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(10)第一次世界大戦での「チェコ軍団」の動向とシベリア出兵の問題

(10)第一次世界大戦での「チェコ軍団」の動向とシベリア出兵の問題

前回はオーストリア帝国からハンガリーへの派兵の要請を受けたニコライ一世が、1849年に10万を超えるロシア軍を派遣していたことを見たが、『若き日の詩人たちの肖像』第一部の題辞で『白夜』冒頭の文章を引用した後で重苦しい昭和初期を活き活きと描き出した堀田善衞は、1970年に発表した小文「『白夜』について」では、「ドストエーフスキイの後期の巨大な作品のみを云々する人々を私は好まない。それはいわばおのれの思想解明能力を誇示するかに、ときに私に見えて来て、そういう『幸福』さが『やり切れなく』なって来るのだ」と記している。

この文章は彼がハンガリー出兵の前に発表された『白夜』という作品が持つ重みを深く認識していたことを示しているばかりでなく、ハンガリー出兵と1918年のシベリア出兵の類似性をよく理解していたと思える。

「なぜならば、エッセイ「砂川からブダペストまで――歴史について」(一九五六)で、「砂川町での基地反対運動についてだけでなくソ連軍によるハンガリー動乱の鎮圧についても言及した堀田は「歴史を重層的なものとして見る」ことの重要性を強調しているからである」(『堀田善衞とドストエフスキー』、45頁)。

実際、フランス2月革命の影響が国外の諸民族にも波及し始めるとニコライ一世は、「不遜極まりなき暴挙」が、「朕の統治するロシアの神を冒涜せん」としつつある今、「われらが正教徒たる先祖の遺訓に基づき、全能の神の助けをもとめて、朕はわが外敵の出現するところ、労をいとわず、進んで迎え撃つ覚悟であり」、「わが国境の不可侵権を擁護する所存である」としてハンガリー進軍の内命を三月一四日(ロシア歴二六日)に出し、さらにはペトラシェフスキー会の内偵も始めていた*3。」(『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』、167~168頁)

一方、第一次世界大戦の末期に行われた連合軍と日本軍によるシベリア出兵は「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」ことを名目として、革命政府の打倒のために軍隊が派兵された。

なぜシベリアに「チェコ軍団」がいるのだろうか。細谷千博『シベリア出兵の史的研究』によって簡単にその経緯を確認しておきたい(129~133)。

「多年オーストラリア帝国の圧政の下で早くから民族意識に目覚め、民族的自由を獲得する運動を継続していた」チェコ人とスロヴァキア人にとって、「第一次世界大戦の発生は民族的独立を達成するための得難い機会」と映り、「両民族は続々とロシア側に投降」して、「その数は五万人にも達した。」

ソヴィエトとドイツとの停戦協定が成立すると「チェコ国民評議会(在パリ)とフランス政府との間には」、オーストリアとの戦闘のために「チェコ軍団をフランスの最高指揮官の下に属しめ、これをフランスに転送する」との協定がまとめられ、ソヴィエト軍の指揮官も「シベリア経由でロシアを去る」ことを許可して、5月末にはウラジオストックに1万人が到着した。

しかし、シベリアで反革命軍が活動を始めたことを警戒したソヴィエトが行く先の変更などを求めたために、長く待たされたことや武器の放棄を求められた「チェコ軍団」と赤軍との武力衝突が始まり、チェコ軍はペンザ、オムスク、サマラなどの都市を占領し、それらの都市では5月末から6月初旬に反ボリシェヴィキ政権が樹立されていた。このように見てくるとき「チェコ軍団」は、「革命軍によって囚われた」どころか、「革命軍に到る所で勝利していた」のである。

