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『罪と罰』と内田魯庵と島崎藤村の「良心」観

『罪と罰』と内田魯庵と島崎藤村の「良心」観

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 (内田魯庵(1907年頃)、図版は「ウィキペディア」より)

裁判制度の改革もなされた「大改革の時代」に発表された長編小説『罪と罰』で注目したいのは、裁判制度の改革に関連して創設された司法取調官のポルフィーリイが、ラスコーリニコフに対して、「その他人を殺す権利を持っている人間、つまり《非凡人》というやつはたくさんいるのですかね」と問い質していたことです。

そして、「悪人」と見なした者を殺した人物の「良心はどうなりますか」という問いに「あなたには関係のないことでしょう」といらだたしげに返事したラスコーリニコフに対しては、「いや、なに、人道問題として」と続けて、「良心を持っている人間は、誤りを悟ったら、苦しめばいい。これがその男への罰ですよ」という答えを得ていました(三・五)。

 この返事に留意しながら読んでいくと本編の終わり近くには、「弱肉強食の思想」などの近代科学に影響されたラスコーリニコフの誤った過激な「良心」理解の問題を示唆するかのような、「良心の呵責が突然うずきだしたような具合だった」(六・一)と書かれている文章と出会うのです。

『罪と罰』では司法取調官のポルフィーリイとの白熱した議論や地主のスヴィドリガイロフとラスコーリニコフの妹・ドゥーニャとの会話だけでなく、他の登場人物たちの会話でもギリシャ語の「共知」に由来する「良心」という単語がしばしば語られています。

近代的な法制度を持つ国家や社会においては絶対的な権力を持つ王や皇帝の無法な命令や行為に対抗するためにも、権力者からの自立や言論の自由などでも重要な働きをしている「個人の良心」が重要視されているのです。

日本語には「恥」よりも強い語感を持つ「良心」という単語は日常語にはなっていませんが、この単語は近代の西欧だけでなくロシアでは名詞から派生した形容詞や副詞も用いられるなど、裁判の場だけでなく日常生活においても用いられています。

そして、「日本国憲法」では「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定められていますが、薩長藩閥政府との長い戦いを経て「憲法」が発布されるようになる時代を体験した内田魯庵も、この長編小説における「良心」の問題の重要性に気付いており、この長編小説の大きな筋の一つは「主人公ラスコーリニコフが人殺しの罪を犯して、それがだんだん良心を責められて自首するに到る経路」であると指摘していました。(「『罪と罰』を読める最初の感銘」、明治四五年)。

そして島崎藤村もドストエフスキーについて「その憐みの心があの宗教観ともなり、忍苦の生涯ともなり、貧しく虐げられたものの描写ともなり、『民衆の良心』への最後の道ともなったのだろう」と記していたのです(かな遣いは現代表記に改めた。『春を待ちつつ』、大正一四年)。

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(島崎藤村、出典は「ウィキペディア」。書影は「アマゾン」より)

この言葉も藤村の深い『罪と罰』理解の一端を示していると思えます。なぜならば、ラスコーリニコフを自首に導いた女性にソフィア(英知)という名前が与えられているからです。ドストエフスキーが自分の監獄体験を元に書いた『死の家の記録』において、「賢人たちのほうこそまだまだ民衆に学ばなければならないことが多い」と書いていたことを思い起こすとき、「教育らしい教育」を受けたことがないソフィア(愛称はソーニャ)が果たした役割はきわめて大きかったのです。

一方、正宗白鳥は「『破戒』と『罪と罰』とは表面に似てゐるところがあるだけで、本質は似ても似つかぬものである」と『自然主義文学盛衰史』で断言していましたが、「民衆の良心」という用語や注目して長編小説『破戒』を読み直すとき、使用される回数は多くないものの「良心」という単語を用いながら主人公の「良心の呵責」が描かれているこの長編小説が、表面的なレベルだけでなく、深い内面的なレベルでも『罪と罰』の内容を深く理解し受け継いでいることが感じられます。

すなわち、「非凡人の理論」を生み出したラスコーリニコフの「良心」理解の誤りを多くの登場人物との対話をとおして示唆し、ソーニャの説得を受け入れた主人公に広場で大地に接吻した後で自首をさせたドストエフスキーは、エピローグにおいてラスコーリニコフに「人類滅亡の悪夢」を見させることにより、彼の「良心」理解の誤りを視覚的な形で示していました。

「差別」の問題には目をつぶり自分の出自を隠して「立身出世」せよという父親の「戒め」に従っていた『破戒』の主人公・瀬川丑松も、明治維新で約束された「四民平等」を実現するために活動していた先輩・猪子蓮太郎に背くことに「良心の呵責」を覚えて、猪子がテロで殺されたあとでは「差別」の問題とその危険性を深く認識して、新たな道を歩み始めるのです。

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