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ゴロソフケル著、木下豊房訳『ドストエフスキーとカント――「カラマーゾフの兄弟」を読む』(みすず書房、1988年)

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ドストエフスキーは一七才の時兄ミハイルへの手紙において「いいですか、詩人はインスピレーションに駆られた時、神の謎を解きます。したがって哲学の任務をはたすわけです…中略…したがって哲学も詩と同じものです、ただ程度が高いだけです!」と記している。

彼自身が「だらけた哲学表現」であると認めているようにこの手紙における論旨の展開は明快さを欠いているが、哲学擁護の根拠は明らかである。すなわちドストエフスキーは理性が「知識の領域に熱中すると感情、したがって心情から離れて行動する」性質をもつものであることを認めつつも、「はかない表皮を通して霊魂の組織へ思想を導いていくもの」としての理性の働きを積極的に認めようとしているのだ。こうして彼は「より多く知るためには、より少なく感じなければならず、その逆もまた真なり」として心情と理性を両立しにくい対立するものととらえた兄ミハイルの論理を「詩人のごとき哲学論」と呼び、「軽率な定義で、心情のうわごとです」ときめつけ、理性的認識をも含む哲学を詩よりも高い位置に置いたのである。

そして、哲学にたいするこうした強い関心と高い評価はドストエフスキーの生涯を通じて変わることはなかった。一八五四年、シベリアでの四年間の囚人生活を終えたドストエフスキーは早速コーランとカントの『純粋理性批判』を送ってくれるように頼み、さらに非公式でヘーゲル、特に彼の哲学史を送ってほしいと記し「ぼくの未来はすべてこれにつながれているのです!」と続けている。

また、一八七〇年五月二八日の手紙においてドストエフスキーは「小生は哲学のほうではだめな人間です」と記しつつ、「しかし、(それは)哲学に対する愛の点ではありません。哲学に対する愛は強烈です」と書いている。そして最後の長編『カラマーゾフの兄弟』ではドミートリイに「カラマーゾフ家の人間はな、卑劣漢じゃなく、哲学者だよ、なぜって本当のロシア人はみんな哲学者だからな」と語らせている。

こうして、ドストエフスキーにとって方法としての文学は、哲学的方法を排除するものではなく、かえって哲学を志向するものですらあると言えるだろう。

ここで紹介するゴロソフケルの著『ドストエフスキーとカント』は、推理小説的な手法で『カラマーゾフの兄弟』を分析しながら、ドストエフスキーとカントを対置させドストエフスキーの哲学的な関心の意義を明らかにする好著である。

ただ本書の性格上、『カラマーゾフの兄弟』の知識が前提になっているので、私達も、『カラマーゾフの兄弟』の内容を概観しながら本書の内容へと入っていきたい。『カラマーゾフの兄弟』は推理小説的な構造を持つ長編小説である。そこでは、高利貸老婆殺しが問題となっていた『罪と罰』と同じように反道徳家で好色な老人の殺害が問題となっている。だが、『罪と罰』においては単なる他人であった老婆は、実の父親フョードルと交代し、さらに、非凡人の思想に駆られて、犯行に走ったラスコーリニコフは(神がなければ)すべてが許されると考えるイワンの形象へと発展した。さらに、フョードルの子供達に、乱暴だが豊かな感受性を持つミーチャ、純粋なアリョーシャ、さらに皮肉な庶子のスメルジャコフを配することによって、同じ悩みを共有する彼らの内面的な苦悩や対話を通して、思想の一層の深まりを加えている。

殊に、父フョードルと息子ミーチャ(ドミートリイ)が同じ女にほれ込み、いつ殺人が起きても不思議ではないような緊迫した状況と、殺人者が終末近くまで分らない推理小説的構造は読者をして、登場人物と共に考え込ませるような吸引力を持っている。さらにイワンの理論に従って父を殺したスメルジャコフの「主犯はあなたですよ。ぼくはただあなたの手先です」という言葉とイワンの発狂は、思想の責任を鋭く読者に問いかけるものであった。

 

さて、本著は次のような章から成り立っている。

第一章  カラマーゾフ老人を殺したのは誰か?

第二章  殺人犯は身代り

第三章  「秘密」と「神秘」

第四章  かげの主人公――テーゼとアンチテーゼ

第五章  主人公の仮面をかぶったテーゼとアンチテーゼの決闘

第六章  カント的アンチノミーの主人公、イワン・カラマーゾフ

第七章  科なくして罪ありとする判決

第八章  「理性の避けがたい錯覚」という怪物、そして良心の犠牲者としての錯覚の犠牲者

第九章  悪魔自身にも秘められた最後の秘密

第十章  小説の「深淵」と「真実」

第十一章 解かれた秘密

結び

 

以下、章を追ってなるべく忠実にこの書を紹介することで、本書の特徴と意義に迫りたい。(括弧内に記した半角のアラビア数字は本書からの引用ページを示す)。

まず第一章から三章までは、序論とも言ってもよく、一見ドストエフスキーとカントという結び付きがたい二者を関連づけ、同一のレベルで論じるための欠かすことのできない準備作業であると言えよう。

第一章では、ドストエフスキーが殺人の実行者としてスメルジャコフを明白に名指ししながらも、しかしそのスメルジャコフ自身を始めとして登場人物のいずれもがスメルジャコフが単独で犯行をなし得たとは考えておらず、しばしば犯罪にかかわるものとして悪魔が挙げられていることに注意をうながす。

すなわち、筆者はスメルジャコフが「主犯はあなたですよ。ぼくはただあなたの手先です」とイワンに語る一方で、イワンもスメルジャコフに「それじゃ…それじゃ、つまり悪魔がおまえに手伝って」殺させたんだと言い、さらにミーチャも「ああ、あれは悪魔がやったのだ。悪魔がおやじを殺したのだ。悪魔のおかげであなたがたもこんなに早く知ったのだ」と語っていることを紹介しながら、「殺人犯=悪魔というテーマ」(8)がミーチャによっても展開されていると述べている。

こうして氏はドストエフスキーが読者を「遂行された犯罪の形式的な事実の領域だけ」にとどめてはおらず、「良心の世界の領域、心の領域」へと誘導していると述べ、それは「殺人犯を、そこの領域で読者に探させるためである」(19)と主張している。

第二章では、まずイワンとスメルジャコフとを対比させ、「スメルジャコフの哲学は、本質的にはイワン自身の哲学なのである。はじめはそれは『すべてはゆるされる』という理論にすぎなかったが、のちには実行、つまり殺害へ具体化される理論となる」と述べ、さらに「ドストエフスキーにあって、『すべてはゆるされる』という定式のもとに隠されているのは、単に哲学一般ではなく、ヨーロッパ最大の哲学体系の一つなのだということ」を確認しながら、スメルジャコフばかりでなく、悪魔とも「イワンが同一の哲学の持ち主である」ことに注目して、「悪魔とスメルジャコフの哲学的見解は一致する」(27)ことを指摘する。

