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ドストエーフスキイの会、第249例会(報告者:熊谷のぶよし氏)のご案内

ドストエーフスキイの会、第249例会(報告者:熊谷のぶよし氏)のご案内

第249例会のご案内を「ニュースレター」(No.150)より転載します。

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第249回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

                                          

日 時2019年1月12日(土)午後2時~5時           

場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分)  

             ℡:03-3402-7854

報告者:熊谷のぶよし 氏

題 目: 「認知的共感」による『カラマーゾフの兄弟』の読解                       

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:熊谷のぶよし (くまがい・のぶよし)

61歳、妻有、子供二人 40歳の時にドストエーフスキイの会に参加。

過去に例会で発表した題目は次のとおり。

「ドミートリイ・カラマーゾフの二重性」「『永遠の夫』を読む」「戦士アリョーシャの誕生」「イワンの論理と感情」「「ネヴァ河の幻」出現の経緯」「ラスコーリニコフの深き欲望」 

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 第249回例会報告要旨

「認知的共感」による『カラマーゾフの兄弟』の読解

 共感は人が文学に接する上でもっとも重要な心の働きです。心理学では「共感」は一般的に「情動的共感」(emotional empathy)と「認知的共感」(cognitive empathy)に分けられます。「情動的共感」は他者との感情の共有のことで、普通に「共感」と言えば、こちらの意味で使われることが多いでしょう。一方「認知的共感」は、他者の心の知的な把握のことで、むしろ洞察や推論として理解される内容です。

 『カラマーゾフの兄弟』のなかで、共感という言葉にもっともふさわしい人物はアリョーシャでしょう。彼は、人の苦しみを自分の苦しみのように感じる能力を持つ「情動的共感」に優れた人物と思われがちです。しかし、改めてアリョーシャの共感能力が発揮される場面を見ると、彼がむしろ優れた「認知的共感」の持ち主であることが分かります。一例を挙げれば、イリョーシャの父、スネギリョフとのやりとりをリーザに説明する場面です。アリョーシャはスネギリョフに対して最善の対応をしましたが、それはスネギリョフの感情を自分のものとして共に苦しんだ結果ではありませんでした。アリョーシャの対応は、彼が、かつてゾシマから聞いた虐げられた人の心のあり方についての知識にもとづくものでした。ここで彼の行動を主導しているのは「認知的共感」の能力です。アリョーシャは「認知的共感」に基づいて「情動的共感」を働かせる人物といえるでしょう。この「認知的共感」に焦点を当ててこの小説を読んでみたいと思います。

 小説において「認知的共感」は二つのレベルで働きます。第一のレベルは、各登場人物が他の登場人物に対してどのように「認知的共感」を働かせているかということです。第二のレベルは、読者が各登場人物に対してどのように「認知的共感」を働かせるかということです。第二のレベルにおける視点がないと、第一のレベルでの各登場人物間の「認知的共感」を認知することはできません。第二のレベルの視点の獲得は、読者が小説にどのように向き合うかということにつながります。

 小説の向き合い方として、ある強烈な場面を全体の繋がりから切り離して深掘りしていく読み方や、統一的テーマを設定してその説明としてそれぞれの場面を解釈していく読み方がまずあるでしょう。こうした読み方は、読者の主観が投影されていて「情動的共感」にちかいところがあります。

 一方、登場人物を、小説の各場面の中だけに生きる者ではなく、描かれていない時空においても継続した人格を持って生きる者として捉える読み方もあります。その時登場人物は、読者が投影する主観とは異なる視野と内面を持つことになり、その理解のためには読者の「情動的共感」を保留した認知が必要となります。ドストエフスキーの小説は、そのような登場人物の人格の継続性と他者性を読者に認知させる手法によって書かれています。「認知的共感」はドストエフスキーの小説を読む上で適合性の高い観点といえるでしょう。

 今回の発表では、この観点によって作品の場面を検討するに当たって、「認知的共感」の一部をなす「心の理論」において、幼児の心理的発達を判定するために使用される「誤信念課題」<アンとサリー課題>をまず検討します。この<アンとサリー課題>は、ドストエフスキーの上述の手法を端的に表しているように私には思えます。

 その上で、『カラマーゾフの兄弟』の中での、前述のスネギリョフへの対応、「一本の葱」、スメルジャコフの遺書の意味、リーザの変心、ニーノチカとコーリャ、「あなたではない」のアリョーシャの発言、等々を「認知的共感」の観点から検討していきたいと思います。

 また、『反共感論―社会はいかに判断を誤るか』ポール・ブルームも紹介したいと思います。この本は「情動的共感」に対する批判の書であると同時に、実行的愛と共感のあり方について新しい観点を提示しています。「認知的共感」と『カラマーゾフの兄弟』が結び付いたのはこの本によります。

 以前より、ドストエフスキーの小説における、描かれていない事実の系列と登場人物の内面の実在性に惹かれてきました。それを洞察や推論という言葉を使って考えてきました。「認知的共感」の概念を知ることによって、洞察や推論が共感の概念に取り込まれる可能性を見出しました。その上で「情動的共感」との関係性が主題化できることが分かりました。共感については、検討すべきことが山のようにあり、まだ暗中模索の状態です。発表プランが当日までに変わる可能性もあります。今回の発表は結論に落とし込むと言うより、仮説を提示する問題提起の場としたいと思います。

 

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前回の「傍聴記」と「事務局便り」は、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

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