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司馬遼太郎のドストエフスキー観  (4)「教育勅語」と「ウヴァ一ロフの通達」

司馬遼太郎のドストエフスキー観  (4)「教育勅語」と「ウヴァ一ロフの通達」

 福沢諭吉は日本の「文明開化」のモデルの一つがピョートル大帝のロシアであることを十分に知っていたが、『坂の上の雲』を書き終えた後での司馬遼太郎の認識の深さは、日露戦争に勝って「神州不滅」を唱えるようになる日本の近代化が、ニコライ一世の独裁制をモデルにしていたことを明らかにしていることである。

 たとえば、司馬遼太郎は山県有朋にとって、「国家的象徴に重厚な装飾を加える」ことが「終生のテーマだった」とし、その理由を「ニコライ二世の戴冠式に、使節として出席し」て、「ギリシア正教で装飾された」、「戴冠式の荘厳さ」を見た彼が、強いショックを受けたからであると説明している(「竜馬像の変遷」『歴史の中の日本』)。

 しかも司馬は、「教育勅語」はその意味が分かりにくかったが、それは文章が「日本語というよりも漢文」だったためとして、この「勅語」が形式的にはかつての「文明国」中国をモデルとすることで権威付けされていたことを明らかにしていた(「教育勅語と明治憲法」『語る日本』)。実際、西村茂樹は「修身書勅撰に関する記録」において、清朝の皇帝が「聖諭広訓を作りて全国に施行せし例に倣い」(太字引用者)、我が国でも「勅撰を以て」、「修身の課業書を作らしめ」るべきだと記していたのである。

 さらに、「教育勅語」の執筆者の一人である元田永孚は「国教大教」において、「天皇は全国治教の権を統べられること」を強調していたが、西村茂樹も「修身書勅撰に関する記録」の冒頭で「西洋の諸国が昔より耶蘇教を以て国民の道徳を維持し来れるは、世人の皆知る所なり」とし、ことにロシアでは形式的には皇帝と総主教に分かれてはいるが、実質的には、「其国の皇帝と宗教の大教主とを一人」で兼ねており、それゆえ「国民の其の皇帝に信服すること甚深く世界無双の大国も今日なお君主独裁を以て其政治を行えるは、皇帝が政治と宗教との大権を一身に聚めたるより出たるもの亦多し」と述べた (西村茂樹「修身書勅撰に関する記録」『教育に関する勅語換発五〇年記念資料展覧図録』教学局編纂、一九四一年、一〇〇頁)。こうして彼は、我が国でも「皇室を以て道徳の源となし、普通教育中に於て、其徳育に関することは 皇室自ら是を管理」すべきであると説いたのである。この箇所は日本における「修身教育」の実質的なモデルが、ロシアの国教である正教への信仰と、皇帝への忠誠心を持つことを徹底させたロシアの教育制度であったことを物語っているだろう。

 しかも、司馬遼太郎が中学に入学した翌年の一九三七年には文部省から『国体の本義』が発行されたが、「国体の本義解説叢書」の一冊として出版された『我が風土・国民性と文学』と題する小冊子では、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無い」と強調されていた(教学局編纂『我が風土・国民性と文学』(国体の本義解説叢書)、昭和一三年、六一頁)。それは「正教・専制・国民性」 の「三位一体」こそが、「ロシアの理念」であるとした文部大臣「ウヴァ一ロフの通達」を連想させるのである。

 この意味で注目したいのは、司馬が『若き日の詩人たちの肖像』の著者である堀田善衞や宮崎駿との鼎談を一九九二年に行っていることである。堀田善衞はこの長編小説において、上京した日に二・二六事件に遭遇した主人公の若者が、ラジオから聞こえてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から受けた衝撃と比較しながら、厳しい言論弾圧と迫り来る戦争の重圧の中で描かれた『白夜』(一八四八年)の冒頭の美しい文章に何度も言及していた。しかもこの作品で堀田は、ドストエフスキーの作品の鋭い分析を行うとともに、厳しい検閲制度や監視のもとに時勢が「右傾化」する中でドストエフスキーの読み方を変えていった愛読者の姿や、烈しい拷問によって苦しんだいわゆる「左翼」の若者たちや、イデオロギー的には異なりながらも彼らに共感を示して「言論の自由」のために文筆活動を行っていた主人公の若者の姿をとおして、昭和初期の暗い時代を活き活きと描いていたのである(堀田善衞『若き日の詩人たちの肖像』新潮社、一九六八年)。