そして、イワンが悪魔に対して「おまえは夢だ、おまえは幻だ」というばかりかスメルジャコフに対しても「おまえが夢のような気がして・・・お前が幻じゃないかと思えて・・・」と語っていることに注目し、「イワン自身にとっては悪魔とスメルジャコフは一つにまじり合うように」見えると言い、たとえば「あいつ(悪魔――筆者註)はぼくを臆病者呼ばわりしやがった…中略…スメルジャコフも同じことがあったな」などの言葉を原作から丹念に抽出して悪魔とスメルジャコフとの類似点を浮彫りにしている。

そして最後に「スメルジャコフが生きている間は、悪魔は半ば暗示的に、謎めいて『あいつ』といった無名氏の形で、たえず読者のまえにちらついているだけであったが、スメルジャコフが死ぬと、悪魔はとたんに姿形をもち登場人物として」、「はっきりと姿を現わす」ことを指摘して、スメルジャコフは「悪魔の身代わりであって」「唯一の張本人は、作者の隠された意図からすれば、悪魔以外の何物でもない」(39)と主張している。

第三章では、「おれはここで秘密にすわって、人の秘密を見張ってるんだ。その理由はあとで話すが、秘密、秘密と思っているもんだから、急に口をきくのまで秘密になって」というミーチャの言葉などを引用しながら、この小説には「肯定的な」意味あいを持つ「神秘」という語とともに「否定的な、警戒心をかきたてるような」意味あいの「秘密」という語が多用されていることを指摘し、「主として『秘密』はカラマーゾフ老人殺害を中心に、その『悪魔の仕業』を中心にその周辺を回転している」(45)といい、読者はこの長編小説を読み終えてから「悪魔の秘密」に到達できると指摘する。

そして、ミーチャのアメリカ逃亡計画を分析しながら、「悪魔というのはあの世からの来客ではなく、イワンと悪魔の会話は、二人のイワンである分身同士、もしくはイワンの二つの側面の相互の会話である」(55)ことを確認し、「分裂の問題は、ここでは精神病理学的なものではなく、哲学的なものである。ここでの問題はただ単に二つの敵対的な世界観の問題ではなく…中略…本質的には弁証法の問題ですらある」(57)と指摘しながら、「カラマーゾフ老人殺害の唯一人の犯人である殺人者=悪魔が身を隠しているのはカントの『純粋理性批判』という僻遠の秘密の隠れ家である」(58)と結論している。

そして第四章の冒頭で、「思想家は哲学の径をどこから出発してどこへ向おうとも、カントと呼ばれる橋を通らなければならない」(60)と指摘しながら、「矛盾論」の有名な四つのアンチノミー(二律背反)に触れて、それは「カントの考えによると、経験によっては実証することも覆すこともできず、理性もそれと手を切るには無力なのである」(62)と説明を加えながら、「ドストエフスキーは『純粋理性批判』の矛盾論を知っていたばかりでなく、それを深く考察し」「それをにらみながら、小説の劇的な状況のなかで自分の論証を展開」したと述べ、ドストエフスキーは「アンチテーゼのカントと一騎打ち」をおこない、「このたたかいのなかで、小説の数多くの章に見られるような天才的な悲劇とファルスを創造した」(66)と述べている。

こうしてこの章以降では、カントの『純粋理性批判』をドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の中でどのように捉えたかが殊に「矛盾論」の中のアンチノミー(二律背反)とイワンの形象との係わりを中心に記述されている。

すなわち第四章では「四つのアンチノミーすべてをドストエフスキーは小説の中で提示している」と指摘して、それらを「一、(テーゼ)世界は創造され終末があるか、それとも(アンチテーゼ)世界は永遠で無限であるか。二、(テーゼ)不死はあるか、それとも(アンチテーゼ)不死はなく、すべては分割され破壊されるか。三、人間の意志は自由であるか、それとも(アンチテーゼ)自由はなく、あるのは自然の必然性(自然の法則)だけか、四、神と世界の創造者はあるか、それとも(アンチテーゼ)神と世界の創造者はないか」とドストエフスキー的な言葉で簡単に言い換えて示し、「カントによれば、アンチノミーのテーゼでは道徳と宗教の『礎石』が問題にされており、アンチテーゼでは科学の『礎石』が問題にされているのであるが、『カラマーゾフの兄弟』でも同じそれらの『礎石』が問題にされている」(66)と述べている。

そして「ドストエフスキーの主人公たちは、元来、単に人間にとどまらず、また知性と魂をゆさぶる芸術的形象にとどまらず、彼等はさらに問題でもあり、あるいは観念でもある」(71)といい「例えば、イワン・カラマーゾフというこの観念を伴う人間は、単に一個人としてのイワンにとどまらず、彼はさらに被加数の総和である。それはスメルジャコフでもあり、悪魔でもあり、ラキーチンでもあり、部分的にはリーザ・ホフラコーワでさえもある。彼等はみんなハンシュ派の『すべてはゆるされる』というモットーを、時には作者の毒舌『賢い人には』という句をつけ加えながらくり返す」と説明しながら、彼らが「カントのアンチノミーのアンチテーゼの体現」(72)という面を強く持っていることに注意をうながし、「カントのアンチノミーはテーゼとアンチテーゼに従って分類されているが、ドストエフスキーもまた、自己の主たる主人公たち(すなわち観念の基体)をテーゼとアンチテーゼに従い、二つの図式と項目で分類した。」と述べテーゼを体現する者としてゾシマとアリョーシャを挙げ、それに対してイワン、スメルジャコフ、悪魔そしてイワンの物語の大審問官をアンチテーゼとして挙げている。

それに続く第五章から第七章ではイワンがカントのアンチノミーの「具象化されたアンチテーゼ」という面ばかりでなく、彼が理論的関心や不可知論の面ではカントと同じ立場を取っていることが指摘されている。

第五章で著者はまずカントの「アンチテーゼの支配の下では『道徳的な理念と原則はその妥当性をことごとく失う』」という言葉を紹介しながら、それを「神と不死がなければ(第二、第四のアンチノミーのアンチテーゼ)善行は何一つない」と言い換えて、「カントのこの命題は、小説の進行の間、姿を消さない。これが小説の基本テーマであり。これがすなわち『神と不死がなければすべてがゆるされる』というイワンの定式にほかならない」(80)と指摘している。

それと共に著者は神と不死がなければ「新しい人間には〈……〉以前の奴隷的人間の以前のあらゆる道徳的限界を飛び越えることもゆるされ」(81)、さらに「人間は自分の意志と科学とによって際限もなく、刻一刻と自然を征服しながら、そのことによって天上のよろこびに対するそれまでの強い希求に代わりうるほどの、高遠な快楽をたえず感じるようになる」(86)というイワンの分身である悪魔の表現を、(アンチテーゼである)「経験論は理性の理論的関心に対して、はなはだしく我々の心をひき、理性理念を説く独断論者が約束するものをはるかに越える利益を提供する」というカントの言葉と比較しながら、ここで「ドストエフスキーは、理性の理論的関心はアンチテーゼの側にある、というカントの思想のちょっとした改作」(86)をやってのけていると述べている。

さらに、ゴロソフケル氏はこの章でカントにおける「虚しい幻」や「傲慢な主張」という用法に対応するような言葉をドストエフスキーも又『カラマーゾフの兄弟』で用いていることに注意を払っていたが、第六章ではイワンの言葉を引用しながら、彼がカントの表現をくり返していることを明らかにしている。

