように記すと映画《モスラ》では「怪獣」対策としての日本とロリシカ国との軍事技術の連繋が描かれていたではないかという厳しい反論がなされるかもしれない。たしかに、そこでは誘拐された小美人を救うために飛来したモスラが東京タワーに取り付いて巨大な繭を作り始めると、防衛隊はロリシカ国(水爆実験を行っていたロシア+アメリカのアナグラム)からの軍事援助で供与された原子力エネルギーによる原子熱線砲で攻撃することによりモスラを抹殺するシーンが描かれていた。

しかし、その後では原子熱線砲に焼かれて灰となった繭からモスラが雄々しく飛び立っていくシーンが描かれており、「モスラ」という存在も「ゴジラ」と同じように、人間の力を越えた「大自然の力」の象徴のようにとらえることができるだろう。

このことに注意を払うならば、モスラに対する原子力エネルギーによる原子熱線砲での攻撃のシーンは、原爆の投下を正当化したアメリカ軍がベトナム戦争では枯れ葉剤をまき散らし、イラク戦争では地中深くに埋めるべき劣化ウラン弾を用いてベトナムやイラクの「大地」を汚すことになることへの予言的な批判さえもあるのではないかと私は考えている。

それは同時にこのシーンには広島や長崎の被爆というたいへんな悲劇を経験した後も、二度にわたる原爆投下を「道徳的」に批判するのではなく、アメリカの「核の傘」に入ることの正当性を国民に納得させようとしていた当時の日本政府に対する痛烈な批判も含まれていると思われる。

一方、映画《ゴジラvsスペースゴジラ》では、「スペースゴジラ」や「ゴジラ」の破壊力のすさまじさは映像化されていても、「ゴジラ」が歩いたあとに残されるはずの高い放射能についての指摘はほとんど語られてはいなかった。そこには「国策」として進められていた「原発」に対する強い配慮があったともいえるだろう。                   

しかし、1964年に公開された《モスラ対ゴジラ》(監督、本多猪四郎)のノベライズ版である上田高正の 『モスラ対ゴジラ』(講談社X文庫、1984年)では、ゴジラが襲おうとしていた岩島にはもし破壊されれば日本列島の大半が汚染される規模の原子力発電所があった。それゆえ、そこでは記者会見をする官房長官が国民に対して民族移動を決意するように呼びかけるシーンも描かれていた(「ウィキペディア」)。

「原発事故」による「民族移動」の必要性という設定は、小松左京の長編小説『日本沈没』のテーマを思い起こさせるばかりでなく、あまり知られていないが、福島第一原子力発電所の大事故に際しては、もはや抑えることができないとして東京電力の幹部が脱出を指示しようとしており、関東一帯が被爆して東京都民が避難民となりかねないような事態と直面していた(リンク先→真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して

しかも、ゴジラ抹殺を最大の目的とする精鋭部隊で、世界中から若く有能な人物を集めて組織されたとされるGフォースの司令官は日本の陸上自衛隊出身の将官であり、主要メンバーもアメリカの他にはロシア人の科学者が戦闘ロボットMOGERAの設計者として入っているが、水爆実験で目覚めた「ゴジラ」が強力な放射線を出していることに注意を払うならば、その部隊にはその被害を受けるはずの韓国や中国などの近隣諸国のメンバーも入れなければ、きちんとした対策をとることはできないであろう。

このように見てくる時、「国民の生命」を守る組織としての「自衛隊」の役割やモゲラの製造にかかわったロリシカ国との「軍事同盟」の必要性が、特撮技術を駆使した華々しい戦闘シーンをとおして描かれていた20年前の映画《ゴジラvsスペースゴジラ》は、「積極的平和」の名の下に堂々と原発や武器が売られ、それまでの政府見解とは全く異なる「集団的自衛権」が正当化されるようになる日本の政治情況を先取りしていたようにさえ見える。

ブッシュ大統領が「戦争の大義」もなく始めたアフガンやイラクとの戦争は、国家レベルではともかく、民衆のレベルではイスラム教徒やアラブ諸国からの強い反発を招き、それが今日の泥沼化した状況を作り出したといっても過言ではないだろう。映画《ゴジラvsスペースゴジラ》に描かれていた架空の世界は、「国民」の眼から「原爆」や「原発」の危険性や、「軍事同盟」の危険性をも覆い隠すことになるだろう。

折しも、「第五福竜丸」事件を契機に製作された映画《ゴジラ》(原作:香山滋。脚本:村田武雄・本多猪四郎)の誕生60周年にあたる今年は「自衛隊」が誕生して60周年にもあたるので、「国民の生命」や「国家の大地」を守るとはどういうことかを考えるよい機会だろう。

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映画《ゴジラ》の芹沢博士と監督の本多猪四郎の名前を組み合わせた芹沢猪四郎が活躍するアメリカ映画《Godzilla ゴジラ》は、映画《ゴジラ》の「原点」に戻ったという呼び声が高い。

残念ながら当分、この映画を見る時間的な余裕はなさそうだが、いつか機会を見て映画《ゴジラ》と比較しながら、アメリカ映画《Godzilla ゴジラ》で水爆実験や「原発事故」の問題がどのように描かれているかを考察してみたい。