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『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)のブックレビュー(12月8日)を転載

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)のブックレビュー(12月8日)を転載

「高橋司馬論」のひとつの頂点を成した書

“ものをありのままに見る”

 明治日本において行われた一種の 「認識革命」ともいうべき一大変化をつぶさに描く

isbn978-4-903174-33-4_xl  装画:田主 誠/版画作品:『雲』

人文書館のHP・ブックレビューのページに小倉紀蔵・京都大学教授の書評の抜粋が掲載されましたので、このHPでも紹介させて頂きます。

(人文書館のHPより) 新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」 

*   *   *

小倉紀蔵

正岡子規の方法論である写生に関しては、すでに膨大な研究が存在するが、本書では、単に写生という方法論自体を論じるのではなく、正岡子規の生き様の劇(はげ)しさとリンクさせながら、明治という時代におけるきわめて重要な思想潮流を描ききっている。

なによりもまず、正岡子規の人間としての魅力が思う存分伝わってくる。陸羯南、加藤拓川、秋山好古、秋山真之、夏目漱石などとの関係が、司馬遼太郎のいくつもの作品の叙述を縦横無尽に編み合わせることによって、重層的に描き出される。その基調には、「我々は『ものをありのままに見る』という勇気の少ない民族であります。ありのままに見れば具合の悪いこともおこるし、恐くもある。だから観念の方が先にいく」(八~九頁)という司馬の言葉がある。(中略)そしてその反対方向へのヴェクトルとして、正岡子規がおり、陸羯南がおり、夏目漱石がおり、写生があったのだ。だから司馬が近代日本の合理性を肯定したといっても、その肯定は絶対的なものではなかった。近代日本は強固な合理性の岩盤のうえに築かれたものではなかった。それはつねに危うく、こわれやすく、「勇気」によってつねに意志的に構築されつづけなければならないものだった。

司馬の日本近代論がすぐれている理由は、この「危うさ」への強烈な自覚のためであろう。日本人は実は、「ものをありのままに見る」勇気に乏しく、観念に依存するという安楽な道を選びやすい民族なのだ、という危機意識が、司馬史観の根底にある。それは、ナショナリスティックな司馬追随者たちが見ている日本近代とは、おそらくまったく異なる危うい世界であるにちがいない。

精神が少し弛緩してしまうとすぐに観念的になってしまう。日本人のこの強い傾向があるからこそ、明治に実現した合理精神、そして写生の精神の意味が重要になってくるのである。(中略)高橋氏はこのことを、「(司馬遼太郎は)竜馬や子規を描くことで、いつの時代でも「現実」を直視せずに「情念」に流されやすい日本人に、本当の勇気とは何かを示そうとしたのではないかと私には思えるのです」(九頁)と語っている。したがって、司馬作品を読んで「日本近代賛美」の情念ないし観念に溺れる人たちこそ、司馬がもっとも強く批判したタイプの日本人であるといえる。

新聞という、情念を捏造しやすいメディアにおいて、陸羯南や正岡子規がどのような苦闘を演じたのか、そしてその写生の精神がいかに子規の周囲に広がっていたのか。本書はやさしい語り口調でそのことをつぶさに論じている。「高橋司馬論」のひとつの頂点を成した書といえるにちがいない。

小倉紀蔵(オグラ・キゾウ、京都大学教授。著書『朱子学化する日本近代』など)

『比較文明』(2016年、第32号、比較文明学会編「書評」より部分的に抜粋)

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