すなわち著者は、「ぼくはおとなしく白状するが、こんな問題を解く能力はぼくには少しもない、ぼくの頭脳はユークリッド的なもの、地上的なもの」だ、「だからこの世と無関係の問題なんか解けるわけがない…中略…神はありやなしや? なんてことだ。すべてこんな問題は、三次元の理解力しかあたえられていない人間にはまったく手に負えないことだ」(91)というイワンの言葉を「ここまでくれば、ドストエフスキーの『ユークリッド的頭脳』というのは、カントの『普通の悟性』と同じものであるだけでなく、経験の範囲の外にあるものを認識できない悟性一般であるということを、読者は疑えないであろう」分析し、さらに「ぼくは事実にとどまるつもりだ」というイワンの決意をも示しながら「こうして、イワンはカントのいったことをドストエフスキーの語彙で正確にくり返し、悟性にとって可想的世界、すなわち、テーゼの宇宙論的理念は認識不可能であり、理解不可能であることをのべる」(91)と主張している。

そして、著者はすでに四つのアンチノミーについて述べながら「基本的な形であますところなく読者の前に示されているのは、第四のアンチノミーのテーゼとアンチテーゼ」であり、それは「他のアンチノミーと結びつきながら、小説全体の織目を赤い糸さながらに貫いている」(70)と記していたが、第七章ではドストエフスキーが、人間の意志の自由と自然の必然性(自然の法則)とを問題とした第三のアンチノミーにも関心を払っていたと指摘している。

すなわち、自分が知っているのは「苦悩が存在するばかりで、罪人はいないということだ。すべては直接かつ単純に原因が結果をもたらし、次から次へとたえず流れ流れて平衡を保っていくということだけだ。」(97)というイワンの言葉を分析しながら、この言葉と「私たちの『責任能力』のどの側面が自由の結果なのか、どの側面が自然の結果なのか、私たちは知りえないし、判断することもできない。私たちにはその功罪は隠されたままである。」(101)というカントの言葉との類似性を指摘した後、「『この世に罪人はいない』という定式は、ドストエフスキーの場合、いわばアンチテーゼの叫び声」であり、「宗教的道徳の命題としての、『誰もが万人と万物に対して罪がある』というゾシマ長老の普遍的罪業の定式はテーゼの定式である。」(102)と述べている。

次の第八章ではイワンが理性的にはアンチテーゼに惹かれる面を持ちながらも、心情的にはテーゼの側にも共感を抱いていたことを例証して、彼も「カントと同じように、敵対しあう両者――テーゼとアンチテーゼを和解させることができず、アンチノミーの天秤棒の上で揺れ続ける」(107)と述べて、人格としてのイワンがカントに近いことに注意をうながした後、イワンの発狂に光を当てながらカントの方法を鋭く批判し、それに続く第九章および第十章では、ドストエフスキーとカントを比較しながら、彼らの違いを浮彫りにしている。

すなわち著者の考えによれば、カント自身がイワンのような立場、あるいは理論的な袋小路から逃れ得たのは妥協的な「二つの経路」によってであり、その第一は「理性に生来そなわっている、狡猾かつ自然な『避けがたい理性の錯覚』に頼ることによる認識論の経路」であり、その第二は「規則、服従、秩序の良心であって、生きた感情の良心ではない」「生ける魂を凍らせる定言的命令」なのである。イワンはカントのようには「『理性の自然的な避けがたい錯覚』の理論的な不可知論をおおい隠すことをしなかった」ので彼は「この不死で怪物的な理性の錯覚の犠牲になった」が、「イワンをこの錯覚の犠牲にしたのはカントではなく、小説の作者ドストエフスキーであって、彼はカントを粉砕するためにカントを借用したのである。」(111)と主張している。

それとともに、イワンが「『若き思想家』であるばかりでなく、『深い良心』でもある」と記し、さらに真の良心と「良心にとって代わった定言的命令」を区別して、「小説の舞台で若き思想家とたたかったのは、カントの定言的命令でも、似非良心でもなくて、本物の良心であった。アンチテーゼとテーゼの理論的なたたかいの全貌なるものは、実は本質的にいって、理論的アンチテーゼと良心そのものとのたたかいであったのである。この良心そのものは、定言的命令によっては置き替えのきかない代物なのである。」(122)と述べている。

第九章ではカントが「アンチノミーの矛盾しあう二つの命題」を「弁証法的和解(自然は無神論的であるが、神は存在する!)」によって説得しようとし、さらに「良心にとって代わった定言的命令」によって補おうとしているのに対し、ドストエフスキーは「良心の声を神の伝達者と認め」「この声を無視する者は破滅を運命づけられていることを示そうとし」、それゆえ「主人公イワンにおいて弁証法的和解を拒否した」(137)のだと述べて彼らの方法の違いを指摘し、第十章ではミーチャの形象に注意を払いながらドストエフスキーの解決法を示している。

著者はまず「知性には恥辱としか映らないものが、感情には完全に美と思えるんだからなあ」というミーチャの言葉を引用しながら、「イワンにおいて、作者はアンチノミーを解決不可能の矛盾として提出したが、同様にミーチャにおいて、作者はそれらのアンチノミーを次のように思弁と感性の二重の面での実体化された矛盾の形で、解決されたものとして提出したのである」(145)と指摘し、「二重世界の矛盾」に対するカントとドストエフスキーの態度の違いを次のように指摘している。

「カントの観点の発端には二重世界についての前提」があり、「カントはその前提を錯覚と称しているけれども、それにもかかわらず、彼はそれを人間の理性にとって避けがたい錯覚…中略…として、人間の理性に残しておいた」(148)のに対し、ドストエフスキーは「この錯覚を実在として受け入れ」「実体化した矛盾にひそむ生活の意味を高唱」したのであり、「問題はテーゼ、またはアンチテーゼにあるのではなく、それらの永久の決闘にある。それはミーチャにとっては秘密と神秘の結合であり、悲劇的で悪魔的な美としての生活を彼に開いてくれるものなのである。…中略…そしてミーチャの巨人的な魂がこの生活を喜んで迎え、受け入れるのである」(149)。

誌数が尽きてきたので先を急ぐが、第十一章では本書全体の結論を確認しながら「ドストエフスキーは、思想の湧き立つ混沌のさなかで演じられる『科学』と『良心』の闘いの神話を創造したわけであるが」(163)、「道徳的な地獄、良心の苦悶に対してならば、すでにドストエフスキー以前にも深く洞察を加えた世界的な思想家や詩人、芸術家がいた。しかし知的な地獄、知性の地獄に対しては、これほど深く洞察を加えた者はドストエフスキー以前にはいなかった。それというのも、ドストエフスキー自身がこの『知性の地獄』を経験したからである。この『知性の地獄』はドストエフスキーがその悲劇としての小説の中に形象化し、人類に伝えた偉大な経験であった」(163)と述べて、次のような詩的な言葉で本書を結んでいる。

