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正岡子規の時代と現代(2)――「特定秘密保護法」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)

正岡子規の時代と現代(2)――「特定秘密保護法」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)

この時期、歴史はあたかも坂の上から巨岩をころがしたようにはげしく動こうとしている」(司馬遼太郎『翔ぶが如く』)

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民主党政権を倒した後で現政権が打ち出した「特定秘密保護法」が、軍事的な秘密だけでなく、沖縄問題などの外交的な秘密や原発問題の危険性、さらにはTPPをも隠蔽できるような性質を有していることが、次第に明確になってきました。司馬作品の研究者という視点から、倒幕後の日本の状況と比較しつつ、この法律の問題点をもう一度考えてみたいと思います。

国民に秘密裏に外国との交渉を進めた幕府を倒幕寸前までに追い詰めつつも「大政奉還」の案を出した理由について、司馬氏は『竜馬がゆく』において竜馬に、政権が変わっても今度は薩長が結んで別の独裁政権を樹立したのでは、革命を行った意味が失われると語らせて、明治初期の藩閥独裁政権の危険性を示唆していました。

実際、長編小説『歳月』(初出時の題名は『英雄たちの神話』)では佐賀の乱を起こして斬首されることになる江藤新平を主人公としていましたが、井上馨や山県有朋など長州閥の大官による汚職は、江藤たちの激しい怒りを呼んで西南戦争へと至るきっかけとなったのです。

そのような中、「普仏戦争」で「大国」フランスに勝利してドイツ帝国を打ち立てたビスマルクと対談した大久保利通は、「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立しよう」としました(第1巻「征韓論」、拙著『新聞への思い』、88頁)。

一方、政府の強権的な政策を批判して森有礼や福沢諭吉などによって創刊された『明六雑誌』は、「明治七年以来、毎月二回か三回発行されたが、初年度は毎号平均三千二百五部売れたという。明治初年の読書人口からいえば、驚異的な売れゆきといっていい。しかしながら、宮崎八郎が上京した明治八年夏には、この雑誌は早くも危機に在った」(第5巻「明治八年・東京」。『新聞への思い』、95~99頁)。

その理由を司馬氏はこう書いています。「明治初年の太政官が、旧幕以上の厳格さで在野の口封じをしはじめたのは、明治八年『新聞紙条例』(讒謗律)を発布してからである。これによって、およそ政府を批判する言論は、この条例の中の教唆扇動によってからめとられるか、あるいは国家顛覆論、成法誹毀(ひき)ということでひっかかるか、どちらかの目に遭った」。

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私は法律の専門家ではありませんが、この明治8年の『新聞紙条例』(讒謗律)が、共産主義だけでなく宗教団体や自由主義などあらゆる政府批判を弾圧の対象とした昭和16年の治安維持法のさきがけとなったことは明らかだと思えます。

なぜならば、『翔ぶが如く』で『新聞紙条例』(讒謗律)の問題を深く掘り下げて司馬氏は、子規の死後養子である正岡忠三郎など大正時代に青春を過ごした人々を主人公とした長編小説『ひとびとの跫音』で、「学校教練」にも触れながら、大正14年に制定された最初の「治安維持法」について次のように厳しく規定していたからです。

国家そのものが「投網、かすみ網、建網、大謀網のようになっていた」/「人間が、鳥かけもののように人間に仕掛けられてとらえられるというのは、未開の闇のようなぶきみさとおかしみがある」。

いわゆる「司馬史観」論争が起きた際には司馬氏の歴史観に対しては、「『明るい明治』と『暗い昭和』という単純な二項対立史観」であり、「大正史」を欠落させているとの厳しい批判もありました。

しかし、『ひとびとの跫音』において司馬氏は、「言論の自由」を奪われて日中戦争から太平洋戦争へと続く苦難の時期を過ごした彼らの行動と苦悩、その原因をも淡々と描き出していたのです、

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『坂の上の雲』をとおしてナショナリズムの問題や近代兵器の悲惨さを描いた司馬氏は、「日本というこの自然地理的環境をもった国は、たとえば戦争というものをやろうとしてもできっこないのだという平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが、「大事なように思える」と書いていました(「大正生れの『故老』」『歴史と視点』)。

同じことは原発問題についてもいえるでしょう。近年中に巨大な地震に襲われることが分かっている日本では、本来、原発というものを建ててはいけないのだという「平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが必要でしょう。

戦争自体は体験しなかったものの病気を押して従軍記者となり、現地を自分の体と眼で体感した正岡子規が、『歌よみに与ふる書』で「歌は事実をよまなければならない」と記していました。この文章は『三四郎』を書くことになる親友の夏目漱石だけでなく司馬遼太郎氏の文明観にも強い影響を与えただろうと考えています。

何度も発行禁止の厳しい処罰を受けながらも、新聞『日本』の発行を続けた陸羯南や正岡子規など明治の新聞人の気概からは勇気を受け取りましたので、なんとか平成の人々にもそれを伝えたいと考えています。

(初出、2013年11月13日。改訂、2016年10月30日)

正岡子規の時代と現代(1)――「報道の自由度」の低下と民主主義の危機

→人文書館のHPに掲載された「ブックレビュー」、『新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』

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