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司馬遼太郎のドストエフスキー観  (3)自国への絶望とその克服

司馬遼太郎のドストエフスキー観  (3)自国への絶望とその克服

 以上のことに注目する時、司馬遼太郎の「作風の変化」が、実は、日露文明の比較の深まりや「近代化」の問題点の認識と対応していることに気づく。たとえば、日露の衝突を防いだ商人高田屋嘉兵衛を主人公としつつ、江戸時代の文化的な成熟度の高さを丹念に描いた『菜の花の沖』において司馬は、「『国家』という巨大な組織は、近代が近づくにつれていよいよばけもののように非人間的なものになってゆく。とくに、国家間が緊張したとき、相手国への猜疑と過剰な自国防衛意識」が起きるだけでなく、「さらには双方の国が国民を煽る敵愾心の宣伝といった奇怪な国家心理」も働くと鋭く指摘するのである。つまり、司馬遼太郎は「欧化と国粋」のサイクルの問題を踏まえた上で、それを乗り越え多様性を許容するような新たな文明のあり方を考察していたと言えよう。

 沼野充義は司馬遼太郎のロシア観について、「それは自由で因習に捕らわれない発想に満ちていながら、深い学識に裏打ちされて」いるとし、『ロシアについて - 北方の原形』を「ロシアの専門家には決して書けないような種類の非常に優れたロシア論であることは、確かである」と結んでいるが、それは決して誉めすぎではないのである(沼野充義「司馬遷太郎とロシア」『大航海』No.13、一九九六年、六九頁)。

 注目したいのは、『菜の花の沖』の中の嘉兵衛がロシア人に捕らえられるきっかけとなったゴロヴニーンの日本での抑留のエピソードをめぐる考察の中で、司馬がドストエフスキーに言及していることである。この抑留という状態について司馬は、「被抑留者の精神はそれを味わったものでしかわからない。『生命』というものを相手ににぎられてしまっているのである」と説明し、このような中で、一人の青年士官が「監禁と死の恐怖」から精神に異常をきたしたことを伝えて、「幽囚が、人間としていかに耐えがたいものであるかが、この一事でもわかる」と解説している。それは「戦車」の中に閉じこめられて死を待っていた司馬自身や「独房」の中にいたドストエフスキーにも通じることだろう。

 この後、司馬はこの青年士官の変節についてゴロヴニーンがくわしく書いた文章にふれて、そこには「すこしの攻撃的なにおいもないばかりか」、若者の弱さに対する「理解といたわりがあった」ことに注目し、「背信に対し、相手を人間として理解すべく努めようとする知的寛容さは、…中略…近代が生んだ精神といっていい」とし、「この時代、ロシアの知識階級にはすでに『近代』があったということをあざやかに思うべきである」と記している。そして、司馬はこの十年後に、「人間の心理の中の質と相剋をつきつめた」ドストエフスキーが生まれていることに注意を喚起している(Ⅴ・「カムチャツカ」)。こうして新しい視野を得た後で司馬は、心理的なタブーを克服して醜い現実をも直視できるようになったドストエフスキーの作品を高く評価するのである。

 この意味で注目したいのは、一九三九年のノモンハン事件を主題にした長編小説をも描こうとして膨大な資料類を集めていた司馬が、「戦闘というより一方的虐殺」となった、「ばかばかしい戦闘を現場でやらせられた」、「有能な指揮官」が発狂したことを怒りをこめて書き記していることである(「戦車・この憂鬱な乗り物」『歴史と視点』)。

実は、このような発狂の可能性は戦車中隊の指揮官であった司馬自身にもあった。すなわち、司馬は終戦間際にアメリカ軍との本土決戦のために満州から引き揚げて北関東に配置されたが、そこで敵の邀撃(ようげき)作戦などを説明するために大本営から来た将校は、「東京方面から大八車などに家財道具を積んで逃げてくる物凄い人数の人々をどのように交通整理するのか」との問いに対して、「昂然と、『轢っ殺してゆけ』と、いった」のである。司馬は「国家」のために死を覚悟したが、ここでは民衆を守るはずの「国家」が「同じ国民」を殺すことを命じたのである。

 この言葉を聞いた瞬間、若き司馬遼太郎の脳裡をどのような思いが走ったのだろうか。そして、彼はどのようにしてその思いを耐えたのだろうか。松本健一は「司馬さんが、天皇制イデオロギーにほかならない皇国史観ばかりでなく、五・一五事件や二・二六事件に対する違和感、いや憤りのような感情をいだいていた」と書いている(松本健一『司馬遼太郎 歴史は文学の華なり、と』小沢書店、一九九六年、三八頁)。

 追記(2022/04/30)
【 一方、華族のための学習院の初等科6年生の時に2・26事件と遭遇していた三島由紀夫は『英霊の聲』ではこの事件の「スピリットのみを純粋培養して作品化しようと思った」と記し、青年将校たちの精神を美化していた。