「ドストエフスキー自身は『知性の地獄』から脱却できなかったが、彼はそれでもアリョーシャに託して、未来に対する全人類的な期待――より正確にいえば、この期待への親近感を示そうとした。『道……その道は大きくて、まっすぐで、明るいクリスタルのような道で、その終点には太陽が輝いている……』」(167)。

著者のゴロソフレルは「結び」において「小説の中でカントが代表しているのは、ヨーロッパの理論哲学一般、とりわけ批判哲学であって、ドストエフスキーはそれを相手に、小説の中で意識的な闘争を開始」(171)したと述べている。

訳者の木下豊房氏は「カント哲学の多くのモチーフがドストエフスキーの小説の中で蘇り、作家の思考の体系の中にしっかりと組み込まれたがその問題を解明する仕事はまだあまりなされていない」(183ー184)というヴィルモントの言葉を引用しているが、ドストエフスキーとヨーロッパ思想との係わりを究明することは相変わらず「危機の時代」にある現代においては重要であると筆者には思える。

 (『文明』55号、1989年。2013年9月に文体レベルの改訂を行った)

 

齋藤博著『文明のモラルとエティカ――生態としての文明とその装置』(東海大学出版会、2006年)

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本書の著者である齋藤博先生(以下、齋藤氏と記す)は、スピノザ『エティカ』の共訳や『スピノチスムスの研究』(創文社)、『文明への問』(東海大学出版会)などの著作をつぎつぎと上梓されるとともに、東海大学文明学科の主任教授や文学部部長、さらには文明研究所所長などを歴任され、東海大学文明学会の発足や『文明研究』の発刊にも関わられてきた。そのような齋藤氏の長い知的な営みを踏まえて書かれたのが、「文明の系譜とその原形象をもとめて――〈くらし〉とモデル」と題されている第一部と「文明の装置とエティカ」と題された第二部から成る本著である。ただ、限られた誌面なので、ここでは「新しい戦争」の時代をむかえて改めてその重要性が浮かび上がってきている「文明のモラルとエティカ」の問題に焦点を絞りながら、紹介することにしたい(以下、括弧内に引用頁数を示す)。

序章の冒頭近くで齋藤氏は、本書における文明観が人間の歴史を「野蛮から文明へ」という「発展段階として位置づける文明史観」とは異なり、梅棹忠夫氏や司馬遼太郎氏のように「人間の文明営為を〈くらし〉の次元に遡って捉えようとする」ものであると規定している(3)。すなわち著者によれば、言語を持ち、さらに技術によって自然から「疎外」されつつも、自然を「支配」するようになった人間の活動は、ユニットとしての「文明の装置」を生み出すのである。そして「人間の営為は開かれた生態のシステムである」とする著者は、「文明の装置」の生成に参画しているだけでなく、その中で生かされている人間と「文明装置」との関係性をとおして、「モラルとエティカ」の問題を根本的な形で考察している。

たとえば、国際政治学者ハンチントンが用いた「文明の衝突」という用語が、非西欧社会からの強い反撥を招いたことはよく知られているが、「人間の文明営為について」と題された序章できわめて重要と思われるのは、齋藤氏がここで「文明の衝突」が、「文明の善と悪との衝突ではなく」、「文明のモラルの衝突」であることを示している点だろう(10)。このことは本論の各章を通してより明らかにされていく。

第1章「文明学の学問的位置づけ」から第3章「生活世界の学と文明の学」に至る章では、日常的な生活との関連に注目しながら、東海大学の建学の精神とも深く係わる「現代文明論」の学問的位置づけが試みられている。

すなわち齋藤氏は、明治初期に書かれた福沢諭吉の『文明論之概略』をも視野に入れながら、ヨーロッパ文明を受容したことからはじまる日本の近代化の過程では、「文明」が伝統的な「文化」に対置されていたことを確認しつつ、明治末期から昭和初期にかけての日本の歩みは、「福沢の<文明>コード」が、「日本的・地方的な閉じられた<文化>コード」へと転換された過程であったことを指摘している(25)。

そして、フッサールの講演「ヨーロッパ諸学の危機と心理学」が、「その根底において近代の諸学に対して生活世界からの訴えを引き受けて提起された学問論的批判を含んでいる」ことに注意を促し、現代文明の諸問題は「話し考える営みが身体性から自由ではなくその無意識的身体と不可分である」にもかかわらず、「近代的理性は身体性からの自由を理念として」おり、人間が「自然の支配者にして所有者になる」べくつとめてきたことに起因していることが明らかにされている。こうして、「現代文明論」では「日本が辿ってきた近代化の過程」やヨーロッパにおける近代化を「全体として問いなおす」作業がなされたと指摘している(26~43)。

それに続く第4章から第7章までの章では、「数学的確実性とは異なるが、なお〈学問的〉に扱われるべき確実性」として「モラルの確実性」という概念を提起しているスピノザに依拠するとともに、「裁く」という言語の機能に注目することによって、「文明営為と言語」や「文明のモラルと法/権力」などの問題が深く考察される。すなわち、人間はその地域の「風土」などの「エートスに根ざし、それに制約されながら、それぞれの生き方としてのモラルを創り」、「モラルも法/権力も社会において起ち上がりそして社会的秩序を保持」する役割を持つので、「モラルを欠いた文明は身体のない人間のようなものである」(120)ことが指摘される。

しかしそれととともに、「法はモラルを語る人間の言語としてそれ自体多様化する」ので、「法はそれぞれの文明において独自であり、相互に異なることも自明である」ことも確認される(77)。すなわち、「文明のモラルは時間的空間的に閉じられて」おり、「郷にいれば郷に従え」という諺があるように、個々の時代や各民族はそれぞれのモラルを有しているのである。

それゆえ、「日本の文明的価値として〈誠〉とか〈至誠〉といった観念は日本人の文明営為のモラルとして考えられる」が、西田幾多郎の『善の研究』を再考察した中村雄二郎氏が指摘しているように、「〈至誠〉という道徳的価値が批判的な吟味もなく正当なる目的と化してしまえば、〈誠〉のために他者を殺すということがその手段として正当化されることになる」(119)。それゆえ、ハンチントン的な「文明の理解」では、「軍国主義的な」戦前の日本に対する原子爆弾の投下や、「非民主的な」イラクに対する先制攻撃も、アメリカでは「文明の悪」への「裁き」として正当化されるが、裁かれた側の激しい不満を招いて、「文明の衝突」の連鎖が続くことになるのである。

このような事態に対して齋藤氏は、日本語では通常、「モラル」が「道徳」と訳され、「エティカ」が「倫理」と訳されることにふれつつ、「それは両者の実質的な区別には連動しない」ことを確認しながら、「モラルから区別されるエティカ」の特徴として「人間の能動性」を指摘しており、ここにスピノザ的な意味での「エティカ」が「文明の衝突」に際して要請される理由を見ている。

すなわち、イベリア半島における「レコンキスタ(国土回復運動)」に際して「当時のキリスト教のモラル」では、イスラム教徒を侵略者として殺してもよいとし、ユダヤ人の「財産とか土地を没収する」ことも認められていた。このような「モラル」によって追放されたユダヤ人を両親に持つスピノザは、「自分の利益をもとめようとする衝動」をも正当化しようとすることを『エティカ』において鋭く批判していたのである。

