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司馬遼太郎のドストエフスキー観  (2)日露戦争と日露両国の近代化の考察

司馬遼太郎のドストエフスキー観  (2)日露戦争と日露両国の近代化の考察

 日露戦争を中心に措いた『坂の上の雲』の初期においては、司馬は「憲法」を持たなかったことから未曽有の大混乱となりついには革命に至ったロシアと、アジアで最初に「憲法」を持つようになった民主的な国家日本を比較しながら、祖国の防衛戦争として日露戦争を位置づけて、その意義を強調していた。

 たとえば、司馬は福沢と共に「当時の西ヨーロッパ人からみれば半開国にひとしかった」ロシアの「文明開化」を行ったピョートル大帝の改革を高く評価し、彼が使節団を西欧に派遣したり「ひげをはやしている者には課税」するなど岩倉使節団や断髪令など日本の明治維新に先行して「つぎつぎに改革と西欧化を断行した」ことを指摘している(Ⅱ・「列強」)。その一方で司馬は、民衆には将校になる可能性がほとんどなかったニコライ一世治下のロシアと比較しながら、「日本ではいかなる階層でも、一定の学校試験にさえ合格できれば平等に将校になれる通がひらかれている」明治の新しい教育制度のよさに注意を向けている(Ⅰ・「七変人」)。

 この時、司馬は主人公の一人である秋山好古が福沢諭吉を尊敬していたことを強調することによって、自由民権運動や教育における福沢の意義に注意を促していたが、ロシアを「野蛮」とする見方は、福沢諭吉が『民情一新』において示したロシア観とも重なるものだったのである。だが、このような日露観は日露戦争という悲劇的な形で現れた日本とロシアという二つの強国の接触を、雄大な構想のもとに具体的な事実を丁寧に調べ直しながら描いていた『坂の上の雲』を書く中で次第に変化していく。

 第四巻のあとがきには「当時の日本人というものの能力を考えてみたいというのがこの作品の主題だが、こういう主題ではやはり小説になりにくい」と記され、その理由としてこのような小説は「事実に拘束される」が、「官修の『日露戦史』においてすべて都合のわるいことは隠蔽」されていることが挙げられている(Ⅷ・「あとがき四」)。事実に対する「冷厳な感覚」によって日露戦争の実態を綿密に調べながら書くことによって、彼は日本の近代化の問題点についての理解も深めていくのである(中島誠〈 文 〉、清重仲之〈 イラスト 〉『司馬遷太郎と「坂の上の雲」』現代書館、二〇〇二年参照)。

 さらに、第五巻でロシア側が都市を要塞化して守っていた旅順攻防の悲惨な戦いを描く中でクリミア戦争に言及した司馬は、二十七歳の時にクリミア戦争に「下級将校として従軍」していたトルストイがロシア要塞の攻防を描いた小説『セヴァストーポリ』を「籠城の陣地」で描いていたことに言及している。そして、トルストイがそこで「愛国と英雄的行動についての感動をあふれさせつつも、戦争というこの殺戦だけに価値を置く人類の巨大な衝動について痛酷なまでののろいの声をあげている」ことに注目している(Ⅴ「水師営」)。

 こうして、日露戦争における旅順の攻防とクリミア戦争のセヴァストーポリの攻防との類似性に気づいた司馬は、日露戦争以降に顕著になった「時世時節の価値観が事実に対する万能の判定者になり、都合のわるい事実を消す」という傾向を指摘し、日露戦争の戦史が事実を伝えていない事が多いことに触れて、「日本人は、事実を事実として残すという冷厳な感覚にかけているのだろうか」という深いため息にも似た言葉をも記すようになるのである(「『坂の上の雲』を書き終えて」『歴史の中の日本』)。

 この時司馬は、「祖国戦争」によってヨーロッパの大国・フランスに対する勝利を奇跡的に収めた後では、ヨーロッパ文明に対するそれまでの劣等感の反発から「自国」を神国化する「国粋」的な思想が広がったロシアと、強国ロシアを破って日露戦争に勝利した後の「明治国家」との間にある類似性に気づいたと言えよう。

 この意味で興味深いのは、木下豊房が「空想家の系譜――ネフスキー大通りから地下室へ」において、「空想家に特有のロマン主義的現実離脱の願望が、時代閉塞状況での『弱き心』から生まれることをいみじくも指摘したのは、石川啄木であるが、ニコライ一世の専制体制下と明治絶対天皇制下に類似する精神的閉塞の状況において、ドストエフスキーと啄木のエッセイに次のような似通った記述が見られるのは興味深い」と指摘していることである(木下豊房『ドストエフスキー その対話的世界』成文社、二〇〇二年、八九~九〇頁)。

 すなわち、ドストエフスキーは一八四七年のフェリエトン「ぺテルブルグ年代記」において、「二人の親しいぺテルブルグ人がどこかで出会って、挨拶を交わしたあと、『声を合わせたように、何か新しいことはないか? とたずねると、どんな声の調子で会話が始まったにせよ、しみいるような憂鬱な気分が感じられる』」と書いていた。石川啄木も一九一〇年に起きた大逆事件の頃にエッセイ「硝子窓」で、その頃、若い人々の間で、「何か面白いことは無いかねえ」がはやり言葉になり、「“無いねえ”、“無いねえ″、そういって口を噤むと、何がなしに焦々した不愉快な気持ちが滓(かす)のように残る」と書いていたのである。

 比較文明学の視点からロシアと日本の近代化を比較した山本新は、「一〇〇年以上の距離をおいて二つの文明のあいだに並行現象がおこっている」と分析していた( 山本新著、神川正彦・吉澤五郎編『周辺文明論――欧化と土着』刀水書房 )。司馬遼太郎も『坂の上の雲』を書き終えた後では、「自分たちは西のほうに行けばロシア人だといってばかにされるけれど、東に行けば自分たちは西洋人でもある」とドストエフスキーが言っていたはずだと先のエッセイで書いている。この時、司馬遷太郎は強い近代化(欧化)への圧力の中でロシアの知識人もまた、「拝外と排外」という心理の揺れを持っていたことを認識したのであり、名誉白人であることを望む日本人の心理にもロシア人の場合と同じような「欧化と国粋」のねじれがあることに気付いたと思える(高橋誠一郎『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』のべる出版企画、二〇〇二年、第二章参照)。

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