 ただ、それは思想や見方の違いだけに帰着するのではなく、年代の差によるところが大きいだろう。司馬と三島の年齢差はわずか二歳であったが、三島が徴兵を免れたのに対して、司馬は満州の戦車隊に徴兵されていたのである。堀田の親友・中村真一郎はそのことについてこう記している。

 「私だけの経験で云えば、昭和になってからの十数年は、まことに慌ただしいもので、昭和元年の二十歳と昭和十年の二十歳とでは、殆んど会話が不能であり、いや、昭和十三年に二十歳であった私には、昭和十年に二十歳であった野間宏とも、非常に大きな感覚的な相違が感じられることがある。」(『全集』、解説「同時代者堀田善衞」)】

 堀田が『若き日の詩人たちの肖像』で詳しく記しているように彼の世代にはすでに体制に批判的な行動を起こすことはできなかったが、まだ批判的に見ることはできた。しかし、それから5年後の司馬遼太郎の世代やそれから2年後の三島の時代には、「昭和初期の政治的軍人」を批判的に見るような自由も残されていなかったように思える。

「革命思想」の正当性をめぐって内ゲバをくり返していた学生運動を鋭く批判した次の文章はこの時司馬が受けた「絶望」に近い衝撃の大きさを正確に物語っていると思われる。「昭和初期の政治的軍人とそっくりの、つまり没常識・非論理的のなかでこそ大閃光を発するという貧相で陰惨なしかし、であればこそ民族的な深層心理に訴えやすいという日本的ファナティズムが学生運動の分裂のあげくに出てきているようである。幻想と没常識のタイプも酷似しているし、他民族への(学生運動の場合は他の分派への)残忍さまでそっくりである。…中略…それはかつての日本軍が中国人に対して加えたそれとひどく似ているようにおもえて、暗然とした。日本人は地球から消えてしまえと思いたくなったほどだが」(「戦車・この憂鬱な乗り物」『歴史と視点』)。

 この文章は、説得力が豊かで穏やかな司馬の普段の文体とは全く異なる。ここで、司馬は論理的な考察を拒絶して、感情的に自分より「次の世代」の学生たちを論じつつ、「日本人」を全否定している。そしてこの時、司馬遼太郎は自分の信じるイデオロギーを唯一の「普遍的な正義」とした学生たちの考えと、「自国」を「神国」と称して太平洋戦争を導くにいたる自分より「前の世代」の国粋主義的な政治的軍人たちとのあいだに明らかな類似性を見ていたのである。

 最初、この文章と出会ったとき私は司馬を捉えていた絶望の深さに愕然としたが、何度か読み返す中で、母親や農民たちに対する実の父親の暴虐ぶりに暗澹たる思いをしたであろうドストエフスキーの絶望が重なり合った。卓越した心理描写で読者を驚かせたドストエフスキーが、父親の欠点をも直視しつつ、「父親殺し」のテーマを真正面から描いたのは、ようやく最後の作品『カラマーゾフの兄弟』においてであった。ドストエフスキーにおける「父親殺し」のテーマと比較する時、この文章こそが「司馬史観」の争点の一つとなっている「昭和初期の(別国)」論を解く鍵だとも言えるだろう。

 ジラールは父と息子の対立のテーマを分析しながら、「ある意味で父親と息子は同一である」ので、非道な「父親は『他者』として憎まれるが、もっと深いところでは『自己』としての羞恥心の対象」であり、「圧制者=父親に向けられた奴隷=息子の犯罪」といえる「父親殺し」は、「殺人であると同時に自殺」でもあると結論している(ルネ・ジンラール、鈴木晶訳『ドストエフスキー二重性から単一性へ』法政大学出版局、一九八三年、前掲訳書、一二二~三頁)。「父親」の欠点は、父という存在がきわめて大切で身近であり、それらが直接「自分」にもつながっているだけに、それらの欠点が直前に示された場合には、それを論理的に考察するのは精神的につらいので、できれば自分の前から消えて欲しいと願うのであろう。

 同じことが、「自分」と「祖国」の関係についてもほぼ当てはまる(ついでながら、ロシア語では「親」と「祖国」の語源は同じである)。つまり、ニコライ治世下のロシアで育ったドストエフスキーは少年の時に「正教、専制、国民性」をロシアの理念として教育されたが、五・一五事件の二年前の一九三〇年に尋常小学校に入学した司馬も「とにかく、あらゆる式の日に非常に重々しい儀式を伴いながら、教育勅語が読まれた」と語っているように、文部省が『国体の本義』を発行して国粋的な教育をいっそう強化していた時代に青少年時代を過ごしたのである。おそらく、子供から青年期の時代に、論理だけでなく感性的なレベルで教育を受けた者にとって、「国家」と「自分」を距離を置いて客観的に考えるのは難しかったのである。

 このように見てくる時、ドストエフスキーが「父親殺し」を直接のテーマとして描くには多くの歳月を必要としたが、昭和前期を司馬が『十数年の“別国″』と見なしたのも、「日本人」全体を否定したくなるような衝動や深い絶望を抑えるための、一種の『仮構』だったと言っても過言ではないように思える。

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