この意味で興味深いのは、米山俊直氏が『比較文明』に掲載した「道徳的緊張」という副題を持つ追悼文で、様々な戦争を描きながら「文明の衝突」の問題を深く考察したことで、トインビーのような比較文明学的な視点を持つようになった司馬遼太郎氏の文明論を高く評価していたことである。実際、司馬氏は作家の陳舜臣氏との対談で「民族論や国家論だけのレベルで他の国をみると、ずっと失敗してきた」と語り、「自分の特殊なものに隠れていくときに、一番甘美になる」と指摘して「日本回帰」を批判し、「普遍性を身につけることの大事さ」を強調している。すなわち、「道徳的緊張」という司馬氏が好んだ用語は、「閉じられた」モラルを指すのではなく、「閉じられたコードを批判的に開くその能動的思考」を特徴とするエティカ的な意味を強く持っていたのである。

すなわち齋藤氏によれば、「善悪といった道徳的価値の対立をもたらす体制そのものを批判的に変革する営為」であるエティカには、「文明のモラルをその根底から問う」ような役割を持ち、それゆえ「文明の衝突」を回避させうるような、「実践の理論」としての働きを担っているのである(134)。

すでに誌面が尽きてきたが、本書の第二部では神話的な「物語の論理」であると同時に「近代哲学の論理」でもあった「アルファベットによってコード化された生活のシステム」が、「呪術的共時的」な思考を伴う「テクノ画像へのコード」に変わりつつあることによって、「現代文明のモラル」の危機が生まれていることが指摘されるとともに、そのような危機に対応する新しいモラルの示唆もなされている(220)。

「グローバリゼーション」への反発から、自国の「モラル」が強調されて世界中でナショナリズムが高まる中、日本でも「閉じられた<文化>コード」への回帰が再び見られるようになっている。いささか難解な箇所もあるが、スピノザだけでなく、ニーチェ、フッサール、フーコー、ベンヤミン、デリダ、ケストラーなどの論考を踏まえて、哲学的視点から「文明のモラルとエティカ」が根本的な形で考察されている本書は、「普遍的な学」としての比較文明学の構築のために、ぜひ多くの方に読んで頂きたい労作である。

   (『比較文明』第23号、2007年)

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戦前の価値観と国家神道の再建を目指す「日本会議」に対抗するために、立憲野党と仏教、キリスト教と日本古来の神道も共闘を!

安倍首相と麻生副総理が「日本会議国会議員懇談会」の「特別顧問」を務める「自由民主党」と2015年には小池百合子代表がその副会長を務めていた「希望の党」の安保法制や憲法にたいする見方がほとんど同じであり、選挙後には大連立をするのではないかとの予測が語られ始めている。

憲法学者の樋口陽一氏は「敗戦で憲法を『押しつけられた』と信じている人たちは、明治の先人たちが『立憲政治』目指し、大正の先輩たちが『憲政の常道』を求めて闘った歴史から眼をそらしているのです」と語っているが、小林節氏によれば安倍首相が尊敬する岸元首相たちにとって「日本がもっとも素晴らしかった時期は、国家が一丸となった、終戦までの一〇年ほど」、すなわち「ファシズム」の時代だった→樋口陽一・小林節著『「憲法改正」の真実』(集英社新書)を読む(改訂版)

憲法改正、アマゾン

一方、「ドイツのワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか」と述べた「日本会議国会議員懇談会」の特別顧問でもある麻生副総理の発言は内外に強い波紋を呼んだが、総務大臣として「電波停止」発言をした高市早苗氏も、1994年には『ヒトラー選挙戦略現代選挙必勝のバイブル』に推薦文を寄せていた。

このような傾向について、生命倫理の研究者・澤田愛子氏は稲田元防衛相の答弁などの特徴を、「今安倍内閣で生じていること。どんな不正を働いても、重大な証拠があっても、見え透いた嘘で否定し続ければスルーしていくという事」をツイッターで指摘している(7月21日)。

この意味で注目したいのは、ヒトラーがドイツで権力を握り、日本では小林多喜二が拷問で死亡した翌年の1934年に小林秀雄が『罪と罰』論と『白痴』論を発表していたことである。

そして、1960年に雑誌『文藝春秋』に掲載された「ヒットラーと悪魔」で小林は、1940年に書いた書評『我が闘争』の一部を引用しながら『我が闘争』の内容を詳しく紹介して、「大きな嘘」をつくことを奨励していたヒトラーの「感傷性の全くない政治の技術」を讃えていた(太字は引用者)。

「日本会議」などで代表委員を務めることになる小田村寅二郎からの依頼に応えて小林が1961年以降、国民文化研究会で講演を行っていたことを考慮するならば、閣僚のほとんどが「日本会議国会議員懇談会」に属している安倍内閣で、ナチスドイツへ的な手法を賛美する発言が続いているのは小林秀雄の影響によるのではないかと私は考えている。

ドイツを破滅へと追い込んだヒトラーが『我が闘争』に記した政治手法を「核の時代」の現代に応用して権力を握ろうとする人物を党首や代表としているこれらの勢力と対抗するためにも、立憲野党が共闘をするだけでなく、仏教、キリスト教と「神社本庁」以外の神道が団結して選挙戦にあたることを期待する。

以下に、戦前の価値観への復帰を目指す「日本会議」の思想と『我が闘争』を詳しく紹介した「ヒットラーと悪魔」について考えた論考へのリンク先を示す。

麻生副総理の歴史認識と司馬遼太郎氏のヒトラー批判

ヒトラーの思想と安倍政権――稲田朋美氏の戦争観をめぐって

稲田朋美・防衛相と作家・百田尚樹氏の憲法観――「森友学園」問題をとおして(増補版)

稲田朋美・防衛相の教育観と戦争観――『古事記と日本国の世界的使命』を読む(増補改訂版) 

小林秀雄のヒトラー観(1)――書評『我が闘争』と「ヒットラーと悪魔」をめぐって

小林秀雄のヒトラー観(2)――「ヒットラーと悪魔」をめぐって(2)

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(3)――PKO日報破棄隠蔽問題と「大きな嘘」をつく才能

「ヒットラーと悪魔」をめぐって(4)――大衆の軽蔑と「プロパガンダ」の効用

核の危険性には無知で好戦的な安倍政権から日本人の生命と国土を守ろう

安倍首相が「森友学園」と「加計学園」問題から逃避するために突然、解散に踏み切った今回の総選挙は、今後の日本の政治や経済ばかりでなく日本人の生命をも左右します。

たとえば、2015年の国会の質疑応答で安全保障関連法が、日本政府に軍国化を迫った「第3次アーミテージ・リポート」の内容に近いものであったことも明らかになっていますが、地球の環境問題にも無関心なトランプ大統領にとっては、韓国や日本のみならず、東アジア一帯を放射能で汚染する危険性の高い北朝鮮との戦争も、軍需産業にとっての儲けの機会としか思えないでしょう。

一方、共和党有力議員のコーカー上院外交委員長は、ツイッターで北朝鮮を威嚇する発言を繰り返しているトランプ大統領が、米国を「第3次世界大戦」の危機にさらしていると厳しく批判し、彼の衝動的な言動を共和党議員のほとんどが憂慮していると述べました。