シベリア出兵をテーマとした堀田善衞の長編小説『夜の森』(1955)でも先陣として派兵され、8月13日にウラジオストークに上陸した小倉の歩兵第14連隊の巣山忠三・二等兵の日記の冒頭でも、「ウラジオでの大隊長の訓示によると、チェック・スロヴァキアの軍がウラジオでことを挙げ、過激派を我が陸戦隊とともに七月初旬に追っ払ってしまった」ことが描かれている(『全集』3巻・149頁)。

さらに、「我々日本軍は、聯合与国とともに国際警察隊をかたちづくっているのであって、われわれの行動作戦は、警察行動というのが建前である」という聯隊長の訓話や主人公が看護にあたった少尉の「今度の出兵は、日清日露などとはまるきり性質のちがう、出兵で」あり、「日本の王道主義を世界にひろめる思想の戦争」であると主人公が看護にあたった少尉に、「今度の出兵は、日清日露などとはまるきり性質のちがう、出兵で」あり、「日本の王道主義を世界にひろめる思想の戦争」(『全集』3巻・359)であるという言葉の記述もある。

これらの言葉は「日本浪曼派」の保田與重郎が「八紘一宇」などの理念が唱えられた「満州国の理念」を、「フランス共和国、ソヴエート連邦以降初めての、別箇に新しい果敢な文明理論とその世界観の表現」と讃えていたことや太平洋戦争に際してはそれまでの「日・満州・支」に東南アジア、インド、オセアニアの一部を加えた範囲が「大東亜共栄圏」とされたことを思い起こさせる。

しかし細谷によれば、日本軍の出兵数は一万二千以下であり、ウラジオストック以外の方面に出動したり」することは決してないと約束したにもかかわらず、重要な軍事拠点のブラゴヴェシチェンを占領してイルクーツクまで進出し、10月末には日本軍の人数は7万2千に上っていたのである。

さらに、この長編小説ではピカライ金山やメリワン金山の戦いも描かれているが(『全集』3巻・176、178)、それらの金山をめぐる攻防は、「過酷な軍政か反動的な傀儡政権の樹立を通じて行われ、戦争遂行のための物資と労働力の一方的な収奪に終始し、〈共栄圏〉の美名にはほど遠かった」太平洋戦争を先取りしていた観すらある(岡部牧夫「大東亜共栄圏」『世界大百科事典』平凡社)。

チェコスロヴァキア事件にふれたイギリスの詩人W・H・オーデンの詩の内容から画家ゴヤの『わが子を喰うサトゥルヌス』の絵を想起したと書いていた堀田は、「毎日新聞」朝刊に掲載されたエッセイ 「『戦争の惨禍』について―乾いた眼の告発―」(1971年 11月11日)では、「私がはじめてこの版画集を見たのは、支那事変中のことであった。『南京虐殺事件』という言葉が、密々に、どこからともなく耳に聞こえはじめていた頃のことであった」(『全集』16巻・378頁)と書いている。

堀田が短編『『「ねんげん」のこと』(一九五五)で主人公に証言させているように、「五族協和」などのスローガンを掲げて建国されたこの「新天地」には、阿片を販売するための「阿片管理部」という機関が作られており、朝鮮には「阿片、ヘロイン、コカインなどを精製する大工場」があったのである。

さらに、堀田善衞の『夜の森』で主人公からロシア革命について尋ねられた通訳の花巻に、「戦争と米価騰貴に疲れ、不平不満の民衆一揆みたいに立ち上って、これと職工や兵隊がいっしょになって米騒動が革命になったのですよ」と説明させた堀田は、1919年には「人の数でなら米騒動の上をゆくような大騒動」が韓国でも起きていたと三・一独立運動についても伝えさせている。帰国直前に得た6月30日の日本の新聞記事で中国の五四運動について知ったことも記されている(『全集』3巻・281~282頁)、

それらのことに留意するならばこの長編小説で記されているシベリア出兵時に占領した地域が驚くほど後の「満州国」の版図と重なっていることが分かる。『夜の森』はシベリア出兵から満州事変を経て太平洋戦争に至るその後の日本の歴史の骨格を見事に示唆していたのである。

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