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ポルトガル

年表4、応仁の乱から徳川幕府の成立まで

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司馬遼太郎と時代小説――「風の武士」「梟の城」「国盗り物語」「功名が辻」を読み解く』 (のべる出版企画、2006年)

 

年表4、応仁の乱から徳川幕府の成立まで 

西暦        年号       【】内には外国での出来事を示し、青い字で記した。

1467年(文明九) 応仁の乱(~1477)が始まる。 

1492年(明応元)    【スペインでレコンキスタ(再征服運動)終了】。

1527年(大永7)  斎藤道三、 国主の弟土岐頼芸を国主にすえる。

1534年(天文3)  織田信長(~1582)誕生。ヘンリー8世、、「国王至上法」を発布、イギリス国教会を分離成立】

1541年(天文10) 斉藤道三、国主土岐頼芸の嫡子を国外追放。

1542年(天文11) 斉藤道三、国主土岐頼芸の居城大桑を攻めて、追放。

1545年(天文14) 山内一豊(以下、一豊と略記)、尾張黒田に誕生

1547年(天文16) 尾張の織田信秀が稲葉城(金華山城)を攻めるが、落城せず。 【イワン4世(雷帝)、ツァーリとして即位】。

1552年(天文21)  【イワン4世、カザン-ハン国を併合】。

1553年(天文22) 4月織田信長、尾張冨田聖徳寺にて斎藤道三と会見。

1556年(弘治2) 斎藤道三、死亡(63歳)。イワン4世、アストラ-ハン国を併合。対外膨張へ】。

1557年(弘治3)       【ポルトガル、マカオを建設】。

1559年(永禄2) 信長、尾張統一。一豊の父が戦死。流浪始まる。エリザベス一世、「国王至上法」を法制化】。

1560年(永禄3) 桶狭間の戦。

1562年(永禄5)    【ユグノー戦争(カルバン派とカトリック派の抗争)始まる(~1598)】。

1567年(永禄10) 信長、斎藤龍興を攻め落とし、稲葉山城に入る。一豊、このころ信長方につき、千代と結婚。

1568年(永禄11) 9月、信長、足利義昭を奉じて上洛。10月、諸国の関所を撤廃させる。 京都に南蛮寺ができる。

1569年(永禄12) 4月、信長、フロイスに布教を許可する。

1570年(元亀元) 4月、信長朝倉義景を攻めるが、浅井長政の離反により退却。一豊、金ヶ崎城の戦に参戦。6月、姉川の合戦、9月、本願寺光佐(顕如)、信長陣営を攻撃(石山戦争始まる)。大村領長崎、教会領となる。11月、伊勢長島一向一揆、織田信興を殺す。

1571年(元亀2) 5月、信長、長島一揆の攻撃を開始。9月、比叡山焼打ち。スペイン、マニラ市を建設】。

1572年(元亀3) 12月、武田信玄、家康を遠江三方ヶ原に破る(三方ヶ原の戦い)。

1573年(天正元) 4月、信長、義昭を二条城に囲む。両者勅命により和睦。武田信玄没(53)。7月、(室町幕府滅亡。8月、信長、越前近江を攻略、朝倉義景自殺(41)、浅井長政、近江小谷城で自殺。浅井・朝倉滅亡。

1574年(天正2) 4月、本願寺光佐(顕如)、兵を挙げて信長の属城を攻める。9月、長島一向一揆、信長に降伏を申し入れる。信長これをうけつけず皆殺しにする。

1575年(天正3) 一豊、秀吉に従い長篠の戦に参加。

1576年(天正4) 2月、安土城が完成。4月、本願寺光佐(顕如)、義昭と通じ、石山城に拠って信長に反抗。

1577年(天正5) 2月、信長、紀伊雑賀一揆を攻める。6月、安土城下を楽市とする。 10月、一豊、秀吉に従い播磨に出陣。 【スペイン、ルソン島占領】。

1578年(天正6) 3月、上杉謙信没(49)。別所長治、本願寺と結び、反信長決起。11月、荒木村重、信長に叛く。

1579年(天正7) 3月、長宗我部元親、四国を制覇。5月、安土城天守閣できる。安土宗論行なわれる。7月、光秀丹波を平定。

1580年(天正8) 1月、三木城別所長治一族、秀吉に攻められ滅ぶ。閏3月、本願寺光佐(顕如)、信長と和睦。6月、イギリス商船、平戸に来航。

1581年(天正9) 2月、信長、京都で馬揃えを行ない、正親町天皇やヴァリニアーノこれに臨む。 8月、信長、高野聖千余人を斬る。10月、秀吉、鳥取城を陥す。信長、ヴァリニアーノに学校建設を許可。