→「東京新聞」http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2017100901001223.html

それにもかかわらず、夫名義で防衛関連企業の株を大量に取得した稲田朋美氏を防衛相に抜擢していた安倍総理は、「核の時代」に幕末と同じような考えで政治を行おうとしている「維新」との連携を強めています。

その結果、戦争の際にはミサイルが飛来する可能性が高い日本では、「平和的解決が最終的に困難な場合、米軍による軍事力行使を『支持する』とした割合」が自民党では39.6%に、希望でも21.3%、そして維新では77.5%にも上っているのです。

まさにこれらの政党は「平和ぼけ」して、「戦争の悲惨さ」を忘れているとしか思えません。→「東京新聞」http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201710/CK2017100902000131.html …

戦争に賛成の%

つまり、安倍政権とその補完勢力は勇ましいが空疎なスローガンを掲げて太平洋戦争へと突入して、日本と隣国に多大な被害をもたらした安倍首相の祖父・岸信介氏が閣僚として入閣していた東条英機内閣と同じような愚を繰り返そうとしているように見えます。

日本がいわゆる「ABCD包囲網」によって石油をたたれたために、太平洋戦争に踏み切っていたことを思い起こすならば、「民が主なら、最後まで対話をあきらめてはいけません」との呼びかけは説得力に富み、拉致被害者の救済を掲げながら声高に制裁を叫ぶ安倍政権の論理的な矛盾を突いています。

2015年に強行採決された安全保障関連法案の問題点を検証する

2015年の9月20日に〔安倍政権の「民意無視」の暴挙と「民主主義の新たな胎動」〕という題名の記事を書きました。

そこでは参院特別委員会での強行採決が「無効」であると強く訴えた福山哲郎議員の反対討論のまとめの部分を引用しましたが、以下の言葉は「立憲民主党」の設立にも直結する重要な発言だと思われます。

「残念ながらこの闘い、今は負けるかもしれない。しかし、私は試合に負けても勝負には勝ったと思います。私の政治経験の中で、国会の中と外でこんなに繋がったことはない。

ずっと声を上げ続けてきたシールズや、若いお母さん、その他のみなさん。3.11でいきなり人生の不条理と向き合ってきた世代がシールズだ。彼らの感性に可能性を感じています。

どうか国民の皆さん、あきらめないで欲しい。闘いはここから再度スタートします。立憲主義と平和主義と民主主義を取り戻す戦いはここからスタートします。選挙の多数はなど一過性のものです。

お怒りの気持ちを持ち続けて頂いて、どうか戦いをもう一度始めてください。私たちもみなさんお気持ちを受け止め戦います! 国民のみなさん、諦めないでください。

私たちも安倍政権をなんとしても打倒していくために頑張ることをお誓い申し上げて、私の反対討論とさせて頂きます。」(太字は引用者)。

一方、作家の瀬戸内寂聴氏(93)は、国会前で「このまま安倍晋三首相の思想で政治が続けば、戦争になる。それを防がなければならないし、私も最後の力を出して反対行動を起こしたい」との決意を語っていました。

ここではその「命懸け」のスピーチについて言及した記事から、安倍政権が安全保障関連法案を「人間かまくら」によって強行採決し、その後「防衛装備庁」が発足するまでを記事のリンク先を順番に挙げることにします。

そのことによりこの安全保障関連法が日本政府に軍国化を迫った「第3次アーミテージ・リポート」の内容に近いものであり、軍需産業の目先の利益を重視して「国民の生命」を軽視するきわめて危険な法案であったことを明らかにすることができるでしょう。

*   *   *

「国会」と「憲法」軽視の安倍内閣と瀬戸内寂聴氏の「命懸け」スピーチ 2015年6月19日

「安全保障関連法案に反対する学者の会」のアピール7月3日

「安全保障関連法案」の危険性――「国民の生命」の軽視と歴史認識の欠如7月3日

「安全保障関連法案」の危険性(2)――岸・安倍政権の「核政策」7月7日

「安全保障関連法案」の危険性(3)――「見切り発車」という手法7月10日

昨年総選挙での「争点の隠蔽」関連の記事一覧7月10日

「安全保障関連法案」の危険性(4)――対談『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』7月12日

自民党と公明党は「国民の声」に耳を傾けよ7月14日

宮崎駿監督の「安全保障関連法案」批判――「軍事力」重視の政策 7月14日

「日本ペンクラブ声明」を転載7月15日

「新国立競技場の建設計画」の見直しと「安全保障関連法案」の廃案7月16日

強行採決への抗議声明を出した主な団体(15日)7月16日

「大義」を放棄した安倍内閣7月16日

『安全保障関連法案に反対する学者の会』の賛同者(学者・研究者)が10,857人に7月17日

「大義」を放棄した安倍内閣(2)――「公約」の軽視7月17日

映画人も「安全保障関連法案」反対のアピール7月19日

『安全保障関連法案に反対する学者の会』が廃案を求めて150名で記者会見7月21日

「安全保障関連法案」の廃案を求める「世界文学会」の声明7月24日

【あかりちゃん】のリンク先を掲示7月27日

「戦争法案」に反対する学生のアピール7月28日

「学生と学者の共同行動」集会の報道8月3日

武藤貴也議員の発言と『永遠の0(ゼロ)』の歴史認識・「道徳」観8月4日

「あかりちゃん」Part2と中東研究者の「安保法案」反対声明8月13日

安倍首相の「嘘」と「事実」の報道――無責任体質の復活(8)8月24日

〈「学者の会」アピール賛同者の皆様へ緊急のお願い 〉9月2日

「安倍談話」と「立憲政治」の危機(1)――明治時代の「新聞紙条例」と「安全保障関連法案」9月8日

9月14日18時半 国会正門前に! ――自分の思いを表現すること9月13日

「国会」と「憲法」、そして「国民」の冒涜――「民主主義のルール」と安倍首相9月15日

李下に冠を正さず――ワイドショーとコメンテーター9月17日

参院特別委員会採決のビデオ判定を(1)―NHKの委員会中継を見て9月17日

参院特別委員会採決のビデオ判定を(2)――「民主主義」の重大なルール違反9月18日

参院特別委員会採決のビデオ判定を(3)――NHKが中継放映した「採決」の実態9月19日

参院特別委員会採決のビデオ判定を(4)――福山哲郎議員の反対討論9月20日

安倍政権の「民意無視」の暴挙と「民主主義の新たな胎動」9月20日

「安保関連法案の採決不存在の確認と法案審議の再開を求める申し入れ」9月22日

リメンバー、9.17 ――「忘れる文化」と記憶の力9月22日

「安倍談話」と「立憲政治」の危機(2)――日露戦争の賛美とヒトラーの普仏戦争礼賛9月23日

リメンバー、9.17(2)――「申し入れ」への署名が32、000筆を超える10月4日

リメンバー、9.17(3)――「安保関連法」の成立と「防衛装備庁」の発足10月4日

国際社会で「孤立」を深める好戦的なトランプ政権と安倍政権

元中国大使の丹羽宇一郎氏は、国連で北朝鮮の「完全破壊」に言及したトランプ大統領の演説を「出口なき戦略」と批判し、「金正恩委員長を追い込めば、『野垂れ死にするぐらいなら玉砕してでも』と、第2次大戦突入時の日本の心境にさせるだけ」と指摘していた。

