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ドストエーフスキイの会、260回例会(報告者:伊東一郎氏、清水孝純氏)のご案内

ドストエーフスキイの会、260回例会(報告者:伊東一郎氏、清水孝純氏)のご案内

しばらくご案内が途切れていましたが、「ニュースレター」(No.161)より一部編集して転載します。

260回例会のご案内 (当会会員限定のZoom(オンライン)にて開催)。 

日 時2022年1月23日(日)午後2時~5時         

〇報告者:伊東一郎 氏

題 目: 〈声〉とは何か ―バフチンにおける「ポリフォニー」概念両義性について

〇報告者:清水孝純 氏

題 目:『死の家の記録』を読む

 〇 例会の参加方法 : Zoomによる参加希望者は、1月17日(月)までに、受付用アドレス<kaidost@yahoo.co.jp にメールを送信してください。非会員で、会員の紹介による場合はその旨お書き添えください。1月20日(木)<予定>に返信メールでZoomログイン用URLをお知らせします。 なお前回例会参加者には自動的に送信します。

報告者紹介

伊東一郎(いとう・いちろう) 1949年生。早稲田大学名誉教授。ロシア文学、ロシア音楽文化史、スラヴ比較民族学専攻。著書に『ガリツィアの森―ロシア東欧比較文化論集』(水声社、2019)、『マーシャは川を渡れない―文化の中のロシア民謡』(東洋書店、2001)、共編著に『ドストエフスキーとの対話』(水声社、2021)、訳書にミハイル・バフチン『小説の言葉』(平凡社ライブラリー、1996)など。

清水孝純(しみず・たかよし) 夏目漱石とドストエフスキーとのかかわりから出発し、其の後軸足をドストエフスキ―研究に移し、国際ドストエフスキー・シンポジウムにも参加、発表を行ってきた。『罪と罰』研究で第1回池田健太郎賞受賞。現在『悪霊』論を準備中。『カラマーゾフの兄弟』論3巻がある。今後『未成年』論も予定している。

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第260回例会報告要旨

〈声〉とは何か―バフチンにおける「ポリフォニー」概念の両義性について    

バフチンの文学理論において「ポリフォニー」は「カーニヴァル」と並んで最も人口に膾炙した術語だが、バフチン自身がその著作の中で明確な概念規定をしていないために、その後の文学批評においてもきわめて恣意的に用いられ、また様々に拡大解釈されている術語である。今回の発表の目的は、バフチンがそのドストエフスキー論で提起した「ポリフォニー」という音楽学から借用した術語(このことはこの術語が「ホモフォニー」と対比的に用いられていることから明らかである)をバフチンがどのような意味と意図を込めてその論で用いたかを検証し、その理論的射程を測ることにある。

 音楽学的なポリフォニーの構成要素は客観的に同定できる〈音=音響〉であり、その限りでは、「ポリフォニー」は形式主義的概念である。しかしバフチンの「ポリフォニー」の構成要素たる「声」は、主体=人格の表現としての「声」なのであり、意識、視点などの多義的な意味論的負荷をになっていることから、バフチンの「ポリフォニー」概念の内実は複雑なものになっている。本報告では、音楽における「ポリフォニー」と「ホモフォニー」の区別を実例を示しながら具体的に明らかにした上で、この術語が形式と現象の二重性を指し示すためにバフチンによって戦略的に用いられていることを明らかにする。

周知のようにバフチンのドストエフスキー論には『ドストエフスキーの創作の諸問題』と題された1929年刊の初版と、『ドストエフスキーの詩学の諸問題』と改題されて1963年に出版された第2版がある。第2版は『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』(1965)で展開されているカーニヴァル論で初版を大幅に増補したものであるが、バフチンのポリフォニー論は初版において、カーニヴァル論に先行して、それとは独立して成立しているものであるから、本発表では問題を「ポリフォニー」に限定して話を進める予定である。

『死の家の記録』を読む

今回の発表のテーマは「『死の家の記録』を読む」です。この記録はいうまでもなく、ドストエフスキーのオムスク監獄での4年間の体験を基にしたものですが、一般的にいってその自伝的性格から、ドストエフスキーのその後の作品との関係で論じられてきたように思われるのですが、どうでしょうか。それはそれでよいのですが、ただそれではこの記録のもつ美しさ、面白さが減じてしまうようなきがするのでが。たとえば、囚人たちの入浴の場面です。濛々たる蒸気立ち込める中で囚人らの負ったおぞましい傷痕が生々しい鮮やかさを帯びて浮かび上がる。これは醜悪極まりないものでしょうが、囚人らの恐るべきエネルギーにささえられて、なにかしら感動的な光彩を放つことになるのです。ユダヤ人イサイフォミッチの話はこれまた全く異なる種類の話ですが、ユダヤ民族の特性をよくあらわしたものです。第1部の終わりにくる「芝居」は囚人らによる、ヴォードヴィル劇(軽い喜劇)ですが、ナンセンスに近い劇を囚人らが演ずるというもので、何とも罪のないものです。観客にあたるドストエフスキーは、通常の劇場でも同じものを見たが、囚人たちの演ずるヴォードヴィルの方がよかったとほめているのです。演劇といういわば虚の空間に自己を投げ込み、他者を演ずるということの、教育的効果もそこに潜在しているのではないでしょうか。

 第2部になるとトーンはかなり変わるように感じます。というのも語り手が入院することによって、語りは思索的瞑想的になると言っていいでしょう。語り手は第1部の「緑の街」について、その執行者の恐るべき欺瞞をも告発するのです。さらに文中挟まれた、一つの語りの残酷さの中には、のちのドストエフスキーの描く人間の二重性の恐ろしさが引きだされているようにも思うので第2部は後期作品群への原衝動を秘めたものではないでしょうか。

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

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