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(3)、磯部浅一の「行動記」と裁判をめぐって

(3)、磯部浅一の「行動記」と裁判をめぐって

 2・26事件の首謀者の一人・磯部浅一は、「行動記」で「余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであろう」と記し、この文章を引用した三島由紀夫は、子供の頃に遭遇したこの事件の印象を「その雪の日、少年たちは取り残され、閑却され、無視されていた」が、「事件から完全に拒まれていた」ことが「その悲劇の客人たちを、異常に美しく空想させたのかもしれない」と「二・二六事件と私」に記している。

一方、2・26事件の前日に受験のために上京して来た若者を主人公とした堀田善衞も『若き日の…』で「まったくの偶然であったのだが、若者が引っ越したこのアパートの隣室に2・26事件のときの首謀者中の首謀者であったⅠという男の未亡人が住んでいた」と記し、磯部浅一の裁判についてこう記述している。

「Ⅰはすでにその年の八月十五日に銃殺刑を執行されてしまっていたはずであったが、Ⅰは十九名の死刑になった首謀者のなかでも、裁判中も、終始はげしく抵抗し、軍の首脳部もまた一時彼らの青年将校たちの行動に同調し、支持さえした点をあげて、陸軍大臣の告示や戒厳命令に関係のあったぜんぶの軍事参議官もまた同罪である、と痛烈に弾劾をしつづけたので」、「重要証人として八月の十九日まで執行の延期をうけていたのである。」

そして、右翼係りの刑事から聞かされた未亡人の行動についてもこう詳しく記している。「まだまだ若い未亡人は、夫の収監されていた代々木練兵場に特設された法廷と収監所とをかねたバラックの近くの、このアパートを選んだのであった。そうして夫の死後、軍首脳部弾劾と裁判の違法性について縷々(るる)と綴られたⅠの遺書を入手し、夫人はこれをある右翼の新聞記者とはかって写真で複写をし世上に流布させようとした。

 もっとも、これらのことは、すべてⅠ未亡人を監視するために、隣室の住人である若者の部屋へしばしばやって来た右翼係りの刑事から、折にふれて聞かされていたことなのである。若者としても、偶然のこと、とはいうものの、まったく異様なところへころがり込んだものであった。(……)刑事は三日にあげずやって来た。刑事はこれらの青年将校たちにはすこぶる同情的で、時にはⅠ未亡人の私用を弁じてやったりもしていたが、なんにしてもそれは若者にとっては閉口、迷惑、この上もないことであった。」

 この記述からは堀田が磯部裁判に強い関心を持っていたことが推測できるが、ここでも焦点を磯部のみに当てるのではなく、この記述の前後に従兄から密かに「赤旗」の入ったカバンを預かってほしいと頼まれて激しく動揺したというエピソードも挿入している。

「しかし従兄には、そういう者が来るなどとは、敢えて言わないことにした。隣室に、そういう女性がいることはかつて雑談のあいだに告げたことがあったが、彼女がそこまでの厳重な監視をうけていることは言わなかったのである。それに、燈台下暗し、ということがある。かえって安全であるかもしれないではないか、と異様な具合に腹をきめて、若者は、「わかった。いいよ」/ と言ってその風呂敷包みを従兄からうけとり、学校へ通うときのカバンのなかに」押し込んだ。

こうして、堀田は磯部の裁判を描くだけでなく、警察での拷問により体を壊して表向きは転向していた従兄から預けられたカバンに入っていた「赤旗」の記事における2・26事件の記事にもふれることで、磯部を「英雄化」せずに相対化して考えようとしたのだと思われる。

しかも、堀田は預かっていたカバンを従兄に返してほっとしていた主人公が、何の理由も告げられずに逮捕され、「物品のように」どさりと留置場へ放り込まれて一三日間拘留されたのは、満州国皇帝来日の予備拘禁であったと記している。

「日本浪曼派」の保田與重郎は「『満州国皇帝旗に捧ぐる曲』について」で、「満州国の理念」を「フランス共和国、ソヴエート連邦以降初めての、別箇に新しい果敢な文明理論とその世界観の表現」と讃えていたが、堀田は武力による満州国の建国はその後の日本の政治や法律をも変えて「無法が法の名において」行われ、無謀な戦争の拡大へと突き進ませることになったことを明確に描写していたのである。

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