北朝鮮の核ミサイルが東京を直撃した場合には、「死者は85万8190人、負傷者は281万4040人」との試算を発表した英シンクタンクIISSのアメリカ本部長マーク・フィッツパトリック氏も、「安倍がトランプとの賢明な相談相手となることを望んでいます」と語り、安倍首相が戦争への歯止めになることを求めた(「週刊文春」9月28日号、150~151頁)。
 
 しかし、国際社会の期待に反して安倍首相はトランプ大統領に追随する発言を行った。政治的な危機にあるトランプ大統領だけでなく、「森友学園」と「加計学園」問題の追究から逃れるために解散をして600億円もの巨費を投じて今回の総選挙に踏み切った安倍首相も朝鮮との戦争の危機を煽ることが政権の維持に繋がると考えているように思える。
 
 トランプ大統領の戦略に追随して強硬な発言を繰り返す安倍首相に対して北朝鮮は、「日本列島の四つの島はチュチェ思想の核爆弾によって海に沈むべきだ。もはや日本は私たちの近くに存在する必要はない」と強く反発したのである(『週刊文春』9月28日号)。
 
 被爆国でありながら原水爆の危険性を隠蔽してきた岸信介政権以降の核政策と安倍自民党では、拉致被害者の救済を掲げながら39・6%にのぼる自民党議員が、「米軍による軍事力行使を『支持する』」とし、徳川幕府を武力で倒した明治維新を高く評価する好戦的な「維新」では77.5%にも上る議員が賛成している。しかし、これらの議員は自分が日本ではなく遠いアメリカに住んでいると勘違いしているように見える。
すでに「日刊ゲンダイ」は8月1日号の「安倍政権の北朝鮮制裁 トランプと『完全に一致』の危うさ」でAFP通信(引用者註――フランス通信社)の情報としてこう記していた。
 
 「米共和党のリンゼー・グラム上院議員は、8月1日のNBCテレビの『トゥデイ・ショー』で、トランプ大統領が同議員と会談した際、『北朝鮮がICBM開発を続ければ戦争は避けられない。戦争は現地で起きる。大勢が死ぬとしても、向こうで死ぬ。こちら(米国)で死ぬわけではない』と語ったことを明らかにした。」
 
 その記事を受けて軍事評論家の田岡俊次氏は「米軍が北朝鮮を攻撃すれば、その発進基地、補給拠点となる日本の米軍基地――横須賀、佐世保、三沢、横田、厚木、岩国、嘉手納などがミサイル攻撃の目標となる公算は高い。自暴自棄になった北朝鮮は、ついでに東京を狙う可能性もある」と指摘し、こう結んでいた。 「『予防戦争』をしても、一挙に相手の核・ミサイル戦力は奪えず、トランプ氏が言う通り韓国、日本で「大勢が死ぬ」結果を招く。日本の首相がトランプ氏と『完全に一致』されては、国の存亡に関わるのだ」→ https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/211301 #日刊ゲンダイ
 
 しかも、丹羽元中国大使が語っているように「ロケット中心の戦争で、最大の脅威は原発」なのである。「日本に現存する原発は54基。原発は1基で広島型原爆の1000倍の放射性物質が貯め込まれているといわれています。どこか1つでもロケット弾が落ちれば、日本は広島型原爆の1000倍、5カ所なら5000倍の放射能に覆われてしまいます。」
 
 その場合には英シンクタンクIISSの想定しているように、拉致被害者の数を遙かに超える人々が戦争や放射能の被害で亡くなるだけでなく、チェルノブイリ原発事故やフクシマを超える放射能で世界中が汚染されることになるだろう。
 
 しかし、「アメリカ・ファースト」を唱え、地球の温暖化の危険性を認識できないトランプ大統領や、原爆や原発事故の被害を隠蔽してきた岸信介氏を尊敬する安倍首相にはそのことが分からないのだろう。稲田朋美・元防衛相のように軍需産業の株を大量に買い占めた者のみが利益をあげることができる「積極的平和主義」の欺瞞と危険性はすでに世界中で明らかになっている。
 
 日本人の生命と国土を守るだけではなく、世界中が放射能で汚染されることを防ぐためには、今も19世紀的な戦争観を持っている安倍自民や「維新」の議員をこの選挙で一人でも多く落選させて、安倍政権を退陣させることが必要だろう。
 
   *   *   *

「日本が攻撃されれば、米国は第3次世界大戦争を戦う」とテレビのインタビューデ語ったトランプ大統領に追随するアベ自公政権の危険性。↓

2017年に『原子力科学者会報』は「アメリカ第一主義」を掲げるトランプの地球の温暖化やテロや原発事故の問題を理解しない政治姿勢などを挙げて世界終末時計が「残り2分半」に戻ったと発表していた。

世界終末時計の推移

(図版は「ウィキペディア」より)

(2019年7月14日、加筆)

総選挙に向けて(2017年)

   *祝 「立憲民主党」結成!

明治時代の「立憲主義」から現代の「立憲民主党」へ――立憲野党との共闘で政権の交代を!

立憲民主党

Enforcement_of_new_Constitution_stamp(←画像をクリックで拡大できます)

安倍政権と補完勢力の戦争観

核の危険性には無知で好戦的な安倍政権から日本人の生命と国土を守ろう

国際社会で「孤立」を深める好戦的なトランプ政権と安倍政権

戦争に賛成の%

世界終末時計と北朝鮮情勢

アメリカの科学誌『原子力科学者会報』は、日本国憲法が発布された1947年には世界終末時計を発表して、その時刻がすでに終末の7分前であることに注意を促していた。

その後、米ソの緊張緩和政策により一時は回復したが、冷戦終結後の2015年にはその時刻がテロや原発事故の危険性から1949年と同じ「残り三分」に戻ったと発表した。さらに2017年には、地球の温暖化や核拡散の問題に後ろ向きなトランプ米大統領の政治などから「残り2分半」になったと発表された。

 →国民の安全と経済の活性化のために核兵器廃絶と脱原発を

終末時計(←画像をクリックで拡大できます)

安倍政権と補完勢力の宗教観

司馬遼太郎の「神国思想」批判と平和憲法の高い評価

戦前の価値観と国家神道の再建を目指す「日本会議」に対抗するために、立憲野党と仏教、キリスト教と日本古来の神道も共闘を!

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(破壊された石仏。川崎市麻生区黒川。写真は「ウィキペディア」より)

 2015年に強行採決された安全保障関連法案の問題点を検証する

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明治時代の「立憲主義」から現代の「立憲民主党」へ――立憲野党との共闘で政権の交代を!