 このような堀田の作品理解を踏まえて司馬は、芥川龍之介が自殺した後で中野重治など同人雑誌『驢馬』に係わっていた同人たちが「ほぼ、全員、左翼になった」と指摘している(司馬遼太郎・堀田善衞・宮崎駿『時代の風音』朝日文芸文庫、一九九七年、四二~四四頁)。そして、司馬は「後世の人たち」は「その理由がよくわからないでしょう」が、「私は年代がさがるので一度もなったことはないけれども」と断りつつも、「昭和初年、多くの知識青年が左翼になった」「そういう時代があったということは、これはみんな記憶しなければいけない」と続けていたのである(この時代のドストエフスキーをめぐる日本の状況については、池田和彦「詩人たちのドストエフスキイ」『ドストエーフスキイ広場』第一一号、および菅原純子「『広場』合評会報告」「読書会通信」七五~七七号参照)。

 こうして昭和初期の検閲の厳しく暗い「別国」の時代に青春を過ごした司馬の言葉は、「ロシアの教育勅語」ともいわれる「ロシアの理念」が打ち出されて、自由思想すらも厳しく規制されていたニコライ一世の「暗黒の三〇年」の時期に、なぜドストエフスキーがペトラシェーフスキイ事件に関与するようになったのかをも説明し得ているであろう。

 つまり、言論や集会の自由が奪われて厳しい監視下におかれ、自国の欠点に対する批判も禁じられていた日露両国においては、「出口」が見いだせないなかで、ドストエフスキーや堀田善衞のように感受性豊かな青年たちが、極端な「国粋思想」に対する反発から新しい「原理」を示した「左翼」に共感を示すようになったのである。

 たとえば、立花隆は「私の東大論」において、「日本中を右傾化させた」事件として、一九三二年(昭和七年)の五・一五重件と神兵隊事件を挙げるとともに、「ほとんどこの事件と重なるようにして」、滝川幸辰教授に辞職を求めた文部大臣に対して、京都帝国大学法学部の教授全員だけでなく助教授から副手にいたる三九名も辞表を提出し抗議した、いわゆる滝川事件が起きていたことを指摘している。そして立花はこの時の辞任要求の真の理由は滝川教授が治安維持法に対して「最も果敢に闘った法学者だった」ためではないかという説を展開している(立花隆「私の東大論」『文藝春秋』二〇〇二年九月号~一一月号参照)。

 すなわち、治安維持法は一九二五年(大正一四年)に制定されたが、同じ年に全国の高校や大学で軍事教練が行われるようになると、これに対する反発から全国の高校や大学で反対同盟が生まれて「社研」へと発展したが、文部省は命令により高校の社研を解散させるとともに、「学問の自由」で守られていた大学の「社研」に対しては、治安維持法を最初に運用して一斉検挙を行ったのである。しかもこの京都学連事件では、後に著名な文化人類学者となる石田英一郎は、治安維持法への違反が咎められただけでなく、中学時代の日記に天長節で「教育勅語」を読み上げ最敬礼させることへの批判が書かれていたとして不敬罪にも問われていたのである(立花隆『文藝春秋』二〇〇二年一一月号、三七二~三七九頁参照)。

 こうして、司馬が青春を過ごした昭和初期は、外国の書物の輸入が禁止されたばかりでなく、国内での検閲も強まり学校でも軍事教練が行われるなど、福沢諭吉が「野蛮」と見なして厳しく批判したニコライ一世の「暗黒の三〇年」ときわめて似た政治状況に陥っていたのである。

 晩年の『風塵抄』で司馬は、「健全財政の守り手たちはつぎつぎに右翼テロによって狙撃された。昭和五年には浜口雄幸首相、同七年には犬養毅首相、同十一年には大蔵大臣高橋是清が殺された」と記し、「あとは、軍閥という虚喝集団が支配する世になり、日本は亡国への坂をころがる」と厳しく批判した(『風塵抄』Ⅱ)。

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