1582年(天正10) 6月、本能寺の変。一豊、秀吉に従い山崎の戦に参加。

1583年(天正11) 一豊、秀吉に従い賤ヶ岳の戦に参加。  【女真人ヌルハチ挙兵(→『韃靼疾風録』)】。

1584年(天正12) 4月、織田信雄、家康と結び、小牧長久手の戦い。8月、秀吉、大坂城に移る。  11月、秀吉、信雄と和睦する。12月、秀吉、家康と和睦する。

1585年(天正13) 7月、秀吉、関白になり、姓を藤原に改める。8月、長宗我部元親、秀吉に降る。9月、秀吉、明国への侵攻を公言する。この年、聚楽第着工する。一豊、長浜2万石城主となるが、ひとり娘を長浜大地震で失う

1586年(天正14) 12月、九州動員令下される。秀吉、太政大臣となり豊臣の姓を受ける。

1587年(天正15) 6月秀吉、キリシタン禁制を発布。10月、北野に大茶会を催す。

1588年(天正16) 1月、秀吉が義昭に1万石の知行を与える。5月、長崎からキリシタンを追放。7月、刀狩令。この年、天正小判を鋳造。イギリス、スペインの無敵艦隊を破る】。

1589年(天正17) 9月、秀吉、諸大名に妻子の在京を命じる。11月、北条氏に宣戦布告し、諸大名に動員令を下す。秀吉、京都のキリスト教寺院を焼く。淀が鶴松を出産。ブルボン王朝始まる(フランス革命などで中断、~1830年)】。

1590年(天正18) 一豊、北条攻めに参加。近江掛川の5万石城主となる。

1591年(天正19) 2月、千利休自殺。8月、身分固定法令発布。9月、秀吉、フィリピンに入貢を求める。朝鮮への動員令くだる。12月、秀吉、関白職を秀次に譲る。鶴松、没。   

1592年(文禄1)  1月、秀次の名で各軍の役割を定める。3月、秀吉、名護屋に向う。    4月、秀吉が朝鮮に兵を出す(文禄の役)。小西行長、釜山を陥す。5月、漢城(ソウル)を占領。

1593年(文禄2) 8月、淀が秀頼を出産。

1594年(文禄3) 12月、小西行長、明皇帝に謁し、和議を約す。この年、キリスト教徒を京都・大坂で捕え、長崎で処刑。

1595年(文禄4) 7月、秀次、高野山で切腹。9月、長曾我部元親、土佐で検地

1596年(慶長1) 1月、秀吉、明使と朝鮮王子の来日を要求。9月、和議成立せず。秀吉、再出兵を決める。スペイン船サン=フェリペ号、土佐に漂着。11月、キリシタン26人を長崎で磔殺する。

1597年(慶長2) 1月、秀吉、再び兵を朝鮮に送る(慶長の役)。3月長宗我部元親100箇条成立。

1598年(慶長3) 秀吉、没。リューリク朝断絶し、ボリス・ゴドゥノフ即位、動乱の時代始まる(~1613)】。

1600年(慶長5) 一豊、会津征伐のため掛川を発する。小山軍議で家康への忠誠を示す。9月、関ヶ原の戦。11月、一豊、土佐一国を授かる。12月、土佐で浦戸一揆。

1603年(慶長8) 江戸幕府開設(~1867)。8月、土佐で滝山一揆。     

1604年(慶長9)  【ロシアで偽ドミトリー1世出現】。

1605年(慶長10) 一豊、没。

1613年(慶長18) 【ロマノフ朝成立(~1917)】。

1614年(慶長19) 大坂冬の陣。

1615年(元和元) 大坂夏の陣。豊臣家滅亡。

1616年(元和2) 家康、没。

なお、本年表は藤木久志『天下統一と朝鮮侵略』(講談社学術文庫)の年表を中心に、渡部淳『検証・山内一豊伝説』(講談社現代新書)、『新日本史主題史年表(改訂版)』(清水書院)、『新世界史主題史年表』(清水書院)岩間徹編『ロシア史』(山川出版社)などを参照して作成。

幕末の歴史については、年表Ⅱの「坂本龍馬関連年表(1809~1869)」参照。