かつて学生団体シールズが「民主主義ってなんだ」と若々しい行動力で問いかける姿を見て私は、正岡子規や北村透谷のことを思い浮かべた。

薩長藩閥政府の横暴に対抗するために自由民権運動が盛り上がった明治16年に松山中学校の生徒だった正岡子規は「国会」と音の同じ「黒塊」をかけて立憲制の急務を説いた「天将(まさ)ニ黒塊ヲ現ハサントス」という演説を行い、北村透谷も「時」と「土岐」をかけて「土岐運来(ときめぐりきたる)」と書いたハッピを着て小間物の行商をしながら運動していたのであり、そうした彼らの行動が明治22年の「憲法」発布にもつながっていたからである。
 
それゆえ、学生団体シールズの呼びかけに呼応するかのように「学者の会」などさまざまの会や野党が立ち上がった2016年の動きからは民主主義の新たな胎動が始まっていると感じた。 その時の動きが今回の「立憲民主党」の結成とフォロアーの急速な伸びにもつながっていると思える。
 
人々の深く熱い思いを受けて時代の風をつかみ上昇気流に乗ったのは、枝野氏が一人で呼びかけ、「たった6人」で旗揚げした「立憲民主党」だろう。
 
日本の政党が受け継いできた「立憲主義」の伝統を守る立憲民主党が、日本共産党や社民党などの他の立憲野党としっかりと共闘して、「特定秘密保護法」や戦争法、さらに「共謀罪」などの重要法案を国会でろくな審議もせずに強行採決した安倍政権やその補完勢力の「維新」や「希望の党」に選挙で勝って政権を獲得してほしい。
 
今年、国連で「核兵器禁止条約」が採択され、またノーベル平和賞が「平和や軍縮、人権などの問題に取り組む約百カ国の約四百七十団体で構成し、日本からはNGOピースボートなど七団体が参加する」国際非政府組織(NGO)のICANに与えられた(「東京新聞」の記事を参照)。 つまり、国連の多くの参加国の賛成によって採択された「核兵器禁止条約」は理想論ではなく、「化学兵器禁止条約」と同じように人道的な条約であり、さらに地球と人類を存続させるための現実的で切実な条約なのである。
 
原水爆の危険性と非人道性を深く認識している被爆国日本は、「核の傘」理論が机上の空論であり、キューバ危機の時のように憎悪や恐怖の感情に襲われた時には役に立たないことを明らかにして、非核運動の先頭に立つべきであろう。
 
一方、安倍内閣や「希望の党」の小池百合子代表は戦前の価値観と「国家神道」の再建を目指す「日本会議」を支持し、ヒトラーが『我が闘争』に記したような手法で政治を行っている。戦前の価値観と「国家神道」の再建を目指す「日本会議」に対抗するために、立憲野党だけでなく、仏教、キリスト教と「神社本庁」以外の神道にも共闘を期待する。
 
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立憲野党の公式アカウントとその応援ツイッターのアカウントは下記のとおりです。
立憲民主党公式アカウント @CDP2017
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市民連合 (安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合) @shiminrengo
安全保障関連法に反対する学者の会 @anpogakusya
(2017年10月7日、ノーベル平和賞の発表を受けて加筆、10月8日、改訂、 10月9日、2018年1月2日リンク先を追加、)

「アベノミクス」の詐欺性(1)――「トリクルダウン」理論の破綻

2年ほどこのサイトを更新しないでいたところ、「アベノミクス」関係のブログ記事にいずれも1500近くの以上のコメントが入っていた。文明論的な視点から論じるために、こちらにも項目を設けた。

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〈安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(5)――「欧化と国粋」のねじれの危険性〉と題した1月16日のブログ記事では、〈次回からは少し視点をかえて、1902年にはイギリスを「文明国」として「日英同盟」を結んだ日本が、なぜそれから40年後には、「米英」を「鬼畜」と罵りつつ戦争に突入したのかを考えることで、安倍政権の危険性を掘り下げることにします〉と書いていました。

しかし、「五族協和」「王道楽土」などの「美しいスローガン」を連呼して「国民」を悲惨な戦争へと導いた、かつての東条英機内閣のように「大言壮語」的なスローガンの一つである「アベノミクス」のという経済方針の詐欺的な手法が明らかになってきました。それゆえ、〈日本が、なぜそれから40年後には、「米英」を「鬼畜」と罵りつつ戦争に突入したのか〉という問題は宿題として、しばらくは「アベノミクス」の問題を考えることにします。

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今回、取り上げる「トリクルダウン(trickle-down)」理論とは「ウィキペディア」によれば、「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が滴り落ちる(トリクルダウン)する」という経済理論で、「新自由主義の代表的な主張の一つ」であるとのことです。

「アベノミクス」という経済政策については、経済学者ではないので発言を控えていましたが、ドストエフスキーは1866年に書いた長編小説『罪と罰』で、利己的な中年の弁護士ルージンにこれに似た経済理論を語らせることで、この弁護士の詐欺師的な性格を暴露していました。

リンク→「アベノミクス」とルージンの経済理論

一方、敗戦後の一九四六年に戦前の発言について問い質されて、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語り、「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と居直っていた小林秀雄は、意外なことに重要な登場人物であるルージンについては、『罪と罰』論でほとんど言及していないのです(下線は引用者)。

このことは「僕は無智だから反省なぞしない」と啖呵を切ることで戦争犯罪の問題を「黙過」していた小林が、「道義心」の視点から「原子力エネルギー」の問題点を一度は厳しく指摘しながらも、原発の推進が「国策」となるとその危険性を「黙過」するようになったことをも説明しているでしょう。

より大きな問題は、自民党の教育政策により小林氏の著作が教科書や試験問題でも採り上げられることにより、「僕は無智だから反省なぞしない」という道徳観が広まったことで、自分の発言に責任を持たなくともよいと考える政治家が議会で多数を占めるようになったと思えることです。

そのことは国民の生命や安全に直結する昨年の「戦争法案」の審議に際しての安倍晋三氏の答弁に顕著でしたが、今年も年頭早々に「トリクルダウン」理論の推進者から驚くべき発言が出ていたようです。

*   *   *

2016年1月4日 付けの「日刊ゲンダイ」(デジタル版)は、〈「トリクルダウンあり得ない」竹中氏が手のひら返しのア然〉との見出しで、これまで「トリクルダウンの旗振り役を担ってきた」元総務相の竹中平蔵・慶応大教授が、テレビ朝日系の「朝まで生テレビ!」で、〈アベノミクスの“キモ”であるトリクルダウンの効果が出ていない状況に対して、「滴り落ちてくるなんてないですよ。あり得ないですよ」と平然と言い放った〉ことを伝えているのです(朱色は引用者)。

そして記事は、経済学博士の鎌倉孝夫・埼玉大名誉教授の次のような批判を紹介しています。

「以前から指摘している通り、トリクルダウンは幻想であり、資本は儲かる方向にしか進まない。竹中氏はそれを今になって、ズバリ突いただけ。つまり、安倍政権のブレーンが、これまで国民をゴマカし続けてきたことを認めたのも同然です」

つまり、安倍政権全体が『罪と罰』で描かれていた中年の弁護士ルージンと同じような詐欺師的な性格を持っていることが次第に明らかになってきているのです。

国民が自分たちの生命や財産を守るためには、「戦争法」を廃止に追い込み、一刻も早くにこの内閣を退陣させることが必要でしょう。

 

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